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Re[16]: つれづれなるままに 23
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/05/15(Fri) 18:22:40)
| わたしの物語、今話題としてるのが、「内在的超越」「内世界的」(Hu) メルポンでは「内在的世界」(←No45493 (R)A)かな。
「内在的超越」について、No41741『デカルト的省察』の 第48節 客観的世界の超越は、原初的な超越に対して言えば、高次の超越である のなかにあったのでをそこんと書き出して見ると、
(本文)―――――――――――――――――― 異なるもの(フレムト)の(非―自我)の経験という事実は、客観的世界とそのうちでの他者(別の自我という形での非―自我)の経験として、現にある。このような経験に対して自分固有のものへの還元を行ったが、それがもたらした重要な成果は、その還元が経験の志向的な下層を際立たせ、そこでは還元された世界が内在的な超越(24)であることが示される。ということであった。 それは、私には異なる世界(フレムト)、つまり、私の具体的に固有な自我にとって外的な(自然的―空間的な意味において外的ということではまったくないが)世界が構成される時の秩序から言えば、それ自体で最初の超越、つまり、「原初的(プリモディアル)な」(25)超越(または「世界」)である。これは、私の潜在的性からなる無限の体系の総合的統一として理念的(イデアール)な性格をもつにもかかわらず、やはり、我(エゴ)としての私の固有な具体的存在を規定する部分である。(p190−191) ―――――――――――――― 第5訳注(24) 「内在的な超越」という言い方は、矛盾するようであるが、『イデーンT』でも、「純粋自我」が現象学的還元の後の「内在」の場に見いだされる「超越」として、「内在における超越」と呼ばれていた。他に、志向的対象についても、志向的には「内在」(志向的な相関者となる)だが実質的には「超越」(「我」の体験を構成する要素ではない)だとして、「内在的超越」と呼ばれる。(P324)
第5訳注(25) primordia ラテン語のprimoridium(始まり、原始、原初)から派生した形容詞であって、それゆえ、prius+ordo(第一の順序)から派生したものではない。しましば「第一次的」とも訳されてきたが、ここでは「原初的」とする所以である。なお、『フッサール全集』版では、primordialとprimordinalという二つの表記が混在していたが、「哲学文庫」版では、「primordialが言語的に正しい造語法である」として、この表記に統一されている。(p325) ――――――――――――――――――――――
(本文)に,『超越(または「世界」)』ってあるから、「Ob(世界)←超越」っていうわたしの見方でいいかな。
ひとまず抜粋だけにしといて。
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