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■1888 / )  Re[3]: ダンマパダ
□投稿者/ パニチェ -(2019/09/23(Mon) 15:09:15)
    こんにちは、ピピットさん

    No1886に返信(pipitさんの記事)

    > ダンマパダの引用を入力してくださって、ありがとうございます!

    どういたしまして。

    > 中村元さんの訳、心にしみますね〜
    > なんなのですかね、目にすると、心が少しまるくなる気がします。
    > 選ぶ文字がやさしいのかなぁ

    現代文に徹しているから、とっつきやすいとこもありますね。

    > >1,080あったとして、1,000から0(死)になるよりも、500から0になる方がきっと楽です。
    > >一つでも消せれば儲けもんくらいの気持ちで私はいきます。^^ <
    > パニチェさん、そういうふうに考えられてたのですね
    > なんかパニチェさんなら『10000持ってこ〜い』みたいな、って、
    > どんな勝手なイメージつくってんねん!ですよねm(_ _)m

    あはは。リアルでの友人はそういうイメージをもってるかもしれません。(笑)

    > 自分の主観は誤解だらけなんでしょうね
    > また、哲学のこととか仏教のこととか教えていただければうれしいです。
    > ありがとうございます

    どういたしまして。
    こちらこそ、ありがとうございます。
    私でよければなんなりとどうぞ。

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■1887 / )  Re[11]: パトナムの思考の枠組み
□投稿者/ 無縁仏三郎F -(2019/09/23(Mon) 13:21:55)
    次に進む気のない木端役人みたいな感想よのう〜

    ・カントとパースの違いがまったくわからない

    ・真理の収束性の問題は分析哲学内部でも意見が分かれる

    ・そもそも真理が収束する保証はない

    要するに通俗的教科書を斜め読みしたあげくそれらしい用語で粉飾した書いてる本人もよくわかってない駄文だ。

    5年経っても表層から一切掘り下げてない面の皮の厚さには感心するが。

    ま、両者の比較は無理としても少なくともパースくらい読んだらどうだ?
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■1886 / )  Re[2]: ダンマパダ
□投稿者/ pipit -(2019/09/23(Mon) 13:12:56)
    パニチェさん、こんにちは

    ダンマパダの引用を入力してくださって、ありがとうございます!

    中村元さんの訳、心にしみますね〜
    なんなのですかね、目にすると、心が少しまるくなる気がします。
    選ぶ文字がやさしいのかなぁ

    >1,080あったとして、1,000から0(死)になるよりも、500から0になる方がきっと楽です。
    一つでも消せれば儲けもんくらいの気持ちで私はいきます。^^ <

    パニチェさん、そういうふうに考えられてたのですね
    なんかパニチェさんなら『10000持ってこ〜い』みたいな、って、
    どんな勝手なイメージつくってんねん!ですよねm(_ _)m

    自分の主観は誤解だらけなんでしょうね

    また、哲学のこととか仏教のこととか教えていただければうれしいです。
    ありがとうございます


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■1885 / )  wikiの説明
□投稿者/ pipit -(2019/09/23(Mon) 13:00:46)
    抜粋引用したwikiの説明の最後、

    『このように自己言及的な組織構成に着目したとき、システムの外部とやりとりされる物質やエネルギーは、通常この操作的閉包をなしている組織構成そのものには介入しないものと見なせる。 もし、外部からシステムの組織構成への何らかの介入が生じた場合、それは単にシステム自体の損傷を意味するだけである。 マトゥラーナとバレーラは、オートポイエーシス的システムにおいて、外部とのエネルギーのやり取りが組織構成を決定するようなものではないということを、オートポイエーシス的システムは入力と出力を持たないと表現した。 これは、観測者がシステムと環境との区別を設けた上でそれらのエネルギーの入出力に注目するような、一般的に理解されているシステムの概念とは全く異なるものである。』

    むむむ、
    オートポイエーシス的システムは入力と出力を持たないと表現した?


    自己完結してるということとも違うことを言ってるのかなー


    一回、本を通して読むことにチャレンジしてみますo(^▽^)o
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■1884 / )  『カントとオートポイエーシス』
□投稿者/ pipit -(2019/09/23(Mon) 12:50:21)
    wikiの説明は、さっぱり今の段階ではわかりませんけど、
    『カントとオートポイエーシス』の著者山下和也さんは、まだわかりやすく書いてくださってそうです(^^;;

    って言っても、pipitには、わからないかな _| ̄|○

    ぽちぽちでも読めますよーに☆彡
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■1883 / )  オートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/09/23(Mon) 12:46:30)
    wikiで、オートポイエーシスを調べてみた。

    ・・・(゚Д゚) & _| ̄|○





    オートポイエーシス (autopoiesis) は、1970年代初頭、チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラにより、「生命の有機構成 (organization) とは何か」という本質的問いを見定めるものとして提唱された、最先端のシステム論である。主観世界すらも説明可能なシステム論であり、生命の自律性に対する言及が不可能な以前のシステム論の限界を突破することに成功している。 特に細胞の代謝系や神経系に注目した彼らは、物質の種類を越えたシステムそのものとしての本質的な特性を、円環的な構成と自己による境界決定に認めた。 現在では、このような自己言及的で自己決定的なシステムを表現しうる概念として、元来の生物学的対象を越えて、さまざまな分野へ応用されている。最先端で有るが故に、学術界では現在もオートポイエーシスに関する統一された見解は無く、多様な解釈に基づいて議論が展開されている。 なお、オートポイエーシスという語はギリシャ語で自己製作 (ギリシャ語で auto, αυτ&#972; は自己、poi&#275;sis, πο&#943;ησι&#962; は製作・生産・創作) を意味する造語であり、日本語ではしばしば自己創出、自己産出とも書かれる。

    マトゥラーナとバレーラによる定義 編集
    マトゥラーナとバレーラはオートポイエーシス的システムを以下のように定義している。

    オートポイエーシス的システムとは、以下のような構成要素を生み出す構成要素の生成 (変換、破壊) の過程の、境界をもつネットワークとして組織される(ある統一的単位として定められる)。
    (1) [オートポイエーシス的システムは] それら [構成要素] の相互作用と変換とを通じて、それら [構成要素] を生み出した過程 (関係) のネットワークを持続的に再生成し実現する。

    (2) [オートポイエーシス的システムは] 構成要素が存在する空間内で具体的な実体としてそれ (システム) を構成するが、それは、このようなネットワークとしてその [システムの] 実現の位相的 (topological) な領域を指定することによってである。

    ―&#8201;(Varela, 1979; Maturana and Varela, 1980 より訳出。 […]は引用者注 )
    ここでは、システムの構成要素の作動の過程が最終的にその構成要素自体を作り出す円環的な組織的特性が指摘されているのと同時に、そのことによってネットワークが自己とそうでないものとの境界を自ら決定づけるものであるとされていることが特徴である。

    円環的構成という点において、オートポイエーシス的システムは、アロポイエーシス (allopoiesis, 異種の産出の意) 的システムと対比できる。 例えば、アロポイエーシス的システムである自動車工場では、自動車 (組織化された構造) を作り出すために部品 (構成要素) を用いるが、そこで作り出される物 (自動車) は、それを作り出した物 (工場) とは別である。 一方、細胞では、核酸や酵素、代謝物のような様々な生化学的な構成要素からなり、細胞内の組織化された構造を作り上げているが、物質とエネルギーの外部との交換に基づいて作動しているこれらの構造は、その構造を維持しつづけるようにその構成要素を絶えず生成または分解している。 このような観点を採るとき、システムにとっては自己維持のみがその機能であり、それ以上でも以下でもないとみなすことができる。

    さらに、オートポイエーシスの観点では、そうした過程全体の円環的な構造によってある閉包領域、操作的閉包(operational closure) を作り出しており、それによってシステムと環境とを自ら区別していると考える。 こうしたシステムによるシステムの決定という観点は、オートポイエーシスという概念を利用することが、そうしたシステムの自律決定と、それを観測し記述することとの間をメタレベルで捉える視点を要求し、認識論的含意を無視されざるものとしている。

    このように自己言及的な組織構成に着目したとき、システムの外部とやりとりされる物質やエネルギーは、通常この操作的閉包をなしている組織構成そのものには介入しないものと見なせる。 もし、外部からシステムの組織構成への何らかの介入が生じた場合、それは単にシステム自体の損傷を意味するだけである。 マトゥラーナとバレーラは、オートポイエーシス的システムにおいて、外部とのエネルギーのやり取りが組織構成を決定するようなものではないということを、オートポイエーシス的システムは入力と出力を持たないと表現した。 これは、観測者がシステムと環境との区別を設けた上でそれらのエネルギーの入出力に注目するような、一般的に理解されているシステムの概念とは全く異なるものである。』


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■1882 / )  restさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/23(Mon) 12:34:13)
    やさしいrestさん、ありがとうございます\(^o^)/

    カントの『物自体』はずーっと、議論の対象になってるみたいですね。

    昨日出かけ先から帰るとき、わたしの旦那さんがたまたま寄ってくれた本屋に、
    『カントとオートポイエーシス』という山下和也さんの新刊が置いてあって、購入しました。

    山下さんは、オートポイエーシス論の観点からカントの物自体概念の再考も試みているみたいです。

    私はオートポイエーシス論という言葉自体、初めて意識したくらいなので、
    何書かれてあるのか今の時点では「?」ですけど、
    物自体のことも意識して、restさんのおっしゃってたことも理解できるよう努めながら、
    もう少し先になると思うけど、勉強していきたいと思っています。

    restさんが嫌じゃなかったら、いつでも、書き込みしてくださいね

    いつも本当にありがとうございますm(_ _)m
    季節の変わり目、どうぞ、ご自愛くださいませ

    (^_^)v

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■1881 / )  ダンマパダ
□投稿者/ パニチェ -(2019/09/23(Mon) 09:38:50)
    2019/09/23(Mon) 09:39:53 編集(投稿者)

    おはようございます、ピピットさん。

    No1875に返信(pipitさんの記事)

    > パニチェさんが考えてることを教えてくださって
    > ありがとうございます

    いえいえ、どういたしまして。
    私の方こそ、いつもレスいただきありがとうございます。

    > 改めて今考えてみると、
    > どう生きるか、しか、直接的には行為できないですよね。

    全くもってその通りです。「如何に死ぬか」は「如何に生きるか」と同義ですし、(魂のようなものが存在せず、自分の死を客観的に眺めることができないとするなら)自分では自分の死を体験できないことから、「如何に生きたか」や「如何に死んだか」の過去形評価は他人が下すものだと思います。集約すれば自己においては「如何に生きるか」しかないんでしょう。

    > ふと思い出してダンマパダを取り出しました。

    対比のため同じ箇所を中村元先生訳として引用してみました。

    『此の身は瓶の如しと觀 、此の心を城の如く安住せしめ 、慧の武器を以て魔と戰ひ 、彼の捕虜を守り懈廢すること勿れ 。
    嗟 、此の身久しからずして地上に横たはらん 、神識逝けば棄てられ 、猶ほ無用の材の如けん 。
    怨が怨に對して爲し 、敵が敵に對して爲す處は如何なりとも 、邪に向ふ心の造る害惡に若くものなし 。
    母 、父 、また其他の親戚の爲す所は如何なりとも 、正に向ふ心の造れる幸福に若くものなし 』

    『40.この身体は水瓶のように脆(もろ)いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。克(か)ち得たものを守れ。──しかしそれに執着することなく。
    41ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、──意識を失い、無用の木切(きぎれ)のように、投げ棄てられて。
    42.憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪(よこしま)なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
    43.母や父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを正しく向けられた心がしてくれる。』

    > 何はともあれ、
    > せっかく生きてるから、生きてるうちに、私の場合はちょっとでも煩悩捨てることを上手になりたいな。
    > (煩悩にまみれてますけど。ほど遠いですけど。)

    執着するものが1,080あったとして、1,000から0(死)になるよりも、500から0になる方がきっと楽です。
    一つでも消せれば儲けもんくらいの気持ちで私はいきます。^^

    > ありがとうございます(o^^o)

    こちらこそ。^^

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■1880 / )  仏教、ニーチェ、脳科学他 2
□投稿者/ パニチェ -(2019/09/23(Mon) 09:03:47)
    初期仏教、中論、唯識、華厳、大乗仏教

    ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、〈私〉の哲学、科学哲学など哲学全般

    脳科学、進化論、物理(相対性理論、量子力学)などなど
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■1879 / )  パトナムの思考の枠組み
□投稿者/ キティダニエル -(2019/09/23(Mon) 02:15:49)
     科学でも哲学でも新たなる主張は以前の学説を敷衍した上で成り立っていくとい

    くのが常道だ。分析哲学と初期のプラグマティズムは極めて似た着想から出た哲学

    であり、クワインに言及するまでもなくその融合は半ば運命づけられていたとも言

    えるだろう。ここで大胆な言い方をすれば分析哲学もプラグマティズムもその発生

    から今日に至るまでそれほどその主張を抜本的に変えてきたというわけではなく、

    ただ時代を下るにしたがってその主張を精緻にしてきたということに過ぎない。

     ここでパースとパトナムの存在論的立場に論及するならば同じ実在論的立場に

    あると言える。パースは自らの存在論的立場をスコラ的実在論としながらも、カン

    ト風の観念論的な認識論的立場をとる。この構図は実はパトナムも同じで、かれの

    設定する形而上学的実在論はオーストラリアの分析哲学者スマートらとともに分析

    哲学者の文脈から出てきているように見えるが実は内容的にはパースのスコラ的実

    在論とほとんど同じであり、これを認識論の観点から弱めたものが「内在的実在論

    」であると考えることができる。また>われわれの真理の探究は最終的には安定的

    に収束するものであるとし、真理とは探求のプロセスの果てに得られる「理想化され

    た正当化可能性」ないしは「合理的な受容可能性」であると主張するのである。

    についてはパースの着想をそのまま受け継いだものといえる。

     確かに表面上はパトナムはLSTやダメットなどのパースの時代より精緻化した

    ツールを援用しているがその転向の基本的構図や方向性はパースの引いたパラダイ

    ムに沿って行われたと解釈しても大きい間違いではないだろう。

     


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■1878 / )  おまえがやれぬことならば〜
□投稿者/ 無縁仏三郎F -(2019/09/23(Mon) 01:08:01)
    おれがこの手でやってやる〜そうさこの世のドブさらい〜♪

    ワイルド7の主題歌。昭和のちびっこ番組はいいねえ。

    ところでパースの著作だけからLSTを使用せずに簡単に形而上学的実在論を
    批判できると騒いでたヒヨコがいたが5年経ってもできないようなんでおれが
    引き継ごうかな。

    おれもフェミニズム活動で忙しいが5年以内に結果を報告する。
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■1877 / )  Re[2]:プロレゴーメナ
□投稿者/ rest -(2019/09/23(Mon) 00:01:10)
    2019/09/23(Mon) 00:10:38 編集(投稿者)

    pipitさん 十分成長していますよ。折り紙付きですよ。
    ところでカントの気になるところを最後に指摘しておきましょう。
    「実際、われわれが感官の対象をごく当然に単なる現象と見なすときには、同時にそれによって現象の根底に物自体があることを承認する。といってもわれわれは物自体がどんな状態にあるかを知らず、ただその現象、すなわち、われわれの感性がこの知られない或る物によって触発される仕方だけを知るのである。そのようにして、悟性は現象を容認する、まさしくそのことによって、物自体の存在を承認する」(カント著『プロレゴーメナ』中央公論新社pp.102-103)
    カントが不可知論を離れて物自体の実在を認めてしまった、ということで矛盾を指摘する人がいますね。私も不可知論の立場を支持するのでたいへん違和感を覚えます。私は矛盾というより、上の論の誤りを指摘して置きたいと思います。
    精神病理でいう幻覚、幻聴は病人本人には生々しい現象つまり表象として現れてくるのですが、第三者からみる限りその表象には実体が伴いません。カントのいう物自体による触発が成り立たない例ですね。実体による触発がなくても表象は独自に現れるということになります。表象は超越論的主観性によって実体とは無関係に造り出されるのですね。決して触発ではないのです。私はカントの変貌した素朴実在論ではなく『純粋理性批判』にあったカントの不可知論を支持したいと思います。
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■1876 / )  Re[1]: 純粋理性批判を読んでみる。3
□投稿者/ pipit -(2019/09/22(Sun) 15:23:08)
    ありがとうございます

    がんばろお〜 o(^▽^)o

    restさん、ワガママ??言って、ごめんなさいm(_ _)m

    成長したいなー
    (でもできないかなぁ( ; ; )、、、、m(_ _)m)

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■1875 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/22(Sun) 15:17:05)
    パニチェさんが考えてることを教えてくださって
    ありがとうございます

    改めて今考えてみると、

    どう生きるか、しか、直接的には行為できないですよね。

    ふと思い出してダンマパダを取り出しました。

    青空文庫だったかな?無料で手に入れた萩原雲来さん訳のダンマパダの一節を読みました。

    『此の身は瓶の如しと觀 、此の心を城の如く安住せしめ 、慧の武器を以て魔と戰ひ 、彼の捕虜を守り懈廢すること勿れ 。

    嗟 、此の身久しからずして地上に横たはらん 、神識逝けば棄てられ 、猶ほ無用の材の如けん 。

    怨が怨に對して爲し 、敵が敵に對して爲す處は如何なりとも 、邪に向ふ心の造る害惡に若くものなし 。

    母 、父 、また其他の親戚の爲す所は如何なりとも 、正に向ふ心の造れる幸福に若くものなし 』

    訳に意訳が入ってるかもしれませんけどね
    多分、神識と訳されてるとこも、原語では、ただの意識という単語なんじゃないかなー
    と思ってますが、調べてないからわからないけど。
    (中村元先生訳では、意識、でした。)

    何はともあれ、
    せっかく生きてるから、生きてるうちに、私の場合はちょっとでも煩悩捨てることを上手になりたいな。
    (煩悩にまみれてますけど。ほど遠いですけど。)

    ありがとうございます(o^^o)


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■1874 / )  Re[8]: パースとパトナム
□投稿者/ 無縁仏三郎F -(2019/09/22(Sun) 15:00:31)
    キティちゃんはいつになったらLSTを理解するのだろうか。

    それを理解しない限り自分がどんなみっともない間違いをしたか理解することはないだろう。

    問題はパトナムに形而上学的実在論を捨てさせたのはパースではないという点だ。そのことはパトナム本人がLSTとダメットによると書いている。


    アメリカの哲学者ならパースなど基本教養であり、学部生ならまだしも研究者レベルなら必読である。パースを読んで内在論的実在論に転向したのなら長い間パトナムはパースを誤読していたということになる。それどころかアメリカの分析哲学者はすべて転向しなくてはならなかったはずだ。

    パトナムのモデル論的議論にもさまざまな問題があることがわかっているしパースの議論をローティは批判している。LSTやパースを持ってきて形而上学的実在論を批判できるのかという問題に進むべきだろう。

    本を買っただけで読まないということはよくあるが、本を読まないで何かを論じるのはキティちゃんくらい。論じる前にまず学習しよう。
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■1873 / )  Re[19]: 輪廻
□投稿者/ パニチェ -(2019/09/22(Sun) 12:09:38)
    2019/09/22(Sun) 12:15:27 編集(投稿者)

    こんにちは、ピピットさん

    No1853に返信(pipitさんの記事)

    > パニチェさんは、自分が死んだら、どうなる、ってどんなふうに考えてますか?
    > わたしは、『今の私には正確なことはわからないけど、
    > もしかしたら、輪廻という現象はあるかも?ないかも?どっちかな〜?』
    > って感じに思っています。

    死後については原始仏教の十四無記の教説を支持してます。
    ttp://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/muki.htm

    で、輪廻転生についてはよい面と暗黒面があると思っています。

    よい面は例えば非業の死をとげた人や生まれてすぐに死んでしまった乳幼児などにも来世があると考えられることで、残された遺族や当人への救いとなることです。

    暗黒面はカルマに関することで、現世で功徳を積むことで来世での善因善果が保証されるという反面、現世が前世の結果であるとするなら先天的な障害や本人の努力ではどうしようもない不幸な出来事などは、その原因が前世にあるという、なんとも理不尽な発想になりかねないからです。

    極論すれば、今、目の前で罪を重ね続けている人がいれば、これ以上現世で悪因を作らせないためにもポアすることが救済であるかのようなオウムの理屈もまかり通ってしまいます。

    もともと輪廻転生はインドに侵攻し特権的階級となったア−リア人が末代までその階級を保持できる正当な根拠として創出した政治的な側面もあると考えています。

    ニーチェと(初期)仏教が共通する面はあくまでも実存主義であるということ、人間(自己)の存在やその生を中心に据えることにあります。

    来世のための生でも何かのための生ではない。生は生として自己完結的に手段と目的を超越したところに、その意義や価値があるみたいなノリが好きです。

    道元禅師の修証一等(覚者から観ずれば修行と悟りは別物ではなく一体であるという意、悟っていようが悟っていまいが存在そのものが仏)との相通ずることろがあると思います。

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■1872 / )  純粋理性批判を読んでみる。3
□投稿者/ パニチェ -(2019/09/22(Sun) 11:08:02)
    トピ主:pipitさん

    引き続きよろしくお願いします。
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■1871 / )  感想2
□投稿者/ pipit -(2019/09/22(Sun) 08:39:32)
    三角形の経験の条件としてのアプリオリな空間で、数学における三角形の概念を描き出す。
    経験を否定してるんじゃないんです。
    経験にインスパイアされて概念を作るにしても、それを学として耐えられる概念とするとき、その概念を描き出す場所が、アプリオリな空間、と言っていると思うんです。

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■1870 / )  感想
□投稿者/ pipit -(2019/09/22(Sun) 08:15:22)
    restさんの批判が、もし、

    経験の条件となる、必然的な表象としての空間で、
    数学の概念も構成されている、という証拠はあるのか?

    という批判なら、

    pipitも、「そうですね、カントの独善的な断定にも思えますね、
    そこらへんをきちんと説明してるのか注意しながら読み進めます」
    と言えるのですが、

    経験に三角形があるから、
    経験を成り立たせる条件である空間で純粋数学の概念も作られてる、
    というカントは間違えてる

    という批判に対しては、
    すっきり、そうですね、って言えません。( ; ; )
返信/引用返信 削除キー/

■1868 / )  restさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/22(Sun) 07:57:51)
    restさんが引用してくださったカントの文章
    >「空間はアプリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外的直観の根底に存する。―――それだから空間は現象に依存する規定ではなくて、現象そのものを可能ならしめる条件であり、外的現象の根底に存するアプリオリな表象なのである」(『純粋理性批判』BB39-40)<


    もし、人間が見ている、ミョウバンの結晶の三角形が、物自体ではなく現象とカントが
    捉えるなら、下記の置き換えが可能と思われませんか?
    おかしいですか?↓


    〈空間はアプリオリな必然的な表象であって、この表象は一切の外的直観(例えばミョウバンの結晶の三角形の直観)の根底に存する。〉

    〈それだから空間は現象(例えばミョウバンの結晶の三角形)に依存する規定ではなくて、現象(例えばミョウバンの結晶の三角形)そのものを可能ならしめる条件であり、〉

    〈外的現象(例えばミョウバンの結晶の三角形)の根底に存するアプリオリな表象なのである。〉

    ミョウバンの結晶の三角形の直観の根底にアプリオリな必然的表象がある。
    この必然的表象である空間とは、何であるとカントは述べてますか?



    ↓restさんの意見
    >空間は経験を成り立たせる条件であって、経験(ミョウバンの三角形)をつくりだす主体ではないのです。現象を成り立たせる直観形式であって造り出す主体ではないのです。おなじ工場とみるのは観念論であって、ミョウバンの実体が認識不可能とするカントの立場と異なるように思います。<

    工場というのは比喩です。
    感性の働きで人間に表象という現象が起きるためには
    物自体からの働きかけ(触発)が必要とされてると思います。
    好き勝手に表象を作ることはできません。
    感性は受容的、と、カントの文章にもあると思います。

    restさんと今話しているのは、
    カントは、
    経験を成り立たせる条件であるアプリオリな空間で、
    純粋数学の概念も構成されている、と言ってるのか、という事と、
    カントの主張に対するrestさんの批判が噛み合ってるものなのか、という議題です。




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■1867 / )  restさん
□投稿者/ pipit -(2019/09/22(Sun) 07:26:55)
    人間が見る、ミョウバンの結晶の三角形という知覚体験は、
    物自体ですか?
    現象ですか?
返信/引用返信 削除キー/

■1866 / )  Re[45]: 同じ工場か疑問
□投稿者/ rest -(2019/09/21(Sat) 23:10:46)
    2019/09/21(Sat) 23:22:08 編集(投稿者)



    結論からいいますと、経験は主観的表象として現れてきますので、あらゆる経験は主観的に構成されたものです。経験を構成する主観性を超越論的主観性とよんでいるようですが、ミョウバンという経験も主観的に構成されたものです。つまり三角形は私たちの主観で造り出したものであると同時にミョウバンの三角形も主観が造り出したものですね。根は同じです。しかしそれは観念論的立場ですね。カントはミョウバンという物自体は認識不可能とみているはずです。ミョウバンの実体はわからないのにミョウバンをつくったのはアプリオリな主観だというのはつまり同じ工場だいうのは無理がありますね。たしかにアプリオリな直観というのは経験に基づかない概念を造り出したりします。発明とかもね。しかしミョウバンの三角形もそのようなアプリオリな主観性で造り出したものでしょうか。主観とは無関係に自然発生的に生まれたものだとすれば、同じ工場とはいえないと思いますよ。
    「空間はアプリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外的直観の根底に存する。―――それだから空間は現象に依存する規定ではなくて、現象そのものを可能ならしめる条件であり、外的現象の根底に存するアプリオリな表象なのである」(『純粋理性批判』BB39-40)
    空間は経験を成り立たせる条件であって、経験(ミョウバンの三角形)をつくりだす主体ではないのです。現象を成り立たせる直観形式であって造り出す主体ではないのです。おなじ工場とみるのは観念論であって、ミョウバンの実体が認識不可能とするカントの立場と異なるように思います。
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■1864 / )  三角形
□投稿者/ pipit -(2019/09/21(Sat) 19:28:33)
    あ、ここに反応されたのかな?

    >この三角形の手本をどんな経験からも借りてきたものではない」(カント著<

    これね、
    restさん、実験してみて!

    心の中で、3つの直線で閉じた形作ってみてください

    三角形できました?

    これ、restさんが三角形見たことなかったとしても、3つの直線で閉じた形、作図すると、三角形になるでしょ?!

    4つの直線で閉じた形作ると、四角形見たことなくても、
    心の中で四角形できるでしょ?!

    すごい!って、私は思うんだけどなー


    そうなることが、空間の特性で、
    この空間が、物自体なのか、現象なのか、
    そこまではまだ私にはわからないけど、

    この特性が、、、、restさん、一緒かな?

    もし一緒だったら、なんかすごい、って思います(o^^o)

    restさんは思わないですか?


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■1863 / )  restさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/21(Sat) 18:36:02)
    restさんこんばんは(^O^)/

    カントが間違えてる、って言うのはいいですよ。

    でも、restさんの批判では、カントの言いたい事への批判となってないのではないか、
    と、私は思っています。

    restさんは、ミョウバンの結晶の側面が三角形だから、
    カントが純粋数学における三角形はアプリオリな概念だ、としたのは間違いだ、
    と言いたいのでしょう?

    でもカントは、ミョウバンの結晶の側面の三角形も、あるシステムにより作られたものだ、
    と言っているのですよね?
    そしてそのシステムで純粋数学の概念も作ってる、と言っているのですよね?

    ミョウバンの結晶の三角形を作ったシステムと、
    純粋数学の概念としての三角形を作ったシステムが、同じシステムだと言ってるんですよね?
    同じシステムから、ミョウバンの結晶の三角形も、数学の三角形も出てきている。

    そう主張してる人に、《ミョウバンの結晶が三角形だから》は、その主張を崩す理由にならないでしょう?

    同じシステムの出自を持つ、という主張を批判する理由として、
    アウトプットされた規格が同一のため、というのが理由になりますか?

    似ている商品AとB

    カント「AとBは同じ機械を通してできた製品だよ!」

    restさん「Aという製品が昔から存在するから、Bという製品はAを参考にして作られた製品だよ、
    君の言うこと(AとBは同じ機械からできている)は間違いだよ。」


    同じ機械から生まれた、という主張を、製品Aの存在を理由に批判する。



    理屈通ってない気がするのです。


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■1862 / )  Mobiusさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/21(Sat) 17:38:36)
    Mobiusさん、書き込みありがとうございます!

    そうですね、アプリオリな総合判断というものが存在して欲しかったカントの努力、と見た方が気が楽かもしれませんね。

    メビウスリング掲示板では、Mobiusさんは独我論の議題などで盛り上がってそうですね。
    他人と議論するというのは、とても大変だけど、すごく貴重な体験になることが多いですね。

    実り多き秋になりますように
    おつかれさまです (^ ^)
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■1861 / )  Re[43]: カントの精神
□投稿者/ rest -(2019/09/21(Sat) 11:33:25)
    たぶんカントはカント主義者ではありません。カントの精神は批判的精神にあります。むろんそれは自己批判も含めての批判精神です。まちがっていたらなおす、これが外部批判であり、自分がまちがっていたら反省する、これが内部批判ですね。カントを無謬のものとしてカントを扱うカント主義者にならないようにするのがカントの精神ではないでしょうか。
    物自体の認識不可能性を説きながら、プロレゴーメナでは物自体から触発されることによって生じる現象を通じて物自体の実在性を承認する、という矛盾はそのような自己批判となりうるようなテーマですね。
    ちなみに数学についてですが
    「哲学的認識は概念による理性認識であり、数学的認識は概念の構成による理性認識である。ところで概念を構成するとは、概念の対応する直観をアプリオリに提示することである。―――例えば三角形を構成するとしよう。この場合に私は三角形の概念に対応する対象を、単に想像だけによって純粋直観として提示するか、それとも純粋直観に従って紙上に経験的直観として提示するか、この二通りの仕方しかない。しかしいずれの場合にもまったくアプリオリに提示したのであって、この三角形の手本をどんな経験からも借りてきたものではない」(カント著『純粋理性批判』BB741-742)
    三角形は古代から使われてきた天然ミョウバンの結晶の側面だとすれば、あながち経験を無視できないのではないでしょうか。
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■1860 / )  近況報告
□投稿者/ Mobius -(2019/09/21(Sat) 08:12:43)
    pipitさん、お久しぶりです。メビウスリングの方が下火なので、こちらに書かせて戴きます。
    今、pipitさんに紹介して戴いた「中山先生の解説部分」を読み進めています。
    p.290「どの実例をとってみても、カントのアプリオリの概念にはまだ大きな難問がつきまとっている。カント以降の哲学は、この難問を解くために、苦闘するのである。」

    これを読んで、「アプリオリの概念」とは、「ストンと腹落ちするような概念ではない」のだな ということがわかりました。だから、「もやもやした理解」のまま読み進めるしかないのかな と思いました。

    しばらくは、解説の方を読み進めようと思います。
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■1859 / )  restさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/20(Fri) 17:49:23)
    こんばんは。
    カントの考え方と私が思うものを述べます。

    三角形が【経験として実在する】ものとrestさんは思うのでしょう?
    それを、なぜ、カントは『数学においてアプリオリな認識』とするのか、restさんは
    理解されますか?

    pipitの私見述べますね。

    カントは、物自体に触発されて人間に現象が生じる、としましたね。
    この現象【化】の過程で、形式としての空間が現れますよね。
    この形式としての空間は、物自体に属するものではなく、【人間の現象化の仕組み】に属するものですよね。

    そしてカントは、純粋数学という学問は、この人間の感性の形式としての空間(人間の現象化の仕組み)を使って、(純粋数学の)概念の構成をしている、と考えたのだと思いました。
    経験を形作る〈形式としての空間〉に作図した結果を、元の概念にフィードバックし、概念の総合的拡張を果たすイメージです。

    これがどのようなことを指し示すのかというと、
    私たちの経験、と、数学の概念、は、同じ場を経由して生まれている、ということだと思います。

    だから、カント的に言えば、数学の概念を、経験にぴったりフィットさせることができるということかと思っています。
    規格が同じですので。
    例えば、規格が同じだから、地球で計算した結果を、宇宙でも現象として実現させることができるのだということかと。

    restさんは自然の中に三角形を見ます。
    その体験を成り立たせる、《感性の形式》がある、とするのがカントの考え方ですよね。

    そして、純粋数学は、その《感性の形式》において、概念の構成をしているので、
    各自が同じ意味的概念を持てるし、各自の経験にも応用できる、と、カントは考えたのではないかと。

    伝わるでしょうか?

    ちなみに、足し算は、(ひとかたまり)と(ひとかたまり)を足していく。
    この(単・ひとかたまり)も、純粋悟性概念を利用してるのではないかと私は思っています。

    ある感じたものを、ひとまとめに考える概念が、アプリオリに人間には備わっている(悟性の形式)
    その規格が一緒だから、
    1+2=3ではない、と何かを見ていう人に、
    それ、考え方がおかしいよ、って言える。

    >1グラムの紙と2メートルの棒をたしても3にはなりませんね。<
    に対しては、
    強いて言うなら、紙がひとかたまり(単)、棒がひとかたまり(単)で、それは1+2という計算式ではなく、1+1という計算式でならまだ現実にフィットするよ、って言える。

    詭弁を詭弁と判断できる。

    >経験をベースにそれを抽象化つまり普遍化していったのが数学だと思います。<
    これが、restさんの意見でしょう?
    了解しました。
    多分カントとは考え方は異なりますよね。

    現実ではカントよりrestさんの方が正しいのかもしれませんが、
    私は、カントの考え方を勉強しているところなので、
    カントの考え方を正しいとしてrestさんと議論する気もありません。

    カントが正しいか正しくないかの前段階で、
    カントは何を言いたかったのか、を、調べようとしています。

    でも、結果的にすごくためになります。
    restさんと対話できて嬉しいです、ありがとうございます(o^^o)


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■1858 / )  パースとパトナム
□投稿者/ キティダニエル -(2019/09/20(Fri) 14:43:11)
     たとえば、ある物体の「硬さ」という概念は、その物体が他の多くの物体によっ

    て引っ掻傷をつけられない、ということを意味する。また、物体の「重さ」という

    概念は、その物体を支える力がなければ下に落ちる、ということを意味する。つま

    り物体の硬さや重さの概念は、あれこれ思索をめぐらすことによってではなく、そ

    の物体に実践的に働きかけてテストを試みることによって知られる、ということで

    ある。したがって、科学における実験的方法は、パースにとってはまさにプラグマ

    ティズムの格率に合致するものと見えた。さらにパースは、研究者の共同体が真理

    を探求していく試行錯誤と自己修正のプロセスを重視し、研究者の共同体が探求の

    末に到達する収束地点で獲得される確信こそが「真理」であると考えたのである。

    ※ >研究者の共同体が真理を探求していく 引用者注 この着想は後の科学社会

    学や知識社会学の先駆となるものである。

     このようなパースの思想は、今日ではH・パトナムの「内在的実在論(internal

    realism)」に引き継がれている。パトナムは、世界の在り方がわれわれの探求過程

    とは独立にあらかじめ決まっているとする立場を、神の視点から世界を見る「形而上

    学的実在論」と呼び、真理をわれわれの探究のプロセスや正当化の手続きと不可分
      
    のものと見なす「内在的実在論」をこれに対置する。したがって、内在的実在論に

    よれば、真理はわれわれのもつ概念や探究の方法と相対的にしか決まらないことに

    なる。だが、相対主義を自己論駁的な主張として退けるパトナムは、他方でパース

    の考えを引き継ぎ、われわれの真理の探究は最終的には安定的に収束するものであ

    るとし、真理とは探求のプロセスの果てに得られる「理想化された正当化可能性」な

    いしは「合理的な受容可能性」であると主張するのである。

     
     野家啓一  科学の哲学  日本放送出版協会

     参考文献 H・パトナム (野本和幸ほか訳)『理性・真理・歴史』 法政大学

          出版局 1994



     
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■1857 / )  買ったよ
□投稿者/ キティダニエル -(2019/09/20(Fri) 10:40:21)
    金子裕介

    論理と分析

    文系のための記号論理入門

    晃洋書房


    文系向きと銘打ちながらちっとも文系向きでは無い。

    モロ理工学書という雰囲気だな。
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■1856 / )  Re[40]: 1+2=3ではない。
□投稿者/ rest -(2019/09/20(Fri) 02:06:04)
    1+2=3は正解ではありません。1グラムの紙と2メートルの棒をたしても3にはなりませんね。単位がちがえば四則演算は不可能です。表面的に数字だけの計算がなりたつのは、単位が共通だからです。単位は具体的事物で表象され、ほとんど経験的なものです。経験をベースにそれを抽象化つまり普遍化していったのが数学だと思います。いきなりアプリオリな直観、純粋直観ではなくその前段階に経験的直観を経るということじゃないでしょうか。普遍的な三角形一般という認識は具体的三角形、様々な三角形を類型化、あるいは抽象化していった結果ではないでしょうか。その意味では哲学も数学も同じように思えるのですが。普遍性を求めるという意味では。
    ただ虚数などように具体的事物のない数学は完全にアプリオリな純粋直観だと思われます。数学は経験かアプリオリか統一的に理解するというのは不可能だと思います。蛇足ですが、ミョウバンの結晶は側面が三角形で構成されています。三角形はもともと自然界にあったもののようですね。つまりもともとは経験が出発点でないかということです。虚数は別ですが。
返信/引用返信 削除キー/

■1855 / )  ちょっときゅうけい〜
□投稿者/ pipit -(2019/09/19(Thu) 23:08:27)
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■1853 / )  輪廻
□投稿者/ pipit -(2019/09/19(Thu) 21:24:57)
    パニチェさん、こんばんは(^_^)

    パニチェさんは、自分が死んだら、どうなる、ってどんなふうに考えてますか?

    わたしは、『今の私には正確なことはわからないけど、
    もしかしたら、輪廻という現象はあるかも?ないかも?どっちかな〜?』
    って感じに思っています。

返信/引用返信 削除キー/

■1852 / )   restさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/19(Thu) 20:32:17)
    restさん、こんばんは\(^o^)/

    カントは、数学的思考をするとき、
    例え経験的に直観していても、思考者は、その経験直観とは別に、純粋直観上に素材を構成してる、と、考えてるようです。

    restさんは、頭の中だけで作図する。
    pipitが、ノートに書いて作図する。
    この時、2人は別々の経験してますよね。目に見えるものも違いますよね。
    それでもカントは、restさんも、pipitも、各個人の感性の形式である純粋直観(≠経験直観)上で概念を構成していて、
    2人の純粋直観上の三角形の特性は綺麗に等しく構成されるから、同じ答えを出せる、と考えてるのかと私は思いました。

    わかりやすいので、『プロレゴーメナ』でのカントの文章を引用します。

    (カントの文章)
    『さて、私たちは、すべての数学的認識が次のような点で固有であることに気づく。
    すなわち、数学的認識はその概念を、まえもって直観の中でそれもア・プリオリな直観の中で描き出さねばならない。
    したがって、数学的認識の概念がその中で描き出される直観は、経験的ではなく純粋直観である。
    そうした手段なくして数学的認識は一歩も進むことができない。
    だから、数学的認識の判断はいつでも直覚的である。
    他方、哲学は、たんなる概念に基づく論弁的な判断で満足できるのであり、その確然的な理説をたしかに直観によって説明できるものの、しかし直観から導出することはできないのである。』
    (Ak281、中公49、岩波66)
    『カント哲学の核心』御子柴善之先生著、p79より引用。

    『純粋理性批判』では、【超越論的方法論】の最初らへんに、数学についてのカントの考えが、いっぱい載ってました。

    ※※※※※※※※

    私は数学について全然知らないけど、
    カントの考え方は、現在の数学とは事情が合わないかもしれませんね。

    それでも、とても面白い考え方するなー、って感心してます。

    restさん、書き込みありがとうございます(*^◯^*)

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■1851 / )  山ちゃんァァ
□投稿者/ エフニ -(2019/09/19(Thu) 18:46:39)
    ヤバイよァヤバイよァ

    小学生の時に、矢追純一の「木曜スペシャル」を貧り観ていたけど、あれから数十年。

    ついにアメリカ海軍が、正式にUFOの存在を認めましたゥ

    山ちゃん、ヤバイよァヤバイよァ

    (・Д・)
返信/引用返信 削除キー/

■1850 / )  Re[4]: 自由と決定論
□投稿者/ エフニ -(2019/09/19(Thu) 03:03:54)
    「どんな行為も、それが遂行されている間に我々がそれについて持つ色褪せた意識像とは無限に異なっている。また、行為は、行為がなされる前に頭に浮かんでいる意識像とも異なっている。結局、たどられる道の無数の部分は見えないのであり、目的などというものは行為の現実の結果の一小部分に過ぎない。目的は記号であって、それ以上のものではない。信号なのだ!普通なら複写は原型のあとに来るが、ここでは一種の複写が原型に先行するのだ。」
返信/引用返信 削除キー/

■1849 / )  Re[3]: 自由と決定論
□投稿者/ エフニ -(2019/09/19(Thu) 02:52:07)
    パニさん、こんばんは娵(^0^)

    >ウダはニークラのこと知ってましたっけ?<

    存在は知っていると思います。

    ナトロムさんの所に参加していたから、個人のサイトには投稿しないというのも無いと思います。

    ☆決定論(運命論)か、自由意志(意志決定論)かは、それこそ、ギリシャ悲劇の「エディプス王物語」の頃からの人類の難問ですが、ニーチェは、自由意志は無く(従って、道徳や倫理も無く)、無意識の底にある力への意志が、自我意識を操っているとしています。

    少なくとも私はそう解釈しています。

    「善悪の悲願」からなのですが、原典の何頁かを示すことが出来ません。

    大昔に解説書からメモしたものを以下で引用します。


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■1848 / )  Re[37]: restさんへ
□投稿者/ rest -(2019/09/19(Thu) 00:40:44)
    pipitさん こんばんは。直観には経験的直観とアプリオリな直観とがありますね。五感から生じる表象を経験的直観としており、経験によらずイマジネーションだけで構成されたものをアプリオリな直観としているようですね。私はそれを内的経験と呼びたいと思います。外的経験に基づかない純粋な内的経験です。それをアプリオリとよんでいるわけです。直線は自然界に存在しますし、直線の折れ曲がって重なったものが三角形です。木々の枝が折れ曲がって三角形を構成することはあるでしょう。数学は経験的直観に基づくものと虚数のようなアプリオリな直観に基づくものとが混在しているように思います。
    さて三角形の内角の和は180度というのは一見してすぐにわかるものではなく、つまり経験的直観でわかるものではなく、理性によって操作してはじめて理解できるものです。自然界にはない概念構成をしてアプリオリに直観するのです。
    作図は人によります。作図なしで理解できる人と、作図しないと理解できない人がいるようですね。経験かアプリオリかどちらか一方に統一するのは無理のように思います。
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■1847 / )  restさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/18(Wed) 14:30:01)
    restさんありがとうございます。
    カントワールド理解のために一緒に実験してくださいませんか?

    restさんは、

    >内角の和が外角に等しいというのは辺ABに平行な直線で点Cを通る平行線で証明できます。内角Aの錯角と、内角Bの同位角から外角が導き出され、内角Cとの和が180度の直線になるのです。<

    これを、作図なしで、理解しますか?



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■1845 / )  Re[35]: アプリオリについて
□投稿者/ rest -(2019/09/18(Wed) 10:49:05)
    三角形の内角の和は180度というのは、直観的にわかるものではなく、つまり感性的に理解できるものではなく、理性的証明によって理解できるものです。たとえば僊BCの内角Aと内角Bの和は外角に等しいという、ことを使えばすぐに証明できます。内角の和が外角に等しいというのは辺ABに平行な直線で点Cを通る平行線で証明できます。内角Aの錯角と、内角Bの同位角から外角が導き出され、内角Cとの和が180度の直線になるのです。このように演繹的に証明する方法と実測を繰り返すことによる帰納法的証明があります。帰納法は経験的な方法ですね。
    直線や三角形など数学の概念がアプリオリか経験的かそれを考案した人の発想が経験によるのかそうでないのか、というところでしょうか。たとえば虚数ですがこれは実体がありません。つまり経験がないということですから、アプリオリな概念ということになります。しかし直線や三角形は自然界にも存在しますから十分に経験によるものではないでしょうか。月や太陽は円形ですし、地平線も直線ですし、そういう経験から生じた概念ではないでしょうか。
    時間をアプリオリな概念といいますが、これも祖先のだれかが太陽の位置移動をみて時刻を考案し、その間を時間と定義したのではないかと考えています。つまり最初は経験的なものでしたが、代を重ねるごとに、受け継がれ子孫からみると生まれる前からあったのでアプリオリな認識になっていったのではないか、と考えています。
返信/引用返信 削除キー/

■1844 / )  読書籠り部屋D
□投稿者/ pipit -(2019/09/18(Wed) 08:54:16)
    Cの続き、のD

    私には、情報工学的に(?)考えたら、Cで書いてること、わかりやすいです。

    センサーで感知したものを、ある画面上に位置づけして表示するシステムがあるとします。
    センサーで何を感知してるのか、私たちが認識できるのは、画面を通じてです。

    この時、個々の感知表示の画面、が、【経験】とします。

    この【経験】には、センサーが関与してます。
    センサーで感受したことを原因の一つとして画面に表示されたものが、
    個々の感知表示の画面だからです。

    この時、画面に表示する形式、は、経験そのものではありません。
    経験より前に、そうなることはわかっている、というものです。
    (情報工学的に言えば、センサーで感受したものをある形での認識に変換するためにプログラミングされているものです。)

    カントは、この、形式を、経験に対比して「純粋直観」と言ってるのかな、と、
    思っています。(細くには、正確には、違うかもだけど、大まかなイメージとして)

    そして、例えば数学は、この形式(純粋直観)を源泉として構築されている【学】
    だといっているのかと思いました。

    私たちが感性により得る経験、その経験を成り立たせるための形式、
    その形式を使用して構築してるのが、例えば数学だと。

    だから、数学はアプリオリ(経験に先立つ)な学問であり、
    知性を使用できる人間なら同じ答えが成り立つ、としてるのかと。

    あ〜、タイムリミットです!
    最後らへん、焦って書いたけど、そのまま投稿します。

    いってきまーす (^O^)/
返信/引用返信 削除キー/

■1843 / )  読書籠り部屋C
□投稿者/ pipit -(2019/09/17(Tue) 23:50:16)
    No.1797,1799,1806

    籠りたない〜〜〜


    でも、いつまでたっても進めないから、がんばろう

    『カント入門講義』冨田恭彦先生
    p259〜

    構成とは、概念に対する直観をアプリオリに描き出すこと。

    どこに描く?

    純粋直観としての空間に描き出すって言ってるんだと思います。

    カントは、空間のことを、空虚な概念って言ってるわけじゃなく、

    直観、って言ってるので、

    空間、を、直に感じてる、としてると今の所思っています。(現象として)


    レイヤー、って伝わりにくいかな、

    レイヤーに三角形を描き出すんだね。と、自分ではイメージします。

    純粋直観としてのレイヤーに、心の中で描くイメージです。

    もし、ノートに三角形書くと、その時、その三角形を見てるとき、経験直観ですよね?

    それでも、、、、心の中で純粋直観に三角形書いてる、って、カントは言ってると思ってます。(まちがえてたらごめんなさい)

    ちょっとワープしますね。

    禅のお坊さまが習字で丸書いてるけど、その時、なんか微妙に現実に書いてるものと違うもの頭か心に書いてるのではないでしょうか??
    違うかな??
    詳しくないからわからないけど、あの丸で宇宙とか世界とか完全とか書いてるのかなー
    とか想像してますが、

    そんなかんじで、

    砂浜に歪んだ三角形書いたとしても、それは経験直観だけど、
    書くこととリンクして、自らの内に、純粋直観上に三角形書いてる
    って言ってるのかな、って、今の時点では思ってます。

    だから、私が作図しても、
    違う人が作図しても、
    純粋直観という仕様が共通なので、
    その作図から三角形の内角の和は180度って直観的に理解でき
    180度が、正解って合意し得る

    って言ってるのかな、って。

    とりあえず、冨田先生の文を少し引用しますm(_ _)m
    引用開始
    『心の中での(例えば)三角形のイメージ形成作業がどうして
    「概念に対応する直観をアプリオリに描き出す」という役割を担えるかというと、
    それは想像の作業であって感覚の場における作業ではなく、
    したがってそれは空間という純粋直観の枠組みの中での作業であって、
    いかなる経験にも依存していないからだということになります。
    (略)
    この「概念に対応する直観のアプリオリな描出」を行う想像力を、
    カントは「産出的想像力」と呼びます。
    これに対して、すでに経験されたものを再現する想像力を、
    「再生的想像力」と呼んでいます。』(p260より引用終了)

    次は、構成に関するカントの見解を別の角度から確認、だそうです
    p262〜


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■1842 / )  Re[24]: 倒立像について
□投稿者/ pipit -(2019/09/16(Mon) 23:56:59)
    rest先輩、お久しぶりです!

    理系(も)音痴の私に難しいことはわかりませんが、restさんの記事読んで、先日購入したまま未読だった『知識ゼロでも楽しく読める!物理のしくみ』の、【空と海はどうして青いのか?】のページを読んでみました。

    上記問いの答えとしては、【青は大気中で散乱しやすい。この散乱した光が目に入るから】でした。

    この答えからすると、人間って、光を見てるとも言えるのかなぁ、とちょっと思いました。
    空や海を見てるようで、光を見てるのかなー、と。

    カントの場合はもっと徹底して不可知論っぽいですよね(^ ^)

    今日も一日おつかれさまです!
    おやすみなさいです〜(^O^)/



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■1841 / )  Re[54]: Jazz
□投稿者/ rest -(2019/09/16(Mon) 22:38:28)
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■1840 / )  Re[23]: 倒立像について
□投稿者/ rest -(2019/09/16(Mon) 20:58:59)
    横やりでもうしわけありません。ひとつ疑問に思ったことがあります。
    普通、凸レンズでは映る像は倒立の実像ですよね。目のレンズは凸レンズですので、網膜にはさかさまの像がうつるわけですが、なぜか脳では正立の像に変換されてしまいます。つまり私たちが見る像の実物はすべてさかさまだということのようです。昆虫の複眼レンズで見た世界は私たちのような単眼レンズで見た世界とは異なるようですね。現象学的にみてどうなんでしょうか。見える実像と実体は異なるということであり、実体は昆虫にとっても人間にとっても五感をもって経験できないということ、換言すれば認識不可能ということじゃないのですか。実体に関してはエポケーの必要がありそうですね。カント的には物自体ということでしょうか。
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