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■36859 / )  Re[43]: ストア派
□投稿者/ 時 -(2024/03/19(Tue) 13:27:17)
    2024/03/19(Tue) 13:34:02 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36857に返信(akaimiさんの記事)
    > 『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳を昨日からぱらぱらと読んでみています。
    > 全体の印象としてやはり難しい本です。
    > 第二章に「ストア派の更新」としてエピクテトスについて書かれているので、そこから引用してみますね。

    毎回、ありがとうございます。m(__)m

    > 彼によれば、私たち次第であるたった一つのものこそが、私たち自身の選択なのである。その結果、ブロアイレシスは私自身と同一のものであり、ゼウス自身ですらそれを強制することはできない。(一・一・二三)

    > プロアイレシスというのは選択のこと。
    > 文末の数字は『提要』中の番号のようです。

    > 外的なことは「我々次第ではないもの」だけれど、選択は「我々次第であるもの」だとエピクテトスは考えていたのだろう、と私は現時点では捉えています。

    はい。エピクテトス自身は、事象を内界(我々次第であるもの)と外界(我々次第ではないもの)に分けて、その内界(我々次第であるもの)自体が私自身と同一であり、何者からの束縛やなにがしかの制約等を受けない。そして、その内界(我々次第であるもの)が唯一、私たち自身の選択という内界での行為なのだという事だと解釈しました。

    >>・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。

    > 同書p117によると、財産、名誉、身体、健康は選択の外にあるものとエピクテトスはしていたそうです。
    > 外的なものは選択のための素材にすぎず、したがって善でも悪でもなく、伝統的な枠組みにおける無差別なものである。

    はい。そうですよね。彼の思考世界を想像すると、財産、名誉、身体、健康等自体は、内界(我々次第であるもの)での選択のための単なる素材だという事でしょう。当然この考え方では、それらは善でも悪でもないですね。

    > 貧しさは選択の外にあるもので、それは善でも悪でもなく無差別なものである。
    > 私たち次第であるたった一つのものであるプロアイレシス(選択)次第で盗みをするかしないかは決められる。
    > このようにエピクテトスは考えるのじゃないかな、と想像します。

    > 時さんが書いてくださったものによると、
    > >各人の性向(性質の上での傾向。気質)<
    > が両立論としての自由意志に反映される、とするのが前期ストア派の立ち位置で、
    > エピクテトスは、各人の性向というよりどういう「選択」をするかがその人である、と考えたのかなと、そのように私は見ました。

    ありがとうございます。akaimiさんの現時点でのご認識は了解しました。^^

    なるほど。この場合、選択が起こるのではなくて選択するとなるのですね。。そしてその選択を”する”のが、その本人だという事なのでしょうね。

    やはり出てくるんですよね。。同じストア派での前期とか後期とか。。私にとっては、ややこしいのですね(笑)今のところ、メタでの視点で全体像を把握することは私には出来そうにありませんかね。

    そうしますと、エピクテトスの思想では、運命論では無くなるような気がしましたが、下記(運命論 wiki)の「世の中の出来事はすべて」が彼の言う外界(我々次第ではないもの)に当てはまるのであれば、運命論と言ってもよいのかもしれませんね。その運命での出来事を外界(我々次第ではないもの)として、それとは無関係に内界(我々次第であるもの)は、本来的にはその影響を受けないのだという事でしょう。

    ・運命論(wiki)
    > 宿命論(しゅくめいろん)あるいは運命論(うんめいろん、英: fatalism)とは、世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方[1][2]。宿命論の考え方をする人を宿命論者と言う。

    一方、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定しているとする決定論(wiki)は、仏教の十二支縁起に示されるような、因果の関係を言うのでしょうか。この場合も、内面に沸き起こる心の状態を平安に導くべく教えだと思いますので、その内面にも関係してくるように思いますね。

    ・決定論(wiki)
    > 決定論(けっていろん、英: determinism、羅: determinare)とは、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする哲学的な立場。

    ここまでで、ストア派のエピクテトスは、運命論でのよりよく生きるための教えであり、仏教は、決定論での心を平安に至らすための教えと言えるでしょうか。(勿論、この辺りのお話は、仏教では無記とされますが)

    下記の定義で考えますと、アドヴァイタは汎神論ですね。これが仏教以外では、私には、一番しっくりときそうです。

    ・汎神論(wiki)
    > 汎神論(はんしんろん、英: pantheism)または万有神論とは、現実は神性と同一である[1]、あるいは、すべてのものはすべてを包含する内在的な神を構成しているという信条[2]。神を擬人化した人格神を認めず[3]、一切全てを神と同一視する神学的・宗教的・哲学的立場[4]。

    > といったところでまたぼちぼちと可能な範囲で最初から読んでいこうと思います。

    教えていただいてありがとうございました。お陰様でざっくりとした外観は理解できるように感じましたが、お話の脱線および読書のお邪魔をしてしまったようで、すみません。m(__)m

    では、ぼちぼちと読書にお戻りくださいませ。(^^)
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■36858 / )  ストア派とカント
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/19(Tue) 12:40:27)
    カントにストア派の影をみる人は少なくない。
    もちろん倫理についてです。

    倫理に異様なほど大きな意義を与えているのが、カント哲学。

    理論理性についてなら、誰であろうと物自体を認識できない、アンチノミーに陥らざるをえないとマニアックなまでに論述している一方、「善意志」だけは、唯一その回路だけは、物自体に到達できると。
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■36857 / )  Re[42]: ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/03/19(Tue) 10:28:03)
    時さん、おはようございます。
    レスありがとうございます。


    No36856に返信(時さんの記事)

    > https://todays-list.com/i/?q=/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%88%E3%82%B9%E3%80%8E%E8%AA%9E%E9%8C%B2%E3%80%8F/1/1/
    >
    > 上記リンク先の「エピクテトス『語録』」というところに
    >
    > ・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。
    >
    > とういう一文があるのですね。
    >
    > このエピクテトス語録の中の「自由意志」が何を示しているのか?なのですね。。
    >
    > No36837 
    >>それならば、運命においては何を行為しても無駄(宿命論)になるという事に帰結する議論が生じ、それに対してクリュシッポスにより、運命論によっても自由意志の存在は否定されず、両者は問題なく両立するとみなす立場(両立論)が主張されました。
    >
    >>ここでは、例え運命論であっても自由意志の存在は否定されないと言う両立論が展開されました。そしてその内容は、人間の行為(ないし同意・意欲)の決定的な原因は、各人の性向(性質の上での傾向。気質)にある点に自由意志を担保しようとしたものでした。
    >
    > と、私は論文に書かれていた内容について考察したのですが、だとすると、クリュシッポスの主張した両立論における、各人の性向にある点に自由意志を担保しようとしたという事になりそうなのですが、、はたしてストア派においてのエピクテトスの立ち位置で、この意味をもって「自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。」という言葉を残したものなのかが私には分からなのですね。。
    >
    > ストア派は、基本的には運命論で、しかし自由意志の存在をも担保するために両立論が主張されという・・・
    >
    > 私の誤読かもしれませんので、これはこの辺で(笑)

    『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳を昨日からぱらぱらと読んでみています。
    全体の印象としてやはり難しい本です。
    第二章に「ストア派の更新」としてエピクテトスについて書かれているので、そこから引用してみますね。

    ===
    彼によれば、私たち次第であるたった一つのものこそが、私たち自身の選択なのである。その結果、ブロアイレシスは私自身と同一のものであり、ゼウス自身ですらそれを強制することはできない。(一・一・二三)
    ===
    同書p121より引用

    プロアイレシスというのは選択のこと。
    文末の数字は『提要』中の番号のようです。

    外的なことは「我々次第ではないもの」だけれど、選択は「我々次第であるもの」だとエピクテトスは考えていたのだろう、と私は現時点では捉えています。


    > ・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。

    同書p117によると、財産、名誉、身体、健康は選択の外にあるものとエピクテトスはしていたそうです。
    外的なものは選択のための素材にすぎず、したがって善でも悪でもなく、伝統的な枠組みにおける無差別なものである。


    貧しさは選択の外にあるもので、それは善でも悪でもなく無差別なものである。
    私たち次第であるたった一つのものであるプロアイレシス(選択)次第で盗みをするかしないかは決められる。
    このようにエピクテトスは考えるのじゃないかな、と想像します。

    時さんが書いてくださったものによると、
    >各人の性向(性質の上での傾向。気質)<
    が両立論としての自由意志に反映される、とするのが前期ストア派の立ち位置で、
    エピクテトスは、各人の性向というよりどういう「選択」をするかがその人である、と考えたのかなと、そのように私は見ました。

    といったところでまたぼちぼちと可能な範囲で最初から読んでいこうと思います。

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■36856 / )  Re[41]: ストア派
□投稿者/ 時 -(2024/03/18(Mon) 21:07:47)
    akaimiさんへ。こんばんは。

    No36847に返信(akaimiさんの記事)
    > >akaimiさん、パニチェさんへ。こんにちは。今回も少し、ストア派についての考察を書きたいと思いますが、もしも会話の流れ的にお邪魔なようでしたら、他に移しますので、仰っていただければと思います。

    > これからもどうぞ自由に投稿してくださいね。

    ありがとうございます。^^

    https://todays-list.com/i/?q=/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%88%E3%82%B9%E3%80%8E%E8%AA%9E%E9%8C%B2%E3%80%8F/1/1/

    上記リンク先の「エピクテトス『語録』」というところに

    ・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。

    とういう一文があるのですね。

    このエピクテトス語録の中の「自由意志」が何を示しているのか?なのですね。。

    No36837 
    > それならば、運命においては何を行為しても無駄(宿命論)になるという事に帰結する議論が生じ、それに対してクリュシッポスにより、運命論によっても自由意志の存在は否定されず、両者は問題なく両立するとみなす立場(両立論)が主張されました。

    > ここでは、例え運命論であっても自由意志の存在は否定されないと言う両立論が展開されました。そしてその内容は、人間の行為(ないし同意・意欲)の決定的な原因は、各人の性向(性質の上での傾向。気質)にある点に自由意志を担保しようとしたものでした。

    と、私は論文に書かれていた内容について考察したのですが、だとすると、クリュシッポスの主張した両立論における、各人の性向にある点に自由意志を担保しようとしたという事になりそうなのですが、、はたしてストア派においてのエピクテトスの立ち位置で、この意味をもって「自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。」という言葉を残したものなのかが私には分からなのですね。。

    ストア派は、基本的には運命論で、しかし自由意志の存在をも担保するために両立論が主張されという・・・

    私の誤読かもしれませんので、これはこの辺で(笑)

    > ストア派についての本が来たので少しずつ読んでみます。
    > エピクテトスの言葉についての本とは違い今度のは難しいと思うので、手こずりそうです。
    > マイペース&能力の範囲で読んでみます。^^

    この辺りの事が、もしもストア派の書籍に何か記載がありましたら、また教えていただければ幸いです。^^ しかし、、直感ですが、なかなか簡単ではなさそうな感じがしますね。

    では、また、ご感想を楽しみにしています。^^ ご返信は不要です。
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■36855 / )  出納帳にて
□投稿者/ アートポット -(2024/03/18(Mon) 19:47:12)
    小銭袋 740円 五百円枚 百円1枚 五十円2枚 十円54枚
    手持ち 8万円 小銭袋 740円 一円袋 五円13枚 一円157枚
    デイケア珈琲予算 2020円 千円1枚 五百円枚 百円8枚 五十円2枚 十円12枚

    珈琲予備予算 円 百円枚 年始にゆうちょ銀行にて預け入れ両替百円40枚 ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。

    次のデイケアにて「長イス」にて。

    コンビニにてデビット決済 765円
    8181円 、記帳分にて。
    40638円
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■36854 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/18(Mon) 18:42:55)
    2024/03/18(Mon) 18:53:49 編集(投稿者)

    No36853
    > (pipit感想)
    > 包摂、、、
    > 純粋直観に構成した純粋な幾何学的円と、皿の感覚的形象(丸さ)の形の近さから、円の下に皿を位置付ける作業が可能になる。
    > 直観された皿の丸さの中に、純粋な幾何学的円を見ることが可能ということ。

    No 36750の図で言うと、右から2番目の感性由来の純粋概念が幾何学的円の居場所かな?と。感性由来なので、描き出すことで概念が形象を持てるのかな?と。その形象によりて概念と経験的直観の包摂関係を築けるのかな?と。全く勘違いかもですが(T . T)

    No36644 でカントの数学への考え方について述べている箇所があったので再投稿します。

    >定義についてのカントの記述を見つけました。けっこうページ数を使って記述されていますが、抜粋引用します。
    『哲学においては、数学の真似をして最初に定義を示すようなことをしてはならない(たんに試みてみる場合を除いて。)[哲学における]定義は、与えられた概念を分解することにすぎないのだから、[定義よりも]前に示されるのは(たとえ混乱したものであっても)概念なのである。(略)
    要するに哲学においては適切な明晰さをそなえた定義は、仕事を始めるための前提ではないのであり、定義がえられれば、そこで仕事を終えねばならない(注)。
    これにたいして数学では、定義する前にはいかなる概念も存在しない。定義によって初めて概念が示されるのである。だから数学ではつねに、定義から仕事を始めねばならないのであり、つねにそこから仕事を始めることができるのである。』
    (『純粋理性批判 7』中山元先生訳、p52-.B758)
    『数学の[総合的な]定義においては、誤るということがありえない。まず定義が概念を示すのであるから、概念には、定義においてその概念によって考えられたものしか含まない。(略)
    これにたいして[哲学の]分析的な定義では、さまざまな形で誤謬を犯すことがありうる。その概念には実際には含まれていない特徴を定義に持ち込んだり、定義の本質である〈詳細さ〉に欠けたりすることで、誤るのである。概念の分析が詳細に行われたかどうかについては、わたしたちは完全に確実であることはできない。
    だからこそ、定義にかんする数学的な方法を、哲学においては真似ることができないのである。』
    同本p54.55、B759.760<
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■36853 / )  純粋理性批判B 176
□投稿者/ pipit -(2024/03/18(Mon) 18:30:25)
    みなさまこんにちは!続きですー

    But pure conceptions of the understanding, when compared with empirical intuitions, or even with sensuous intuitions in general, are quite heterogeneous, and never can be discovered in any intuition.

    しかし、純粋な悟性概念は、経験的直観、あるいは一般的な感覚的直観とすら比べると、まったく異質なものであり、どのような直観においても決して発見することはできない。

    (pipit感想)
    包摂、、、
    純粋直観に構成した純粋な幾何学的円と、皿の感覚的形象(丸さ)の形の近さから、円の下に皿を位置付ける作業が可能になる。
    直観された皿の丸さの中に、純粋な幾何学的円を見ることが可能ということ。

    でも今から探索しようとする、純粋悟性概念と現象の包摂関係がどのように成立するか、を考えたとき、現象の中に純粋悟性概念と同種のものは見えない、とカントは考える。
    『原因』という概念が直観上に名札つけて表現されるわけではない。
    純粋悟性概念(カテゴリー)と感覚的直観は異種だとカントは考える。

    この異種を仲介するものについての考察が、今から読む『図式論』かな?ととりあえず思いました。


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■36852 / )  Re[7]: マイナ撮影にて
□投稿者/ アートポット -(2024/03/18(Mon) 14:35:12)
    No36851に返信(akaimiさんの記事)
    > マイナ保険証に移行になるので、申し出もあったしということで撮影されたのかな。
    > 不安な点はその場で確認してからにこれからはしたほうが安心かもですね。
    >

    ありがとうございます。

    > マイナカードと保険証番号の紐づけが済んていれば、従来の保険証が廃止になってもマイナカードで医療が受けられます。
    >

    マイナ証を受け取って5分後くらいに市役所にて健康保険証の紐付けをやったら失敗にて「2日後から8日後に完了するとマニュアルに記載されている。」て説明されて、結果はどうなったのか判っていません。

    > 暗証番号は他の人には知られないように注意ですね。
    >
    >

    注意します。ありがとうございます。m(__)m。
返信/引用返信 削除キー/

■36851 / )  Re[6]: マイナ撮影にて
□投稿者/ akaimi -(2024/03/18(Mon) 12:49:58)
    マイナ保険証に移行になるので、申し出もあったしということで撮影されたのかな。
    不安な点はその場で確認してからにこれからはしたほうが安心かもですね。

    マイナカードと保険証番号の紐づけが済んていれば、従来の保険証が廃止になってもマイナカードで医療が受けられます。

    暗証番号は他の人には知られないように注意ですね。


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■36849 / )  Re[5]: マイナ撮影にて
□投稿者/ アートポット -(2024/03/18(Mon) 11:44:11)
    No36848に返信(akaimiさんの記事)
    > アートポットさん、おはようございます。
    >
    > ■No36832に返信(アートポットさんの記事)
    >>訪問看護に、僕「マイナも撮影にて。」、看護師「良いんですか。」、僕「良いです。」。看護師さんにてマイナビニールからマイナ取り出して撮影にてけど、撮影されちゃやばいの?????
    >
    > 看護師さんに、アートポットさんのマイナンバーカードの写真を撮ってもらったってことですか?
    > 何か理由があって撮ってもらったの?

    こんにちは、akaimiさん

    月はじめに訪問看護が、毎回、保険証と自立支援認定証をタブレットで撮影にていて、毎週、自立支援計算表も撮影にていて、なので、マイナンバーカードも撮影にてって訊いてみたら、撮って良いなら撮ります、ってことにて、これは、危険なのか、僕では判断できません。どうなんでしょう?
返信/引用返信 削除キー/

■36848 / )  Re[4]: マイナ撮影にて
□投稿者/ akaimi -(2024/03/18(Mon) 08:27:56)
    アートポットさん、おはようございます。

    No36832に返信(アートポットさんの記事)
    > 訪問看護に、僕「マイナも撮影にて。」、看護師「良いんですか。」、僕「良いです。」。看護師さんにてマイナビニールからマイナ取り出して撮影にてけど、撮影されちゃやばいの?????

    看護師さんに、アートポットさんのマイナンバーカードの写真を撮ってもらったってことですか?
    何か理由があって撮ってもらったの?
返信/引用返信 削除キー/

■36847 / )  Re[40]: ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/03/18(Mon) 08:23:29)
    時さん、おはようございます。

    >akaimiさん、パニチェさんへ。こんにちは。今回も少し、ストア派についての考察を書きたいと思いますが、もしも会話の流れ的にお邪魔なようでしたら、他に移しますので、仰っていただければと思います。

    これからもどうぞ自由に投稿してくださいね。

    ストア派についての本が来たので少しずつ読んでみます。
    エピクテトスの言葉についての本とは違い今度のは難しいと思うので、手こずりそうです。
    マイペース&能力の範囲で読んでみます。^^

返信/引用返信 削除キー/

■36846 / )  雨乞いの楠
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/18(Mon) 08:23:29)
    今治の大三島にある大山祇神社にある樹齢3000年と言われる楠の木。
755×566 => 600×449

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■36845 / )  Re[38]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/18(Mon) 08:13:11)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No36826に返信(パニチェさんの記事)


    >>「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」。
    >>つまり、自分の裁量でコントロールできることと出来ないことを分け、「我々次第であるもの」だけを欲望の対象とする、ことをストア派では説いています。
    >>また事実と評価を区別した上で、評価は「我々次第であるもの」であるとし、善用することを勧めています。
    >>個人的に感じるのは、ニーチェの運命愛の考え方ともそう遠くないように感じるのですが、パニチェさんはどんな印象を持たれますか?
    >
    > 少し調べました。
    >
    > 『エピクテトスは、ちょうど彼が影響を受けたソクラテスや犬儒派と同じく、自らは著作を残さず、門弟のアリアノスの伝える言行録によってのみその活動と教説が知られる(これはコイネーで書かれている)。主人の暴力に対して、身体は衣服として見なして耐えたと伝えられているように、解放奴隷としての彼の前歴は、運命を受け入れ、感情に左右されない不動心(アパテイア)を保つ、ストア派の賢者にふさわしい逸話を提供している。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』
    >
    > まさしく運命愛の先駆けですね。

    病に苦しみながらも自らの意志を強く持ち哲学に希望を見出したニーチェ。
    雇い主からの暴行によるもの、リューマチによるものとの説がありますがエピクテトスも足が不自由でした。
    病気であっても意志は外的なものに妨げられるものではない、という言葉を残しています。


    > akaimiさんが引用された言説から、私は以下のニーチェの言葉が思い浮かびました。
    >
    > 『さらにこういう比喩を、わたしはきみたちに述べておく。自分たちの悪魔を追い払おいとして、かえって、みずからブタの群れの中へ入りこんだ者たちが、少なくないのだ。(ツァラトゥストラ 純潔について13−13)』
    >
    > 『おまえはわたしのサルと呼ばれている。おまえ、口からあわをふいている阿呆よ。しかし、わたしはおまえをわたしのぶうぶうブタと呼ぼう、──ぶうぶうと不平を鳴らすことによって、おまえは私の痴愚礼賛までも、だいなしにしてしまうのだ。最初おまえにぶうぶう不平を鳴らせたゆえのものは、いったい何であったか?誰も充分追従してくれなかったということだ。──おまえがこんな汚物のもとに腰をすえるのは、大いにぶうぶうと不平を鳴らすための根拠を得んがためなのだ。──大いに復讐するための根拠を得んがためなのだ!つまり、おまえ、虚栄心の強い阿呆よ、おまえが口からあわを吹いているのは、すべての復讐なのだ。わたしはおまえの正体を見事に察知したのだ! … 中略 … だが、おまえ、阿呆よ、別れに際して、わたしはおまえにこういう教えを与えよう。もはや愛することのできない場合、とるべき態度は──通りすぎることだ!──ツァラトゥストラはこのように語って、阿呆と大都市のそばを通り過ぎた。(ツァラトゥストラ 通り過ぎることについて7−32)』
    >
    > 『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

    久しぶりのニーチェの言葉。やはり刺激的でいいですね。
    そこには周りに振り回されないで自分を大切に、という願いを感じます。

    ストア派の本が来ましたので、読んでみてまとめられそうでしたらまた投稿させてください。


返信/引用返信 削除キー/

■36844 / )  鳴門の渦潮
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/18(Mon) 08:11:34)
    鳴門の渦潮です。実物初めて見ました。
566×755 => 449×600

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■36843 / )  ダンマパダ第九章『悪』・121.122
□投稿者/ pipit -(2024/03/18(Mon) 00:02:01)
    みなさまこんばんは♪
    ダンマパダ121.122のBhikkhu Sujatoさまの英訳をpipitが日訳してみました

    Think not lightly of evil,
    that it won’t come back to you.
    The pot is filled with water
    falling drop by drop;
    the fool is filled with wickedness
    piled up bit by bit.

    Think not lightly of goodness,
    that it won’t come back to you.
    The pot is filled with water
    falling drop by drop;
    the sage is filled with goodness
    piled up bit by bit.

    その悪は自分に帰ってこない、と悪を軽く考えないで。
    一滴一滴落ちる水で瓶が満たされる;
    少しずつ積み重なる悪で愚者が満たされる。


    その善は自分に帰ってこない、と善を軽く考えないで。
    一滴一滴落ちる水で瓶が満たされる;
    少しずつ積み重なる善で賢人が満たされる。

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■36842 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/17(Sun) 20:08:39)
    No36819に返信(パニチェさんの記事)
    こんばんは
    どこへ投稿するか迷いましたが、あちらは話が進展しているのでここで失礼します。

    >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。
    >
    >>(『提要』8)
    >>===
    >>『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p61より引用
    >
    > 「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    > または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。
    >
    > 最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    > 死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。

    Kindleの読み放題に「エピクテトス 名言集」というのがあり、そこから関連しそうなものを抜粋します。不要であれば流してください。

    『「誰それの息子が死にました」意志と関わりのないものであるから悪ではない、と答えよ。 「 誰それを その父親が廃嫡(はいちゃく)にしました。あなたはどう思いますか」意志と関わりのないものであるから悪ではない。 「 皇帝があの人に有罪を宣告しました」意志と関わりのないものであるから悪ではない。 「 そのことで苦しんでいますよ」意志と関わりのあることだから悪だ。 「 その人は見事に耐えました」意志と関わりのあることだから善だ。 こんなふうに習慣づければ、我々は進歩することになる。なぜなら、その心像が把握されうるもの以外のものについて、我々が承認する事はないからである。

    「息子が死にました」何が起きたのか。息子が死んだのだ。 「 他には何もないのですか」 何もない。 「 船が失われました」 何が起きたのか。船が失われたのだ。 「 あの人が投獄されました」何が起きたのか。投獄されたのだ。 だが、「不幸だ」というのは、各人が自分から付け加えたことだ。

    哲学するというのはどのようなことか。 それは起きてくることに対して心の準備をしておくことではないのか。そうすると、「もし私が起きてくることに平然と耐える心の準備ができているのであれば、なんでも好きなように起きるがよい」と言うのと等しいことが分からないのか。

    哲学する人は困難な状況に遭遇するたびに何と言うべきなのか。「それを目的に私は訓練を重ね、そのために私は鍛えてきたのだ」ということだ。神は君に「お前が規則通りに競技をしたかどうか、 しかるべき量を食べたかどうか、鍛えたのかどうか、体育教師の指示に従って訓練したかどうか、その証拠を見せてみなさい」と仰(おっしゃ)ておられるのだ。

    身体とか財産とか、外に属するものを恐れているのか。つまり、君とは関わりのないものについて恐れているのか。すると、そもそも最初から、君は何を勉強してきたのか。君のものと君のものでないもの、 妨げるものと妨げられないものを区別することではなかったのか。何のために君は哲学者たちのところに通っていたのだ。依然として不幸であり、不運であるためなのか。

    この身体も、身体の部分も、権力、財産、名声、官職、 栄誉、子供、兄弟、友人など、これらは全て自分のものではないと考えねばならない。

    (教育を受けるということは)・・・
    意志や意志に基づく行為は我々の力の及ぶものであるが、身体、身体の一部、所有物、両親、兄弟、子供、祖国、要するに社会的なものは我々の力の及ばないものであるということだが、そのような区別をするしかたを学ぶことである。

    君は、君自身を含めて、何もかも神から授かっておきながら、その一部が君から奪われるとなると、それを与えた神に対して腹を立てたり非難したりするのか。君は何者であり、何のためにこの世にやってきたのか。 君をこの世に送り出したのはその方ではないのか。君に光を見せたのはその方ではないのか。共に働く仲間を、感覚を、理性を与えてくれたのはその方ではないのか。また、君をどのような者としてこの世に送ったのか。 死すべきものとして、すなわち、わずかな肉の欠片(かけら)とともにこの地上に生き、少しの間その方の支配のありさまを眺め、その方の祭礼行列に加わりながら、共に祝うものとしてではないのか。 それならば、君に許されているまでその行列や祭典を見物して、次に君がこの世から連れ出されるときには見物したことに敬意を表し感謝して出て行こうとは思わないのか。

    「私がこんな目に遭うなんて、運の悪いことだ」
    むしろ逆に、「私はこんな目に遭ったのに、苦しむことなく過ごしており、現在の状況によって打ちひしがれることもなく、将来のことを恐れもしていない」と言うべきだ。なぜなら、このような事はすべての人に起こりうるが、こうした中で苦しむことなく過す事は誰にもできなかっただろうから。すると、どうして前者が不運で、後者が幸運だということになるだろうか。
    それは不運ではない。むしろ、それに気高く耐えることこそ幸運なのである。

    「この世には盗賊も泥棒もいれば、裁判所もあるし、われわれに対する権力をもっていると考えている暴君たちもいますが、それもこの小さな肉体とその所有物のためなのです。われわれを自由にして、彼らがなんの権力ももっていないのだということを教えてやってください。」
    これに対して次のように言うのが私の務めである。「肉体とその所有するものを無価値だと悟った人にとって、どのような暴君が、どのような泥棒が、どのような法廷がなお恐ろしいものであろうか。」

    「でも、暴君は縛りますよ」。どこを縛るのかね。足だね。
    「でも切り落としますよ」。どこを切り落とすのか。首だね。では、暴君が縛ることも切り落とすこともできないものは何であろうか。それは意志だよ。

    不敗の者とは誰のことか。それは意志とは関係のないどんなことにも惑わされることのない人のことである。』



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■36841 / )  議論
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/17(Sun) 20:05:34)
    というかコミュニケーションについての資料

    No36697(lito_simpleさんの記事)
    1. 類似性が確認されるまでお互いは異なると仮定する
    2. 解釈や評価よりも記述を重視する
    3. 相手の立場で考える
    4. 自分の解釈は実証されていない仮説として取り扱う

    No36787(akaimiさんの記事)
    ある人が素早く入浴する。「彼は入浴の仕方が悪い」とは言うな。
    「素早く入浴する」と言いなさい。
    ある人がたくさん酒を飲む。「彼は飲酒の仕方が悪い」とは言うな。
    「たくさん酒を飲む」とだけ言いなさい。
    というのも、当人の考えをきちんと識別しないうちに、それが本当に悪いかどうかを君はどこから知るのかね。
    そのように慎重になれば、君がある事実について把握可能な心像を掴んでいながら、それとは別の事柄【価値】について同意を与える、などというおかしなことにはならないだろう。
    (『提要』45)
    o0このエピクテトスの言はなかなかしびれた。それで Kindle読み放題に「エピクテトス 名言集」があったので読んでみた。
    こうも言っている
    『正しい考えから出たものは善く、悪い考えから出たものは悪いということだ。君はそれぞれの行為の根拠になった考えを知るまでは、人を褒めたり非難したりしてはならない。ただし、考えは外側からは容易に判断されるものではない。』
    他の部分からも、他者について善悪は評価しがたい、それより肝心なのは自分自身の心 と考えているように思える
    (他者に関しては) 2. 解釈や評価よりも記述を重視する  
    にも近いような

    なお
    >君がある事実について把握可能な心像を掴んでいながら、それとは別の事柄【価値】について同意を与える、などというおかしなことにはならないだろう。

    ここは、『あるものの把握されうる心像を捉えながら、別のものとして同定することも起こらないだろう』

    掴んでいるのが、行為という把握可能なものだけなのに、価値(善悪)についてまで同定してしまう過ちを避けられる
    ということかなと。

    論考
    『5.542 しかし「Aは、pだと信じている」「Aは、pと考えている」「Aは、pと語る」は、「『p』は、pと語る」の形式である。これは、事実と対象の対応関係ではなく、事実どうしが、その構成要素である対象と対象との対応関係を通して、対応関係にあるということなのだ。』

    これをここで引用する理由は、他者という主体による「〜と考える」(命題的態度を含む文)は、世界内の事実や事態の写像ではない。真偽を問える命題ではない、ということ。
    それについては、また今度。

    以上は、他人の心の中を憶測でとやかく言うべからず(できるだけ本人の自己申告を信じよ)という自分の持論に結びつけようという目論見 ^^
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■36840 / )  ダンマパダ第九章『悪』・119、120
□投稿者/ pipit -(2024/03/17(Sun) 18:37:12)
    みなさまこんばんはー(^ ^)
    ダンマパダ119、120のBhikkhu Sujatoさまの英訳をpipitが日訳してみました。

    Even the wicked see good things,
    so long as their wickedness has not ripened.

    But as soon as that wickedness ripens,
    then the wicked see wicked things.

    Even the good see wicked things,
    so long as their goodness has not ripened.

    But as soon as that goodness ripens,
    then the good see good things.

    悪人でさえ良いものを見る、
    彼らの悪が熟していないあいだは。

    しかしその悪が熟すやいなや、
    悪人は悪いものを見る。

    善人でさえ悪いものを見る、
    彼らの善が熟していないあいだは。

    しかしその善が熟すやいなや、
    善人は良いものを見る。
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■36839 / )  日常の行動に向ける意図
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/17(Sun) 17:23:32)
    自由意志はあるのかという哲学の議論は置くとして、
    瞑想をやればやるほど、瞑想以外の日常での意図、意志が要をなすことがわかってくる。

    仏教なら瞑想以外での貪瞋痴に向けた意図が強ければ、瞑想で貪瞋痴の想念が消えることはありえない。

    意志、意図、意欲、認容。貪瞋痴への微かなOKを出してもまずい。
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■36838 / )  Re[65]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/17(Sun) 16:36:09)
    きょうはもう少しお喋り
    つぎに、〈知覚〉と〈想像〉の関係についてなんだけど、

    No36835のつづき
    No36016の、
    (c)『イメージと幻覚には欺瞞が含まれており、それらは疑似的な視覚として示されます。』
    の『欺瞞』(あざむく)は別として、〈知覚〉と〈想像〉の関係について、
    (c-A)〈想像-されるもの(非現実的なもの/現にないもの)〉によって、〈疑似的な感覚(感覚の変様態)〉が、知覚に示される。
    これと、
    (f)の『投影』
    わたしこれ、〔刺激対象を知覚する際に、個体の興味、欲求、期待などの影響を受けて、それにそうように知覚が生じる〕ってし
    て見てる。
    ここんとこ、どう見ればいいのかずーっと考えてる。

    (c-A)なんだけど、
    〈想像-されるもの〉は感覚自体に作用して〈疑似的な感覚(感覚の変様態)〉にしちゃってるのかしら?って思ったのね。
    でもそうすると、
    No36191の(w)「共現在化」となんかなんか違ってきちゃうかな?って。

    でね、こう考えて見たのね。

    〈知覚〉は、〈感覚=現実的なもの/現にあるものの感覚〉へ志向してるんだけど、知覚がそれを取り入れるときに、〈想像-されるもの(非現実的なもの/現にないもの)〉が介入して、〈想像-されるもの〉のなかの〈疑似的なもの〉も“知覚しちゃう”、って。
    ――こう見たときあざむかれてるのは知覚ってして見てもいいかもだけど。
    「知覚は感覚へ志向してそれが構成される」ってしてるなかで、想像による〈疑似的なもの〉も知覚されるって見て、こういうなかで、〈疑似的なもの〉の〈もの〉を「感覚」って呼んじゃってるんじゃないかしら?

    〈現実的なもの/現にあるものの感覚〉と〈非現実的なもの/現にないものである想像・記憶〉ってわたし分けて見たのね。
    No36191の(w)〔知覚対象は単なる現前ではなくつねに付帯現前なのである〕のように、この二つが”知覚されている”って「知覚」って言うのが使われちゃってるんじゃないかしら?
    現象学は、No36289の(qs)〔想像を・・・・知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象〕ってしてる見たいだし。

    でね、
    〈現実的なもの/現にあるものの感覚〉へ志向するのを〈端的な知覚〉ってして、これによって構成されたものを〈知覚-“されたもの”〉(これ、No36016の(o)の『現実的なものの知覚』のこと)って言うことにして、これと、〈非現実的なもの/現にないものである想像・記憶〉の両方によって構成されてるもの〈知覚“されているもの”〉って言うことにして区別して見た。
    この〈知覚“されているもの”〉が(w)のような「共現在化」ことね。
    あ、これ、現象学で、〈知覚されているもの〉のなかに〈想像〉を含めている、としたばあいね。

    こんなふうに見たんだけど、〈知覚-されたもの〉と〈知覚されているもの〉って言う言い方での区別って、なんかまぎらわしいな〜、って思って、な〜んかいい言い方ないかな〜って・・・・最近ふと思いついたのが、〈現の知覚〉、〈非現の知覚〉って言う言い方。〈現〉っていうのは「現前」「現在」「現実」のことね。

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■36837 / )  ストア派
□投稿者/ 時 -(2024/03/17(Sun) 15:32:54)
    2024/03/18(Mon) 07:31:10 編集(投稿者)

    akaimiさん、パニチェさんへ。こんにちは。今回も少し、ストア派についての考察を書きたいと思いますが、もしも会話の流れ的にお邪魔なようでしたら、他に移しますので、仰っていただければと思います。

    https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2008/597.html

    上記、論文をもとにした考察です。

    ストア派は、運命( 定義は、宇宙全体に行き渡り個々の事物を造り出す ロゴス=神 )論を説いたようですね。この場合、自由意志を否定するのではないか?という疑問が生じます。

    それならば、運命においては何を行為しても無駄(宿命論)になるという事に帰結する議論が生じ、それに対してクリュシッポスにより、運命論によっても自由意志の存在は否定されず、両者は問題なく両立するとみなす立場(両立論)が主張されました。

    ここでは、例え運命論であっても自由意志の存在は否定されないと言う両立論が展開されました。そしてその内容は、人間の行為(ないし同意・意欲)の決定的な原因は、各人の性向(性質の上での傾向。気質)にある点に自由意志を担保しようとしたものでした。

    つまりは、この性向こそが「本当の自分」だということですが、これは世界の一部であるとする世界観や人間観があると考えられるという事でしょう。

    一方、アカデメイア派のカルネアデスは、人間の心やその意志を「超自然的」なものとして捉えていましたが、一般的理解として少し無理があるでしょうか。一方、ストア派は、それらも「自然」の一部であるとみなしていましたので、こちらの方が理にかなってはいそうです。

    そして本来のアリストテレスの立場は、行為がそれぞれの人間の性向のあり方によって決定されるという点に「自由意志」の在り処を見る点でストア派に近いものだそうですが、それに反して、アレクサンドロスは、性向からも自由であるような選択可能性にこそ理性的な存在(運命論批判)としての人間の本質が存在すると考えました。

    しかし、はたして自己の性向からも自由であるような選択可能性はあるのでしょうか。

    自由意志による選択では、他の方法も選択できたという「選択可能性原理」は自明なように思われますが、近年では、決定論と自由意志の問題の根幹は、選択可能性原理の是非にあるのではなく、むしろ「自己」の捉え方の相違にあるという見方を提案されているようです。

    ・自己を「性向」と捉えると両立論の理解は可能になります。
    ・性向を「本当の自分」の外的なものであるとみなして、それからも自由であるという「自己」を求めるのであれば、非両立論になります。

    最後に、これがこの論文の哲学史的かつ哲学的な診断です。と締め括られています。

    ストア派よりに想いを書くと、自己が性向(性質の上での傾向。気質)という最終的な定義をもって終了するのならば、それはそれで問題ではありません。しかしその定義で言うのであれば、そこに自由な選択肢はありません。つまりは、自由意志による選択時の選択肢は、1つですね。なぜならば、自己選択がその性向によって決定していくのであれば、その選択肢は一つだからです。その選択肢が結果的にでも1つだけしかなかった場合、それは選択とは表現しません。つまりは、選択する自由は存在しませんね。個々人で過去を振り返ると、人生の岐路等において多くの選択肢があったように頭に浮かびますが、それらは妄想でしょう。なぜならば、実際に選ばれてきた道は一つなのですから。それを自覚なき運命と、私は呼んでいます。

    アレクサンドロスよりに想いを書くと、仏教でいうところの解脱や涅槃の境地に至った状態だと思います。ここでは「本当の自分・自己・私」等の一人称から解放されています。表現するのであれば、一切の繋縛のない自由な境地です。

    そして、ストア派の言うように、自己が性向(性質の上での傾向。気質)ならば、その性向自体は何に起因しているのか?、私は各人の遺伝子だと考えます。様々な遺伝子が、外界のその時々の様々な環境に反応して、選択肢のない一つの道を進んでいきます。そこに選択の自由はあるように思えても、実際にはないはずです。そしてその遺伝子は何に起因してるのか?私はそれこそ自然=神だと考えます。ここでいう神の定義は、全てです。

    しかし、私とは性向ですは、おかしな表現ですね。一方、私とは性向以外の存在ですも、おかしな表現です。私というのは、実生活上での便宜上の表現としての存在だけで、実在しません。ですからそれを知るものは、平安な境地での沈黙が保てます。
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■36836 / )  Re[67]: ガンダーラ
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/17(Sun) 13:01:49)
    おはようございます、floraさん。

    今、道後温泉にいます。

    さて、仰る通り玄奘三蔵の目的地はガンダーラではなくマガダ国のナーランダにあるお寺でした。お寺ですが学校のような施設で僧院とも呼ばれます。詳しくは知りませんが、個人的な修行や仏法に関する論議(ディベート?や異なる流派の論争?)も行われていました。玄奘はそこで、最高の位になりました。

    ここに辿り着く前にガンダーラを通っています。ただゴダイゴの歌の映像に出てくる玄奘のルートは正確ではありません。ガンダーラが目的地であるかのように作られています。実際はもっと東に行ってからジグザグしながら南下してナーランダに着いています。道の途中で色々話を聞き、寄り道をした結果の様です。
    下に3つURLを貼っておきます。ボクが旅の途中なので詳しく書く時間がありません。中に地図がいくつかあるのでみてください。

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%83%80%E5%9B%BD

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A9

    https://true-buddhism.com/history/genjo/



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■36835 / )  Re[64]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/17(Sun) 10:03:55)
    な〜んかいま、わたしの頭の中、いろんなのがからまっちゃてて、まとまりつかなでいるところ。
    振り返って、メルポンのわたしの、少し紐といて見ることにする。

    No36289の(qs)で、
    〔想像を・・・・知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象〕
    こういうのがわたしには分かりにくくしてるもとになってるのかも。現象学における〈知覚〉と〈想像〉の区別かな。
    で、〈端的な知覚〉っていうのをわたし想定して、〈想像〉と区別して見ることにした。以下、〈知覚〉って書いてあるところは、〈端的な知覚〉のことね。

    No36131の「ファンタスマ」
    〔知覚においてその体験された内容が感覚と呼ばれる〕
    これと、現象学の「意識の志向性」っていうのを絡めて、
    〈知覚〉は感覚(知覚の対象)へ志向し、それが構成されたものが〈知覚-されたもの〉(知覚の内容)。

    No36141の(v)
    〔知覚は現に存在するものとして定立する〕
    〔定立〕ていうの、ネットでは「肯定的判断・命題を立てること」ってあるけど、わたし、〈知覚〉を感知性のうちに入れてるから、
    〈肯定的に感じる〉ってして見て、
    〈知覚は現にあるもとして肯定的に感じてる〉

    No36016の(o)
    『現実的なものの知覚のなかに信念があるとすら言えません。・・・椅子がそこにある。ただそれだけです。』
    『現実的なものの知覚』っていうの、わたしの言う〈端的な知覚〉、そしてこれをNo36130の(t)ある〔物理的像〕のこと、ってして見てた。あと、『椅子がそこにある。ただそれだけです。』を、《〈現にある〉ただそれだけ》って言うことにした。

    これらから簡単にまとめて見ると、
    (P)「知覚」について、
    (P-1) 〈知覚〉は感覚(知覚の対象)へ志向し、それが構成されたものが〈知覚-されたもの〉(知覚の内容)。
    (P-2)〈知覚〉のなかに信念があるとすら言えず、肯定的に〈現にある〉ただそれだけの物理的像みたいな。

    あと、
    (I)「想像」については、
    No36522の(A-i) にもうちょっとつけ加えることにしたよ。
    No36525で見たように、
    (d)『想像力はつねに知覚された対象を目ざします。想像することは、内的な場面を熟視することではなく、単一の対象を参照することです。』を、
    (d-A)〈するもの-想像〉は、〈知覚-されたもの(現にあるもの)〉を“参照にしてる”。
    ってしたのをつけ加えて、
    (A-I)《〈するもの-想像〉は、〈知覚-されたもの〉を参照に、〈想像-されるもの(現にないもの)〉へ志向し、その内に〈想像-されたもの〉を産出する。〈するもの-想像〉は、現実世界との交通を遮断して、〈想像-されるもの(現にないもの)〉を、絶対的なものにする。〈想像-されたもの〉はそのなかで活動する。》
    ってして見た。


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■36834 / )  Re[20]: 日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/17(Sun) 09:59:30)
    No36831、pipitさまありがとございます。

    カントの、なんか難しそうね。

    『皿という経験的な概念において考えられている〈丸さ〉が、円の純粋に幾何学的な概念において直観されているからである。』
    ここんとこ、
    自称メルポン派のわたしのをちょっと書いて見るね。

    『皿という経験』には『概念』とか『考え』っていうのは使わないのね。
    〈丸さ〉っていうのは〈感じること〉に入れてるから。

    『円に純粋に幾何学的な概念』っていうの、後からの「知識」じゃないかしら?

    子どものときには、「皿の経験」のなかで〈丸さ〉を感じてるかもだけど、「幾何学的な概念」っていうのないんじゃないかしら?って思ったから、順番逆じゃない?って思ったのね。

    頭のいい人にとっては、「円に純粋に幾何学的な概念において、皿という経験的な概念の〈丸さ〉が考えられていて、直観されてる」のかもだけど。

    ちょっと思っただけだし、カントのとは違うくなっちゃうから、スルーしておいて。



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■36833 / )  現代思想 人生の意味の哲学(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2024/03/16(Sat) 23:22:27)
    2024/03/17(Sun) 10:29:20 編集(投稿者)

    ◇ 『現代思想2024年3月号 特集=人生の意味の哲学 』

    http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3909&status=published

    *******

    ・平たくいえば私の、あなたの、私たちの、、、、人の、生きる「意味」への問い。

    ・ここでいう「意味」とは、理由(根拠)、原因、目的、行先、、、そして意義、価値と言い換えることができるだろうか



    ・さて、私は何のために生きるのか、

    ・、、、何のために生きているのか(いま)、生きてきたのか(これまで)、生きていくのか(これから)



    (´-`).。oO






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■36832 / )  マイナ撮影にて
□投稿者/ アートポット -(2024/03/16(Sat) 19:50:10)
    訪問看護に、僕「マイナも撮影にて。」、看護師「良いんですか。」、僕「良いです。」。看護師さんにてマイナビニールからマイナ取り出して撮影にてけど、撮影されちゃやばいの?????
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■36831 / )  Re[19]: 日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/16(Sat) 19:34:04)
    2024/03/16(Sat) 20:36:15 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは(^O^)

    No36829
    > >(訳文)『皿という経験的な概念において考えられている〈丸さ〉が、円の純粋に幾何学的な概念において直観されているからである。』(『純粋理性批判3』カント、中山元先生訳、p29.30より引用)<
    >
    > カント、なんか、順番が逆になってるんじゃない?<

    @順番が逆になっている。
    A順番はこのままでよい。
    二つの考え方があるみたい。

    ファイヒンガーさんは@の意見で、↓
    >ファイヒンガーは「円の純粋で幾何学的な概念において思考されている〈丸さ〉が、皿という経験的な概念において直観されている」と読み替える。<
    らしいです。

    田村一郎先生も@の意見で、ファイヒンガーさんにならって読み替えて訳されています。(『純粋理性批判 上』宇都宮芳明先生監訳、以文社、p231参照)↓
    『たとえば皿の経験的概念は円という純粋な幾何学的概念と同種の性質を持っているが、それは後者で考えられている円さが前者において直観されるからである。』

    御子柴先生はAと捉えて、↓
    『皿という経験的概念において考えられる丸さは、円という純粋幾何学的な概念において直観されるからである。(A137/B176)』と日訳されてました。(『カント純粋理性批判』角川選書、p242)

    御子柴先生の解説としては、
    『私たちは、眼前の皿をいちいち確認して、〈ほんとうに丸い〉と判断しているのではありません。むしろ眼前に知覚される経験的な皿を、私たちが「円」という純粋幾何学的概念によって把握し、その「円」を空間という純粋な意識において丸く描出して直観しているのです。』(同本p243)
    とありました。
    異論は出るかもだけ、御子柴先生は『、カントはあえて、経験的概念と純粋概念における同種性を例に挙げて、それに直観を関係づけています。カントは、概念と直観(純粋悟性概念と現象)という異種的なものが、同種性を仲立ちとしてどのように包摂関係を実現するかという問題を考えているのでしょう。』(同本p243)と考えらているようです。

    > もっとも『考えられてる』だからカントの場合しょうがないと思うんだけど。<

    考えられてる〈丸さ〉、、、

    皿と呼ばれる物体を目にしてカントは結論づける....I think that 皿とは丸いものである。


    > わたしの経験した「皿」って呼ばれてる「物」は「まあるいの形」してるだけじゃないのね。
    > あ、カントが生きた時代は「皿」って言ったら”すべて”「まあるい形」してたのかもしれないけどね。<

    どうなんやろうね?
    普通に〈考えたら〉丸だけとは思えないけどなー(ー ー;)
返信/引用返信 削除キー/

■36830 / )  Re[38]: エピクテトス
□投稿者/ 時 -(2024/03/16(Sat) 18:54:50)
    2024/03/16(Sat) 19:38:46 編集(投稿者)

    パニチェさんへ。返信をありがとうございます。

    No36827に返信(パニチェさんの記事)

    >>浅学での現在での私の理解では、ストア派は、基本的には汎神論的な思想であるが、同時に、人間は自由意志を持つという思想だろうと感じました。
    >>ですので、人格神ではない、神への信仰がなかったとは言えないように思いますね。ただ、、それを信仰心と彼らが表現していたのかは疑問です。

    > 調べてみました。

    > 『ストア派の基本的な知見は、世界はロゴスと質料からできているとの主張に認められる。ロゴスが存在するすべての性質を規定し、質料はロゴスによる規定を受けとる。個々の存在するものの質料は世界全体の質料の一部であり、性質はロゴスによる規定の一部である。存在するものはすべて性質をともなった質料、すなわち物体である。物体はその性質によって他の物体に働きかけ、その働きかけに見合った結果を生ずる。外延において有限であるとともに、空虚を含んでいないこの世界の因果関係は必然的である。したがってロゴスは現にある世界を規定しているだけでなく、およそ時間的に実現する世界のあり方のすべてを因果的に規定していることになる。現にある世界に内在しつつ、将来起こるであろうことまで可能的に含んでいるこのようなロゴスのあり方が〈種子としてのロゴス〉(spermatikos logos)と言われる。ロゴスの内容がすべて実現し終えたとき、世界は一つの周期を終え、ふたたび初めから、寸分違わぬ世界を実現していく。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』

    > 自由意志を認めているかどうかは不明ですが、基本的には時さんのご明察通りです!

    ありがとうございます。。と、お伝えしてよいものかどうですか。。私には、その手の哲学用語の知識等がありませんので、なにやらむず痒い想いです。(笑)

    > それにしてもニーチェの永劫回帰が上記のパクリか(笑)、それとも好意的に考えれば、ある精神状態で体得される共通の智慧(インスピレーション)なのか、私にはよく分かりません。
    > 以下はニーチェが破棄し死後に刊行された『力への意志』からの引用ですが、あまりにも似すぎです(笑)。

    > 『世界を、一定の力として、また一定数の力の中心として考えることが許されるとすれば──そしてあらゆるその他の考えはあくまで疑わしく、したがって役立ちえないとすれば──、このことから結論されるのは、世界は、その大々的なさいころ遊びをつづけながらも、算定しうる一定数の結合関係を通過しなければならないということである。無限の時間のうちではあらゆる可能な結合関係がいつかは達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである。しかも、あらゆる結語関係とその直後の回帰との間には総じてなお可能なその他すべての結合関係が経過したにちがいなく、これらの結合関係のいずれもが同一系列のうちで生ずる諸結合関係の全継起を条件づけているのであるから、このことで、絶対的に同一な諸系列の円環運動が証明されているはずである。すなわち、それは、すでに無限にしばしば反復された、また、無限にその戯れをたわむれる円環運動としての世界にほかならない。──こうした構想はただちに一つの機械論的構想ではない。なぜなら、もしそうであるとすれば、この構想が条件づけるのは、まったく同一の場合の無限の回帰ではなく、一つの終局状態となるからである。世界はそうした終局状態に達したことはかつてなかったという理由から、私たちは機械論を、不完全な、たんに暫定的にすぎない仮設とみなさざるをえないのである。(力への意志 第1066番)』

    多分ですが、哲学者や宗教家と呼ばれて現代にもその名が残っているような人達は、人の幸せやその世界について深く深く考察していたのではないでしょうか。そして行きつく先の世界観が、同じようなものにたどり着いていたのではないでしょうか。そこで洋の東西での思想という形での表現が少し違うだけのように思います。同じ西洋の哲学においても、また、東洋の哲学においても、結局は、行きつく先は同じ事なんだろうなぁと感じてます。それを専門にされている先生方からは、お叱りを受けるかもしれませんが。

    > >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。

    >>悲しみに暮れる親族に対して、通常は言わないでしょうし、言えないでしょう。ですが、仮にその親族が本当に何が原因でという事を真剣に知りたいと思われたのであれば、そしてそれを伝えるという運命にあるのであれば、賢者、聖者は、伝えると思います。
    >>命に価値など無いのだという事も含めてです。そして、その時その命が消えることも運命なのだという事をですが。

    > 理屈的には同意できます。
    > 以前にYahoo!掲示板で愚さんが(惨殺された少女の事件も含めて)全ては因果応報と語ったことに対して、複数の投稿者から猛烈な批判が出ていたことがあります。
    > 私は愚さんの言うところの因果応報というのは個々を超えたところの全体運動のことであって、個別の悪因苦果とか善因楽果のようなものではないと投稿しました。

    はい。そうだと思います。通常は、その投稿者の方(パニチェさんが解釈される愚さんの発言)の想いとは別に、それを見た各人が個別に持つその言葉のイメージの違いにより、割り切れない感情が生起し、怒りに代わると思います。私ならばどうでしょうか。。それは必然です。と書いたでしょうか。。よほどでない限りは、書かないと思いますが。

    個別でのお話になりますが、原始で、因果応報と言う表現がされているという記憶はありません。ですが、アングリマーラ経という経典には、村人から石や棒切れを投げつけられて血だらけになった彼に、忍従なさい。それは、将来何百年に渡って受けるであろう業を現世で受けているのですから。と言う一節があります。業とは、思念や想念の事なのですね。つまりは、現世での古い業(事の善悪の判断ができない想念)から梵行により新しい業(事の善悪の判断ができる想念)に変わり、やがてはその業自体が消滅して、この場合においての、彼の梵行の終了だったのだろうと考えています。

    > そういう次元では同意できますが、いざ自分の身内がそのような死に方をした時にもそのように割り切れるかと自問自答した時には、正直言って今のところ割り切れる自信がありません。

    はい。そうですね。私自身も身内がそのような目にあったのであればという事をよく自問自答していた時が過去にはありましたが、原始においては、五つの煩悩である五蓋のうちの一つである疑蓋(過去・現在・未来の各種の自己について思考(邪思推)する事)という事が書かれてるのですね。ですので、限界直前までは自問自答しますが、それ以上は、今は疑である邪思惟することを意図的に遮断しています。

    返信は、お気遣いありませんように。特別何もないようでしたら、スルーという事でお願いします。
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■36829 / )  Re[18]: 日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/16(Sat) 18:10:25)
    pipitさま、お邪魔しま〜す。

    >(訳文)『皿という経験的な概念において考えられている〈丸さ〉が、円の純粋に幾何学的な概念において直観されているからである。』(『純粋理性批判3』カント、中山元先生訳、p29.30より引用)<

    カント、なんか、順番が逆になってるんじゃない?
    もっとも『考えられてる』だからカントの場合しょうがないと思うんだけど。

    わたしの経験した「皿」って呼ばれてる「物」は「まあるいの形」してるだけじゃないのね。
    あ、カントが生きた時代は「皿」って言ったら”すべて”「まあるい形」してたのかもしれないけどね。




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■36828 / )  月と太陽
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 17:30:42)
    Amazonプライムでボクシング中継を見たので、Prime Videoを期間終了まで見ている。

    一般的な評価は低いが個人的には『ムーンフォール』は面白かった。

    地球から見かけ上、月と太陽が同じ大きさなのは、地球からの距離も大きさも共に400倍であるため。。。。

    そんな偶然なんてありえる?

    しかも地球の大きさからして衛星としての月はでか過ぎる。

    月は内部に居住空間を含んだ人工物(テラフォーミング)という設定がよくできている。

    ここのところをもっと繊細に描けばリアリティーが増したかもね。
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■36827 / )  Re[37]: エピクテトス
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 16:42:59)
    2024/03/16(Sat) 16:54:54 編集(投稿者)

    時さん、返信ありがとうございます。

    No36822に返信(時さんの記事)
    > パニチェさんへ。こんにちは。意見の交換という事で、有意義です。^^

    そう言っていただけると有難いです。^^

    > ■No36819に返信(パニチェさんの記事)

    > >>===
    > >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    > >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    > >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    >>「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    >>または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    > 過去のakaimiさんのご投稿より

    > No36430
    > >自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した
    > >ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係
    > >ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた

    > エピクテトスの属していたストア派の関心事は、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係であり、それは自らへ降りかかる苦難などの運命をどのように降伏していくかの哲学であり、それを生活の方法として表していると解釈しました。

    同意です。

    > 浅学での現在での私の理解では、ストア派は、基本的には汎神論的な思想であるが、同時に、人間は自由意志を持つという思想だろうと感じました。
    > ですので、人格神ではない、神への信仰がなかったとは言えないように思いますね。ただ、、それを信仰心と彼らが表現していたのかは疑問です。

    調べてみました。

    『ストア派の基本的な知見は、世界はロゴスと質料からできているとの主張に認められる。ロゴスが存在するすべての性質を規定し、質料はロゴスによる規定を受けとる。個々の存在するものの質料は世界全体の質料の一部であり、性質はロゴスによる規定の一部である。存在するものはすべて性質をともなった質料、すなわち物体である。物体はその性質によって他の物体に働きかけ、その働きかけに見合った結果を生ずる。外延において有限であるとともに、空虚を含んでいないこの世界の因果関係は必然的である。したがってロゴスは現にある世界を規定しているだけでなく、およそ時間的に実現する世界のあり方のすべてを因果的に規定していることになる。現にある世界に内在しつつ、将来起こるであろうことまで可能的に含んでいるこのようなロゴスのあり方が〈種子としてのロゴス〉(spermatikos logos)と言われる。ロゴスの内容がすべて実現し終えたとき、世界は一つの周期を終え、ふたたび初めから、寸分違わぬ世界を実現していく。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』

    自由意志を認めているかどうかは不明ですが、基本的には時さんのご明察通りです!
    それにしてもニーチェの永劫回帰が上記のパクリか(笑)、それとも好意的に考えれば、ある精神状態で体得される共通の智慧(インスピレーション)なのか、私にはよく分かりません。
    以下はニーチェが破棄し死後に刊行された『力への意志』からの引用ですが、あまりにも似すぎです(笑)。

    『世界を、一定の力として、また一定数の力の中心として考えることが許されるとすれば──そしてあらゆるその他の考えはあくまで疑わしく、したがって役立ちえないとすれば──、このことから結論されるのは、世界は、その大々的なさいころ遊びをつづけながらも、算定しうる一定数の結合関係を通過しなければならないということである。無限の時間のうちではあらゆる可能な結合関係がいつかは達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである。しかも、あらゆる結語関係とその直後の回帰との間には総じてなお可能なその他すべての結合関係が経過したにちがいなく、これらの結合関係のいずれもが同一系列のうちで生ずる諸結合関係の全継起を条件づけているのであるから、このことで、絶対的に同一な諸系列の円環運動が証明されているはずである。すなわち、それは、すでに無限にしばしば反復された、また、無限にその戯れをたわむれる円環運動としての世界にほかならない。──こうした構想はただちに一つの機械論的構想ではない。なぜなら、もしそうであるとすれば、この構想が条件づけるのは、まったく同一の場合の無限の回帰ではなく、一つの終局状態となるからである。世界はそうした終局状態に達したことはかつてなかったという理由から、私たちは機械論を、不完全な、たんに暫定的にすぎない仮設とみなさざるをえないのである。(力への意志 第1066番)』


    > 一方で、私の学びましたアドヴァイタでの理解は、神のみが実在するという最終理解となりますので、現代で表現すると汎神論のみですので、そこに現代で表現される人間の自由意志は認められません。アドヴァイタでの理解が起これば、この世の一切の問題は消滅しますが、ストア派での思想では、そこに問題が残ります。なぜならば、そこに自由意志の存在を認めるからです。そして自由意志により必然的に起こった問題を、その自由意志で解決する方法(考え方)を説いていたのではないでしょうか。

    なるほど。

    > >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    > あなた都合での良い事ばかりを期待してはいけません。なぜならば、あなた都合での悪い事も起こるからです。

    > >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    > そのようなことよりも、何かを望むのであれば、ありのままで起こる事象は、起こるべくして起こるのだという事を望みなさい。なぜならば、宇宙論的決定論で事は起こるのですから。

    > >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。
    > 宇宙論的決定論で起こる事を理解できたのであれば、あなたは穏やかで幸せな生活を送れるでしょう。

    >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。

    > 悲しみに暮れる親族に対して、通常は言わないでしょうし、言えないでしょう。ですが、仮にその親族が本当に何が原因でという事を真剣に知りたいと思われたのであれば、そしてそれを伝えるという運命にあるのであれば、賢者、聖者は、伝えると思います。
    > 命に価値など無いのだという事も含めてです。そして、その時その命が消えることも運命なのだという事をですが。

    理屈的には同意できます。
    以前にYahoo!掲示板で愚さんが(惨殺された少女の事件も含めて)全ては因果応報と語ったことに対して、複数の投稿者から猛烈な批判が出ていたことがあります。
    私は愚さんの言うところの因果応報というのは個々を超えたところの全体運動のことであって、個別の悪因苦果とか善因楽果のようなものではないと投稿しました。
    そういう次元では同意できますが、いざ自分の身内がそのような死に方をした時にもそのように割り切れるかと自問自答した時には、正直言って今のところ割り切れる自信がありません。

    > ですので、分類するのであれば、苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。となるでしょうか。

    はい、これも同意です。

返信/引用返信 削除キー/

■36826 / )  Re[37]: エピクテトス
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 15:53:04)
    akaimiさん、こちらこそ丁寧な返信をありがとうございます。

    No36821に返信(akaimiさんの記事)

    >>「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    >>または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    > ストア派の哲学者たち、とりわけエピクテトスが「神」についてどのような考えでいたのか、についての明確なものを私はまだ掴めていません。
    > 少し調べたものによると、ストア派ではキリスト教的神とは違う汎神論的な神、宇宙の総体としての神を考えていたようです。
    > 引用したエピクテトスの言葉が神への信仰によるものなのか、またそれとは違うところから出ているものなのかについても明確なところは今はわかりません。
    > そのあたりについて私も知りたいと思い、別な本を読んでみようと思っているところです。

    もし何か分かりましたら、また教えて下さい。
    先のレスに関してはストア派やエピクテトス、また戦後の文脈からも切り離して、あの手の言説から思うところを述べさせてもらいました。

    >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    >>死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。

    > 『提要』の残されているエピクテトスの言葉は、教え子が後に師の言葉としてまとめたもので、いわば前途と志あるおそらく若い人たちに向けて私塾で教えていた際に説かれたものだと思うのです。
    > 若い人たちだけに向けたかどうかは定かではなく壮年もいたかもしれませんが、志を持ち学びに集まってきた人たちに向けて語られた言葉なのはたしかだと思います。
    > そうしたことから考えるに、不幸の最中にいて心が弱っている人々や拒否反応だけが先に立つ人々には惨く感じられる言葉でしょうし、すべての人々に対して強要されるものではないはずです。

    同意です。

    > 「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」。
    > つまり、自分の裁量でコントロールできることと出来ないことを分け、「我々次第であるもの」だけを欲望の対象とする、ことをストア派では説いています。
    > また事実と評価を区別した上で、評価は「我々次第であるもの」であるとし、善用することを勧めています。
    > 個人的に感じるのは、ニーチェの運命愛の考え方ともそう遠くないように感じるのですが、パニチェさんはどんな印象を持たれますか?

    少し調べました。

    『エピクテトスは、ちょうど彼が影響を受けたソクラテスや犬儒派と同じく、自らは著作を残さず、門弟のアリアノスの伝える言行録によってのみその活動と教説が知られる(これはコイネーで書かれている)。主人の暴力に対して、身体は衣服として見なして耐えたと伝えられているように、解放奴隷としての彼の前歴は、運命を受け入れ、感情に左右されない不動心(アパテイア)を保つ、ストア派の賢者にふさわしい逸話を提供している。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』

    まさしく運命愛の先駆けですね。
    あと。。。。

    No36736に返信(akaimiさんの記事)

    > ■No36729に返信(akaimiさんの記事)
    >>===
    >>記憶しておくがよい。君を侮辱するのは、君のことを口汚く罵る者や君を殴る者などではなく、彼らが君を侮辱していると見なす、君の考え方なのである。
    >>誰かが君を怒らせるならば、その時は君自身の判断こそが君を怒らせたのだと知るがよい。
    >>だからこそ、まず何よりも心像によって拉致されないように努めよ。
    >>というのも、一度でよいから自分で考えてみる時間と余裕とを得るならば、君自身に打ち勝つのは簡単なことだろうから。

    >>(『提要』20)
    >>===
    >>『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p93より引用

    > ブッダの言葉で、このエピクテトスの言葉と共通すると思われるものがあったのを思い出しました。
    > 以下、以前に買って読んだ別の本から引用してみます。

    > ===
    > もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。
    > わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。
    > あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。

    > ─ 罵倒するバラモンとの対峙 サンユッタ・二カーヤ

    > ===『反応しない練習』草薙龍瞬 著 p99〜p100より引用

    akaimiさんが引用された言説から、私は以下のニーチェの言葉が思い浮かびました。

    『さらにこういう比喩を、わたしはきみたちに述べておく。自分たちの悪魔を追い払おいとして、かえって、みずからブタの群れの中へ入りこんだ者たちが、少なくないのだ。(ツァラトゥストラ 純潔について13−13)』

    『おまえはわたしのサルと呼ばれている。おまえ、口からあわをふいている阿呆よ。しかし、わたしはおまえをわたしのぶうぶうブタと呼ぼう、──ぶうぶうと不平を鳴らすことによって、おまえは私の痴愚礼賛までも、だいなしにしてしまうのだ。最初おまえにぶうぶう不平を鳴らせたゆえのものは、いったい何であったか?誰も充分追従してくれなかったということだ。──おまえがこんな汚物のもとに腰をすえるのは、大いにぶうぶうと不平を鳴らすための根拠を得んがためなのだ。──大いに復讐するための根拠を得んがためなのだ!つまり、おまえ、虚栄心の強い阿呆よ、おまえが口からあわを吹いているのは、すべての復讐なのだ。わたしはおまえの正体を見事に察知したのだ! … 中略 … だが、おまえ、阿呆よ、別れに際して、わたしはおまえにこういう教えを与えよう。もはや愛することのできない場合、とるべき態度は──通りすぎることだ!──ツァラトゥストラはこのように語って、阿呆と大都市のそばを通り過ぎた。(ツァラトゥストラ 通り過ぎることについて7−32)』

    『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

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■36825 / )  Re[63]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/16(Sat) 15:17:09)
    No36798のつづき
    つぎに、
    No36774 の
    (B-A) 想像する力は、あざむく力であると同時に、〈自〉の自由の現れです。〈自〉は、〈非現実的なもの/現にないもの〉によって〈自〉を現在から解放してくれますが、それは「もの(それ)」の外で〈自〉を非現実化する力なのです。
    なんだけど、

    この「あざむく」っていうの、前に、
    No36555で、
    (c)『イメージと幻覚には欺瞞が含まれており、それらは疑似的な視覚として示されます。』
    から、
    (c-8)「想像的なもの」のもつ「あざむく力」は、〈疑似的な感覚(感覚の変様態)〉を、知覚に示す。
    (c-9)「想像的なもの」のもつ「あざむく力」によって、〈疑似的な感覚(感覚の変様態)〉が、知覚される。
    ってして見た。
    いま思うと、(c)の『欺瞞』を「あざむく」ってして、『視覚』を「感覚」ってして、
    〈イメージと幻覚には「あざむく」が含まれており、それらは疑似的な「感覚」として示される〉ってしてもいかな、って。
    あと、(c-8)(c-9)を、〈想像〉と〈知覚〉の関係だけで見て、
    (c-A)〈想像-されるもの(非現実的なもの/現にないもの)〉によって、〈疑似的な感覚(感覚の変様態)〉が、知覚に示される。
    ってしてしてもいいかな。
    そして、No36574で、
    「想像する力」って、「何」をあざむいているのかしら? 「あざむかれてる」のは」「知覚」?
    ってなって、
    No36603 で、メルポンのいう「知覚」っていうの、
    No36016の、
    (o)『現実的なものの知覚のなかに信念があるとすら言えません。・・・椅子がそこにある。ただそれだけです。』
    から、〈知覚は「あざむかれてる」とすら言えない〉ってして見て、もし、「あざむかれてる」のが「知覚」じゃないとすると、「想像する力」は、何をあざむいているのかしら?別の意識が?ってなったんだけど、今はこの別の意識を〈自〉ってして見てるところね。
    こういうんから、〈想像-されるもの〉 によって、〈自〉があざむかれてる、ってして見て、(B-A) は結局、
    (mB-A)想像する力は、〈自〉をあざむく力であると同時に、〈自〉の自由の現れです。〈自〉は、〈非現実的なもの/現にないもの〉によって〈自〉を現在から解放してくれますが、それは「もの(それ)」の外で〈自〉を非現実化する力なのです。
    ってなった。

    もっともこれ、(B-A)のように見たときに、だけどね。
    (c-A)だけからは、あざむかれてるのは〈知覚〉って見てもいいけどね。

返信/引用返信 削除キー/

■36824 / )  Re[34]: 時間論の系譜
□投稿者/ rest -(2024/03/16(Sat) 12:20:57)
    2024/03/17(Sun) 19:48:35 編集(投稿者)
    2024/03/17(Sun) 19:14:16 編集(投稿者)

    田秋さん、パニチェさん 貴重な時間を割いてレスを書いていただいて深く感謝いたします。「ジャネーの法則」に関しては定説がないようなので多様な解釈が可能だと思います。ですからあまり独断的に断定はしないほうがいいかもしれませんね。気がついたことがあったらまた書きたいと思います。
     floraさんが「理想郷」について触れられていたので少しだけ触れたいと思います。旧約聖書によれば理想郷は「エデンの園」であり、そこでは「死」もなく、弱肉強食の世界もなく草食中心のおだやかな世界です。また神の支配する国ではありますが独裁者の支配とはイメージが180度違います。まず神の支配とは神の言葉による支配であり、神の言葉は真理であり、真理は人を自由にするのです。神の国は「自由の国」なのです。(独裁者の支配する国には自由はありません。)これがキリスト教の考える理想郷だと思います。仏教の理想郷はどうなっているでしょうか。涅槃の境地、悟りの境地、輪廻転生から解放された自由の境地、あるいは西方浄土ともいわれているようです。仮にこの地上にユートピア(理想郷)を実現するとしたら、どのような国になるでしょうか。
     かって社会主義が「平等」の理想をかかげ、それを実現するために権力を集中させ、自由を失っていったように、あるいは逆にアメリカのように「自由」を理想にすると、富の集中が進み、貧富の差がつまり不平等が拡大してしまいます。(宗教上の理想と現実の求められる理想とは必ずしも一致しません。)バランスをとるために「中間層」を拡大させるというのは至難のわざです。既得権益層が必ず妨害します。なぜならそれは分配率の問題だからです。賃上げ分を価格上昇に転嫁すればいい、という問題ではないのです。
     政治の役割が大きいと思いますがそこでもネックがあります。民度の高い民主主義が望ましいのですが、民度の高い状態とは定義によれば、経済的に不安がなく、文化的に高い水準、ということですから、いかに中間層を増やすかということと教育水準をいかに高めるかということがテーマになってきます。ネックになっているのは間接民主主義の議会制度があまり民意を反映しないシステムになっていることです。まえに指摘した「党議拘束」の矛盾もあります。さらに投票率が50%を割った場合、政権は民意を反映できるのかという疑問もあります。大手メディアに「バージョンアップした民主主義」とか「深化した民主主義」とか民主主義の方向性が載っていましたが今求められているのはそれだと思います。もっと直接民主主義の利点を反映したシステムにすべきだと思います。
返信/引用返信 削除キー/

■36823 / )  Re[39]: 投稿ありがとうございました。
□投稿者/ akaimi -(2024/03/16(Sat) 12:11:03)
    時さん、お手数をおかけしてすみませんでした。
    丁寧にありがとうございました。


    >>トラブルになっている場面を無断で撮影して投稿する、という行為は現在のSNS世界では問題ではないのかな。
    >>Xで削除にならず閲覧できたということは問題視されるものではないということなのですね。
    >
    > SNSを見ていると、削除依頼が多かった場合、タイムラグはあるものの削除されているようですね。これは、その内容等には無関係の様に見えます。トラブルになっている場面を無断で撮影して投稿されたものに関しても、削除されたりされなかったりのようです。個人の意見として真っ当なことを言っていても、削除依頼が多ければ削除されているように見えます。しかし、その削除等の基準は、はっきりとは明らかにされていないようですよ。

    内容そのものではなく、削除依頼が多いと運営によって削除されるということなのですね。
    スマホで誰でもが簡単に動画撮影ができる時代、扱いは慎重にしたいですね。

    >>時さん、すみません。 ここから加筆追伸です。
    >
    >>>Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。
    >
    >>ここに書かれているのは実際にXに投稿されていた動画ですか?
    >>それとも、時さんが考えられた例え話?
    >>実際にあった投稿だと思い読んできたのですが、もしかしたら例え話なのかなとも今更ながらに思ったのです。
    >
    > このお話の内容は、過去に実際にXで投稿されたものを見たものです。
    >
    > 設定は、恐らくは外国のバスの中であること。(結果的に義足だと判明した)若い女性が、前方から見て通路の右の通路側に座っていたこと。女性の少し後ろの通路に老人(女性)が立っていたこと。その老人(女性)の直後ろに男性(初老)が立っていたこと。その男性が、何か短い言葉をかけつつ座っている女性の右肩に軽く手をやる仕草をしたこと。やや振り返った女性が、次の瞬間、無表情かつ無言で立ち上がり、直後に、後ろの男性が困惑した表情を浮かべたこと。(実際には、立っていた老人(女性)は、その席には座っていません。)そして、その場が微妙な空気に包まれたという事。
    >
    > このような記憶ですが、今朝、akaimiさんの投稿を拝見してから過去の閲覧履歴を探してみましたが見つかりませんでした。

    閲覧履歴まで見てくださったのですね。ほんとお手数をおかけしてしまいすみませんでした。

    席を譲るように若い女性に伝えた人物も、女性に対して静かに伝えていたようですね。
    となると一体何を言いたい動画だったのだろう?というのが気になってきたりもしますが、それはそれで置いておきます。(;^_^A

    > そして、私はX等を見るときには、通常は音声をオフにしていますので、言葉としてのやり取りは(多分、英語?)分かりません。エピクテトスの投稿を拝見した時に、エピソード記憶でのそのシーン(絵面)が頭によぎりましたので、こういう事かな?という事での投稿となりました。
    >
    > 一瞬ですが、あまりにも的確な映画のワンシーンのような切り取り方のようにも感じましたので、海外の方の”やらせ”の可能性(通常は、公共のバスの中をスマホ撮影していて、偶然にそのシーンが的確に映りこむというのは、少し考えにくいかもですしね)も感じましたが、あまり深読みはせず、今回の投稿としました。
    >
    > ですので、今回のお話は、実際にXに動画として投稿されたものであり、その内容を、私の理解したエピクテトスの考え方に当てはめての私の例え話としてのものでした。^^

    わかりました。 丁寧なご説明をありがとうございました。_(._.)_
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■36822 / )  Re[36]: エピクテトス
□投稿者/ 時 -(2024/03/16(Sat) 12:07:10)
    パニチェさんへ。こんにちは。意見の交換という事で、有意義です。^^

    No36819に返信(パニチェさんの記事)

    > akaimiさんや時さんの意見を聞ければ有難いですが、もちろんスルーでも結構です。

    >>===
    >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    > 「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    > または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    過去のakaimiさんのご投稿より

    No36430
    >自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した
    >ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係
    >ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた

    エピクテトスの属していたストア派の関心事は、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係であり、それは自らへ降りかかる苦難などの運命をどのように降伏していくかの哲学であり、それを生活の方法として表していると解釈しました。

    浅学での現在での私の理解では、ストア派は、基本的には汎神論的な思想であるが、同時に、人間は自由意志を持つという思想だろうと感じました。

    ですので、人格神ではない、神への信仰がなかったとは言えないように思いますね。ただ、、それを信仰心と彼らが表現していたのかは疑問です。

    一方で、私の学びましたアドヴァイタでの理解は、神のみが実在するという最終理解となりますので、現代で表現すると汎神論のみですので、そこに現代で表現される人間の自由意志は認められません。アドヴァイタでの理解が起これば、この世の一切の問題は消滅しますが、ストア派での思想では、そこに問題が残ります。なぜならば、そこに自由意志の存在を認めるからです。そして自由意志により必然的に起こった問題を、その自由意志で解決する方法(考え方)を説いていたのではないでしょうか。

    >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。

    あなた都合での良い事ばかりを期待してはいけません。なぜならば、あなた都合での悪い事も起こるからです。

    >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。

    そのようなことよりも、何かを望むのであれば、ありのままで起こる事象は、起こるべくして起こるのだという事を望みなさい。なぜならば、宇宙論的決定論で事は起こるのですから。

    >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    宇宙論的決定論で起こる事を理解できたのであれば、あなたは穏やかで幸せな生活を送れるでしょう。

    > 最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。

    悲しみに暮れる親族に対して、通常は言わないでしょうし、言えないでしょう。ですが、仮にその親族が本当に何が原因でという事を真剣に知りたいと思われたのであれば、そしてそれを伝えるという運命にあるのであれば、賢者、聖者は、伝えると思います。

    命に価値など無いのだという事も含めてです。そして、その時その命が消えることも運命なのだという事をですが。

    ですので、分類するのであれば、苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。となるでしょうか。
返信/引用返信 削除キー/

■36821 / )  Re[36]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/16(Sat) 11:52:31)
    パニチェさん、こんにちは!
    投稿ありがとうございます。


    No36819に返信(パニチェさんの記事)
    > 2024/03/16(Sat) 08:57:04 編集(投稿者)
    >
    > おはようございます、akaimiさん。横レス失礼します。
    > 以下は反論というものではないのですが時々思うことを(動画や他の言説とは切り離し、以下の言説だけに限って)書いてみます。
    > akaimiさんや時さんの意見を聞ければ有難いですが、もちろんスルーでも結構です。
    >
    >>===
    >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。
    >
    >>(『提要』8)
    >>===
    >>『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p61より引用
    >
    > 「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    > または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    ストア派の哲学者たち、とりわけエピクテトスが「神」についてどのような考えでいたのか、についての明確なものを私はまだ掴めていません。
    少し調べたものによると、ストア派ではキリスト教的神とは違う汎神論的な神、宇宙の総体としての神を考えていたようです。
    引用したエピクテトスの言葉が神への信仰によるものなのか、またそれとは違うところから出ているものなのかについても明確なところは今はわかりません。
    そのあたりについて私も知りたいと思い、別な本を読んでみようと思っているところです。


    > 最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    > 死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。


    『提要』の残されているエピクテトスの言葉は、教え子が後に師の言葉としてまとめたもので、いわば前途と志あるおそらく若い人たちに向けて私塾で教えていた際に説かれたものだと思うのです。
    若い人たちだけに向けたかどうかは定かではなく壮年もいたかもしれませんが、志を持ち学びに集まってきた人たちに向けて語られた言葉なのはたしかだと思います。
    そうしたことから考えるに、不幸の最中にいて心が弱っている人々や拒否反応だけが先に立つ人々には惨く感じられる言葉でしょうし、すべての人々に対して強要されるものではないはずです。

    「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」。
    つまり、自分の裁量でコントロールできることと出来ないことを分け、「我々次第であるもの」だけを欲望の対象とする、ことをストア派では説いています。
    また事実と評価を区別した上で、評価は「我々次第であるもの」であるとし、善用することを勧めています。

    個人的に感じるのは、ニーチェの運命愛の考え方ともそう遠くないように感じるのですが、パニチェさんはどんな印象を持たれますか?
返信/引用返信 削除キー/

■36820 / )  Re[38]: 投稿ありがとうございました。
□投稿者/ 時 -(2024/03/16(Sat) 10:39:04)
    2024/03/16(Sat) 11:45:27 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36818に返信(akaimiさんの記事)

    > 時さんの考察を拝見しました。
    > 返信は不要とありましたので、挨拶だけ。^^
    > エピクテトスの言葉に関心をもっていただいてありがとうございました。
    > ストア派の思索領域は倫理面だけではなく自然科学や論理もあり、倫理面もその下支えがあって生まれたものならしいです。
    > そこでストア派の思想についての本を読んでみることにしました。
    > 文章化できそうでしたらまた投稿にしてみます。

    楽しみにしています^^

    > 後になりふと思ったことがあります。
    > 私は撮影した動画をXにあげる、というのをしたことはないのですが、例えばどこかで綺麗な風景を見たりしたら撮ってあげるのもいいなと思うんです。
    > でも、他の方が映り込んでしまったらあげないかな。
    > 無断で見ず知らずの人が映り込んだ動画をあげてしまうのは善くないという価値基準が自分にあるからです。

    私の場合にはX等のSNSでのアカウントは作ってはいますが、もっぱら閲覧用としてなのですね。ですので自らは投稿はしませんかね。

    > トラブルになっている場面を無断で撮影して投稿する、という行為は現在のSNS世界では問題ではないのかな。
    > Xで削除にならず閲覧できたということは問題視されるものではないということなのですね。

    SNSを見ていると、削除依頼が多かった場合、タイムラグはあるものの削除されているようですね。これは、その内容等には無関係の様に見えます。トラブルになっている場面を無断で撮影して投稿されたものに関しても、削除されたりされなかったりのようです。個人の意見として真っ当なことを言っていても、削除依頼が多ければ削除されているように見えます。しかし、その削除等の基準は、はっきりとは明らかにされていないようですよ。

    > 時さん、すみません。 ここから加筆追伸です。

    > >Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。

    > ここに書かれているのは実際にXに投稿されていた動画ですか?
    > それとも、時さんが考えられた例え話?
    > 実際にあった投稿だと思い読んできたのですが、もしかしたら例え話なのかなとも今更ながらに思ったのです。

    このお話の内容は、過去に実際にXで投稿されたものを見たものです。

    設定は、恐らくは外国のバスの中であること。(結果的に義足だと判明した)若い女性が、前方から見て通路の右の通路側に座っていたこと。女性の少し後ろの通路に老人(女性)が立っていたこと。その老人(女性)の直後ろに男性(初老)が立っていたこと。その男性が、何か短い言葉をかけつつ座っている女性の右肩に軽く手をやる仕草をしたこと。やや振り返った女性が、次の瞬間、無表情かつ無言で立ち上がり、直後に、後ろの男性が困惑した表情を浮かべたこと。(実際には、立っていた老人(女性)は、その席には座っていません。)そして、その場が微妙な空気に包まれたという事。

    このような記憶ですが、今朝、akaimiさんの投稿を拝見してから過去の閲覧履歴を探してみましたが見つかりませんでした。

    そして、私はX等を見るときには、通常は音声をオフにしていますので、言葉としてのやり取りは(多分、英語?)分かりません。エピクテトスの投稿を拝見した時に、エピソード記憶でのそのシーン(絵面)が頭によぎりましたので、こういう事かな?という事での投稿となりました。

    一瞬ですが、あまりにも的確な映画のワンシーンのような切り取り方のようにも感じましたので、海外の方の”やらせ”の可能性(通常は、公共のバスの中をスマホ撮影していて、偶然にそのシーンが的確に映りこむというのは、少し考えにくいかもですしね)も感じましたが、あまり深読みはせず、今回の投稿としました。

    ですので、今回のお話は、実際にXに動画として投稿されたものであり、その内容を、私の理解したエピクテトスの考え方に当てはめての私の例え話としてのものでした。^^
返信/引用返信 削除キー/

■36819 / )  Re[35]: エピクテトス
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 08:39:29)
    2024/03/16(Sat) 08:57:04 編集(投稿者)

    おはようございます、akaimiさん。横レス失礼します。
    以下は反論というものではないのですが時々思うことを(動画や他の言説とは切り離し、以下の言説だけに限って)書いてみます。
    akaimiさんや時さんの意見を聞ければ有難いですが、もちろんスルーでも結構です。

    > ===
    > 出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    > むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    > そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    > (『提要』8)
    > ===
    > 『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p61より引用

    「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。

返信/引用返信 削除キー/

■36818 / )  投稿ありがとうございました。
□投稿者/ akaimi -(2024/03/16(Sat) 08:06:41)
    2024/03/16(Sat) 08:26:32 編集(投稿者)

    時さんの考察を拝見しました。
    返信は不要とありましたので、挨拶だけ。^^
    エピクテトスの言葉に関心をもっていただいてありがとうございました。
    ストア派の思索領域は倫理面だけではなく自然科学や論理もあり、倫理面もその下支えがあって生まれたものならしいです。
    そこでストア派の思想についての本を読んでみることにしました。
    文章化できそうでしたらまた投稿にしてみます。


    後になりふと思ったことがあります。
    私は撮影した動画をXにあげる、というのをしたことはないのですが、例えばどこかで綺麗な風景を見たりしたら撮ってあげるのもいいなと思うんです。
    でも、他の方が映り込んでしまったらあげないかな。
    無断で見ず知らずの人が映り込んだ動画をあげてしまうのは善くないという価値基準が自分にあるからです。

    トラブルになっている場面を無断で撮影して投稿する、という行為は現在のSNS世界では問題ではないのかな。
    Xで削除にならず閲覧できたということは問題視されるものではないということなのですね。

    ・ ・ ・ ・ ・
    時さん、すみません。 ここから加筆追伸です。

    >Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。

    ここに書かれているのは実際にXに投稿されていた動画ですか?
    それとも、時さんが考えられた例え話?
    実際にあった投稿だと思い読んできたのですが、もしかしたら例え話なのかなとも今更ながらに思ったのです。

    もしこの投稿を読まれていたら教えていただけるとありがたいです。

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■36817 / )  pipitさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 08:02:05)
    おはようございます、pipitさん。

    No36814に返信(pipitさんの記事)
    > いつもありがとうございます。とても貴重な勉強の機会をいただいています。
    > 感謝ですm(_ _)m

    どういたしまして。
    今や「純粋理性批判を読んでみる」トピはトピ主さんの立ち振る舞いやテーマ&内容&ボリューム等々、ニークラの品格をあげる看板トピです!
    私も勉強になりますし、こちらこそ感謝してます。
    ありがとうございます。
返信/引用返信 削除キー/

■36816 / )  Re[29]: 只今在宅療養中
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 07:55:58)
    おはようございます、キティダニエルさん。レスありがとうございます。

    No36813に返信(キティダニエルさんの記事)
    > 看護師さん、お医者さん、リハビリのセンセイに毎日来てもらっています。要するに半入院の

    > 状態。

    そうですか。
    ありきたりな言葉で申し訳ないのですが。。。
    快方に向かうことを心よりお祈りします。
    焦らず一歩一歩ご自身の身体を信じて少しづつでも歩んで下さい。
返信/引用返信 削除キー/

■36815 / )  Re[25]: 純粋理性批判B 175
□投稿者/ pipit -(2024/03/16(Sat) 00:32:03)
    2024/03/16(Sat) 12:30:01 編集(投稿者)

    No36806に返信(pipitさんの記事)
    > みなさま、おはようございます(^ ^)
    >
    > ■No36805
    >>というわけで、経験的な皿の概念は、純粋な幾何学的な円の概念と同種的なのである。
    >>前者(皿の概念)で思考された丸みが、後者(幾何学的な円の概念)では直観されるのだから。』<
    >
    > この箇所については諸説あるようで、中山元先生はこの箇所に訳注を記されています。
    > その訳注や他の方の訳や御子柴先生の解説をまた後ほど引用しようかと思っています。

    みなさまこんばんは!
    遅くなってしまいました(><)

    まずは中山元先生の訳文と訳注を引用します。

    (訳文)
    『皿という経験的な概念において考えられている〈丸さ〉が、円の純粋に幾何学的な概念において直観されているからである。』
    (『純粋理性批判3』カント、中山元先生訳、p29.30より引用)

    (訳注)
    『ここで思考と直観の関係がずれているようにみえるので、ファイヒンガーは「円の純粋で幾何学的な概念において思考されている〈丸さ〉が、皿という経験的な概念において直観されている」と読み替える。多くの邦訳も同じように読むが、あえて訂正する必要はあるまい。』
    (同本p318より引用)

    、、、原文はどうなってるのかな?手持ちのKindleでは、、、(文字化けする文字は似た文字に置き換えました)

    So hat der empirische
    Begriff eines Tellers mit dem reinen geometrischen eines Zirkels
    Gleichartigkeit, indem die Rundung, die in dem ersteren gedacht wird,
    sich im letzteren anschauen laBt.

    これをDeepLで英訳すると、

    Thus the empirical
    concept of a plate with the pure geometrical concept of a circle
    similarity, in that the roundness which is conceived in the former
    can be seen in the latter.

    となりました。

    ※もう一度DeepLに英訳してもらうと違う文章になりました。もしかしたら前回は原文を私が崩してしまったかもなので、今回出た英訳もコピペします。
    Thus the empirical
    concept of a plate has the same nature as the pure geometrical concept of a circle
    similarity, in that the roundness which is conceived in the former
    can be seen in the latter.

    続き(田村一郎先生の訳と御子柴先生の解説の引用)はまた後ほど、、、

    おやすみなさいー(( _ _ ))..zzzZZ


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■36814 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/16(Sat) 00:14:38)
    いつもありがとうございます。とても貴重な勉強の機会をいただいています。
    感謝ですm(_ _)m
返信/引用返信 削除キー/

■36813 / )  只今在宅療養中
□投稿者/ キティダニエル -(2024/03/15(Fri) 22:28:13)
    看護師さん、お医者さん、リハビリのセンセイに毎日来てもらっています。要するに半入院の

    状態。
返信/引用返信 削除キー/

■36812 / )  純粋理性批判を読んでみる。53
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/15(Fri) 22:06:11)
    トピ主:pipitさん

    引き続きよろしくお願いします。



返信/引用返信 削除キー/

■36811 / )  金儲けのための大義名分
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/15(Fri) 21:42:36)
    社会正義?

    アホか。。。

    金儲けのための記事やろが

    BBCの爪の垢でも煎じて飲め

返信/引用返信 削除キー/

■36810 / )  永井均著「子どものための哲学」
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/15(Fri) 21:35:12)
    こんばんは、knowing itselfさん。横レス失礼します。

    No36754に返信(knowingitselfさんの記事)

    > 魂と「私」の問題は、仏教思想の根本にあるものなので、もしその秘密が知りたいなら、まずは般若心経などの仏典や、道元の「正法眼蔵」などを読み、つべこべ言わず座禅を組んで修行すべし、とかつては言われたものですが、そういう旧来の雰囲気をひっくり返したのが永井均「子どものための哲学」であり「翔太と猫のインサイトの夏休み」です。

    > 「神さまと神はどう違うのか?」上枝美典 236ページより引用

    持ってなかったので「子どものための哲学」を購入しました。
    読んでみます。

返信/引用返信 削除キー/

■36809 / )  Re[33]: 時間論の系譜
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/15(Fri) 21:30:30)
    こんばんは、restさん。レスありがとうございます。

    No36769に返信(restさんの記事)

    > こむつかしい書き方をしているのでたぶん読まれないだろうな、と思っていましたが安心しました。

    restさんの投稿は、レスしてない時でも読ませてもらってますよ。^^

    > パニチェさんに紹介していただいた「分数仮説」ですが1年の長さを人生の経過した年数で割った数字はなぜ時間の速さを示しているのか疑問です。人生の経過年数における1年の割合が時間の速さというのは理解に苦しみます。それよりも私が書いた
    > > A、Bが並んで一定の速度で走っているとしよう。Bがスピードを上げるとAは段々と遅く走っているように見える。そしてBがスピードを落としていくとAは段々と速さを増していくように見える。Aを時計の針の変化、Bを意識の変化と考えれば同様のことがいえるのである。
    >  のほうが時間の速さを明確に示しているのでわかりやすいと思うのですが。

    同意します。
    分数仮説などと大そうなタイトルを付けてしまいましたが、私が独断でもってこんな要素もあるのかなぁ〜とボンヤリ考えていたことです。
    あくまで主観的なものですが生きてきた時間から1年を振り返れば歳を取るとともに相対的に短くなるみたいな感覚です。

    > > 鋭敏性仮説
    > >子どもの頃は初体験が多くそれぞれの出来事に対して感覚や感情が敏感に反応するが、歳をとるとともに経験が増え出来事に対しての目新しさがなくなり鈍感になる。一日の時間の流れでも印象的なエピソードが多ければ体験した時間は長く感じられるが少なければ早い。これに同じ。

    > 上記の「鋭敏性仮説」のほうが私の仮説と重なっているような気がします。ただ
    > 年をとると時間があっという間に過ぎるというのは個人差があるので、たとえば若くても新しい経験が少なくルーティン化していると時間がたつのが速く感じられるので必ずしも年齢によって決まるとは言えません。ジャネーの法則は傾向性とはいえても科学的法則とまではいえないと思います。ですから年とって時間が速くなったと感じたら、新しい経験を増やすとか、思考速度を速める訓練をすれば時間が経つのも遅くなるだろうと思います。

    同意です。
    鋭敏性仮説も分数仮説と同じくなんとなくこんな要素もあるかなぁ〜と考えていた戯言みないなものでして、失礼しました。^^:

返信/引用返信 削除キー/

■36808 / )  Re[36]: 考察
□投稿者/ 時 -(2024/03/15(Fri) 16:25:51)
    > 事の発端は、(結果的に分かった)義足の女性Aに対して席を譲るように促したCです。自身の思いにより外界の状況を変えようとした行為です。

    後日、Aに席を譲るべく促したCにエピクテトスが遭遇したのならという想像でのお話です。

    Cよ、当人の考えた事、またその状況をきちんと識別しないうちに判断したこと、それが良いかどうかを君はどこから知るのかね?

    出来事が、君の望むように起こることを求めてはならないよ。
    むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    なぜならば、事は、起こるべき時に起こるべくして起こるのだから。

    そうすれば、君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。
返信/引用返信 削除キー/

■36807 / )  ガンダーラ
□投稿者/ flora -(2024/03/15(Fri) 15:14:15)
    田秋さん、おはようございます。

    ゴダイゴの「ガンダーラ」を聞いて『西遊記』の最終目的地がガンダーラだと思っていたのですが、実はマガダ国のナーランダー寺なのですか? 

    https://www.youtube.com/watch?v=mC0DxoVStGw&ab_channel=Playwithcats-2

    話は変わりますが、ジェームス・ヒルトンの『失われた地平線』、これは、飛行機事故から 中国とチベットにある理想郷にたどり着くお話しなのですが、ユートピア的、理想郷的、そしてラマ教というどことなくゴダイゴの歌う『ガンダーラ」をイメージさせるところでした。

    その理想郷の名はシャングリア、世界的ホテルチェーンの名前にもなっていますね。
返信/引用返信 削除キー/

■36806 / )  Re[24]: 純粋理性批判B 175
□投稿者/ pipit -(2024/03/15(Fri) 06:47:51)
    みなさま、おはようございます(^ ^)

    No36805
    > というわけで、経験的な皿の概念は、純粋な幾何学的な円の概念と同種的なのである。
    > 前者(皿の概念)で思考された丸みが、後者(幾何学的な円の概念)では直観されるのだから。』<

    この箇所については諸説あるようで、中山元先生はこの箇所に訳注を記されています。
    その訳注や他の方の訳や御子柴先生の解説をまた後ほど引用しようかと思っています。


返信/引用返信 削除キー/

■36805 / )  Re[23]: 純粋理性批判B 175
□投稿者/ pipit -(2024/03/14(Thu) 22:56:58)
    2024/03/14(Thu) 23:00:19 編集(投稿者)

    みなさまこんばんはー
    No36791の英訳をpipitが意訳・日訳してみました。

    『概念の下への対象の包摂全てにおいて、
    対象の像はその概念と同種的でなければならない;

    言い換えれば、その概念に含まれていなければならないのだ
    ---その概念に包摂される対象において表現されているものが---。

    「ある対象がある概念の下に含まれている。」という表現の意味はこれである。

    というわけで、経験的な皿の概念は、純粋な幾何学的な円の概念と同種的なのである。
    前者(皿の概念)で思考された丸みが、後者(幾何学的な円の概念)では直観されるのだから。』
返信/引用返信 削除キー/

■36804 / )  Re[62]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/14(Thu) 21:07:39)
    pipitさま、返信ありがと。

    >死んだおじさんおばさんはどこに、、、どこにもいなくなったのかぁ、、、<

    pipitさまのおじさんおばさん、pipitさまが生きてるあいだは〈存在してる〉ってわたし思うよ。

    わたしのばあい、「存在する」っていうの、〈そのようにして存在してる〉ってしてるから。

    「幸せ」って、人間の「思い込み」から逃れることができなし、たぶん、そのうちの問題で、他者が決められることじゃないんじゃないかな?って。


返信/引用返信 削除キー/

■36803 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/14(Thu) 20:33:47)
    今日は90歳超えで、ネギつくってるおじさんと話した。
    明日も元気だとうれしいな


    Spotifyの無料部分をラジオみたいにして流してるんだけど、アカデミー賞とったからと思うけど、スタジオジブリ集があったので、聴いてる。

    今トトロの

    さっきナウシカのあったから、風の谷のナウシカ観たくなったなー

    映画館で観たいなー
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■36802 / )  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/14(Thu) 20:18:48)
    2024/03/14(Thu) 20:23:37 編集(投稿者)

    悪魔ちゃんこんばんは(^ ^)

    No36799に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > あ、ごめん。No間違えちゃった。No36552じゃなくて、
    > No36522でした。(また間違ってないかしら?)<

    No36552がpipitの投稿だったんだね!
    No36552に返信(pipitさんの記事)
    >> 限界集落かもの超高齢化社会の世界の片隅で生きているので、
    > 知っている人が亡くなっていく
    > 人はどこからきてどこへいくのか、、、なんて言葉が頭に浮かぶ
    > みんな一緒に歳をとっていく
    > 今日は戦争を直接知ってそうな人とほんの少しだけ話せた
    > お元気で農作業もされてる89歳
    > いろんな経験をされてきた、目にしてきた人生なんだろうなぁ<<


    > pipitさま、ごめんついでにちょと書きま〜す。
    > 「人」を「私」って見たとき、
    > 「人はどこからきてどこへいくのか」って言う人、「私」を客観的に見てるのかな?<

    とりあえずNo36552の内容をpipitが心に思った時の「人」は最初は死んでいったおじさんおばさんたちのことを思ってて、次に、「私もまた、だな」と思ったよ。
    今純理トピでちょうど読んでるんだけど、包摂関係だよね?
    「人」の下に、死んだおじさん、おばさん、pipit...みんな.....
    こういうふうに見る人が、「私」を客観的に見てる人、かな?
    そうだとすると、そのときわたしはわたしを客観視してたのかな。


    > わたしだったら、
    > 「私はここにいてどこへもいかない」って言うかな。
    > あ、「いかない」じゃなくて「いけない」かな。
    > だって「絶対的なここ」っていう「私の身体」からは逃れることできないから。<

    死んだおじさんおばさんはどこに、、、どこにもいなくなったのかぁ、、、


    > 自らの意志で逃れられるとすれば自死かな?
    > このとき、「私はどこからきてどこへいくのか」が問えるのかも?て。
    > でも死んじゃったら「どこへいくのか」なんて問えないんじゃない?ともわたし思ってる。<

    もし死んだら無だとすると、問う行為も生まれなさそうだもんね。


    > この問いに答えを出してるのが宗教?キリスト教とか仏教?
    > でもそういう教えって”生きてる人”あるいは”生きていた人”の言じゃない?
    > 死んだ人の言じゃないと思うのね、わたしのばあい。<

    うん。

    昔さぁ、お酒に酔っ払ってセミの一生を思うと泣けてきて泣いてたら、セミはセミできっと幸せなんだよ、ってなぐさめ(?)られてたの、なんか思い出したよ。

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■36801 / )  Re[62]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/14(Thu) 20:00:50)
    いわゆる上の方の役職についてる国会議員さんって、けっこうそれなりに「高齢者」みたいじゃない?
    「認知症」っていう見方は、国会議員さんには適用されない、っていうことでいいのかしら?

    「記憶にございません」っていう発言をこういう症状から見ることはしないのかしら?

    運転免許証更新のときに、こういうチェックがあるみたいだし、「記憶にございません」って言う国会議員さんもこのチェックした方がいいんじゃない?

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■36800 / )  Re[61]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/14(Thu) 19:27:01)
    そこはかとなく、

    「人はどこからきてどこへいくのか」って問うてる?人の、その「人」って言うの、自分自身は含まれてないのかしら?
返信/引用返信 削除キー/

■36799 / )  Re[60]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/14(Thu) 19:08:59)
    あ、ごめん。No間違えちゃった。No36552じゃなくて、
    No36522でした。(また間違ってないかしら?)

    pipitさま、ごめんついでにちょと書きま〜す。
    「人」を「私」って見たとき、
    「人はどこからきてどこへいくのか」って言う人、「私」を客観的に見てるのかな?
    わたしだったら、
    「私はここにいてどこへもいかない」って言うかな。
    あ、「いかない」じゃなくて「いけない」かな。
    だって「絶対的なここ」っていう「私の身体」からは逃れることできないから。
    自らの意志で逃れられるとすれば自死かな?
    このとき、「私はどこからきてどこへいくのか」が問えるのかも?て。
    でも死んじゃったら「どこへいくのか」なんて問えないんじゃない?ともわたし思ってる。
    この問いに答えを出してるのが宗教?キリスト教とか仏教?
    でもそういう教えって”生きてる人”あるいは”生きていた人”の言じゃない?
    死んだ人の言じゃないと思うのね、わたしのばあい。


返信/引用返信 削除キー/

■36798 / )  Re[59]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/14(Thu) 18:21:02)
    いまNo36746を見てるよ。

    No36774のつづき
    わたしが見たようなので考えていって見る。
    (@-A) 、(A-A) 、(D-A)、のところ、
    〈非現実的なもの/現にないもの〉を、〈想像-されるもの〉ってして、

    (@-A) 〈非現実的なもの/現にないもの〉のなかで〈自〉がもつ信念
    → 〈自〉は、〈想像-されるもの〉のなかで信念をもつ。
    (A-A) 〈非現実的なもの/現にないもの〉によって、〈自〉は絶対的なものとかかわることになります。
    → 〈想像-されるもの〉は絶対的なもので、それに〈自〉はかかわってる。
    (D-A) 〈自〉が本当に信じているのは〈非現実的なもの/現にないもの〉です。
    → 〈想像-されるもの〉を〈自〉は本当に信じてる。
    ってして見て、
    これと、
    No36552で見た、
    (A-i)〈するもの-想像〉は、現実世界との交通を遮断して、〈想像-されるもの〉を絶対的なものにする。
    を結びつけて、
    あと、
    No36016の(b)の『イメージは、内的もしくは「心的」な「事物」ではなく,むしろ包括的な確信です』、の『イメージ』を〈想像-されるもの〉、『内的もしくは「心的」な「事物」』を〈端的に知覚-されたもの〉ってして見て、
    (b-1) 〈想像-されるもの〉は、〈端的に知覚-されたもの〉ではなく、むしろ包括的な確信、
    もっと簡単に、
    (b-2) 〈想像-されるもの〉は、‥‥包括的な確信

    こういうの、まとめて

    (i-z)〈想像-されるもの(非現実的なもの/現にないもの)〉は、〈自〉にとって、絶対的なもの、確信となってる。

    って見とくことにする。

    まだつづく
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■36797 / )  Re[71]: 出入りの息はお経そのもの
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/14(Thu) 16:42:31)
    管長のお話だと、余語翠厳禅師もそういうことを書いているそうです。
    余語翠厳禅師は二十世紀に活躍した曹洞宗の禅僧。

    知ってました?

    曹洞宗も幅が広いからね。自分の法系ばかり取り上げて近視眼になる人は少なくないが。
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■36796 / )  Re[33]: 時間論の系譜
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/14(Thu) 16:29:58)
    こんにちは、restさん

    お返事ありがとうございます。

    主観的時間経過はそれこそ主観に左右されることが多く、感じ方も人それぞれです。いずれ科学的に説明される日がくると思いますが、今は「へええ、そういう感じ方もあるんだ」くらいが良いのかも知れません。

    ボクの死生観と感覚的時間経過の考察も常にそう感じている訳でもなく、自分なりに理由をつけようとするとこうなのかな?という程度です。

    興味ある話題だったので自分の考えをまとめる意味もあり書いてみました。また参加できる話題のときに横レスしたいと思います。

    どうもありがとうございました。
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■36795 / )  出入りの息はお経そのもの
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/14(Thu) 12:37:41)
    「出入りの息はお経そのもの」by横田南嶺

    臨済宗円覚寺の横田南嶺管長による上記フレーズに触れたとき、確かにそうだろうと納得した。
    全体の講話を聞いたわけではないが。

    呼吸瞑想がお経そのものになるような境地。ここでお経というのは、文字テキストとしての仏教経典ということではなく、ダンマそのものであるお経という含意だと捉えている。

    キリスト教なら、祈りと神のことばが完全に一つになる境地


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■36794 / )  考察
□投稿者/ 時 -(2024/03/14(Thu) 11:30:05)
    物事には、自分次第でできることとできないことがあります。きっとエピクテトスは自由人の哲学という事で、それら両者を分けて判断することを説いていたのでしょうか。

    ここで前出のバスの中の人々について考察してみます。状況は以下の通りです。

    > Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。

    ・義足の女性をA。席を譲られた老人をB。席を譲るように促した人をC。周りの乗客をDとします。

    ここで自分自身でできることを判断し行為したのは、まずは席を譲るよう促したCです。それを受けて義足の女性Aが席を譲りました。それを受けてBが席に着こうとしました。

    自分の外界に対しては思い通りの結果は基本的には期待できませんので、それを期待して発言したCの判断ミスです。しかし、義足の女性Aは外界(Cの発言)をそのまま受け入れて席を立ちました。この時、周りの乗客であるDは傍観していますので、外界に対して何も反応していません(無反応という反応とも言えます)そしてBは、自身の外界である席が空いたという事で席に着こうとしました。この場合も自らが席に座りたかったかったのであれば、その判断に間違いはないでしょう。

    外界で起こるすべての事柄は、基本的に受け入れるしかありません。なぜならば、それらは自身の思いという自由意志でのコントロールが不可能だからです。唯一コントロールが可能とするの"ならば"、自身の内界である心の持ちようだと思います。

    ここで再考察です。

    事の発端は、(結果的に分かった)義足の女性Aに対して席を譲るように促したCです。自身の思いにより外界の状況を変えようとした行為です。

    次には、自身でコントロール不可能な外界の状況を受け入れるしかない事柄に従ったのが義足の女性Aです。従っただけで外界に対して何も指示命令していません。

    そして空いた席に着こうとした老人Bも、外界に対して何も指示命令せずに起こった事象に対して従っただけの行為です。

    言うまでもなく、周りの乗客であるDもただ外界の事象を客観視していただけですので、何も指示命令していません。

    ・エピクテトス的発想での結論。

    エピクテトスの教えが必要なのは、Aに対して席を譲るように促したCだけです。

    ・エピクテトス的発想での理想形。

    この状況下での理想形は、それに気が付いた場合、義足の女性Aが後ろのご老人 Bに対して何の見返りも求めずに席を譲ることでしょう。(周りの乗客Dも同じことが言えます)

    つまりは、自身の判断でのご老人に席を譲るという見返りを求めない瞬発的判断が善という事になるのでしょうか。(この場合、そんな年じゃない!と叱られても、見返りを求めていないのですから、これは失礼しました。の一言で、問題はありませんね。)

    もしもエピクテトスがA,B,C,Dだったならば・・・

    Aの場合、多分、それに気が付けば、Bに席を譲ろうとしたでしょう。
    Bの場合、何も言わずに立っていたでしょう。
    Cの場合、何も言わずに傍観していたでしょう。
    Dの場合、同じく、何も言わずに傍観していたでしょう。

    akaimiさんとの対話においての時の疎い考察ですので、ご返信は不要です。
返信/引用返信 削除キー/

■36793 / )  警視庁・捜査一課長
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/14(Thu) 10:26:34)
    ブギウギで愛子ちゃんの誘拐事件が勃発、刑事が出てきましたが、刑事役が内藤剛志で、思わず捜査一課長・大岩純一とダブってしまいました^^



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■36792 / )  Re[34]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/14(Thu) 08:38:01)
    2024/03/14(Thu) 08:39:47 編集(投稿者)

    時さん、レスありがとうございます。

    No36789に返信(時さんの記事)


    > もしかすると、、ごくごくシンプルな教えのような気がします。
    >
    > 基本的に人には夫々で漠然とした善悪の判断基準があると思いますが、それをもって外界の事象に対して一方的に事の善悪を決めつけ、押し付けてはならない。その個人の善悪という価値判断基準を押し付けることはせずに、まずは事実のみで語りなさい。という事だと理解しました。

    はい。その通りだと思います。
    それから、「当人の考えをきちんと識別する」をしての判断の大切さ、を解いているようですね。

    > Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。
    >
    > 多分、このような事でしょうか。一見すると、バスで若者が座っており、老人が立っているので若者が老人に対して席を譲るべきだという価値基準のみを押し付けた結果、その女性は義足だったという事で気まずいことになってしまったと。義足ならば確認すれば分かるかもしれませんが、その状況(表面)だけを見て、自身の価値判断基準でそれを押し付けてはならないという事でしょう。

    私はその動画を見ていないので、状況の詳細について知る由はないのですけれど、席を譲るように言われ立ち上がった女性の気持ちを想像すると辛いですね。
    それから、高齢者に席を譲るようにと言われた方がどのような心境から女性に伝えたのかも気になります。

    > 仮に、このシーンにエピクテトスが遭遇したとするならば、、どのような行動に出るのか?出ないのか?そこのところを知りたかったのですね。エピクテトスが老人の場合、若い女性の場合、後ろから声をかけた人の場合、それらを客観視している人の場合です。つまりはエピクテトスが自身の善悪の行為に至る場合の判断基準です。

    ううん。。それは難しいですね。
    エピクテトスならどうしたでしょうか。


    > しかし、同じバスの中で座っている若者が、立ってる老人に対して席を譲ろうとした結果「ご親切にありがとう」と快く座る方がいる反面「私はそんな年じゃない!」と逆に親切心が踏みにじられるケースもあります。
    >
    > いずれにしましても瞬発的に沸き起こる親切心での行動では、お相手の心情まではくみ取れないように思いますね。
    >
    > 思考の結果としての行為に至る判断基準は、簡単ではなさそうです。

    そうですね。瞬間的な判断基準は難しいというか、どういう結果になるかはそれこそ時と場合により違いますね。
    ただ思うのは、バスで席を譲ったら「そんな年寄りじゃない!」と怒られてしまう若者がいたなら、そうしたことも人生の一つの経験かなと。
    様々な経験を通して経験値が上がっていく、というのは人生もゲームも同じかもしれません。
    それに従い、判断も円滑なものになっていく可能性があると思います。

    ===
    出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    (『提要』8)
    ===
    『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p61より引用

    この言葉なども、聞く時の状況次第では反感をおぼえてしまいそうな厳しい言葉だとは思うのですが、こうしたことも言っていたのだなと感慨深いような気がします。


    > ご返信をありがとうございました。


    こちらこそありがとうございました_(._.)_
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■36791 / )  Re[22]: 純粋理性批判B 175
□投稿者/ pipit -(2024/03/13(Wed) 23:38:30)
    (次の箇所)
    In all subsumptions of an object under a conception, the representation of the object must be homogeneous with the conception; in other words, the conception must contain that which is represented in the object to be subsumed under it. For this is the meaning of the expression: “An object is contained under a conception.” Thus the empirical conception of a plate is homogeneous with the pure geometrical conception of a circle, inasmuch as the roundness which is cogitated in the former is intuited in the latter.

    (DeepL日訳)
    つまり、概念には、その概念に包含される対象の中に表されているものが含まれていなければならない。これがこの表現の意味である:「対象は観念の下に含まれる」。このように、皿という経験的な観念は、円という純粋幾何学的な観念と同質である。

    上記引用箇所から読んでいこうと思います♪
返信/引用返信 削除キー/

■36790 / )  Re[21]: 純粋理性批判B 175
□投稿者/ pipit -(2024/03/13(Wed) 23:35:33)
    みなさまこんばんはー
    とりあえず次のタイトルだけ....

    TRANSCENDENTAL DOCTRINE OF THE FACULTY OF JUDGEMENT OR, ANALYTIC OF PRINCIPLES

    Chapter I. Of the Schematism at of the Pure Conceptions of the Understanding

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#linknote-26

    『the Schematism (図式)』論ということですね

    今日は眠いのでおやすみなさいー(( _ _ ))..zzzZZ
返信/引用返信 削除キー/

■36789 / )  Re[33]: エピクテトス
□投稿者/ 時 -(2024/03/13(Wed) 16:41:31)
    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36787に返信(akaimiさんの記事)

    >>著書にそれらしき答えは書かれているのでしょうか?もしもあるのであれば、教えていただければと思います。もしも書かれていないのであれば、akaimiさんのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。m(__)m

    > 昨日私が本から引用させていただいた短い文章は、エピクテトスの教え子がまとめた『提要』45の一部分でした。
    > 今日はまずその全文を引用してみますね。

    ありがとうございます。お手数をおかけしてすみません。

    > ===
    > ある人が素早く入浴する。「彼は入浴の仕方が悪い」とは言うな。
    > 「素早く入浴する」と言いなさい。
    > ある人がたくさん酒を飲む。「彼は飲酒の仕方が悪い」とは言うな。
    > 「たくさん酒を飲む」とだけ言いなさい。
    > というのも、当人の考えをきちんと識別しないうちに、それが本当に悪いかどうかを君はどこから知るのかね。
    > そのように慎重になれば、君がある事実について把握可能な心像を掴んでいながら、それとは別の事柄【価値】について同意を与える、などというおかしなことにはならないだろう。

    > (『提要』45)

    > ===
    > 『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p145より引用

    > p147に解説があります。
    > ===
    > 行為者本人が何を意図していたか、動機や目的が決定的に重要である。
    > そうだとすれば、我々は他人の行動の表面だけを見て、その意図を正確に見抜くことなしに軽々と行為の善悪を判断するわけにはいかない。
    > ===同書p147より引用

    > ===
    > 事実を把握するところで立ち止まれ。そこから先の、善悪の価値判断を下すには慎重であれ、と。

    >>師よ、師の仰ることは間違いではないと考えますが、師が私に尋ねられた「本当に悪いかどうか」は、私は何を基準にして判断すれば良いのでしょうか?
    > というご質問ですね。

    はい。その通りです。個人の中での善悪の判断基準の事です。

    > 同書に載っている『提要』の言葉の中に、「物事の判断の基準」としてエピクテトスが、「このように判断しなさい」というような「エピクテトスが勧める一つの基準」を説いていると思われる箇所は無いように私には思えます。
    > 『提要』には、この本に収められている言葉以外にもエピクテトスの言葉が収められているようなので、もしかしたらふれられている言葉もあるかもしれないですが、現状ではわかりません。

    ありがとうございます。了解しました。

    > 今、引用した『提要』45の文章と解説から読み取れるのは、
    > 「事実を把握するところで立ち止まり、善悪の価値判断には慎重であるべき」ということだと思います。

    > もちろん最終的には自分の判断ということにはなりますが、表面だけを見ずに慎重に判断することの大切さを説いていると私は捉えています。

    > 私自身、共感できる言葉だなぁ、と感じてます。
    > 例えば、一見乱暴でとっつきにくい言動をする人でも本当は優しい人な場合もあったりしますし。
    > 価値判断への慎重さというのは他者への寛容とも関わってくると思いますから心がけたいです。

    もしかすると、、ごくごくシンプルな教えのような気がします。

    基本的に人には夫々で漠然とした善悪の判断基準があると思いますが、それをもって外界の事象に対して一方的に事の善悪を決めつけ、押し付けてはならない。その個人の善悪という価値判断基準を押し付けることはせずに、まずは事実のみで語りなさい。という事だと理解しました。

    Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。

    多分、このような事でしょうか。一見すると、バスで若者が座っており、老人が立っているので若者が老人に対して席を譲るべきだという価値基準のみを押し付けた結果、その女性は義足だったという事で気まずいことになってしまったと。義足ならば確認すれば分かるかもしれませんが、その状況(表面)だけを見て、自身の価値判断基準でそれを押し付けてはならないという事でしょう。

    仮に、このシーンにエピクテトスが遭遇したとするならば、、どのような行動に出るのか?出ないのか?そこのところを知りたかったのですね。エピクテトスが老人の場合、若い女性の場合、後ろから声をかけた人の場合、それらを客観視している人の場合です。つまりはエピクテトスが自身の善悪の行為に至る場合の判断基準です。

    しかし、同じバスの中で座っている若者が、立ってる老人に対して席を譲ろうとした結果「ご親切にありがとう」と快く座る方がいる反面「私はそんな年じゃない!」と逆に親切心が踏みにじられるケースもあります。

    いずれにしましても瞬発的に沸き起こる親切心での行動では、お相手の心情まではくみ取れないように思いますね。

    思考の結果としての行為に至る判断基準は、簡単ではなさそうです。

    ご返信をありがとうございました。
返信/引用返信 削除キー/

■36788 / )  打ち上げ失敗
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/13(Wed) 16:37:39)
    2024/03/13(Wed) 17:08:50 編集(投稿者)

    民間小型ロケット「カイロス」の打ち上げが失敗した。発射直後に爆発したが、この爆発そのものは自爆らしい。

    詳細は分からないがこのまま飛行しても軌道に投入できないと判断したため?という書き込みもある。

    失敗の原因を究明していくことになるが、物的証拠は爆発でもうないからデータで解析するのかな。データのみで原因究明が出来るから自爆させたのだろうが・・・

    そうかと思うと遠く(宇宙空間)離れた機器の故障を遠隔操作で直すこともある。

    ニュースではこの失敗に概ね好意的であった。

    「宇宙開発は失敗の連続であった」
    「この失敗にめげずに頑張ってほしい」
    など。

    色々あるだろうが、ボクも頑張ってほしいと思う一人である。
返信/引用返信 削除キー/

■36787 / )  Re[32]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/13(Wed) 12:14:45)
    時さん、こんにちは。
    レスありがとうございます。
    春の長雨とでもいうのでしょうか、昨日はよく雨が降りました。
    桜や春の花々、草木にとっても人間にとっても潤いの雨でした。

    No36781に返信(時さんの記事)
    > 2024/03/12(Tue) 12:47:29 編集(投稿者)
    > 2024/03/12(Tue) 12:47:19 編集(投稿者)
    > 2024/03/12(Tue) 12:16:02 編集(投稿者)

    > 仮に、エピクテトスを師とし、時が弟子と仮定したお話としてお尋ねします。
    >
    > 師よ、師の仰ることは間違いではないと考えますが、師が私に尋ねられた「本当に悪いかどうか」は、私は何を基準にして判断すれば良いのでしょうか?
    >
    > なぜならば、師の仰ることを理解するのであれば、まずは標準装備としての私の中での判断基準があった上で、お相手の考えの理解とその後の善悪の識別があると考えるからです。
    >
    > 著書にそれらしき答えは書かれているのでしょうか?もしもあるのであれば、教えていただければと思います。もしも書かれていないのであれば、akaimiさんのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。m(__)m

    昨日私が本から引用させていただいた短い文章は、エピクテトスの教え子がまとめた『提要』45の一部分でした。
    今日はまずその全文を引用してみますね。

    ===
    ある人が素早く入浴する。「彼は入浴の仕方が悪い」とは言うな。
    「素早く入浴する」と言いなさい。
    ある人がたくさん酒を飲む。「彼は飲酒の仕方が悪い」とは言うな。
    「たくさん酒を飲む」とだけ言いなさい。
    というのも、当人の考えをきちんと識別しないうちに、それが本当に悪いかどうかを君はどこから知るのかね。
    そのように慎重になれば、君がある事実について把握可能な心像を掴んでいながら、それとは別の事柄【価値】について同意を与える、などというおかしなことにはならないだろう。

    (『提要』45)

    ===
    『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p145より引用

    p147に解説があります。
    ===
    行為者本人が何を意図していたか、動機や目的が決定的に重要である。
    そうだとすれば、我々は他人の行動の表面だけを見て、その意図を正確に見抜くことなしに軽々と行為の善悪を判断するわけにはいかない。
    ===同書p147より引用

    ===
    事実を把握するところで立ち止まれ。そこから先の、善悪の価値判断を下すには慎重であれ、と。
    ===同書p148より引用

    > 師よ、師の仰ることは間違いではないと考えますが、師が私に尋ねられた「本当に悪いかどうか」は、私は何を基準にして判断すれば良いのでしょうか?
    というご質問ですね。

    同書に載っている『提要』の言葉の中に、「物事の判断の基準」としてエピクテトスが、「このように判断しなさい」というような「エピクテトスが勧める一つの基準」を説いていると思われる箇所は無いように私には思えます。
    『提要』には、この本に収められている言葉以外にもエピクテトスの言葉が収められているようなので、もしかしたらふれられている言葉もあるかもしれないですが、現状ではわかりません。

    今、引用した『提要』45の文章と解説から読み取れるのは、
    「事実を把握するところで立ち止まり、善悪の価値判断には慎重であるべき」ということだと思います。

    もちろん最終的には自分の判断ということにはなりますが、表面だけを見ずに慎重に判断することの大切さを説いていると私は捉えています。

    私自身、共感できる言葉だなぁ、と感じてます。
    例えば、一見乱暴でとっつきにくい言動をする人でも本当は優しい人な場合もあったりしますし。
    価値判断への慎重さというのは他者への寛容とも関わってくると思いますから心がけたいです。





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■36786 / )  Re[13]: 日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/13(Wed) 10:51:19)
    2024/03/13(Wed) 10:52:10 編集(投稿者)

    No36785
    >朝倉先生も柔軟そうで、でも芯がありそうで、『倫理学』の学者さんなのかなぁ、<

    検索してみたら、倫理学限定の先生じゃなかったようです。

    ↓2024年2月に発売された朝倉友海先生の本
    『ことばと世界が変わるとき
     意味変化の哲学』

    http://www.transview.co.jp/smp/book/b641608.html

    の試し読みができて、朝倉先生の経歴ものってて、専門は『哲学』とありました。
    『京都大学理学部卒業』とあるので、理系から哲学に進まれたのかなぁ
    とても幅広く勉強されている先生だったのですね(゚Д゚)

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■36785 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/13(Wed) 09:44:24)
    2024/03/13(Wed) 09:55:38 編集(投稿者)

    みなさまこんにちはー

    カントは善悪をどう表現してるのかな?と検索して見つけた動画がとてもおもしろかったです。(カント倫理学については複雑そうで自分でコツコツ読んでいくしかないかなと思いましたが^^;)

    朝倉友海先生
    『悪をめぐる三つのパラドックス』

    https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_2077/

    動画内容についての記事
    https://ocw.u-tokyo.ac.jp/eaa06/


    荘子、カント、ニーチェ、天台思想などなど様々な話題が出てきて、勉強になりました。

    朝倉先生も柔軟そうで、でも芯がありそうで、『倫理学』の学者さんなのかなぁ、
    カント学者の秋元康隆先生も元気があっておもしろそうだなぁと思ってるのですが、
    『倫理学』の先生(?)にそれぞれの志をもって進まれているような印象を受ける方たちがおられるのは、門外漢ながら嬉しい気持ちになります(#^.^#)

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■36784 / )  Re[32]: 時間論の系譜
□投稿者/ rest -(2024/03/13(Wed) 09:42:57)
    2024/03/13(Wed) 20:31:52 編集(投稿者)
    2024/03/13(Wed) 20:30:04 編集(投稿者)

    田秋さん おはようございます。貴重なレスありがとうございます。こういう考え方もあるのだなあと新鮮な気持ちになっています。
    > 本当に歳と共に時間の流れが早くなることを感じます。そう感じるということは以前から聞いていたので、やはりそうだったと再度認識しなおしている次第です。

    >何故そう感じるのかはこれまであまり深く考えてきませんでしたが、最近、自分の死期が近づいてくるにも拘わらずやはりまだ死にたくないという気持ちが、時間の流れを早く感じさせているのかなと思っています。自分の死に向かって出来るだけ遅く歩みたいのに時間はおかまいなく進むので、相対的に早く進んでいるように感じるのかなと考えたりしています。

    おそらく病院にいって診察時間を待っている感覚と同じだと思います。9時に行って10時に始まるのと、11時に始まるのとでは待ち時間の感覚がちがいますよね。10時のほうが時間が速く感じられ、11時のほうが時間が遅く感じられます。診察開始時間を死期と置き換えれば、年をとると残る時間は短いので速く感じられ、少年の頃は残り時間は長いので時間は遅く感じられるということだと思います。ただこれは時計で測った時間、いわば客観的時間(残された時間)の多寡が基準になっていますから1時間あたりの速い、遅いという主観的感覚とは別のように思います。

    >一方、夢中になっている時は時間があっという間に過ぎ、退屈な時は時間の進みを遅く感じるということもあります。これも独特の感覚的時間経過です。

    Aがある作業をする時間が1時間とし、Bという人が同じ作業を夢中になってやると時間が10分かかるとするとBが時間が速いということになります。夢中ということは作業が速いということのようです。ほかのひとにくらべれば時間が速い。これは2人のランナーが100メートル走る時間を競って、時計の針がすすむのが少ないほうを時間が速いとするのと同じです。1時間あたりの速い、遅いという主観的感覚とは別のようです。くわしくはあとで。とりあえずここまでということで。
    研修があって中断しましたが続けましょう。退屈な時間は進みが遅く感じるのはなぜかいうことですが、これもAがある作業をするのに1時間かかりますが、Bが同じ作業をゆっくり、のんびりやると3時間かかりました。退屈な気分でゆっくり、のんびり作業をすると時間が長くかかり、Aに比べて時間が遅いということになります。これも2人のランナーが100メートルを競って客観的時間を測定するというのと似ています。
    これは同じ1時間でも速く感じたり、遅く感じたりする、主観的時間とはちがうような気がします。



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■36783 / )  Re[11]: ダンマパダ第九章『悪』・117.118
□投稿者/ pipit -(2024/03/12(Tue) 23:15:20)
    みなさまこんばんはー。ダンマパダ117.118です♪

    If you do something bad, don’t do it again and again,

    don’t set your heart on it, for piling up evil is suffering.


    If you do something good, do it again and again,

    set your heart on it, for piling up goodness is joyful.



    もしも悪いことをするなら、 それを何度も行わないで、

    それを志向しないで、 悪が積まれるのは苦しみだから。



    もしも善いことをするなら、 それを何度も行って、

    それを志向して、 善が積まれるのは喜びだから。
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■36782 / )  Re[31]: 時間論の系譜
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/12(Tue) 20:53:53)
    2024/03/12(Tue) 20:57:36 編集(投稿者)

    こんばんは、restさん。横レス失礼します。

    本当に歳と共に時間の流れが早くなることを感じます。そう感じるということは以前から聞いていたので、やはりそうだったと再度認識しなおしている次第です。

    何故そう感じるのかはこれまであまり深く考えてきませんでしたが、最近、自分の死期が近づいてくるにも拘わらずやはりまだ死にたくないという気持ちが、時間の流れを早く感じさせているのかなと思っています。自分の死に向かって出来るだけ遅く歩みたいのに時間はおかまいなく進むので、相対的に早く進んでいるように感じるのかなと考えたりしています。

    これはパニチェさんが書かれた分数仮説に通ずるところがあります。分数仮説では今まで生きた年月を分母にしていますが、この考えは残りの人生の時間を分母にしています。人生の長さを線分で表すと、例えば若い時の1年は残りの人生全体に占める比率は少ないですが、70歳の時の1年は残りの人生の長さに対して大きな部分を占めます。
    仮に人生80年とすると、10歳の時の1年は残りの1/70ですが、70歳の時の1年は1/10になります。同じ1年で1/70経過するのと1/10経過するのとでは1/10経過した方が時間の進み方が早いと感じるのではないかという仮説です(この仮定では分数仮説とは異なり値が大きいほど感覚的な時間進行が早いことになります)。自分の人生が何年なのかはわかりませんが、歳をとるほど残り時間が少なくなることは確かです。

    そもそも子どもの頃は感覚的時間経過の進み方について遅いとか早いとかは考えることもなかったように思います。それは老年期を経験していないので比較の対象がなかったことも一因としてあるでしょう。また自分の死はまだ真剣に思考すべきことでもないので、とりあえずは永遠の生の中の1年のように感じていたのかも知れません。

    このように考えてくると、(自分には経験がないのでわかりませんが)悟りの境地を得、生死から自由になると時間経過の遅早も感じなくなるのかもしれません。

    自分の人生を振り返ると小学校6年間が一番長く感じます。幼稚園やそれ以前のことは記憶量もそれほど多くありません。このことから死生観とは別に記憶量の多寡が時間経過の遅早(おそはや)に関係しているかもしれません。

    一方、夢中になっている時は時間があっという間に過ぎ、退屈な時は時間の進みを遅く感じるということもあります。これも独特の感覚的時間経過です。

    最後に時間の進み具合を最も切実に感じた事例を紹介します。
    まだ学生の頃、エキストラでベルリオーズの幻想交響曲を演奏した事があります。この曲は50分ほどかかる大曲です。本番前日、激辛のカレーを食べたためか、おなかの調子がよくなく、始まってすぐに便意が襲ってきました。幻想の1楽章の冒頭部分のイントロダクションはテンポが遅く、ああ、これは最後まで持たない・・・という絶望的な気持ちでした。
    詳しくは書きませんが、曲のテンポの速い部分では光明が見え、遅い部分ではどうやって舞台から引っ込むか?だけを考えていました。特にテンポの遅い3楽章、冒頭のコールアングレののんびりした田舎の情景部分はまさに時間が止まっているかのようで地獄でした。4楽章の断頭台へ行進が始まった時はひょっとしたらセーフかもしれないと一縷の望みがみえたことを覚えています(結果的に持ち堪えました)。

    人間の感覚とは不思議なものです。

    長々と失礼しました m(_ _)m

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