TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

168時間以内に投稿された新着記事


■11346 / )  牡蠣三昧
□投稿者/ 田秋 -(2021/03/08(Mon) 10:17:18)
    昨日この冬2回目の牡蠣小屋へ行ってきました(三重県鳥羽市浦村)。前回とは違う小屋で食べ放題2300円、蒸し牡蠣と焼き牡蠣で生はありません。牡蠣だけでもうこれ以上お腹に何も入らなくなったのは初めてです。昼に食べたのですか、帰ってうちでプーアール茶を飲んだ以外昨日はもう何も口にしませんでした。

    何個食べたかはわかりませんが、さすがに元は取ったと思います。この冬の牡蠣食べ納め。
返信/引用返信 削除キー/

■11345 / )  Re[22]: 生活世界のフィロソフィア
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/07(Sun) 18:31:55)
    現象学っていうフィロソフィア、わたしに関心が湧いたとこ、書き写して見ま〜す。

    フッサールの、
    【…日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。その際、経験することがもつ志向的な働きはすべて、それによって初めて事実が端的にそこに存在することになるのにもかかわらず、匿名的に行なわれる。経験している者自身は、それについて何も知らない。そこで働いている思考についても、同様に何も知らない。例えば、数、述定的な事態、価値、目的、作品といったものは、この隠れた働きのおかげで、一つ一つ積み上げられて現れるが、経験している者には、これから現れてくるもののみが視野に入る。実証的な諸学においても、事情は変わらない。それらは高次の素朴性であり、賢明な理論的技術によって形成された作品であるが、ただ、それらすべてが究極的にはそこから湧き出ているはずの志向的な働きが、解明されないままなのだ。学問というものは確かに、その理論的な歩みを正当化できることを要求し、いつも批判的吟味に基づいているが、その批判は究極的な認識批判(3)なのではない。究極的な認識批判とは、根源的な働きについての研究と批判的吟味であり、それがもつあらゆる志向的地平を露呈することなのである。…】(FD-2)
    訳注(3)
    〔ロックの『人間知性論』からカントの『純粋理性批判』に至る近代哲学の課題は「認識批判」であった。フッサールが現象学的還元の着想を得た頃の覚え書きにも「理性の批判」という語が見られる。〕

    ジョン・ロックが出てきたから、参考書で調べて見たよ。
    『人間知性論』(『人間悟性論』)
    ロックの主著で、1690年の刊行。人間に生まれつき備わっている生得観念を否定し、一切の知識の源泉を経験に求める経験論の立場から、人間の認識作用を考察した。心の意識に現れる観念は、外から印象を受ける感覚と、心の内の働きを観察する反省という二つの作用をもとに発生し、理性はこれらの経験から生まれた観念を使って推理や思考を行う。
    「tabula rasaタブラ=ラサ 白紙」
    経験によって外から知識や観念を与えられる前は、生まれつきの人間の心は、何も書かれていない白紙の状態であるというロックの言葉。タブラ=ラサとは、ラテン語で何も書かれていない板・白紙を意味する。ロックは、一切の知識の源泉を経験に求める経験論の立場から、デカルトの説いた神や実体についての生得観念を否定し、感覚と反省という二つの経験の作用によって、心にさまざまな観念が刻まれていくと説いた。

    「哲学」ってしないで、「フィロソフィア(知りたい)」ってすることで、わたしに身近になる気がする。

返信/引用返信 削除キー/

■11344 / )  仏教とキリスト教が違うとしたら一つには
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/07(Sun) 17:04:51)
    > 例えば、信仰によってドラッグ中毒から立ち直れた人は、以後何もせずに寝ているわけではありません。再びドラッグ中毒に舞い戻らないで、他の何かの行動はしているはずです。別にこれ見よがしの善行ではなくても、ドラッグを飲むのではないことは行動に現れているはずです。

    ここあたり、もしかしたらキリスト教と仏教の違いかもしれない。

    ドラッグに向かう強烈な渇望、これはドラッグでなく他の対象でもいいが、そういう渇望はそもそも悪だから根底から無くしてしまえ、とはならないのがキリスト教だね。人間は基本的に善なるものとして創造されているが、渇望の対象を間違うと満たされずに苦悩と絶望に陥る。

    渇望の対象を三位一体の神に向ける以外に、人間の渇望が満たされることはない、というのがキリスト教の処方。そこで初めて人間の渇望はパーフェクトに満たされる。渇望をもって行動することを根こそぎやめろ、とはいいません。違いは渇望の対象だけ。
返信/引用返信 削除キー/

■11343 / )  Re[21]: 表現すること
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/07(Sun) 15:26:48)
    〈見えるようにさせること〉で思ったんだけど、

    わたしに思われたものを表現して、そしてそのわたしが表現したものをわたしが見る(フィードバックする)ことによって、わたしに見えるようにさせる、っていうことになるんだと思う。
    ん〜ん、わたしに思われたものを表現して、それをわたしが見る、これってわたしがわたしを客観的に見る、っていうことになるのかな。こういうのって、人間ならではの能力なのかも?私が私を見ることができる?私が私を外に置いて見る?

    これわたし独りでもできることなんだけど、「表現すること」ってもう一つ、ほかの人に向けて、っていうのもある。ほかの人に向けて、っていうばあい、その表現はほかの人に見も“伝わるように”、っていうことが含まれてくる。わたしに思われたものを上手に表現できるように心がけようとしてる、っていうことかな。こっちの方がわたしにより見えるようになる感じがしてる。だからここに来てるほかの人に向けて表現してる。(ま、もっともWhatを見る人が誰もいなくても、いいけどね)
    ん〜ん、ここにはもう一つの客観が登場することになる。ほかの人の、っていう客観が。

    「表現すること」自身は真偽善悪の判断以前の「すること」。そして、それによって「した(された)もの」において、後で判断されてるんだと思う。

返信/引用返信 削除キー/

■11342 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2021/03/07(Sun) 11:05:53)
    No11316

    >ごめん、カントの、はまだ勉強中で正確にはわからないんだけど、
    今の私としては、客観とは『主観抜きを仮定して描かれる象』かなぁ。難しい。<

    主観抜きを仮定して描かれる象、が、それぞれに生起しているとした時、その象が一致するの、おもしろいよね。

    学校がどこにある、とか、マラソンのタイムとか。

    さ、今から資源ゴミ出して、小山の道で桜の木を偵察して、買い物に行ってこようっと。

    よく晴れている !



返信/引用返信 削除キー/

■11341 / )  構成
□投稿者/ pipit -(2021/03/07(Sun) 10:43:18)
    おはようございます。

    論理学は@分析論と弁証論に区分されます。

    その@分析論は、A.概念論と原則論に区分されます。

    これから見ていくのは、A.概念論です。
    中山元先生の訳語としては、@『第一部 超越論的な分析論』、の、A.『第一篇 概念の分析論』の、、、

    『第一章 すべての純粋知性概念を発見する方法について』あたりを見ていこうと思います。

    中山先生の光文社古典新訳文庫では、第二巻のp47〜
    B92あたりです
返信/引用返信 削除キー/

■11338 / )  Re[19]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/07(Sun) 09:52:14)
    No11328に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ねえ、勿忘草さん
    >
    > あなたの言う「自力」の「自」ってなあに? 「自分」ってなあに?

    「自分」とは、様々な煩悩だけで出来ている煩悩に目と鼻がくっ付いている生き物のことだと思います。

    なので、自らへの計らいを捨てることが、出来ません。

    この煩悩をなくさないままで、煩悩の支配を離れた涅槃という境地にいたることができることが信心だと思います。

    「煩悩」というのは、私どもの身や心を煩わせ、悩ませる心のはたらきのことです。しかもそれは、自分自身が引き起こしている心の作用なのです。

    自分とは、煩悩がいつも心に付きまとっていて、絶えず支配していて、自分の思い通りにしようとしていること、それが実は煩悩であって、結局はそれが自分自身を苦しめ悩ませる原因になっていて、しかも、自らが引き起こしている煩悩によって、自分が苦しんでいることすら気づけないでいる、本当に無知だとしか言わざるを得ません。

    だからこそ、それを憐れんだ阿弥陀仏の本願によって往生すること、そのことが煩悩を滅する事が出来なくても、いや、煩悩を断ずることのできない、愚かで情けない自分であるからこそ、弥陀の「本願」により、救われるものであると仏祖から思うのです。


返信/引用返信 削除キー/

■11337 / )  Re[68]: 対談
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/07(Sun) 07:52:36)
    No11329に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ふと思ったんだけど

    > それぞれ異なる時空間のなかで生き、思考してしてきた人々。
    > その人たちが、いまここで対談しちゃうっていうの、おもしろいかも。

    同感です。ほんまそうやね。
    年齢、性別、職業などなど関係なく、時間(時差)や空間に隔絶されることがないコミュニティやと思います。

返信/引用返信 削除キー/

■11336 / )  お知らせ
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/07(Sun) 07:40:17)
    2021/03/07(Sun) 08:57:34 編集(投稿者)

    管理者権限により一部の投稿を削除しました。

    理由が必要であれば投稿者からその旨のレスがあれば返信しますが、ニーチェクラブはあくまでも個人のサイトであり、INFOにも「違法行為や法に抵触するようなカキコ、意味不明や商業目的のカキコなどは管理人の判断によって削除し、即アク禁にします。これについての抗議は一切受け付けません。また法に抵触さえしなければ許されるというぬるい感覚も嫌いです。」とある通り、今後も管理者の独断で削除します。

    PS.今回も全く悪意のない投稿でしたのでアクセス禁止設定にはしません。(これまでアク禁にした会員はいません)
返信/引用返信 削除キー/

■11335 / )  Re[50]: 日記
□投稿者/ pipit -(2021/03/06(Sat) 23:43:02)
    NHKで、倫理のドラマ始まったなー

    眠いけど、どうしようかなー
返信/引用返信 削除キー/

■11334 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2021/03/06(Sat) 23:40:47)
    眠い !

    記憶で書きます。
    前にカントの文章を読んでて、
    おもしろいなーと思ったのは、知覚による客体の規定、みたいな文章


    カント的には、思考、も、絡むね

    概念と概念の動き、判断、は、思考のビジネスだからね。
返信/引用返信 削除キー/

■11333 / )  Miles Davis with John Coltrane
□投稿者/ rest -(2021/03/06(Sat) 22:36:05)
返信/引用返信 削除キー/

■11332 / )  Re[18]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/06(Sat) 21:20:51)
    勿忘草さん こんばんは

    > 私たちはキリストを救い主として信じると、はじめは、とかく自分の力で、一生懸命に信仰に励み、努力しようとします。
    >
    > しかし、やがて信仰というものは、じつは自分の力でしているものではなく、三位一体の神が自分にたまわったもので、信仰できるように働きかけてくださっているのだ、ということがわかってきます。
    >
    > つまり、すべてはキリストの恵みであり、働きということがわかってきます。
    > 自分の力に頼むのではなく、キリストのお働きに身をゆだねることこそ大切なのだ、と思うようになるのです。
    >
    > では、そのように他力に身をゆだねた自分は、完全に消滅してしまい、自分の意志さえもなくなってしまうのかというと、実はそうではないことに、やがて気づき
    > そこに"新しい自分"を発見するようになります。
    >
    > 他力は自力となり、自力は他力となる。そこにはもはや自力も他力もありません。自他両力は一つとなっています。
    >
    > こうした渾然一体が信仰の究極の境地なのかなと思うのですが如何でしょうか。

    そうだと思います。

    プロテスタントには恵みだけということを過度に強調し、人間の行いやわざを全否定する立場もあるし、日本の浄土教にも他力一本に執着する人が少なくないですね。あまりも単純だと言わざるをえません。

    例えば、信仰によってドラッグ中毒から立ち直れた人は、以後何もせずに寝ているわけではありません。再びドラッグ中毒に舞い戻らないで、他の何かの行動はしているはずです。別にこれ見よがしの善行ではなくても、ドラッグを飲むのではないことは行動に現れているはずです。ドラッグはやめる必要はない、そのままでOKなんだという論理もあるかもしれませんが、それなら他力信仰さえ必要はないと思います。
返信/引用返信 削除キー/

■11330 / )  Re[21]: ワクチン
□投稿者/ 田秋 -(2021/03/06(Sat) 19:23:16)
    こんばんは、悪魔ちゃん

    悪魔ちゃん、自分のトピ持って以来、生き生きしてますな。哲学の勉強もしているようだし。

    ワクチン接種したら絶対新型コロナに罹らず人にも絶対感染させないことが疑いの余地がなく(えっ、そうなんですか?)、どんなに重い副反応が出ても絶対に死にはしないという保証があれば(えっ、本当ですか?)悪魔ちゃんはいいんだろうけどね。

    ワクチン接種を義務化しないのは責任を取る自信がないからでしょうね。

    悪魔ちゃんが病気か事故で緊急輸血が必要になって、だけど病床が空いてなくて輸血が出来ず、やっと空いている病院が見つかった時には手遅れだったということになったら問題なんじゃないかな。

    ボクは接種の案内が来たら受けます。でも今のところ分量が全然足りてないみたい。
返信/引用返信 削除キー/

■11329 / )  Re[67]: 対談
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/06(Sat) 18:53:24)
    ふと思ったんだけど

    それぞれ異なる時空間のなかで生き、思考してしてきた人々。
    その人たちが、いまここで対談しちゃうっていうの、おもしろいかも。
返信/引用返信 削除キー/

■11328 / )  Re[18]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/06(Sat) 18:32:07)
    ねえ、勿忘草さん

    あなたの言う「自力」の「自」ってなあに? 「自分」ってなあに?

返信/引用返信 削除キー/

■11327 / )  Re[20]: 理性
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/06(Sat) 18:26:51)
    No11270のところで、

    訳注で〔ドイツ語では「理性[Vernunft]」の語源は、「認知する[vernehmen]」である。〕ってある。

    ネットで調べて見たら、
    [vernehmen]は「聞く・聴取る・聴こえる・うけたまわる・・・」。[Vernunft]はいっぱいあったけど、「理・道理・理屈・ことわり・ふんべつ・ききわけ・・・」。
    日本語で「認識」は独語では[Anerkennung]で、この独語の日本語は「賛辞・認知・認定・容認・了承・・・」。

    あ〜、日本語いっぱいある〜。
    でもちょっと見方、変わったかも。で、ひとまず「認知」と「認識」は区別しておくことにしといた。

    No11270のところで、ちょっと気になったのが、
    【‥‥いっそう根源的に「真」であるのは、アイステーシス、すなわち感覚である。つまり、或るものを、端的に、感性的に認知することである…】っていうところ。

    で、訳注のように「認知する→理性」ってしたとき、上記のところは〈いっそう根源的に「真」であるのは、感覚である。つまり、或るものを、端的に、感性的に理性ことである〉ってなる。こうなると、〈感性における理性〉ということにもなるんだけど。

    No11101のアリストテレスの(A)のところに書いてあった
    【…その証拠としては感官知覚〔感覚〕への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえんにさえ愛好されているものだからである。…】を思い出す。

    古代ギリシアの話しだよ、今は違う。なに言ってるのバカじゃないの、って言われそうだけど、わたしこの見方本気で考えてる。

    「理性」、いまだ思案中。
    あ、わたしは合理主義じゃない、っていうことからね。

    なんか、違う方向に向かってる感じ。迷子になる前にひとまず「理性」から離れなくっちゃ。

返信/引用返信 削除キー/

■11326 / )  Re[17]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/06(Sat) 18:23:03)
    私たちはキリストを救い主として信じると、はじめは、とかく自分の力で、一生懸命に信仰に励み、努力しようとします。

    しかし、やがて信仰というものは、じつは自分の力でしているものではなく、三位一体の神が自分にたまわったもので、信仰できるように働きかけてくださっているのだ、ということがわかってきます。

    つまり、すべてはキリストの恵みであり、働きということがわかってきます。
    自分の力に頼むのではなく、キリストのお働きに身をゆだねることこそ大切なのだ、と思うようになるのです。

    では、そのように他力に身をゆだねた自分は、完全に消滅してしまい、自分の意志さえもなくなってしまうのかというと、実はそうではないことに、やがて気づき
    そこに"新しい自分"を発見するようになります。

    他力は自力となり、自力は他力となる。そこにはもはや自力も他力もありません。自他両力は一つとなっています。

    こうした渾然一体が信仰の究極の境地なのかなと思うのですが如何でしょうか。







返信/引用返信 削除キー/

■11325 / )  Re[20]: ワクチン
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/06(Sat) 18:22:30)
    お邪魔〜。

    ■11321、わたしもこのニュース聞いた。

    ワクチンを打てば、新型コロナウィルスに「感染しない」、「ほかの人に感染させない」っていうことが”疑いの余地のないもの”(デカルトね)、っていうんだったら、たとえ、一時的にアナフィラキシーショックをおこしたとしても、回復すれは、べつに死ななきゃいいんじゃないの?うん、優先順位でね。

    ウィルスが私の体内に入ってきても、それによって私の生活に支障がない程度のものだたら、何が問題なのかしら?新型コロナウィルスに感染すること、の何が問題なのかしら?

    誰かがはこう言ってる「病床数がめいっぱいになっちゃう」ことが問題なのだ、って。

    いったい、何が問題なのかしらね?




返信/引用返信 削除キー/

■11324 / )  Re[48]: 客観
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/06(Sat) 16:25:58)
    pipitさま、ありがとうございます。

    ■11316、論文読んでみました。

    わたし、カントの「第二類推」とか、ストローソンさんやエヴァンズさん知らないからよくわかんなかった。

    でもこれだけじゃわるいから。わたしに見えたのを少しだけ。

    カントの言う「経験(Erfahrung)」とは「知覚に基づいて行う認識活動」のこと。
    で、
    カントが述べてる、
    「したがって経験は諸知覚の総合であり、この綜合自身は知覚には含まれておらず、意識における知覚の多様の総合的統一を含んでいるのであり、この綜合的統一は感官の客観の意識、つまり(たんなる直観や感官の感覚ではない)経験の本質を構成する」(B218-9)
    の「経験」を「認識活動」に置き換えて見たらカントのなんとなくわかった感じ。

    わたしのばあい、「客観」ってどこにあるものなの?どこに置きましょうか?から始めたんだけど、カントの客観、わたしのと同じ場所にあるようで、じゃないないみたいなようで、っていう感じでした。
    わたしの「主・客」はWhatで。

    それにしてもpipitさまいろんな情報を知ってるのね、すご!

    またよろしくね。

返信/引用返信 削除キー/

■11323 / )  Re[47]: 客観
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/06(Sat) 15:28:28)
    悪魔ちゃん、レスありがとう!

    No11322に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■11318、パニさん、間違えちゃいました。ごめんなさい。

    > ニーチェじゃなくて、カントです。

    あっ、そうなんですね。了解しました。
    全然お詫びには及びません。^^

    > カントは「客観的に妥当」っていうことをだいじにしてるようにわたしには見える。
    > です。
    > ニーチェは、客観っていうの、あまり問題にしてないようにわたしも思います。
    > いまね、現象学とカントのとニーチェのとを行ったり来たりしながら考えてて、ごちゃごちゃになってるのかも。
    > ありがとございます。

    どういたしまして。
    私もあらためて調べてみるきっかけになりました。
返信/引用返信 削除キー/

■11322 / )  Re[46]: 客観
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/06(Sat) 13:17:50)
    ■11318、パニさん、間違えちゃいました。ごめんなさい。

    ニーチェじゃなくて、カントです。

    カントは「客観的に妥当」っていうことをだいじにしてるようにわたしには見える。

    です。

    ニーチェは、客観っていうの、あまり問題にしてないようにわたしも思います。

    いまね、現象学とカントのとニーチェのとを行ったり来たりしながら考えてて、ごちゃごちゃになってるのかも。

    ありがとございます。


返信/引用返信 削除キー/

■11321 / )  ワクチン
□投稿者/ 田秋 -(2021/03/06(Sat) 09:26:54)
    floraさん

    米製薬大手ファイザー社製の新型コロナワクチンの接種を受けた30代女性が、重いアレルギー反応の「アナフィラキシー」を起こしたそうです。こわいですね。


返信/引用返信 削除キー/

■11320 / )  客観について
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/06(Sat) 09:19:42)
    ニーチェが客観について語っているアフォリズムは少ない。
    むしろ誤謬や虚偽、虚構性や混沌を肯定的な意味で題材にしていることが多い。


    『われわれが全知的世界を刺戟と感覚にまで還元してゆくならば、この貧弱極まる知覚は、およそ何らかの説明作用をもたらしてくれないであろう。認識者がなければ認識は存在しないとか、客観がなければ主観は存在しないとか、主観がなければ客観は存在しないとか、という命題は、全く真理ではあるが、この上なく陳腐なことである。

    われわれは、物自体については何事も言表することができないのである。何故なら、そのときには認識者すなわち測定者の立場を、われわれは足下から取り去ってしまっているからである。性質というものは、われわれにとって、つまり、われわれに即して測られることによって、現に存在するのである。尺度を取り去るならば、そのときには何がなお性質であり得よう!事物が何であるかということは、しかしてただ、そのかたわらに捉えられた測定する主観によって、証明されるべきことである。事物の諸性質自体などということは、われわれには何の関係もないのである。ただし諸性質がわれわれに影響を及ぼす限りでは、関係がある。(ニーチェ初期遺稿、ちくま学芸文庫ニーチェ選集第3巻「哲学者の書 1872年秋および冬から 「最後の哲学者」「哲学者。芸術と認識との闘争に関する諸考察」」より)』


    『しかしそもそも私には、「正しい知覚」という如きことは、──これはすなわち、客観が主観のうちで適正に表現されるということにほかならぬのであろうが、このようなことは──、矛盾に充ちた不可能なことに思われるのである。(ニーチェ初期遺稿、ちくま学芸文庫ニーチェ選集第3巻「哲学者の書 1873年夏から 道徳外の意味における真理と虚偽について」より)』


    『この本(1886年)はすべての本質的な点において近代性の批判である。近代科学、近代芸術、いや近代政治さえも除外されていない。と同時にこの本は、可能なかぎり最も近代的ならざる一つの反対典型(タイプ)、高貴な、然り(ヤー)を言う典型を示唆しようとするものである。この後者の意味においてはこの本は一つの貴公子の学校である。ただし、この貴公子という概念を史上最高に精神的かつラディカルに解していただきたい。この概念に耐えるだけのためにも身によほどの勇気がいる。恐れるなどということを習い知ったらもうだめだ…時代が誇りとしているすべてのものが、この典型に対する矛盾と感じられ、無作法とさえ思われる。たとえばあの有名な「客観性」がそうだ。「すべての悩める者への同情」などというのもそうだし、他人の趣味への屈従、顛末事への平伏がつきものであるあの「歴史的感覚」とか、例の「科学性」などもそうだ。(「この人を見よ 自伝集 善悪の彼岸2」より)』


    ニーチェにとって認識そのものが誤謬まみれで、ある種の錯誤でしかないため、客観性などというものはニーチェ哲学においては俎上にも載らないキワモノでしかない。逆説的に言えば誤謬をともなった認識こそが創造性の原動力でもあり、認識対象に如何様にも意味や価値を付与しうる創造者(人間)としての特権的能力であるということ。

返信/引用返信 削除キー/

■11319 / )  96年ヨーロッパツアーの続き
□投稿者/ 田秋 -(2021/03/06(Sat) 08:21:23)
    おはようございます、floraさん

    体調、如何ですか?

    暫く放置していた96年のヨーロッパツアーの続きです。ウィリヘルムスハーフェンの後フランクフルトでしたが、この辺りからウィーンに着くまでの記憶がありません。写真も残っていません。

    ウィーンでは恒例のお墓詣りをしてきました。ウィーンに行くと必ず墓参しているようで、墓石の前に立つとそれぞれの作曲家を何となく身近に感じます。写真はベートーベンのお墓とどこにでもありそうな小径はベートーベンの散歩道と呼ばれているところです。傍に小川がありこれが6番のシンフォニー2楽章の小川かな?と思ったりします(多分違うでしょうが)。

    ウィーンの後は最後の公演地プラハです。写真の河はモルダウで、掛かっている橋がカレル橋です。前にも書いたかもしれませんがカレルとはチャールズのことなんですね。なんとか広場にあるからくり時計はよく出来ています。色んなところでからくり時計をみましたが、ここが1番かもしれません。

    チェコはボヘミアングラスが有名です。日本酒用のさかづきなんかも売っていています。この時は少しアルコール度数の高いリキュール用の小さめのグラスを買いました(最近発泡酒しか飲んでいないので全然使ってない(T_T)。。。)。

    プラハはこの旅行が初めてでした。昔の香りがするいい街でした。特にカレル橋付近はひょっとするとブダペストのドナウ川辺りよりいいかもしれません。あれから25年経っているので大分変っているんでしょうね。

499×600

2010029767.jpg
/106KB
返信/引用返信 削除キー/

■11318 / )  客観
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/06(Sat) 07:48:42)
    横レス御免!

    No11296に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > ニーチェって、「客観的に妥当」っていうことをだいじにしてるようにわたしには見えるんだけど、カントはどういう意味で「客観」っていう語をつかってるのかしら?

    ニーチェのアフォリズムで客観について語ってるのは少ないし、客観性をさほど重視したり問題にしてないように思うんだけど、悪魔ちゃんがニーチェは『客観的に妥当』っていうことをだいじにしてるように見えるのはどういうところからかを教えてもらえれば有難いです。

    議論を前提とした質問ではなく、単なる興味本位からだからスルーでもいいけどね。
返信/引用返信 削除キー/

■11317 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2021/03/06(Sat) 00:26:43)
    客観の元要素となる客体

    物自体としての客体、と、現象としての客体、の二種を考えられるとしたら

    現象としての客体、が、人間にとって客観に妥当するものであり、
    物自体としての客体を考えているとき、それは主観的なものになってしまう、

    みたいな感じが『純粋理性批判』の構図かな?と予想しました。

    予想が違ったり、予想が当たっててもどんでん返しとかあったり、』実践理性批判』では違う論理が登場したり、とかありそうですけどね。

    まあ、いいかげんな日記ということで。おつかれさまです、おやすみなさーい

返信/引用返信 削除キー/

■11316 / )  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 22:51:42)
    こんばんは〜

    No11296に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >真偽や賛否はともかく、カントの言いたかったこと<
    > っていうところがpipitさまにあるからわたしここにきやすいのかも。<
    > pipitさま、お邪魔しま〜す。<

    悪魔ちゃんと話すのはとてもおもしろいよ、いつもありがとう。
    この前も、新鮮な発想で面白かったな〜
    相手が自分に自らを示してるなんて発想、教えてくれてありがとう!


    > ニーチェって、「客観的に妥当」っていうことをだいじにしてるようにわたしには見えるんだけど、<

    そういう印象は、わたしはないけどなぁ(^◇^;)
    実は、みたいな?
    実はそうやった、なら、おもしろいけど


    >カントはどういう意味で「客観」っていう語をつかってるのかしら?
    >
    > いつも聞いてばっかでごめんね。
    > 気が向いたときでいいよ。<

    いつも楽しいし、勉強にならなかった覚えがないから、こちらこそ気にしないでね。

    ただ、、、悪魔ちゃんは難しいところ聞くんだよ〜

    ごめん、カントの、はまだ勉強中で正確にはわからないんだけど、
    今の私としては、客観とは『主観抜きを仮定して描かれる象』かなぁ。難しい。

    岩井拓朗 さんと言う方の
    『客観的世界を経験するとはどういうことか ―『純粋理性批判』第二類推についての考察―』
    という論文があるんだけど、

    //philosophy-japan.org/wpdata/wp-content/uploads/2016/05/b0c506bdaa5854a7f66c074cbfee5018.pdf

    はじめに、で、
    『『純粋理性批判(以下『批判』)』でカントは私たちが知覚に基づいて行う認識活動を「経験(Erfahrung)」と 呼び、それが客観性に関与することを強調する1 。そして彼はそうした経験の成立条件を考察している。では カントはこうした考察によって何を明らかにしようとしているのか。
    P・F・ストローソンはカントの狙いが、客観的世界についての経験という考えが成立するための条件を明 らかにすることだと指摘した2 。例えば私たちは知覚を通じて、犬が移動したことや、部屋に本棚が複数ある ことなど世界に関して様々なことを知ることがある。その際に私たちは、自分達の知覚とは独立に存在し得る 事態を目の当たりにしたと考えるだろう。例えば自分たちが見ていなくても犬は移動したと考えるのであり、 私たちは自分達が客観的なものを経験したと考えるのである。カントはこうした理解の成立条件を考察してい るというのがストローソンの指摘である。』
    という岩井さんの文章が載ってるんだけど、

    それから、もう少し後に、
    『主体は客観的な世界を経験することにおいて、単に世界に対応した何 らかの表象を手にしているだけでなく、そうした表象が客観的なもの、つまり自分が知覚しなくても存在した であろうようなものに関わっていることの理解に到達する。』
    とかも、今のわたしの客観のイメージと似てる感じがしてます。

    あとは、共有の可能性を備え持つもの、かなあ、客観のイメージ

    ちゃんとわからなくてごめん!
    機会があったら、客観を意識してカントの文章を読んでみるね
    おやすみ〜(^ ^)☆彡
返信/引用返信 削除キー/

■11299 / )  Re[19]: 言葉の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/05(Fri) 19:29:14)
    フッサールは、〔意味を通じて世界と関わる〕(FD訳注)って言ってる見たい。なんかわたしもそんなんかな〜っていう気がしてる。わたしのこのごろのお喋りは、言葉の意味をどうしておきましょうか、っていうことになってる感じ。ん〜ん、ってすると「意味」っていう語の意味も問題になるんだけど、後で考えて見ることにする。なんか問いが山積みになってく〜。

    わたし「命題」を「判断を言葉にして表したもの」ってしてるんだけど、これって判断と言葉の関係で命題を“言い表して”るって見ることもできる。また、「概念は言葉として表されその意味となる」ってしてるんだけど、これって概念と言葉と意味との関係を“言い表して”るって見ることもできる。
    「定義」っていうの「物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること」だったり、「根拠」っていうのも〈その判断の根拠を示す〉とか言っちゃりして。

    こんな感じで、判断、定義、根拠、概念、言葉、命題、などは〈表現すること〉(見えるようにさせること)ということによってまとめてよさそう(概念については後でまた考えて見るつもりだけど)。ひとまずね。

    でも、理性、論理、理法、はどうなのかしら。ぜんぶに「理」が入ってるから、わたしひとまず「理性」っていうのどうしておきましょうか、っていうとかな。

返信/引用返信 削除キー/

■11298 / )  Re[16]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/05(Fri) 19:26:39)
    knowing itselfさん こんばんは
    早速のお返事ありがとうございます。

    > 仏教における人生苦からの解放は、貪瞋痴から解放されない限り、ありえないと考えています。自力か他力かは、貪瞋痴から解放される上でどちらが効果的かによるのではないでしょうか。自力か他力かに分けても意味はないのではとも思います。要は、ターゲットは、貪瞋痴ですから。

    へえーっ、knowing itselfさんは、仏教にも造詣が深いのですね。
    私は、まだまだなので、これからも、いろいろ教えて頂ければと思います。
返信/引用返信 削除キー/

■11297 / )  Re[15]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/05(Fri) 19:12:20)
    勿忘草さん こんばんは

    仏教における人生苦からの解放は、貪瞋痴から解放されない限り、ありえないと考えています。自力か他力かは、貪瞋痴から解放される上でどちらが効果的かによるのではないでしょうか。自力か他力かに分けても意味はないのではとも思います。要は、ターゲットは、貪瞋痴ですから。
返信/引用返信 削除キー/

■11296 / )  Re[44]: コトバ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/05(Fri) 18:46:07)
    >真偽や賛否はともかく、カントの言いたかったこと<
    っていうところがpipitさまにあるからわたしここにきやすいのかも。

    pipitさま、お邪魔しま〜す。

    ニーチェって、「客観的に妥当」っていうことをだいじにしてるようにわたしには見えるんだけど、カントはどういう意味で「客観」っていう語をつかってるのかしら?

    いつも聞いてばっかでごめんね。
    気が向いたときでいいよ。


返信/引用返信 削除キー/

■11295 / )  Re[18]: 「ロゴス」っていう語の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/05(Fri) 18:29:47)
    「ロゴス」なんだけどー

    わたしの参考書での「ロゴス」は、
    〔言葉・定義・命題・論理・理法・理性などをあらわすギリシア語。承認された事実に基づくミュトス(神話)が確かめられないのに対して、ロゴス(理性)は事物を論理によって考え、真理を論証する。古代ギリシア人は、世界はカオス(混沌)ではなく、法則が支配する秩序あるコスモス(宇宙・調和)と考えた。世界を支配する法則であるロゴスを、人間にそなわる内なるロゴス(理性)によって把握し、世界を統一的・合理的に理解しようとする営みから哲学が生まれた。〕(E-1)
    ってあります。

    ハイデガーが言ってるように「ロゴス」という語は、理性、判断、概念、定義、根拠、関係とか、上記の参考書のように、言葉、命題、論理、理法などといろいろに翻訳されてる見たい。
    わたしよくわかんなかったんだけど、ハイデガーの見方でわたしにわかりやすくなった感じ。

    「ロゴス」を〈見えるようにさせること〉とすることによって、上記のようないろいろな語は〈これ〉によってまとめられる気がする。

    で、もうちょっとわたしにわかりやすくして見た。
    わたしのばあい、「ロゴス」を〈見えるようにさせること〉として、〈表現すること〉、〈表現した(された)もの〉ってしてすることにして見た。

    わたしふだん「ロゴス」なんって言葉使わない。わたしにとって関係するのは、「語ること」あるいは「表現すること」「表現した(された)もの」。そしてこのようなことを〈見えるようにさせること〉として見ること、ということだけでいい。メルポンは、「見えるものと見えないもの」っていう見方をしてるし。

    つぎにわたしにとって問題となってくるのが、ロゴスから派生した翻訳語としての、理性、判断、概念、定義、根拠、関係、言葉、命題、論理、理法の意味をどうして置きましょうか、っていうこと。

返信/引用返信 削除キー/

■11294 / )  コトバ
□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 18:20:52)
    まあ、勝手に思うことですが、

    カントの、単語の選び方などの言語センス?はかなり独特で

    本人はそのつもりないんだろうけど、周りには伝わりにくいんじゃないかなーと思いました。

    多分、カント本人は、めっちゃ伝えたいと思ってるとは思うんだけど。。。

    と妄想してみました。

返信/引用返信 削除キー/

■11293 / )  論理学は分析論と弁証論に区分される
□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 18:03:26)
    B87あたりの英訳です。
    中山先生本では2巻のp37
    『第四節 超越論的な論理学は超越論的な分析論と弁証論に区分される』の箇所です。
    分析論(真理の論理学)に@、弁証論(仮象の論理学)にAの記号を挿入しておきます。

    IV. Of the Division of Transcendental Logic into Transcendental Analytic and Dialectic.

    (略)

    @That part of transcendental logic, then, which treats of the elements of pure cognition of the understanding,
    and of the principles without which no object at all can be thought,
    is transcendental analytic, and at the same time a logic of truth.

    (略)

    @→ANow, as it ought properly to be only a canon for judging of the empirical use of the understanding,
    this kind of logic is misused when we seek to employ it as an organon of the universal and unlimited exercise of the
    tanding,
    and attempt with the pure understanding alone to judge synthetically,
    affirm, and determine respecting objects in general.
    In this case the exercise of the pure understanding becomes dialectical.

    AThe second part of our transcendental logic must therefore be a critique of dialectical illusion,
    and this critique we shall term transcendental dialectic(略) as a critique of understanding and reason in regard to their hyperphysical use.

    This critique will expose the groundless nature of the pretensions of these two faculties,
    and invalidate their claims to the discovery and enlargement of our cognitions merely by means of transcendental principles,
    and show that the proper employment of these faculties is to test the judgements made by the pure understanding,
    and to guard it from sophistical delusion.



    最後らへんの、two faculties は、悟性(知性)と理性のことを指してると思っています。
    中山先生は、『知性と理性』と訳されています。
返信/引用返信 削除キー/

■11292 / )  Re[41]: 試金石
□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 17:03:22)
    前に本文や、解説読んでても、

    基準(カノン)であって、道具(オルガノン)ではない、などの文章の意味がわからなかったんですけど、
    真偽や賛否はともかく、カントの言いたかったことがようやく私の中で輪郭持ち始めた感じです(^^;;
返信/引用返信 削除キー/

■11291 / )  試金石
□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 16:59:01)
    カントの純粋理性批判には、時々『試金石』という単語が登場します。

    今の段階での私見書きます。

    論理学を、@分析論とA弁証論に分けて論述して、

    @【分析論では、(客観に妥当するという意味での)認識の資格を備えてるか否かを見分けるための『試金石』を見出すことを目的とする。
    この『試金石』は、用途とすれば、《基準》ということ。そのことから、分析論は『真理(認識と対象の一致)の論理学』とも言える。】

    A【本来《基準》である『試金石』を、《道具》として誤用するもの(に対しての批判をも含め)を、カントは弁証論と名づける。カント的弁証論は『仮象(まやかし、認識と対象の不一致)の論理学』と言える。】

    ここらへんの記述の英訳を後でコピペします。

    『試金石』をwikiで調べました。参考に抜粋引用します。

    『試金石(しきんせき)とは、金の品質を計るために用いられる主に黒色の石英質の鉱石の別称。一般的には、緻密な粘板岩であり碁石などの材料として用いられる那智黒石を指す[1]。

    使用方法

    試験標本と、金品位が既知である手札金・手本金と呼ばれる金純度が異なる指標となる金の棒を数本石の上にこすり線を描き、その色を比較する。金自体は、王水と呼ばれる硝酸と塩酸の混合物でのみ常温で溶解し、単独の酸には溶解しない。その一方銀や銅といった他の不純物は濃硝酸でも溶ける。この違いを利用して、金の純度をはかる。さらに詳細に測る場合は微量の濃硝酸で条痕を洗い、残り具合を見て判断することもある。

    熟練者であれば%(パーセント)オーダーの品位を鑑定することが可能であり、実際に江戸時代の金座で鑑定を担当した役方(やくがた)による鑑定品位は、現在の近代的化学分析による分析値とほとんど一致している[2]。

    前述のような特徴から簡便に検査が行えるため、現在においても簡易試験用に用いられることがある。』


返信/引用返信 削除キー/

■11290 / )  Re[17]: ああ、勘違い
□投稿者/ 田秋 -(2021/03/05(Fri) 06:05:23)
    昨今、官僚と事業者との間での接待が問題になっています。

    根本的に公務員についての勘違いがあるのだと思います。公務員というものは元々日本にはなく、英語のpuclic servantの和訳です。

    servantですからね(slaveではありません)、ご主人さまはpublicです。このことをpublicもservantも忘れているのだと思います。多分、許認可制度が勘違いさせる要因の一つです。

    事業者が純粋の一般市民とは言えないのかもしれませんが、基本、publicがservantを接待するのはおかしなことです。

    公務員には倫理法令がありますが、当然一般市民も倫理観は持つべきです。倫理については一応学校でも教えられますが、挫けない倫理観というものは色々な人生経験を通さないとなかなか身に付かないような気がします(人生経験を通して倫理観が麻痺してしまう輩もいますが)。

返信/引用返信 削除キー/

■11289 / )  Re[29]: 超越論的論理学!知性の働き
□投稿者/ pipit -(2021/03/04(Thu) 23:58:17)
    カント的知性の復習

    No11121に返信(pipitさんの記事)
    > まずは、一般論理学と超越論的論理学の区別を、自分の中ではっきりと理解したいのですが、そもそも、論理学って?で、カントの定義としては、
    > 『論理学は知性一般の規則の学である。』中山先生訳『純粋理性批判2』p20より引用
    > とありました。
    >
    > ではでは、カントにとっての知性って、なにもの?から読書をはじめてみます。
    >
    > (カントの文章)中山元先生訳。中山先生による補注[]は省略してみます。
    >
    > B93あたり。『純粋理性批判2』p50〜
    > 『すべての直観は、感覚的なものであって、触発によって生まれるが、
    > 概念は機能(フンクツィオン)によって生まれる。
    > わたしがこの〈機能〉という語で意味しているものは、心に思い描かれたさまざまな像を一つの共通の像のもとに秩序づける行為の統一的な作用のことである。
    > だから、感覚的な直観作用が印象の受容性に根拠づけられているように、概念の営みは、思考の自発性に根拠づけられているのである。
    > 知性はこれらの概念を、ただ判断するために使用することができる。
    > ところで直観を除くと、心に思い描かれたいかなる像も、対象に直接かかわるものではない。
    > これと同じように概念もまた、対象と直接にかかわることはない。
    > 概念が直接に関係するのは、対象についての像であり、これは対象とは異なるものである。
    > だから判断とは、対象についての間接的な認識であり、対象の像についての像なのである。
    > (略)
    > このようにすべての判断は、わたしたちのさまざまな像を統一する働きをする。
    > まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に、その像とそのほかのさまざまな像を含む高次の像があり、これが対象を認識するために利用される。この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。
    >  ところでわたしたちは、知性のすべての振舞いを結局のところは判断とみなすことができる。
    > だから知性とはそもそも判断を下す能力と考えることができる。
    > すでに述べたように知性とは、思考する能力だからである。
    > 思考とは、概念によって認識する行為である。
    > (略)』

    おやすみなさーい (^^) ☆彡
返信/引用返信 削除キー/

■11288 / )  Re[39]: 構成
□投稿者/ pipit -(2021/03/04(Thu) 23:45:19)
    No11287に返信(pipitさんの記事)
    > 超越論的な原理論は、超越論的な感性論と超越論的な論理学に分別される。
    >
    > 超越論的な論理学は、分析論と弁証論に分別される。
    >
    > 分析論は、概念の分析論と、原則の分析論に分別される。<

    んーなるほど。

    カントにとっては、一般論理学を
    >General logic, then, resolves the whole formal business of understanding and reason into its elements, and exhibits them as principles of all logical judging of our cognitions. <
    知性の動き方の形式を各要素に分解分析した学ととらえたように、

    対象に人間がアプリオリに関わる領域での、内容を切り捨てない、知性の機能の形式の分解分析が、超越論的論理学の中の『分析論』で、その中でのカテゴリー(純粋悟性概念)の〈発見〉とその提示が、『概念の分析論』ということかなと思いました。

    『概念の分析論』と名付けてるけど、何かの概念を分析するということではなく、知性という能力そのものを分析することを目指す、とありますね。
    B91あたり。

    By the term Analytic of Conceptions, (略)I mean (略)dissection of the faculty of understanding itself, (略)We shall therefore follow up the pure conceptions even to their germs and beginnings in the human understanding, in which they lie, until they are developed on occasions presented by experience, (略)

    知性の機能に内蔵されている?概念たちを分別してみるんだね。

    変な略し方してるかもなので、略なしバージョンもコピペします。
    B91あたり?

    By the term Analytic of Conceptions, I do not understand the analysis of these, or the usual process in philosophical investigations of dissecting the conceptions which present themselves, according to their content, and so making them clear; but I mean the hitherto little attempted dissection of the faculty of understanding itself, in order to investigate the possibility of conceptions a priori, by looking for them in the understanding alone, as their birthplace, and analysing the pure use of this faculty. For this is the proper duty of a transcendental philosophy; what remains is the logical treatment of the conceptions in philosophy in general. We shall therefore follow up the pure conceptions even to their germs and beginnings in the human understanding, in which they lie, until they are developed on occasions presented by experience, and, freed by the same understanding from the empirical conditions attaching to them, are set forth in their unalloyed purity.

返信/引用返信 削除キー/

■11287 / )  構成
□投稿者/ pipit -(2021/03/04(Thu) 23:03:26)
    超越論的な原理論は、超越論的な感性論と超越論的な論理学に分別される。

    超越論的な論理学は、分析論と弁証論に分別される。

    分析論は、概念の分析論と、原則の分析論に分別される。


返信/引用返信 削除キー/

■11286 / )  仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/04(Thu) 20:22:03)
    「自力」というのは、自らの力によって仏に成ることを目指す道です。

    まずは苦にあえぐ衆生を救くうべく仏と成りたいという菩提心を起こし、
    どのような仏と成ることを目指すのかという「願(がん)」をたて、
    その「願」の通りに成ることを誓います。

    そして「行(ぎょう)」を重ねることで、その願いを完成・成就させることによって、仏と成るに至るのです。

    「行」というのは、八正道や六波羅蜜を基本に様々なものがありますが、心を正し、行いを正していくことと言えば良いでしょうか。

    「仏教」と言えば、やはりこの「行」を修めていくということが一般的です。
    しかしこの「自力」道は、修行は、大変に厳しいものです。

    どんな修行でも自らがすべての煩悩から離れたさとりの境地に到るまで、途中で終わってしまっては、目的達成にはなりません。

    なので、誰にでもできる道ではなく、一握りの勝れた人だけしか「仏と成る」という悟りのゴールに辿り着くことが出来ないのです。

    仏教が目指すのは、苦悩の中にある生命を救うことこそが、一番の目的となります。でも勝れた人しか悟りという境地に辿りつけないのでは、それはいつまでたっても達成されません。

    仏と成るためには、仏になって苦にあえぐ人を救いたいという菩提心と「願」、そしてその願を成就させるための修行が不可欠です。

    しかしごく一般の人たちが、菩提心を起こし、「願」をたて、「行」を修めるということは、そもそもでき得ることではありません。

    このため、それを見通した「阿弥陀仏」が、自分の力で「願」を起こすことも、「行」を修めることもできない人こそ救うというものです。

    それは、阿弥陀仏が私に変わって「願」と「行」を完成させ、それを「南無阿弥陀仏」という言葉に込めて私に届けるという方法です。

    ですから、私はただその「南無阿弥陀仏」という言葉をいただく、つまり念仏していくことによって、死後に阿弥陀仏の浄土に往生し、修行を完成させて仏と成ることが約束されるのです。

    仏教とは、苦の根源である「私」から離れるための教えでありました。

    それを「自力」ではなく「他力」の阿弥陀仏のはたらき、南無阿弥陀仏という念仏に出会うことによって、自分の力ではできないことも最終的には自らの「はからい」から離れることを実現する教えなのかもしれません。
返信/引用返信 削除キー/

■11285 / )  Re[6]: 道志村事件
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/04(Thu) 20:15:31)
    あ、思い出した。そうね、のらねこさん。
    その後に報道されてるのあるの?わたしあまりそういの見てないんだけど。こういうのって、ごめんなのかも。

    そうね、
    >小倉美咲ちゃんは、今、どこにいるんでしょう<
    そのとおりだとわたしも思う。

返信/引用返信 削除キー/

■11284 / )  Re[17]: What do you want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/04(Thu) 19:58:40)
    ねえ、ちょっとわたし思うんだけど、ここで、ロゴス、してるんじゃなかしらって。
    あ、ここだけじゃなくても。たとえば国会での“言い合い”のなかでもね。

    ん?違う?自分の、思ってることを、信念を、真正と思ってることを、判断を、見えを、見方を、”表現してる”?ん?自分の主張に賛同する人、共感する人を、求めてる?ん?それとも、いろんな人の見方、思・考を見て見たい?

    でも結局、What do you(I) want to do?っていうことなんじゃないかしら?


返信/引用返信 削除キー/

■11282 / )  Re[13]: うれしいひな祭り
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/04(Thu) 19:23:50)
    knowing itselfさんこんばんは

    > 自力の修業はともかく、他力を受けいれるためには、意志を研ぎ澄ましていなければならないともいえ、けっしてラクで抵抗のない道ではないと思います。むしろ、逆説的に緊張や決断が要求されるともいえるのでないでしょうか。見方によっては、人間は自力の惰性に陥る方が多いともいえます。

    確かに他力だから楽とは言えないかもしれませんね。

    一瞬一瞬の実存的な決断が求められるというのは、そうかもしれません。

    日々、安易に流されることなく、神仏の真の慈愛を素直に受け入れられるよう
    自己を磨いていきたいものです。
返信/引用返信 削除キー/

■11281 / )  Re[16]: What do I want to
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/04(Thu) 19:18:13)
    ハイデガーは、古代ギリシャに遡り、そこにおいて、そこから見ている。
    「現象」「ロゴス」「現象学」、わたしにまとめて見ると、

    ハイデガーにおいては、

    「現象」phenomenon
    〈おのれを示す当のもの〉

    「ロゴス」logos
    〈見えるようにさせること〉 〈語ること〉

    「現象学」Phenomenologie
    〈おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見える世にさせること。〉

    として、わたし取り入れることにしたの

返信/引用返信 削除キー/

■11280 / )  Re[12]: うれしいひな祭り
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/04(Thu) 19:15:44)
    勿忘草さん こんばんは

    > 仏教って、なんて因果応報の緻密なロジックなのかと改めて思いました。
    >
    > 対するキリスト教は、やはり、三位一体の慈愛に満ちたある種エネルギーのようなものかなと思います。
    >
    > イエス様の十字架による贖罪によって、このように日々生かされている事の幸せ。
    >
    > 大変、有難いと感じています。
    >
    > どのみち、自力での修業は、自分は無理だと思うので、神仏の他力に頼んで
    > 生きていきたいと思います。

    自力の修業はともかく、他力を受けいれるためには、意志を研ぎ澄ましていなければならないともいえ、けっしてラクで抵抗のない道ではないと思います。むしろ、逆説的に緊張や決断が要求されるともいえるのでないでしょうか。見方によっては、人間は自力の惰性に陥る方が多いともいえます。


返信/引用返信 削除キー/

■11279 / )  John Coltrane,Stan Gets
□投稿者/ rest -(2021/03/03(Wed) 21:34:39)
返信/引用返信 削除キー/

■11278 / )  うれしいひな祭り
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/03(Wed) 20:07:58)
    knowing itselfさんこんばんは。

    今日は、ひな祭りです。
    でも、もう直ぐおしまいです。
    ホントに世は無常ですね。

    https://www.youtube.com/watch?v=hFxXuWYcqNY

    長らく阿弥陀様の本願について書き込みしてきましたが、
    仏教って、なんて因果応報の緻密なロジックなのかと改めて思いました。

    対するキリスト教は、やはり、三位一体の慈愛に満ちたある種エネルギーのようなものかなと思います。

    イエス様の十字架による贖罪によって、このように日々生かされている事の幸せ。

    大変、有難いと感じています。

    どのみち、自力での修業は、自分は無理だと思うので、神仏の他力に頼んで
    生きていきたいと思います。




返信/引用返信 削除キー/

■11277 / )  仮定の話はしない
□投稿者/ 田秋 -(2021/03/03(Wed) 08:46:50)
    国会等の答弁者がしばしば口にするフレーズの一つに「仮定の話はしない」というのがあります。これは質問者の矛先をかわすための常套句ですが、この人たち、健康保険や自動車保険に入っていないんですかね。

    今までは質問をかわす手段だと思っていましたが、実は本当に仮定の話はしていないのかもと心配になってきました。平時において、有事については「仮定の話はしない」なのかも。

    一度も飛行実験をしていない飛行機が就航しました。
    記者:「一度も飛ばしていない飛行機、本当に大丈夫なんですか?事故が起こったらどうするんですか?」
    社長:「仮定の話はしない」
返信/引用返信 削除キー/

■11276 / )  Re[15]: ワクチン接種
□投稿者/ 田秋 -(2021/03/03(Wed) 06:38:45)
    おはようございます、floraさん

    体調、如何ですか?

    ファイザー社のワクチンを接種した60代の医療従事者の女性が死亡したというニュースがありました。死因はくも膜下出血と推定され、ワクチンとくも膜下出血の因果関係は不明とあります(ニュースでは「評価できない」と言ってました)。

    冷凍庫が故障し1000回分余りが使えなくなるという事故がありました。また、注射器の構造が原因で本来6回打てるところ5回しか取れないという問題も起こっています。

    4月からの高齢者接種は分量が少なすぎて、各自治体はどのように分配するか頭を悩まされそうです。因みに東京都は高齢者全体の0.7%の分量しかないそうです。ボクが住んでいいるような小さい町など配布先名簿から抹殺されているのかも・・・

    この点に関しては国会でも質疑がありましたが、分量の少なさについては「一度に全員に接種することは不可能」と担当大臣は答弁していました。少なさの度合いを無視した答弁だと思いました。

返信/引用返信 削除キー/

■11275 / )  Re[52]: エネルギー単位への疑問
□投稿者/ rest -(2021/03/02(Tue) 23:06:46)
    2021/03/03(Wed) 20:01:37 編集(投稿者)
    No11266に返信(restさんの記事)
    > 2021/02/28(Sun) 22:48:30 編集(投稿者)
    >
    >   E=mc^2に基づいて1kgの質量をエネルギー換算すると、
    >
    >   E=1000g×(3×10^8)^2.(m/s)^2
    >
    > E=10N×9×10^16m×m/s^2
    >
    > E=(90×10^16)J×m/s^2
    >
    > Jはジュールで仕事を意味し、エネルギーとなるが、しかしこの式では
    > m/s^2の別の単位が続くので全体としての単位はエネルギーの単位とはいえない。
    > したがってE=mc^2は単位の面で成立しえない。

    追記。運動エネルギーの公式 K=1/2mv^2によればKはJ(ジュール)で表示され、mはKg表示され、vは速度m/sで表示される。これによるとE=mc^2は右辺は同じ単位の表示であるから、1Kgの質量はE=1Kg×(3×10^8m/s)^2 =9×10^16Jとなる。標準的な定義だが、厳密に仕事の定義から求めた上述の計算結果との誤差は何を意味するのだろうか。100g=1N(ニュートン)より1Kgは10Nとなるのでこれを仕事の定義つまり仕事(J)=力の大きさ(N)×力の向きに動いた距離(m)を使って上式に代入すると単位上誤差が生じる。J(ジュール)の定義に一貫性がないということかもしれない。
返信/引用返信 削除キー/

■11274 / )  Re[13]: 三位一体とイエス
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/02(Tue) 20:45:28)
    正信偈の意味・内容をわかりやすく解説したサイトがありましたので上げておきます。やはり、仏教なので縁起の因果、つまり空に基づいた知恵なのだと改めて感じました。

    https://www.youtube.com/watch?v=5t7167tKnRQ
返信/引用返信 削除キー/

■11273 / )  Re[12]: 三位一体とイエス
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/02(Tue) 20:30:32)
    knowing itselfさんこんばんは。
    励ましのメッセージありがとうございます。

    > ■No11268に返信(勿忘草さんの記事)
    >>ちなみに、私は、イエス様の贖罪の救いも信じますが、実は、毎日、自然と「南無阿弥陀仏」と唱えているのです。
    >>
    >>すると身体全体が温かく自律神経が休まる気がするので、自然に唱えてしまいます。
    >
    > いい習慣だと思います。意味内容はもちろんですが、音自体にも秘密があるのでしょうか。南無妙法蓮華経も音自体にパワーがありますね。

    確かに、音の効果は、あると思います。
    実は、南無妙法蓮華経でも試してみたのですが、南無阿弥陀仏ほどには、身体の暖かさを感じることが出来なくて、結局、今夜も南無阿弥陀仏になってしまうんです。

    『阿弥陀仏の本願』についてのサイトがありましたので上げておきます。

    https://xn--udsw7h21snjj.jp/jodohongan.html#section3

    さて、お釈迦様は、なぜ、この世にお生まれになったのでしょうか。
    親鸞聖人は「正信偈」の中で、

     如来所以興出世
     唯説弥陀本願海

    と、おっしゃられています。
    これは、つまり、お釈迦様が、この世にお生まれになった理由は、ただ、阿弥陀如来さまの本願を、この私に、説くためであったとされています。

    そして、南無阿弥陀仏とは、幸せになれる特効薬であり、南無阿弥陀仏をとなえる者を極楽浄土に生まれさせ、成仏させるという救いが完成したのです。
返信/引用返信 削除キー/

■11272 / )  Re[11]: 三位一体とイエス
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/02(Tue) 19:43:19)
    No11268に返信(勿忘草さんの記事)
    > ちなみに、私は、イエス様の贖罪の救いも信じますが、実は、毎日、自然と「南無阿弥陀仏」と唱えているのです。
    >
    > すると身体全体が温かく自律神経が休まる気がするので、自然に唱えてしまいます。
    >
    >

    いい習慣だと思います。意味内容はもちろんですが、音自体にも秘密があるのでしょうか。南無妙法蓮華経も音自体にパワーがありますね。

    ちなみに南無〜のキリスト教バージョンを考えてみると、南無神さま、南無キリスト、南無YHWH、南無三位一体、などが一応ありえても、いずれもキリスト教の本質からズレるように思います。南無アッバ(父、お父さんの意)というのがしっくりくる感じです。これだと主の祈りの簡易版ともいえるし、父に対する子の位置をプレゼントされるという、キリストを媒介にした三位一体の交わりへの参加の意味が強調されます。


返信/引用返信 削除キー/

■11271 / )  Re[10]: 三位一体とイエス
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/02(Tue) 19:25:02)
    勿忘草さん こんばんは

    > しばしば、仏教特に浄土真宗とキリスト教はよく似ていると言われます。
    >
    > それは、行為や功績によって救われるのではなく、絶対者(浄土真宗では阿弥陀如来、キリスト教ではキリスト)の側の働きへの信仰、信心(信受)によって救われるということです。けれども、3点は違うと思います。
    >
    > 1キリスト教は天地創造の神を認めるが、浄土真宗には天地創造の神は存在しない。
    >
    > 2キリスト教の場合、イエス・キリストという具体的な歴史的人物による十字架の贖いという行為に救いの根拠が置かれているが、浄土真宗における法蔵菩薩・阿弥陀如来は具体的な歴史的人格ではなく、超時間的な理念的存在であり、また救いの根拠は贖いではなく修行者の功徳の回向による。
    >
    > 3キリスト教には黙示録における世の終末と新天新地の希望が記されているが、浄土真宗には特に終末論やその後の世界についての展望はない。つまり、キリスト教における「神の国」は終末において現実化するものであるのに対し、浄土真宗の浄土はあくまで他界であり終末が存在しないので終末において現実化するということはない。


    そうだと思います。

    キリスト教において、「地」はそこから逃れるべきもの、消えた方がいいもの、ただ否定すべきものではないんですね。「地」は神に創造された良きものです。もちろん「天」は究極によきものです。浄土系仏教ならお浄土にあたるのが「天」でしょうか。その「天」と「地」が合体して一つになり、最後の完成をみるのが終末ですね。


    > やはり、天地創造と、キリストの受難と贖いをもってはじめて罪人の私も救われたと思うし、終末のキリストの再臨を思えばこそ、この歴史が無意味な反復ではなく何がしかの完成、目標に向かい神の計画の意味のあるものだと思うことができます。
    >
    > もし、仏教のように神の天地創造はなく偶然によるのなら弱肉強食、自然の非情さの説明も納得はできるのですが、それでも、神の愛を信じたいと思います。
    >
返信/引用返信 削除キー/

■11270 / )  Re[15]: ロゴスという概念
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/01(Mon) 20:03:49)
    ■11269のつづき

    【さらにまた、ロゴスは見えるようにさせることであるゆえ、このゆえにロゴスは、真であったり偽であったりすることができる。だからまた肝要なのは、「合致」という意味での捏造(ねつぞう)された真理概念から解放されているということである。合致というこの考えは、アレーティア、すなわち真理という概念において、第一次的なものでは断じてない。アレーテウエイン、すなわち真理ヲ暴露スルコトとしてのロゴスの「真であること」とは、それについて語られている存在者を、アポファイネスタイとしてのレゲイン、すなわち語ルコトにおいてその存在者の秘匿性から取り出して、秘匿されていないもの(アレーテス)として見えるようにさせること、つまり暴露することである。同様に、「偽であること」を意味するプセウデスタイとは、隠蔽するという意味での欺瞞と同じこと、すなわち、或るものを或るもののまえに(見えるようにさせるという仕方で)据え置き、かくしてその或るものを、その或るものがそれではない或るものとして言いふらすことである。
    しかし、「真理」がこうした意味をもち、ロゴスが見えるようにさせることの特定の一様態であるゆえ、ロゴスは真理の第一次的な「在りか」としてけっして要求されてはならない。今日あまねく行われているように、ひとが真理を規定して、真理は「本来的」には判断に帰属するものだとし、そのうえ、このテーゼについてアリストテレスを引き合いに出すなら、こうした引証は正当でもなければ、また、なかんずくギリシア的真理概念も誤解されている。ギリシア的な意味において、しかも前記のロゴスよりもいっそう根源的に「真」であるのは、アイステーシス、すなわち感覚である。つまり、或るものを、端的に、感性的に認知することである。アイステーシス、すなわち感覚というものがそのつどめざすのは、おのれのイデア、すなわちおのれの特定対象、つまり、まさしくアイステーシスをつうじて、またそのアイステーシスにとってのみ、そのつど純正に近づきうる存在者である。たとえば、視覚が目指すのは色なのだが、そのかぎりでは、その認知はつねに真である。このことは、視覚がつねに色を暴露し、聴覚はつねに音を暴露するということにほかならない。最も純粋な最も根源的な意味においては「真」であるのは――言いかえれば、暴露するだけであって、したがってけっして隠蔽することができないのは、純粋なノエイン、すなわち思考スルコトであり、つまり、存在者そのものの最も単純な諸存在規定を、率直に眺めやりつつ認知することである。このノエインは、けっして隠蔽することはできず、けっして偽であることはできず、たかだかそれは、認知しないこと、すなわちアグノエイン、つまり端的に適切に近づく通路を欠くことに、とどまりうるだけである。
    純粋に見えるようにさせることを遂行する形式をもはやもってはおらず、提示するときにはそのつど他のものに頼り、このようにして或るものを或るものとしてそのつど見えるようにさせるもの、このものが、こうした綜合構造でもって隠蔽の可能性を引き受けるのである。だが、「判断の真理」はこうした隠蔽の反対の場合にすぎない――言いかえれば真理の幾重にも基礎づけられた現象にすぎない。実在論も観念論も、ギリシア的真理概念の意味を等しく根本的に取り逃がしているのだが、そもそもひとは、このギリシア的真理概念からのみ、哲学的認識としての「イデア論」といったようなものの可能性を、了解しうるのである。
    また、ロゴスの機能は、或るものを端的に見えるようにさせることに、つまり、存在者を認知させることにあるゆえ、ロゴスは理性を意味しうる(4)。またさらに、ロゴスは、レゲイン、すなわち、語ルコトという意味においてばかりではなく、同時に、レゴメノン、つまり、提示されたものそのものという意味においても用いられ、しかも後者は、ヒュポケイメノン、つまり、いかなる語りかけや論じ合いが行なわれるときでも、実際に存在しているものとして、そのことによってそのつどすでに根底にあるもの、そうしたもの以外の何ものでもないゆえ、ロゴスは、レゴメノンとして、根拠、すなわちラティオのことでもある。最後に、レゴメノンとしてのロゴスは、或るものとして語りかけられているものをも意味するゆえ、つまり、そのものと或るものとの関係において、すなわち、そのものが「関係づけられている」ことにおいて、看取できるようになっているものをも意味するゆえ、ロゴスは関係や比例という意味をもっているのである。
    「命題的な語り」のこうした学的解釈で、ロゴスの第一次的な機能を判然とさせるためには当面十分であろう。

    訳注(4)〔ドイツ語では「理性[Vernunft]」の語源は、「認知する[vernehmen]」である。〕


    以上で〜す。
    これについてのわたしのは後で。

返信/引用返信 削除キー/

■11269 / )  Re[14]: ロゴスという概念
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/01(Mon) 20:02:08)
    (HS)に「ロゴスという概念」っていうのあったので書き写しておきます。字数の関係で、2回に分けて。

    【ロゴスという概念は、プラトンとアリストテレスにあっては多義的であり、しかも、それらの諸意義がたがいにそむきあって、一つの根本意義によって積極的に導かれてはいないという仕方で多義的である。これは、事実上はたんに見せかけにすぎないのであって、この見せかけが成り立つのは、学的解釈がその根本意義の第一次的な内実において適切にとらえられることができないかぎりにおいてなのである。われわれがロゴスの根本意義は語りだと言うなら、この文字通りの翻訳は、語りということ自身が何を意味するのかが規定されることにもとづいてはじめて、完全な効力をもつものになる。ロゴスの語義の後代の歴史、なかんずく、その後の哲学がなした多種多様な勝手な学的解釈は、語りということがもっているあまりにも明々白々な本来の意義を、不断に隠蔽している。ロゴスは「翻訳され」る、言いかえれば、理性、判断、概念、定義、根拠、関係としてつねに解釈される。だが、どうして「語り」が変様されて、ロゴスがいま挙げたすべてのものを意味し、しかも、学的用語法の範囲内においてそれらのものを意味するようになりうるのであろうか。ロゴスが陳述という意味に解され、だが、陳述が「判断」と解されるときですら、この一見正当にみえる翻訳でもっては、基礎的な意義がなんとしても逸せられているおそれがあり、ことに判断が現今のなんらかの「判断理論」の意味においてとらえられるときには、なおさらそうである。判断が「結合」ないしは「態度決定」(承認―否認)だと解されているかぎりでは、ロゴスは判断を意味しておらず、いずれにしても第一次的な判断を意味してはいないのである。
    むしろ、語りとしてのロゴスは、デェールーンと同じことであり、このデェールーンとは、語りにおいてそれについて「語られて」いる当のものをあらわならしめる、ということである。アリストテレスは語りのこの機能をアポファイネスタイとしていっそう鋭く究明した。ロゴスは、或るものを見えるようにさせる(ファイネスタイ)のである、つまり、それに関して語られている当のものを、しかも、語りつつある者にとって(中動相)、ないしはたがいに語りあいつつある者たちにとって、見えるようにさせるのである。語りは、それについて語られている当のもの自身のほうから(アポ)「見えるようにさせる」。語り(アポファンシス)においては、その語りが真正のものであるかぎり語られている当の内容は、それに関して語られている当の話題から汲み取られているべきであり、したがって、語りつつ伝達するときにはこの伝達は、この伝達がそれに関して語っている当の話題を、言われた伝達内容のうちであらわにし、かくして他人に近づきうるものにする。これがアポファンシスといてのロゴスの構造なのである。あらゆる「語り」が、提示しつつ見えるようにさせるという意味でのあらわにするというこの様態を固有にもっているわけではない。たとえば願うこと(エウケー)もあらわにするのであるが、しかしそれは別の仕方においてなのである。
    具体的に遂行されるときには語ること(見えるようにさせること)は、発言という性格を、つまり、言葉を声に出して口外するとう性格をもっている。ロゴスは、フォーネー、すなわち音声であり、しかも、フォーネー・メタ・ファンタシアス、すなわち、見エル像ヲトモナッタ音声であり――声に出して口外することであるが、そこではそのつど何ものかが看取されているのである。
    そして、アポファンシスとしてのロゴスの機能が或るものを提示しつつ見えるようにさせるということにあるゆえのみ、ロゴスは、シュンテシス、すなわち綜合という構造形式をもつことができる。綜合とは、ここでは、諸表象の結合や連結、つまり、心理的に出来(しゅったい)することどもの操作のことを言っているのではないのであって、そうした心理的に出来する諸表象の結合に関してなら、次に生ずる「問題」が、いかにして内的なものとしてそのような結合が外なる物理的なものと合致するのかということであるのは、当然のことである。綜合の合、つまり、シュンテシスのシュンは、ここでは、純粋に命題的(2)な意義をもっているのであって、或るものをそれが或るものといっしょになっているままに見えるようにさせる、或るものを或るものとして(3)見えるようにさせるということにほかならない。】

    訳注(2)〔ここでは「命題的」という語は、そのドイツ語が由来するギリシア語アポフアンシスに与えられた前記の語義を受けて、提示しつつ見えるようにさせるという意味を含んでいる。〕

返信/引用返信 削除キー/

■11268 / )  Re[10]: 三位一体とイエス
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/01(Mon) 19:08:09)
    ちなみに、私は、イエス様の贖罪の救いも信じますが、実は、毎日、自然と「南無阿弥陀仏」と唱えているのです。

    すると身体全体が温かく自律神経が休まる気がするので、自然に唱えてしまいます。


返信/引用返信 削除キー/

■11267 / )  Re[9]: 三位一体とイエス
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/01(Mon) 18:48:52)
    knowing itselfさん こんばんは。
    私も何かと忙しくて、せっかく書き込みしていただいたのにレスが遅れてしまい
    申し訳ございません。
    それにしても、三位一体は、奥が深いなあと感じているところです。

    >>三位一体から始まって、三位一体に終わると思います。
    >
    > そうはいっても、三位一体は空念仏やお題目のようなものではないです。三位一体のど真ん中にイエスがいる、精神と身体の統合体としての人間でもあるイエスが三位一体のど真ん中にいることが要をなす。精神と身体の統合体としての人間という意味では、われわれ人間と寸分も違わない。
    >
    > ここが誤解されています。イエスは偶像崇拝の対象だという批判は成り立たない。精神と身体の統合体としての人間を最大限に高評価し愛することを偶像崇拝とは言わんでしょう。私やあなたも彼も、仲間も仲間でない者も、異国人も異教徒も、その意味で人間イエスと同じく、特別の関心が注がれるべき精神と身体の統合体。
    >
    > キリスト教は身体軽視、身体蔑視だというのも誤解。精神と身体の統合体が三位一体のど真ん中にいるというのがイエスの福音だから、身体が蔑視のはずはない。身体の復活がキモ中のキモであるのもこの点と関連する。

    私も、そう思います。
    もし、十字架上およびそれまでの様々な弟子たちの裏切りなどを思うと身体があったから私も感情移入出来るのであって、なかったらこれほどまでにキリスト教に心酔していなかったと思います。


    しばしば、仏教特に浄土真宗とキリスト教はよく似ていると言われます。

    それは、行為や功績によって救われるのではなく、絶対者(浄土真宗では阿弥陀如来、キリスト教ではキリスト)の側の働きへの信仰、信心(信受)によって救われるということです。けれども、3点は違うと思います。

    1キリスト教は天地創造の神を認めるが、浄土真宗には天地創造の神は存在しない。

    2キリスト教の場合、イエス・キリストという具体的な歴史的人物による十字架の贖いという行為に救いの根拠が置かれているが、浄土真宗における法蔵菩薩・阿弥陀如来は具体的な歴史的人格ではなく、超時間的な理念的存在であり、また救いの根拠は贖いではなく修行者の功徳の回向による。

    3キリスト教には黙示録における世の終末と新天新地の希望が記されているが、浄土真宗には特に終末論やその後の世界についての展望はない。つまり、キリスト教における「神の国」は終末において現実化するものであるのに対し、浄土真宗の浄土はあくまで他界であり終末が存在しないので終末において現実化するということはない。

    やはり、天地創造と、キリストの受難と贖いをもってはじめて罪人の私も救われたと思うし、終末のキリストの再臨を思えばこそ、この歴史が無意味な反復ではなく何がしかの完成、目標に向かい神の計画の意味のあるものだと思うことができます。

    もし、仏教のように神の天地創造はなく偶然によるのなら弱肉強食、自然の非情さの説明も納得はできるのですが、それでも、神の愛を信じたいと思います。

返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -