TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

168時間以内に投稿された新着記事


■45344 / )  Re[53]: フッサール
□投稿者/ akaimi -(2026/02/15(Sun) 08:22:36)
    2026/02/15(Sun) 08:30:52 編集(投稿者)


    悪魔ちゃん、情報をありがとう!
    no45336から引用しました。
    ………
    〈感覚〉としての赤と、「どんな」赤かと言うときの赤とは区別されなければならない。〈どんな〉という質のうちには、すでに赤という純粋印象と、例えば空間・時間のある広がりを覆うという〈印象の機能〉との二つの契機が含まれている。従って〈認識する〉ということは、つねにある与件を、ある機能において、またある間係のなかで、つまり、それが私にとって意味をもち、しかじかの構造を呈示する「かぎりにおいて」把握する、ということである。』(MC下p123)
    ………

    フッサールの言ってることとたしかにどこか共通してるように感じます。


    メルロ・ポンティと現象学の関係について少し知れたらと思い、Copilotに質問しました。

    メルロ・ポンティと現象学の関係について教えてください。

    ……以下はCopilotからの回答

    メルロ=ポンティと現象学の関係は、一言でいえば 「身体を中心に現象学を再構築した哲学者」 という位置づけになります。
    検索結果からも分かるように、彼の主著『知覚の現象学(Phenomenology of Perception, 1945)』は、フランス現象学の代表作であり、20世紀思想の転換点とされています。

    ---

    メルロ=ポンティは現象学に何をもたらしたのか

    1. フッサール現象学の継承と批判的発展
    メルロ=ポンティは、フッサールの「現象学的還元」や「意識の志向性」を継承しつつ、
    意識中心の現象学では説明できない“身体的な経験”に光を当てた点が特徴です。

    - フッサール:意識が世界を意味づける
    - メルロ=ポンティ:身体が世界に開かれていることが、経験の根底にある

    この転換が、後の身体論・認知科学・芸術論にも大きな影響を与えました。

    ---

    2. 「知覚の第一性(primacy of perception)」
    『知覚の現象学』でメルロ=ポンティは、
    知覚こそが世界との最初の接点であり、思考よりも根源的である
    という立場を明確にします。

    これは、デカルト的な「心と身体の二元論」や、カント的な「認識の枠組み」を超えて、
    生きられた身体(corps propre) を哲学の中心に据える試みでした。

    ---

    3. 身体性(embodiment)の哲学
    メルロ=ポンティの最大の貢献は、
    身体を“物体”でも“精神の道具”でもなく、世界に意味を開く主体として捉えたこと
    です。

    - 身体は世界に投げ出されている
    - 身体は習慣・技法・感覚を通して世界を理解する
    - 身体は「私が世界に触れ、世界が私に触れる」媒介

    この考えは、後のハイデガー、サルトル、さらには現代の認知科学(エンボディド・マインド)にもつながります。

    ---

    4. 現象学の新しい方向性を開いた
    メルロ=ポンティは、フッサールやハイデガーの現象学を継承しながら、
    「身体」「知覚」「世界との関係性」 を軸に、現象学をより具体的で生きられた経験に根ざした哲学へと発展させました。

    Britannica でも、彼は「フランス現象学の主要な代表者」と位置づけられています。

    ---

    まとめ
    メルロ=ポンティと現象学の関係を整理すると:

    - 現象学の中心を「意識」から「身体」へ移した哲学者
    - 知覚の根源性を強調し、世界との関係を再定義した
    - フランス現象学の代表者として、20世紀思想に決定的な影響を与えた


返信/引用返信 削除キー/

■45343 / )  室内合奏団
□投稿者/ 田秋 -(2026/02/15(Sun) 05:38:17)
    no45261(2月1日)に書いた、お弟子さんが鳥羽一郎の兄弟船を楽器紹介で弾くコンサートが昨日あった。

    一昨昨日(さきおととい)そのレッスンの時、ビオラ奏者の一人が腰痛のためコンサートに乗れなくなったという。小編成の室内合奏団で元々ビオラは3人、それが2人になってしまう。それでも不可能ではないが、やはり本番の1欠けというのは避けるべきで(「オレら1欠けなんてあり得ない、死んでも出てくる」というのが管楽器奏者の口くせ)、こちらからお手伝いしましょうと申し出た(お弟子さんの演奏も聴きたかったので)。

    楽譜を借りてコピーし、一昨日練習して、昨日の本番に乗った。

    弟子の兄弟船、本人評価は20点(何を弾いたかあんまり覚えていないとは本人のコンサート後の述懐)、ま、田秋先生の評価は50点くらい。いっその事、ボクが弾けば良かったのにと思うかもしれないが、やはりお弟子の貴重な経験を奪うことはしてはいけない。1回本番を踏むということは100日の練習にも勝る。

    ボクは最初に謝礼は不要と申し出ておいたが、やはりそれでは失礼ということで謝礼があり、むげに断るのも角が立つので受け取っておいた。この辺りの考え方は色々だ。

    さて今日は朝7時半の電車に乗って博多へ行く。日フィルのコンサートがアクロス福岡であり、それを聴く。
返信/引用返信 削除キー/

■45342 / )  Re[19]: 超越論的分析論XI−14
□投稿者/ pipit -(2026/02/15(Sun) 00:21:02)
    2026/02/15(Sun) 07:12:32 編集(投稿者)

    うましかさん、こんばんは(^▽^)/
    カント沼投稿ありがとうございます♪

    No45317

    > ◇ そこでこの場合、いったい諸表象の対象という表現〔Ausdruck eines Gegenstandes der Vorstellungen〕で何が意味されているのかに関して説明しておくことが必要である。<

    > ◇私たちは先にこのように述べた。すなわち、諸現象〔Erscheinungen〕そのものは感性的表象〔sinnliche Vorstellungen〕以外の何ものでもなく、この感性的表象はそれ自体では、まさにこの感性的という様式においては、(表象能力〔Vorstellungskraft〕の外にある)対象と見なされてはならないのだと。<

    > ◇ 〔では、〕その認識に対応する、従ってまたその認識と区別された対象について語る時、いったい人は何を理解しているのであろうか?<

    > ◇ 容易に洞察できるのは、この対象は、或るもの一般〔etwas ueberhaupt〕=Xとしてのみ思考されざるを得ないということである。<

    > というのも、私たちは、自らの認識の外に、この認識に対応するものとして対置できるものを何一つ持っていないからである。<




    上記文章は↓以下のようなことを言ってるのかな?と考えてみました。


    ー−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−ー−−−

    認識行為には要素として「対象」がある。(自分があって、その自分が対象を認識して、『●●はホニャララである。』と対象認識している。)

    ー−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    改めて考えてみると「対象」とは何を指すのか?

    ー−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    認識に対応する、従ってまたその認識と区別された対象について語る時、

    諸現象〔Erscheinungen〕そのものは、(表象能力〔Vorstellungskraft〕の外にある)対象と見なされてはならない。

    なぜなら、諸現象(この感性的表象)は、表象能力の内にあるから。

    ー−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−ー−−−

    この対象は、或るもの一般〔etwas ueberhaupt〕=Xとしてのみ思考されざるを得ない。

    ー−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    (pipit感想)
    まだわかりませんが、、、わたしが、一瞬一瞬に生じる多様な直観を集めて一つとして認識すると考えたとき、その(一つなる)認識に対応する『対象』というアプリオリな一般概念も経験に先立って考えられる、とカントは考えているのかな?と考えました。
    超難し〜(/・ω・)/???????



返信/引用返信 削除キー/

■45341 / )  Re[35]: 就労継続支援B型からA型へ
□投稿者/ 素浪人A -(2026/02/14(Sat) 21:18:03)
    No45274に返信(アートポットさんの記事)
    > Twitterのスペース生放送と地活で聞いた話の両方を纏めるにて。就労継続支援B 型 → 時給百円前後で働いて交通費でマイナス。短期間の訓練に用いてにてほうにて良い。何年間も働く人もたくさんいるにて。就労継続支援A型 → 最低賃金で働けるけど自己負担金4万円引かれて手取り8万円。でも、一番無難。就労移行支援 → 自分でお金を払って交通費も払って訓練受けて病状悪化で潰れちゃう患者続出にて厳しいらしい。訓練終えて紹介される会社もやばいらしい。
    >
    > 就労継続支援A型に生涯つとめるのにて最も無難らしいにてにょ。

    親父さんはいつまでも生きていないぞ!
    就労支援を受けたらどうだ。
返信/引用返信 削除キー/

■45340 / )  Re[46]: Grok AI 。
□投稿者/ アートポット -(2026/02/14(Sat) 20:38:10)
    みずほ銀行の豊橋支店は、浜松支店内に移転(統合)する形で撤退し、**2026年2月16日(月曜日)**から浜松支店内でのサービスが開始されます。現店舗(豊橋支店)の最終営業日は**2026年2月13日(金曜日)**です。
    移転先は静岡県浜松市中央区鍛冶町332-1(浜松支店内)で、支店名や口座番号の変更はありません。
    これはみずほ銀行公式の店舗統合・移転のお知らせおよびPDF資料に基づく情報です。

    この統合により、愛知県三河地域(豊橋周辺)からみずほ銀行の有人店舗がなくなる形になりますが、ATMやネットバンキングなどのサービスは引き続き利用可能です。詳細はみずほ銀行の公式サイト(店舗統合のお知らせページ)で確認をおすすめします。


返信/引用返信 削除キー/

■45339 / )  Re[45]: Grok AI 。
□投稿者/ アートポット -(2026/02/14(Sat) 20:22:14)
    愛知県豊橋市周辺にあるこれらの病院は、いずれも精神科を主軸とした医療機関です。以下に、各病院の主な特徴を順番にまとめます(公式情報や公開されている概要に基づく)。

    岩屋病院
    愛知県豊橋市の郊外に位置する精神科専門病院で、325床(精神一般145床、精神療養180床)を有しています。うつ病や認知症などの精神疾患に加え、アルコール依存症や薬物依存症、重度認知症の入院治療に特に力を入れており、他院で対応が難しいケースも積極的に受け入れています。緑豊かな環境で、患者や家族に寄り添った精神医療を提供し、措置入院指定医療機関や難病指定医療機関としても機能しています。デイケアや訪問看護も行っています。

    保生会病院
    豊橋駅から徒歩圏内の市街地にあり、アクセスが良い精神科病院(105床、全て精神科)です。比較的軽度&#12316;中程度の精神疾患を主に扱い、市街地にありながらも外来・病棟から季節の移ろいを感じられる落ち着いた環境が特徴です。神経内科も併設されており、精神科と神経内科の両面から対応可能です。バリアフリー設備が整っています。

    松崎病院(豊橋こころのケアセンター)
    豊橋市内の精神科・心療内科・老年精神科の専門病院で、緑あふれる「あふれる緑・心のひろば」をコンセプトにしたガーデンホスピタルです。統合失調症、うつ病、認知症(特に老年期の問題行動:徘徊・興奮・不眠など)への対応に強みがあり、認知症疾患医療センターを設置。デイケアやナイトケアも充実しており、こころのケア外来で柔軟な受診が可能です。内科・歯科も入院患者向けにあり、近隣医療機関との連携を重視しています。

    島病院
    豊橋市雲谷町にある精神科・内科・神経科の病院です。他の病院に比べて情報が少なく、比較的小規模で地域密着型の運営が特徴です。精神科を中心に幅広い年齢層の精神疾患に対応しており、訪問看護なども行っています。東三河地域の精神科医療ネットワークの一翼を担っています。

    可知記念病院
    豊橋市南部に位置する大規模な精神科病院(578床:精神518床、療養60床)で、内科と歯科を併設している全国的に珍しい特徴があります。「こころ」と「からだ」の両面から治療を提供し、統合失調症、躁うつ病、うつ病、不安障害、アルコール依存症、心身症、てんかん、知的障害、認知症など幅広い疾患に対応。思春期から老年期までカバーし、地域の中心的な精神医療機関として機能しています。四季を感じられる環境で、患者の回復力を高める治療を目指しています。

    これらはすべて豊橋市内の精神科医療を支える重要な施設で、症状や病状に応じて使い分けられることが多いです。受診を検討される場合は、事前に電話で確認することをおすすめします。


返信/引用返信 削除キー/

■45338 / )  Re[47]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/14(Sat) 20:08:56)
    つれづれなるままに

    ネット見たら、

    【衆院選】「#ママ戦争止めてくるわ」SNSで広がった共感 国内の「トレンド1位」にも、投稿者が反響振り返る(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

    わたしも共感なんだけど〜、これ、オナマスは「トレンド1位」っていう視点からしか見てないわけよね。

    わたしも選挙結果には「めちゃくちゃショックを受けた」派
    あ、清さんには、”見ているところ”に共感かな。


返信/引用返信 削除キー/

■45337 / )  Grok AI 。
□投稿者/ アートポット -(2026/02/14(Sat) 19:44:37)
    あうー、あうー、grok ai に質問にてにて。

    好生会三方原病院(静岡県浜松市の精神科・神経科・内科の病院)がGoogleマップで口コミを受け付けない設定(レビュー投稿が無効化されている)になっているのは、**確かに普通の感覚だと「良くないな」**と感じる人が多いと思います。特に精神科病院の場合、患者さんや家族の声が可視化されないのは不信感を招きやすいですよね。ただ、実際のところ多くの病院(特に精神科や一部の特殊な診療科)で似たような設定をしているケースは結構あります。主な理由として考えられるのは以下のようなものです:患者さんのプライバシー保護が最優先
    精神科だと「ここに入院・通院してた」と特定されるリスクが他の診療科より高い。Googleマップの口コミは実名じゃなくても内容や時期で身バレしやすいので、病院側が「投稿自体をオフ」にして守ろうとする。
    誹謗中傷・事実と異なる悪意ある書き込みの予防
    医療機関(特に精神科)は感情が高ぶった状態で来院する人が多く、待ち時間・対応・診断への不満が極端な低評価になりやすい。しかも一度投稿されると削除が非常に難しい(Googleは基本的に表現の自由を優先)。だから最初から受け付けない選択をする病院が増えている。
    病院全体の方針や過去のトラブル対応
    実際に悪い口コミが殺到した経験がある病院や、法人全体で「Googleレビューオフ」に統一しているところも少なくない。

    ぶっちゃけ**「口コミが見えない=何か隠してる?」**と思われてしまうデメリットは確かにあるし、透明性を求める現代ではマイナスイメージになりやすいのは事実です。Calooとか他の口コミサイトでは普通に1件くらい投稿が見られるのに、Googleだけオフというのは余計に目立つ。でも**「絶対に良くない」と決めつけるのも一面的**かも。精神科医療の現場では、患者保護の観点から「口コミ開放による二次被害リスク>集患メリット」って判断してる可能性が高いんですよね。あなたがどう思うかにもよるけど、もし「この病院どうなんだろう」と気になってるなら、 Calooや他の医療口コミサイト
    病院の公式サイト・求人情報(職員の雰囲気わかるかも)
    実際に通ってる知り合いや地域の評判

    で多角的に見るのが現実的かなと思います。Google口コミだけが全てじゃないけど、見えないのはやっぱりモヤっとしますよね…。

    ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
返信/引用返信 削除キー/

■45336 / )  Re[46]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/14(Sat) 16:40:26)
    No45319からの、

    メルポンが〈対象としての自然〉(科学やコギトした自然)と〈出来事としての自然〉(生まの自然)を区別してるっていうことについて、

    No41741『行動の構造』のなかから、

    No30397で抜粋した、

    『〈現実に存在するものとしての世界〉についての知覚的意識は、〈無数の真なる判断の対象としての世界〉についての〈知性&#9417;期意識〉とは異なるものである』(MC下-原注p188)

    『〈世界についての知〉と、世界のこれこれの一区画やそれに隣接する地平についての〈私の知覚〉とを混同していけない。(MC下p148)』

    に追加して、

    『知覚したことと、常識的な言葉で述べるその報告と、知覚経験との区別、話された知覚と、生きられている知覚との区別ぐらいはしておくべきであろう。』(MC下p101)

    『〈感覚〉としての赤と、「どんな」赤かと言うときの赤とは区別されなければならない。〈どんな〉という質のうちには、すでに赤という純粋印象と、例えば空間・時間のある広がりを覆うという〈印象の機能〉との二つの契機が含まれている。従って〈認識する〉ということは、つねにある与件を、ある機能において、またある間係のなかで、つまり、それが私にとって意味をもち、しかじかの構造を呈示する「かぎりにおいて」把握する、ということである。』(MC下p123)

    っていうのがあった。
    ちょっと想い出したので探し出して見ました。

返信/引用返信 削除キー/

■45335 / )  Re[52]: フッサール
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/14(Sat) 16:32:10)
    Akaimiさんこんにちは
    フッサールのなのでまたお邪魔しま〜す。

    ■45319、これ、自然(あるいは世界)の科学的知見とフッサールのとのことを言ってるんじゃないかな?ってわたし見たんだけど、として、メルポンのなんだけどあるからそれわたしのところに書いて見ます。

返信/引用返信 削除キー/

■45334 / )  Re[2]: 真理 2ー追記
□投稿者/ Appendix -(2026/02/14(Sat) 11:12:17)
    2026/02/14(Sat) 11:14:00 編集(投稿者)

    > 仮説だが力をベクトルの矢印ー→で物理では示すが、主観的に表現するとベクトルの矢印ー→の右端は「憎しみ」の感情であり、左端は「愛」の感情ではないか、「憎しみ」を作用とすると、反作用も「憎しみ」であり、「愛」を作用とすると、反作用は「愛」となる。憎しみが突き放す作用とすれば、愛は引き付ける作用がある。
    >「憎しみ」の反作用としての「憎しみ」は感覚的には「苦痛」の感情で示され、
    >「愛」の反作用としての「愛」は感覚的には「喜び」の感情で示される。
    >主観的感情の世界の構造を客観的物理の構造で示すことも、逆に客観的物理の世界の力の構造を主観的に示すことも可能である、といえる。

    ここに電信柱があるとする。私が電信柱を強く押すと電信柱は苦痛を覚え、反作用として私を押し返す。すると私も苦痛を覚える。押す力は憎しみの感情とする。
    私の感性の世界は電信柱においても同様に存在するのではないか。
    世界は事物の世界ではなく、感性に満ちた世界ということになる。
    コンクリート建物は誰かの観念の産物、パソコンも誰かの観念の産物。車もテレビもジェット機も家内電化製品も誰かの観念の産物。人間の観念の産物でないものは自然物で都会で見つけるのは難しい。ほとんど観念の産物に囲まれている。
    もっとも材料は自然物だが、自然に働きかけて造り出した観念の産物。
    唯物論と観念論が統合すれば自然の材料自体も観念的存在。都会は観念でできた世界ということか。クオリアは人間以外においても存在するのではないか。
    ただし思考と感性の世界とは分けたほうがいい。電信柱に思考があるとは思えないからだ。
返信/引用返信 削除キー/

■45333 / )  訃報
□投稿者/ 田秋 -(2026/02/14(Sat) 07:43:45)
    坂田利夫さんが12月29日に亡くなられたとのニュースが昨日載った。

    82歳、老衰とのことである。まだ若い。あと10年したらボクも82歳だ。

    写真で見る限りきれいな肌、【アホの坂田】もスキンケアをちゃんとしてらっしゃたのだろう。

    間寛平氏は頻繁に坂田氏の下を訪れ見舞っていたとのことだ。いつもの過激なギャグとは別の、絆を感じる。

    最近、自分が若かった頃に第1線で活躍していた人の訃報をよく見かける。お前も死の準備をしておけ、ということか。
返信/引用返信 削除キー/

■45332 / )  西田の「純粋経験」(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2026/02/14(Sat) 02:39:39)
    『善の研究』,第一編 純粋経験, 第一章 純粋経験, p.17〜p.18(岩波文庫)より。

    > 経験するというのは事実其儘〔そのまま〕に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、毫〔ごう〕も思慮分別も加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。

    > 例えば、色を見、音を聞く刹那〔せつな〕、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るというような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。

    > それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下〔じか〕に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇〔さいじゅん〕なる者である。

    > 勿論〔もちろん〕、普通には経験という語の意義が明〔あきらか〕に定まって居らず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学として称して居る(Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl.§1)。

    > しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりでなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は、已〔すで〕に純粋の経験ではない。

    > 真の純粋経験は何らの意味もない。事実其儘の現在意識あるのみである。

    *******

    ・西田のいう「経験する」とは、事実そのままに知るという意味。自己の細工を捨て事実に従って知るということ。

    ・西田のいう「純粋〔経験〕」とは、まったく思慮分別を加えず経験そのままの状態。




返信/引用返信 削除キー/

■45331 / )  AIにモーツァルトの三大交響曲について質問
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/13(Fri) 14:42:49)
    >アーノンクールは、単なる最後の三曲ではなく「意図的な総括」とみなす傾向が強い指揮者です。

    晩年のアーノンクールに至っては、「歌詞のない一曲のオラトリオ」として、三曲を一晩で連続的に演奏したこともある。

    一晩で一曲として演奏する試みは、他にもチラホラあるようだ。





返信/引用返信 削除キー/

■45330 / )  自分を褒める!
□投稿者/ 田秋 -(2026/02/13(Fri) 11:13:17)
    放送大学の成績発表がありました。下の写真上部は今期取った3科目の成績で、全部〇A(90点以上)でした。このうち「健康と社会」はBかも・・・と思っていたので望外の喜びです。

    下部は現在所属している「社会と産業」コースを卒業するのに不足単位が無いということで、要は卒業できるという事です。放送大学には全部で6コースあり、これで2コース制覇したことになり、来年度から3コース目に入学するつもりです。

    今日は自分を褒めます。

    田秋クン、頑張ったね!
1000×600 => 600×360

konkiseiseki.jpg
/115KB
返信/引用返信 削除キー/

■45329 / )  Re[20]: 超越論的分析論XI−14
□投稿者/ pipit -(2026/02/13(Fri) 07:43:24)
    No45323に返信(pipitさんの記事)
    > No45317
    > わーい、うましかさんの新たな投稿文、楽しみにゆっくり読ませていただきますね!
    > 解読おつかれさまです!
    > ( ^ω^ )♪

    おはようございます!
    めっちゃ難しい箇所でした・・・

    超越論的対象についての冒頭箇所なのかな??
    もう少しいろいろ考えてみます!

    カント先輩・・・・・・(ノ_<)
返信/引用返信 削除キー/

■45328 / )  障害年金。。
□投稿者/ アートポット -(2026/02/13(Fri) 02:15:34)
    2026/02/13(Fri) 14:32:43 編集(投稿者)

    今月も障害年金の日にて、最も有名なツイッタラーの人がスマートフォンのネット通帳のスクリーンショットにて載せて、「障害年金 着金 労働者の皆さんお疲れ様です なにもしないで残高増えました笑」って豪快にツイートにて。でも、離婚にて、配偶者加算と子供加算にて8万円減額で24万円にて。。

    僕は、138616円+10900円にて149516円のはずにて。

    ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。

    追記

    三菱銀行 残高 238410円にて。
返信/引用返信 削除キー/

■45327 / )  Re[22]: 左馬
□投稿者/ flora -(2026/02/13(Fri) 01:16:26)
    田秋さん、こんにちは、こんばんは。

    > 今BS4Kでジェレミーブレットのホームズをやっていて昨日「独身の貴族」をみましたが、改変が甚だしいですね。その他「サセックスの吸血鬼」なんかも相当原作から逸脱しています。真意はどこにあったんでしょうね。

    私もあの長編化した作品は好きでは有りません。

    シリーズ後期にジェレミー・ブレット氏の体調が悪くなり、前期のような若々しい、アクティブなホームズが演じられなくなったので、余分なストーリーを足して、ブレット氏の登場を減らしたのではないかな〜?と。

    シリーズの後期になると、ブレット氏の顔のドーランが異常に白くなり、また呂律も回らなくなっていましたよね・・・
返信/引用返信 削除キー/

■45325 / )  Re[21]: 左馬
□投稿者/ 田秋 -(2026/02/12(Thu) 22:05:24)
    こんばんは、floraさん

    左馬にはそういう由来があったのですね!知らなかったあ。読み方も「さま」だと思っていましたが正しくは「ひだりうま」なんですね^^;
    あの駒を買った時店の人に由来を聞いたのですが「さあ?」だったと思います。

    他の十二支のおめでたい縁起については何も知りませんが、パッと考えると、例えは来年の干支「羊」は【美】や【祥】とか良い意味の漢字に使われいますね。多分動物の羊が衣服にもにも食肉にもなっていることと無関係ではないと思います。

    今BS4Kでジェレミーブレットのホームズをやっていて昨日「独身の貴族」をみましたが、改変が甚だしいですね。その他「サセックスの吸血鬼」なんかも相当原作から逸脱しています。真意はどこにあったんでしょうね。
返信/引用返信 削除キー/

■45324 / )  Re[20]: 左馬
□投稿者/ flora -(2026/02/12(Thu) 17:53:59)
    田秋さん、こんにちは。

    今更で申し訳ないんですが〜(^^;写真左下の反転している「馬」は縁起物の左馬ですよね〜?

    一節には「うま」を反対から読むと「まう」(舞う)、つまり良いことが「舞込んでくる」という事らしいですね。

    干支の本家中国では馬を反対に読んでも「まう」という発音にはならないでしょうから、おそらく日本独自の縁起かつぎなのでしょう。

    他にも干支の中で縁起を担いたものはありますか?


返信/引用返信 削除キー/

■45323 / )  Re[19]: 超越論的分析論XI−14
□投稿者/ pipit -(2026/02/12(Thu) 14:09:45)
    No45317
    わーい、うましかさんの新たな投稿文、楽しみにゆっくり読ませていただきますね!
    解読おつかれさまです!
    ( ^ω^ )♪
返信/引用返信 削除キー/

■45322 / )  直観
□投稿者/ pipit -(2026/02/12(Thu) 14:07:32)
    あら?
    悪魔ちゃんのNo45314を読むに、
    私のNo45280「「直観」はもう(客体)が与えられた、ある操作以降の結果物と捉えてるのかな。」という感想は間違いみたい?

    悪魔ちゃんNo45314より
    > (a)ある対象が表象能力に及ぼす影響が、私たちが対象によって触発される限り、感覚である。感覚によって対象に関係するような直観を、経験的という。経験的直観の未規定な対象を現象という。
    >
    > (b)認識は、直観か概念のいずれかである。
    >
    > (c)直観は直接的に対象に関係し、個別的であるが、概念は、いくつかの事物に共通でありうる徴表を介して、間接的に対象に関わる。
    >
    > (d)わたしは、あらゆる概念のうちで感覚とは関係ないものを(超越論的な意味で)「純粋な何々」と呼ぶことにする。すると、感性による直観の純粋な形式が、さまざまな現象に整理をつけるものとして、先天的に心の中に見いだされることになるだろう。この感性の純粋な形式はまた純粋な直観と呼ばれることもある。<

    んー、『直観』を(直せつ観る)と脳内翻訳してみようかなぁ。

    ----勝手に置き換え----
    (a)ある対象が表象能力に及ぼす影響が、私たちが対象によって触発される限り、感覚である。感覚によって対象に関係するような(直せつ観る)を、経験的という。経験的(直せつ観る)の未規定な対象を現象という。
    (b)認識は、(直せつ観る)か概念のいずれかである。
    (c)(直せつ観る)は直接的に対象に関係し、個別的であるが、概念は、いくつかの事物に共通でありうる徴表を介して、間接的に対象に関わる。
    (d)わたしは、あらゆる概念のうちで感覚とは関係ないものを(超越論的な意味で)「純粋な何々」と呼ぶことにする。すると、感性による(直せつ観る)の純粋な形式が、さまざまな現象に整理をつけるものとして、先天的に心の中に見いだされることになるだろう。この感性の純粋な形式はまた純粋な(直せつ観る)と呼ばれることもある。
    ----勝手に置き換え終了----

    とりあえずこうしてみようかな??

返信/引用返信 削除キー/

■45321 / )  ここは天国か?と思った話
□投稿者/ pipit -(2026/02/12(Thu) 14:05:57)
    今日、サボり理由で12時までで仕事終わり!
    お昼に回転寿司食べて美味しいプリン食べてコンビニのホットコーヒー飲んで、今快適な図書館!
    (ここは天国か-)と思いましたわ。

    んでタイムスケジュール厳しくなってきたけど、今から回数券がある温泉へゴー!間に合うか!?
    (ふふふ、タオルなど仕込んできたのサ)

    難しいけど、日々是好日だと嬉しいね♪
    まぁいっつも晴れ、は、不自然だけど、大抵お空はある、だと自然かも?
600×450

sora.png
/347KB
返信/引用返信 削除キー/

■45320 / )  再掲 覗 銀行。
□投稿者/ アートポット -(2026/02/12(Thu) 13:10:10)
    ■17250  冷静に考えたら被害妄想
    □投稿者/ アートポット -(2021/10/06(Wed) 12:05:21)
    やはり助言してくれる人がいるのは、ありがたい。
    冷静に考えたら、あからさま、に覗かれたのは今までの人生で4回のみ。

    ・ゲームセンター仲間の一人と偶然銀行で会って、
    手続き中に振り向いたら、密着に近い状態で斜め後ろから覗いてて、
    ワタクシ「流石に、ちょっと。」
    ゲーセン仲間「ああ。」
    で、手続き完了して振り向いたら、ちゃんと離れて待っててくれて。

    ・ソファーに座って資産の動きを確認していたら、お年寄り男性にジーって覗かれた。

    ・郵便局で、手続きしてたら、五十歳くらいの男性ん隣に密着に近い状態で覗いてきて、
    ワタクシ「あの、覗かないで下さい。」
    って注意しても隣でジーって手続き完了まで覗かれて。

    ・数ヶ月前に、銀行のソファーに座って資産の動きを確認していたら、
    二十歳くらいの若造が密着に近い状態で後ろから覗いてて、眼をぎらつかせながら後ろのソファーに戻って、で、初老の女性の付き添いで来てたみたくて、
    初老の女性「見せつけてるぅ。」
    ワタクシ (そこ怒る場面じゃないでしょ、怒りたいのはこっちだ。)
    と思いつつも、
    ワタクシ「ももにょ。」って御辞儀。

    ほぼ間違いなく覗かれたのは、この4回のみで残りは被害妄想って思います。
    不安が増幅していたんですね。

    ご助言ありがとうございました。
返信/引用返信 削除キー/

■45319 / )  Re[51]: フッサール
□投稿者/ akaimi -(2026/02/12(Thu) 10:05:40)
    こんにちは!
    ひさしぶりの投稿です。

    フッサールについての本を読み、疑問点をCopilotに質問しました。

    (私)
    100分de名著『フッサール ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第二回科学の手前にある豊かな世界 を読んでます。
    P39からP55の部分からの質問

    ガリレイによる自然の数値化というのについて語られています。
    感性的性質にも数学的法則が貫かれていて、真の世界はそもそも数学的にできているという仮説をガリレイは自明のものとしたとしたことを「ガリレイによる自然の数値化」と呼んだということですね。

    感性的性質とは具体的にどのようなものですか?

    (Copilot)
    「ガリレイによる自然の数値化」 を理解するうえで、
    「感性的性質(sensuous qualities)」とは何か を押さえるのはとても大事です。

    ---

    感性的性質とは何か?
    フッサールが言う「感性的性質」とは、
    私たちが日常の生活世界で、身体を通して直接感じ取っている性質 のことです。

    たとえばこんなものが典型例です:


    - 空の青さ
    - 木の緑
    - 夕日の赤さ


    - 鳥の声
    - 波の音
    - 風の音

    触覚
    - ものの硬さ・柔らかさ
    - 温かさ・冷たさ
    - ざらざら、つるつる

    味・匂い
    - 甘い、しょっぱい
    - 香ばしい匂い
    - 源氏パイの甘さや歯ざわり(まさにこれ!)

    形や大きさの「感じ」
    - 近くにあるものは大きく見える
    - 遠くの山が青く霞んで見える

    ---

    ガリレイがしたこと:感性的性質の「数学化」
    ガリレイは、こうした「感性的性質」を
    数学的な性質(長さ・重さ・速度・角度など)に置き換えて理解できる
    と考えました。

    たとえば:

    - 色 → 光の波長
    - 音 → 振動数
    - 温かさ → 分子運動の速度
    - 落下 → 加速度(9.8m/s&#178;)

    つまりガリレイは、

    > 自然の本質は数学で表せる。
    > 感性的性質は“二次的”で、本質ではない。

    と考えたわけです。

    これが「自然の数値化」です。

    ---

    フッサールが問題にしたこと
    フッサールはここでこう言います:

    > 数学化された自然は、生活世界の豊かさを切り捨ててしまった。

    つまり、

    - 私たちが実際に生きて感じている世界(生活世界)
    - 数学が描く抽象的な世界(科学の世界)

    この二つがズレてしまったことが「危機」だと考えたのです。

    ---

    あなたの源氏パイの例で言うと…
    - 「甘い」「香ばしい」「ちょうどいい硬さ」
    → 感性的性質(生活世界の経験)

    - カロリー、糖度、硬度、成分分析
    → 数値化された世界(科学の世界)

    ガリレイ的な科学は後者を重視しますが、
    フッサールは前者こそが人間の世界の基盤だと考えました。

    ---
    (私)
    ここで質問です。
    フッサールは、感性的性質は数値化することは難しいものであるはずと考えていたのですね?

    ちなみに現代だとこのあたりどうでしょうか?
    個人が部屋の照明の明るさをどう感じるかを数値化することは難しいとしても、共通単位で照明の明るさを示すことは可能ですよね。

    (Copilot)
    ここでは、
    @ フッサールがなぜ「感性的性質は数値化できない」と考えたのか
    A 現代科学ではどう見えるのか
    を丁寧に分けて整理してみます。

    ---

    @ フッサールの立場
    フッサールは、ガリレイ以来の近代科学が

    > 感性的性質(色・音・温かさ・甘さなど)を“本質ではないもの”として切り捨て、
    > 数値化できる性質(長さ・重さ・速度など)だけを本質とした

    ことを問題にしました。

    フッサールの主張はこうです:

    ● 感性的性質は「生活世界」の経験であり、

    数学的に置き換えられない豊かさを持っている。

    たとえば:

    - 「赤い」と感じる赤さ
    - 「眩しい」と感じる明るさ
    - 「甘い」と感じる味
    - 「心地よい」と感じる温度

    これらは 主観的経験の質 であり、
    数値(波長・ルクス・糖度・温度)に置き換えても、
    その「感じられ方」そのものは失われてしまう。

    フッサールはここをとても大事にしました。

    ---

    A 現代科学ではどうか?
    あなたが言うように、現代では

    - 明るさ → ルクス
    - 色 → 波長
    - 音 → 周波数
    - 温度 → 摂氏
    - 味 → 成分分析

    など、共通単位で測定できます。

    しかし、ここで重要なのは:

    ● 測定できるのは「物理的性質」であって、

    「感じられ方そのもの」ではない。

    たとえば:

    - 500ルクスの照明でも「明るい」と感じる人と「暗い」と感じる人がいる
    - 20℃でも「寒い」と感じる人と「ちょうどいい」と感じる人がいる
    - 同じ甘さでも「甘すぎる」「ちょうどいい」と感じ方が違う

    つまり、物理量の数値化は進んでも、感性的性質そのものは依然として主観的 なんです。

    これはフッサールが言う「生活世界の豊かさ」が残っている証拠です。

    ---

    B 現代の視点から見るとどうなるか?
    現代科学はフッサールの時代よりはるかに進歩しましたが、それでも:

    ● 感性的性質の「主観的な感じられ方」

    (クオリア)は数値化できない

    という点は変わっていません。

    たとえば:

    - 「この赤はどれくらい“赤く感じる”か」
    - 「この明るさはどれくらい“眩しいと感じる”か」
    - 「この甘さはどれくらい“ちょうどいい”か」

    こうした“感じ方”は、いまだに科学では完全に扱えません。

    つまり、現代でもフッサールの指摘は鋭いままです。

    ---

    C あなたの問いへの答え(まとめ)
    > フッサールは、感性的性質は数値化できないと考えていたのか?

    → はい。数値化できるのは物理的側面だけで、
     感じられ方そのものは数学化できないと考えていました。

    > 現代ではどうか?

    → 物理量の測定は進んだが、
     “感じられ方”そのものは依然として数値化できない。
     フッサールの問題意識は今も有効です。

    ---
    (感想)
    主観的な感じられ方そのものはたしかに数値化不可能ですね。
    ここからフッサールがどう展開していくのか、少しずつになりますが読んでいきます。

    例として今思いだしました。
    体温にしても個人差があるから、37°C台の発熱でもかなり熱く感じる人、平熱が高いとそうでもない人と、主観的な感じられ方は数値化が難しいです。
    若い頃、平熱が高かった頃には、インフルエンザの予防注射を受けるのに何度も測りなおしたりしました。
    身体の熱さは感じてなくても数字としては表れてしまうのですね。

返信/引用返信 削除キー/

■45318 / )  Re: 「西田幾多郎の思索世界」覚書
□投稿者/ うましか -(2026/02/12(Thu) 02:07:38)
    ・西田がその思索において多くの変遷を経たにもかかわらず一貫して追求しつづけたもの、「純粋経験」

    ・その概念によって西田は何を問題にしようとしたのか?

    ・西田曰く「純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く合一して居る」(『善の研究』一・九)

    *******

     〇 → 観察 → 【対象: (「自己〇−の−意識(状態)」】←知識〔客体化〕 )

    ・いままさに思考する自分の意識状態を対象に思考する経験。それはどのような意味で「純粋」なのか(。´・ω・)?
返信/引用返信 削除キー/

■45317 / )  超越論的分析論XI−14
□投稿者/ うましか -(2026/02/12(Thu) 01:14:58)
    2026/02/12(Thu) 01:16:33 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    やーやっとなんとか投稿できた(;´・ω・)

    ねむい、、、(=_=)


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕

    第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】

    ◆ 3. 概念における再確認の綜合について〔Von der Synthesis der Rekognition im Begriffe〕

    ◆ 私たちが思考しているものが、私たちが一瞬前に思考したものとまさに同じものであるという意識がなければ、諸表象の系列における全ての再生産は無益になるだろう。
    何故なら、〔もしそうだとすれば、〕私が思考しているものは、現在の状態における一つの新しい表象となってしまい、この表象は、表象を次々と産出したはずの作用には全く属さないことになってしまい、そうした表象の多様なものは常にいかなる全体をも成さなくなるに違いないからである。というのも、この多様なものは、あの意識のみがそれに与え得る統一を欠いたからである。
    もし、私が数をかぞえる際に、私にとって今感覚〔Sinnen〕の前に漂っている単位が、順次互いに私によって付け加えられたものであるということを忘れるならば、私は、このように1に1を継続的に付け加えることによって大きな数が産出されたということ、従ってまた、数〔という概念そのもの〕を認識しないだろう。何故なら、この〔数の〕概念はただ、この総合の統一についての意識にのみ存在するからである。

    ◆ 「概念」という言葉〔Das Wort Begriff〕が、既に自ずから私たちを導いて以上のことを注意させるのかもしれない。というのも、この一つの意識〔eine Bewusstsein〕こそ、多様なもの、〔即ち、〕順次直観されたもの〔Angeschaute〕を、継いでまた再生産されたもの〔Reproduzierte〕をも、一つの表象〔eine Vorstellung〕のうちへと合一させるものに他ならないからである。この意識はしばしば弱いものでしかあり得ないので、私たちはこの意識をその結果においてしか表象の産出と結びつけず、その作用自身おいては、換言すれば、直接的には、表象の産出と結びつけることがない。しかし、こうした相違にもかかわらず、やはり一つの意識〔ein Bewusstsein〕は、たとえその意識が際立った明瞭さを欠いているにせよ、常に見出されなければならない。だからこの意識無しでは、諸概念は、そして諸概念と共に諸対象についての認識は、全く不可能なのである。

    ―― No.45082 の続き ---

    ◇ そこでこの場合、いったい諸表象の対象という表現〔Ausdruck eines Gegenstandes der Vorstellungen〕で何が意味されているのかに関して説明しておくことが必要である。
    ◇私たちは先にこのように述べた。すなわち、諸現象〔Erscheinungen〕そのものは感性的表象〔sinnliche Vorstellungen〕以外の何ものでもなく、この感性的表象はそれ自体では、まさにこの感性的という様式においては、(表象能力〔Vorstellungskraft〕の外にある)対象と見なされてはならないのだと。

    ◇ 〔では、〕その認識に対応する、従ってまたその認識と区別された対象について語る時、いったい人は何を理解しているのであろうか?

    ◇ 容易に洞察できるのは、この対象は、或るもの一般〔etwas ueberhaupt〕=Xとしてのみ思考されざるを得ないということである。
    というのも、私たちは、自らの認識の外に、この認識に対応するものとして対置できるものを何一つ持っていないからである。


    † 原佑訳上巻、p.268〜p.269参照。 原典はMeiner, p.213
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 訳文作成では、ChatGPTを活用・参考にすることがあります。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    XI−13 No.45082、XI−14 No.45317
    XI−10 No.44534、XI−11 No.44755、XI−12 No.44983
    XI−7 No.43813、XI−8 No.43877、XI−9 No.44186
    XI−4 No.41315、XI−5 No.43407、XI−6 No.43622
    XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741
    ]−7 No.40294、]−8 No.40300
    ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,
    No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,
    No.39943,40101,40235,40240,40294,40300
    第二節 No.40347,40360,40741,41315,43407,43622,43813,
    No.43877,44186,44534,44755,44983,45082,45317


返信/引用返信 削除キー/

■45316 / )  AIにモーツァルトの三大交響曲について質問
□投稿者/ knowingitself -(2026/02/11(Wed) 16:07:50)
    モーツァルトの最後の三つの交響曲
    第39番 変ホ長調 K.543
    第40番 ト短調 K.550
    第41番 ハ長調 K.551《ジュピター》

    を「三部作」あるいは一つの大きな交響曲的構想(連作交響曲)として捉える指揮者は、明確にそう公言している場合もあれば、演奏解釈やプログラム構成からそのように読み取れる場合もあります。

    代表的な例を挙げます。


    ■ ニコラウス・アーノンクール
    かなり明確に「三部作」的性格を強調。
    コンセルトヘボウ管との録音では、三曲を精神的に連続したドラマとして扱う。
    第39番=序章的・序曲的性格
    第40番=悲劇的中核
    第41番=対位法的・宇宙的完成

    アーノンクールは、単なる最後の三曲ではなく「意図的な総括」とみなす傾向が強い指揮者です。



    ■ カール・ベーム
    明言は少ないが、後期モーツァルトの精神的総括として三曲を一体的に扱う。
    ウィーン・フィルとの録音では、様式的統一感を強く意識。



    ■ レナード・バーンスタイン
    特に晩年のウィーン・フィル盤。
    第40番を感情的中心に据え、第41番を超越的解決として扱う傾向。
    しばしば三曲を連続演奏するプログラムを組んだ。



    ■ ジョン・エリオット・ガーディナー
    歴史的視点から、短期間に書かれた三曲を「意図的セット」として提示。
    録音・演奏会で三曲をまとめて扱うことが多い。



    ■ クラウディオ・アバド
    ベルリン・フィルやルツェルン祝祭管との演奏で、三曲を精神的アーチ構造として提示。



    補足:学術的背景

    三曲は1788年夏の約2か月間に集中して書かれています。
    しかし初演の確証がなく、「意図的な三部作かどうか」は現在も議論中です。

    一体的と考える根拠:
    調性配置:
    変ホ長調 → ト短調 → ハ長調
    (安定 → 悲劇 → 勝利的普遍性)
    第41番終楽章の対位法的総括性
返信/引用返信 削除キー/

■45315 / )  ショック受けた
□投稿者/ pipit -(2026/02/11(Wed) 16:04:13)
    2026/02/11(Wed) 16:07:41 編集(投稿者)

    今日心がショック受けたから「ショックを受ける」ということについて考えた。

    想定外の(自分にとって都合)悪い情報に触れた時に、心がショック受けるのかなと考えた。

    そんで、過去のことも思ったんだけど、

    『ショック受ける必要あるんかな?』とも思った。

    感情と思考は互いに影響し合うのかな、いろなことは縁で生まれてるのだろう、でも、カントの言ってる【自由】はあるのだろうか?

    いろいろ思った。だんなさんには「◯◯ちゃんは心臓に毛生えてるから」と言われたことあるけど・・・

    でも高校生の時に部活仲間には、「あんたは心弱すぎるねん」と言われたこともある。

    ヒトは決まってないのだろう
返信/引用返信 削除キー/

■45314 / )  Re[45]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/11(Wed) 11:40:37)
    No45313のつづき

    カントの「直観」、いまだによく分かんないんだけど、ちょっと振り返って見た。

    (a)ある対象が表象能力に及ぼす影響が、私たちが対象によって触発される限り、感覚である。感覚によって対象に関係するような直観を、経験的という。経験的直観の未規定な対象を現象という。

    (b)認識は、直観か概念のいずれかである。

    (c)直観は直接的に対象に関係し、個別的であるが、概念は、いくつかの事物に共通でありうる徴表を介して、間接的に対象に関わる。

    (d)わたしは、あらゆる概念のうちで感覚とは関係ないものを(超越論的な意味で)「純粋な何々」と呼ぶことにする。すると、感性による直観の純粋な形式が、さまざまな現象に整理をつけるものとして、先天的に心の中に見いだされることになるだろう。この感性の純粋な形式はまた純粋な直観と呼ばれることもある。

    カントの「直観」を中心にこれまでわたしが見てきたなかから書き出して見た。
    カントの言う「直観」っていうのには「経験的直観」「純粋直観」があるみたいなんだけど、わたし分かんないから「純粋直観」っていうのはもういいかな、ってあきらめ〜。

    「経験的直観」の方を、カントのをわたしなりに見たのを書いて見ると、

    外的なものとしてある対象「Q」があるとするのね。Qはその人(P)に“触発されるもの”になってる場合ね。人によってはQに触発されない場合もあるわけで、ようするにPに触発されたものとなったとき初めてQはPにとっての「対象」って呼ばれるわけね。
    QはPの意識の内に“多様なもの”として現れるみたい。これを〈nX〉ってしてするよ。〈nX〉はまだ〈なんである〉のかは認識(判断)されてないものね。この〈nX〉をカントは、「現象Ersheinung」って呼んで?て、この〈nX〉は綜合される(覚知の総合?)、って考えてる。総合されたものを「経験的直観」〈q〉って呼んでる。〈q〉はまだ〈…のように見える〉みたいな判断(認識)って考えてるのかな?で、この総合のときに働いているのが「コギト」って考えてるんじゃないかな?

    現象学のとくらべて見たよ
    カントの場合、「現象(知覚)」自身には綜合する働きはもってないってしてるのかも?現象学ではNo37239に「受動的総合(知覚)」ってあって、知覚にも総合する働きがあるって考えてるんじゃないかな?そして、〔能動的総合(コギト)はすべて受動的総合を土台にして行われる〕って考えてる。この受動的総合を「原本」とも言ってるみたで、ようするにコギトするときの原本となっているのが受動的総合(知覚されたもの)って。
    ここらへんが現象学とカントのと違うところかな?

    カントの「経験」っていうのをNo44062で見たような、〈経験的悟性(コギト)加工認識〉ってわたし見てるし、いずれにしても多様なnXが総合されるのはコギト(悟性)によるもので、コギトによって加工されたものを「直観」ってしてるだとして見てるのね。
    こういうのから
    No45301の(Mp)の「直観」を、上のようなものとしてわたし見てるのね。


返信/引用返信 削除キー/

■45313 / )  Re[44]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/11(Wed) 11:14:52)
    今日はお休みだし

    No45301の(Mp)と、
    No45302の(Mp2)
    のところについて、わたしの見えを書いてくね。

    No41741(MC)に「主知主義」「批判主義」っていうの出てくるんだけど、
    「主知主義」――デカルト、カントの
    「批判主義」――カントの
    って見てる。
    No45301の(Mp)のなかにある「反省」「合致」「直観」を、
    「反省」――デカルトの「コギト」
    「合致」――カントが問題とした「一致」
    「直観」――カントの「直観」
    って見てるよ。



返信/引用返信 削除キー/

■45312 / )  オールドメディアに未来はない
□投稿者/ パニチェ -(2026/02/11(Wed) 08:50:47)
    2026/02/11(Wed) 14:42:14 編集(投稿者)

    今回、自民党が大勝したのはマスゴミがよく使う“風”とか“旋風”なんて一時的なもんやないで。

    高市は総裁選に出馬する以前から自身の国家観を明確に表明し、目指したい国のあり方をずっと主張してた。

    前々回の総裁選でも党員党友投票ではトップだったにもかかわらず、媚中や媚韓、護憲派議員や公明党との選挙協力で当選を目指す屁たれ議員によって阻止された。

    今回の自民大勝の一番の原因は、中改連の足し算しか知らない選挙目当ての野合失敗でもなく、高市批判を主とした左翼系政党の戦略ミスでもなく、無党派層という大きな山が動いたということ。

    今回の選挙で大敗したのは中道だけではない。
    せっせと高市下げをやってたオールドメディアが予測通り完敗した。
    兵庫県知事選が分水嶺となり、前橋市長選、今回の総選挙とこれで3連敗やな(笑)。

    オールドメディアとネットの最大の違いは、前者が一方的な情報発信であるのに対して、後者はインタラクティブだということ。

    くだらない意見はネットでは炎上するし、フェイクも見破られる。情報を取りに行くネット民はメディアリテラシーに長けているし、どっからでも情報を拾ってきては矛盾を追及したり糾弾する。

    玉石混淆なのはネットもオールドメディアも同じ。
    自分たちの誤情報発信や偏向報道を棚上げして、ネットによるデマやフェイク画像の拡散の危うさのみを訴えるアホコメンテーターはネット民や国民をなめすぎとるやろ。

    偏向報道やこれに便乗する御用学者、頭お花畑の左翼系コメンテーターやMC、番組に使われたいために忖度発言をし続けるアホタレントなどなど一方的な情報を垂れ流すマスゴミに未来はない。

    オールドメディアでは盛んに「分断」とか「対立」って言葉が用いられるが、そんなもんは言葉のチョイスの問題でしかないやろ。意見の相違があることは当たり前。それが表立たないのは独裁国家。意見の相違を認めつつも感情的な対立にしないということが重要なんとちゃうか?

    日本人としての本来の美徳のひとつでもある寛容の精神でもって意見の相違は“Agree to disagree”あるいは止揚されなくてはならない。

    結論から言えばこの国の無党派層はマスゴミとそれにたかるブンブン五月蠅いハエみたいなアホコメンテーターに巻かれるほど馬鹿ではないし、偏向報道に左右されるような畜群(ニーチェによる哲学用語:ボーカルマイノリティに盲目的に追従する確たる自己を持たない弱者の群れ)ではないというこっちゃ。

    いつまでたっても現状維持で進化しないオールドメディアに未来はない。

    PS.ちなみに300議席以上の自民党の圧勝を予測していた唯一のメディアは選挙ドットコムだった(306議席予測)。
835×493 => 600×354

img_e1e73c662a372f19367fe215af88bb44431879.jpg
/98KB
返信/引用返信 削除キー/

■45311 / )  効率と非効率
□投稿者/ pipit -(2026/02/10(Tue) 19:25:28)
    「非効率がわたしの代名詞やから(^ ^)」

    効率は便利かもやけど、非効率を悪としないことで、怒りも落ちるのかもと思った。

    まぁロジカルな効率攻略を考えるのは楽しい事かもやけど

    んー、論理ってなんなん?



返信/引用返信 削除キー/

■45310 / )  Re[43]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/10(Tue) 19:12:45)
    わっしの物語りの流れ、簡単に振り返って

    カントの(私)
    から
    フッサールの「自我」
    を見てきて、
    No45300の(MI),(MI2)で
    メルポンの「私」
    については少し書けたかな?
返信/引用返信 削除キー/

■45309 / )  注意喚起にて。
□投稿者/ アートポット -(2026/02/10(Tue) 01:44:09)
    最近、Twitter上で、上手く生きるテクニック、を呟いている垢のなかで怪しい儲け話を勧めてくる垢が激増にて注意にてにょ。ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
返信/引用返信 削除キー/

■45308 / )  中道にて
□投稿者/ アートポット -(2026/02/09(Mon) 20:40:26)
    今回の衆院選挙にて、自民党の城内先生に投票にて、比例にて中道に投票にて。中道にて重要にて。ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
返信/引用返信 削除キー/

■45307 / )  Re[42]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/09(Mon) 19:03:44)
    あ〜あ、「国会」の機能が果たせなくなっちゃた感じ〜

    タカ派日本国人が多かったっていうことかな?
    ちなみに、どちらかというとわたしハト派だったのかも。

    ところで「国民会議」っていうの聞いてネットで調べたら、
    「会議は民主、自民、公明の3党合意にもとづき、衆院解散後の2012年11月末に当時の野田佳彦首相が発足させた。会長の清家篤慶応義塾長をはじめ、15人の有識者委員の人選は3党の総意だ。」
    っていうのあったんだけどわたしにはよくわかんなかった。
返信/引用返信 削除キー/

■45306 / )  藤井6冠
□投稿者/ 田秋 -(2026/02/09(Mon) 08:13:45)
    2026/02/09(Mon) 08:15:35 編集(投稿者)

    昨日棋王戦第1局が行われ挑戦者の増田康弘8段が勝利した。増田8段は昨年も挑戦者になりこの時は3連敗で敗退した。藤井6冠は王将戦に引き続き黒星発進となった。

    この所伊藤匠2冠、永瀬9段、そして増田8段と藤井6冠追い上げパワーが増大している。確かに8冠達成当時の一方的勝利は減った。

    追う方には目標があるが追われる方には具体的な目標が見えない。強いて言えばAIか?終盤肩を落とす藤井6冠をみると勝負の世界の厳しさを感じる。

    しかし最終盤、解説の佐藤康光9段が「投了してもおかしくない」と言った局面から妖しい勝負手が出る。正確に対応すれば勝ちは動かないが、正解手順は一通り、後は逆転という局面になる。対局終了後立ち合いの井上慶太9段は「私なら逆転されていた」と本気で言っていた。佐藤康光9段も「そんな手があるんですねえ」と驚いていた。

    増田8段は正確に読み切りこの難所を乗り切った。局後のインタビューで「終盤時間が残っていないと勝てないので中盤はあまり深くは読まず直観で指す局面もあった。時間が残っていたのが良かった」」みたいなことを言っていた。

    当人たちは大変だがこっちはストーブつけて炬燵に入って居眠りしながら観戦^^

    写真は今朝の風景
1000×1500 => 400×600

niwa260209.jpg
/396KB
返信/引用返信 削除キー/

■45305 / )  衆院選
□投稿者/ 田秋 -(2026/02/09(Mon) 05:54:00)
    今回の衆院選は自民が単独で議席の2/3以上を獲得する歴史的大勝となった。これはひとえに高市人気に依るものだと思う。その意味で高市総理の解散決断は見事に功を奏した。

    「高市人気に依るもの」と言うのは、「それぞれの候補へ信任を得たものではない」の裏返しである。自民党寄りの候補者の資質が全国的に急に上がり支持を得たとはちょっと考えにくい。

    小泉チルドレンという言葉があったが、今回まさに高市チルドレン状態である(反対派に対する刺客という意味ではないが)。このことに自民党は留意すべきである。

    ま、当面株価は上がるでしょうなあ。

    田秋解説委員でしたあ〜
返信/引用返信 削除キー/

■45304 / )  お詫び
□投稿者/ 田秋 -(2026/02/08(Sun) 21:25:37)
    先の書き込み中、キティダニエルさんの敬称が抜けていました。

    お詫びして訂正いたします。

    キティダニエルさん、失礼しました。
    <m(__)m>
返信/引用返信 削除キー/

■45303 / )  Re[48]: Duo
□投稿者/ パニチェ -(2026/02/08(Sun) 19:01:08)
    2026/02/08(Sun) 19:19:37 編集(投稿者)

    こんばんは、田秋さん。レスありがとうございます。

    No45298に返信(田秋さんの記事)
    > こんにちは、パニチェさん

    > パニチェさんとキティダニエルとのやり取りからクリームに興味を持ちちょっと調べてみました。クリームというロックバンドのことは知っていましたが、1960年代の英国ロックの一つという程度で、若い頃はもっぱらビートルズに傾倒していましたし、クリームのことはエリッククラプトンつながりで知っていたのでドラムのジンジャーベイカーのことは何も知りませんでした。

    > 人格的にはかなり難しい人だったようですが、演奏は強烈ですね。よくわかりませんが、この種の音楽には(4拍子で)2拍目4拍目を強調するイメージがありますが、ベイカーのドラムにはそういうものは感じません。もっと決然としている感じです。

    今は何でもありになってまあすが、当時としてはベイカーの演奏は斬新だったのだと思います。

    > そういえばジャズだと他の楽器と同じくドラムソロというものがありますが、ロックではあまりないのですか(ベイカーが創始者?)。

    既に70年代からブリティッシュロックではドラムソロは盛んに行われてましたね。
    ジャズでは古くからドラムソロはあったようですのでベイカーはロックでの先駆けだったのかもしれません。
    ちなみに私はEL&Pのカール・パーマーが好きでした。

    ttps://www.youtube.com/watch?v=3lcQaTl0YTc&t=65s

    くるみ割り人形
    ttps://www.youtube.com/watch?v=y30jjHw0ecw
返信/引用返信 削除キー/

■45302 / )  Re[41]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/08(Sun) 18:23:05)
    きょうはもうちょっと抜粋だけ。
    たぶんメルポンのわたしのはあまり興味ないと思うから、ちょっと長いのはどんどん書いちゃたほうがいいかな、って。

    No45301の(Mp)の『区別されてない場所に…身をおく必要がある』っていうところに連関すると思われるところを。
    メルポンのカントの、そしてメルポンのなんだけど、

    No41741(MC)から、

    (Mp2)―――――――――――――――
    初発段階の意識を分析の対象とするやいなや、それには〈ア・プリオリな形式〉と〈経験的内容〉という周知の区別(90)が適応できないということにわれわれは気づくのである。異論の余地のないぎりぎりのところで考えるならば、ア・プリオリなものとは、一部ずつ理解することができず、最初から分解不能なひとつの本質として考えられなければならないものということであり、反対にア・ポステリオリなものとは、思考の面前でひとつひとつ外的諸部分の寄せ集めから構成されうるものを指すということになる。カント主義の特質は、ア・プリオリな構造をそなたものとしてはふたつのタイプの経験、つまり外的対象の世界の経験と内官の状態の経験のふたつだけしか認めないということ、そして経験のそれ以上の特殊規定、たとえば〈言語〉の意識とか〈他人〉についての意識とかは、ア・ポステリオリな経験の多様性に帰しているということである。

    原注(90):カントにおいては、質料と形式との区別は明らかに、あたかも二力の複合からひとつの合力が得られるといったふうに認識を生み出すところの、ふたつの力ないし二つの実在的要素の区別ではない。にもかかわらず、意識が自己自身を反省して全体的意識になれば、関係判断と、判断の対象となる経験の諸項との区別や、また空間と空間を充たす諸性質との区別が露呈されてくる、とうのもやはり正しい。このような理念的分析が批判哲学を構成しているのである。
    ―――――――――――――――――(MP-p7)

    わたしのまとめ用に、思いついたので忘れないうちに、ね。



返信/引用返信 削除キー/

■45301 / )  Re[40]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/08(Sun) 16:57:03)
    No45300のメルポンの(MI-1)はわたしもそんな感じしてる。

    No44062のカントの、
    (a)『経験は、我々の悟性が感性的という生(なま)の材料に手を加えて作り出した最初の所産である』(Kc-p227)
    のつづき的になるんだけど、『手を加えて』のところ、

    No44901のGのをもうちょっと書いて見ると、
    (Kp)――――
    『私たちのすべての認識は経験をもってして始まる。このことに、なんら疑いの余地はない。というのは、私たちの感官を刺激し、一方でおのずから諸表象生み出し、他方で私たちの悟性活動を作動させるのは、〔経験の〕対象であるが、この対象が、諸表象を比較し、結合あるいは分離し、そのようにして感性的印象の生の素材を、対象の認識――この認識が経験と呼ばれる――へと加工するということをひき起こすのでないとすれば、いったいなにによって認識能力が活動へと呼び覚まされるというのであろうか、したがって、時間の上では、私たちにおけるいかなる認識も経験に移行しないのであり、すべての認識が経験をもって始まるのである。』(B1)
    ――――――p54
    ここのところを、〈感性(知覚)〉の〈生まの〉とその「加工」、っていうふうに見て見るよ。

    でね、
    この「加工」っていうの、メルポンのなかにも出てきてるからそこんとこ書き写して見るね。
    No45262(M-n)の「絡み合い―キアスム」のところから、
    (Mp)―――――――――――
    哲学が反省や合致を自称すると同時に、自分がみいだそうとするものをすでに前提としているという批判が正しいとすれば、哲学は最初からすべてをやり直す必要がある。反省や直観が手にいれた道具を投げ捨て、まだ反省も直観も区別されていない場所に身をおくこと、「主観」と「客観」、実存と本質が混ざり合ったまま、一挙にわたしに与えられ、まだ「加工されてない」経験のうちに、これらをふたたび定義しなおせるような場に身をおく必要がある。見ること、語ること、さらにある意味では考えることまでもが(というのは、見ることと考えることを絶対に区別し始めると、すでに反省の領域に入っているからだ)、この種の経験、否定できないとともに、謎めいた経験なのである。この経験は、すべての言語において名前を与えられているが、同じくすべての言語において、群れ集まる複数の意味を。すなわち固有の意味と比喩的な意味の群がりをそなえている。このためこの経験に与えられた名前は、科学で使われる名前のように、名づけられたものの範囲を決定する意味を与え、それを照らし出す光のようなものではない。この名前は、反復される暗示のようなもの、執拗に呼び出すもの、なじみ深いものでありながら、説明されたことのない神秘のようなもの、周囲を照らし出すが、その本体はくらがりのうちにある光のようなものである。見ることと語ることの経験のうちに、言語においてこのようなものとして運命を与える生きた指示関係をみいだすことができれば、わたしたちは新しい道具を作り出す方法を学ぶことができるだろうし、まずわたしたちの探求、わたしたちの問いそのものを理解できるようになるだろう。
    ―――――――――――――――――(p116-117)

    ここんところについてのわたしのお喋りは後でね。

返信/引用返信 削除キー/

■45300 / )  Re[39]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/08(Sun) 16:33:58)
    ちなみに「生(なま)」っていうのを「生ま」っていうことにしたよ。

    No45299の(MKn)のなかに『生(なま)の』っていうのあるんだけ
    ちょっと想い出したの、
    No44062のカントの、
    (a)『経験は、我々の悟性が感性的という生(なま)の材料に手を加えて作り出した最初の所産である』(Kc-p227)
    っていうのを。
    『感性的という生(なま)の材料』ってあるように、カントも〈感性(知覚)〉を〈生まの〉って見てるみたい。

    あ、逆かな?カントが〈感性(知覚)〉を〈生まの〉、ってしてるから、メルポンもそういう言い方を使ってるのかな。

    〈出来事としての自然(身体)〉の〈出来事としての〉を〈生まの〉、〈対象としての自然(身体)〉の〈対象としての〉を〈自然科学における〉ってして見といてもいいかな。
    いずれにしてもメルポンは「私」っていうのを前者の方として見てるみたい。このことについて言ってると思われるところを書き写しておくね。

    No41741(MP)のP1-3に(前にも書いたかもだけど)、

    (MI-1)――――――――――
    私は自分を、世界の一部として、生物学、心理学、ならびに社会学お単なる対象として考えることはできないし、一般に科学の考える世界のなかに私を閉じ込めることはできない。世界についての私の知識は、たとえ科学による知識であろうと、どれもこれも、世界に関する私自身の観察、もしくは経験からして得られるのであって、このような経験がなければ、科学の記号には何の意味もないであろう。科学の宇宙の全体は、生きられた世界の上に打ち建てられており、もしわれわれが科学そのものを厳格に考え、正確にその意義と有効範囲とを測ろうと欲するならば、まず第一に世界についてのあの経験を呼びまさなくてはならないのである。科学はこの経験の二次的は表現なのだ。科学は知覚された世界と比肩しうる存在意義を決してもってはいなし、また将来ももつことはないであろう。その理由は簡単である。すなわち、科学は知覚世界の一つの規定、もしくは一つの説明だからである。動物学、社会解剖学、それに帰納的心理学は、「生物」とか「人間」とか、「意識」といったような、自然もしくは歴史の産物に、さまざまな特徴を認めるが、私はこうした特徴のすべてをそなえた「生物」ではないし、このような意味では、「人間」や「意識」ですらない。――私は絶対的な根源である。私の実存は、私の経歴、私の自然的・社会的環境から由来するのではない。私の実存はこれらに向かってゆき、これらを支える。
    ――――――――――――――
    (MI-2) ――――――――――
    私を世界の一つの契機と見なす科学的な見方は、いずれも幼稚で欺瞞的である。というのは、これらの見方は、もう一つの見方、すなわち、意識によって初めて一つの世界が私のまわりに配置され、私に対して存在しはじめるという、意識の見方をいつもひそかに前提しながら、はっきりとはいわないからである。事象そのものに帰るということは、認識に先だつ世界に帰ることである。
    認識はつねにこの世界について語るのであり、これに対してはいかなる科学的規定も、抽象的、記号的、依存的である。これは、森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景に対して、地理学が抽象的、記号的、依存的であるのと同様である。
    ――――――――――――――

    ってあった。

    なんかメルポンの話しになるとついお喋りが長くなっちゃうかな。
返信/引用返信 削除キー/

■45299 / )  Re[38]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/08(Sun) 13:17:09)
    わたしの物語りつづけるね
    No45263、「自然」で想い出したの、メルポンのカントのなんだけど、

    No45262(M-n)の「カントの人間主義と自然」のなかで、
    (MKn)――――――――――――――
    カント哲学は、無限の存在の可能なただ一つの現れとして、自然の世界を導き出すことを諦めた。しかしそれは世界を生(なま)の存在として認めるためでも、それを研究するためでもない。『純粋理性批判』は自然を、人間の悟性の自然概念のもとで位置づけられた「感官の対象の総体」として定義することで、こうした生(なま)の世界を研究することを拒むのである。わたしたちが語ることのできる自然は、わたしたちにとっての自然にすぎない。自然はこのようなものとしては、デカルトが考えた対象にほかならない。たんに、わたしたちが構成した対象であるという点が異なるだけである。
    ――――――――――――――――p178
    って、メルポンはカントのをこう見てるみたい。

    メルポンは、自然について、〈出来事としての自然〉(en)と〈対象としての自然(自然科学)〉(sn)に区別してる、ってわたし見てるんだけど、(MKn)をわたしの見方で書くと、
    A(MKn)――――――――――――――
    カント哲学は、〈無限の存在(en)〉の〈可能なただ一つの現れ(sn)〉として、〈自然(en)〉の世界を導き出すことを諦めた。しかしそれは世界を〈生(なま)の存在(en)〉として認めるためでも、それを研究するためでもない。『純粋理性批判』は〈自然(en)〉を、〈人間の悟性の自然概念(sn)〉のもとで位置づけられた「感官の対象の総体」として定義することで、こうした〈生(なま)の世界(en)〉を研究することを拒むのである。わたしたちが語ることのできる自然は、わたしたちにとっての自然にすぎない。自然はこのようなものとしては、デカルトが考えた対象にほかならない。たんに、わたしたちが構成した対象であるという点が異なるだけである。
    ――――――――――――――――

    カントは自然科学のように自然を(感官の)“対象”として見ている、ってメルポンは言ってるのかも。
    メルポンのはそういんじゃなくて〈出来事としての自然〉、〈生まの〉を見ようとしててそれを描き出そうとしてるんじゃないかしら、って。

    わたし、「身体」を〈自然的存在〉―この〈自然〉っていうのは(en)の方ね―ってして見てるんだけど、
    No44556で見たような、メルポンの
    (M-S1)――――――――――――――――
    身体について言えば、それも意識の面前で構成される対象のひとつとなって、客観的世界の内に加えられる。そしていかなる自然も能産的認識の相関者としてしか考えられないから、〈認識〉を自然の一出来事として扱うことはもはや問題とならないことになる。
    ―――――――――――――――――(M-C下p127)
    っていうのも想い出してる。
    この『能産的』を〈コギト〉、『認識』を〈判断〉(外的なもの「Q」→私の内で構成された〈q〉、〈qはpである〉)、ってしてわたし見てるんだけど。
    メルポンのわたしの、
    私は、私の身体〈自然的存在〉を私の前において見る(対象として見る)ことも、私を私の身体の前において見る(対象として見る)こともできない。
    メルポンが『私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である』って言ってるのはこういうことなんじゃないかな?って。
    あ、もっとも鏡を見れば私は私の身体を見ることはできるよね、っていうこともできるけど、でもね、たとえば食器を洗っているとき私の身体を鏡で見ながらはできないのね。

返信/引用返信 削除キー/

■45298 / )  Re[47]: Duo
□投稿者/ 田秋 -(2026/02/08(Sun) 13:17:03)
    2026/02/08(Sun) 21:16:52 編集(投稿者)

    こんにちは、パニチェさん

    パニチェさんとキティダニエルさんとのやり取りからクリームに興味を持ちちょっと調べてみました。クリームというロックバンドのことは知っていましたが、1960年代の英国ロックの一つという程度で、若い頃はもっぱらビートルズに傾倒していましたし、クリームのことはエリッククラプトンつながりで知っていたのでドラムのジンジャーベイカーのことは何も知りませんでした。

    人格的にはかなり難しい人だったようですが、演奏は強烈ですね。よくわかりませんが、この種の音楽には(4拍子で)2拍目4拍目を強調するイメージがありますが、ベイカーのドラムにはそういうものは感じません。もっと決然としている感じです。

    そういえばジャズだと他の楽器と同じくドラムソロというものがありますが、ロックではあまりないのですか(ベイカーが創始者?)。
返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -