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Re[42]: つれづれなるままに 20
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/07/15(Tue) 18:58:02)
| No43733のつづき、
(資料Eb)の「カントの構想力論」最後の方に、 (Eb5)――――― 以上の考察を踏まえて、演繹論での構想力の概念を整理しておこう。 ・@先ず(一)構想力は「たとえ対象が現存していなくてもその対象を表象する能力」(B151)とされている。これはアリストテレスに由来する伝統的な定義である。ここでは想起、記憶、再生産といったことが考えられている。
・Aさらに(二)構想力は「感性的直観の多様を綜合する」(B151)能力として捉えられている。
・Bこの総合は、感性的直観に関わるのであれば、「形態的綜合」(synthesis speciosa)と呼ばれている。「形態的」という形容が付けられている理由は、多様の綜合が対象の空間的延長として形象を生み出すからである。
・Cそして、この形態的綜合が統覚の綜合的統一の働きを担う場合、すなわち、カテゴリーが示す結合によって行われる場合は、その総合は「構想力の超越論的綜合」(B151)と称される。この「超越論的」という形容は、悟性がカテゴリーによって感性的直観の多様を綜合し、対象認識を成立させることから付けられたものである。
・D演繹論、とくに自己触発の議論は、まさにこの概念に依拠している。そして、この超越論的綜合が、幾何学と超越論的哲学の基礎をなす「空間の記述の運動」(B155)に他ならない。これに対し「悟性結合」(synthesis intellectualis)は、単なるカテゴリーが示す概念結合とされ、前者から本質的に区別されている。 ――――――――(p9-10) ってあった。 @のところ、 「たとえ対象が現存していなくてもその対象を表象する能力」については、 No41672(本Ko)に 〔〈いまここにあるもの〉の表象と〈もうここにないもの〉の表象とをア・プリオリに結合できることで現象の規則性を保証することが必要なのです〕(p164) 〔構想力とはそこにないものを表象する能力〕(p165) ってあるのと同じようなことなのかも。 〔想起、記憶、再生産〕ってあるから、(一)の構想力は「再生的構想力」の方っていうことでいいのかな? Aに〔構想力は「感性的直観の多様を綜合する」能力〕の、〔感性的直観の多様を総合する〕って、「覚知の総合」のような気がする。
Bの「形態的総合」の「形態的」っていうのや、〔形象〕っていうのを、 No43690で見たような〈経験的形像(Bild)〉ってして見て、 「構想力」は〈経験的形像(Bild)〉を形成するときの「覚知の総合」のときにかかわっている、ってして見た。 これが〔感性的直観に関わるのであれば〕の方でいいかな。 (本Ko)では、(p166〜1679)に、 〔「覚知の総合」と「再生の総合」を振り返るなら、前者において多様を多様として把握する際、後者も働いていることがわかります。‥‥この二つの総合は密接に関係しているのです。〕 ってあった。
Cの〔この形態的綜合が統覚の綜合的統一の働きを担う場合、すなわち、カテゴリーが示す結合によって行われる場合〕 ここんとこ、 〔統覚の綜合的統一の働き〕=〔カテゴリーが示す結合〕 〔カテゴリー〕っていうのはカントが考え出した〔純粋悟性概念〕。 ここの〔統覚〕を「超越論的統覚」の方、ってして見て(どうしてっかいうと、純粋悟性概念だから)。 こう見ると、 〈経験的形像(Bild)の総合〉のとき、「カテゴリー(純粋悟性概念)」による「超越論的統覚」のときにも「構想力」がかかわっている。 って見られる。 この「構想力」を「産出的(純粋)構想力」とか「超越論的構想力」ってして見る。 ここんところは、 No43695の(K-m1)(K-m2)に関係してると思う。 「感性的直観」と(カントが考え出した)「純粋悟性概念(カテゴリー)」の関係づけとね。 これと、 (Eb5)の@〜C、 そして、 No43083から、 「覚知の総合」には、「再生的構想力法則に従った覚知の総合」と「悟性の諸法則に従った覚知の総合」がある。 前者を「主観的妥当性をもつもの」、後者を「客観的妥当性をもつもの」ってして、わたしのばあい前者を〔経験的〈主観/素朴的〉〕、後者を〔経験的〈客観/科学的〉〕ってして見てる。 ちなみにわたしのばあい〔経験的〈主観/素朴的〉〕による判断を「知覚判断」ってして見てて、真偽以前の「仮象」(…のように見える)的なのね(あ、これ、カントによると、から、わたしそう見てる、っていうことでね)。 そして、〔「悟性の諸法則に従った覚知の総合」の内には「カテゴリー(純粋悟性概念)に適った諸直観の構想力の総合」が働いている〕、ってして見る。
のようなことから、 (本Ko)の〔構想力の「純粋で超越論的な総合」とはなんなのでしょうか〕(p166) みたいなのを、わたしなりに見て見ると、
「感性的直観」の多様を総合するのが「覚知の総合」。この覚知の総合には(a)「再生的構想力法則に従った覚知の総合」〔経験的〈主観/素朴的〉〕と(b)「悟性の諸法則に従った覚知の総合」〔経験的〈客観/科学的〉〕がある。 このようなかなで、「感性的直観」の内に描き出される「経験的形像(Bild)」。っていうことは、(a),(b)による「経験的形像(Bild)」がある、っていうことになるのかな?いずれにしても(a)、(b)二つの性格をもつ「経験的形像(Bild)」は、「感性的(経験的)直観」と「経験的概念」を結びつけてる(媒介してる)もののとして考えられてる。 以上は「経験的なもの」に関することね。 一方、〔「悟性の諸法則に従った覚知の総合」の内には「カテゴリー(純粋悟性概念認)に適った諸直観の構想力の総合」が働いている〕っていうことから、「経験的形像(Bild)」と「純粋悟性概念」を結びつける(媒介する)ものとしてカントに考えられたのが「純粋図式」っていうの。 「経験的形像(Bild)」の総合ときに、「超越論的時間規定」(感性の形式(時間)と純粋悟性に基づく両方の働き)によって「純粋図式」が描き出され、この産出にかかわっているのが「産出的(純粋)構想力」とか「超越論的構想力」。このようにして、「感性的直観」されている〈経験的形像(Bild)〉と「純粋悟性概念」は「純粋図式」によって結びつけられる(媒介されてる)。そして、「構想力」は、現前しないものを表象してる。
いまんとここんな感じにして見た。 いまはカントの言う「構想力」を中心に見ようとしてるなかで、超簡単にして見ると、 「構想力」には「再生的構想力」と「産出的構想力」があるってして見て、 (e)「経験的形像(Biild)」←「再生的構想力に従った」(主観的)と「悟性の諸法則に従った」(客観的)―覚知の総合 (t)「純粋図式(Shema)」←「超越論的時間規定」と「産出的構想力」 (e)は「経験的」におけるもの、(t)は「超越論的」におけるもの。 ってなるのかな? あと、「産出的(純粋)構想力」と「超越論的構想力」なんだけど、 「感性的直観」と「純粋悟性概念」とを媒介する「超越論的時間規定」による「純粋図式」にかかわってる「産出的(純粋)構想力」である場合に「超越論的構想力」って呼んでるんじゃじゃないかな〜、って。
ついでだから、 No43695の(K-m2)に〔感性における純粋直観〕の「純粋直観」なんだけど、最初なんのことだかわたしにはさっぱりだったことんだけど。 No40052(資料e)から、ところどころ抜粋して見ると。 (a)〔感性論の主題の中心部を指示する「純粋直観」と言う述語がある。「純粋」とは、「感覚に属するものが何一つとして見い出されない」という意味である〕(p360) ってあって、これ、 No40713の[6]にあるようなのと同じかな。 (b)〔この述語が感性論ではじめて登場するのは、「感性的直観一般の純粋形式」、「感性の純粋形式」の言い換えとしてである〕(p360) (c)〔対象を直観しつつ規定する純粋な働きとしての「純粋直観」は、感性的経験的直観を構成するエレメントでさえある。というのは、感性的経験的直観は、「感覚」を通して対象と関係するが、この対象、すなわち「現象」は、これを直観することによりこれを現出させつつ規定する純粋な働き(純粋直観の働き)がなければ生じない、からである。〕(p361) (d)(純粋直観は)〔感性的経験的直観が成立するために不可欠なエレメントである。〕(p361) (e)〔「純粋直観」は働きである〕(p362) ざっと書き出して見たけど、 (d)に〔感性的経験的直観〕ってあるけど、 (f)〔われわれの「直観」は、対象と関係する限りは、総じて感性的直観であると同時にまた経験的直観であることになる〕(p360) ってあったから、「感性的直観」=「経験的直観」ってして見ることにした。 ちょっと簡単に、 「純粋直観」=「対象を直観しつ規定する純粋な働き」 ってして見とくことにした。 対象の感性の中の流れとして、 対象→感覚→現象→直観 ってわたし見てるから、 〈感覚-現象〉を〈感性的直観〉するときに働いているのが「純粋直観」 ってして見た。 〈直観の多様をまとめる〉のを「覚知の総合」って言ってるみたいだから、純粋直観の働きは覚知の総合、とも見れる。 簡単に、 純粋直観≒覚知の総合 ってして見た。
(資料e)ではカントの言う「純粋直観」っていうのを、経験的な感性におけるもののなかから純粋なものが“取り出される”ってして見てる。御子柴さんが言うには「捨象」っていう手法によって、っていうことになるのかな。 わたしのばあい、「抽象」と「捨象」っていうの、同時に行われてる、って見てるのね。だから、〈カントは純粋なものを抽象した〉とも見れるのね。抽象されたもの(純粋なもの)は「経験的なもの」のなかから、ってすると、「経験的なもの」が前提になってるんじゃないかしら?「経験的なもの」の方が広い範囲で、それを限定(狭め)ちゃってるのが思考概念っていうことになるんじゃないかしら? カントのエゴ・コギトによって、経験的なもののなかから抽象された「純粋悟性概念」から「物自体」を見ようとしてるから、カントにとっては「物自体」は「知ることができない」っていうことになっちゃてるんじゃないかしら? 「人間は物自体を知ることができない」っていうの、〈カントのエゴ・コギトのうちでは〉っていう条件つきで見ておいた方がいいかな? ちょっと現象学のとからめて見ると、 No43649に書いたフッサールの、 (F1)〔「物の超越性は、直観の進行における無際限性に表現されている」のであって、知られざる「物自体」の超絶性なのではない。〕 っていうところ。 わたしこれこう見るのね。 〈私の外にある物は私の意識の内で構成されたものだから、確かに「物そのもの」ではない(物の超越性)かもしれないけど、それが感覚-知覚されてく(直観の進行)なかで、その内(知覚されているもの)に無際限に表現されている。だから、「物そのもの」は知られざるものとして超絶性ではない。〉 って見てる。 カントのは、〈コギト〉だけで「物」を見ようとしている感じしてるんだけど、現象学のはちょっと違う、ってわたし見てる。 No35001の原注に、 (F2)〔フッサールは、この世界を前述語的と名づけ、それを現象学的記述の対象としている。〕 ってあるけど、わたし〔前述語的〕っていうのを〈感覚-知覚〉のこと、ってして見てる。「世界」の〈感覚-知覚の世界〉って〈思考-概念(思考による概念)〉や〈概念思考(概念を使って思考する)〉の“前に”ある〈世界〉、見てるから。 カントの場合、 No43733で見たように、 〔知覚ですらカテゴリーに従わざるを得なくなる〕ってある。 カントは、カントが考え出した「純粋悟性概念(カテゴリー)」になんとか必然的に〈知覚〉を従わせようとしてる超越論的してるみたいだし、やっぱそういうなかでは「物そのもの」を知ることはできなくなっちゃうんじゃないかしら?ん〜ん、っていうか、超越論的してるなかでは「物そのもの」を知ろうとすることをあきらめざるをえなかった、的な?
(F2)にかんしては、とくにメルポンのを見ると、そう思えてくる。 『行動の構造』になかに、 『知覚したことと、常識的な言葉で述べるその報告と、知覚経験との区別、話された知覚と、生きられている知覚との区別ぐらいはしておくべきであろう。』 って言ってる。
わたし、カントの『純粋理性批判』を見るときでも、どうしても現象学の比べて見ちゃうのよね〜。 カントのと現象学の(とくにメルポンの)とは、どこがどうのように違ってって、同じところはどういうところなのかな〜?みたいなの。ここんとこのお喋りはカントのをもう少し見てからにする。
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