TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

168時間以内に投稿された新着記事


■37186 / )  飛ぶ矢のパラドックス
□投稿者/ rest -(2024/04/27(Sat) 09:02:40)
    2024/04/27(Sat) 10:38:31 編集(投稿者)
    2024/04/27(Sat) 10:38:18 編集(投稿者)

    過去ログより

    投稿者/ rest -(2019/07/24(Wed) 01:28:16)

    パルメニデスの弟子ゼノンは運動について四つのパラドックスを提示したが、その中でも「飛ぶ矢のパラドックス」は次のようなものである。
    @どんなものも、ある瞬間に、ある一つの場所を占める場合、静止している。

    A矢は飛んでいるあいだのどの瞬間においても、ある一つの場所を占める。

    Bゆえに矢は飛んでいるあいだのどの瞬間においても静止している。

    C飛んでいるあいだの時間はそのあいだの瞬間から成り立っている。

    Dゆえに矢は飛んでいるあいだじゅう静止している。

    比喩的には映画の映写機によって映し出された映像である。ほんとうに存在しているのは静止画像の連なりだけであって、スクリーン上の「動き」は見かけの姿にすぎない。変化は幻想である、という考えかたである。哲学者マクタガートのA系列における未来、現在、過去の変化は幻想であって、B系列の年表のような映像フィルムこそが実在であるとする結論である。実は相対論の四次元の考え方も同じである。残念だがそこには自由意志の片りんすら見られない。あるのは決定論的運命のみである。それでいいのか。ベルグソンの生き生きとした現在は過去や未来とは等価ではありえない。変化とは未来が現在に移動してくることなのか、それとも現在において未来や過去を造り出すことなのか。

    Camen McRae - My Romannce


    https://www.youtube.com/watch?v=FlXVQH3MvOE
返信/引用返信 削除キー/

■37185 / )  Re[4]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/26(Fri) 21:21:36)
    〈考知性〉に価値を持ってる人は〈感知性〉には志向しないのかも?
    たとえそれに志向したとしても、マジで知ろうとはしないのかも?
    どうしてか、っていうと、自分の〈考知性〉への価値がカオスになるって、無意識的に”感じてる”からかも?

    こんなことすら思い出せない知性の持ち主となって生きる人たちの知識は、プアーとしか言いようがないかも?

    ん〜ん、典型的な例としては、日本の国会議員ちゃんたちや、そのフンのマスちゃんたちなかな?

    こんな無能な人たちによって「この私」の生の在り方を決められるのは、な〜んか、不快。

    日本国では自殺者が多いみたいだけど、なんか分かる気がする。
返信/引用返信 削除キー/

■37184 / )  面接授業
□投稿者/ 田秋 -(2024/04/26(Fri) 19:56:44)
    明日から大阪教育大学内にある放送大学学習センターで面接授業を受けるため、天王寺近くのホテルに宿泊しています。ここでは過去2回漢字の講義を受けましたが、今回も漢字の講義で同じく白川静系の先生です。今回の講義では日本の漢字学の流派の話もあるようで楽しみです。
    漢字の講義は今取っているコースの卒業要件ではないのですが、古代中国の文明や日本の文化に触れることができるし、難しい数式も出てこないので聴いていて面白いです。


返信/引用返信 削除キー/

■37183 / )  Re[3]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/26(Fri) 19:15:42)
    No37151のつづき、
    わたしがわかんなかった、フッサールの言う「モナド」ね。これってライプニッツが使ってたみたいで、前にネットでいろいろ見たんだけどよく分かんなかったんだけど、

    No37109の(4)に、
    フッサールの「モナド」概念、ってあって、その中から簡単に書き出して見ると、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・@フッサールによれば、「モナド」とは「全き具体化において受け取られたエゴ」(Hua T,102)、「具体的で純粋な主観性」(Hua\,216)である。つまり「モナド」とは、最も具体的な自我を表す概念である。「具体的」とはどういうことか。それは「繋がりのあったものを抽象的に切り取ることはしない」ということである。
    ・Aフッサールは「主観的」と呼ばれる経験が、そのまま「客観的」と呼ばれる「対象そのもの」と地続きであると、考えている。
    ・Bそこで「モナド」という語は、ある種の媒介的な相関そのものを言い表す語として用いられている。主体的な働きだけでなもなく、対象的な収斂点だけでもなく、それらが不可分に媒介し合う相関の出来事そのものが、「モナド」と呼ばれるのである。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあった。(4)からはここんとこだけ抽出。

    「媒介」って言うのをネットで調べてら、実用日本語表現辞典に
    〔媒介(ばいかい)とは、二つ以上の事物や現象が互いに関連付けられるための中間的な存在を指す言葉である。〕
    ってあった。

    簡単に見て、
    フッサールの言う「モナド」っていうの、〈具体的な、生まれつき備わってる、ななかだちする場〉、ってひとまず見ることにした。
    この〈場〉っていうのは意識のなかにあるもののことを言ってるんだとわたし見てるから、〈領域〉とか〈領分〉って言ってもいいかな。

返信/引用返信 削除キー/

■37182 / )  小生が高校当時
□投稿者/ キティダニエル -(2024/04/26(Fri) 16:32:34)
    ロックジャーナリズムはミュージックライフ、音楽専科、ニューミュージックマガジンの3誌

    が主流でした。ロッキング・オンはその中に殴り込みをかけたという感じでしたかね。

    >キティダニエルさんのDJはやさしそうな雰囲気だなー(#^.^#)
    哲学的な話題も出て私だったらきっと番組を楽しみにしてただろうなー。

    感激です!

返信/引用返信 削除キー/

■37181 / )  返礼
□投稿者/ パニチェ -(2024/04/26(Fri) 15:56:33)
    No37180に返信(knowingitselfさんの記事)

    > またまた更新、ありがとうございます。

    どういたしまして。
    knowing itselfさんなりのマイペースで末永くよろしくお願いします。
返信/引用返信 削除キー/

■37180 / )  Re[1]: 哲学の雑談 18
□投稿者/ knowingitself -(2024/04/26(Fri) 12:47:24)
    またまた更新、ありがとうございます。
返信/引用返信 削除キー/

■37179 / )  用事
□投稿者/ アートポット -(2024/04/25(Thu) 18:20:10)
    2024/04/26(Fri) 12:32:40 編集(投稿者)
    2024/04/25(Thu) 23:15:45 編集(投稿者)

    地域福祉課にて介護福祉士更新にてにょ。温風ヒーターにて20730円にて釣り4001円にて。薬届く。薬不在確認。一二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。

    月曜日に介護福祉士に居宅介護依頼書を渡すにて。

    採血、忘れないようににてにょ。
返信/引用返信 削除キー/

■37178 / )  ひたすら
□投稿者/ 田秋 -(2024/04/25(Thu) 08:35:49)
    タケノコ、知人にも大体送り終わり、ひたすら自分で消費してます。
    猿に食われるのが癪に障るためだけに掘り続けています……
    自分でもアホじゃないかと思うのですが。。。
    今日は5本。
660×881 => 450×600

1000003321.jpg
/469KB
返信/引用返信 削除キー/

■37177 / )  タケノコでメンマ
□投稿者/ 田秋 -(2024/04/24(Wed) 17:39:45)
660×881 => 450×600

1000003316.jpg
/491KB
返信/引用返信 削除キー/

■37176 / )  Re[20]: 著作権法
□投稿者/ アートポット -(2024/04/24(Wed) 16:35:49)
    2024/04/24(Wed) 16:41:17 編集(投稿者)
    No37174に返信(田秋さんの記事)
    > 2024/04/24(Wed) 13:35:42 編集(投稿者)
    >
    > こんにちは、アートポットさん
    >
    > 未熟な演奏に関して、勘違いしてました。
    > 「未熟な演奏」は「やむを得ない改変」に該当するんですね。だから訴えられないのでした。
    >
    > アートポットさんの書き込みにより気づきました。ありがとうございました。
    > m(_ _)m
    >
    > ひどい演奏された作曲家が訴えようと思ったら、やむを得ぬ改変に該当するので訴えられなかった、ということがあったのかな?
    >

    こんにちは、田秋さん

    数時間、Twitterに居ました。ツイッター上にて「巧詐は拙誠に如かず」を勉強していました。温文爾雅の勉強もしていました。
返信/引用返信 削除キー/

■37175 / )  Re[52]: 転法さん江
□投稿者/ おくたがわ -(2024/04/24(Wed) 14:49:57)
    2024/04/24(Wed) 19:23:48 編集(投稿者)

    No36950に返信(転法さんの記事)
    返事が遅くなりすみません。

    > >「こうしないと」が自分には分かりませんでした。
    >
    > これはすべてのものに神が内在しているというよりも、すべてのものはすべてを包含する神の一部であるという考え方である。
    >
    > これはでンね、「すべてのものに神が内在している」とすると、すべてのものと神は同等になってしまいまッしゃろ。
    > そこで、神を常に上位に置くために「すべてのものはすべてを包含する神の一部である」としたわけだと思いまンねん。
    > 神は常に最上位者であると言う、信条や思想に関係のない(彼らのとっての)揺るぎない事実を歪めないためでおマスわねー。
    >
    > すべてのものと言うと、糞と神は同等なんて事にもなりかねまへん。
    > そりゃ、殺されマンがな。

    分かりました。ありがとうございます。

    > もっとも、仏教では糞と仏が同じものであっても問題ないんでおマスがねー。

    いいですね。自分が仏教特に禅だけは近づきやすく感じたのは、そういうところもありそうです。

    >
    > >全ての網羅は不可能なので「必然的に〜」「全ては〜」といった全称的な結論は導けない。
    > >そして、網羅できない部分(未来も含め)も同様であろうという推測は「自然の斉一性原理」をよりどころとするが、それ自体が常に成立するという保証が無い。ということでしょうか。
    >
    > 今までの経験でそうだったからといって、全部そうだと決めるのは早計と言うもんでッしゃろ。
    > まあ、演繹しているわけではないんで、論理が全部ひっくり返るわけではないんでおマスがね。
    >
    >
    > >帰納法によって導いた前提が帰納法の正当化に使われるという循環になる、ということでしょうか?
    >
    > その通りでおます。

    > >より大きい調和の中の部分的な、あるいは変遷過程としての不調和という話があったと思いますが、
    > >ある不調和が不要で有害なものなのか、時を得ればむしろ意味のあるものだと分かることはないのか。早計に解釈を限定して物理化学的に処理するのでなく、様子を見ながら全体の調和を図っていく方が有効で危険が少ないことがあるように思います。素人意見ですみませんが。
    >
    > いやいや、その通りでおマス。
    > セッソーが思うに、そもそも、運動するものの調和というのは不調和のコントロールのようなもので、静止したような調和では運動になりまへんからねー。
    > この辺りはカオスのストレンジアトラクターなんかが、そういう状態を現しているんじゃないかとおもーておりまンねん。

      (ストレンジアトラクターは分かりません。wikiを見ても頭に入りませんでした ( oωo ?)  )

    > よく、整体やカイロなんかでは、身体が歪んでいると言いマンが、そもそも身体は歪んでおるのが当たり前なのでおマス。
    > だから、利き足とか利き手とかがあるわけで、いつでも素早く足が出せるのは、身体の方が転倒するような状態を保っているからでンね。

    静止した調和を求めるのはムダ、もしくは有害まであるということですかね。それは身体だけでなく心にも当てはまると思います。静止した心身の調和・安定を求めてしまうのは逆に危ない場合もあると(特に知性・論理によって)。
        
    以下のカントにもつながりますね。
    第13回から引用
    『「物自体」の概念は、我々が事物を相即に認識理解することができないことを示しているが、同時に我々は我々の「身心」を相即に認識理解することができないことを意味する。しかし、それは我々の「身心」が、我々の「身心」および事物に対して相即に対応できないということを意味していない。

     先に言ったように我々の「身心」が「物自体」であるならば、「物自体」の世界と我々の「身心」は相即に存在している。例えば、我々の記憶には「陳述記憶」と「非陳述記憶」があるが、ご存知のように言語化できる記憶と言語化できない記憶であり、頭で覚えたものと身体で覚えたものの違いである。

     つまり我々は頭で覚えた認識による世界と、身体で覚えた感覚による世界の二つに住んでいる。言うまでもなく、感覚による世界での対処は頭で認識してから行われるものではなく、身心即応に対処される。

     宮本武蔵の五輪書に「観」「見」というものがある。「見」とはいわば「直感」であり、感覚そのもの、つまり身体能力に依存すると言っても良い。「観」は「直観」であり、仏教の「阿字観」や「入我我入観」のように、単に意識するというようなものではなく、身心全体で観じるもので、鍛錬によって向上できるものであろう。

     これは東洋的な手法により、カントの言う「物自体」を「身心=物自体」で相即に捉えようとすることのように思われる。いずれにしろ、「物自体」が固定的なものではないことは自明で、「物自体」は変転する。仏教的に言えば、これは「無常」である。「恒常性」のように「常」と言えるものではない。
     
     我々の「身心」が「物自体」とすれば、カント的には不可知なものであるが、我々は本質的に自身の「身心」、つまり「物自体」と相即である。しかるに、いつの間にか「認識上の現象界の心身」を、自己の心身と捉えてしまっているのではないか?』

    素晴らしい。



    > >あと、誤植の発見が割と得意なのですが、そういうのは不要ですか?
    >
    > 是非、よろしくお願いいたしますでおマス。

    以下、細かいことですみません。気づいたところでは、

    4回
    「本質的はサブラクセーションによる不調和さえも」
    5回
    「このメローもまたイネイト・インテリジェンスである」
    7回
    「自然の対する知見を集めていくためには、」
    「権威・伝統を無批判に盲目的に従うこと」
    「そのままイネイト・インテリジェンスにも適応される」
    8回
    「自明ではない「生得観念」自体は存在して認められない」


    14回以降、続けて読ませていただきます。

    追記
    第13回の
    >要するに、理性が二律背反のような矛盾を生むのは、理性が世界をそのままに映しているのではなく、不完全な理性が世界をつくり出しているためだとも言える。

    この問題(話題)が自分がktsurutを通じて転法さんを知った最初だったのでした。
    後でyahoo掲示板トピに書くかも。
返信/引用返信 削除キー/

■37174 / )  Re[19]: 著作権法
□投稿者/ 田秋 -(2024/04/24(Wed) 13:31:05)
    2024/04/24(Wed) 13:35:42 編集(投稿者)

    こんにちは、アートポットさん

    未熟な演奏に関して、勘違いしてました。
    「未熟な演奏」は「やむを得ない改変」に該当するんですね。だから訴えられないのでした。

    アートポットさんの書き込みにより気づきました。ありがとうございました。
    m(_ _)m

    ひどい演奏された作曲家が訴えようと思ったら、やむを得ぬ改変に該当するので訴えられなかった、ということがあったのかな?

返信/引用返信 削除キー/

■37173 / )  Re[18]: 著作権法
□投稿者/ アートポット -(2024/04/24(Wed) 13:15:11)
    > 個人で楽しむ分については大丈夫だと思います。
    ありがとうございます。


    著作者の人格権通りの演奏が出来ないと訴えられるかもしれないっていうのはとても恐いですね。
返信/引用返信 削除キー/

■37172 / )  Re[17]: 著作権法
□投稿者/ 田秋 -(2024/04/24(Wed) 12:54:47)
    こんにちは、アートポットさん

    >イラストのトレースについてはどうなのですか?
    個人で楽しむ分については大丈夫だと思います。
返信/引用返信 削除キー/

■37171 / )  Re[16]: 著作権法
□投稿者/ アートポット -(2024/04/24(Wed) 12:35:43)
    こんにちは、田秋さん

    イラストのトレースについてはどうなのですか?
    シェルミーというキャラクターをトレースして一部分だけアテナというキャラクターの見た目に変えるなど、僕は、若い時に参考にしまくってました。
返信/引用返信 削除キー/

■37170 / )  著作権法
□投稿者/ 田秋 -(2024/04/24(Wed) 07:42:43)
    著作権法を勉強しているのですが、著作権の中に著作者人格権というものがあります。どういうものかと言うと、著作は著作者の思想や感情を外へ表現したものであり、それを《人格》と捉え、経済的利益の保護(著作権)の他に著作者の人格も保護(著作者人格権)します。

    さらに著作者人格権の中に同一性保持権というものがあります。これは勝手に著作の内容を改変することを禁じた法律です。このことは普通に納得できますが、いくつか適用外のことが定められています。これも言われてみれば納得できる内容で、例えば教育目的で利用する場合、旧漢字を常用漢字または仮名に変更できます(著作者への通知する義務があります)。また建物によっては著作者人格権が設定されている場合があり、実用目的(例えばトイレを水洗にする)に合わせて改変できます。またコンピュータープログラムなどもバージョンアップ、バグの修正などができます。

    以上は「それはそうだ」と納得出来るものですが、最後に
    「やむを得ない改変」というのが載っていて、まあ色々なケースがあるのですが、ボク自身、身につまされる例が載っていました。
    「演奏技術の未熟さにより作曲家の創作どおりのレベルの演奏が出来ない(出来なかった)場合」

    幸運なことにボクが関わった演奏で、作曲家から著作者人格権で訴えられた事例はないのですが、こういう事例が教科書に載っているということは過去にそういうことがあったのでしょうね。

    こあい。。。
返信/引用返信 削除キー/

■37169 / )  返礼 > pipitさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2024/04/24(Wed) 07:21:26)
    おはようごあいます、pipitさん。

    No37168に返信(pipitさんの記事)
    > こんばんは(^O^)
    > トピの設置ありがとうございます。

    > パニチェさんのおかげで、とても楽しく伸び伸びと勉強させていただいてます。
    > 感謝です!

    管理者にとって何より嬉しいお言葉です。
    こちらこそ、ありがとうございます。
    今後ともよろしくお願いいたします。
返信/引用返信 削除キー/

■37168 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/04/23(Tue) 23:42:07)
    こんばんは(^O^)
    トピの設置ありがとうございます。

    パニチェさんのおかげで、とても楽しく伸び伸びと勉強させていただいてます。
    感謝です!
返信/引用返信 削除キー/

■37167 / )  ふたり
□投稿者/ アートポット -(2024/04/23(Tue) 22:35:41)
返信/引用返信 削除キー/

■37166 / )  仏教について 8
□投稿者/ パニチェ -(2024/04/23(Tue) 16:55:14)
    トピ主:pipitさん

    よろしくお願いします。
返信/引用返信 削除キー/

■37165 / )  Re[50]: 中部経典62『大ラーフラ教誡経』
□投稿者/ pipit -(2024/04/23(Tue) 11:49:49)
    No37162に返信(pipitさんの記事)
    > ■No37161
    > (英訳のpipit日訳)
    >
    > そしてブッダはラーフラを振り返り仰りました、
    >
    > 「ラーフラ、あなたはどのような種類であれ全ての形あるもの(色・rupa)を---過去、未来、あるいは現在;
    >
    > 内、あるいは外; 粗い、あるいは細かい; 劣った、あるいは優れた; 遠くの、あるいは近くの; 全ての形あるもの(色・rupa)を---
    >
    > 『これは私のものではない、私はこれではない、これは私自身ではない』と正しい理解で事実の通りに見なくてはなりません。」と。
    >
    > (続きます。)

    パーリ仏典の教義的に大切な箇所だと思いますので、この箇所の原語から日訳された関西パーリ語実習会さまの日訳を引用させていただきます。
    m(_ _)m

    『そこで、まさに、世尊は、振り返って、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、それが何であれ、形態(色)としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです」と。』
    https://suttacentral.net/mn62/jpn/kansai?lang=en&reference=none&highlight=false

返信/引用返信 削除キー/

■37164 / )  色について
□投稿者/ pipit -(2024/04/23(Tue) 11:43:47)
    No23168に関連記事を投稿していたので、コピペで再投稿させていただきます

    『色は泡沫(ほうまつ)、
     受は水泡(すいほう)、
     想は陽炎(かげろう)、
     行は芭蕉(ばしょう)、
     識は幻にも喩えられる
     (「花の章」『泡沫経』)。』<

    (相応部22-95)
    『泡沫経』パーリ原文の、Bhikkhu Bodhi様による英訳を、pipitが日訳してみます。m(_ _)m


    『Connected Discourses on the Aggregates
    22.95. A Lump of Foam』

    まず、【色は泡沫(ほうまつ)】の箇所を訳してみます。
    (Bhikkhu Bodhi様による経文の英訳)

    On one occasion the Blessed One was dwelling at Ayojjha on the bank of the river Ganges. There the Blessed One addressed the bhikkhus thus:
    “Bhikkhus, suppose that this river Ganges was carrying along a great lump of foam. A man with good sight would inspect it, ponder it, and carefully investigate it, and it would appear to him to be void, hollow, insubstantial. For what substance could there be in a lump of foam? So too, bhikkhus, whatever kind of form there is, whether past, future, or present, internal or external, gross or subtle, inferior or superior, far or near: a bhikkhu inspects it, ponders it, and carefully investigates it, and it would appear to him to be void, hollow, insubstantial. For what substance could there be in form?

    ============

    (英訳のpipitによる日訳)

    ある時お釈迦さまはガンジス川のほとりのアヨージャにおられました。
    そこでお釈迦さまは比丘たちに語りかけられました。

    比丘たちよ、このガンジス川が大きな泡の塊を運んできたとしましょう。
    良い視力の人が、その泡を調べ
    、熟考し、注意深く観察すると、泡は空っぽで、中身がなくて、実体がないと見えるでしょう。
    泡の塊の中になんの変わらない実体がありますか?

    そのように、比丘たちよ、どんな種類の・・・過去・未来・現前・内・外・大きい・微細・劣悪・優越・遠い・近い・・・形(色)であれ、その形を調べ
    、熟考し、注意深く観察すると、形が空っぽで、中身がなくて、実体がないと見えるでしょう。
    形(色)の中になんの変わらない実体がありますか?

返信/引用返信 削除キー/

■37163 / )  日記『色・rupa・ルーパ』
□投稿者/ pipit -(2024/04/23(Tue) 11:38:47)
    『色・rupa』が話題に出てきましたので、手持ちの本を再読しました。

    (片山一良先生の解説)※記号省略
    『「色」(rupa)は身体であり、また物質、そのエネルギーなどをさします。
     四大種色(地・水・火・風の要素)と四大種所造色(四大種より造られたもの)からなるものです。』
    (『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』大法輪閣、p147より引用)

    (ポー・オー・パユットー先生、野中耕一先生訳の解説)※記号省略
    『色(Rupa = Corporeality)
     色法すべての構成要素。身体と身体のすべての行為。あるいは物質とそのエネルギーとその特性、および物質、エネルギーの様々な動き。』
    (『仏法 テーラワーダ仏教の叡智』サンガ、p29より引用)
返信/引用返信 削除キー/

■37162 / )  Re[49]: 中部経典62『大ラーフラ教誡経』
□投稿者/ pipit -(2024/04/23(Tue) 11:20:35)
    No37161
    (英訳のpipit日訳)

    そしてブッダはラーフラを振り返り仰りました、

    「ラーフラ、あなたはどのような種類であれ全ての形あるもの(色・rupa)を---過去、未来、あるいは現在;

    内、あるいは外; 粗い、あるいは細かい; 劣った、あるいは優れた; 遠くの、あるいは近くの; 全ての形あるもの(色・rupa)を---

    『これは私のものではない、私はこれではない、これは私自身ではない』と正しい理解で事実の通りに見なくてはなりません。」と。

    (続きます。)
返信/引用返信 削除キー/

■37161 / )  Re[48]: 中部経典62『大ラーフラ教誡経』
□投稿者/ pipit -(2024/04/23(Tue) 11:17:10)
    みなさまこんにちは、続きです(^ ^)
    お釈迦さまはラーフラ沙弥を振り返りお話しされます。
    -------------------

    Then the Buddha looked back at Rahula and said,
    “Rahula, you should truly see any kind of form at allーpast, future, or present; internal or external; coarse or fine; inferior or superior; far or near: all formー
    with right understanding: ‘This is not mine, I am not this, this is not my self.’”
返信/引用返信 削除キー/

■37160 / )  Re[47]: 中部経典62『大ラーフラ教誡経』
□投稿者/ pipit -(2024/04/23(Tue) 00:00:14)
    みなさまこんばんは。続きです。
    托鉢に入るお釈迦さまの後ろをついていくラーフラ沙弥♪
    ---------------------

    Then the Buddha robed up in the morning and, taking his bowl and robe, entered Savatthi for alms.

    そしてブッダは朝に着衣して、鉢と衣を持ってサーヴァティーに托鉢に入られた。

    And Venerable Rahula also robed up and followed behind the Buddha.

    ラーフラ尊者もまた着衣して、ブッダの後に続きました。
返信/引用返信 削除キー/

■37159 / )  純理B181 図式論
□投稿者/ pipit -(2024/04/22(Mon) 20:54:32)
    みなさまこんばんはー
    続きです!

    (J. M. D. Meiklejohnさん英訳)
    This schematism of our understanding in regard to phenomena and their mere form, is an art,
    hidden in the depths of the human soul, whose true modes of action we shall only with difficulty discover and unveil.

    (英訳のpipit日訳)
    現象や現象の単なる形式に関する、この我々の悟性の図式機能は、人間の精神(Seele)の奥深くに隠された技能(Kunst)であり、その真の操作法 (Handgriffe)を我々が発見して明らかにするのは難しいであろう。

返信/引用返信 削除キー/

■37158 / )   中部経典62『大ラーフラ教誡経』
□投稿者/ pipit -(2024/04/21(Sun) 00:15:32)
    2024/04/21(Sun) 06:33:58 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは(^_^)

    Middle Discourses 62
    中くらいの言説(中部経典)62

    The Longer Advice to Rahula
    ラーフラへの長いアドバイス(大ラーフラ教誡経)

    So I have heard.
    このように私は聞きました。

    At one time the Buddha was staying near Savatthi in Jeta’s Grove, Anathapindika’s monastery.
    ある時ブッダはサーヴァッティ(舎衛城)に近い
    ジェータ林のアナータピンディカ園の僧院(祇園精舎)に滞在されていました。

    https://suttacentral.net/mn62/en/sujato?lang=en&layout=plain&reference=none&notes=asterisk&highlight=false&script=latin

    ---------------------

    このように始まる、中部経典・第62『大ラーフラ教誡経』を読んでいきます。

    > サーヴァッティ<

    サーヴァッティは、古代インドのコーサラ国にあった首都だそうです。

    > ジェータ林のアナータピンディカ園の僧院(祇園精舎)に<

    ジェータ(祇陀)
    林(樹)
    アナータピンディカ(給孤独)
    園林(園)
    僧院(精舎)

    『漢訳では「祇樹給孤独園精舎」、略して「祇園精舎」と称するようになった。』
    祇園精舎 - Wikipediaより

    wikiに古代インドの地図がありました。
    KOSALAがコーサラ国ですね。(多分)
    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/Mahajanapadas_%28c._500_BCE%29.png

    同じくwikiより。現在の祇園精舎の写真だそうです。
    https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Jetavana.jpg#mw-jump-to-license

    この祇園精舎でお釈迦さまがラーフラ沙弥にお話しされた内容を、お付きのお坊様が、『如是我聞・・・・』と結集で伝えて、経典にされたということですかね。 
    (^ ^)
返信/引用返信 削除キー/

■37157 / )  Re[2]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/20(Sat) 19:34:01)
    きょうは切りのいいところまで書いとこっと。

    いま、フッサールが使う用語とその意味を分かろうとしてるところ(もっとも日訳ので、だけど)。
    哲学者によってその用語の使い方(意味)が異なってる感じしてるから。

    No37154、カントの、なんか、めんどくさそう(pipitさまやうましかさんが“沼”って言ってるの、なんかわかるわ〜)なんだけど、
    カントの用語を簡単に見ちゃうと、
    ・@「純粋」≒「経験的ではない」≒「アプリオリ」
    ・A「経験的なもの」≒「アポステリオリ」
    ・B「超越論的」=「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体にかかわること。
    こういう感じになるかな。

    こういうのをふまえて、フッサールのを見て見た。

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の中に、
    (a)『すべての推論の過程には必然的に、純粋な我に内在的で「生まれつき備わっている」原理を手引きにして行われることになる。』(p21)
    ってあって、この「生まれつき備わっている」っていうのを「アプリオリ」ってして、わたし見た。
    「誰かに教わったわけじゃないのに自然と」みたいな?
    ほら、1歳ぐらいになると、“自然と”立てるようになるじゃん、これって誰かに立ち方を教わったわけじゃないのに。
    こんな感じの。
    でね、
    フッサールの、
    ・C「超越論的」=「純粋」=「アプリオリ」=「経験的ではない」=「生まれつき備わっている」
    ってして見した。
    中島さんが言うような、カントのBのような「超越論的」の意味じゃなくて。

    フッサールの言う「超越論的」っていうのはこんな感じので使ってる、って見とくことにした。

    あと、(a)に、「推論」ってあるけど、これ、〈考知性(思考)〉の領域で行われてること、ってわたし見てる。
    No15221の(FD-7)あるような、
    【それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚とは推理ではないし、思考作用でもない。…】
    みたいなのから。

    Cのような、「生まれつき備わっている」ものを見ようとするとき、
    No27553にあるような、
    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】にあった、
    【言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてその沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるだろう。】(p305)
    っていう、「幼少の頃に遡ってそのうちで(外からじゃなくて)見る」のが現象学的還元っていう方法なのかも。

返信/引用返信 削除キー/

■37156 / )  返礼
□投稿者/ パニチェ -(2024/04/20(Sat) 19:15:07)
    No37155に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > パニさん、ありがとございま〜す。

    どういたしまして。

    > わたしまだお喋りしたいことあるみたいなので、またここ使わせてもらいま〜す。

    はい。末永く利用して下さい。
返信/引用返信 削除キー/

■37155 / )  Re[1]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/20(Sat) 18:01:06)
    パニさん、ありがとございま〜す。

    わたしまだお喋りしたいことあるみたいなので、またここ使わせてもらいま〜す。
返信/引用返信 削除キー/

■37154 / )  Re[98]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/20(Sat) 17:54:13)
    No37152のつづきね。

    前にも書いたと思うけど、
    中島義道さんのからなんだけど、

    ・・・・・・・・・
    「純粋」は、カントの場合、経験的(empirisch)ではないという否定的意味が基本であるが、積極的に理性だけからという意味を担って「根源的」と言い換えられることもある。例えば「純粋統覚」とはいかなる経験的なものも含まない統覚であるが、「超越論的統覚」とは「経験を可能にする諸条件」を含むような統覚である。「純粋総合」とは経験的な混入物を洗い流した純粋な線にょうな総合であるが、「超越論的総合」とは「経験を可能にする諸条件」を含む「時間」という特有の線のような総合である。

    「ア・プリオリ」(a priori)は「ア・ポステリオリ」に対する言葉であるが、カントの場合、同じように「経験的」に対立する言葉として「純粋」と重なる。しかし、違いが強調される場合もあり、「すべて変化は原因をもつ」という判断は経験に由来しないという意味「a priori」であっても「変化」という物質に関する判断だから、経験的なものが混入しており「純粋」ではないとされる。一方、「7+5=12」のような数学的判断は経験的なものが混入していなから、ア・プリオリであってかつ純粋な判断ということになる。

    だが、この用語法が常に守られているわけではない。そして、再確認すれば、「超越論的」とは単に「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体にかかわることである。

    「超越論的」という言葉(カントの原意)は「相互主観的」(intersubjektiv)とは相容れない。…‥
    ・・・・・・

    って言うことみたい。

    ひとまず、カントのはこういうのって、しとくね。
    あ、これ、出どころ忘れちゃったから、
    パニさん、著作権法でダメだったら削除しといてね。

    101になっちゃたので、このつづきはつれづれ14でする。

返信/引用返信 削除キー/

■37153 / )  Re[14]: ミスターホーキング
□投稿者/ 田秋 -(2024/04/20(Sat) 17:54:09)
    2024/04/21(Sun) 05:56:33 編集(投稿者)

    《ビッグクエスチョン》第2章「宇宙はどのように始まったのか?」に載っている言葉だが、ホーキングは
    「神はかなりのギャンブラーらしい」
    という。
    もちろんこの言葉はアインシュタインの
    「神はサイコロ遊びをしない」
    を踏まえている。
    そしてこの言葉は、宇宙の、特にその初期状態の研究には不確定性原理が不可欠だということを示している。

    「初期の宇宙、宇宙の大きさが陽子よりも小さかった時」
    宇宙物理学者はそういう状態をまじめに考えている。

    もう一つ、書いてはないが、神さえも自然の法則の下に置かれているということを言外に秘めているかもしれない。そういう考えは神に対して大変不敬・不遜であるが、例えば法律を作るのは立法府であるが一旦決まった法律には立法府の人間と言えども従わなければならない、ということに似ている(かも知れない)。。。

    ===安心したこと===
    この章では虚数時間についてもごく簡単に触れられている。虚数時間というのは計算するのに便利な数学的トリックで、実際の時間とは何の関係もないとのことだ。ボクは、ひょっとしたら極小の世界では時空が訳の分からない状態になって虚数時間というものが実在するのか?と思っていたので少し安心した。

    ===宇宙とは関係ないタケノコ料理の写真===
1000×666 => 600×399

1713603249.jpg
/149KB
返信/引用返信 削除キー/

■37152 / )  Re[97]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/20(Sat) 17:44:32)
    ■37151のつづき
    まず、「超越論的」っていう語ね。
    これって、カントの用語みたいで、でも、フッサールのその使い方(意味)、な〜んかカントのとは違う感じがしてた。

    No37109の(3)の中に、
    「〈純粋(超越論的)自我〉」って書いてあるのね。
    あ〜、フッサールのいう「超越論的」っていうの、「純粋」っていうことだったのね、って。
    (5)の中にも、「純粋自我」っていうのが出てきてる。

    わたしが得た、カントの言う「超越論的」っていうの、次に書いとくね。

返信/引用返信 削除キー/

■37151 / )  Re[96]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/20(Sat) 17:39:34)
    No37109の(3)〜(7)、読み終わったんだけど、

    (7)は、ブレンターノの考えとフッサールの考えの違いみたいなのが書かれてあるようで、いまのわたしの関心事じゃなかった。

    (1)の『デカルト的省察』を読んで、よく分かんなかったのが「超越論的」と「モナド」っていうの。
    資料の中からなんか見えてきたのあるから、ちょっとそこんとこ書いとく。

    わたしの次の物語りのテーマどうしよっかな〜?、っていうところなんだけど。

返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -