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■7000 / )  Re[2]: 中国語の部屋
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/24(Thu) 20:31:00)
    こんばんは、田秋さん。

    No6993に返信(田秋さんの記事)

    > おはようございます、パニチェさん
    > まずは新トピック設置、ありがとうございます。

    どういたしまして、というか。。。こちらこそありがとうございます。
    これからも末永く、よろしくお願います。^^

    > 先の質問への答えにあった《中国語の部屋》のネーミングに興味を持ちちょっと調べてみました。読んだのは主に下の二つです。

    > 中国語の部屋 wikipedia
    > https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B

    > 心の哲学まとめwiki
    > https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/22.html
    >
    > それを読んだ素人の感想です。
    > 外からの質問は全てマニュアルに書いてある訳ですから、これを暗号解読としてシャーロックホームズに依頼すれば、三日もあれば(一日かも)ホームズはそれを分析解読し、マニュアルを見ずに質問に答えることが出来るだろうと思いました(踊る人形)。サールの主張の眼目はそういう事ではないのかもしれませんが、AIのディープラーニングとはこのホームズのようなことが機械にも出来るということのように思うのですが。。。
    > サールの主張に対する反論、それに対する再反論があるようですが、現在、結論(があるとすれば)は、どうなっているのですか?

    この手の思考実験的な問題提起は結論めいたものは出ないんじゃないでしょうかねぇ〜。
    上記サイトは最新の情報を上書きしてると思います。

    あとディープラーニングは画期的ではあるんですが、将棋のルールなど初期設定は必要です。
    人間の凄いところは初期設定なしでハタから見ていて駒の動きやルールを知ることができるところで、これを初期設定なしで電脳に学ばせようとするとお茶を飲んだり、扇子をパタパタやることもルールであるかのようにインプットされる可能性があります。

    身体性を伴い日常生活を体験することでお茶を飲んだり、羽織を脱いだりすることが将棋のルールではないことが分かるわけで、やはり身体性のないAIはどこまでいっても人間の意識には遠く及ばないと思います。
    ロボットもモデルベースからビヘビアベースと進化しましたが初期設定が必要なことは変わりありません。

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■6999 / )  Re[58]: 生物
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/24(Thu) 19:44:52)
    歴史の教科書的記述はすごいね。

    でもマジモンさん、ちょっとお邪魔しちゃうよ。

    ウィルスって、生物?

    あ、ついでに「ローマ教皇」って生物?
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■6998 / )  Re[51]: :分類の仕方
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/24(Thu) 19:31:08)
    minoriさんが『野生の思考』に興味があるようなので、そこからちょっと抜粋して見ますね。

    【「カシワ」、「ブナ」、「カバノキ」などが抽象語であることは、「樹木」が抽象語であるのと同じである。二つの言語があって、その一方には「樹木」という語だけしかなく、他方には「樹木」にあたる語がなくて樹木の種類や変種を指す語が何十何百とあるとしたら、いま述べた観点からすれば概念が豊富なのは前者の言語ではなくて後者の方である。】
    って、レヴィ=ストロースは見ているみたいです。

    生物学的分類を調べて見たら、「ヒト」は、

    ドメイン: 真核生物 Eukaryota
    界: 動物界 Animalia
       亜界:真正後生動物亜界 Eumetazoa
       階級なし:左右相称動物 Bilateria
       上門:新口動物上門 Deuterostomia
    門: 脊索動物門 Chordata
       亜門:脊椎動物亜門 Vertebrata
       上綱:四肢動物上綱 Tetrapoda
    綱: 哺乳綱 Mammalia
       下綱:真獣下綱 Eutheria
       上目:真主齧上目 Euarchontoglires
       大目:真主獣大目 Euarchonta
    目: 霊長目 Primate
       亜目:直鼻猿亜目 Haplorrhini
       階級なし:真猿亜目 Simiiformes
       下目:狭鼻下目 Catarrhini
       上科:ヒト上科 Hominoidea
    科: ヒト科 Hominidae
       亜科:ヒト亜科 Homininae
    族: ヒト族 Hominini
       亜族:ヒト亜族 Hominina
    属: ヒト属 Homo
    種: ヒト H. sapiens

    みたいよ。ま、科学的に見るとこういうことになるのかな?

    これが「人(私)」なのかしらね?


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■6997 / )  Re[23]: カント的構想力ちゃん
□投稿者/ pipit -(2020/09/24(Thu) 18:48:02)
    というわけで、構想力ちゃん、調べてみます。

    まず、初版の該当部分の、『純粋理性批判』の訳文を読んでみようかな、と、思っています。
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■6996 / )  楽器作りのyoutube
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/24(Thu) 18:47:23)
    こんにちは、floraさん

    ここに紹介するのは僕がセカンド楽器を作ってもらった高橋さんという方のyoutubeです。クレモナで楽器作りをしていらっしゃいます。

    https://www.youtube.com/channel/UCxD4xuyJ5IifJe3V6uiikRw

    やはり新型コロナの影響で色々なイベントが中止になり(毎年東京で行われる弦楽器フェアという展示販売も中止になりました。毎年彼はこれのために帰国していました)、時間ができたのでこういうyoutubeを作ったとメールにありました。
    あまり見ることのない動画なので、ちょっと覗いてみて下さい。

    《舞台芸術の魅力》という放送大学の講義があるのですが、どんな講義だろう思いちょっと覗いてみました。たまたま見た回は19世紀までのオペラハウスの実際について大変面白い話をしていました。来年取ろうかなと思いました。
    例えば、オペラそのものが主ではなく、見に来るお客が主であったとか、オペラハウスの大統領専用の桟敷席は舞台に一番近い桟敷席(ボックス席)で、舞台奥はそこから見えなかったとか、上演中、客席は明かりが煌々と点いていたとか。



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■6995 / )  理想的な教皇の誕生
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/24(Thu) 12:38:50)
    他の教皇の紹介


    インノケンティウス3世(在位1198〜1216)

    ・ローマ教皇の権力を最高潮にした教皇。
    ・「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である」
    ・第4回十字軍の提唱者で、この十字軍はコンスタンティノープルを占領した後ラテン帝国を樹立し、
     一時的にビザンツ帝国を滅亡させます


    ユリウス2世(在位:1503年 -〜1513年)

    ・芸術の愛好者であり、多くの芸術家の援助をしていた。
     ブラマンテやラファエロ、ミケランジェロなどがユリウス2世の援助を受けて優れた創作活動をおこなった。
    ・特にミケランジェロにはシスティーナ礼拝堂の天井画の製作を依頼している。
    ・ローマの補修・美化にもつとめ、サン・ピエトロ大聖堂の新築を決定し、
     1506年に定礎式を執り行ったローマをルネサンスの中心地へと変貌させた


    レオ10世(在位1513〜1521)

    ・フィレンツェの大富豪メディチ家の出身。
    ・サン・ピエトロ大聖堂の建築費を賄うために贖宥状を販売。
    ・マルティン・ルターが【九十五ヶ条】の論題でこれに反論し、
     宗教改革→プロテスタント


    パウルス5世(在位:1605年〜1621年)

    ・ガリレオ・ガリレイの宿敵
    ・コペルニクスの地動説を擁護するような発言は控えるように諭している。


    ピウス12世(在位:1939年3月2日 〜 1958年10月9日)

    ・宇宙はビッグバンから生じたという考えが世の中に広がり始めたころ、
     ピウス12世はビッグバン理論が創世記の記述を裏付けているとする公式声明を発表した(1951年11月21日)。
    ・ビッグバン理論の提唱者にしてカトリックの修道士でも会ったジョルジュ・ルメートルは
     教皇の姿勢に大きな危惧をおぼえ、教皇の科学顧問に連絡を取り、
     科学と信仰をこのような形で混同しないよう懸命に教皇庁を説得した。
     その結果ピウス12世は納得し、二度とこの件については触れなかった。


    パウロ6世(在位:1963年6月21日 〜 1978年8月6日)

    ・「旅する教皇」と言われたパウロ6世は「初めて」づくしの教皇でもあった。
    ・教皇として初めて5大陸を巡り、初めて飛行機を利用した教皇となり、
     初めて聖地エルサレムに足を踏み入れた教皇にもなった。
    ・エキュメニズム(教会の一致)にも心を注ぎ、教皇として初めて英国国教会のカンタベリー大主教や、
     東方教会の総主教たちを訪問、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教アシナゴラスとも会談した


    ★★ ヨハネ・パウロ2世(在位:1978年10月16日〜2005年4月2日) ★★

    ・パウロ6世を遥かに凌ぐスケールで全世界を訪問し、
     「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれる。実に世界100ヶ国以上を訪問している。

    ・ローマ教皇として初の来日時には広島市と長崎市を訪れ、
     日本語で「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」と演説し、核兵器の廃絶を訴えた。

    ・キリスト教の平和と非暴力の教義と、第二次世界大戦中にドイツとソ連の侵攻により、
     故国ポーランドが焦土と化した実体験から、戦争に対しては一貫して反対の姿勢を取っていた。アウシュビッツ収容所訪問
    ・ポーランド人としてナチスと共産主義の脅威を体験しながらカトリックの信仰を守り抜いたことが、
     教皇就任後も反戦平和主義を貫く大きな動機となった。

    ・イラク戦争中に2003年、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が
     「神の加護を」「神の祝福あれ」と「神」を引用して戦争を正当化していたのに対し、
     ヨハネ・パウロ2世は「神の名を用いて殺すな」と不快感を示し、
     「イラクでのこの戦争に正義はなく、罪である」と批判していた。

    ・他宗教や他文化との交流にも非常に積極的で、
     プロテスタント諸派との会合や東方正教会や英国国教会との和解への努力を行い、
     エキュメニズムの推進に大きな成果を上げた。

    ・カトリックの教皇としては初めてのモスク、シナゴーグ、ルーテル教会への訪問、
     東西教会の分裂以来のギリシャ訪問、イギリス訪問を成し遂げた。

    ・キリスト教がなした過去の罪について、歴史的謝罪を活発に行っており、
     キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応や十字軍の正教会やムスリムへの行為への反省と謝罪

    ・ガリレオ・ガリレイの地動説裁判における名誉回復などを公式に発表している。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――


    つながったね、筋が通った。
    ヨハネ・パウロ2世は暗殺未遂もあったんだよね。
    …理想的な教皇の誕生は、結構、近年にはじまったようだね。
    人類は長い間、過ちをおかしていたんだと私は感じているよ。
    笑顔とはいいもんだな。未来も平和な世界でありますように。

    ローマ教皇様、これからは期待いたします。
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■6994 / )  カント的構想力ちゃん
□投稿者/ pipit -(2020/09/24(Thu) 07:47:50)
    構想力ちゃんのこと、落ち葉かけて、見えなくして、無かったことにして、 どっか行こうと思ったけど、やっぱり、今のアホの段階でも、
    自分なりの把握してみたい、
    って、思った。

    触れれるかなぁ ? 無理かなぁ? 近づけるかなぁ? 構想力ちゃん !


    また、また、逃げるかもやけど、(どっちが?)
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■6993 / )  中国語の部屋
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/24(Thu) 07:11:05)
    2020/09/24(Thu) 07:16:12 編集(投稿者)

    おはようございます、パニチェさん
    まずは新トピック設置、ありがとうございます。

    先の質問への答えにあった《中国語の部屋》のネーミングに興味を持ちちょっと調べてみました。読んだのは主に下の二つです。

    中国語の部屋 wikipedia
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B

    心の哲学まとめwiki
    https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/22.html

    それを読んだ素人の感想です。
    外からの質問は全てマニュアルに書いてある訳ですから、これを暗号解読としてシャーロックホームズに依頼すれば、三日もあれば(一日かも)ホームズはそれを分析解読し、マニュアルを見ずに質問に答えることが出来るだろうと思いました(踊る人形)。サールの主張の眼目はそういう事ではないのかもしれませんが、AIのディープラーニングとはこのホームズのようなことが機械にも出来るということのように思うのですが。。。

    サールの主張に対する反論、それに対する再反論があるようですが、現在、結論(があるとすれば)は、どうなっているのですか?
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■6992 / )  一念義・多念義と第五図
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/24(Thu) 06:04:57)
    浄土系に、一念義VS多念義というテーマがあります。
    往生するには念仏一回でいいのか、生涯にわたって膨大な数唱えなければ往生できないとするか。

    第五図をお浄土そのものとする立場ならどう考えるか。第五図(=「死んでも死なないいのち」)が幻想や錯覚でなくリアリティそのものであることを覚知できれば十分。これが念仏を一回唱えることであって、単なる回数のカウントではない。そうなると思います。

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■6991 / )  御礼
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/24(Thu) 05:54:28)
    書き込んで下さった方々にお礼申し上げます。
    ありがとうございました。

    お後が宜しいようで。
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■6990 / )  何かがつながる予感
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/24(Thu) 01:39:51)
    日本人の私として、ローマ帝国のビックヒストリーを考察する。

    ■ 過去は陳腐であり、子供の絵本の様だ。
    ■ 発生時期は違えど、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地は一緒。聖地エルサレムである。今現在でも紛争中。
    ■ ヨーロッパの方々は思った以上に野蛮な性質をもっている、国境があるせいか
    ■ 当時の教皇は宗教と政治を司っていて、結構、好戦的である。聖書を悪用しているイメージがある。策略家の一面がある。
    ■ コペルニクスさん筆頭に科学革命が進んだが、私はそれが有難いと感じる。
    ■ 私の分野では、やはり構築と破壊を繰り返し、蓄積と移動をしている。

    ユダヤ教により「旧約聖書」は制定され、キリスト教がそれを改善し「新約聖書」となり、
    イスラム教は全面見直しの「コーラン」のイメージか…。
    全ての者が、面子を守るために戦っているイメージがある。
    まるで、子供の喧嘩のようだ、それは裏を返せば現代人が成長している証なのかもしれない。
    宗教家の腐敗は何だろうか?なぜ、ここまでして布教する必要があるのか?

    ★ 教皇に着目する ★

    ざっくり第一主人公ヨーロッパ勢ヒストリーに目を通すと、
    教皇ってのは、腐敗しているのか?と感じるが、
    一方、現代の教皇って非常に平和主義だなと思うんだよね。
    どこかで転換期があるはずだ。
    それは、おそらく、ピウス9世とレオ13世だと思う。

    ピウス9世(1792年〜1878年)

    ・自由主義者として、教皇領において政治犯の恩赦を行った。また、近代化にも理解を示し、先代グレゴリウス16世が頑として許可しなかった鉄道敷設を認めたり、出版の検閲緩和などの自由主義政策を推進させた。

    ・オーストリア帝国が教皇領に軍を駐屯していたが、それに対して治安維持の目的で市民軍を結成、帝国の指導者メッテルニヒらの脅しにも毅然と教皇領の独立を主張するなどの姿勢を取った。

    ・その背景にはイタリア統一運動(リソルジメント)の高まりがあり、教皇領の住民たちはピウス9世を『覚醒教皇』と呼び、国土統一の象徴として支持した。

    ・彼の乗った馬車に労働者が駆け寄って「聖なる父よ。勇気を持ってください。猊下には我らがついています。」と激励する事件が起こるほどであった。

    ・『誤謬表』は、1864年12月8日にローマ教皇ピウス9世によって発表された文書。正式には『近代主義者の謬説表:ピオ9世の数多くの訓話、回勅、書簡による大勅書』と呼ばれる。特に最後に「教皇は進歩、自由主義、現代文明と和解し、妥協する事ができるし、またそうしなければならない」というのまで誤謬として規定したことから、この誤謬表は『クワンタ・クラ(注意深く)』と共に、カトリックが近代社会から完全に背を向けることを世に印象づけた。


    レオ13世(1810年〜1903年)

    ・彼の業績でもっとも有名なものは初の社会回勅にしてカトリック社会教説の先駆ともなった『レールム・ノヴァールム』を発表したことであった。労働問題を扱ったこの回勅に於いて、レオ13世は労働者の権利を擁護し、搾取とゆきすぎた資本主義に警告を行いながらも、一方で台頭しつつあったマルクス主義や共産主義を批判している。

    ・19世紀のカトリック教会は近代思想と科学思想のすべてを否定することで自らのアイデンティティーを保持しようとしてきた。その頂点が1864年の『誤謬表』であり、近代社会とカトリック教会は相容れないという印象を世界に与えていた。レオ13世はこの状況を憂慮し、トマス・アクィナスの「理性と信仰の調和」という思想に解決を見出した。彼はトマスを示すことで、信仰と科学思想が共存しうることを訴えたのである。



    全てがつながった感があるよね。
    ニーチェ哲学、カント哲学、科学革命、特にガリレオ、ルメートルあたり?
    自由!!!
    ウィーン体制の崩壊から諸国民の春へ
    下画像:ピウス9世 人の好さそうな面をしとるわい。

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■6989 / )  Re[10]: しかし何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2020/09/24(Thu) 01:34:12)
    妹君ちゃん、歳時記から調べて下さって、どうもありがとうございます。

    殿様蛙以外は実物が思い浮かばないのですが、蛙って種類が多いですね。

    >多分、こういうところを俳句を知らない私たちは外してしまいがちなのだろうと。<

    同感です。

    真冬に誰かが風邪を引くと、一つのテンプレートのように、「鬼の霍乱(かくらん)」と言ってからかうのですが、「霍乱」は夏の季語ですものね。

    哥哥はこういうところでも外してしまっています。

    >今度行ってみようかなと思っています。<

    この場合、河鹿は夏の季語ですが、声を聞くには、やっぱり春に行くのがよいのでしょうか。

    >河鹿は春から秋にかけて鳴いていたのだと思います。<

    なるほど、それでは冬以外は何時でもその温泉に行ってもよいのでしょうね。

    でも蛙って、求愛の為に鳴くのですよね。

    オタマジャクシの卵を作って産む為に。

    秋で間に合うのかしら。

    それとも、求愛以外の理由で鳴くのでしょうかね。
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■6988 / )  Re[8]: しかし何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2020/09/24(Thu) 00:55:12)
    妹君ちゃん、こんばんは〜

    >違うか。難しい・・・<

    哥哥は、この辺はもう、トマス・アクィナス的に理解しました。

    「存在」と「存在者」の関係です。

    真っ白い画用紙があります。

    これが「存在」で、このままでは世界は無です。

    そこに赤いクレヨンで三角形を書きます。

    この三角形が「存在者」です。

    無だった世界(存在)が、三角形(存在者)によって別物に変化しましたよね。

    もう真っ白な世界(無)に戻れず、世界が変容(メタモルフォーゼ)する(三角形を書くという)、その瞬間を取り出したのが、俳句である。

    そんな風に理解しました。

    >最近ついていけないと尻尾が生えてきちゃうので注意してます。(とびかからないように。)<

    昔、妹君ちゃんが、「がうううゥ」と言ったら、ふうこさんが、「唸らないのァ」と応えた、あんな感じの世界かな。
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■6987 / )  私は見たァ
□投稿者/ エフニ -(2020/09/24(Thu) 00:22:24)
    三郎親分、カッコイイ〜

    少し長めの黒髪に、サングラスをかけていましたけど、スリムで物凄くハンサムでした。

    手は遠目にはしなやかなんですが、アップになると空手をやっている人みたいな、たくましい手や指をしています。

    人生消化試合、人生低空飛行と言っていましたけど、あれだけハンサムならリア充だったでしょうね。

    ☆天使・詩織さんが、タイム誌選定「世界に影響を与えた100人」に選ばれたことを祝して。
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■6986 / )  Re[50]: 法隆寺
□投稿者/ flora -(2020/09/23(Wed) 23:22:33)
    田秋さん、こんにちは。

    法隆寺に行かれたどうで、良かったですね 。日帰りで行ける場所にお住まいなのがうらやましいです^^。

    下のお嬢さんはViolaちゃんですか?。上のお嬢さんのお名前も伺ってみたい気がしていますが、詮索するのも失礼だと思い・・・
    法隆寺はシルクロードの終点ですよね。よく到着したものだと思います。

    >陳列品は国宝や重要文化財が大軍率いて押し寄せてくる感じで、ある仏像の説明には「壊れて長い間放置されていたものを修復した」とありました。今から見れば大変貴重なものなのに、当時周りにそれ級(以上)のものがゴロゴロあるので「捨ててバチが当たってもつまらんしな。ま、その辺に転がしとこか」ぐらいの感覚だったのかもしれません。

    おそらく予算が決まっていて、なかなか大変なのだと感じます。博物館でもそうですよね。

    >今回一番感銘を受けたのは写真の古木でした。どうも何百年生きているのかわかりませんが、どこにも行かず、何も言わず、何も考えず(ここには疑問はあります)、ただひたすらに生きているのかと思うと、畏敬の念が湧いてきました。

    写真ありがとうございます。クスノキだそうですね。樟脳がクスノキから作られるということで虫が食いにくいので仏像などの材料だそうです。昔の人というのは良く観察をしてそれを生活に生かしてきたと感心してしまします。まさに「体露金風」で逆らわずあるがままに生きてきた生命を感じますね。

    >生きることで一番重要なことは生き続けることなのかなと、最近悪魔ちゃんと自殺について少しやり取りしたこともあり、ふとそう思いました。

    そうですね。淡々とありたいです。 
    P.S.
    >>黒川紀章さんが若尾文子さんのことを「君の美しさはバロックだ」とか気障なことをおっしゃったということですが、音楽にもバロック音楽というのがありますが、一体どういう意味だと思われます? アンバランスのバランスでしょうか?彼女はとてもバランスがとれた美しい方だと思うんですが・・・ 
    >印象派同様音楽の《バロック》もよくわかりません。僕の理解は「大体バッハくらいまでの音楽」です。黒川さんは建築家ですから本来の意味でのバロックという事なんでしょうが、ウィキペディアには「バロック建築は、彫刻や絵画、家具などの諸芸術が一体となった総合芸術となっていることを特徴とする」とあります。それをできるだけ+の方向で解釈すれば、「全ての点で美しい」ということですかね?
    >この言葉はこの二人がお付き合いするきっかけとなったテレビ対談での発言のようですから、多分若尾さんの内面を含んだ発言ではないような気がします。外面、スタイルとか顔立ちへの感想だとすると非の打ち所のないボディの持ち主という賛辞でしょうか?
    >しかしそもそも黒川さんの真意を計ることなどボクに出来る訳がありません。

    ちょっと伺ってみたかったのです。専門によって別の見方/捉え方があるでしょう^^。
    バロックだといわれたら、いびつなんでつか?と私は思っちゃうけど、若尾さんは美人でチャーミングで素敵な方だからおそらく別な意味があるんだろうな〜と。
    ところで^^、田秋さんは「ルネッサンス・マン」(Renaissance Man )でつね^^

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■6985 / )  Re[21]: 純粋
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 22:34:53)
    ixtlanさんは、純水って、きれいな感じの打ち間違いされてたなー

    山下良道さんと魚川祐司さんの対談のポッドキャストを最近聞いてたら、コメント欄にixtlanさんがその当時に書き込みされてたのを見つけた (@_@)

    意外なところでお名前見られて、うれしすですよー
返信/引用返信 削除キー/

■6984 / )  純粋
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 22:27:17)
    そういえば、悪魔ちゃんが、純粋ってなんやねん(pipit世界内意訳)
    って、言ってくれてたなー
返信/引用返信 削除キー/

■6983 / )  ふと、気になりました。
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 22:23:53)
    ふと、気になって調べました。

    『Kritik der reinen Vernunft』
    日本語訳例・・・純粋理性批判
    英訳例・・・Critique of Pure Reason

    『Kritik der praktischen Vernunft』
    日本語訳例・・・実践理性批判
    英訳例・・・Critique of Practical Reason

    『Kritik der Urteilskraft』
    日本語訳例・・・判断力批判
    英訳例・・・Critique of Judgment


返信/引用返信 削除キー/

■6982 / )  投稿ナンバー表示につて
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/23(Wed) 22:22:12)
    ■6975

    上記を以下のように投稿すれば。。。

    No6975

    自動的にリンクされます。


    説明は投稿フォームの上部にあります。

    記事中に No*** のように書くとその記事にリンクされます(No は半角英字/*** は半角数字)。
    使用例)
    No123 → 記事No123の記事リンクになります(指定表示)。
    No123,130,134 → 記事No123/130/134 の記事リンクになります(複数表示)。
    No123-130 → 記事No123〜130 の記事リンクになります(連続表示)。

返信/引用返信 削除キー/

■6981 / )  Tadd Dameron
□投稿者/ rest -(2020/09/23(Wed) 22:08:29)
    2020/09/23(Wed) 22:31:47 編集(投稿者)

    Tadd Dameron & John Coltrane - Gnid


    https://www.youtube.com/watch?v=_R6b7Ll5AlY&list=PLhdwTL-BNlwHrP-MKQPyoJ4UIkEUub43d&index=8


    「汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合のみ、その格率に従って行為せよ」(カント著『人倫の形而上学の基礎づけ』中央公論新社p.286)

    社会的共同体のルールに逆らう個性が悪とすれば、民族共同体における異民族への対立すなわち民族紛争は悪ではないのか。共同体道徳は「類的結合は同時に個性的対立」からくる自己抑制によって成り立っている。しかし独占禁止法はその反対の「個性的結合は同時に類対立」という市場原理によって成立している。同業者間の価格協定などを禁止しているので、共同体道徳とは相反する。農村の道徳に対して都会の道徳ともいえる。紛争以外にも社会的差別も共同体の原理から派生しているとみるならば共同体道徳を全面的に支持することはできない。共同体道徳とは別の道徳があってもいいのではないか。むろん都会にも問題があることは間違いないが、要はバランスの問題なのだ。フロイトのいう自我が超自我とイドのバランスを現実原則にしたがって調節するという視点に近いかもしれない。これも道徳の一形態ではないか。
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■6980 / )   ■6975 で感じる事
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/23(Wed) 22:04:41)
    このキリスト教の流れを考察して思う事は、我々は日本人だという事です。
    日本人は洋書を完璧に理解する事は無理かと思う。
    培ったものが違うし、日本人の遺伝子は特殊だからです。

    日本人の特徴は、「全員で働け」という精神がある。
    天皇、総理大臣、我々、例外なく「全員で働け」がある。
    それに当てはまらない場合、きっと後悔するだろうと思う。
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■6979 / )  Re[18]: 試し投稿
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 21:37:08)
    お、投稿できますね (^_^)v

    私が読むのは、中山元先生訳の『純粋理性批判』の日本語訳ですが、
    読んでいる箇所の英訳を貼ろうかな、と、考えています。


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■6977 / )  試し投稿
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 21:31:55)
    Human reason, in one sphere of its cognition, is called upon to consider questions, which it cannot decline, as they are presented by its own nature, but which it cannot answer, as they transcend every faculty of the mind.

    著作権が切れてる、『純粋理性批判』初版の序文の英訳のコピペを投稿できるか試してみます。
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■6976 / )  どうしよっかなー
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 19:53:24)
    解説入門書読んでばっかりだったから、一度、カントの文(訳文)読むことにチャレンジしてみるか、、、


    アビダンマの用語を一緒に調べて行ってみてもおもしろいかなーという予感もあるんやけど

    どうしよっかなー

    オレンジスターさんの曲思い出したから聞いた。
    https://m.youtube.com/watch?v=L13gCEZJVRU
    Orangestar - Henceforth(feat.IA)
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■6975 / )  ローマ帝国のビックヒストリー
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/23(Wed) 08:48:25)
    @ 紀元前4200年 エジプト文明
    ・ヒロエグリフ→借尺→鳥類の文法

    A 紀元前1000年(聖地エルサレム) 
    ・ヘブライ王国(ダビデ王)により都となる。

    B 紀元前930年(聖地エルサレム)
    ・ヘブライ王国は南北分裂、エルサレムはユダ王国の都となる

    C 紀元前700年
    【王政ローマ】 1人の統治者に全ての権限を集中させる政治形態・君主制・王は貴族で構成された元老院議員により選出

    D 紀元前586年(聖地エルサレム)
    ・新バビロニア王国のネブガドネザルVSユダ王国、ユダ滅す。

    E 紀元前539年(聖地エルサレム)
    ・新バビロニア王国滅す。アケメネス朝ペルシア帝国のキュロス2世によりユダヤ人にエルサレムに戻れる

    F 紀元前509年
    【共和政ローマ】絶対権力者(王)を置かず、有権者から選挙で選ばれた市民が主体となる政治形態。貴族(パトリキ)が王を追放して貴族共和政に移行。その後商工業や重装歩兵として力をつけた平民(プレブス)が発言力を持つようになり、貴族政が倒れ共和政が始まった。

    G 紀元前332年(聖地エルサレム) … プトレマイオス朝エジプト

    H 紀元前305年(聖地エルサレム) … セレウコス朝シリア

    I 紀元前141年(聖地エルサレム) … ハスモン朝(ユダヤ人国家)

    J 紀元前27年
    【帝政ローマ】帝政は世襲の皇帝(エンペラー)が支配する点で、貴族が君主を選出していた王政とは異なる。共和政から帝政に移行したのは、共和政末期、帝国領が広大になりすぎたことで、民主的な意思決定の遅さが足かせになるようになり、反共和政派の勢力が共和主義者を粛清することで帝政に移行した。

    K 西暦30年(聖地エルサレム) 
    ・イエス・キリス現る。しかし、帝政ローマ・ユダヤ教によるキリスト教迫害。属州総督ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されたとされる。キリストの一番弟子ペテロが、初代教皇。

    L 2世紀 … プトレマイオス「天動説」、パクスロマーナ時代

    M 3世紀 … ローマ帝国、「3世紀の危機」

    N 西暦313年
    ・ミラノ勅令→キリスト教がローマ帝国で公認されると、首都ローマにサン・ピエトロ大聖堂が建てらた。ローマ・カトリック教会の誕生

    O 西暦325年
    ・教義が一本化されていない。ニケーア公会議によって、アタナシウス派が正統、アリウス派は異端となる。ローマ教皇がとった偶像崇拝が東西教会(ビザンツ帝国・ギリシア正教会)対立の溝を深めた。※偶像崇拝の禁止→ユダヤ教、イスラム教

    P 西暦395年(エルサレム)
    【ビザンツ帝国(東ローマ帝国)】 帝政ローマの分裂、西ローマ帝国とビザンツ帝国(東ローマ帝国)に分裂。コンスタンチンノープル教会→ギリシア正教会
    ・ゲルマン民族の大移動

    Q 5世紀 ゲルマン民族の大移動により、西ローマ帝国の滅亡
    ・西ローマ帝国からフランク王国へ
    ・フランク人もゲルマン民族の一派であり、元々はアリウス派。しかし、フランク王国がアタナシウス派キリスト教に改宗した。ローマ教皇の権威、すなわち神の名の下での戦いと言う大義名分を得る。ローマ教皇は、西ローマ帝国に代わるローマ・カトリック教会の保護国(強大な後ろ盾)

    R 21 7世紀(聖地エルサレム)
    ・シーア派のファーティマ朝 エルサレムの占領 イスラム教国が出てくる。

    S 22 西暦800年
    ・カール大帝は、ローマ教皇からローマ皇帝の冠を与えられました。神聖ローマ帝国誕生。

    21 9世紀 バイキングの登場

    22 11世紀(聖地エルサレム) 
    ・トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国(ビザンツ帝国)皇帝アレクシオス1世コムネノスが、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端(1095年)。
    ・旧キリスト教圏の回復・奪回・異端への討伐軍・教皇に敵対する勢力への軍事行動・異教徒への布教・征服・十字軍の実態は酷いもんだったらしい。
    ・西暦 1096年 第1回十字軍

    23 12世紀(聖地エルサレム)
    ・西暦 1147年 第2回十字軍
    ・西暦 1189年 第3回十字軍

    24 13世紀 … 教皇最盛期・トマスアキュナス・聖地エルサレム
    ・西暦1202年 第4回十字軍・西暦1218年第5回十字軍・西暦1228年第6回十字軍
    ・西暦1248年第7回十字軍・西暦1270年第8回十字軍・西暦1271年第9回十字軍

    25 15世紀 … コペルニクス 地動説

    26 西暦1516年 … オスマントルコ → ビザンツ帝国滅亡の滅亡

    27 西暦1965年 東西教会の対立の和解

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■6974 / )  法隆寺
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/23(Wed) 07:41:33)
    2020/09/23(Wed) 08:54:11 編集(投稿者)

    おはようございます、floraさん

    昨日、久しぶりに法隆寺へ行ってきました。前回は下の娘がまだ1歳になるかならないかの時だったので20数年ぶりです。お目当ては「法隆寺秘宝展」。
    そこにたどり着く前に五重塔や金堂内部、玉虫厨子やら百済観音で午前中いっぱいかかり、昼食後にお目当てを鑑賞、見終わってみれば3時半、この後桜井市にある談山神社へも行きたかったのですが無理でした。

    法隆寺は奈良から少し離れているので見物人もそれほど多くなく、東大寺に比べればこじんまりとしたいい雰囲気で、古色蒼然(までは行きませんが)として何か飛鳥時代にタイムスリップした感じがありました。

    陳列品は国宝や重要文化財が大軍率いて押し寄せてくる感じで、ある仏像の説明には「壊れて長い間放置されていたものを修復した」とありました。今から見れば大変貴重なものなのに、当時周りにそれ級(以上)のものがゴロゴロあるので「捨ててバチが当たってもつまらんしな。ま、その辺に転がしとこか」ぐらいの感覚だったのかもしれません。

    今回一番感銘を受けたのは写真の古木でした。何百年生きているのかわかりませんが、どこにも行かず、何も言わず、何も考えず(ここには疑問はあります)、ただひたすらに生きているのかと思うと、畏敬の念が湧いてきました。
    生きることで一番重要なことは生き続けることなのかなと、最近悪魔ちゃんと自殺について少しやり取りしたこともあり、ふとそう思いました。

    P.S.
    >黒川紀章さんが若尾文子さんのことを「君の美しさはバロックだ」とか気障なことをおっしゃったということですが、音楽にもバロック音楽というのがありますが、一体どういう意味だと思われます? アンバランスのバランスでしょうか?彼女はとてもバランスがとれた美しい方だと思うんですが・・・ 
    印象派同様音楽の《バロック》もよくわかりません。僕の理解は「大体バッハくらいまでの音楽」です。黒川さんは建築家ですから本来の意味でのバロックという事なんでしょうが、ウィキペディアには「バロック建築は、彫刻や絵画、家具などの諸芸術が一体となった総合芸術となっていることを特徴とする」とあります。それをできるだけ+の方向で解釈すれば、「全ての点で美しい」ということですかね?
    この言葉はこの二人がお付き合いするきっかけとなったテレビ対談での発言のようですから、多分若尾さんの内面を含んだ発言ではないような気がします。外面、スタイルとか顔立ちへの感想だとすると非の打ち所のないボディの持ち主という賛辞でしょうか?
    しかしそもそも黒川さんの真意を計ることなどボクに出来る訳がありません。

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■6973 / )  中国 VS アメリカ
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/22(Tue) 23:05:01)
    これは個人的な意見なのだが、
    私、個人的には中国の文化は好きなんですよ。
    習近平さんもさほど悪い人には見えない。

    ただ、政治がな〜、おそらく、UKUSA組のアメリカが勝つと思う。
    「烈火の如く努力」が中国側にはないわけよ。
    ビックヒストリーから感じるは、
    世界征服を人類で初めて考えたのは、モンゴル帝国だと思うんだよ。
    次は、オスマントルコかと思う。
    そしてコペルニクスの地動説が発表されてから、
    ヨーロッパは植民地を開始していると思う。
    世界大戦があって…
    もしかして、中国の繁栄が一番遅いんじゃないかな?と思ってしまう。

    今、香港や台湾が中国の侵略に耐えているが、世界情勢の注目Pointかと思います。
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■6972 / )  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 22:39:26)
    こんばんは、minoriさん。レスありがとうございます。

    No6958に返信(minoriさんの記事)
    > プラトニズムというのは、プラトン哲学そのものではないんですね?
    > 恥ずかしながら知らないんです。。。
    > プラトンそのものの洞窟の比喩についてはおぼろげながらわかるのですが。
    > プラトン時代にフィルムがあったわけはないので、後に再び復活したプラトン哲学がプラトニズム? と思ったのです。。
    > わ〜、なんか書いてて恥ずかしいです。。。

    映画が現象界とすればその根源となるようなフィルム(イデア)があるみたいな思想です。
    「洞窟の比喩」で検索すれば分かりやすいかもしれません。

    > キサーゴータミーの芥子の実のお話は、最初知った時、衝撃でもありました。
    > ええ? それ酷いんじゃない? なんて若気の至り(若くもなかったけど)感じたんです。
    > でも、次第に理解できるようになっていきました。
    > もうずいぶん前の話ですが。
    > 草薙龍瞬さんの「反応しない練習」は読んではないですけど、ネットで紹介されているのを拝見すると、わかりやすくて、原始仏教に馴染みのない人にも多く読まれているようですね。
    > 「反応しない」っていうのは、突き刺さるぐらいその大切さが理解できますし、苦を広げないための良薬ですね。
    > という感じで、けして仏教が嫌いなのではないんです。

    了解です。

    > 追求するものがある、というのは楽しみでもありますよね。
    > 私の場合は、確信が得られなくてもそれはそれで・・・という感じには思ってます。
    > 第四図(という言葉をお借りして)でも、それなりに楽しいですし。

    同感です。

    > いえいえ・・(〃▽〃)、聖書をもじって書かれているところもあり・・・というのは知りませんでした。
    > 神仏に依存しないというのに、もじっているというのはどうして?と、ふと思いました。 変な疑問ですみません。。

    聖書をパロっているのか、挑発しているのか、対抗しているのか。。。
    私にもよく分かりません。^^


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■6971 / )  山口達也について
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/22(Tue) 22:38:09)
    私も人の事言えないぐらい依存が強いので、
    山口達也さんの事を一方的に責める事ができない。

    私は若い頃に、とにかくドラッグには近づかないよう、
    冷や汗をかきながら、毎日時間割を立てていたのを思い出す。
    依存症はもう病気だ、病院に通院をし続ける事だね。

    人が亡くなる事故じゃなかっただけ良かったと思うし、
    逃げなかっただけで、俺は山口達也を認めるわ。

    私、今日から禁煙いたします。そして山口達也さんも頑張ってくれ。

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■6970 / )  Re[50]:主客の彼岸
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/22(Tue) 22:19:14)
    分類の仕方、これ問題よね。

    ところで、「脳科学」って「科学」になることを欲してるみたいだけど、
    それって、可能なのかしらね?
返信/引用返信 削除キー/

■6969 / )  Re[33]: 第五図と慈悲
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 20:01:35)
    こんばんは、knowing itselfさん。
    レスありがとうございます。

    No6968に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 良道さんは明らかに、第五図の私をラマナマハルシの「本当の私」「I」と同じものにしています。ラマナマハルシの場合、真の「I」を覚知した人からは寂黙と慈愛の波動が放射されて、何もせずとも周囲の人に影響を与えるようです。ラマナマハルシ的な私からは、そこに慈悲発動の根拠を置くことはあまりにも当然でしょうね。
    > 神の愛についても、良道さんは仏教の慈悲とまったく同じと考えているようです。この本の最初の方でも、第五図は貪瞋痴のありえないところと主張しています。神の愛的なものが成立する場所として第五図を捉えていると思います。

    > 第五図性の確実な現前、自分も現に今そこにいることを主張するのが良道さんでしょう。第五図性に触れれば必ず慈悲もそこにある。もちろん第四図性が前面にでると第五図性は隠蔽されて気づきにくくなりますが。慈悲の回路も塞がれます。

    > 第五図の理解における、一照さんと良道さんの違いは歴然としていると思います。

    なるほど、納得しました。
    ありがとうございました。
返信/引用返信 削除キー/

■6968 / )  Re[32]: 第五図と慈悲
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/22(Tue) 19:53:36)
    パニチェさんこんばんは レスありがとうございます


    No6965に返信(パニチェさんの記事)
    > 私は以下の一照さんの発言が一般的な悟りと慈悲の関係性だと思うのですが、knowing itselfさんはどのようにお考えでしょうか。
    >
    > 『藤田 でも、第五図の状態が開けることで、第五図の頭の中の人は、超越論的な次元からの働きを受け取れるようになってる。「私」の人に〈私〉の次元が拓けたとも言えます。そういういわば智慧に導かれて人と関われるようになる。だから慈悲というのは、第五図の頭の世界に属していないといけないと思うんですよ。それはブッダが樹下も打坐から立ち上がって街に帰っていったようなものです。もちろん根っこは第五図の坐禅の人なんですよ。でも第五図の坐禅の人が慈悲を持っていることにしてしまったら、それは超越的なものになってしまう。僕は超越論的であるために、超越論的な視野が開けることで、超越なしにこの世に足をおいて活動ができるからこそ、第五図の頭の中に変革が起こるという........。(同書P.172』
    >
    > 私は上記の一照さんに同意で、第五図に慈悲を取り込むということはラマナ・マハルシ師が言うところの神、誤解をおそれずに言えばキリスト教的な神の愛(アガペー)的な愛になるのではと考えています。

    良道さんは明らかに、第五図の私をラマナマハルシの「本当の私」「I」と同じものにしています。ラマナマハルシの場合、真の「I」を覚知した人からは寂黙と慈愛の波動が放射されて、何もせずとも周囲の人に影響を与えるようです。ラマナマハルシ的な私からは、そこに慈悲発動の根拠を置くことはあまりにも当然でしょうね。
    神の愛についても、良道さんは仏教の慈悲とまったく同じと考えているようです。この本の最初の方でも、第五図は貪瞋痴のありえないところと主張しています。神の愛的なものが成立する場所として第五図を捉えていると思います。

    第五図性の確実な現前、自分も現に今そこにいることを主張するのが良道さんでしょう。第五図性に触れれば必ず慈悲もそこにある。もちろん第四図性が前面にでると第五図性は隠蔽されて気づきにくくなりますが。慈悲の回路も塞がれます。

    第五図の理解における、一照さんと良道さんの違いは歴然としていると思います。


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■6966 / )  〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 17:28:36)
    レスありがとうございます。

    No6959に返信(ななしさんの記事)

    > パニチェさん、いろいろアドバイスありがとうございます。
    > 〈仏教3.0〉を哲学する バージョンIIを読み終えましたが、Uは余り期待できないと仰った意味が何となく分かりました。
    > そして、西洋哲学が、仏教と手を組むことの難しさを感じました。

    あら、もう読まれましたか。めちゃめちゃ早いですね。^^

    > 三人が三様の方向を見ているような気がして、特に永井先生は、もうやめましょうと
    > 鼎談を終了する方向を示しているようで、特に慈悲の問題については、後で柳田神父さんも出てきてコメントをしていましたが、言葉と行動が一致していない「羊頭狗肉」のような感じを受けました。

    柳田神父さんのことはともかく、後書きにもありましたが、三人の違いがより明確になったのがバージョンUですね。

    > ただ、永井先生のカントの実践理性については、自分とほぼ同じ見解だったので
    > 少し安心したのですが、この三人は、ビジネスとして、出版社か主催者に言われてやらされている感が文字の間から見えた気がしました。

    同意です。

    > やはり、〈仏教3.0〉への道のりは遠いなあと感じた次第です。

    葬式・法事。先祖供養を主としない、自分の悟りを最優先にするような上座部的ではない、また新宗教によくある教祖やトップを崇めず法を依りどころとした(依法不依人)仏教を3.0とするなら意義あることだとは思いますが。。。
返信/引用返信 削除キー/

■6965 / )  Re[31]: 第五図と慈悲
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 17:14:59)
    こんにちはknowing itselfさん、大変興味あるお題なので横レス失礼します。

    No6962に返信(knowing itselfさんの記事)

    まず第五図が〈私〉であるかどうかは横へ置くとします。仮に第五図がパニチェの言うところの〈私〉であれば現時点でそこに慈悲というものは現実的にありえないのですが。。。

    > 本を読むと、第五図に慈悲その他の内容を入れることに永井さんは強く抵抗しているようにも見えます。第五図の中身は憎悪でもいんだと。
    > これはまったく同意できないです。第五図が無色透明で最高度に抱擁力のある状態で、人間によるいかなる定義・意味充填を超えたものだとする。ここまではいいです。第五図に慈悲を入れる立場は、この状態を人間の語彙で表現すれば慈悲が近いということであって、第五図が慈悲の基準になるということです。慈悲→第五図ではなく、第五図→慈悲。最初に人間の側の慈悲があるのではなく、最初にあるのは第五図。
    > 第五図的な状態に他の人も招きたい、第五図を他の人と共有したいという思いを慈悲といっているだけです。どうして、第五図に憎悪を入れる、第五図から憎悪が引き出される?
    > とくに、第五図を涅槃とみなす、仏教者からみれば、涅槃と親和性のある価値を結びつける方が自然であって、涅槃と憎悪は結びつけることが困難でしょう。憎悪こそが第四図にしか結びつかない情動だと思う。

    もともとは以下の発言からですよね。

    ***** 以下、「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」より引用 *****

    山下 要するに、コギト・エルゴ・スム、「我思う、ゆえに我あり」の我がある。我はすぐに平板化したけれども、もっと強烈な発見だったのが、打ち合わせの時にあったでしょう。それと同じく、「考える私」ではなくて、「慈悲する私」があるんです。(P.238)

    永井 それはそうですが、そのことを言ったほうがいいですか。その話は簡単で、デカルトの思惟と言っても、本当は思惟じゃなくてもいいんですよね。感覚でも感情でも知覚でも想像でも想起でも予測でも、なにか意識がありさえすればいい。だから慈悲でもいいし、その逆の憎悪のようなものでも、それがあると思えばそういうやつがもう存在してしまっている、というだけのことですから、思惟と言われているものの中身とは全く関係ない形式的な話です。それと、そのことを現実んい感じる人は一人しかいないけど、少なくとも今は一人はいて、なぜかこいつである、ということが重なっている。(P.241)

    *************** 引用終わり ***************

    上記で永井さんが指摘しているのはフッサールで言うところの志向性のことだと思います。
    つまり意識とは常に何かについての意識であるということ。
    私は以下の一照さんの発言が一般的な悟りと慈悲の関係性だと思うのですが、knowing itselfさんはどのようにお考えでしょうか。

    『藤田 でも、第五図の状態が開けることで、第五図の頭の中の人は、超越論的な次元からの働きを受け取れるようになってる。「私」の人に〈私〉の次元が拓けたとも言えます。そういういわば智慧に導かれて人と関われるようになる。だから慈悲というのは、第五図の頭の世界に属していないといけないと思うんですよ。それはブッダが樹下も打坐から立ち上がって街に帰っていったようなものです。もちろん根っこは第五図の坐禅の人なんですよ。でも第五図の坐禅の人が慈悲を持っていることにしてしまったら、それは超越的なものになってしまう。僕は超越論的であるために、超越論的な視野が開けることで、超越なしにこの世に足をおいて活動ができるからこそ、第五図の頭の中に変革が起こるという........。(同書P.172』

    私は上記の一照さんに同意で、第五図に慈悲を取り込むということはラマナ・マハルシ師が言うところの神、誤解をおそれずに言えばキリスト教的な神の愛(アガペー)的な愛になるのではと考えています。

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■6964 / )  Re[31]: 第五図と慈悲
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/22(Tue) 17:06:03)
    第四図・第五図にカント哲学の色濃い影響をみるのは、永井さんの指摘から。藤田さんも山下さんも、永井さんの発言に触れるまでは、あまり考えていなかったようだ。もちろんわたしも(笑)。今では、カント哲学との関連なしに第四図・第五図を考えてもあまり面白くないと思う。

    ただ、永井さんの読み込み過ぎという批判も当てはまる。内山興正は仏教を超える西洋哲学的なセンス、それもデカルトやヴィトゲンシュタインに匹敵する独創的な着眼をもっていたから凄いんだ。内山興正は仏教を超える。永井さんのこういった読みに同意する禅仏教者はほとんどいないと思う。内山興正本人の考えも、むしろ安泰寺の伝統に連なる普通の禅僧に近いのが真実である可能性もある。


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■6963 / )  Re[51]: 将棋界
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 16:17:54)
    こんにちは、フローラさん。
    こっちはようやく秋の気配がしてきました。やっぱ暑さ寒さは彼岸までです。

    No6961に返信(floraさんの記事)
    > こんにちは、横の横失礼します〜。

    >>私の知るかぎりでは哲学の研究にコンピュータが直接の道具として使われていることはないと思いますが、情報哲学分野としてはいろいろあります。
    >>サイバネティックス、論理学、倫理学、チューリングマシン、チューリングテスト、哲学的ゾンビ、中国語の部屋などなど。

    > チューリングマシン、チューリングテストのチューリングは、アラン・チューニングのことですよね? ナチスドイツ軍のエニグマの, 暗号解読機BOMBEを作った天才と言われた人ですよね。

    ほんとですね。これ知りませんでした。
    Wikipediaで初めて知りました。^^
返信/引用返信 削除キー/

■6962 / )  第五図と慈悲
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/22(Tue) 15:33:32)
    本を読むと、第五図に慈悲その他の内容を入れることに永井さんは強く抵抗しているようにも見えます。第五図の中身は憎悪でもいんだと。

    これはまったく同意できないです。第五図が無色透明で最高度に抱擁力のある状態で、人間によるいかなる定義・意味充填を超えたものだとする。ここまではいいです。第五図に慈悲を入れる立場は、この状態を人間の語彙で表現すれば慈悲が近いということであって、第五図が慈悲の基準になるということです。慈悲→第五図ではなく、第五図→慈悲。最初に人間の側の慈悲があるのではなく、最初にあるのは第五図。
    第五図的な状態に他の人も招きたい、第五図を他の人と共有したいという思いを慈悲といっているだけです。どうして、第五図に憎悪を入れる、第五図から憎悪が引き出される?

    とくに、第五図を涅槃とみなす仏教者からみれば、涅槃と親和性のある価値を結びつける方が自然であって、涅槃と憎悪は結びつけることが困難でしょう。憎悪こそが第四図にしか結びつかない情動だと思う。
返信/引用返信 削除キー/

■6961 / )  Re[50]: 将棋界
□投稿者/ flora -(2020/09/22(Tue) 15:33:12)
    こんにちは、横の横失礼します〜。

    > 私の知るかぎりでは哲学の研究にコンピュータが直接の道具として使われていることはないと思いますが、情報哲学分野としてはいろいろあります。
    > サイバネティックス、論理学、倫理学、チューリングマシン、チューリングテスト、哲学的ゾンビ、中国語の部屋などなど。


    チューリングマシン、チューリングテストのチューリングは、アラン・チューニングのことですよね? ナチスドイツ軍のエニグマの, 暗号解読機BOMBEを作った天才と言われた人ですよね。
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■6960 / )  Re[48]: コモンズスコラ ラヴェル
□投稿者/ flora -(2020/09/22(Tue) 15:06:31)
    田秋さん、こんばんは、
    膨大な情報誠にありがとうございます。

    commons schola vol.4 ラヴェル
    https://www.youtube.com/watch?v=ZzIkdzlQS4A

    >今回はラヴェルです。坂本教授も仰っていますが、音楽における《印象派》という括りは、絵画の印象派と大体同じ時期の作曲家だからそう呼ぼうか、位の括りで、よくわからないところがあります。私見ではラヴェルなど初期を除きあまり印象派とは思っていません。構成の緻密さなど、ベートーベン〜ブラームスの流れ上にいるような気もします。ラヴェル流新古典主義?みたいな。

    そうなんですよね。教授も確か、革新派ドビッシーと異なり, ラヴェルには古典的なところもあるとおっしゃっていましたね。やっぱり絵画の分類をそのまま音楽に適応してしまうのは、ちょっと笊な感じがしますよね。

    田秋さん、黒沢紀章さんが若尾文子さんのことを「君の美しさはバロックだ」とか気障なことをおっしゃったということですが、音楽にもバロック音楽というのがありますが、一体どういう意味だと思われます? アンバランスのバランスでしょうか?彼女はとてもバランスがとれた美しい方だと思うんですが・・・ 

    >何と言っても《ボレロ》が有名ですがその他にもいっぱいあります。
    《海原の小舟》1906
    《スペイン狂詩曲》1907 
    《亡き王女のためのパヴァーヌ》 1910
    《マ・メール・ロア》1912 組曲版がよく演奏される。全曲版は日フィルの9月の東京定期で演奏されました。ライブ配信(のアーカイブ)があります。
    《ダフニスとクロエ》1912 翌年第2組曲《ダ》としてはこれの演奏回数が一番多い
    《高雅で感傷的なワルツ》1912
    《ラ・ヴァルス》1913
    《道化師の朝の歌》1918
    《クープランの墓》1919
    《展覧会の絵》編曲 1922
    《ツィガーヌ》1924?
    《ボレロ》1928
    《左手のためのピアノ協奏曲》1930
    《ピアノ協奏曲ト長調》1931
    このように、ドビュッシーに比べるとラヴェルが格上?と思ってしまう位、演奏曲数に差があります。この中で僕が弾いていて興奮するのは《ラ・ヴァルス》です。これほど異様なワルツがあるでしょうか?

    私はやはりベタですが《亡き王女のためのパヴァーヌ》でつ。 時々頭の中でこの音楽が鳴っています。

    >「(ラヴェルは)小柄な方」と仰ってます。これはだいぶ後になって知りました。写真を見る限りそのようには見えなかったからですが、ひょっとするとそのように見えないようなアングルで写真を撮っていたんじゃないかなとも思います。

    集合写真がほとんどないと人の大きさはわかりませんよね。それととてもご自分のことに気を使っていた方のようですから、撮られる角度とか研究していたのかも。

    >《水の戯れ》に続いて《弦楽四重奏曲 1903》が取り上げられています。幸か不幸か、昔録音した演奏は壊れたiPodと共に無くなってしまいました。学生の頃、ラヴェルのSQとラズモフスキーの1番を一緒に弾くと結構ハモる(きれいに響く)ことを発見して喜んでいました。

    《弦楽四重奏曲 1903》もきれいですね。坂本さんの音楽もここからちょっとヒントを得たのかな?

    >教授の話によるとラヴェルのピアノはソリストになれるくらいにはうまくなかったようですが、意外でした、凄くうまいのだと思ってました。《夜のガスパール》とか無茶苦茶難曲らしいです。それにピアノコンチェルト2曲も書いてるし。

    >前編でも少し出ましたが、ここで再びサティの話になります。坂本教授はこのドビュッシー、サティ、ラヴェルの3人の中ではサティが一番好きなんじゃないかと思いました。サティについてはコモンズスコラ第9巻で取り上げられていますからここでさらっと触れられていますが、《ボレロ》繋がりで繰り返しの音楽について語られています。

    サティの編では、ほかの評論家が加わって私正直申して楽しくなかったのです。 お時間のある時に田秋さんにサティを解説していただけると、うれしいでつ。

    >ボレロにサティの影響はあったのでしょう。影響というかヒントだったような気もします。同じメロディを違う音色(楽器の組み合わせ)で演奏すると、逆に同じメロディだからこそ音色の豊かさが際立つという計算があったように思います。ボレロの場合、繰り返しには呪術的効果とともに音色の変化を目立たせる役割もあるのではないかと思います。

    ラヴェルのお父さんが時計職人だったと教授言っていましたが、時計も同じリズムをずっと刻んでいますね(あたりまえだけど)

    >【世にも豪華なサロン】

    20世紀初頭のパリというのは素晴らしかったでしょうね。エコール・ド・パリとか、モンパルナスの芸術家たちとかね・・ WW1以降文化の中心は、世紀末のウイーンからパリにうつったのでしょうね。素晴らしい。
    引き続きよろしくお願いします。

    水で思い出しましたが、坂本教授も水をモチーフにした曲がありますね。
    『水の中のバガテル』
    https://www.youtube.com/watch?v=n22sa5kEsHM&list=RDn22sa5kEsHM&start_radio=1&t=124




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■6959 / )  抜苦与楽
□投稿者/ ななし -(2020/09/22(Tue) 13:45:26)
    パニチェさん、いろいろアドバイスありがとうございます。

    〈仏教3.0〉を哲学する バージョンIIを読み終えましたが、Uは余り期待できないと仰った意味が何となく分かりました。
    そして、西洋哲学が、仏教と手を組むことの難しさを感じました。

    三人が三様の方向を見ているような気がして、特に永井先生は、もうやめましょうと
    鼎談を終了する方向を示しているようで、特に慈悲の問題については、後で柳田神父さんも出てきてコメントをしていましたが、言葉と行動が一致していない「羊頭狗肉」のような感じを受けました。

    ただ、永井先生のカントの実践理性については、自分とほぼ同じ見解だったので
    少し安心したのですが、この三人は、ビジネスとして、出版社か主催者に言われてやらされている感が文字の間から見えた気がしました。

    やはり、〈仏教3.0〉への道のりは遠いなあと感じた次第です。

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■6958 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/22(Tue) 13:38:25)
    パニチェさん、ありがとうございます。

    > 内容なしどころか大ありですね。
    > スクリーンと映画の比喩は自我だけではなく、時間論とかも含めていろいろなところで使われていますね。
    > プラトニズムならフィルムも題材にされます。スクリーン映る映像は洞窟の比喩でいうところの影であって実体はフィルムであるとか。。。^^

    プラトニズムというのは、プラトン哲学そのものではないんですね?
    恥ずかしながら知らないんです。。。
    プラトンそのものの洞窟の比喩についてはおぼろげながらわかるのですが。
    プラトン時代にフィルムがあったわけはないので、後に再び復活したプラトン哲学がプラトニズム? と思ったのです。。
    わ〜、なんか書いてて恥ずかしいです。。。

    >>そして、minoriを例としていえば、その眼球から広がって見えている世界の様々と感覚器官を通じて交流したり経験して生活している、と考えています。
    >>カントの認識論でいうと「現象」の世界ですね、時間・空間の枠を通して世界を認識しているし、また、カテゴリー分けされた世界を生きるの一員です。
    >>(この部分について、パニチェさんも似通った認識をされているのか否かについては、今は不明です。)
    >
    > 同意します。

    よかったです。^^

    > そうなんですね。
    > 仏教のよいところというか懐の深いとことは、多くの道が示されていることと、「筏の譬え」にもあるように道や乗り物に執着することも戒められていることです。

    キサーゴータミーの芥子の実のお話は、最初知った時、衝撃でもありました。
    ええ? それ酷いんじゃない? なんて若気の至り(若くもなかったけど)感じたんです。
    でも、次第に理解できるようになっていきました。
    もうずいぶん前の話ですが。
    草薙龍瞬さんの「反応しない練習」は読んではないですけど、ネットで紹介されているのを拝見すると、わかりやすくて、原始仏教に馴染みのない人にも多く読まれているようですね。
    「反応しない」っていうのは、突き刺さるぐらいその大切さが理解できますし、苦を広げないための良薬ですね。
    という感じで、けして仏教が嫌いなのではないんです。

    >>しかし。第四図という言葉をお借りすれば・・、その第四図として見えている世界(マッハ的光景、あるいはカントだと「現象」はそれに当たりますよね。それらが良い、悪い、高い、低い というような価値判断を離れて。)ではない世界の観方というのはどうなのだろう、という好奇心は捨てきれないものがあります。
    >>生きる苦悩という意味においては、「究極においてはそれと共にある」しかないのだ(完全に無くすなんて無謀)とわかったので、どうにかしようとは思ってないのですが、知的好奇心は消えないです。。。
    >
    > 私も同じです。
    > 風車に挑む無謀かつ無意味なドンキホーテになってもいいので、言語と論理による見性悟道をやってるつもりです(自己満でも。。。)

    追求するものがある、というのは楽しみでもありますよね。
    私の場合は、確信が得られなくてもそれはそれで・・・という感じには思ってます。
    第四図(という言葉をお借りして)でも、それなりに楽しいですし。

    >>パニチェさんは、〈私〉についての探究は、ライフホビーとおっしゃっていましたが、それはやはり知的好奇心から発生するものですか?
    >>それとも、それ+抜苦というような意味合いもあるのですか?
    >
    > もともとは小学校の低学年の時に「なんで、自分は隣の〇○ちゃんではなく、自分なんやろう?」という単純な疑問からです。

    その年齢で既に実存的な疑問を持つというのは、やはりすごいですよ。

    > 後から振り返れば、この疑問には抜苦の要素も多少あったかもしれませんね。

    そうだったのですね。


    >>教えて頂いた後(パニチェさんの、このご投稿を拝見後)、少しネットで調べたのですが、ツァラトゥストラの最初の方に出てくる文章だそうですね。^^
    >>高まる決意と情熱を表現しているのでしょうね。
    >
    > その通りです。
    > ご存知だとは思いますがツァラトゥストラは物語になっていて、聖書をもじって書かれているところもあり、神仏に依存しない実存主義的な人間にとっての福音書(金言集)のような書籍です。

    いえいえ・・(〃▽〃)、聖書をもじって書かれているところもあり・・・というのは知りませんでした。
    神仏に依存しないというのに、もじっているというのはどうして?と、ふと思いました。 変な疑問ですみません。。
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■6957 / )  宗教の分布
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/22(Tue) 12:51:50)
    T.この世界の主人公の大きな流れ

    ・イタリア領域 → ローマ帝国 → 東ローマ帝国/神聖ローマ帝国
    ・東ローマ帝国 → オスマントルコ → トルコ(イスラム教)
    ・神聖ローマ帝国 → ドイツ(キリスト教)
    ・中国領域 → 中国領域のまま(儒教・道教・仏教)
    ※時折モンゴルのイメージ(チベット仏教)

    U.この世界の変な種族の大きな流れ

    ・ユダヤ人 → ユダヤ人のまま(ユダヤ教)
    ・日本人 → 日本人のまま(仏教・多神教?)
    ・東南アジア領域の人々 → 植民地
     → ベトナム(仏教・カトリック)/タイ(仏教)/インドネシア(イスラム教?)
    ※東南アジアは絶対に面白いと思いますね。
    ・バイキングはどうなった? → 北欧諸国?(キリスト教)
    ・ギリシャ民主国家はどうなった? → ギリシャのまま(多神教?)

    V.滅ぼない国、滅ぼされる国の大きな流れ
    ※ イギリスも島国である

    ・イギリス領域(ゲルマン人の大移動)→大航海時代→産業革命→イギリス領域のまま(キリスト教)
    ・アフリカ諸国 → 大航海時代 → 植民地(奴隷) → アフリカ諸国(さまざま)
    ・新大陸 → イギリスの開拓 → インカ帝国滅亡
     → アメリカ/カナダ/オーストラリア/ニュージーランド・UKUSA(キリスト教)

    ――――――――――――――――――――

    イギリス人が曲者すぎるわ(笑)
    こうやってみると、やはり「移動」と「蓄積」だよね、生命は。
    ま、破壊と構築ももちろんある。
    …しかし、独立宣言して、現在国は196か国か
    移動→統治→征服→独立許す→独立国家/植民地の流れか、企業に似ているね。

    流れ的には、人類のコロニーはやはり、ヨーロッパ、中国が
    巨大化(メガポリス)して、新大陸、未開地へ広まったイメージだね。
    文明開化か…、野蛮人は悪と見なされてしまうんだな…

    しかし、結局、「子供の空想」っていうイメージがあるね。
    ニーチェの言う所の「駱駝→獅子→子供」って感じがするね。
    神聖ローマ帝国→ドイツ帝国→優生思想って、中二病っぽくないか?

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■6956 / )  この世界の主人公は誰か?
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/22(Tue) 11:18:58)
    この世界の主人公は誰?

    【ヨーロッパ勢力】と【中国勢力】で間違いないだろうと思う。
    現在、第二次冷戦に突入、アメリカ(UKUSA協定)VS中国(一帯一路)です。
    なるほどね、シルクロードか…
    日本は両方から文化をもらっているから、板挟み状態。
    第三勢力は、イスラム教勢力だろう。
    第四勢力は、ヒンドゥー教勢力のインドであると思います。

    この世の変な種族は?

    1位.ユダヤ人
    2位.日本人

    おそらく変な種族3位は、東南アジアになるだろう。
    彼らは赤道国家の国なので、ユダヤ人や日本人とは違う特徴があると思います。
    彼らはきっと情熱的であるとおもう、日本人は四季を愛するから美学が違うと思われる。

    滅ばない国は?

    1位.日本
    2位.アフリカ諸国

    ビックヒストリーでみると長い間滅ばない国がある。
    自然の要塞だね。生物群で考えるとオーストラリア大陸か…。
    滅んでしまったのは、インディアン、アステカ、マヤ、インカか。
返信/引用返信 削除キー/

■6955 / )  罵倒
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 11:11:06)
    罵倒する時には自分が言われて嫌な言葉を相手に浴びせる傾向がある。

    罵倒からその人間の知能や精神年齢、弱点や性根が読みとれるのは面白い。
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■6954 / )  単純な疑問から>minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 08:44:17)
    2020/09/22(Tue) 09:03:54 編集(投稿者)

    おはようございます、minoriさん。レスありがとうございます。

    No6949に返信(minoriさんの記事)

    > はい、結果的にシンクロっぽくて驚きました。
    > なにしろ実は、「これ書いてるけど、パニチェさんとか読まれたら、意味不明すぎで内容なしって思われるのかもしれないな。」などと、少しばかり悲観的思考もしながら書いてましたから。
    > 結果的に、書いてみてよかったようでした。^^

    内容なしどころか大ありですね。
    スクリーンと映画の比喩は自我だけではなく、時間論とかも含めていろいろなところで使われていますね。
    プラトニズムならフィルムも題材にされます。スクリーン映る映像は洞窟の比喩でいうところの影であって実体はフィルムであるとか。。。^^

    > はい。パニチェさんの書かれている〈私〉についてですが、minori自身においてもその通りだと思います。
    > ということで、「比類なき先言の<私>」についての理解が、完全100%とは言えないとは思いますが、上に書かれている部分においては理解していると思います。
    > 「区別している」という表現は、「唯一無二で比類なき」の別表現をminoriなりにしたもの、と考えていただければ、です。

    了解です!^^

    > そして、minoriを例としていえば、その眼球から広がって見えている世界の様々と感覚器官を通じて交流したり経験して生活している、と考えています。
    > カントの認識論でいうと「現象」の世界ですね、時間・空間の枠を通して世界を認識しているし、また、カテゴリー分けされた世界を生きるの一員です。
    > (この部分について、パニチェさんも似通った認識をされているのか否かについては、今は不明です。)

    同意します。

    > 私もいわゆるアドヴァイタ体験の大きなもの、というのは経験していないですよ。
    > なんか・・あれ?っていうようなのはありましたけど、その体験によって世界観が一変したというような体験をしてはいません。
    > 基本的には、静かに瞑想することと、気づきを意識的に保つこと(マインドフルネスのように)、ダイレクトパスという手法について書かれた本を読み実際に考察する、というようなことを通じ、「気づき」はどうやら身体に閉じ込められたものではない、というのを理解しつつあるという感じです。
    > ですので、確信しているわけではないです。
    > 方法、道は、人によっての相性ですので、縁あって出会い、いいなと感じたものが選ばれていくわけで、興味を引かなければ無理に知る必要もないのだろうな、と思います。
    > 私は最初は、原始仏教が実直まじめそうでこれがいいに違いない、と思ったのですが、私には合わないことにしばらくして気づきました。

    そうなんですね。
    仏教のよいところというか懐の深いとことは、多くの道が示されていることと、「筏の譬え」にもあるように道や乗り物に執着することも戒められていることです。

    > 山下さんご自身は、修行されて、深くかつ明晰な意識状態においての体験を通じ、世界観が一変されたのだと想像するのですが、誰しもがそのような体験をするのは不可能です。
    > ですので、minori自身が考えるには・・・山下さんのされた体験というのはとても特異なもの(我々、してない人からすれば)で、それは一種、手の届きようもないXとでもしておくしかないようなものだと思うんですね。
    > ですから、それに憧れたり、同じ体験を願ったりしてもしかたないわけで・・。

    > しかし。第四図という言葉をお借りすれば・・、その第四図として見えている世界(マッハ的光景、あるいはカントだと「現象」はそれに当たりますよね。それらが良い、悪い、高い、低い というような価値判断を離れて。)ではない世界の観方というのはどうなのだろう、という好奇心は捨てきれないものがあります。
    > 生きる苦悩という意味においては、「究極においてはそれと共にある」しかないのだ(完全に無くすなんて無謀)とわかったので、どうにかしようとは思ってないのですが、知的好奇心は消えないです。。。

    私も同じです。
    風車に挑む無謀かつ無意味なドンキホーテになってもいいので、言語と論理による見性悟道をやってるつもりです(自己満でも。。。)

    > パニチェさんは、〈私〉についての探究は、ライフホビーとおっしゃっていましたが、それはやはり知的好奇心から発生するものですか?
    > それとも、それ+抜苦というような意味合いもあるのですか?

    もともとは小学校の低学年の時に「なんで、自分は隣の〇○ちゃんではなく、自分なんやろう?」という単純な疑問からです。
    後から振り返れば、この疑問には抜苦の要素も多少あったかもしれませんね。


    No6950に返信(minoriさんの記事)
    > 見えないものを扱う、というのはとても難しいのだと思います。
    > 私にとっては、見えるもの(目で確認できる科学、化学)ももちろん難しいですけど・・。

    同感です。

    > 教えて頂いた後(パニチェさんの、このご投稿を拝見後)、少しネットで調べたのですが、ツァラトゥストラの最初の方に出てくる文章だそうですね。^^
    > 高まる決意と情熱を表現しているのでしょうね。

    その通りです。
    ご存知だとは思いますがツァラトゥストラは物語になっていて、聖書をもじって書かれているところもあり、神仏に依存しない実存主義的な人間にとっての福音書(金言集)のような書籍です。



返信/引用返信 削除キー/

■6953 / )  Re[49]: 将棋界
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 08:20:01)
    おはようございます。横レス御免!^^

    No6948に返信(田秋さんの記事)
    > おはようございます。

    > 豊島竜王が永瀬叡王を破り叡王奪取、2冠となりました。羽生九段は竜王戦の挑戦者となり、タイトル通算100期をかけ豊島竜王に挑戦します。
    > 豊島竜王は勿論強いのですが、あの藤井2冠が5戦全敗しているのです。それじゃ豊島2冠がダントツに強いのかというと、昨日終わった叡王戦は4勝3敗2持将棋(引き分け)という接戦の末の奪取なので実力拮抗ということでしょう。

    > 先日羽生九段が藤井2冠のことを自分の若い頃と比較して語っていました。
    > 「直球勝負なら互角だと思うけれど球種の多さで敵わない」
    > 因みに藤井2冠は対羽生戦4戦全勝です。

    やっぱ相性ってのがあるんですかねぇ〜。

    > 藤井2冠が最近自作PCを作ったのですがそれに使用したCPUの値段は約50万円、一般のPCのCPUは2〜3万円だそうです。専門家の話によると処理能力が30倍になるそうです(一般CPUが1秒間に200万手、それに対して6000万手読める)。将棋は1局平均120手位ですから6000万手というのは50万局に相当します(1秒間で!)。もう感想が言えるレベルじゃないです。

    さすがですね。あの歳でプロとしての投資を分かってるのが凄い。

    > 哲学の研究にはコンピューターってどのように使われているでしょう?

    私の知るかぎりでは哲学の研究にコンピュータが直接の道具として使われていることはないと思いますが、情報哲学分野としてはいろいろあります。
    サイバネティックス、論理学、倫理学、チューリングマシン、チューリングテスト、哲学的ゾンビ、中国語の部屋などなど。

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■6952 / )  野蛮人VS文明人
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/22(Tue) 08:11:03)
    皆様はおはようございます。
    だんだんと涼しくなってまいりましたね。
    最近、感謝の心が芽生えてきており、この感覚が感謝なんだなと思うこの頃。
    基本、根底には私はイカロス傲慢があると実感いたしました。

    農耕革命からコペルニクスの地動説までのヒストリーに
    「野蛮人VS文明人」の構図が見えてきた。
    どうも、この人類社会では、野蛮人は悪とされているようだ。

    私は野蛮人の方が親しみやすい。

    私が感じる野蛮人は、感情が激しく、任侠を感じる。
    任せる、任せない、野蛮は「心の繁殖」をする。
    特に男は、心の繁殖を一子相伝にしがちである。
    【私が選ばれない】という立場になると、少し悲しい気持ちになる。

    野蛮人の武器は大味である。棍棒や斧のイメージが強い。
    勇気と蛮勇の違いはなんだろう、蛮勇は破れかぶれ感がある。
    勝てないと解っても、当たって砕けろで攻撃を仕掛けてくる。

    人類が樹冠と言うユートピアを消失して地上に降り立った時に、
    サーベルタイガーなどの天敵に、投石をしていたという粗野さを感じる。

    武器の進化、飛び道具の進化である。
    投石、投げやり、カタパルト、パチンコ、火縄銃、拳銃、ライフル、ミサイル、核爆弾である。
    剣は蛮勇である感じる、自分の身を危険にさらしている。



    一方、文明人の方が理解しにくい。
    言葉を利用した人類と言うイメージが強い。

    文明を考えると、任侠の真逆を感じる、孤独、個人主義、冷徹さを感じる。

    品責をやっていると、文書化、文書管理が一番厄介である。
    書物には霊的な愛情が流れており、書物を沢山読む方々、幸せを感じるであろう。

    んが、しかし、完璧さが必要で、心にもない事を文書化するのは、品責の世界ではご法度である。

    家電製品の取扱説明書が、文明人の際たるものであると感じる。
    野蛮人はその取扱説明書を読まずに、家電製品を取り扱うイメージがある。

    私もそうだ、テレビや洗濯機の調子が悪かった場合、叩きます(笑)
    これは躾に似ているような気がします。



    私の入口

    東京を作った家康、まず感じるのは、「遷都」とは何か?
    邪馬台国、平城京、平安京、尾張文化、江戸文化、東京文化、都は遷るイメージがある。

    まるで血管や神経回路のように、社会にはライフラインが張り巡らされている。
    まるで万人を救うが如きのようです。

    今の私が成り立っているのは、文明であることは確かである。



    革命に着目していたが、ビックヒストリーを思考したところ、革命よりも人類には凄い出来事あると感じた。

    それは「独立宣言」である。

    まず、各地域にポリスができ、そのあと征服者が登場するのだが、
    そっからまた、国々が独立している。

    現在、国の数は196か国である。
返信/引用返信 削除キー/

■6951 / )  抜苦与楽
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/22(Tue) 08:03:01)
    おはようございます、ななしさん。レスありがとうございます。

    No6945に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん、何度もすみません。
    > そうですか、Uは余り期待できないということですね。

    分かりませんよ、あくまで私の独断ですから。
    他の人が読めばTにないUならではの進展を発見されるかもしれません。

    > 自分としては、三人の議論の中で、永井さんは、仏教がつまらないというのに引っ掛かりました。
    > 「複雑そうに見える( が 実は つまらない)仏教の諸教説」だとして「無我」を
    > あげていますが、これって自分としては、お釈迦さまの慈悲心を本当に考えているのかな?と思いました。
    > そのままでいたら、だれも「無我」だとは気づかずに様々な煩悩に執着して、
    > ままならない苦しみに陥っていた訳ですし、般若心経でも、観音様は、私たちの心と体の働きである「五蘊(物質である体・肉体を意味する、色、心・精神、考えるプロセスを細かく分類した受・想・行・識の5つ)」を「空」だと見ることで、様々な苦しみを救われたのですから。

    同意します。確かに慈悲とか抜苦与楽的な視点がないとは言いませんが薄いかもしれませんね。
    永井さんが「鼎談の後に 二」で幼稚で当たり前と触れている例えば三法印(諸法無我・諸行無常・涅槃寂静)にしても抜苦与楽の指針ですからね。

    > この本は、何か、本来の苦からの救済の視点が欠けているような気がしました。

    「〈仏教3.0〉を哲学する」は仏教書ではなくて、科学哲学(科学の定義を検討する、科学的な知見を哲学する、実験方法について検証する、等々)のような〈仏教3.0〉哲学なんだと思います。

返信/引用返信 削除キー/

■6950 / )  Re[49]: 意識と無意識
□投稿者/ minori -(2020/09/22(Tue) 07:49:33)
    パニチェさん、こちらもレスをありがとうございます。

    > 独我論や〈私〉を絡めるなら永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」がお薦めです。
    > 一般的な解説書なら鬼界彰夫著「ウィトゲンシュタインはこう考えた」でしょうか。
    > 野矢茂樹氏や入不二基義氏も有名ですね。

    ご紹介ありがとうございます。
    永井さんは、ヴィトゲンシュタイン研究もされている、というのはネットのどこかで拝見したのですが、それについての著書もあるのですね。
    いつか読んでみたいです。


    > 同意です。〈私〉も含めて最も身近であるにもかかわらず最も不可思議。
    > 100光年先の天体より未知の領域が大かもしれませんね。

    見えないものを扱う、というのはとても難しいのだと思います。
    私にとっては、見えるもの(目で確認できる科学、化学)ももちろん難しいですけど・・。

    >>ツァラトゥストラの貼っていただいた文章では、語っている人(主人公)は、太陽を讃えているのだというのはわかるのですが、自身も太陽になっちゃってるという感じなのですか?
    >>無知の解釈ですみません。 
    >
    > とんでもないです。^^
    > 太陽が自分に対してそうであったように、今度は自分も太陽のように人々に贈与し分与する側になろうと決心し、山籠もりを解いて人々の住むところへ下山(下る=没落と表現します)しようという意思表明だと思います。
    >
    >>それにしてもニーチェの「圧」はすごい。。
    >
    > ですね。^^

    教えて頂いた後(パニチェさんの、このご投稿を拝見後)、少しネットで調べたのですが、ツァラトゥストラの最初の方に出てくる文章だそうですね。^^

    高まる決意と情熱を表現しているのでしょうね。
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■6949 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/22(Tue) 07:37:10)
    パニチェさん、おはようございます。

    > レスありがとうございます。
    > 勝手ながら、こちらのトピに移動させてもらいました。もし不都合があればご指摘下さい。

    いえ。^^  移動していただいてありがとうございます。


    > >>〈私〉は何も映っていないスクリーン、あるいは鏡面のようなものだと考えています。
    > >>そこに何か映ればそれは「私」となります。

    > 読みました!シンクロしてますね。^^

    はい、結果的にシンクロっぽくて驚きました。
    なにしろ実は、「これ書いてるけど、パニチェさんとか読まれたら、意味不明すぎで内容なしって思われるのかもしれないな。」などと、少しばかり悲観的思考もしながら書いてましたから。
    結果的に、書いてみてよかったようでした。^^

    > 「比類なき先言の<私>」についてminoriさんが理解されているという前提で返信させてもらいますと。。。(前提が違うということであれば指摘下さい)
    > 区別しているというよりも、例のマッハ的光景の手前は何人も何ものも並び立たない特異な地点ですし、そこに存在する〈私〉は唯一無二の比類なき存在(存在様相も含め)ですから、他者と交じり合うところが全くありません。
    > それが事実あるいは自明であるとしか言いようがないというか。。。

    はい。パニチェさんの書かれている〈私〉についてですが、minori自身においてもその通りだと思います。
    ということで、「比類なき先言の<私>」についての理解が、完全100%とは言えないとは思いますが、上に書かれている部分においては理解していると思います。

    「区別している」という表現は、「唯一無二で比類なき」の別表現をminoriなりにしたもの、と考えていただければ、です。

    そして、minoriを例としていえば、その眼球から広がって見えている世界の様々と感覚器官を通じて交流したり経験して生活している、と考えています。
    カントの認識論でいうと「現象」の世界ですね、時間・空間の枠を通して世界を認識しているし、また、カテゴリー分けされた世界を生きるの一員です。
    (この部分について、パニチェさんも似通った認識をされているのか否かについては、今は不明です。)

    > 知識としてのアドヴァイタや事事無礙として上記は理解できますが、直接経験としては合点がいかない、あるいはそこまで至っていないといったところです。

    私もいわゆるアドヴァイタ体験の大きなもの、というのは経験していないですよ。
    なんか・・あれ?っていうようなのはありましたけど、その体験によって世界観が一変したというような体験をしてはいません。
    基本的には、静かに瞑想することと、気づきを意識的に保つこと(マインドフルネスのように)、ダイレクトパスという手法について書かれた本を読み実際に考察する、というようなことを通じ、「気づき」はどうやら身体に閉じ込められたものではない、というのを理解しつつあるという感じです。
    ですので、確信しているわけではないです。

    方法、道は、人によっての相性ですので、縁あって出会い、いいなと感じたものが選ばれていくわけで、興味を引かなければ無理に知る必要もないのだろうな、と思います。
    私は最初は、原始仏教が実直まじめそうでこれがいいに違いない、と思ったのですが、私には合わないことにしばらくして気づきました。

    >>山下さんは、もっと深い体験を求めてミャンマーでしたっけ、に修行に行き、普通の生活をしていては体験できないような体験をされ、それをもとに山下さんの3.0
    >>を考えられたのだと思います。
    >
    > そうだと思います。

    山下さんご自身は、修行されて、深くかつ明晰な意識状態においての体験を通じ、世界観が一変されたのだと想像するのですが、誰しもがそのような体験をするのは不可能です。
    ですので、minori自身が考えるには・・・山下さんのされた体験というのはとても特異なもの(我々、してない人からすれば)で、それは一種、手の届きようもないXとでもしておくしかないようなものだと思うんですね。
    ですから、それに憧れたり、同じ体験を願ったりしてもしかたないわけで・・。

    しかし。第四図という言葉をお借りすれば・・、その第四図として見えている世界(マッハ的光景、あるいはカントだと「現象」はそれに当たりますよね。それらが良い、悪い、高い、低い というような価値判断を離れて。)ではない世界の観方というのはどうなのだろう、という好奇心は捨てきれないものがあります。
    生きる苦悩という意味においては、「究極においてはそれと共にある」しかないのだ(完全に無くすなんて無謀)とわかったので、どうにかしようとは思ってないのですが、知的好奇心は消えないです。。。

    パニチェさんは、〈私〉についての探究は、ライフホビーとおっしゃっていましたが、それはやはり知的好奇心から発生するものですか?
    それとも、それ+抜苦というような意味合いもあるのですか?

    だらだら長くなってしまいすみません。
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■6948 / )  将棋界
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/22(Tue) 05:31:50)
    おはようございます。

    豊島竜王が永瀬叡王を破り叡王奪取、2冠となりました。羽生九段は竜王戦の挑戦者となり、タイトル通算100期をかけ豊島竜王に挑戦します。
    豊島竜王は勿論強いのですが、あの藤井2冠が5戦全敗しているのです。それじゃ豊島2冠がダントツに強いのかというと、昨日終わった叡王戦は4勝3敗2持将棋(引き分け)という接戦の末の奪取なので実力拮抗ということでしょう。

    先日羽生九段が藤井2冠のことを自分の若い頃と比較して語っていました。
    「直球勝負なら互角だと思うけれど球種の多さで敵わない」
    因みに藤井2冠は対羽生戦4戦全勝です。

    藤井2冠が最近自作PCを作ったのですがそれに使用したCPUの値段は約50万円、一般のPCのCPUは2〜3万円だそうです。専門家の話によると処理能力が30倍になるそうです(一般CPUが1秒間に200万手、それに対して6000万手読める)。将棋は1局平均120手位ですから6000万手というのは50万局に相当します(1秒間で!)。もう感想が言えるレベルじゃないです。

    哲学の研究にはコンピューターってどのように使われているでしょう?





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■6947 / )  たーぼーさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/21(Mon) 21:38:26)
    こんばんは

    > 夢を見ない熟睡状態を厳格に捉えるとは、心解脱か慧解脱の違いではないでしょうか?
    > 私は慧解脱は静寂ではあるけど、全く想念がなくなった状態ではなく微弱な想念が時々起こる状態だと思います。

    個人的には心解脱と慧解脱の違いがよくわからないのですが、たーぼーさんの解説のとおりもしれません。

    > 仏陀は間違いなく入るでしょうね。
    > 最近、法華経読んでから原始仏教の方便が分かりました。

    どういうことでしょうか。

    > 仏陀というのは凄い懐深いなぁと思います。
    > ただ仏陀というのを歴史的に実在した人と捉えるか、
    > knowing itselfさんが言われる物自体と捉えるか二通りあるように思います。
    > 法華経は仏陀を物自体(空)と捉えてますね。

    カントの物自体はぶっちゃけていえば神ですから、キリスト教を仏教に置き換えれば、法華経の最高存在が物自体となるのもありだと思います。わたしは、歴史的に実在した人間が空そのものでもあったという二重構造を身をもって生きたのが仏陀だと考えています。


    > https://www.engakuji.or.jp/blog/32227/
    > 昨日書いた牛十図をお書きになった円覚寺管長の横田さんと藤田さんの対談です。
    > 冒頭、ここには大物は呼ばないつもりだったと横田さんが言ってて意味分からなかったんだけど、やっと分かりました。
    > 主体を宇宙全体まで拡大するんでしょうか。

    宇宙全体は巨大にみえても物自体に触発されて人間が認識する現象であって、宇宙の本体は物自体ですね。人間は主体として物自体の住人なので、拡大するまでもなく宇宙の主人だということでしょう。山下良道さん的な仏教3・0はそういうことだと思います。


    > 途方もない話ですね。
    > そうすると大乗非仏説になるわけか。
    > どうしても座禅してもそこまでいかないのは、日常でやれんようでは厳しいのだと思う。
    > 無ー無いいながら仕事するわけにはいかないでしょうから。
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■6946 / )  研究対象
□投稿者/ アートポット -(2020/09/21(Mon) 21:18:45)
    五年くらい前に、ツイッター上の哲学の師匠に言われた言葉

    悪口っていうのは、自分の中に数パーセントでも似たような感情
    があるから言うのであって、
    本当に理解できない人間に出会ったら悪口など言わず研究対象になる

    ((( ;゚Д゚))) 深いにょ
返信/引用返信 削除キー/

■6945 / )  Re[39]: 欲
□投稿者/ ななし -(2020/09/21(Mon) 20:58:27)
    パニチェさん、何度もすみません。

    そうですか、Uは余り期待できないということですね。

    自分としては、三人の議論の中で、永井さんは、仏教がつまらないというのに引っ掛かりました。

    「複雑そうに見える( が 実は つまらない)仏教の諸教説」だとして「無我」を
    あげていますが、これって自分としては、お釈迦さまの慈悲心を本当に考えているのかな?と思いました。

    そのままでいたら、だれも「無我」だとは気づかずに様々な煩悩に執着して、
    ままならない苦しみに陥っていた訳ですし、般若心経でも、観音様は、私たちの心と体の働きである「五蘊(物質である体・肉体を意味する、色、心・精神、考えるプロセスを細かく分類した受・想・行・識の5つ)」を「空」だと見ることで、様々な苦しみを救われたのですから。

    この本は、何か、本来の苦からの救済の視点が欠けているような気がしました。
返信/引用返信 削除キー/

■6944 / )  Re[54]: 主客の彼岸
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 20:46:54)
    No6937に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > 〈脳科学〉参考もいいけど、結局これ外から見ているだけ。言いかえると「客観的」見方を参考にするっていう方針ないし手段ないし信念。

    その通り。意識や〈私〉を探究するひとつの手段。

    外部観察(客観的=俯瞰的視点)と内部監察(内観や主観的観察)には深くて遠い溝があるけど、双方向のアプローチはしないよりした方がいいという程度。

    意識の難問(物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験というものが生まれるのか)は主として脳科学の領域で、意識の超難問(なぜわたしはわたしなのか)は西洋&東洋哲学が主なフィールド。

    この二つの難問はかぶるところもあり、むしろジャンルを超越したブレイクスルーが必要な気もする。
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■6943 / )  Re[39]: 欲
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 20:34:21)
    こんばんは、ななしさん。レスありがとうございます。

    No6942に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん、レスありがとうございます。
    > 「〈仏教3.0〉を哲学する」は、最初に出版された方です。
    > 今度、Uを読んでみたいと思いますが、お勧めな点は、どこでしょうか。

    独断的ですが正直な感想を述べますね。
    私はUはお薦めしません。
    何らかの発展や新たな視点や切り口が提示されているとは思えなかったので。

    > 永井先生は〈私〉の語りえなさを「累進構造」によって説明しています。
    > 世界には沢山の人がいて、それぞれが自分だけが「私」だと思っているけども、
    > 何かを見たり痛みを感じたりする本当の自分は〈私〉だけ。
    > 〈私〉とは唯一無二の、比類の無い存在なのだと。
    > 「〈仏教3.0〉を哲学する」では、その辺がすべて省略したことが書かれていました。

    〈私〉の方に興味がおありなら、永井均著「〈私〉の存在の比類なさ」をお薦めします。

    > あと、本当に〈仏教3.0〉にバージョンアップをさせているのか疑問ではありました。もっと、実際に役立つような議論が欲しかったです。

    あの書籍だけで判断するのは少し酷な気もします。^^
返信/引用返信 削除キー/

■6942 / )  Re[38]: 欲
□投稿者/ ななし -(2020/09/21(Mon) 20:08:08)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    「〈仏教3.0〉を哲学する」は、最初に出版された方です。
    今度、Uを読んでみたいと思いますが、お勧めな点は、どこでしょうか。

    永井先生は〈私〉の語りえなさを「累進構造」によって説明しています。
    世界には沢山の人がいて、それぞれが自分だけが「私」だと思っているけども、
    何かを見たり痛みを感じたりする本当の自分は〈私〉だけ。

    〈私〉とは唯一無二の、比類の無い存在なのだと。

    「〈仏教3.0〉を哲学する」では、その辺がすべて省略したことが書かれていました。

    あと、本当に〈仏教3.0〉にバージョンアップをさせているのか疑問ではありました。もっと、実際に役立つような議論が欲しかったです。

返信/引用返信 削除キー/

■6941 / )  Re[38]: 欲
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 20:01:56)
    2020/09/21(Mon) 20:21:49 編集(投稿者)

    No6940に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 食欲、性欲っていうの、仏の教えではどう見ているのかしら?

    苦を生じさせる、または増幅させるような、とめどない飽食煖衣とか、見境のない性欲は煩悩として滅却していくものやと教えられるやろね。

    密教の仏典「理趣経」とかは男女の和合は悟りの境地という教義もあるよ。

    先輩である最澄が後輩である空海に頭を下げて頼まれても空海は貸し出しを断った。

    密教の奥義を知らずして理趣経を読む弊害を考えてたらしい。

    その後、二人の交流はなくなったとか。
返信/引用返信 削除キー/

■6940 / )  Re[37]: 欲
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/21(Mon) 19:30:16)
    食欲、性欲っていうの、仏の教えではどう見ているのかしら?
返信/引用返信 削除キー/

■6939 / )  カニッツァの三角形
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 19:28:45)
    2020/09/21(Mon) 19:35:40 編集(投稿者)

    No6938に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■6908、カニッツァの三角形
    > んん〜、そう言われれば、二つの三角形”見える”よね。
    > でも黒塗りの角がない丸はなんか違和感ある。

    > パニチェさんのいう〈私〉、無色透明の三角形をいってるんだとおもうけど、
    > 白色の紙の上に白色で三角形を描いた人が、ここに三角形がある、って言っているようなもんじゃない?
    > わたし、白色の紙の上にカニッツァが白色で描いた紙を見させられてもそこに三角形見えないと思う。もっとも、彼は三角形を描いてない。

    > 描かれていないて三角形が”見える”っていうのは、知覚の問題であって、先入見の問題以外ないんじゃないの?」

    あれな比喩やねん。

    〈私〉は直接言葉にでけへんけど、〈私〉の周辺で言葉にできそうなところを言葉にしていくと言葉にできない〈私〉が浮かび上がるやろ、それがカニッツァの三角形みたいな構図ってこと。

    ウィトゲンシュタインを読んだ時にそう思ってん。
    「語りえないことについては沈黙しなければならない」は有名やけど、ウィトゲンシュタインは語り得ることろを語って、間接的に語り得ないところを指し示しているってね。

    帰謬法なんかもある意味では同じ手法かな。
    中論とかね。
返信/引用返信 削除キー/

■6938 / )  Re[16]: 〈私〉
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/21(Mon) 19:16:38)
    ■6908、カニッツァの三角形
    んん〜、そう言われれば、二つの三角形”見える”よね。
    でも黒塗りの角がない丸はなんか違和感ある。

    パニチェさんのいう〈私〉、無色透明の三角形をいってるんだとおもうけど、
    白色の紙の上に白色で三角形を描いた人が、ここに三角形がある、って言っているようなもんじゃない?
    わたし、白色の紙の上にカニッツァが白色で描いた紙を見させられてもそこに三角形見えないと思う。もっとも、彼は三角形を描いてない。

    描かれていない三角形が”見える”っていうのは、知覚の問題であって、先入見の問題以外ないんじゃないの?」
返信/引用返信 削除キー/

■6937 / )  Re[53]: 主客の彼岸
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/21(Mon) 18:36:49)
    第四図、第五図、なぜか太陽図の中に「金」「幸」「富」、ギザギザの中に「貧乏」「不幸」っていう語が書かれてある。
    これ、もう培養人間の絵としか思えないんだけど、わたし。
    こんな人のは「客観図」でしかない。

    仏の教え?キリストの教え?何それ?「わたし」を外から見てるだけじゃない。

    自殺についてのわたしの問いは、
    どういう精神状態になったら自殺することができるの?
    っていうこと。

    死にたい、って思ったけど死ねなかった人。
    死にたいって思ったけど、結局自殺しなかった理由を後からいろいろ述べても、実際自殺した人のじゃない。

    〈脳科学〉参考もいいけど、結局これ外から見ているだけ。言いかえると「客観的」見方を参考にするっていう方針ないし手段ないし信念。





返信/引用返信 削除キー/

■6936 / )  Re[36]: 〈仏教3.0〉を哲学すると無我
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 17:40:49)
    No6930に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん、私も読みました。

    あ、そうですか。バージョンUもありますが最初に出版された方でしょうか。

    > ただ、この本は、もちろん瞑想法に基づいたことでしょうが、根幹は、「正見」の「無我」からスタートしないといけないなと思いました。
    > ここがブレると肝心のものが掴みそこなうと思いました。

    正見って八正道の最終目的という説もありますから、正見で始まり正見で終わるというのもあるんでしょうね。

    > ますます、物事が予定説や因果律の決定論的に見えてきて、「ドゥフカ」ままならないこと「苦」というものが見えた気がします。
    > 「無我」や「空」は、どちらも仏様が慈悲心で人々に示された慈悲の言葉です。
    > 囚われの自分から「青空としてのわたし」に気づくことなのだと思います。
    > 思索と実践を繰り返して見えない自分が見えてくるようなものでしょうか。
    > 「比類なき私」が既に「無我」であるとする永井さんの独特の独我論は、ある意味、大変、分かりやすいです。
    > クリスチャンでも祈りが祈りになるためには、無我のこの場所に立たないといけないかもしれませんね。

    パニチェの「比類なき先言の<私>」というのは永井均氏とは全く別個に幼い頃から探究してきたテーマで、たまたま永井氏やウィトゲンシュタインも同じテーマを探究しているということをYahoo!掲示板時代にある方から教わりました。
    そんな物好きな人が自分以外にもいるんだとビックリしましたが。。。
    上記の書籍も含めて永井均氏の著書は10冊以上読んでいますが、未だに私は探究中です。

    「〈仏教3.0〉を哲学する」関連で言うと無我と〈私〉の整合性は全くとれておらず、距離が縮まっているのか遠ざかっているのかさえ分からない状況です。
    この書籍は同意できるところと、疑義や反論したいところが半々といったところです。^^

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■6935 / )  Re[52]: お彼岸に想う
□投稿者/ pipit -(2020/09/21(Mon) 17:36:56)
    みのりさん、ありがとう〜 (o^^o)

    息子さん、お墓まいり行ってくれて、やさしいですね!
返信/引用返信 削除キー/

■6934 / )  Re[15]: knowing itselfさん
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/21(Mon) 17:28:08)
    No6914に返信(knowing itselfさんの記事)
    knowing itselfさん、こんにちわ。


    > あくまでわたしが理解している範囲で大雑把なことしかいえませんが、涅槃そのものは夢をみない熟睡だと思います。ただこの夢をみない熟睡状態を厳格に捉えるか、果たして誰が入ったかの理解でいろんな立場がある。どの仏教でも釈迦は入りますね。後は?本当の意味では阿羅漢でもまだという立場もありえますが、それだけとメチャメチャ厳しい。これが仏教2・0だと理解しています。


    夢を見ない熟睡状態を厳格に捉えるとは、心解脱か慧解脱の違いではないでしょうか?
    私は慧解脱は静寂ではあるけど、全く想念がなくなった状態ではなく微弱な想念が時々起こる状態だと思います。
    仏陀は間違いなく入るでしょうね。
    最近、法華経読んでから原始仏教の方便が分かりました。
    仏陀というのは凄い懐深いなぁと思います。
    ただ仏陀というのを歴史的に実在した人と捉えるか、
    knowing itselfさんが言われる物自体と捉えるか二通りあるように思います。
    法華経は仏陀を物自体(空)と捉えてますね。


    > 大乗仏教は、その同じ涅槃に入る主体を極限まで拡大する立場だと思います。仏教1・0とは、涅槃の内容をレベルダウンさせて、風化させて、誰でも悟っていることにする、無内容な形式仏教という意味で使われる場合と、昭和以前の伝統的な日本大乗仏教という意味で使われる場合と、分かれるようでもあります。曖昧な用語ですね。藤田さんが1・0だと思うと評したのは後者の意味で、彼は真の大乗仏教精神を体現された稀有の人だと思います。

    https://www.engakuji.or.jp/blog/32227/
    昨日書いた牛十図をお書きになった円覚寺管長の横田さんと藤田さんの対談です。
    冒頭、ここには大物は呼ばないつもりだったと横田さんが言ってて意味分からなかったんだけど、やっと分かりました。
    主体を宇宙全体まで拡大するんでしょうか。
    途方もない話ですね。
    そうすると大乗非仏説になるわけか。
    どうしても座禅してもそこまでいかないのは、日常でやれんようでは厳しいのだと思う。
    無ー無いいながら仕事するわけにはいかないでしょうから。
返信/引用返信 削除キー/

■6933 / )  Re[48]: 意識と無意識
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 17:20:18)
    こんにちは、minoriさん。レスありがとうございます。

    No6920に返信(minoriさんの記事)

    > 理解力、思考力が続くうちに(今もあまりないけど  ´艸`)、ヴィトゲンシュタインの入門書をそのうち読めたらいいな、と思ったことがあります。

    独我論や〈私〉を絡めるなら永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」がお薦めです。
    一般的な解説書なら鬼界彰夫著「ウィトゲンシュタインはこう考えた」でしょうか。
    野矢茂樹氏や入不二基義氏も有名ですね。

    > 脳は必要に応じて自動的に活動する部位を発火させている、んですね。
    > 若い女性と老婆の二通りに見える絵、ってありますよね。
    > ああいうのが浮かびました。 フッサールの現象学を少しネットで調べてたら出てきて、以前もその図は見たことあって、その時は、若い女性と老婆の両方を確認できたのに、最近見たその時には、若い女性しか確認できなかったんです。。
    > 頭の中が老婆になってるからかも。(笑)

    経験や体験も一長一短ありますね。
    応用の幅は広かる反面、ものの見方が固定的というか、先入見によって限定的となり柔軟性を失ったり。

    > 人間の意識というのは果てしないというか謎ですね。

    同意です。〈私〉も含めて最も身近であるにもかかわらず最も不可思議。
    100光年先の天体より未知の領域が大かもしれませんね。

    > 信仰の始まりというのは、安心感を得たいからという理由である場合ってけっこうあるのでは、と思うんですね。
    > 委ねて安心する、ということ。 しかし、ある時、「最初から委ねていたのだ、どうしたって委ねていた、それしかなかった」がわかるのだと思うんですね。
    > 仏の家に投げ入れてたんだ(自らそうしようとしなくても既にそうだった)、ってことでもあるのかな、と。
    > このあたりはあくまで私見です。

    同意です。浄土系の教えは上記に近いですね。

    > 愚さんは、喜んでもらえることが喜び というのもあるように感じるんですね。
    > 人様の心中を想像しては失礼なのですが、動画やコメントを拝見するとそのように感じます。

    同意です。

    > ツァラトゥストラの貼っていただいた文章では、語っている人(主人公)は、太陽を讃えているのだというのはわかるのですが、自身も太陽になっちゃってるという感じなのですか?
    > 無知の解釈ですみません。 

    とんでもないです。^^
    太陽が自分に対してそうであったように、今度は自分も太陽のように人々に贈与し分与する側になろうと決心し、山籠もりを解いて人々の住むところへ下山(下る=没落と表現します)しようという意思表明だと思います。

    > それにしてもニーチェの「圧」はすごい。。

    ですね。^^

返信/引用返信 削除キー/

■6932 / )  お彼岸に想う
□投稿者/ minori -(2020/09/21(Mon) 17:03:27)
    pipitさんのご家族やおじいちゃん、おばあちゃん、お母さん・・・
    みんな優しい人なんだろうな(だったんだろうな)って思います。

    私も昨日は息子と、亡き父のお墓参りしてきました。
    父はアルコール依存症ぎみで、勝気だった私はよく喧嘩してたんだけど、孫はとても可愛がってくれました。

返信/引用返信 削除キー/

■6931 / )  お帰りなさい、無縁さん
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 16:41:11)
    No6925に返信( muennbotokesabuさんの記事)
    > >>亀より遅い歩み(笑)

    > スピードアップしてカタツムリくらいになりました。

    ははは。

    私は亀なくせに寄り道と浮気ばかりで進んでいません。

    (´・ω・`) ショボ〜ン
返信/引用返信 削除キー/

■6930 / )  〈仏教3.0〉を哲学すると無我
□投稿者/ ななし -(2020/09/21(Mon) 16:28:34)
    パニチェさん、私も読みました。

    ただ、この本は、もちろん瞑想法に基づいたことでしょうが、根幹は、「正見」の「無我」からスタートしないといけないなと思いました。

    ここがブレると肝心のものが掴みそこなうと思いました。

    ますます、物事が予定説や因果律の決定論的に見えてきて、「ドゥフカ」ままならないこと「苦」というものが見えた気がします。

    「無我」や「空」は、どちらも仏様が慈悲心で人々に示された慈悲の言葉です。

    囚われの自分から「青空としてのわたし」に気づくことなのだと思います。

    思索と実践を繰り返して見えない自分が見えてくるようなものでしょうか。

    「比類なき私」が既に「無我」であるとする永井さんの独特の独我論は、ある意味、大変、分かりやすいです。

    クリスチャンでも祈りが祈りになるためには、無我のこの場所に立たないといけないかもしれませんね。





返信/引用返信 削除キー/

■6929 / )  Re[50]: 会ったことないおじいちゃん
□投稿者/ pipit -(2020/09/21(Mon) 16:03:38)
    たまたま、今日は、敬老の日だった。

    おじいちゃん、ありがとう。おつかれさま。きっと、会えたら、大好きだったと思うよ。
返信/引用返信 削除キー/

■6928 / )  会ったことないおじいちゃん
□投稿者/ pipit -(2020/09/21(Mon) 16:01:59)
    母の父が自殺して亡くなったそうです。
    母は4人兄弟で、母が小学校高学年の時だったと記憶してます。
    詳細は知りませんが、
    おばあちゃんは、女手一つで、子供全員高校まで卒業させて、1人は専門学校、1人は短大にも行かせてもらったそうです。

    おばあちゃん、がんばったね。

    おじいちゃんのことを責めるような言葉は、母からは、聞いた覚えがありません。
    おばあちゃんからは、おじいちゃんの話題そのものを聞いたことありません。

    理由は、人それぞれでしょう。

    何かの苦しみから、もう、逃げたかったのでしょう





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■6927 / )  本来の流れへ
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/21(Mon) 12:28:45)
    18.農業革命 1万年前 国の爆誕 区画整理→幾何学→数字の始まり
    19.黄河文明 紀元前7千年→象形文字
    20.メソポタミア文明 紀元前6千年→楔型文字
    21.エジプト文明 紀元前4200年→ヒロエグリフ→借尺→鳥類の文法
    22.インダス文明 紀元前2600年



    23.ユダヤ教 紀元前1280年
    24.仏教発祥、アテネ民主政治開始 紀元前600年
    25 古代の哲学:ピタゴラス「自然哲学」、ソクラテス→プラトン→アリストテレス



    26 1世紀 キリスト教・コロッセオ(医療のはじまり→精神って何?)
    27 2世紀 プトレマイオス「天動説」、パクスロマーナ時代
    28 3世紀 ローマ帝国「3世紀の危機」
    29 4世紀 ヤマト王権(空白の4世紀)・ゲルマン民族大移動
    30 5世紀 仏教日本伝来
    31 6世紀 達磨大師・遣隋使派遣
    32 7世紀 イスラム教・遣唐使
    33 8世紀 カール皇帝「神聖ローマ皇帝」
    34 9世紀 バイキング時代(ステレオタイプ)
    35 10世紀 
    36 11世紀 武者の世の到来(日本)
    37 12世紀 

    38. 13世紀 BC1201〜
    @ 環境:モンゴル帝国 … 火薬・騎馬兵(馬)・イギリス(マグナ・カルタ憲法!)
    C 天文学・神学:教皇最盛期・トマスアキュナス
    E 科学:火薬
    F 日本:鎌倉時代・禅宗到来

    39. 14世紀 BC1301〜
    @ 環境:ペスト大流行
    A 美術:ルネサンス(文芸復興)
    B 文学:ダンテ
    D 日本:鎌倉、室町・アイヌ

    40.15世紀 BC1401〜
    @ 環境:ローマ帝国滅亡(中世の終わり)
    A 美術:レオナルドダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェリ
    C 天文学・神学:コペルニクス「地動説」
    F 日本:アイヌ・琉球国


    パニチェ殿と仲直りし、人間の進化と宗教の関係を紐解きたいと思います。
    以上のヒストリーが私にとっては、謎の部分です。
    年数にして11500年、人口増加は顕著にみられない。結構な年数

    文明といったら川であり、生命には水が大事である。
    その川から水路をつくり灌漑農業を行った。
    現代の言う所の、アクアリウム的なことも行っていた。
    線路のようだ。
    東京の何が凄いのかというと徳川家康の能力だが、
    現代では空港が「入り口」とみても良い。
    日本の窓口、空港。昔は港だったか。そこから物や文化が流入してくる。
    世界が波動でできているのなら、入口があって出口に到達するのだが、
    この日本に出口はない、
    むしろ、逆輸入のような反動があるかもしれない。

    「入口」、私の入口はどこだろうか?
    五感であることは確かである、食物(エネルギー)を入れる食道の口腔、
    じゃ、私の意識の入口はどこか?

    ★ 野蛮人 ★

    文明の対義は野蛮である。
    私は野蛮の方がしっくりくる、ましてや、文明人の方が何なのか?

    野蛮(未開)か…、無知、上流階級と下流階級

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■6926 / )  哲学イベント
□投稿者/ muennbotokesabu -(2020/09/21(Mon) 11:42:13)
    気軽に参加できるのは東浩紀のゲンロンカフェ。
    酔っ払って大荒れになったりコメントでバトルが始まったりする。
    俺はあいつを許せない・・・みたいな話で10時間やったことも。

    代官山蔦谷書店や本屋B&Bは店舗でやる場合作家に直接聞ける。
    目の前で聞くインパクトは大きい。
    李琴峰さんのイベントでは道に迷った李さんと店を探した。

    いろいろおもろいよ。

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■6925 / )  Re[16]: 表現と介入
□投稿者/ muennbotokesabu -(2020/09/21(Mon) 11:34:47)
    >>亀より遅い歩み(笑)

    スピードアップしてカタツムリくらいになりました。
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■6924 / )  Re[15]: 表現と介入
□投稿者/ muennbotokesabu -(2020/09/21(Mon) 11:31:00)
    No6209に返信(パニチェさんの記事)
    > 現在、P.143
    >
    > 亀より遅い歩み(笑)
返信/引用返信 削除キー/

■6923 / )  Zoomイベント
□投稿者/ 無縁仏三郎 -(2020/09/21(Mon) 11:29:19)
    見ながらの聞き取り

    ・スピノザはOSが違う
    ・ライプニッツとスピノザの間がヘーゲル
    ・ドゥルーズの一歩前はヘーゲル
    ・哲学は本性的に政治哲学である
    ・政治哲学以外はない
    ・現象学や分析哲学も実は政治哲学である
    ・現代日本で哲学は消えつつある
    ・大学に必要なのは「出エジプト」
    ・近代哲学は18世紀以降大学と結びついた
    ・哲学の絶対的脱属領化への道
    ・中国思想はあるが中国哲学はない
    ・「哲学」は固有名詞
    ・インド哲学やアラビア哲学は前哲学的なもの
    ・哲学は無神論・西田幾多郎をスピノザとして読む
    ・ドゥルーズ、ガタリ、ドゥルーズ=ガタリは分ける
    ・フーコーはきちんと読まれていない
    ・今回の近藤先生の本は未来形式へのステップ
    ・カヴァイエスの「論理学と学知の理論」は遺言
    ・ドゥルーズにおける自由間接話法とフローベール
    ・デリダの脱構築は真似できるがドゥルーズは真似できない
    ・スピノザの民主主義は我々の知らない民主主義
    ・ドゥルーズは民主主義者か?
    ・「アベセデール」における脳の話
    ・ファンクション、質の保存、俯瞰
    ・脳における脱領土化とベルクソン
    ・脳の中での哲学の発生
    ・クオリアではなく細胞の段階で質の保存は起こる
    ・俯瞰と直観は違う
    ・内在平面を俯瞰
    ・細胞レベルでの俯瞰とスピノザ
    ・単細胞にも俯瞰は含まれる
    ・科学は脳のアスペクト
    ・科学でわかることに関してはわかる
    ・科学の還元主義だけで世界は組み尽くせない
    ・言葉の剰余性と無限背信
    ・人文科学の危機
    ・内在平面それ自体の中に内在平面が層になっている
    ・人権はジョン・ロックが作ったもの
    ・抽象的な「人権」で具体性から離れることへの批判
    ・ドゥルーズは人権を批判したと単純にとらえてはいけない
    ・内在平面と抽象機械
    ・人権概念、紙幣、多様体は抽象機械か
    ・座標平面上の指示、ファンクションと抽象機械
    ・戦争機械と抽象機械の関係

    『ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する――内在の哲学試論』(講談社)
    刊行記念トークイベント
    近藤和敬×國分功一郎
    「哲学の「未来形式」のために」代官山蔦屋書店 9月19日(土)19:30
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■6922 / )  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/21(Mon) 10:32:46)
    横レスで失礼します。 書いてみたくなったのでそうしますが、返信はお気遣いなく。^^

    > 自殺した人はどうして自殺したの?、っていうことが、わたしの問題。
    > 自殺っていうの、精神が身体を殺す、っていまのところ見てます。
    > ふつう精神がおかしくなっちゃたから、っていうけど、どのようにおかしくなっちゃてるから?っていう問い。
    >
    > 身体を自分の力で動かすことができない人は自殺することはできない。
    > もともと精神に不具合がある人は自殺するのかしら?
    > いわゆるふつうの精神だった人の精神がどうにかなって自殺しちゃうんじゃないかしら?
    >
    > なんていろいろ考えてる。

    自殺したくなってしまう原因というのは様々で、一つに絞り切れはしないようには思います。
    その人の性格や精神力の強弱、人生においての経験値(世間に慣れてるか否かみたいな)が関係すると思うし、また、どういうものと出会うか(出会う人、環境)によっては、強靭な精神力の人でも死にたくなるかもしれません。

    私が思うには・・・。嫌なこと苦しいことと、楽しい嬉しいことの両方が生きてれば起きてくるけれど、苦のほうが圧倒的に楽より多いと感じてしまった時、その人は生きることが苦痛になり死を選んでしまうのかな、と。


    > 自殺することはよくないことだ。ってすると、自殺してしまった人はよくないことをしてしまった人。っていうことになる?

    そのあたりは、人によって解釈が違うのでは。


    > 自殺した人の魂がどうなるかを、神、仏はなんか言ってるのかしら。

    神、仏は直接には何も言わないけど(いるかいないかそもそもわからないし)、神仏の言葉を伝える書(聖書とか仏典)には、そのあたりをほのめかす記述があるかもですね。
    私はそのあたりあまり興味がなく知らないんだけど。


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■6921 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/21(Mon) 10:18:29)
    純理トピからパニチェさんのトピに、コピーしていただいての返信をありがとうございます。
    私も可能であれば、別のどこか(パニチェさんか私のここのトピ)で、それについては続けるとしたらそうしたほうがいいように感じましたので、ありがたく思います。
    後日また、そちらにレスさせていただきますね。
返信/引用返信 削除キー/

■6920 / )  Re[47]: 意識と無意識
□投稿者/ minori -(2020/09/21(Mon) 10:15:39)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>禅の公案も正解は一つだけに限定されているものではなく、おおよその正解らしさの方向性はありながらも、その人がナマの命としてどう表現するか、を見られるものなのかな、とか、ふと浮かびました。
    >
    > ほんとその通りだと思います。公案の目的は悟りへの誘導ですから、それを妨げるような回答は否定されますが、数学みたいに正解はひとつではないはずです。

    はい。公案、おもしろいなと思うものもありますが、難しいです。
    とはいっても真剣に取り組んだというのではなく、興味本位で考えてみたりしただけですが・・・。

    >>〈私〉を言語化しようとすると、完全には無理なのである意味、妥協したところでの表現をしているのだな、と考えると、おもしろいです。
    >
    > 同感です。言葉は便利ですが、その反面、ある意味で私たちは言葉に依存し過ぎていて振り回されているところもあるんでしょうね。

    理解力、思考力が続くうちに(今もあまりないけど  ´艸`)、ヴィトゲンシュタインの入門書をそのうち読めたらいいな、と思ったことがあります。

    >>パニチェさんは、その分野にもお詳しくいろいろと書かれていますよね。
    >>私には難しくてわからない部分が多いです。
    >>ただ、意識って脳だけに収まっているものなのだろうか、というのは考えます。
    >>パニチェさんは、意識のありかについてはどのようにお考えですか?
    >>もしよかったら簡単にでいいですので教えてください。
    >
    > 無意識も含めれば身体性全体だと思います。
    > 言葉によって器官とか臓器ってバラバラに認識されがちですが人体ってそもそも分離できない全体性、部分の寄せ集め以上の機能を有するゲシュタルト構造なんだと思います。

    はい、同意です。

    > 脳や神経系は身体全体であり、例えば私たちのような脳を持たないアメフラシのような生物にも学習能力があることは確認されています。

    はい。

    > 意識よりも無意識の方がはるかに広大で、意識と無意識も線引きできるようなものではなく、色彩のグラデーションの如く無意識から意識的活動になるのだと思います。

    ああ、なるほど。そうなんだろうな、と思います。

    > 脳科学的には以下のように説明されています。
    >
    > 『意識のもとはガンマ波だと強く主張しているは、DNAの螺旋構造を発見してノーベル賞を共同受賞した生物学者のフランシス・クリックと、同僚のクリストフ・コッホである。数多くの実験で確認されているが、被験者が意識を伴った経験を報告するとき、その脳ではかならず40ヘルツの活動が検知される。しかも40ヘルツの活動が起こる領域は、意識的なその経験に関係あると思われる領域と重なっているのだ。通常の注意状態──完全に目が覚めていて、いまどういう状況にあるかを自覚しているが、特定の何かに意識が集中しているわけではない──では、神経細胞が40ヘルツの速さで発火する領域がたくさんある。ところが、ひとつのことに注意が向くと、全体的な発火頻度は落ちて、対象に関係が深い領域だけ40ヘルツを保つ。たとえば暗闇で道に迷ったときに草むらで物音が聞こえたら、五感で情報を拾う領域だけ40ヘルツで発火するが、それ以外の場所は15〜30ヘルツと静かになる。どうやら40ヘルツという発火頻度は、脳が積極的に「使われている」状態であり、それ以外の場所はオフラインになっているらしい。そうすると、脳が40ヘルツで活動することが意識的な経験だと考えたくなる。・・・しかし当然のことながら、やはり話はそう単純ではない。・・・40ヘルツの脳波は、麻酔で眠っている人間にも確認されている。・・・麻酔をかけた患者にロビンソン・クルーソーとフライデーの物語をテープで聞かせて、脳波を調べた実験がある。すると一部の患者に40ヘルツの脳波が見られた。・・・この脳波が出た患者だけは、テープで聞いた話を「取りこんで」いることがわかった。ただし物語の意識的な記憶が意識上にあるわけではない。「フライデー」という言葉から何を連想するかと聞かれて、「ロビンソン・クルーソー」と答えていただけである。40ヘルツの脳波が記録されなかった患者からは、この名前は出てこなかった。記憶は潜在的なもので、本人はそのことを意識していないが、実際の行動には影響を及ぼした。(原書房刊 リタ・カーター著 養老孟司監修 『脳と意識の地形図』より引用)』
    >
    > ニューロンの発火がある一定範囲以上になった時に後付けで意識的な活動になるということですね。
    > 脳や身体性は敏感(可塑的)で外部刺激にすぐ反応します。

    脳は必要に応じて自動的に活動する部位を発火させている、んですね。
    若い女性と老婆の二通りに見える絵、ってありますよね。
    ああいうのが浮かびました。 フッサールの現象学を少しネットで調べてたら出てきて、以前もその図は見たことあって、その時は、若い女性と老婆の両方を確認できたのに、最近見たその時には、若い女性しか確認できなかったんです。。
    頭の中が老婆になってるからかも。(笑)

    全身麻酔下での40ヘルツの脳波と、麻酔下でも一部の人には記憶能力が発生しているという話も興味深いですね。

    人間の意識というのは果てしないというか謎ですね。

    > 言われてみれば、ほんとそうですね。
    > あと返信する際に思い浮かんだんだのですが、浄土門は難しい話(教義)を抜きにして人格神信仰に近いところもありますから、「唯我独尊」を額面通りに解釈しても信仰対象とすることに安心感は得られる言葉かもしれません。

    信仰の始まりというのは、安心感を得たいからという理由である場合ってけっこうあるのでは、と思うんですね。
    委ねて安心する、ということ。 しかし、ある時、「最初から委ねていたのだ、どうしたって委ねていた、それしかなかった」がわかるのだと思うんですね。
    仏の家に投げ入れてたんだ(自らそうしようとしなくても既にそうだった)、ってことでもあるのかな、と。
    このあたりはあくまで私見です。

    > 利他行を苦もなくこなしている人(菩薩)を見るとツァラトゥストラの次の言葉が浮かびます。
    >
    > 『そして或る朝、彼は曙光とともに起きて、太陽の前に歩み寄り、太陽に向かって次のように語った。「おまえ、大いなる天体よ!もしおまえが、照らしてやる者たちを持たなかったら、お前の幸福はどうなることであろう!十年間おまえはここへわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしのワシとわたしのヘビとがいなかったら、おまえはおまえの光とおまえの道とに飽き果てたことであろう。だが、わたしたちは毎朝おまえを待ち、おまえからおまえの過剰を奪い取り、その代わりにおまえを祝福した。見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1)』
    >
    > 溢れ出る蜜(波羅蜜で体得した佛智)を他者に与えたいという衝動にかられるのかなぁ〜。^^

    愚さんは、喜んでもらえることが喜び というのもあるように感じるんですね。
    人様の心中を想像しては失礼なのですが、動画やコメントを拝見するとそのように感じます。

    ツァラトゥストラの貼っていただいた文章では、語っている人(主人公)は、太陽を讃えているのだというのはわかるのですが、自身も太陽になっちゃってるという感じなのですか?
    無知の解釈ですみません。 それにしてもニーチェの「圧」はすごい。。


    > いやぁ〜、そんなええもんではなく、身に余り過ぎる言葉でもあり、買い被りですが、ありがとうございます。
    > 穴があったら、埋まりたい(笑)。

    ますます確信する今日この頃です。
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■6919 / )  コモンズスコラ ラヴェル
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/21(Mon) 09:21:57)
    2020/09/21(Mon) 11:41:59 編集(投稿者)

     おはようございます、floraさん

    commons schola vol.4 ラヴェル
    https://www.youtube.com/watch?v=ZzIkdzlQS4A

    今回はラヴェルです。坂本教授も仰っていますが、音楽における《印象派》という括りは、絵画の印象派と大体同じ時期の作曲家だからそう呼ぼうか、位の括りで、よくわからないところがあります。私見ではラヴェルなど初期を除きあまり印象派とは思っていません。構成の緻密さなど、ベートーベン〜ブラームスの流れ上にいるような気もします。ラヴェル流新古典主義?みたいな。

    さて、ドビュッシーとラヴェル、どちらがオケマンに馴染みがあるかというと、それはもう、圧倒的にラヴェルです。

    何と言っても《ボレロ》が有名ですがその他にもいっぱいあります。
    《海原の小舟》1906
    《スペイン狂詩曲》1907 
    《亡き王女のためのパヴァーヌ》 1910
    《マ・メール・ロア》1912 組曲版がよく演奏される。全曲版は日フィルの9月の東京定期で演奏されました。ライブ配信(のアーカイブ)があります。
    《ダフニスとクロエ》1912 翌年第2組曲《ダ》としてはこれの演奏回数が一番多い
    《高雅で感傷的なワルツ》1912
    《ラ・ヴァルス》1913
    《道化師の朝の歌》1918
    《クープランの墓》1919
    《展覧会の絵》編曲 1922
    《ツィガーヌ》1924?
    《ボレロ》1928
    《左手のためのピアノ協奏曲》1930
    《ピアノ協奏曲ト長調》1931
    このように、ドビュッシーに比べるとラヴェルが格上?と思ってしまう位、演奏曲数に差があります。この中で僕が弾いていて興奮するのは《ラ・ヴァルス》です。これほど異様なワルツがあるでしょうか?

    「(ラヴェルは)小柄な方」と仰ってます。これはだいぶ後になって知りました。写真を見る限りそのようには見えなかったからですが、ひょっとするとそのように見えないようなアングルで写真を撮っていたんじゃないかなとも思います。

    講義ではまず《水の戯れ》が取り上げられ、ドビュッシーとラヴェルの水の表現の違いを述べています。水は音楽の題材になりやすく、ヘンデルの《水上の音楽》、《田園》の2楽章、《シェエラザード》の1楽章などあります。
    《水の戯れ》に続いて《弦楽四重奏曲 1903》が取り上げられています。幸か不幸か、昔録音した演奏は壊れたiPodと共に無くなってしまいました。学生の頃、ラヴェルのSQとラズモフスキーの1番を一緒に弾くと結構ハモる(きれいに響く)ことを発見して喜んでいました。

    ドビュッシーの舞台演奏での解説でも少し触れましたが、ラヴェルのSQは本当に構成が緻密で複雑で3楽章など一見すると小節の拍がよくわからない所があります。また、2楽章は明らかにドビュッシーを意識しているなあと思う所もあります。CDはいっぱい出ています。どれが良いかはそれこそ好みです。アルバンベルク、(昔の)ジュリヤードなどいいですが、古いスタイルのカペも味があります(真似はできません)。

    教授の話によるとラヴェルのピアノはソリストになれるくらいにはうまくなかったようですが、意外でした、凄くうまいのだと思ってました。《夜のガスパール》とか無茶苦茶難曲らしいです。それにピアノコンチェルト2曲も書いてるし。

    【Taakiis ScCalacan】
    《夜のガスパール》
    https://www.youtube.com/watch?v=TQSyRXRuk6Y
    余談になりますが、Lucas Debargueがアンコールに弾いた曲です。
    https://www.youtube.com/watch?v=qhRL6SBHMsQ
    確かに音楽は即興ジャズなのですが、いわゆるジャズピアニストのジャズとは違います。何だろう、音一つひとつがジャズにしては緻密でクリア過ぎるのかな?

    《ソナチネ》の演奏です。ペルルミュテルです(ソナチネ以外も収録)。
    https://www.youtube.com/watch?v=4ytkaRoXqDI

    前編オワリ

    後編は《ステファン・マラルメの3つの詩 1913》から始まります。
    https://www.youtube.com/watch?v=gweI_rcwXQA
    ドビュッシーの《ステファン・マラルメの3つの詩》
    https://www.youtube.com/watch?v=VsYh9kK8lDA

    話の中に登場するストラヴィンスキーの《Three Japanese Lyrics"》です。
    https://www.youtube.com/watch?v=bn79fZnIKwo
    余談ですが、日本語→ドイツ語→ロシア語と翻訳されたものにストラヴィンスキーが曲をつけたもので、このドイツ語はハンス・べトゲなどによって訳されたものです。このハンス・べトゲさん、どこかで聞いた名前だなあと思ったら、マーラーが《大地の歌》で使ったテキストを作った人でした。

    シェーンベルクの《月に憑かれたピエロ 1912》
    https://www.youtube.com/watch?v=bd2cBUJmDr8
    因みに《春の祭典》は1913年です。

    前編でも少し出ましたが、ここで再びサティの話になります。坂本教授はこのドビュッシー、サティ、ラヴェルの3人の中ではサティが一番好きなんじゃないかと思いました。サティについてはコモンズスコラ第9巻で取り上げられていますからここでさらっと触れられていますが、《ボレロ》繋がりで繰り返しの音楽について語られています。

    《ヴェクサシオン》
    https://www.youtube.com/watch?v=41Zx9973MsY
    これは1時間バージョンです。50秒聴けば元に戻ります。

    同じ物の繰り返し、これは「聴かされる」と「自ら聴く」では全然違います。好きな曲なら、例えばワタクシ荻野目ちゃんの《D2D》という、まあ3分位の曲を成田→ニューヨークの間聴いてたこともあります。これがもし《ヴェクサシオン》だったらちょっと嫌かもしれませんが、同じものを聴いていると段々聴いていない状態のようになります。イージーリスニング的というか、そういえば中学生の時もアビーロードをずっと何回も聴きながら勉強していました。《Get Back》なら何時間でも平気です。《Hey jude》の終わりもそうですね(ボレロ型)。

    ボレロにサティの影響はあったのでしょう。影響というかヒントだったような気もします。同じメロディを違う音色(楽器の組み合わせ)で演奏すると、逆に同じメロディだからこそ音色の豊かさが際立つという計算があったように思います。ボレロの場合、繰り返しには呪術的効果とともに音色の変化を目立たせる役割もあるのではないかと思います。

    ラヴェル指揮 ボレロ
    https://www.youtube.com/watch?time_continue=45&v=ZrNxLuNUAQM&feature=emb_logo
    けっこう、普通のテンポですね。

    僕が経験したベストのボレロは日フィルでジェルメッティが振ったボレロです。これは日フィルではありませんが。
    https://www.youtube.com/watch?v=81xH_-ggm8E

    今後の話に「ドラムンベース」という言葉が出てきます。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9
    具体例
    https://www.youtube.com/watch?v=Z7Oqya-swh4&list=RDnodB5gqt_mU&index=7

    【世にも豪華なサロン】
    パリは文化の中心でした。1922年、バルトークはイェーリー・ダラニ―という女性バイオリニストと共に彼のバイオリンソナタ第1番を引っ提げてヨーロッパ各地でコンサートを行いました。4月にパリで演奏会を行い、その後、アンリ・プルニェールという人の家に招かれました。このプルニェールという人は当時最も影響力のあった音楽雑誌「ラ・ルヴュ・ミュジカル」の主宰者です。妻宛の手紙で
    「5時からの演奏会の後、8時からプルニェール家で晩餐があり、ラヴェル、シマノフスキー、ストラヴィンスキーが集まった。夕食の後、さらにミヨー、プーランク、オネゲル、ルーセル、カプレもやってきた。そこでもう一度ソナタを演奏した。ラヴェルが譜めくりをしてくれ、イェリーの譜面はプーランクがめくってくれた」
    「ラヴェルとプーランクは2,3楽章が、ミヨーは1楽章が、ストラヴィンスキーは特に3楽章が気に入ったと言ってくれた。」
    何とも豪華な、豪華×豪華×豪華と言っても言い過ぎではないほど豪華です。

    これを機にラヴェルとイェリーは親しくなり、《ツィガーヌ》を書くことになります。ラヴェルはバルトークのジプシー音楽嫌いを知っていて(イェリーから聞いたのかもしれません)、それに対する見解を《ツィガーヌ》で表明した訳です。

    「ジプシー音楽も音楽ではないのか?」

    バルトークはそれまでのジプシー音楽=ハンガリー音楽という図式に激しく抵抗していて、それもあって必要以上にジプシー音楽を毛嫌いしていたかもしれません。
    バルトークはラヴェルの問いかけに直接答えてはいませんが、《ヴァイオリンとオーケストラのためのラプソディ 1928》がその答えではないかと、シゲティは言っています。

返信/引用返信 削除キー/

■6918 / )  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 08:47:17)
    2020/09/21(Mon) 08:52:06 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。
    勝手ながら、こちらのトピに移動させてもらいました。もし不都合があればご指摘下さい。

    No6916に返信(minoriさんの記事)
    >>〈私〉は何も映っていないスクリーン、あるいは鏡面のようなものだと考えています。
    >>そこに何か映ればそれは「私」となります。

    > いや〜、もうびっくり、驚きです。 上記がパニチェさんがおっしゃる〈私〉であるなら、私がよく書いてる非二元の「気づき」ととても似通っています・・・。
    > 私が自トピに、おとといだったか一人でつらつらと何投稿かしたのですが、その内容を読んでいただけたなら、理解していただけるかもしれません。

    読みました!シンクロしてますね。^^

    >>何故なら伝えなければ私秘性を保ったままであっても(厳密に言えば私秘性を保つという表現は不自然ではありますが)他者もその状態がありえるからです。
    >>一方、〈私〉は他者がその状態であることはありえない、パニチェにとってはその状態というか存在様相しかありえないものであるからです。
    >>〈私〉を意識した時、冷蔵庫に灯る庫内灯のように、意識した時点(灯った時点)で少し元の〈私〉は変質してしまうような存在かもしれませんが、ここらは未だ探究中です。

    > このあたりは、パニチェさんの〈私〉と、私が言う「気づき」の違うところになるようです。
    > パニチェさんの〈私〉というのは、他者との差異が明確にあるものですよね?
    > 他者の〈私〉は、〈〈私〉〉と表現して区別されています。

    「比類なき先言の<私>」についてminoriさんが理解されているという前提で返信させてもらいますと。。。(前提が違うということであれば指摘下さい)
    区別しているというよりも、例のマッハ的光景の手前は何人も何ものも並び立たない特異な地点ですし、そこに存在する〈私〉は唯一無二の比類なき存在(存在様相も含め)ですから、他者と交じり合うところが全くありません。
    それが事実あるいは自明であるとしか言いようがないというか。。。

    > 非二元での「気づき」というのは、スクリーン、鏡を比喩としていて、その役目的意味する内容は、パニチェさんの〈私〉とその部分においては同じように感じられます。
    > しかし、違うのは。 パニチェさんの〈私〉は、個人個人違うものであること。
    > 非二元では、そもそも個人というのは存在しない(世界は分離していない)と考えるので、スクリーンは、「ただ一つ」のみ存在するということになります。

    > ここからはまったくの私見なのですが・・・。
    > 第五図の、身体は坐禅していて、頭部分は、映像が映っているテレビみたいな例の絵ですね。
    > あれは。テレビそのものは、一つしかないんだけど(スクリーンは一つしかない)、そこに映される第四図の映像は一人一人違っていて、ゆえにその映像に対しての解釈も一人一人違っているので争いや愛憎が生まれるのだけれど、実は本体はテレビであって、ただ静かに静謐な意識なのだ、そしてそういうことに気づくと、世界を観る観方も変化し、慈悲もそういうところから生まれてくる、→第六図へ。
    > という絵であるように思えるのです。

    知識としてのアドヴァイタや事事無礙として上記は理解できますが、直接経験としては合点がいかない、あるいはそこまで至っていないといったところです。

    > 山下さんは、もっと深い体験を求めてミャンマーでしたっけ、に修行に行き、普通の生活をしていては体験できないような体験をされ、それをもとに山下さんの3.0
    > を考えられたのだと思います。

    そうだと思います。

    お出かけしてきます。^^

返信/引用返信 削除キー/

■6917 / )  〈仏教1.5〉
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 08:23:35)
    2020/09/21(Mon) 08:34:24 編集(投稿者)

    **** 以下、「〈仏教3.0〉を哲学する」より引用 ****

    われわれ二人が出会った安泰寺という非常に例外的な修行の場の周りに広がっていた日本の主流的な仏教のあり方を〈仏教1.0〉、われわれがアメリカやミャンマーで見た仏教、そしてここ十数年の間に日本にも定着しつつあるテーラワーダ仏教のあり方を〈仏教2.0〉、そしてどのどちらとも違う、われわれ二人が現在構想し形を与えようとしている仏教のあり方を〈仏教3.0〉と、仮に呼ぶことにしたのであった。(鼎談の前にiii)

    〈仏教1.0〉はを「医師も看護師も患者も医学を信じておらず、医療行為が行われていない病院がたくさんある」、〈仏教2.0〉は「医師も看護師も患者も医学を信じていて、一生懸命に取り組んでいる」という良道さんの比喩がわかりやすいだろう。・・略・・わたしはアメリカで、良道さんはミャンマーで、仏教が熱心に学ばれ実践されている様子を目撃するうちに、〈仏教2.0〉に重大な問題があることをそれぞれ独立に認識するようになった。それは一言でいえば、そこには日常的な自我(エゴ)が主役を演じているという問題である。(同iv)

    *************** 引用終わり ***************

    檀家制度に胡坐をかき、葬式・法事・先祖供養など、死者への儀式をビジネス化し、仏教本来の今まさに生きている人々の苦に対峙し慈悲をかけようとする活動が形骸化した仏教が〈仏教1.0〉と考えるべきかもしれない。
    仏教本来の活動をしようとしている伝統仏教は〈仏教1.5〉といったところか。

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■6916 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/21(Mon) 07:53:10)

    > レスありがとうございます。〈私〉に興味を持ってもらえて光栄です。^^

    パニチェさん、おはようございます。 はい、興味を再度持たせていただいてるところです。

    >>私秘性を持つ〈私〉の話した言葉や、した仕草(言語ではないコミュニケーション)が他者に伝わるということは、「他者でも認識可能な世界内の出来事になる」ということ。
    >>しかし、伝わらなければ、知られることがなければ、無色透明で私秘性を持つ〈私〉のままなのだ、というような意味ですか?
    >
    > それはその通りです。
    > あと他者を抜きにしても思考や感情が生じた時点で〈私〉から「私」へ移行すると思います。

    なるほど。

    > 思考や論理というのは言語であり、感情は正確な言語化ができないとしても他者もありえる状態です。

    そうですね。

    > 〈私〉は何も映っていないスクリーン、あるいは鏡面のようなものだと考えています。
    > そこに何か映ればそれは「私」となります。

    いや〜、もうびっくり、驚きです。 上記がパニチェさんがおっしゃる〈私〉であるなら、私がよく書いてる非二元の「気づき」ととても似通っています・・・。
    私が自トピに、おとといだったか一人でつらつらと何投稿かしたのですが、その内容を読んでいただけたなら、理解していただけるかもしれません。

    > 何故なら伝えなければ私秘性を保ったままであっても(厳密に言えば私秘性を保つという表現は不自然ではありますが)他者もその状態がありえるからです。
    >
    > 一方、〈私〉は他者がその状態であることはありえない、パニチェにとってはその状態というか存在様相しかありえないものであるからです。
    > 〈私〉を意識した時、冷蔵庫に灯る庫内灯のように、意識した時点(灯った時点)で少し元の〈私〉は変質してしまうような存在かもしれませんが、ここらは未だ探究中です。

    このあたりは、パニチェさんの〈私〉と、私が言う「気づき」の違うところになるようです。

    パニチェさんの〈私〉というのは、他者との差異が明確にあるものですよね?
    他者の〈私〉は、〈〈私〉〉と表現して区別されています。

    非二元での「気づき」というのは、スクリーン、鏡を比喩としていて、その役目的意味する内容は、パニチェさんの〈私〉とその部分においては同じように感じられます。
    しかし、違うのは。 パニチェさんの〈私〉は、個人個人違うものであること。
    非二元では、そもそも個人というのは存在しない(世界は分離していない)と考えるので、スクリーンは、「ただ一つ」のみ存在するということになります。

    ここからはまったくの私見なのですが・・・。
    第五図の、身体は坐禅していて、頭部分は、映像が映っているテレビみたいな例の絵ですね。
    あれは。テレビそのものは、一つしかないんだけど(スクリーンは一つしかない)、そこに映される第四図の映像は一人一人違っていて、ゆえにその映像に対しての解釈も一人一人違っているので争いや愛憎が生まれるのだけれど、実は本体はテレビであって、ただ静かに静謐な意識なのだ、そしてそういうことに気づくと、世界を観る観方も変化し、慈悲もそういうところから生まれてくる、→第六図へ。
    という絵であるように思えるのです。

    山下さんは、もっと深い体験を求めてミャンマーでしたっけ、に修行に行き、普通の生活をしていては体験できないような体験をされ、それをもとに山下さんの3.0
    を考えられたのだと思います。


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■6915 / )  Re[16]: 無味無臭無色透明の〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 06:37:40)
    おはようございます、minoriさん。
    レスありがとうございます。〈私〉に興味を持ってもらえて光栄です。^^

    No6911に返信(minoriさんの記事)

    > 私秘性を持つ〈私〉の話した言葉や、した仕草(言語ではないコミュニケーション)が他者に伝わるということは、「他者でも認識可能な世界内の出来事になる」ということ。
    > しかし、伝わらなければ、知られることがなければ、無色透明で私秘性を持つ〈私〉のままなのだ、というような意味ですか?

    それはその通りです。
    あと他者を抜きにしても思考や感情が生じた時点で〈私〉から「私」へ移行すると思います。
    思考や論理というのは言語であり、感情は正確な言語化ができないとしても他者もありえる状態です。

    〈私〉は何も映っていないスクリーン、あるいは鏡面のようなものだと考えています。
    そこに何か映ればそれは「私」となります。
    何故なら伝えなければ私秘性を保ったままであっても(厳密に言えば私秘性を保つという表現は不自然ではありますが)他者もその状態がありえるからです。

    一方、〈私〉は他者がその状態であることはありえない、パニチェにとってはその状態というか存在様相しかありえないものであるからです。
    〈私〉を意識した時、冷蔵庫に灯る庫内灯のように、意識した時点(灯った時点)で少し元の〈私〉は変質してしまうような存在かもしれませんが、ここらは未だ探究中です。

返信/引用返信 削除キー/

■6914 / )  Re[14]: knowing itselfさん
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/21(Mon) 06:06:53)
    おはようございます。

    > 仏教2.0 テーラーワーダ  道が涅槃
    > 仏教1.0 大乗      一生の参学ここに終わりぬ  
    > knowing itselfさん風に言えば大乗型涅槃が夢を見ない熟睡型、テーラーワーダ型が夢を見る睡眠というところでしょうか。

    あくまでわたしが理解している範囲で大雑把なことしかいえませんが、涅槃そのものは夢をみない熟睡だと思います。ただこの夢をみない熟睡状態を厳格に捉えるか、果たして誰が入ったかの理解でいろんな立場がある。どの仏教でも釈迦は入りますね。後は?本当の意味では阿羅漢でもまだという立場もありえますが、それだけとメチャメチャ厳しい。これが仏教2・0だと理解しています。

    大乗仏教は、その同じ涅槃に入る主体を極限まで拡大する立場だと思います。仏教1・0とは、涅槃の内容をレベルダウンさせて、風化させて、誰でも悟っていることにする、無内容な形式仏教という意味で使われる場合と、昭和以前の伝統的な日本大乗仏教という意味で使われる場合と、分かれるようでもあります。曖昧な用語ですね。藤田さんが1・0だと思うと評したのは後者の意味で、彼は真の大乗仏教精神を体現された稀有の人だと思います。

    > ただ世俗との関係がやっぱりあるように思います。

    涅槃の主体が思いっきり拡張されるのでから、世俗との関係なしの大乗仏教はありえないと思います。

    > 藤田一照さんって永平寺の会報みたいのにも文章を書いておられて、あまり過激な路線には踏み込めないのかもって思いました。

    そうだと思います。藤田さんの対談集が何冊も出ていますが相手の幅がすごく広いです。こういうのをこなせるのは藤田さんしかいないです。懐が広くて頭脳明晰な方です。
    そもそも仏教3・0を言い出したのは藤田一照さんですからね。藤田一照さんもこの用語が非常に多義的で文脈によって様々な意味を持ちうると仰っています。藤田一照さんの

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■6913 / )  knowing itselfさん
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/20(Sun) 23:37:45)
    knowing itselfさん、こんばんわ。
    返信ありがとうございます。


    <涅槃の解釈は大雑把に分類すれば、大乗仏教とテーラワーダなどの非大乗の二種類だと思います。仏教2・0は後者ですね。藤田一照さんとの違いは良道さんはテーラワーダの修行を体験したことでしょう。涅槃はテーラワーダのそれだけど、主体についてだけ大乗仏教的。その意味で非常に例外的なので、禅宗からもテーラワーダからも叩かれているようです。


    分かりました。そうすると涅槃は大まかに二種類ですね。
    仏教2.0 テーラーワーダ  道が涅槃
    仏教1.0 大乗      一生の参学ここに終わりぬ  
    knowing itselfさん風に言えば大乗型涅槃が夢を見ない熟睡型、テーラーワーダ型が夢を見る睡眠というところでしょうか。
    ただ世俗との関係がやっぱりあるように思います。
    今、手元に2冊牛十図があるんですけど、1冊は臨済宗の松原哲明さん。
    もう1冊が臨済宗の今の円覚寺派管長の横田南嶺さんですけど、お二人とも仏教2.0までで終わってます。横田さんの本の最後らへんに
    [灯火の消えて何処にゆくやらん 暗きはもとの住処なりけり]
    でもそのあとに、しかし我々の禅の修行では、暗いところに留まっているようではいけないと続け、
    [灯火の消えて何処にゆくやらん 旭となりて明日を照らさん]
    日はまた昇るという世界を説いているのです。
    藤田一照さんって永平寺の会報みたいのにも文章を書いておられて、あまり過激な路線には踏み込めないのかもって思いました。
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■6912 / )  マジカルモンキーさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 23:09:37)
    2020/09/20(Sun) 23:10:50 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No6909に返信(マジカルモンキーさんの記事)

    > パニチェさんへ

    > 今までの無礼を誠に申し訳ありませんでした。
    > 私は上述の内容、理解いたしました。
    > 自慢癖、ナルシスト、全て理解いたしました。
    > この思いを伝えなければいけないと思い、文章化しました。
    > 誠にありがとうございます。

    私もマジカルさんには失礼なレスをしたことがあると思います。
    申し訳ありませんでした。
    気が向かれましたらトピを作成いたします。
    いつでも依頼下さい。
    これからもよろしくお願いします。

    おやすみなさい。
返信/引用返信 削除キー/

■6911 / )  Re[15]: 無味無臭無色透明の〈私〉
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 23:01:16)
    No6908に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>〈私〉は無色透明とありますが、比類なき唯一無二であることと無色透明であることが結びつかないようにminoriには感じられてしまうのです。
    >>〈私〉のどういう部分が無色透明なのだろう、というのがわからないんです。
    >>例えばですが、〈私〉の「意識」そのもの、それ自体が無色透明だという話ですか?
    >>〈私〉の考える思考、感じる感情というが無色透明と表現されるのは、なにか違和感があるのですが、「意識」であれば違和感がminori的にはないのですね。
    >>このあたりいかがですか?
    >
    > これめちゃめちゃ説明しにくいし、伝わるかどうか大いに疑問なんですが、取りあえず書いてみます。
    > 比喩でしか伝えようがないのですが、結論から言えば〈私〉に匂いや色が付けば〈私〉ではなく「私」となります。

    ああ、なんとなくわかったかもしれません。

    > または匂いや色が付けば言語化可能になると言った方が分かりやすいかもしれません。
    >
    > では何故〈私〉という唯一無二性が保証(担保)されるのかと言うと、この説明は比喩になります。
    > 例えば〈今〉と10分前の「今」は今であること自体に何の違いもありません。
    > どちらも無味無臭無色透明ですが、〈今〉と10分前の「今」を間違えようがありません。
    > 何故なら〈今〉は何の担保もなく、そうでない状態がありえないからです。
    > この違いは言語化できません。
    >
    > ところが10分前の出来事があった「今」と、〈今〉まさに起こってる出来事は言語化できますし、その違いも説明可能です。
    > この出来事が味、匂い、色、形であり、世界内のものとなりまます。
    > 〈私〉に何らかの味、匂い、色、形が加味されれば他者でも認識可能な世界内の出来事になるということです。

    私秘性を持つ〈私〉の話した言葉や、した仕草(言語ではないコミュニケーション)が他者に伝わるということは、「他者でも認識可能な世界内の出来事になる」ということ。
    しかし、伝わらなければ、知られることがなければ、無色透明で私秘性を持つ〈私〉のままなのだ、というような意味ですか?


返信/引用返信 削除キー/

■6910 / )  マジモンさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/09/20(Sun) 22:58:45)
    マジモンさんへ。 こんばんは。返信をありがとうございます。

    > 仏教の勉学は励んでおられますか?
    > 私も、もういい年齢ですので、【仏典】を手に取ろうと思い立っている所です。

    仏教全体の枠で考えますと大きくなりすぎて、私では総合的に理解ができそうにありませんので、こじんまりと原始仏教だけでよいと思い、その小さな枠の中で終わろうと思っています。そして死ぬ時が来れば、ただ死ねばいい。なんて思っています。

    > 五蘊非我を勉強いたしました。
    > たしかに、「Input→Output、メモリー」は、「私」じゃないですね。
    > 実に機械的な事と思います。
    > DNA肉がついて、精神が宿り、理想郷を考える…、
    > 元をたどれば単なるDNAという化合物です。

    生物学の素人の私は、過去に独自で哲学をしまして、そのDNAに行き着いたところでやめました。単にDNAが周りの環境に反応しているだけだという事でしたが、深堀をしようと思えば、もう少し深くできたとは思いますが、その必要性が消えうせてしまいました。

    > う〜ん、しかし、我に非ず…
    > 私は「非」と言う字が登場すると、考えてしまうのですが、
    > メビウスリングでも、私は「ペンギンは空を飛べないので鳥で非ず…」と
    > よく言っていました。じゃ、ペンギンは何者か?
    > 生命学主体の私の中では「私がある」のですよ。
    > それは何かというと「指を指す事」です。
    > 私は私に指を指す、しかも顔面に。
    > ということは、「私(存在者)」は「いる(存在)」のではないのでしょうか?

    はい。通常はこのようなことは考えませんよね。「我に非ずですよ」なんて。
    しかし、マジモンさんが指さしたその先にあるものは「顔面」ですね?かといって、胸を指さしたのであれば、そこにあるものは「胸」ですね?・・とまぁ、では「私とはな何か?」「どこに存在しているのか?」「本当に存在しているといえるのか?」等々と進んでいくのも哲学でしょうしね。昔はよく考えましたね(笑)そして、今ではある程度自身で納得できた答えらしきものがありますので、もういいかな?という感じでしょうか。ある程度で止められないと、迷宮で迷う事になりそうですしね。

    後は、将来的に科学の量子力学の世界が解き明かしてくれるかもしれないなぁと感じています。

    > ちなみに、マジカルモンキーのハンドルネームのイメージは下画像なので、
    > 遠慮なく、マジモンとおっしゃってくださっていいですよ。
    > 宇宙に行ったチンパンジーのハム君です。

    了解しました。

    返信をありがとうございました。
返信/引用返信 削除キー/

■6909 / )  パニチェ殿へ謝罪
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/20(Sun) 22:58:10)
    No6908に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、minoriさん。横レス歓迎します。
    >
    > ■No6906に返信(minoriさんの記事)
    >
    >>〈私〉は無色透明とありますが、比類なき唯一無二であることと無色透明であることが結びつかないようにminoriには感じられてしまうのです。
    >>〈私〉のどういう部分が無色透明なのだろう、というのがわからないんです。
    >>例えばですが、〈私〉の「意識」そのもの、それ自体が無色透明だという話ですか?
    >>〈私〉の考える思考、感じる感情というが無色透明と表現されるのは、なにか違和感があるのですが、「意識」であれば違和感がminori的にはないのですね。
    >>このあたりいかがですか?
    >
    > これめちゃめちゃ説明しにくいし、伝わるかどうか大いに疑問なんですが、取りあえず書いてみます。
    > 比喩でしか伝えようがないのですが、結論から言えば〈私〉に匂いや色が付けば〈私〉ではなく「私」となります。
    > または匂いや色が付けば言語化可能になると言った方が分かりやすいかもしれません。
    >
    > では何故〈私〉という唯一無二性が保証(担保)されるのかと言うと、この説明は比喩になります。
    > 例えば〈今〉と10分前の「今」は今であること自体に何の違いもありません。
    > どちらも無味無臭無色透明ですが、〈今〉と10分前の「今」を間違えようがありません。
    > 何故なら〈今〉は何の担保もなく、そうでない状態がありえないからです。
    > この違いは言語化できません。
    >
    > ところが10分前の出来事があった「今」と、〈今〉まさに起こってる出来事は言語化できますし、その違いも説明可能です。
    > この出来事が味、匂い、色、形であり、世界内のものとなりまます。
    > 〈私〉に何らかの味、匂い、色、形が加味されれば他者でも認識可能な世界内の出来事になるということです。
    >
    > そういう意味で〈私〉は〈今〉と同じく無味無臭無色透明であるということなんですが、この返信で伝わる自信はありません。^^;
    >
    > PS.以下のカニッツァの三角形のスペースが〈私〉です。
    > 言語化できる部分は黒色です。



    パニチェさんへ

    今までの無礼を誠に申し訳ありませんでした。
    私は上述の内容、理解いたしました。
    自慢癖、ナルシスト、全て理解いたしました。
    この思いを伝えなければいけないと思い、文章化しました。
    誠にありがとうございます。
返信/引用返信 削除キー/

■6908 / )  無味無臭無色透明の〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 22:27:25)
    こんばんは、minoriさん。横レス歓迎します。

    No6906に返信(minoriさんの記事)

    > 〈私〉は無色透明とありますが、比類なき唯一無二であることと無色透明であることが結びつかないようにminoriには感じられてしまうのです。
    > 〈私〉のどういう部分が無色透明なのだろう、というのがわからないんです。
    > 例えばですが、〈私〉の「意識」そのもの、それ自体が無色透明だという話ですか?
    > 〈私〉の考える思考、感じる感情というが無色透明と表現されるのは、なにか違和感があるのですが、「意識」であれば違和感がminori的にはないのですね。
    > このあたりいかがですか?

    これめちゃめちゃ説明しにくいし、伝わるかどうか大いに疑問なんですが、取りあえず書いてみます。
    比喩でしか伝えようがないのですが、結論から言えば〈私〉に匂いや色が付けば〈私〉ではなく「私」となります。
    または匂いや色が付けば言語化可能になると言った方が分かりやすいかもしれません。

    では何故〈私〉という唯一無二性が保証(担保)されるのかと言うと、この説明は比喩になります。
    例えば〈今〉と10分前の「今」は今であること自体に何の違いもありません。
    どちらも無味無臭無色透明ですが、〈今〉と10分前の「今」を間違えようがありません。
    何故なら〈今〉は何の担保もなく、そうでない状態がありえないからです。
    この違いは言語化できません。

    ところが10分前の出来事があった「今」と、〈今〉まさに起こってる出来事は言語化できますし、その違いも説明可能です。
    この出来事が味、匂い、色、形であり、世界内のものとなりまます。
    〈私〉に何らかの味、匂い、色、形が加味されれば他者でも認識可能な世界内の出来事になるということです。

    そういう意味で〈私〉は〈今〉と同じく無味無臭無色透明であるということなんですが、この返信で伝わる自信はありません。^^;

    PS.以下のカニッツァの三角形のスペースが〈私〉です。
    言語化できる部分は黒色です。


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■6907 / )  初めての音
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/20(Sun) 22:02:57)
    生まれつき音が聞こえなかった少年が、初めて音を聞いた時の表情
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■6906 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 21:17:28)
    パニチェさん、こんばんは。
    knowing itselfさんに先立っての横レスで、お二人に申し訳ないのですが・・・
    以前から、気になっていた部分にちょうどお話が差し掛かっているので、横レスさせていただきます。


    >>カントの仏教バージョンを作るとしたら、定言命法的な行為準則にあたるのは、人間や生きものへの無条件の慈悲の行為かと考えていますが、これは主体として直接意識できると思います。(knowing itselfさんのご投稿)

    > 一照さんが言うように〈私〉(第五図の主体)が「私」(第四図の「私」)に作用することで慈悲が芽生えるということならパニチェ的には理解できるのですが、第五図が慈悲の根拠となるというところは、もし第五図が〈私〉とイコールであるとするなら違和感があります。〈私〉は無色透明(無覆無記)、あるいは有覆無記だと現時点では思っていますので。。。。


    〈私〉は無色透明とありますが、比類なき唯一無二であることと無色透明であることが結びつかないようにminoriには感じられてしまうのです。
    〈私〉のどういう部分が無色透明なのだろう、というのがわからないんです。
    例えばですが、〈私〉の「意識」そのもの、それ自体が無色透明だという話ですか?
    〈私〉の考える思考、感じる感情というが無色透明と表現されるのは、なにか違和感があるのですが、「意識」であれば違和感がminori的にはないのですね。
    このあたりいかがですか?
返信/引用返信 削除キー/

■6905 / )  Re[47]: マジカルさんへ
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/20(Sun) 19:46:19)
    No6872に返信(時さんの記事)
    > マジカルさんへ こんにちは。お久しぶりです。

    時様、お久しゅうございます。
    仏教の勉学は励んでおられますか?
    私も、もういい年齢ですので、【仏典】を手に取ろうと思い立っている所です。


    >>私たちが、【言い返す機械】だったら、どうだろうか?
    >
    >>私が言いたい事は、この世の全てが波動ならば、
    >>コミュニケーションは永遠に続くのではないだろうか?
    >
    >>じゃ、この永遠につづくコミュニケーションを止めるには、
    >>「山」と言われても「川」とは答えないという事だ。なぜ?
    >
    > もしも人間が、感情のない機械ならば、そこにはプログラムされた何かがあるはずですね。「言い返す」というプログラムです。
    >
    > そこである時、私たち(言い返す機械)の中で、言い返すというコミュニケーションを止めたいと思考した(バグが発生した)人がいたのであれば、それは止まるのではないでしょうか。
    >
    > 実際には、この「コミュニケーション」を日常での「論争」に言葉を置き換えてみるとよくわかると思います。
    >
    > ・じゃ、この永遠につづく論争を止めるには、「山」と言われても「川」とは答えないという事だ。なぜ?
    >
    > そこには「私の見解、私の考えたこと、私の思い」等々がないというバグが発生しているのだと思います。つまりは、「私の〜」というものがないのです。
    >
    > 「私の〜」というものがないとはどういうことなのか?ですが、再度、実際に、論争をしない人を見ると、この私の意見や見解等、「私の思い」等に執着せずに会話します。これを仏教では、有身見の滅と言います。
    >
    > この「私」に対する執着がなくなると、その私に固執した見解が消滅します。(見解自体はありますが、それに対する固執がなくなるという意味です)
    >
    > では、その有身見の滅はどのような教えの実践で現実化するのかですが、「それは私の〜ではありませんよ。それを捨てなさいよ。」という五蘊非我という教えの実践です。
    >
    > ですので、この永遠につづく論争を止めるには、「山」と言われても「川」とは答えないという事だ。なぜ?・・・なぜならば、その見解(山だ、川だという思い)に固執・執着がなくなるからだと私ならば答えるでしょうか。
    >
    > ですので、論争や無駄話を続ける人と、そうでない人とが存在するのだと思います。
    >
    > トピずれ失礼しました。

    五蘊非我を勉強いたしました。
    たしかに、「Input→Output、メモリー」は、「私」じゃないですね。
    実に機械的な事と思います。
    DNA肉がついて、精神が宿り、理想郷を考える…、
    元をたどれば単なるDNAという化合物です。
    う〜ん、しかし、我に非ず…
    私は「非」と言う字が登場すると、考えてしまうのですが、
    メビウスリングでも、私は「ペンギンは空を飛べないので鳥で非ず…」と
    よく言っていました。じゃ、ペンギンは何者か?
    生命学主体の私の中では「私がある」のですよ。
    それは何かというと「指を指す事」です。
    私は私に指を指す、しかも顔面に。
    ということは、「私(存在者)」は「いる(存在)」のではないのでしょうか?
    ペンギンは鳥ですか?鳥ですと私はいいます。
    パニチェ殿も、「 動物と超人の間で、人間 」とおっしゃっていたが、実はこの表現はちょっと違うような気がするんだな。
    知的障碍者は人間ですか? はい、人間ですと私はいいます。
    やまゆり事件の植松死刑囚が、「心失者」という造語をつくったが、
    知的障碍者でも心や頭脳はあると思うけどね。
    犬だって、猫だって心や頭脳はあり、人間と変わらないと思うんですね。

    ちなみに、マジカルモンキーのハンドルネームのイメージは下画像なので、
    遠慮なく、マジモンとおっしゃってくださっていいですよ。
    宇宙に行ったチンパンジーのハム君です。



580×450

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■6904 / )  Re[46]: 思考とは何か?
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/20(Sun) 19:34:06)
    No6868に返信(pipitさんの記事)
    > おはようございます。
    > No.6865 とてもおもしろい考え方だと思いました !


    思考実験です。

    ・体育館に「言い返す機能をもったロボQ君」を縦10列、横10列と100体、整列させるとする。
    ・このロボQ君は、乾電池式とする。
    ・体育館の舞台で、私が「おはよう!」と言う。
    ・すると、体育館の前の方のロボQ君は反応、「おはよう!」を言い返す。
    ・距離というタイムラグがあるため、時間差で遅れて、体育館の後ろの方のロボQ君は「おはよう!」と言う。
    ・そうなった場合、体育館の後ろの方のロボQ君の刺激による、また、前列のロボQ君が反応する。
    ・その繰り返しが起きて、その体育館のロボQ君全てが刺激と反応を繰り返す。
    ・どうやって止まるか?乾電池のエネルギーが止まるまでです。

    こういう思考実験です。

    人間に置き換えた場合、さらに複雑化し、刺激と反応の繰り返し、コミュニケーションは永遠に止まらなくなってしまう。じゃ、静まるためには、刺激に対する反応を、「反応しない」という決断をしなければいけない。

    ま、何が言いたいか、わからんくなってきたわ(笑)

    ・世界が波動の産物ならば、地球人のコミュニケーションが止まるわけがない。むしろ、私はそっちの方が好き、煌めきを感じる。
    ・私の分野で語るのなら、集中力は切れるし、飯を食わないといけないから、止まるであろうと思うが、地球規模になれば、止まるわけがない。
    ・コミュニケーションが永遠に続くとして、どうやって鎮めるの?
    ・もともと、生命には蓄積と移動の法則があると思って、この発想が生まれた。

    こんな感じか…。
返信/引用返信 削除キー/

■6903 / )  追悼文やった?
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 19:22:52)
    どこで読んだんやっけなー
    図書館で立ち読みしてた時かなー

    私にとってはすごく印象的で感動的な文章だったんだよね


    たしか、サンデル先生の卒論はロールズ先生の正義論でだったってこともあって、
    サンデル先生が赴任してきた時にロールズ先生が電話をくださって、、、

    記憶が曖昧だ〜

    いろいろ記憶違いしてたらすみません
    今度図書館で、サンデル先生の本をパラパラ見てみます
返信/引用返信 削除キー/

■6902 / )  Re[7]: アイソレーションタンク
□投稿者/ つばめ -(2020/09/20(Sun) 19:18:04)
    夢の中であなたを見た
    あ。見つかっちゃった?みたいな顔はしなかったけれど
    壁の花のような
    健気さは感じた

    夢の中であなたを見た
    ひきつったような口元に
    やっと笑顔を浮かべていた
    ・・・笑顔が
       本物になりますように

            
            私たちは
            笑いかつ泣く
            笑顔が本物になりますように

    あなたの笑顔が本物になりますように
    わたしの笑顔が本物になりますように



             
            
返信/引用返信 削除キー/

■6901 / )  自己レス
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 19:13:42)
    >サンデル先生は、ロールズ先生の教え子でもあるのかな?
    ロールズ先生を批判して乗り越えて、自分の哲学を打ち出そうとされたと思ってるけどね。<

    これ、ちょっと思い出した気がするんだけど、
    教え子じゃなくて、サンデル先生が、ロールズ先生のいる大学に赴任した、ってことやったかな、って。
    ロールズ先生が亡くなられたことに対するサンデル先生の追悼文?みたいなのを読んだ記憶があって、
    それがすごく印象的で、

    もしかしたら、『公共哲学 マイケル・サンデル著』に載ってるかもなので、
    機会があったら、図書館で借りて、あの文章をまた読みたいな、と、思いました。

    https://r.nikkei.com/article/DGXDZO34327720X20C11A8MZC001



返信/引用返信 削除キー/

■6900 / )  knowing itselfさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 19:02:27)
    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No6886に返信(knowing itselfさんの記事)
    > この箇所ですが、良道さんは超越的の意味を誤解しているような気がします。カントが典型的な超越論的な哲学者であるという意味で超越論的の語を使うなら、良道さんも超越論的の枠内から外れないと思います。

    永井均氏も指摘しているように、良道さんの場合、三昧のさ中にあっても慈悲の根拠たるえることを認識できる主体というのは超越的なようにも思えますが、微妙ですね。

    > 超越的か超越論的かというのは、場合によっては割り切れないと思っています。

    なるほど。

    > カントは超越論的な哲学者ですが、道徳法則による場合は物自体に直通するとされています。道徳意識は事実であるともいっています。良道氏が慈悲の瞑想によって第五図へジャンプするという口癖はカントの道徳論とどこか響きあう印象もあります。

    同意します。

    > カントの仏教バージョンを作るとしたら、定言命法的な行為準則にあたるのは、人間や生きものへの無条件の慈悲の行為かと考えていますが、これは主体として直接意識できると思います。

    一照さんが言うように〈私〉(第五図の主体)が「私」(第四図の「私」)に作用することで慈悲が芽生えるということならパニチェ的には理解できるのですが、第五図が慈悲の根拠となるというところは、もし第五図が〈私〉とイコールであるとするなら違和感があります。〈私〉は無色透明(無覆無記)、あるいは有覆無記だと現時点では思っていますので。。。。

    返信はお気遣いなく。

返信/引用返信 削除キー/

■6899 / )  Re[12]: 図書館で借りたサンデル先生の本
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/20(Sun) 18:28:56)
    No6892に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > それにしても絵へたくそ〜
    > 内山ちゃんの、絵以前にその見方、培養人的な見方で、わたしにとっては思考に値しない。
    >
    > あ、こういうのもあるよ〜的に、ちょっと書いて見ました。
    >
    > 何にこだわってるのかしら?

    横レス失礼します。

    内山興正という人は哲学専攻でカントが卒論です。第四図には、純粋理性批判の内容が凝縮されていると読むこともできる。

    第四図と第五図の関係は、まったく同じ第四図をアタマに乗っけた人の図てある第五図というだけ。第四図をかの「マッハ的光景」図にしても、第四図VS第五図は成立します。これだと第四図に現象学的還元を施した第五図という読み方もできます。

    カント哲学的であるとともにフッサール現象学的でもある、非常に含蓄のある図になっている。絵自体は単純素朴だけど。
返信/引用返信 削除キー/

■6898 / )  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 18:17:48)
    こんばんは (o^^o)

    前に図書館で借りた時も、ほとんどカントのページしか読めてないんだよ
    サンデル先生のご自分の意見までたどり着いてないよ

    カントの解説部分はわかりやすいと感じるけどね。
    、、、カント本人の著書読まんなあかんよね〜 _| ̄|○

    ちなみに、カント解説の次に出てくる、ロールズのことも気になってるんだ。
    サンデル先生は、ロールズ先生の教え子でもあるのかな?

    ロールズ先生を批判して乗り越えて、自分の哲学を打ち出そうとされたと思ってるけどね。

    これらも直接なにも読んでへんな〜 _| ̄|○

    No6894に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > あ、いいたいこと書くの忘れてた。
    > >『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』マイケル サンデル 鬼澤忍さん訳<
    > この本、知り合いからもらって読み始めたんだけど、だんだんムカついてきて、ゴミ箱に捨てた。そのとき一緒にもらったのがたしか「ニーチェの言葉」だったかな?一応ざっと読んで見たけど、やっぱゴミ箱入り。
    >
    > 知り合いには申し訳ないけど、わたしの生にとっては、こんなのいらない!
    >
返信/引用返信 削除キー/

■6897 / )  みのりさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 18:12:15)
    こんにちは〜(^O^)/
    私が、カントの道徳論の解説を読んだりする時に
    よく頭に浮かぶ言葉は、

    無理ゲー (クリアするのが無理にできているゲーム)

    です (^_^;)

    なんとか、ちゃんとカントの言ってること聞いてみたい、
    意味をきちんと汲んでみたい、と思うけど

    果てしなく感じますう〜 。・゜・(ノД`)・゜・。


    No6890に返信(minoriさんの記事)
    > pipitさん、こんにちは。
    >
    > >もっとも、カントはわれわれがつねに理性的に行動できるとか、自律的に選択できると言っているわけではない。そうできるときもあれば、できないときもある。カントはただ、人間には理性の能力と自由の能力があり、この能力は人類共通のものだと言っているだけだ。
    > カントは、理性の能力だけが人間の能力ではないこともあっさりと認めている。』<
    >
    >
    > 人間には理性の能力と自由の能力があり、この能力は人類共通のものだ、ということ。
    > 定言命法の厳しさ(そんなの無理じゃんと感じてしまう)から、カントの道徳って無理筋言ってる感がなんだかな〜、だったのですが、こう表現されるとまた違う感じがします。
    >
    > pipitさんがお忙しい中、調べてくださった熱意に打たれ、思わず投稿しました。
返信/引用返信 削除キー/

■6896 / )  超訳 ニーチェの言葉
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 18:11:36)
    2020/09/20(Sun) 18:28:46 編集(投稿者)

    横レス御免!

    No6894に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > あ、いいたいこと書くの忘れてた。
    > >『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』マイケル サンデル 鬼澤忍さん訳<
    > この本、知り合いからもらって読み始めたんだけど、だんだんムカついてきて、ゴミ箱に捨てた。そのとき一緒にもらったのがたしか「ニーチェの言葉」だったかな?一応ざっと読んで見たけど、やっぱゴミ箱入り。

    > 知り合いには申し訳ないけど、わたしの生にとっては、こんなのいらない!

    「超訳 ニーチェの言葉」はゴミ箱行きで大正解。

    あれは著者の白取氏の言葉であって、ニーチェの言葉とは似ても似つかない。

    例えて言うならリンゴとハチミツ入りの全く辛くないお子様用カレー、炭酸の抜けた砂糖水のようなコーラ、毒気のないニーチェはニーチェに非ず。

    読者を徹底的に突き放し、猛毒にも劇薬にもなるのがニーチェであって、甘ったるい教訓めいた人生哲学的なニーチェなど生ゴミより悪臭が漂う汚物に近い。

    あそこまでの悪書がミリオンセラーになるとは。。。。

    『万人向きの書物はつねに悪臭を放つ書物であり、そこには小人臭がこびりついている。(善悪の彼岸 自由な精神30)』
返信/引用返信 削除キー/

■6895 / )  Re[13]: 図書館で借りたサンデル先生の本
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 18:05:33)
    同じく、『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル先生、鬼澤忍さん訳、p154〜から、カントの考え方が理解できそうかな〜と感じたところを引用します。

    『(略)
    カントは「自然のなかに存在するものはみな法則に従っている」と述べている。その法則とは、自然必然性の法則、物理学の法則、因果律などだ。ここには人間も含まれる。
    結局は人間も自然界の生物であり、自然法則から逃れることはできない。

    しかし、もし人間に自由の能力があるのなら、人間は別の法則、つまり物理学以外の法則に従って行動することもできるのではないか。

    カント曰く、すべての行動は何らかの法則に支配されている。われわれの行動を支配しているのが物理学の法則だけなら、われわれは前述したビリヤードの球と変わらない。
    しかしもし自由の能力があるなら、外部から与えられたり押しつけられたりした法則ではなく、みずから課した法則に従って行動できるはずだ。しかしそのような法則はどこから来るのか。

    カントはの答えは理性だ。
    人間は、感覚がもたらす快楽や苦痛に支配される感性的な存在であるだけでなく、合理的に推論できる理性的な存在でもある。もし理性が私の意志を決めるなら、その意志は自然や傾向性の命令にとらわれずに選択できるはずだ(理性がつねに意志を支配すると言っているのではない点に注意。カントは、自分が自分に課した法則に従って自由に行動できているときには、理性が意志を支配していると言っているにすぎない)。

    もちろん、人間は合理的に推論できる存在だと言った哲学者はカントが初めてではない。
    しかし彼の理性の概念は、自由と道徳に対する考えと同様にきわめて厳しい。
    功利主義者を含む経験主義の哲学者にとって、理性は完全に道具だ。
    人間は理性を用いて、特定の目的を追求するための手段を見つけだす。理性自体が目的を定めるわけではない。トマスホッブスは理性を「欲望の偵察者」、デイヴィッドヒュームは「情熱の奴隷」と呼んだ。
    功利主義者は、人間は合理的推論能力を備えていると見なしていたが、それは道具としての理性にすぎなかった。功利主義者にとって、理性の仕事は追求に値する目的を決めるものではなく、そのときどきの欲望を満たすことで効用を最大化する方法を見つけることだった。

    カントは、理性にこのような従属的な役割を与えることを拒んだ。
    彼にとって、理性は単なる情熱の奴隷ではない。
    もし理性がその程度のものでしかないなら、本能のままに生きる方がましだとカントは言う。
    カントが考える理性、道徳にかかわる実践理性は、道具としての理性ではなく、「いっさいの経験的目的にとらわれずに、アプリオリに法則を定める純粋実践理性」である。
    (略)

    行為者としての人間と、人間の行動を支配している法則について、われわれがとりうる観点は二つある。この二つの観点をカントは次のように説明する。

    理性的な存在は......二つの観点から自分自身を眺め、自分の行動......を支配している法則を知る。
    第一に、感性界に属する者としては自然法則に従い(他律)、
    また第二に、英知界に属する者としては、自然の影響を受けず、経験ではなく理性のみを根拠とするような法則に従う。
    (略)』
    引用終わります。
返信/引用返信 削除キー/

■6894 / )  Re[12]: 図書館で借りたサンデル先生の本
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/20(Sun) 17:59:24)
    あ、いいたいこと書くの忘れてた。
    >『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』マイケル サンデル 鬼澤忍さん訳<
    この本、知り合いからもらって読み始めたんだけど、だんだんムカついてきて、ゴミ箱に捨てた。そのとき一緒にもらったのがたしか「ニーチェの言葉」だったかな?一応ざっと読んで見たけど、やっぱゴミ箱入り。

    知り合いには申し訳ないけど、わたしの生にとっては、こんなのいらない!

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■6893 / )  Re[48]: 意識と無意識
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 17:37:44)
    No6891に返信(minoriさんの記事)
    > パニチェさん、貴重なレスをありがとうございました。

    どういたしまして。

    > 難しいところもありますので、じっくりと拝見してから返信いたしますね。

    はぁ〜い。ほんと気が向かれたらの返信で結構ですよ。^^
返信/引用返信 削除キー/

■6892 / )  Re[11]: 図書館で借りたサンデル先生の本
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/20(Sun) 17:34:57)
    お邪”魔”ね。
    おくったがわさま、ありがと。第四図とか第五図についてなんか語ってるの、じぇんじぇん見えてこなかったけどおかげでなんか見えてきた感じ。

    内山興正の? 彼の、わたしのばあい、まず第1図ないし〜。
    「屁一発でも貸し借り、ヤリトリできぬ自己の生命」だって?
    こう見ること自体、わたしにとっては問題。

    それにしても絵へたくそ〜
    内山ちゃんの、絵以前にその見方、培養人的な見方で、わたしにとっては思考に値しない。

    あ、こういうのもあるよ〜的に、ちょっと書いて見ました。

    何にこだわってるのかしら?

返信/引用返信 削除キー/

■6891 / )  Re[47]: 意識と無意識
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 16:49:31)
    パニチェさん、貴重なレスをありがとうございました。
    難しいところもありますので、じっくりと拝見してから返信いたしますね。
返信/引用返信 削除キー/

■6890 / )  Re[10]: 図書館で借りたサンデル先生の本
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 16:48:05)
    pipitさん、こんにちは。

    >もっとも、カントはわれわれがつねに理性的に行動できるとか、自律的に選択できると言っているわけではない。そうできるときもあれば、できないときもある。カントはただ、人間には理性の能力と自由の能力があり、この能力は人類共通のものだと言っているだけだ。
    カントは、理性の能力だけが人間の能力ではないこともあっさりと認めている。』<


    人間には理性の能力と自由の能力があり、この能力は人類共通のものだ、ということ。
    定言命法の厳しさ(そんなの無理じゃんと感じてしまう)から、カントの道徳って無理筋言ってる感がなんだかな〜、だったのですが、こう表現されるとまた違う感じがします。

    pipitさんがお忙しい中、調べてくださった熱意に打たれ、思わず投稿しました。
返信/引用返信 削除キー/

■6889 / )  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 16:39:50)
    こんにちは〜(^O^)/


    > う〜ん、永井さんヴィパッサナーを誤解されていると思います。ヴィパッサナーはあるがままに見えることではなく、見えるているものが瞬間ごとに生滅することに立ち会うことではないでしょうか。あるがままに見えることの虚偽性が見えなくちゃならない。パノラマも違うと思います。たーぼーさんじゃないけど、一点から見ることになってしまうと思います。<

    そうなんですね、パノラマって、無分別の一切、ってイメージなのかな、と、勝手に思ってたんですけど、
    そうかぁ、また勘違いしてるかもだけど、感想言いますね、
    永井さんのパノラマは、見えてるものに当てはめた表現なのかな、って
    思いました。
    見えてる景色に対して分別がなされてない、対象としてのパノラマ的な世界
    でもまた勘違いしてるかなぁ、すみません。



    >>永井先生も、knowing itselfさんと同じ捉え方なのかな?
    >
    > 違うと思います。藤田一照さんや山下良道さんとも、明らかに永井さんの瞑想は違いますね。<

    そうなんですね、失礼しましたm(_ _)m
    認識をあらためます (^ ^)
返信/引用返信 削除キー/

■6888 / )  Re[10]: 図書館で借りたサンデル先生の本
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 16:29:04)
    思ったより、カント哲学についての記述部分、長かった。。。


返信/引用返信 削除キー/

■6887 / )  図書館で借りたサンデル先生の本
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 16:26:45)
    こんにちは。図書館からお借りしているサンデル先生の本を、返却前に、まとめようと引用を始めましたが、途中で疲れてしまい、、目先にある、目を引いたところだけ引用して、とりあえず終わろうと思います。 。。_| ̄|○ ちかれた


    『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』マイケル サンデル 鬼澤忍さん訳 第5章 重要なのは動機ーーーイマヌエル カント p136〜

    もし基本的人権を信じているなら、あなたは功利主義者ではないだろう。
    (略)
    もし効用が権利の基準でないなら、権利の道徳的基準とは何か。
    リバタリアンの考えはこうだ。
    人間を他者の福祉の単なる手段として利用してはならない。そのような行為は、自己所有権という基本的人権を侵すからだ。私の人生、労働、人格は私のもの、もっと言えば私だけのものであり、社会が意のままにしてよいものではない。
    しかしすでに見てきたように、自己所有の概念をつきつめていくと、熱狂的なリバタリアンしか信奉できないようなものが生まれる。
    落伍者を切り捨てる完全な自由市場、格差を減らし公益を推進するための施策をほとんどもたない小さな国家、本人の同意さえあれば、人間の尊厳をみずから傷つける行為(人肉食や奴隷売買)でさえ認める風潮などだ。
    (略)
    しかしロックが提唱する不可侵の権利は神を想起させるため、宗教に由来しない道徳的基準を求めている人々にとっては問題になる。
    イマヌエル カント(一七二四〜一八〇四)は、義務と権利について別の見方を提示している。
    (略)

    カントの理論は、自分の所有者は自分自身であるという概念にも、人間の生命や自由は神からの贈り物だという意見にも基づいていない。
    その基盤となっているのは、人間は理性的な存在であり、尊厳と尊敬に値するという考え方だ。
    (略)

    『道徳形而上学原論』は、ある大きな問いを投げかけている。
    道徳の最高原理とは何かだ。
    (略)
    カントは、ある時点での利害、必要性、欲望、選好といった経験的理由を道徳の基準にすべきではないと言う。こうした要因は変わりやすく、偶然に左右されるため、普遍的な道徳原理(普遍的人権など)の基準にはとうていなりえない。
    (略)
    必要性や欲望が道徳の基準になりえないなら、何が基準になるのか。
    一つの可能性は神だ。
    しかし神はカントの答えではない。
    彼はキリスト教徒だったが、神の権威を道徳の基準にはしなかった。
    その代わりカントは、人間は「純粋実践理性」と彼が呼ぶものを実践することで、道徳の最高原理に到達できると述べた。道徳法則に至る道を明らかにするために、カントの考えに沿って、人間が持つ理性の能力と自由の能力の密接なつながりを見ていこう。

    カントによれば、人間はみな尊敬に値する存在だ。それは自分自身を所有しているからではなく、合理的に推論できる理性的な存在だからだ。人間は自由に行動し、自由に選択する自律的な存在でもある。

    もっとも、カントはわれわれがつねに理性的に行動できるとか、自律的に選択できると言っているわけではない。そうできるときもあれば、できないときもある。カントはただ、人間には理性の能力と自由の能力があり、この能力は人類共通のものだと言っているだけだ。
    カントは、理性の能力だけが人間の能力ではないこともあっさりと認めている。』


    ここら辺で疲れてしまい、目先の興味引いた箇所の引用をもう一箇所引用して、終わろうと思います。
    今回もロールズ先生話題のページまで読まずに返しそう。。。。

    一旦ここまでを投稿します。

返信/引用返信 削除キー/

■6886 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/20(Sun) 16:10:31)
    No6870に返信(パニチェさんの記事)
    > ■No6855に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>前にもいっていますがカント哲学の仏教バージョンも十分ありかなと思うのは、物自体が涅槃だとして、人間が涅槃に帰属していることの唯一の証しは、生きとし生けるものへの無条件の慈悲の念を発するときと置き換えることは?否定することが逆に困難?少なくとも、生きとし生けるものへの慈悲なしに涅槃に入ろうとすることは虫がよすぎるとはいえそう。
    >
    > 良道さんは第五図の主体を超越的としているのに対して、一照さんは超越論的としています(バージョンUP170〜P171)。

    この箇所ですが、良道さんは超越的の意味を誤解しているような気がします。カントが典型的な超越論的な哲学者であるという意味で超越論的の語を使うなら、良道さんも超越論的の枠内から外れないと思います。

    > 上記のレスからするとknowing itselfさんも第五図の主体は超越的と解釈されているということでしょうか。

    超越的か超越論的かというのは、場合によっては割り切れないと思っています。

    カントは超越論的な哲学者ですが、道徳法則による場合は物自体に直通するとされています。道徳意識は事実であるともいっています。良道氏が慈悲の瞑想によって第五図へジャンプするという口癖はカントの道徳論とどこか響きあう印象もあります。

    カントの仏教バージョンを作るとしたら、定言命法的な行為準則にあたるのは、人間や生きものへの無条件の慈悲の行為かと考えていますが、これは主体として直接意識できると思います。

    > ちなみに第五図はともかく、パニチェにとって〈私〉は超越論的存在であることは確かです。

    パニチェさんならそうお考えになるでしょうね。
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■6885 / )  たーぼーさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/20(Sun) 15:24:26)
    No6856に返信(たーぼーさんの記事)

    > 違いますね。 藤田一照さんは普通の仏教者だと思います。

    そう思います。いい意味で普通ですね。わたしは藤田一照さんはむしろ仏教1・0だと思っています。藤田一照さんにはテーラワーダ仏教の影響がほとんどないに近いからです。知的にはある程度テーラワーダを理解しているし、敬意を表されていますが、藤田さんの坐禅理解そのものは伝統的なものを超える・はみ出すところがないと思います。

    大乗仏教とテーラワーダをどちらも取り込んだという意味では、井上ヴィマラさん、小池龍之介さん、草薙龍瞬さんたちの方が、仏教3・0的でしょう。

    > 藤田一照さんの会にも入ってるけど、私の感覚に近いです。
    > 道が涅槃であるという考えで、それはそれでいいと思うけど違う本を読みたい感じです。
    > 私が今思ってるのは、各自の仏教者がバラバラに涅槃を主張してて何が涅槃なのかわからないんですよ(笑)
    > 一体何処がゴールなんだよと(笑)
    > 藤田さんは曹洞宗だから、あまり奇抜なこと言ったりやったり出来ないのかもしれませんね。
    > 山下良道さんは、曹洞宗と喧嘩して海外あちこち放浪して自分のスタイルを作り上げたそうです。
    > 涅槃の解釈としてあるのは、その二個だけですか?

    涅槃の解釈は大雑把に分類すれば、大乗仏教とテーラワーダなどの非大乗の二種類だと思います。仏教2・0は後者ですね。藤田一照さんとの違いは良道さんはテーラワーダの修行を体験したことでしょう。涅槃はテーラワーダのそれだけど、主体についてだけ大乗仏教的。その意味で非常に例外的なので、禅宗からもテーラワーダからも叩かれているようです。


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■6884 / )  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/20(Sun) 15:05:34)
    こんにちは。引用ありがとうございます。初めて読む文章です。


    No6848に返信(pipitさんの記事)
    > 興味深かった、永井均先生の文章を引用します。
    > 出版社のサンガが発行している『サンガジャパンVol 30』という雑誌の、永井先生と禅僧のネルケ無方さんの対談に載っていました。p372より引用
    >
    > 第五図の話題の中での発言です。
    > 『永井 (略)
    > 逆に言えば、こちら側からすべてがただあるがままに見えているということですね。こっちの観点からぜんぶ見えているというのが、いわゆるマインドフルネスということですね。
    > 気づきとかサティとかヴィパッサナーとか、そういうこと。パノラマ的な世界です。

    う〜ん、永井さんヴィパッサナーを誤解されていると思います。ヴィパッサナーはあるがままに見えることではなく、見えるているものが瞬間ごとに生滅することに立ち会うことではないでしょうか。あるがままに見えることの虚偽性が見えなくちゃならない。パノラマも違うと思います。たーぼーさんじゃないけど、一点から見ることになってしまうと思います。

    > そこで体には体の補助的な役割はあると思います。
    > 体の感覚をそれとして捉えることが世界そのものをそれとして捉えることの練習みたいな、あるいは模型みたいな形で役立つ。
    > 体は大事だけど、物的な意味での体が大事なんじゃなくて、むしろ身体感覚というものの独在性が重要で、その独在性の側から世界、私秘的な世界も、この悪い繋がりの世界も、あるいは良き繋がりの世界も、ぜんぶここから見て、捉え直すことができる。
    > これは、ある意味では、いつも現にそうしていますから、そうと気づくだけで簡単にできるとも言えます。
    > しかし同時に効力があるんですね、そこに立ち戻るだけで。
    > 内山老師はある時、ある点では、間違いなくそれを掴んで、世界像と効力の両方を、その繋がりを掴んだのだろうと思います。「一切分の一切」とか「見渡す限りの自己」とか。(略)』

    永井〈私〉哲学を瞑想でそのまま実践されているという感じですね。永井さんならこうなると思います。

    > ■No6752に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>第五図というのは、坐禅する身体の上に第四図がそのまま乗っかっています。第四図が単に反面教師的な貪りの人生の寓意ではなく、純粋理性批判における感性と悟性による共同作業を漫画化したと読めるなら、坐禅する身体も、認識を触発する究極の源泉としての物自体とみる方が面白いと思う。第五図の本体が坐禅する身体なら、第四図と結局は同じになる。<
    >
    > 永井先生も、knowing itselfさんと同じ捉え方なのかな?

    違うと思います。藤田一照さんや山下良道さんとも、明らかに永井さんの瞑想は違いますね。


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■6883 / )  Re[6]: アイソレーションタンク
□投稿者/ つばめ -(2020/09/20(Sun) 14:47:38)
    No6879に返信(パニチェさんの記事)

    > アイソレーションタンクは私が掲示板時代に投稿したこともあって、前管理人が都内のある場所で経験しました。
    >
    > でも臭いが気になって至高体験どころやなかったみたいです(笑)。


    ☆匂いに邪魔されて思考体験しそこなってしまった・・・なんか、残念すぎるお話です。(^◇^;)

    他の感覚が刺激されない分一点集中で嗅覚がより研ぎ澄まされてしまったのかもしれませんね。




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■6882 / )  最初の人類は子守歌に何を聴いたか?6
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 14:43:52)
    あるいは脳の無い植物に心はあるか?

    トピ主:エフニさん


    引き続きよろしくお願いします。
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■6881 / )  Re[8]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/20(Sun) 14:33:59)
    No6778に返信(エフニさんの記事)
    > >ちょうど私も犬笛のことを考えていました。<
    >
    > シンクロ〜〜&#65533;&#65533;

    ☆「シンクロ〜〜」ってなんか久しぶりです♪


    > 犬笛って不思議ですよね。
    >
    > 逆に人間に見えて犬に見えないものが、色です。

    ☆あ〜〜〜色ですね。犬はあまりいろいろな色が見えないようですね。

    > 核兵器を投下されても、音が大き過ぎて、人間には聞こえないのです。
    >
    > 強烈な光と爆風だけが人間に知覚できます。

    ☆あ〜〜〜な〜〜るほど♪
    なんで音がしないのだろうかと思っていました。
    音はしているけれど私たちには聞こえないだけ、という話だったわけですね。

    > ウィトゲンシュタインもこれに近いですよね。
    >
    > キリスト教の教父、トマス・アクィナスなんかもこれに近いです。


    ☆トマス・アクィナスさん。なんか、懐かしい。そういえばより大きいもの、みたいな話ありました。

    > ☆妹君ちゃん、楽しく素敵な四連休をお過ごし下さいね&#65533;&#65533;

    は〜い。今日は2日目です。
    風邪ひきまして引きこもっています。
    楽しみにしていたのに・・。
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■6880 / )  Re[8]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/20(Sun) 14:17:44)
    No6777に返信(エフニさんの記事)

    > ただ、季節感がですね、どうにも腑に落ちないのです。
    >
    > 春、新暦の五月頃といえば、田んぼ、沼や池は、蛙の鳴き声で大変かまびすしいです。
    >
    > この蛙の大合唱のなかで、飛び込む水の音が聞こえるのかなぁ、って不思議に思ったりしてます。


    うん。
    だから場所が限定されてくるとは思うのです。
    強引に解釈すれば田んぼ、沼や池のそばじゃないところ。
    田舎の風景じゃなくて町場の風景かなとか、どこかの家の庭かなとか思います。
    でも、そんなこと推測しても意味ないと言えば意味ないかもだけど、いろいろと自分で考えてみるのは俳句とか短歌を味わう上ではよいことのような気がします。

    蛙が大合唱するほどはおらず
    飛び込む音が聞こえてくるほどの距離と静けさを持つ場所にいる・・・かな。


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■6879 / )  アイソレーションタンク
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 14:11:05)
    横レス失礼します。

    アイソレーションタンクは私が掲示板時代に投稿したこともあって、前管理人が都内のある場所で経験しました。

    でも臭いが気になって至高体験どころやなかったみたいです(笑)。


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■6878 / )  カントの後期批判哲学
□投稿者/ ななし -(2020/09/20(Sun) 14:09:19)
    カントによると、感性で捉えられたものへ悟性の概念(カテゴリー)が当てはめられることによって知識が生じるとします。

    人間は、時間と空間の認識の(直観)形式と感性において捉えられたものに概念を当てはめる能力(すなわちカテゴリーを使って判断する能力)「悟性」によって事物を自分なりの仕方で知るため「物自体」は認識できないと、この発想転換は「コペルニクス的転回」と名づけられています。

    また、カントの理論のこうした特徴は「認識が対象に従うのではなく、対象が(人間の)認識に従う」と表現されます。

    人間は、自然法則に縛られているため(この辺が決定論的)観察や推論による認識というやり方では、自由意志の存在は確かめられません。

    人間の知識には無視できない限界があるのです。

    そしてカントによれば、自由意志の存在が確かめられるのは、〈知識と科学〉の自然法則を超えた〈行為と道徳〉の領域においてです。

    自然法則では、弱肉強食、本能的、動物的で損得勘定をする自己中心的だからです。

    この損得勘定の自然から自由になって初めて道徳的に生きられるのであり、神を見出せるということです。





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■6877 / )  Re[8]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/20(Sun) 14:01:58)
    No6767に返信(エフニさんの記事)

    「アイソレーションタンク」検索しました。
    入ってみたい♪
    自分の幻覚を見てみたいし、幻聴も聞いてみたい。

    >脳は退屈が死ぬほど嫌いなんですね。

    > それで、何も見えない、聞こえないとなると、自分で創りだしちゃえ&#65533;となるのです。

    アイソレーションタンクは瞑想にいいと書いてあったけれど、瞑想しているうちに幻聴が聞こえてくるなんてことあるかもなぁと。

    私、脳って普通に休みたがるものかと思っとりました。
    マグロみたいなものだったのですね。

    教えてくださってありがとうございました。

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■6876 / )  スルーでも結構です>ななしさん
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 13:47:16)
    ななしさんってYahoo!textream(掲示板)で投稿されてました?

    この質問にはスルーでも結構ですよ、^^
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■6875 / )  Re[7]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/20(Sun) 13:45:38)
    No6766に返信(エフニさんの記事)


    > 定家がなぜ若くして、この歌のような人生の無常を達観できたかと言えば、武士の鎌倉時代にどうしても馴染めないで、平安時代への憧憬をいつまでも持ち続けていたからなのです。
    >
    > 定家の心象風景にとっては、花が平安時代、とまやが鎌倉時代だったのです。

    そうなのですね。
    定家さんについてほとんど知らないのですが、平安時代への憧憬を持ち続けたと言われるとそんな気がしてきます。

    かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影ぞたつ  定家

    思ひいでよ誰がきぬぎぬの暁もわがまたしのぶ月ぞ見ゆらむ  定家

    > 「ヘーゲルがわかったという人を私は信用しません。」という始まりでした。(つまり、それくらい難解だということ。)

    哥哥は「共同幻想論がわかったという人をあまり信用しません。」と言われていましたね。

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■6874 / )  Re[31]: 「悪人正機」
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 13:37:52)
    No6873に返信(ななしさんの記事)
    >>なるほど。
    > やはり浄土門と相通じるところがありますね。
    > ご存知だとは思いますが、浄土宗では南無阿弥陀仏と称えることによって極楽浄土に導かれることが確約されると説きます。
    >
    >>浄土真宗はさらに一歩進んで、法蔵菩薩が阿弥陀如来となったことから四十八願は全てなしえており、(称名しなくとも)万人は既に救われている。それに気付くか気付かないかだけの違いであり、自分が悪人の要素もあると手を合わせた時に救われていることに気付く(悪人正機説)という教義と類似性がありますね。
    >
    >
    > 確かに親鸞聖人の『歎異抄』には、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」と、信心は、あくまで阿弥陀様から頂くものであり、己の修行で浄土へ往生するものではないことを述べています。
    >
    > しかも、「悪人正機」の思想を表す「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉は、一見しただけでは真の意味がとらえにくい言葉です。
    >
    > 「善人でさえ浄土へ往けるのだから、まして悪人はなおさらだ」という意味ですが、この言葉を表面的に解釈しようとすると、「善人」より「悪人」が浄土に往くのにふさわしい、と述べているように思われるため、倫理・道徳的な疑問が生じるはずです。
    >
    > 「悪人こそが阿弥陀仏の本願である救済の大元」ですが、阿弥陀仏とは、すべての人々をもれなく救うという誓いを立て、厳しい修行のもとに悟りを開いた仏のことで、その誓いを本願といい、「南無阿弥陀仏」とその名を呼ぶことを念仏といいます。
    >
    > そして、そこで説かれる悪人は、一般的な概念であるところの、倫理・道徳を逸脱した行為を行う人ではなく、「すべての人間の本質」を表しています。
    >
    > 煩悩にまみれ、永遠に苦しみから逃れられない人間を不憫に思い、阿弥陀仏は人々を必ず救うという本願を立てられたのであり、「悪人正機」における「悪人」とは、「人間」のことだということです。
    >
    > さらに、「善人」とは、「自力におぼれている人」、つまり阿弥陀仏に全てを頼らず、自分の力で救われようとしている人だと説明しています。このような、自らの善を誇って自分の欺瞞や邪見に気がつかず、他力をたのむ心が欠けている「善人」のことを「自力作善(じりきさぜん)」の人といって聖人は戒めています。
    >
    > つまり、「善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人はなおさらである」の真の意味とは、「他力をたのむ心が欠けている作善の人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、自力では救われないことを悟った穢悪汚染の人間が、他力をたのめば往生できるのは当然である」ということになります。
    >
    > 一般的な常識で解釈しようとすると、「善人」と「悪人」の順序が逆ではないかと思われ、またそのために「悪いことをしたほうが救われる」と教えを曲解する人も現れました。
    >
    > これこそ、「後の者が先に、先の者が後に」なるような説話で人間とは、それほどに罪深い存在なのだということを言っているとも解釈できます。
    >
    > 「悪人正機」の真の意味を理解しようとするとき、私たちは親鸞聖人が暴いた人間の本質に向き合うことになるのです。

    素晴らしい!異議なし!!^^
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■6873 / )  「悪人正機」
□投稿者/ ななし -(2020/09/20(Sun) 13:29:58)
    > なるほど。
    やはり浄土門と相通じるところがありますね。
    ご存知だとは思いますが、浄土宗では南無阿弥陀仏と称えることによって極楽浄土に導かれることが確約されると説きます。

    > 浄土真宗はさらに一歩進んで、法蔵菩薩が阿弥陀如来となったことから四十八願は全てなしえており、(称名しなくとも)万人は既に救われている。それに気付くか気付かないかだけの違いであり、自分が悪人の要素もあると手を合わせた時に救われていることに気付く(悪人正機説)という教義と類似性がありますね。


    確かに親鸞聖人の『歎異抄』には、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」と、信心は、あくまで阿弥陀様から頂くものであり、己の修行で浄土へ往生するものではないことを述べています。

    しかも、「悪人正機」の思想を表す「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉は、一見しただけでは真の意味がとらえにくい言葉です。

    「善人でさえ浄土へ往けるのだから、まして悪人はなおさらだ」という意味ですが、この言葉を表面的に解釈しようとすると、「善人」より「悪人」が浄土に往くのにふさわしい、と述べているように思われるため、倫理・道徳的な疑問が生じるはずです。

    「悪人こそが阿弥陀仏の本願である救済の大元」ですが、阿弥陀仏とは、すべての人々をもれなく救うという誓いを立て、厳しい修行のもとに悟りを開いた仏のことで、その誓いを本願といい、「南無阿弥陀仏」とその名を呼ぶことを念仏といいます。

    そして、そこで説かれる悪人は、一般的な概念であるところの、倫理・道徳を逸脱した行為を行う人ではなく、「すべての人間の本質」を表しています。

    煩悩にまみれ、永遠に苦しみから逃れられない人間を不憫に思い、阿弥陀仏は人々を必ず救うという本願を立てられたのであり、「悪人正機」における「悪人」とは、「人間」のことだということです。

    さらに、「善人」とは、「自力におぼれている人」、つまり阿弥陀仏に全てを頼らず、自分の力で救われようとしている人だと説明しています。このような、自らの善を誇って自分の欺瞞や邪見に気がつかず、他力をたのむ心が欠けている「善人」のことを「自力作善(じりきさぜん)」の人といって聖人は戒めています。

    つまり、「善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人はなおさらである」の真の意味とは、「他力をたのむ心が欠けている作善の人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、自力では救われないことを悟った穢悪汚染の人間が、他力をたのめば往生できるのは当然である」ということになります。

    一般的な常識で解釈しようとすると、「善人」と「悪人」の順序が逆ではないかと思われ、またそのために「悪いことをしたほうが救われる」と教えを曲解する人も現れました。

    これこそ、「後の者が先に、先の者が後に」なるような説話で人間とは、それほどに罪深い存在なのだということを言っているとも解釈できます。

    「悪人正機」の真の意味を理解しようとするとき、私たちは親鸞聖人が暴いた人間の本質に向き合うことになるのです。





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■6872 / )  マジカルさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/09/20(Sun) 11:52:59)
    マジカルさんへ こんにちは。お久しぶりです。

    > 私たちが、【言い返す機械】だったら、どうだろうか?

    > 私が言いたい事は、この世の全てが波動ならば、
    > コミュニケーションは永遠に続くのではないだろうか?

    > じゃ、この永遠につづくコミュニケーションを止めるには、
    > 「山」と言われても「川」とは答えないという事だ。なぜ?

    もしも人間が、感情のない機械ならば、そこにはプログラムされた何かがあるはずですね。「言い返す」というプログラムです。

    そこである時、私たち(言い返す機械)の中で、言い返すというコミュニケーションを止めたいと思考した(バグが発生した)人がいたのであれば、それは止まるのではないでしょうか。

    実際には、この「コミュニケーション」を日常での「論争」に言葉を置き換えてみるとよくわかると思います。

    ・じゃ、この永遠につづく論争を止めるには、「山」と言われても「川」とは答えないという事だ。なぜ?

    そこには「私の見解、私の考えたこと、私の思い」等々がないというバグが発生しているのだと思います。つまりは、「私の〜」というものがないのです。

    「私の〜」というものがないとはどういうことなのか?ですが、再度、実際に、論争をしない人を見ると、この私の意見や見解等、「私の思い」等に執着せずに会話します。これを仏教では、有身見の滅と言います。

    この「私」に対する執着がなくなると、その私に固執した見解が消滅します。(見解自体はありますが、それに対する固執がなくなるという意味です)

    では、その有身見の滅はどのような教えの実践で現実化するのかですが、「それは私の〜ではありませんよ。それを捨てなさいよ。」という五蘊非我という教えの実践です。

    ですので、この永遠につづく論争を止めるには、「山」と言われても「川」とは答えないという事だ。なぜ?・・・なぜならば、その見解(山だ、川だという思い)に固執・執着がなくなるからだと私ならば答えるでしょうか。

    ですので、論争や無駄話を続ける人と、そうでない人とが存在するのだと思います。

    トピずれ失礼しました。
返信/引用返信 削除キー/

■6870 / )  第五図について
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 11:36:27)
    2020/09/20(Sun) 11:54:03 編集(投稿者)

    こんにちは、knowing itselfさん。
    以下は興味本位からものものであり議論を目的としたものではなく、他意のない質問です。

    No6855に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 前にもいっていますがカント哲学の仏教バージョンも十分ありかなと思うのは、物自体が涅槃だとして、人間が涅槃に帰属していることの唯一の証しは、生きとし生けるものへの無条件の慈悲の念を発するときと置き換えることは?否定することが逆に困難?少なくとも、生きとし生けるものへの慈悲なしに涅槃に入ろうとすることは虫がよすぎるとはいえそう。

    良道さんは第五図の主体を超越的としているのに対して、一照さんは超越論的としています(バージョンUP170〜P171)。

    上記のレスからするとknowing itselfさんも第五図の主体は超越的と解釈されているということでしょうか。

    ちなみに第五図はともかく、パニチェにとって〈私〉は超越論的存在であることは確かです。
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■6869 / )  カントの後期批判哲学
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 11:25:15)
    カントは「純粋理性批判」と「実践理性批判」の中間書籍として「人倫の形而上学の基礎づけ」を出版している。
    ここで道徳は「理性的」であり、人間が道徳的であるのは、まさに人間が理性をもった存在だからと主張しているようだ。

    では「何故、人間が理性的なのか」という問いに対してカントは論理的には説明していないように思う。
    魂の不死と神の存在が要請されるのは徳と幸福が最高善として調停される必要に迫られるから、ということになるのか。

    未だカントの後期批判は自分の中では未消化のままである。

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■6868 / )  Re[45]: 思考とは何か?
□投稿者/ pipit -(2020/09/20(Sun) 10:34:07)
    おはようございます。
    No.6865 とてもおもしろい考え方だと思いました !
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■6867 / )  Re[28]: 『ぶどう園の労働者』のたとえ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 10:24:41)
    おはようございます、ななしさん。
    レスありがとうございます。

    > パニチェさん、おはようございます。
    > 『ぶどう園の労働者』のたとえで、ちょっと考えてみると、
    > 朝方6時から、9時、12時、3時、5時のそれぞれの時間に雇われた人たちと比べて、私などは、午後5時に来た人どころか、それより、もっと遅い午後5時59分、つまり、賃金の支払われる一分前のギリギリに来た人間みたいなものです。
    > それでも、神様は、気の毒に思って賃金を同じように払われるのです。
    > 自分には、何ら取柄もないどころか、神の働きが何もできていないのにもかかわらずです。
    > それは、自分自身か働いた善行の報酬ではなくて、あくまで神からの一方的な贈与、プレゼントなのですから、有難い話です。
    > でも、いつ逆転劇が起きるかは分かりません。
    > なぜなら「後の者が先に、先の者が後に」なるからです。
    > 心を引き締めて行かねばならないと思います。

    なるほど。
    やはり浄土門と相通じるところがありますね。
    ご存知だとは思いますが、浄土宗では南無阿弥陀仏と称えることによって極楽浄土に導かれることが確約されると説きます。

    識字率も低く仏典に縁することもままならない、明日食べるものもないような飢餓や飢饉の状況で、庶民は苦行なんてできるはずもなく、手を合わせることぐらいしかできない、こういう時代背景もあって浄土系仏教は大衆の間で広がりました。

    浄土真宗はさらに一歩進んで、法蔵菩薩が阿弥陀如来となったことから四十八願は全てなしえており、(称名しなくとも)万人は既に救われている。それに気付くか気付かないかだけの違いであり、自分が悪人の要素もあると手を合わせた時に救われていることに気付く(悪人正機説)という教義と類似性がありますね。

    修行にとって悟りをひらく聖道門と相反するようにも思えますが、目が開いた人(覚者)からすれば、悟ろうが悟らまいが、人間のあるがままが仏性そのものであることからして、これに気付くか気付かないかの違いだけという言葉からすれば、やはり道のりや乗り物の違いであるように思います。

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■6866 / )  Re[28]: 『ぶどう園の労働者』のたとえ
□投稿者/ ななし -(2020/09/20(Sun) 09:59:26)
    この例え話は、金持ちの青年がイエス様に

    「永遠の命を得るためにはどうすれば良いのですか?」と質問をし

    「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と。

    それを聞いて、お金持ちだった青年は悲しみながら立ち去って行きました。

    そして、その後にイエス様は

    「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」

    のだと仰ったのに対して、弟子たちは驚いて

    「 それでは、 だれ が 救わ れる の だろ う か」と言ったのです。

    イエス様は、「 それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と。

    ここでペテロが「 わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。
    では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」とガツガツ噛みついてきたのです。

    それに対しての『ぶどう園の労働者』のたとえです。

    実は、この「後の者が先に、先の者が後に」なるとは、このペテロ自身にも向けられていたとも言えます。

    神に、祈るというか、要求する、言わばタカルことは、勝ち組と負け組が逆転することなのかもしれませんね。


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■6865 / )  思考とは何か?
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/20(Sun) 09:43:16)
    私たちが、【言い返す機械】だったら、どうだろうか?

    ある人Aとある人B

    ある人Aが「山」と言ったら、ある人Bは「川」と言う。
    ある人Aが「川」と言ったら、ある人Bは「山」と言う。

    これは2人の会話である。

    じゃ3人にしてみよう。

    ある人Aが「山」と言ったら、ある人B、Cは「川」と言う。
    すると、ある人Bは「川」と言ったので、ある人A、Cは「山」と言わなければいけない。

    Cさんは大変だ、「川」と「山」を両方いわなければいけない。
    Bさんも然りです。

    じゃ、4人にしてみよう

    ある人Aが「山」と言ったら、ある人B、C、Dは「川」と言う。
    しかし、B、C、Dは「川」と聞いたので、「山」と言わなければいけない。
    結局Aも、「川」を言わざる得ない状態になってしまう。

    私が言いたい事は、この世の全てが波動ならば、
    コミュニケーションは永遠に続くのではないだろうか?

    じゃ、この永遠につづくコミュニケーションを止めるには、
    「山」と言われても「川」とは答えないという事だ。なぜ?
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■6864 / )  『ぶどう園の労働者』のたとえ
□投稿者/ ななし -(2020/09/20(Sun) 09:31:05)
    パニチェさん、おはようございます。

    『ぶどう園の労働者』のたとえで、ちょっと考えてみると、
    朝方6時から、9時、12時、3時、5時のそれぞれの時間に雇われた人たちと比べて、私などは、午後5時に来た人どころか、それより、もっと遅い午後5時59分、つまり、賃金の支払われる一分前のギリギリに来た人間みたいなものです。

    それでも、神様は、気の毒に思って賃金を同じように払われるのです。

    自分には、何ら取柄もないどころか、神の働きが何もできていないのにもかかわらずです。

    それは、自分自身か働いた善行の報酬ではなくて、あくまで神からの一方的な贈与、プレゼントなのですから、有難い話です。

    でも、いつ逆転劇が起きるかは分かりません。

    なぜなら「後の者が先に、先の者が後に」なるからです。

    心を引き締めて行かねばならないと思います。




返信/引用返信 削除キー/

■6863 / )  意識と無意識
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 09:26:56)
    2020/09/20(Sun) 09:41:10 編集(投稿者)

    おはようございます、minoriさん。
    レスありがとうございます。

    No6859に返信(minoriさんの記事)

    > 禅の公案も正解は一つだけに限定されているものではなく、おおよその正解らしさの方向性はありながらも、その人がナマの命としてどう表現するか、を見られるものなのかな、とか、ふと浮かびました。

    ほんとその通りだと思います。公案の目的は悟りへの誘導ですから、それを妨げるような回答は否定されますが、数学みたいに正解はひとつではないはずです。

    > 〈私〉を言語化しようとすると、完全には無理なのである意味、妥協したところでの表現をしているのだな、と考えると、おもしろいです。

    同感です。言葉は便利ですが、その反面、ある意味で私たちは言葉に依存し過ぎていて振り回されているところもあるんでしょうね。

    > >>縁ってすごいな、って思います。
    > >>テキストリームでの縁からニーチェクラブへ繋がり、パニチェさんに〈私〉を教えていただいて、なんとかそれを理解できるようになり・・・。
    > >>そうした縁(縁起)からなる全体性から、救い上げられる〈私〉。
    > >>西洋と東洋の出会いなのかな、と。
    >>禿同です。私もそのように考えていますし、更にこのテーマは脳科学や認知科学とも出会います。

    > パニチェさんは、その分野にもお詳しくいろいろと書かれていますよね。
    > 私には難しくてわからない部分が多いです。
    > ただ、意識って脳だけに収まっているものなのだろうか、というのは考えます。
    > パニチェさんは、意識のありかについてはどのようにお考えですか?
    > もしよかったら簡単にでいいですので教えてください。

    無意識も含めれば身体性全体だと思います。
    言葉によって器官とか臓器ってバラバラに認識されがちですが人体ってそもそも分離できない全体性、部分の寄せ集め以上の機能を有するゲシュタルト構造なんだと思います。
    脳や神経系は身体全体であり、例えば私たちのような脳を持たないアメフラシのような生物にも学習能力があることは確認されています。
    意識よりも無意識の方がはるかに広大で、意識と無意識も線引きできるようなものではなく、色彩のグラデーションの如く無意識から意識的活動になるのだと思います。
    脳科学的には以下のように説明されています。

    『意識のもとはガンマ波だと強く主張しているは、DNAの螺旋構造を発見してノーベル賞を共同受賞した生物学者のフランシス・クリックと、同僚のクリストフ・コッホである。数多くの実験で確認されているが、被験者が意識を伴った経験を報告するとき、その脳ではかならず40ヘルツの活動が検知される。しかも40ヘルツの活動が起こる領域は、意識的なその経験に関係あると思われる領域と重なっているのだ。通常の注意状態──完全に目が覚めていて、いまどういう状況にあるかを自覚しているが、特定の何かに意識が集中しているわけではない──では、神経細胞が40ヘルツの速さで発火する領域がたくさんある。ところが、ひとつのことに注意が向くと、全体的な発火頻度は落ちて、対象に関係が深い領域だけ40ヘルツを保つ。たとえば暗闇で道に迷ったときに草むらで物音が聞こえたら、五感で情報を拾う領域だけ40ヘルツで発火するが、それ以外の場所は15〜30ヘルツと静かになる。どうやら40ヘルツという発火頻度は、脳が積極的に「使われている」状態であり、それ以外の場所はオフラインになっているらしい。そうすると、脳が40ヘルツで活動することが意識的な経験だと考えたくなる。・・・しかし当然のことながら、やはり話はそう単純ではない。・・・40ヘルツの脳波は、麻酔で眠っている人間にも確認されている。・・・麻酔をかけた患者にロビンソン・クルーソーとフライデーの物語をテープで聞かせて、脳波を調べた実験がある。すると一部の患者に40ヘルツの脳波が見られた。・・・この脳波が出た患者だけは、テープで聞いた話を「取りこんで」いることがわかった。ただし物語の意識的な記憶が意識上にあるわけではない。「フライデー」という言葉から何を連想するかと聞かれて、「ロビンソン・クルーソー」と答えていただけである。40ヘルツの脳波が記録されなかった患者からは、この名前は出てこなかった。記憶は潜在的なもので、本人はそのことを意識していないが、実際の行動には影響を及ぼした。(原書房刊 リタ・カーター著 養老孟司監修 『脳と意識の地形図』より引用)』

    ニューロンの発火がある一定範囲以上になった時に後付けで意識的な活動になるということですね。
    脳や身体性は敏感(可塑的)で外部刺激にすぐ反応します。


    No6860に返信(minoriさんの記事)

    > なるほど。 自他の分別を超えたところの「我」と「独」が「唯我独尊」であり、意味としては、「一切衆生悉有仏性」とも通じてくる、という解釈になるのですね。
    > そして、そうしたことを認識できる人間であることの尊さを表現している、と。
    > 人間の持つ善性を讃えている言葉とも言えるのかな。
    > 絶滅危惧種の暴走族の背中に書かれてそうな「唯我独尊」が、仏性を本性として生まれてきた人間賛歌を意味するというのは、すでに「一切衆生悉有仏性」なのかも、って感じてしまいました。(意味不明かもですみません。でも、ふざけているのではなく・・・伝わるといいな、という思いでいます。)

    言われてみれば、ほんとそうですね。
    あと返信する際に思い浮かんだんだのですが、浄土門は難しい話(教義)を抜きにして人格神信仰に近いところもありますから、「唯我独尊」を額面通りに解釈しても信仰対象とすることに安心感は得られる言葉かもしれません。
    中東から起こった全知全能、唯一無二の絶対的存在である神に対する信仰と同じく。。。

    > パニチェさんももちろんご存じだと思う愚さんが、現在はブログとリンクしたYouTubeで活動されてるんですね。
    > ブログのコメント欄は、特定の数名のコメントで連日すごい数です。
    > 普通、ブログにだらだらコメント入れられたら嫌だと思うんですが、愚さんは厭わずたまに返信もしてるんですよね。
    > パニチェさんが書いたくださった解説で、愚さんのブログの状況が浮かんできました。

    確かに、そうですね。講演することも、それをYouTubeで提供することも、質問に回答することも、愚さんにとってはある意味で利他行なんでしょう。
    愚さんは底が抜けているので、修行によって自身の悟りがさらに深まることで、全体性にもよい影響を与えると考えておられるところもあるようです。

    利他行を苦もなくこなしている人(菩薩)を見るとツァラトゥストラの次の言葉が浮かびます。

    『そして或る朝、彼は曙光とともに起きて、太陽の前に歩み寄り、太陽に向かって次のように語った。「おまえ、大いなる天体よ!もしおまえが、照らしてやる者たちを持たなかったら、お前の幸福はどうなることであろう!十年間おまえはここへわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしのワシとわたしのヘビとがいなかったら、おまえはおまえの光とおまえの道とに飽き果てたことであろう。だが、わたしたちは毎朝おまえを待ち、おまえからおまえの過剰を奪い取り、その代わりにおまえを祝福した。見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1)』

    溢れ出る蜜(波羅蜜で体得した佛智)を他者に与えたいという衝動にかられるのかなぁ〜。^^

    > パニチェさんは、人としての深みがすでにすごい(この語彙力のなさ、すみません。)と思うんです。
    > 率直で裏表がないのに愛があるのが文面からわかります

    いやぁ〜、そんなええもんではなく、身に余り過ぎる言葉でもあり、買い被りですが、ありがとうございます。
    穴があったら、埋まりたい(笑)。

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■6862 / )  Re[15]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/20(Sun) 08:54:08)
    No6765に返信(エフニさんの記事)


    > 恐怖や異性との接触の夢は、身体からアドレナリンが出ると思うのですよ。
    >
    > そうすると、脳波は睡眠中のθ波(シータ波)やα波からβ波になってしまうから、目が覚めるのかなぁ、なんて思っています。


    な〜〜るほど。

    「異性との接触の夢」でアドレナリンが出るというのは少し腑に落ちませんが。



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■6861 / )  Re[15]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/20(Sun) 08:44:47)
    No6764に返信(エフニさんの記事)

    > 同じと言っても、全く同じでなくて、門の格子から覗くように見る場合や、勝手口が開いていて、そこから今まで見えなかった中が見えたりと、その時その時で具体的には違うのですが、その「豪邸を見ている」という点では、同じ夢なのです。


    前に見た夢を覚えていて筋(話しの、物語りの)を通して関連づけている主体の管理能力はすごいなと。


    > >家を確かめに行くってのも凄いし。<
    >
    > 哥哥は過去の経験を夢で思い出してるだけだと思っていたのです。
    >
    > だから、確かこの辺だったよな、とその家の方へ向かって行きました。


    何だろう。
    意識が別の意識に夢を見させていてそれを現実だと思い込ませていた、というところもすごいかなと。
    ・・・てか、見せられた方の意識が勝手に現実と解釈しちゃっただけ?
    うん?・・・・見せられた方の意識にとっては、実は夢も現実も変わりがなく、ただ夢のほうは消去(忘れられていく)から記憶に残らないだけ・・・とか?

    そういえば夢を見ている最中に「これは夢だ」と気づくことがあるとふ〜こが言っていました。私にはそんな経験がなかったのでそれってどんな感じだろうと思っていましたが、その後夢を見ている最中に「これは夢だ」と意識が走ったというか、言葉が聞こえた、(走った)そんな感じで目が覚めたことが有りました。
    これ、考えてみたら当たり前のことなのかもしれませんが、今まで複数の意識が自分の中で動いている、意識を統合する意識がある等具体的に感じたことが無かったので自分的にはなかなかの驚きでした。


    > >確認したら夢を見なくなったというのもおもしろいです。<
    >
    > 何度も同じ夢を見るのは、身辺に危険が迫っているときの、潜在意識からの警告(サイン。しるし。)だと聞いたことがあるのですが、この夢に何のメッセージがあるのか全くわかりませんでした。
    >
    > その後、何事も無く現在に至ってます。


    何かの錯誤が修正されたという感じですかね。
    思うに視覚情報の大部分は安全性が確認されると無意識のうちに(意識に上ることもなく)捨てられてしまうけれど、その中で意識が気にすることが夢となって現れたりするのかな?それが「潜在意識からの警告」と解釈されないこともないかなと思ってみたりします。



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■6860 / )  Re[45]: 第五図
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 06:31:28)

    > >>パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。
    >
    >>天上天下唯我独尊がありましたね。 これ、〈私〉に近いのかもしれないと、ふと思いました。
    >>なんと、お釈迦様が〈私〉を・・・になるのかな。
    >>それともちょっと違うのでしょうか。
    >>私にはわからなくてすみません。
    >
    > いえいえ、とんでもないです。^^
    > 以下はパニチェ的な我流解釈による「天上天下唯我独尊」です。
    >
    > まずエピソードとしての「天上天下唯我独尊」は後世の創作です。
    > で、教義としての意味は仏性を自己の本性としてこの世に生まれ出た人間賛歌であると解釈しています。
    > この「唯我独尊」は自他の分別を越えたところの「我」と「独」であることから「一切衆生悉有仏性」を指し、それを認識できる人間であることの尊さを表現した言葉であるように思います。

    なるほど。 自他の分別を超えたところの「我」と「独」が「唯我独尊」であり、意味としては、「一切衆生悉有仏性」とも通じてくる、という解釈になるのですね。
    そして、そうしたことを認識できる人間であることの尊さを表現している、と。
    人間の持つ善性を讃えている言葉とも言えるのかな。
    絶滅危惧種の暴走族の背中に書かれてそうな「唯我独尊」が、仏性を本性として生まれてきた人間賛歌を意味するというのは、すでに「一切衆生悉有仏性」なのかも、って感じてしまいました。(意味不明かもですみません。でも、ふざけているのではなく・・・伝わるといいな、という思いでいます。)

    パニチェさんももちろんご存じだと思う愚さんが、現在はブログとリンクしたYouTubeで活動されてるんですね。
    ブログのコメント欄は、特定の数名のコメントで連日すごい数です。
    普通、ブログにだらだらコメント入れられたら嫌だと思うんですが、愚さんは厭わずたまに返信もしてるんですよね。
    パニチェさんが書いたくださった解説で、愚さんのブログの状況が浮かんできました。


    >>それから、禅語の「主人公」。本来の自己のことなのだそうですが、本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているといえるのではないか、と思いました。
    >>いずれにしても、無我、非我、空でいったん否定されてから蘇る東洋哲学での「私」と、もともと自我として備わる西洋哲学の「私」の違い、というのはあるのかもしれません。
    >
    > 本来の自己は真我とか無位の真人なんかもそうですね。

    はい、そうですよね。

    > 本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているかどうかは、パニチェの底が抜けてからでないと返信できないところです。
    > 分かりませぬ、すまそ。。。^^

    パニチェさんは、人としての深みがすでにすごい(この語彙力のなさ、すみません。)と思うんです。
    率直で裏表がないのに愛があるのが文面からわかります。
返信/引用返信 削除キー/

■6859 / )  Re[44]: 第五図
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 06:00:47)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>仏教の言葉、出されている「無我」であるとかですが、おっしゃるように何が無我なのかはっきりしない(なので人により解釈もわかれる)というのはありますよね。
    >>西洋哲学の例えばカント哲学の解釈も、人によって多少違うというのはあるようですけど、それは、カントならカント研究の中での相違であって、仏教のように原始仏教と大乗仏教ではだいぶ違うというような違いとはまた別ですものね。
    >
    > 同意です。
    > 悟りの内実が言語道断とか不立文字(教外別伝)、勝義諦と表記される言語化できないものであるから尚更ですね。
    > そもそも自己自体である〈私〉が言語化できないことも関連するとは思いますが、ここのところは未だ探究中です。

    禅の公案も正解は一つだけに限定されているものではなく、おおよその正解らしさの方向性はありながらも、その人がナマの命としてどう表現するか、を見られるものなのかな、とか、ふと浮かびました。

    〈私〉を言語化しようとすると、完全には無理なのである意味、妥協したところでの表現をしているのだな、と考えると、おもしろいです。

    >>縁ってすごいな、って思います。
    >>テキストリームでの縁からニーチェクラブへと繋がり、パニチェさんに〈私〉を教えていただいて、なんとかそれを理解できるようになり・・・。
    >>そうした縁(縁起)からなる全体性から、救い上げられる〈私〉。
    >>西洋と東洋の出会いなのかな、と。
    >
    > 禿同です。私もそのように考えていますし、更にこのテーマは脳科学や認知科学とも出会います。

    パニチェさんは、その分野にもお詳しくいろいろと書かれていますよね。
    私には難しくてわからない部分が多いです。
    ただ、意識って脳だけに収まっているものなのだろうか、というのは考えます。
    パニチェさんは、意識のありかについてはどのようにお考えですか?
    もしよかったら簡単にでいいですので教えてください。

    >>〈私〉は、仏教で言うと「諸法実相」で表わされるもの、でいいのでしょうか?
    >>そうであれば、仏教でもまったく扱ってはいないわけでもないのかな、と思いました。
    >
    > ここ厳密には探究途上でペンディングです。
    > 少なくとも現段階でのパニチェにとってこれ以上の実相はないというのが〈私〉ではあるんですが、諸法実相との合一は未だ為しえておりません。

    はい。
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■6858 / )  Re[46]: メメント・モリ
□投稿者/ flora -(2020/09/20(Sun) 05:19:00)
    こんばんは 田秋さん

    > この言葉、知りませんでした。英語で言うとmortal moment 位になるんですか?

    英語にすれば(You) remember to die.でしょうか。というのもmementoは動詞のようです。

    > 人は必ず死ぬということを忘れるな→驕るなかれ、という戒めの言葉が、今を楽しめ!なり、キリスト教以降は現世の栄華を慎め!になった。
    > 大体そういう理解でいいですか?

    これと一緒にVanitas、つまりvanity、虚無、という言葉も使われたそうです。どんなに栄えていてもいつかは死ぬという虚無感かもしれませんね。

    > 色々調べていくうちにサンサーンスの《の舞死踏》にたどり着きました。ただメメント・モリと直接結びつくのかどうかはイマイチ'?'が付きますが・・・
    > https://www.youtube.com/watch?v=71fZhMXlGT4
    > このコンマス、上手いですね。

    ほんとうまいですね (→私は言うなって!)《死の舞踏》も同じ意味かもしれません。

    WIKIですがこうあります

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%88%9E%E8%B8%8F_(%E7%BE%8E%E8%A1%93)

    ところで、江戸時代の根付や薬入れに髑髏が使われていたりしますよね。あれはどういう意味なんででょうか? 教えてプリーズ〜。


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■6857 / )  このトピ、やる事が無くなったよね。
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/20(Sun) 00:50:46)
    仮に外部の世界が、波動で出来ていたら、
    未来何て無数にあるよね?

    目と違って、耳は聞き分けができるからね。

    「神がいるよ」と言われ、
    神がいると思うのなら、「神がいる」んだし、
    いないと思えば「神はいない」のだし…
    カント哲学の理性の二律背反だよね。

    ブーム(流行)に近いよね。
    文化はわかりやすいよ。
    東京で流行ったものが、田舎に到達するのは、波の原理だからね。
    流行が到達していないから、田舎なんですよ。
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■6856 / )  Re[7]: 第五図の認識についての差異
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/19(Sat) 22:42:02)
    No6847に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 夢ひとつみない完全熟睡状態であることに、その場で気づける状態X。
    > その同じXの上に第四図が乗っかっていることを認識する。第五図の認識をこのように捉えているのが山下良道さんだと思います。藤田一照さんとは明確に違います。
    >
    > Xというのは仏教用語では涅槃になるでしょう。

    違いますね。 藤田一照さんは普通の仏教者だと思います。
    藤田一照さんの会にも入ってるけど、私の感覚に近いです。
    道が涅槃であるという考えで、それはそれでいいと思うけど違う本を読みたい感じです。
    私が今思ってるのは、各自の仏教者がバラバラに涅槃を主張してて何が涅槃なのかわからないんですよ(笑)
    一体何処がゴールなんだよと(笑)
    藤田さんは曹洞宗だから、あまり奇抜なこと言ったりやったり出来ないのかもしれませんね。
    山下良道さんは、曹洞宗と喧嘩して海外あちこち放浪して自分のスタイルを作り上げたそうです。
    涅槃の解釈としてあるのは、その二個だけですか?
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■6855 / )  慈悲の念と涅槃
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 21:51:31)
    前にもいっていますがカント哲学の仏教バージョンも十分ありかなと思うのは、物自体が涅槃だとして、人間が涅槃に帰属していることの唯一の証しは、生きとし生けるものへの無条件の慈悲の念を発するときと置き換えることは?否定することが逆に困難?少なくとも、生きとし生けるものへの慈悲なしに涅槃に入ろうとすることは虫がよすぎるとはいえそう。
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■6854 / )  しかし、凄いもんだな…
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/19(Sat) 21:50:25)
    正直、読書を日常にルーティーンにしている方々は初めてだな。
    読書はいいですよ、霊的な愛を無条件に受け取れるからね。
    辛抱強いのだろう。
    私は釣りでも歩き回りますね。


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■6853 / )  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 21:45:03)

    > 第五図であることを覚知した方が、第四図でもラクになれるということだと思います。
    >
    > 第四図がすべてと思うのが苦悩や葛藤の根源だと。<

    了解です、納得できます、
    いつも本当にありがとうございます (^人^)
返信/引用返信 削除キー/

■6852 / )  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 21:39:26)
    返信ありがとうございます。

    > どんなひどい第四図を作ってる人でも、本当は、第五図だよ、ってことで、
    > でも、自己が第五図であることを覚知すべき、というのが山下先生の説いているところなのでしょうか?

    第五図であることを覚知した方が、第四図でもラクになれるということだと思います。

    第四図がすべてと思うのが苦悩や葛藤の根源だと。
返信/引用返信 削除キー/

■6851 / )  Re[4]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/19(Sat) 21:37:50)
    No6843に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 夢をまったくみない完全熟睡状態を想定してみます。それに対して目ざめて活動している日常があります。見性や悟りを前者に喩えることはよく行われると思います。ただ、夢ひとつみない熟睡状態にいたことは、覚めてみないとわからないといわれるでしょう。
    >
    > 他方、第五図のときに第五図を認識できるというのは、夢をまったくみない完全熟睡状態のときに、そのことに気づけることだと。山下良道さんはこの立場だと思います。当然のことながら、同意している人は極めて少数でしょう。
    >
    > この主張は、「仏教3・0を哲学するバージョンU」でもいわれています。この本はカント哲学とも関係しています。


    knowing itselfさん、ありがとうございますmom
    私も仏教界にそんなに詳しいわけではないですが、少数派のスタンスであることは間違いないと思います。
    面白そうだ(笑)
    当たり前の本なんかつまらない。バージョン2ですね。早速注文します。


返信/引用返信 削除キー/

■6850 / )  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 21:30:43)
    返信ありがとうございます。m(_ _)m

    No6847に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 夢ひとつみない完全熟睡状態であることに、その場で気づける状態X。
    > その同じXの上に第四図が乗っかっていることを認識する。第五図の認識をこのように捉えているのが山下良道さんだと思います。藤田一照さんとは明確に違います。
    >
    > Xというのは仏教用語では涅槃になるでしょう。

    どんなひどい第四図を作ってる人でも、本当は、第五図だよ、ってことで、
    でも、自己が第五図であることを覚知すべき、というのが山下先生の説いているところなのでしょうか?
返信/引用返信 削除キー/

■6849 / )  Re[3]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/19(Sat) 21:27:35)
    No6842に返信(pipitさんの記事)
    > すみません、公案の文章などが難しくて、わかりませんでしたが、
    > もしかして、牛の尻尾が世俗と思われてるのかな?
    >

    Pipitさん、こんばんわ。

    いや牛の尻尾が世俗だとは思っていません。
    公案の答えを公の掲示板に書くわけにいかないけども、牛の尻尾を
    差し障りないように言えば仏教ドラマの第一話と第二話の境目だと思います。

返信/引用返信 削除キー/

■6848 / )  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 21:23:46)
    興味深かった、永井均先生の文章を引用します。
    出版社のサンガが発行している『サンガジャパンVol 30』という雑誌の、永井先生と禅僧のネルケ無方さんの対談に載っていました。p372より引用

    第五図の話題の中での発言です。
    『永井 (略)
    逆に言えば、こちら側からすべてがただあるがままに見えているということですね。こっちの観点からぜんぶ見えているというのが、いわゆるマインドフルネスということですね。
    気づきとかサティとかヴィパッサナーとか、そういうこと。パノラマ的な世界です。
    そこで体には体の補助的な役割はあると思います。
    体の感覚をそれとして捉えることが世界そのものをそれとして捉えることの練習みたいな、あるいは模型みたいな形で役立つ。
    体は大事だけど、物的な意味での体が大事なんじゃなくて、むしろ身体感覚というものの独在性が重要で、その独在性の側から世界、私秘的な世界も、この悪い繋がりの世界も、あるいは良き繋がりの世界も、ぜんぶここから見て、捉え直すことができる。
    これは、ある意味では、いつも現にそうしていますから、そうと気づくだけで簡単にできるとも言えます。
    しかし同時に効力があるんですね、そこに立ち戻るだけで。
    内山老師はある時、ある点では、間違いなくそれを掴んで、世界像と効力の両方を、その繋がりを掴んだのだろうと思います。「一切分の一切」とか「見渡す限りの自己」とか。(略)』


    No6752に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 第五図というのは、坐禅する身体の上に第四図がそのまま乗っかっています。第四図が単に反面教師的な貪りの人生の寓意ではなく、純粋理性批判における感性と悟性による共同作業を漫画化したと読めるなら、坐禅する身体も、認識を触発する究極の源泉としての物自体とみる方が面白いと思う。第五図の本体が坐禅する身体なら、第四図と結局は同じになる。<

    永井先生も、knowing itselfさんと同じ捉え方なのかな?
    パノラマ的、という言葉を出されてましたね
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■6847 / )  第五図の認識についての差異
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 21:19:36)
    夢ひとつみない完全熟睡状態であることに、その場で気づける状態X。
    その同じXの上に第四図が乗っかっていることを認識する。第五図の認識をこのように捉えているのが山下良道さんだと思います。藤田一照さんとは明確に違います。

    Xというのは仏教用語では涅槃になるでしょう。
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■6846 / )  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 21:11:50)
    こんばんは

    >>永井さんによると、カントが「純粋理性批判」で使った考え方を借用して、内山興正は第四図を捉えているそうです。私見では、現象はすべて第四図だと思います。<
    >
    > 内山さんの文章で、第五図について、
    > 『この『自己』は、さきにいったような、アタマの展開した舞台のうえに、わが生命をただその一員として投げ込んでしまっている『たんなる人間としての自分』(第四図(A)(B))とは区別きておかねばなりません。』
    > (『〈仏教3.0〉を哲学する』p113より引用)
    > とあるそうですね。
    > 第四図は全て現象であり、自己も、時間空間に規定される現象として、一員として、投げ込んでいる。
    >
    >
    >
    >>第五図=物自体といっているのはわたしだけかもしれません。現象では捉えきれないより基底にある存在様式といえば、物自体しかないので、第五図=物自体でいいと考えます。
    >>物自体であれば、身体の部分がそれであることはありません。よって第五図=物自体であれば、身体と同一化できないなんらかの意識になると思います。<
    >
    > そうかぁ、
    > 頭の中の現象も合わせて肯定されてるのが、第五図なんですね。
    > 意識とか青空とか気づきとかスクリーンとか呼ばれてるものなのかなぁ。

    第四図が肯定されているというより、第四図が乗っかっている本体のいのち(第五図)をつかみさえすれば、アタマの中である第四図の内容はどうであろうと第五図が否定されることはない、というのが山下良道さんの考えだと思います。

    > それで、たーぼーさんが紹介してくださったポッドキャストで、山下さんが、柱も悟り、みたいな表現をされてたのかな、と思いました。
    >
    >
    >>第五図が物自体なら、物自体は感性と悟性の共同作業である認識の対象になることは不可能だというのかカントですね。善意志によって第五図が変わるのではなく、善意志だけが第五図から直接発しているのだと考えています。<
    >
    > knowing itselfさんがそうお考えになられてること、了解しました。
    > (って、誤解してたらすみませんm(_ _)m)

    カントがそう考えているだろうとknowing itselfは考えています。
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■6845 / )  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 20:54:38)
    こんばんは!

    No6737に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 永井さんによると、カントが「純粋理性批判」で使った考え方を借用して、内山興正は第四図を捉えているそうです。私見では、現象はすべて第四図だと思います。<

    内山さんの文章で、第五図について、
    『この『自己』は、さきにいったような、アタマの展開した舞台のうえに、わが生命をただその一員として投げ込んでしまっている『たんなる人間としての自分』(第四図(A)(B))とは区別きておかねばなりません。』
    (『〈仏教3.0〉を哲学する』p113より引用)
    とあるそうですね。
    第四図は全て現象であり、自己も、時間空間に規定される現象として、一員として、投げ込んでいる。



    > 第五図=物自体といっているのはわたしだけかもしれません。現象では捉えきれないより基底にある存在様式といえば、物自体しかないので、第五図=物自体でいいと考えます。
    > 物自体であれば、身体の部分がそれであることはありません。よって第五図=物自体であれば、身体と同一化できないなんらかの意識になると思います。<

    そうかぁ、
    頭の中の現象も合わせて肯定されてるのが、第五図なんですね。
    意識とか青空とか気づきとかスクリーンとか呼ばれてるものなのかなぁ。
    それで、たーぼーさんが紹介してくださったポッドキャストで、山下さんが、柱も悟り、みたいな表現をされてたのかな、と思いました。


    > 第五図が物自体なら、物自体は感性と悟性の共同作業である認識の対象になることは不可能だというのかカントですね。善意志によって第五図が変わるのではなく、善意志だけが第五図から直接発しているのだと考えています。<

    knowing itselfさんがそうお考えになられてること、了解しました。
    (って、誤解してたらすみませんm(_ _)m)

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■6844 / )  Re[14]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/19(Sat) 20:48:50)
    No6728に返信(エフニさんの記事)


    > ☆そうでした。
    >
    > イアン・ハッキングの本も最近購入しましたものね。
    >
    > 時間が無いのでしたら、私が書いたことを、取り敢えず知識に入れて下されば、必要なことは済むと思います。
    >
    > 経済人類学は、バタイユの「過剰と蕩尽理論」を取り入れています。
    >
    > 人間は、日々の(ケの)労働で禁欲し、欲望を蓄積して過剰にし、祝祭(ハレ)のときに、その過剰を蕩尽するのです。

    *************

    > イアン・ハッキングの本も最近購入しましたものね。

    はい。
    一応読んでいます。
    読み終わるのに1年くらいかかるんじゃないかと。(笑)

    そう言えば「ツァラトゥストラ」も読み終えるまで時間がかかった記憶があります。
    そう言えばゲーテの「ファウスト」も時間がかかった記憶あります。

    「パン猿」は購入しました♪
    読むのが楽しみです。
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■6843 / )  たーぼーさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 20:48:35)
    夢をまったくみない完全熟睡状態を想定してみます。それに対して目ざめて活動している日常があります。見性や悟りを前者に喩えることはよく行われると思います。ただ、夢ひとつみない熟睡状態にいたことは、覚めてみないとわからないといわれるでしょう。

    他方、第五図のときに第五図を認識できるというのは、夢をまったくみない完全熟睡状態のときに、そのことに気づけることだと。山下良道さんはこの立場だと思います。当然のことながら、同意している人は極めて少数でしょう。

    この主張は、「仏教3・0を哲学するバージョンU」でもいわれています。この本はカント哲学とも関係しています。
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■6842 / )  たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 20:29:25)
    すみません、公案の文章などが難しくて、わかりませんでしたが、
    もしかして、牛の尻尾が世俗と思われてるのかな?

    No6726に返信(たーぼーさんの記事)
    > この山下良道さんの法話(私の二重構造の実体験のみが仏教3.0の鍵)で、日本の大乗仏教は前提としては二重構造なんだけど、それが実感出来ないまま大乗仏教に入ると非常に苦しいことになると言うのは具体的に言うとこういう事なんです。
    >
    > 公案1700の中でも八大難透といわれる公案があるんですが、その中に牛過窓櫺という公案があります。
    >
    > 三十八 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)
    > 五祖曰く,譬(たと)えば水&#29295;牛(すいこぎゅう)の窓櫺(そうれい)を過ぐるが如く,頭角(ずかく)四蹄(してい)都(す)べて過ぎ了(おわ)る,甚麼(なん)に因(よ)ってか尾巴(びは)過ぐることを得ざる。
    > 無門曰く,若(も)し者裏(じゃり)に向かって顛倒(てんどう)して,一隻眼(いっせきげん)を著得(じゃくとく)し,一転語(いってんご)を下し得ば,以って上四恩に報じ,下三有を資(たす)くべし。其れ或いは未だ然(しか)らずんば,更に須らく尾巴を照顧(しょうこ)して始めて得べし。
    > 頌(じゅ)に曰く,
    > 過ぎ去れば抗塹(きょうぜん)に堕(お)ち,回(かえ)り来たれば却(かえ)って壞(やぶ)る。
    > 者些(しゃし)の尾巴子,直に是れ甚(はなは)だ奇怪。
    >
    > これを禅歴30年の禅者は、この公案のポイントとはと問われて、
    > その牛はどこにいるか?
    > その牛をここに引き出せ
    > その牛いつの時代に生まれたか?
    > その牛、東に過ぎたか、西に過ぎたか?
    > 牛、ソウレイを過ぎる
    > 公案の全体
    > その牛、おすかめすか?
    > 子を産んでみよ
    >
    > と答えたんです。
    > でも牛を問題にするなら、もう公案など必要ないレベルなんです。
    > 公案1700全てもはや意味がないんです。
    > [者些(しゃし)の尾巴子]つまり牛の尻尾とは何か、どうして牛の尻尾が通らないかというのがこの公案のポイントであって、牛を問題にするならもう公案なんか必要ないんです。
    > だから私の二重構造の実体験のみが仏教3.0の鍵というのは、とても大事な問題提起だと思います。
    >
    >
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■6841 / )  Re[22]: 山下良道さん
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 20:25:44)
    たーぼーさん、こんばんは!
    法話聞かせていただきました (^_^)

    私の好みとしては、
    どの道からも、傷つきながらでも、
    各人が目指す境地に、各人が成功すればいいな、と、思いました。

    山下さんは、仏教3.0だと、傷つく必要はないよ、苦労はないよ、
    とされてるのかもしれませんね。

    たーぼーさんにはピッタリなのかな?
    ピッタリだと、いいな、と、思いました。


    No6723に返信(たーぼーさんの記事)
    > 山下良道 wikiから
    > >
    > >山下はこの原因を、仏教が始まってから大乗仏教(仏教1.0)に至るまでの過程情報が日本にいきいきと伝わらなかったためであると指摘し[35]、その事情を「二話連続のテレビドラマ(仏教)をいきなり第二話(大乗仏教、仏教1.0)から見始めた状態」と喩えている[36]。第一話(仏教2.0)を知らないまま第二話(仏教1.0)を見ているので、第二話としての大乗仏教(仏教1.0)の前提がピンとこず、大乗仏教の教義の出発点に実感を持てないままでその教義を受容せざるを得なくなる状況があるという[37]。このような事情を山下は「大乗仏教の悩み」・「日本仏教の悲劇のもと」であると述べ、第一話に相当するテーラワーダ仏教(仏教2.0)の内容を踏まえる必要性を説く[37][注釈 3]。
    >
    >
    > これは今の日本仏教の問題点の核心を突いている問題提起だと思います。
    > どうして日本で大乗仏教が隆盛を誇ったのか、ここを踏まえないと理解出来ないと思う。
    > 今の日本の大乗仏教は法華経の例え話の真意を理解できるでしょうか?
    >
    >
    > https://www.onedhamma.com/
    >
    > この中の<私の二重構造の実体験のみが仏教3.0の鍵だから>という法話を聞いて見てください。
    > とてもいい法話だったので紹介しました。
    >
返信/引用返信 削除キー/

■6840 / )  Re[23]: たーぼーさん
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/19(Sat) 20:10:36)
    No6823に返信(knowing itselfさん)

    knowing itselfさん、こんばんわ。

    > 一点で止まるのがまずいのはおっしゃるとおりだと思います。
    >
    > たーぼーさんの書き込みで仏教3・0や山下良道さんが言及されていましたが、その辺りの関連書、わたしも何冊か読んでいます。山下良道さんについていえば、彼ならではの最大の主張ポイントも一応理解したつもりです。それは第五図を第五図のところで認識できることだと思います。メチャクチャぶっ飛んだ発言なので、理解してくれる仏教関係者がほとんどいないそうです。
    >
    > 彼のいう第五図の認識というのは、主体が客体を認識するという通常の認識ではなく、主体も客体も消失した後、なお働いている意識のようなものだと思います。その意識を体験後に、あああのときはそういう意識だったと振り返って初めて自覚できるのではなく、体験の真っ最中に意識できている、そういう意識ですね。そういう意識が第四図の中身を認識できているのが、山下良道さんの第五図の認識だと思います。普通の人の意識は第四図を一歩も出ていない。

    私も今までの仏教理解から少し脱皮しないといけないと思ってるんですよ。
    仏教2.0は理解してるつもりなんだけど、いまいち仏教1.0がわからないんです。
    山下さんの本で一番良かったの教えてくれませんか?
    第五図を第五図のところで認識できるって凄く興味あります。


返信/引用返信 削除キー/

■6839 / )  メメント・モリ
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/19(Sat) 20:08:32)
     こんばんは、floraさん

    この言葉、知りませんでした。英語で言うとmortal moment 位になるんですか?
    人は必ず死ぬということを忘れるな→驕るなかれ、という戒めの言葉が、今を楽しめ!なり、キリスト教以降は現世の栄華を慎め!になった。
    大体そういう理解でいいですか?

    色々調べていくうちにサンサーンスの《死の舞踏》にたどり着きました。ただメメント・モリと直接結びつくのかどうかはイマイチ'?'が付きますが・・・
    https://www.youtube.com/watch?v=71fZhMXlGT4
    このコンマス、上手いですね。
返信/引用返信 削除キー/

■6838 / )  Re[64]: 「私」と「我」
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 19:46:10)
    2020/09/20(Sun) 08:39:04 編集(投稿者)

    返信、横レスは以下のトピにどうぞ♪

    哲学全般、科学(科学哲学)、仏教etc 2

    (「〈私〉について 7」も兼ねる)
返信/引用返信 削除キー/

■6837 / )  Re[14]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/19(Sat) 19:44:24)
    No6724に返信(エフニさんの記事)
    > >そですね。<
    >
    > もちろん、妹君ちゃんが言った、暴力性と性衝動のいくつかも、狂気のうちに含まれます。
    >
    > サイコパスのシリアルキラーの残虐性もこれに該当しますし、ニンフォマニアック(色情狂)は病名になっていました。
    >
    > >意識の圏外で心がむやみに生じる制御できない、そんな場合があるのだろうと。<
    >
    > 「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」(閑吟集より)
    >
    > >いえ。いえ。ダメじゃないです。<
    >
    > ありがとうございますぅ&#65533;&#59028;
    >
    > あと宗教的狂熱が、無意識の狂気の扉を開くことがありますね。
    >
    > 卑弥呼やジャンヌ・ダルク、中山みき、出口ナオ。
    >
    > 集団では、十字軍、宗教戦争、魔女裁判等々。


    ***********

    考えるともなく考えているのですが、


    > サイコパスのシリアルキラーの残虐性もこれに該当しますし、ニンフォマニアック(色情狂)は病名になっていました。

    ちょうど「ウエストワールド」シーズン2を見始めたところです。
    そこで繰り広げられるのは無意識と親和性のある狂気どころか顕在化された狂気かなぁ。
    殺人や暴力、性交し放題の仮想空間で隠すこともなく欲望を充足している。
    殺人や暴力、無秩序な性交が批判されず裁かれず代償を支払わないで済むなら
    もしかしたら誰もそのような行為を隠そうとはしないのではないか。
    隠さなくて済むならば無意識などという傘の下に入らなくても済むのではないか。

    > 「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」(閑吟集より)

    私、最近斜め45度くらいのときあります。
    「お前は狂っとけ。」で終了みたいな。

    > あと宗教的狂熱が、無意識の狂気の扉を開くことがありますね。
    >
    > 卑弥呼やジャンヌ・ダルク、中山みき、出口ナオ。
    >
    > 集団では、十字軍、宗教戦争、魔女裁判等々。

    きっとそうなのだろうと思います。
    宗教的狂熱が伝搬するってことあるかと思います。
    ・・・とても人間らしいかなと。

返信/引用返信 削除キー/

■6836 / )  Re[63]: 「私」と「我」
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 18:50:02)
    2020/09/19(Sat) 19:27:30 編集(投稿者)

    No6834に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > デカルトの「ego cogito」は日訳で「我思う」ってなってるみたいだけど、
    > パニチェさまの場合、「我」と「私」あるいは〈私〉とは区別してます?
    > あ、それと、日本語では似たような語として「己」、「自己」、「自分」、「自身」みたいなのあるけど、これ区別してる?

    〈私〉とその他の言葉「我」「私」「己」「自己」「自分」「自身」は区別してるよ。

    〈私〉というのは言葉にすることによって変質してしまうところの「私」という語が指し示す誰にも当てはまらない唯一無二の存在のこと。

    「我」「私」「己」「自己」「自分」「自身」は辞書に載っている意味や用法でいいと思うし、特別な使い方をする必要がない言葉やわ。

    デカルトのコギトは〈〈私〉〉のことだと思う。
    それを読者が自分のこととして解釈した時点で〈〈私〉〉ではなくなる。

    〈私〉とは自分(パニチェ)のみに当てはまる言語化できない唯一無二の対象を表記したもので、本来は他者には当てはまらない。

    但し、おそらく(推論でしかなく、厳密には知り得ないが)他者にも同じような存在があるはずなので、それを〈〈私〉〉と表記してんねん。
返信/引用返信 削除キー/

■6835 / )  Re[63]: 「私」と「我」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/19(Sat) 18:13:20)
    ■6834、あ、「edo」になっちゃてる。
    訂正です。「ego」です。
    ごめんなさい。

返信/引用返信 削除キー/

■6834 / )  Re[62]: 「私」と「我」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/19(Sat) 17:56:39)
    デカルトの「edo cogito」は日訳で「我思う」ってなってるみたいだけど、
    パニチェさまの場合、「我」と「私」あるいは〈私〉とは区別してます?

    あ、それと、日本語では似たような語として「己」、「自己」、「自分」、「自身」みたいなのあるけど、これ区別してる?
返信/引用返信 削除キー/

■6833 / )  Re[25]: ぴぴとさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/19(Sat) 17:44:44)
    ■6831、■6832、なんか変なところ押しちゃったみたいで、ごめんなさい。

    >カントは、純粋数学と、純粋な自然科学は、真理という表現ではなく(見落としてたらごめん!)、【アプリオリな総合判断の実例】である、と表現していました。アプリオリな認識の特徴は、必然性と厳密な普遍性、とありました<

    「真理」っていう表言をなくして、

    「アプリオリな総合判断、あるいはアプリオリな認識の特徴は必然性と厳密な普遍性である」あるいは「必然性と厳密な普遍性という特徴をもつものがアプリオリな総合判断(アプリオリな認識)である」
    が前提となってるようにも見えるんだけど?

    それにしても「純粋な数学」とか「純粋な自然科学」っていうのどういうのかしらね?




返信/引用返信 削除キー/

■6832 / )  Re[24]: ppipit
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/19(Sat) 17:36:14)
    ■6831
返信/引用返信 削除キー/

■6831 / )  Re[23]pipit
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/19(Sat) 17:35:13)
    『純粋理性批判』の序論を読んでみました。

    カントは、純粋数学と、純粋な自然科学は、真理という表現ではなく(見落としてたらごめん!)、【アプリオリな総合判断の実例】である、と表現していました。
    アプリオリな認識の特徴は、必然性と厳密な普遍性、とありました。
返信/引用返信 削除キー/

■6830 / )  Re[29]: knowing itself さまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/19(Sat) 17:16:08)
    ■6820、あら、うれしい。

    じゃ「ing」の場合、問題はその”先”ね。
返信/引用返信 削除キー/

■6829 / )  Re[44]: 第五図
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 16:57:02)
    No6827に返信(minoriさんの記事)

    >>パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。

    > 天上天下唯我独尊がありましたね。 これ、〈私〉に近いのかもしれないと、ふと思いました。
    > なんと、お釈迦様が〈私〉を・・・になるのかな。
    > それともちょっと違うのでしょうか。
    > 私にはわからなくてすみません。

    いえいえ、とんでもないです。^^
    以下はパニチェ的な我流解釈による「天上天下唯我独尊」です。

    まずエピソードとしての「天上天下唯我独尊」は後世の創作です。
    で、教義としての意味は仏性を自己の本性としてこの世に生まれ出た人間賛歌であると解釈しています。
    この「唯我独尊」は自他の分別を越えたところの「我」と「独」であることから「一切衆生悉有仏性」を指し、それを認識できる人間であることの尊さを表現した言葉であるように思います。

    > それから、禅語の「主人公」。本来の自己のことなのだそうですが、本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているといえるのではないか、と思いました。
    > いずれにしても、無我、非我、空でいったん否定されてから蘇る東洋哲学での「私」と、もともと自我として備わる西洋哲学の「私」の違い、というのはあるのかもしれません。

    本来の自己は真我とか無位の真人なんかもそうですね。
    本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているかどうかは、パニチェの底が抜けてからでないと返信できないところです。
    分かりませぬ、すまそ。。。^^

返信/引用返信 削除キー/

■6828 / )  Re[43]: 第五図
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 16:42:20)
    minoriさん、レスありがとうございます。

    No6817に返信(minoriさんの記事)

    > 私は仏教にも西洋哲学にもまったく詳しくないので、僭越な意見になってしまうことを皆様にお許し頂いて書くとすると・・・
    > 仏教の言葉、出されている「無我」であるとかですが、おっしゃるように何が無我なのかはっきりしない(なので人により解釈もわかれる)というのはありますよね。
    > 西洋哲学の例えばカント哲学の解釈も、人によって多少違うというのはあるようですけど、それは、カントならカント研究の中での相違であって、仏教のように原始仏教と大乗仏教ではだいぶ違うというような違いとはまた別ですものね。

    同意です。
    悟りの内実が言語道断とか不立文字(教外別伝)、勝義諦と表記される言語化できないものであるから尚更ですね。
    そもそも自己自体である〈私〉が言語化できないことも関連するとは思いますが、ここのところは未だ探究中です。

    > はい、それもあるでしょうし、西洋哲学まで手が回らない人が多いというのもあるんじゃないでしょうか。

    なるほど。

    > 縁ってすごいな、って思います。
    > テキストリームでの縁からニーチェクラブへと繋がり、パニチェさんに〈私〉を教えていただいて、なんとかそれを理解できるようになり・・・。
    > そうした縁(縁起)からなる全体性から、救い上げられる〈私〉。
    > 西洋と東洋の出会いなのかな、と。

    禿同です。私もそのように考えていますし、更にこのテーマは脳科学や認知科学とも出会います。

    > 〈私〉は、仏教で言うと「諸法実相」で表わされるもの、でいいのでしょうか?
    > そうであれば、仏教でもまったく扱ってはいないわけでもないのかな、と思いました。

    ここ厳密には探究途上でペンディングです。
    少なくとも現段階でのパニチェにとってこれ以上の実相はないというのが〈私〉ではあるんですが、諸法実相との合一は未だ為しえておりません。

返信/引用返信 削除キー/

■6827 / )  Re[43]: 第五図
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 16:39:29)
    ふと思い出したので追加させてください。


    > パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。

    天上天下唯我独尊がありましたね。 これ、〈私〉に近いのかもしれないと、ふと思いました。
    なんと、お釈迦様が〈私〉を・・・になるのかな。
    それともちょっと違うのでしょうか。
    私にはわからなくてすみません。

    それから、禅語の「主人公」。本来の自己のことなのだそうですが、本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているといえるのではないか、と思いました。

    いずれにしても、無我、非我、空でいったん否定されてから蘇る東洋哲学での「私」と、もともと自我として備わる西洋哲学の「私」の違い、というのはあるのかもしれません。

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■6826 / )  Re[73]: 見本
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 16:36:55)
    見本は、空間時間上に、表わされた規定だから、言葉による指示だけよりも、共有しやすいんだね d(^_^o)
返信/引用返信 削除キー/

■6825 / )  見本
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 16:34:12)
    私は自分勝手な勘違いも多いので、仕事ではじめてのこと任される時は、
    すみません、見本みせてもらっていいですか?とできるだけお願いしている。

    今日、上司さんは外で、私に宿題いっぱい置いていったけど、
    見本一個ずつ作って、「見本」ってフセン貼ってくれてた。

    嬉しかった。

    そういえば、最近、全部、見本の処理してから、頼まれてることに、
    今、これ書き込みながら、気づいた。

    遅 !!

    感謝してます(^人^)

    会社の状況は、いろんな理由で、胸が痛くなる状態になってしまってるけど、
    いろんなことが解決する方向へむいたらいいな

    辛い思いする人なく。。。
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■6824 / )  Re[13]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/19(Sat) 15:45:31)
    No6721に返信(エフニさんの記事)


    > 詩集「暗やみの中で一人枕をぬらす夜は」(新泉社)より、闘病中の病室の窓から見た風景を書いた詩です。
    >
    > 東京の空はいつもこまぎれ
    >
    >
    >
    > それでもお前は 生きてる喜びつげる
    >
    > この小さな空は私だけの空

    ************

    多感な年ごろでもないのに「暗やみの中で一人枕をぬらす夜は」という題名を聞いただけでなんか涙が出そう。

    読む予定の本リストに入れておきます♪

    哥哥どうもありがと♪
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■6823 / )  たーぼーさん
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 15:43:11)
    たーぼーさん こんにちは

    >>第五図=物自体といっているのはわたしだけかもしれません。現象では捉えきれないより基底にある存在様式といえば、物自体しかないので、第五図=物自体でいいと考えます。
    >>物自体であれば、身体の部分がそれであることはありません。よって第五図=物自体であれば、身体と同一化できないなんらかの意識になると思います。

    > 私はknowing itselfさんのおっしゃることわかりますよ。
    > 物がまだ物体になる前の状態と仰りたいのでは?
    > それが空だけど、それは点ですよ。
    > 点の部分。色即是空の空の一点の部分ですよ。
    > そこで止まるとまずいです。
    > そこから自己を忘れて=悟りを忘れたところが悟りです。
    > 認識してる自分があったら(小さい方の自分があります)
    > 第五図っていうのは第五図のところでは認識出来ないんです。
    > 一隻眼だから。

    一点で止まるのがまずいのはおっしゃるとおりだと思います。

    たーぼーさんの書き込みで仏教3・0や山下良道さんが言及されていましたが、その辺りの関連書、わたしも何冊か読んでいます。山下良道さんについていえば、彼ならではの最大の主張ポイントも一応理解したつもりです。それは第五図を第五図のところで認識できることだと思います。メチャクチャぶっ飛んだ発言なので、理解してくれる仏教関係者がほとんどいないそうです。

    彼のいう第五図の認識というのは、主体が客体を認識するという通常の認識ではなく、主体も客体も消失した後、なお働いている意識のようなものだと思います。その意識を体験後に、あああのときはそういう意識だったと振り返って初めて自覚できるのではなく、体験の真っ最中に意識できている、そういう意識ですね。そういう意識が第四図の中身を認識できているのが、山下良道さんの第五図の認識だと思います。普通の人の意識は第四図を一歩も出ていない。

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■6822 / )  NO TITLE
□投稿者/ つばめ -(2020/09/19(Sat) 15:30:28)
    〜〜今朝は朝焼けでした〜〜

    ただ朝焼けがきれいだったから
    こころがほんの少し自由になった
    自由になったこころは
    歌を歌いたがり
    風や木
    雲や空を愛おしがっている
    ただ朝焼けがきれいだったから
    今日一日を雄々しく生き抜こうと決めた
    持てる限りの親切心を持って



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■6821 / )  Re[13]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/19(Sat) 15:12:52)
    No6720に返信(エフニさんの記事)


    > え〜っ、親友の奥さんですよ〜。
    >
    > ハードル高すぎますよ〜。

    う〜〜ん。そうですね。


    > 「谷間の百合」じゃなくて、漱石の「こころ」ですよ〜。

    漱石さん、苦手で「猫」と「夢十夜」しか読んでいません。
    「こころ」なんて暗そうな小説やだ♪みたいな。

    > 佐藤春夫と谷崎潤一郎みたいに、陰惨、泥沼になるのは絶対に嫌でした。(鳩山由紀夫は恩師の妻を略奪しました。

    ・・・佐藤春夫と谷崎潤一郎さんについては、事情を知らないせいか「泥沼」というより馬鹿みたいに見えちゃいます。
    鳩山さんについてはよくわからないですが、鳩山先生なら小鹿のように軽やかにハードルを越えていきそうです。


    > アダムとイブが生まれてからの全人類史で、親友の奥さんを奪っても男同士の友情が壊れなかったのは、ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンの時だけですよ。
    >
    > まぁこれは、全面的にジョージ・ハリスンの懐の大きさ、器の大きさに依存していたのですけどね。


    以前ヤフー掲示板で「夜になる前に」さんという方と話したことが有りますが
    夜になる前にさんは「愛は所有だ。」というようなことを言われていました。
    そんなこと思い出しました。

    哥哥の超自我を氷の女王なんて言ってごめんなさい。
    きっと、心の中にはたくさんの葛藤があったのだと思います。


返信/引用返信 削除キー/

■6820 / )  Re[28]: 善意志
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/19(Sat) 15:07:02)
    悪魔ちゃん こんにちは

    > >カントにおける人間の存在様式は、叡智界=物自体界、感性界=現象界、両方の世界にまたがるとされる。<
    > としたとき、
    > ■6756
    > >善意志は感性界の人間が対象に向けて発する意志ではなく、物自体から発せられる意志。唯一この場合だけ、人間は物自体界にいる<
    >
    > 人間が物自体、すなわち叡知界にいるときのみ、物自体から発せられる意志が善意志となる。感性界にいる人間は対象に向けて発する意志には善なるもの、あるいは悪なるものは存在してない。
    >
    > knowing itselfさま、わたしもそう思ってる。

    基本的にそうだと思います。
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■6819 / )  Re[12]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/19(Sat) 14:35:34)
    No6699に返信(エフニさんの記事)


    >哥哥はですね、死が終わりなら、数々の心霊現象(夢枕も含む)の説明がつかないと思います。(例えば今回の少女の霊)

    >無から宇宙が生まれ、無から生命が生まれたメカニズムが解明されてから、死が終わりかどうか語れると思います。


    その通りだと思います


    >まぁ、経験出来ないものは存在しないというのが現在の科学なので、死後の世界は無いという妹君ちゃんの見解は正当ですよ。


    う〜〜ん。「正当」かどうかわからないです。だって、3割のマイノリティだもん。
    変なこと言うけど、(間違ってたら訂正してください)
    世界は一人一人の現象の総和で出来ているとしたら、
    7割の人が「死は終わりではない」と思っているなら
    「死は終わりではない」はこの世界では正しいことになるじゃないですかぁ。
    だから、正しいのだろうと。
    今回の「死後の世界を7割の日本人が信じている。」とのエフ哥哥の話しから、
    あ〜〜〜やっぱりみんな信じているんだと納得しました。
    私の周囲でも時々心霊現象の話題が出てみんな普通に話しています。
    ただ、自分的には死後の世界があるかどうかは本当にわからないし、
    自分が生きてきた経験上からも死んだ人が生きているとは思えない。
    わからないものはわからないのだけれど、
    どちらかというと「死は終わり」に傾いている。

    それから自己分析するに私とても臆病なんです。
    「死後の世界があり死んだ人が時々この世界に戻ってくる、あるいは死んでもこの世界で生きている。」なんてなことが普通になった世界でどうやって生きて行こうかと。
    怖すぎます。
    夜道なんて歩けないし、一人でいることなんてできそうにないし、一人で寝るなんて絶対嫌だし、
    ・・・もう数えたらきりがない。
    それから。
    死者からやたらな干渉や支配を受けそうで怖い。死者による制約、不自由さを感じてしまう。
    ・・・やっぱ。罰当たりなのかなぁ。

    あ〜あ。こうやって並べてみると「信じない」なんていう消極的なモノではなく「拒否」かもしれず。(・・;)

    でも、その反面、亡くなった人たちがどこかで生きていたなら自分にとってもとても幸福なことだとも思います。


    >あ、そだ。

    >ユングとフロイトが食堂にいたときに、食器棚の引き出しが開いたり閉まったりするポルターガイストが起こりました。

    >ユングが「また起こりますよ」と言うと、本当にまた同様のポルターガイストが起こりました。

    >フロイトは顔面を蒼白にして「私は信じない」と言い、食堂を出て行ったそうです。

    >こういう有名な話もありますよね。


    そうなのですね。
    フロイト先生、どうしちゃったんだろう。目の前で起きていることを否定するなんて。
    不思議な気がします。


    >どうもありがとう。

    >なんか、うれし?

    せっかく紹介してくださったのに感想も述べず失礼いたしました。
    「半身」は重たくも魅力的な内容でした。
    「Lの世界」かな。素のまま勝負みたいな思考のありかたや会話は、
    繊細さにしろ野蛮さにしろ惹かれてしまいます。

    ラストには驚かされました。

    「女神の見えざる手」も面白かったです。

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■6818 / )  knowing itselfさん
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/19(Sat) 13:36:08)
    knowing itselfさん、こんにちは。


    > 第五図=物自体といっているのはわたしだけかもしれません。現象では捉えきれないより基底にある存在様式といえば、物自体しかないので、第五図=物自体でいいと考えます。
    > 物自体であれば、身体の部分がそれであることはありません。よって第五図=物自体であれば、身体と同一化できないなんらかの意識になると思います。


    私はknowing itselfさんのおっしゃることわかりますよ。
    物がまだ物体になる前の状態と仰りたいのでは?
    それが空だけど、それは点ですよ。
    点の部分。色即是空の空の一点の部分ですよ。
    そこで止まるとまずいです。
    そこから自己を忘れて=悟りを忘れたところが悟りです。
    認識してる自分があったら(小さい方の自分があります)
    第五図っていうのは第五図のところでは認識出来ないんです。
    一隻眼だから。




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■6817 / )  Re[42]: 第五図
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 13:24:27)
    No6815に返信(パニチェさんの記事)
    > 2020/09/19(Sat) 12:32:19 編集(投稿者)
    >
    > こんにちは、横レス失礼します。

    パニチェさん、こんにちは。 レスありがとうございました。

    > ■No6814に返信(minoriさんの記事)
    >>永井均さんが、仏教には〈私〉がないのがつまらない、とおっしゃるのは、唯一無二の存在である〈私〉が活かされていない、ということが言いたいのかな、と感じる。
    >
    > 同意です。無我を目指す自己探究の起点において一般的な「私」からスタートすることはあまりにも短絡的ではないか、というような意味も含んでいるんだと思います。
    > 例えば無我にある有無、つまり「何をもって存在とするか」を問う存在論は、これだけで哲学の主要な一大テーマですからね。
    >
    > 『「無我」と言った時に、何がないのか。この「無我」って概念ははっきりしないんですね。我って言うと、分かったような気がして、我が無いんだというようなことを言うんですけど、いったい何がないのか、つまり、ないそれはいったい何であるのか、が問題です。哲学をやっている人間は、無我というような単純な表現で分かったつもりになって、それを金科玉条のようにしてしまうことを好みません。(ヴァージョン1-「〈仏教3.0〉を哲学する P.33」より引用)』


    私は仏教にも西洋哲学にもまったく詳しくないので、僭越な意見になってしまうことを皆様にお許し頂いて書くとすると・・・
    仏教の言葉、出されている「無我」であるとかですが、おっしゃるように何が無我なのかはっきりしない(なので人により解釈もわかれる)というのはありますよね。
    西洋哲学の例えばカント哲学の解釈も、人によって多少違うというのはあるようですけど、それは、カントならカント研究の中での相違であって、仏教のように原始仏教と大乗仏教ではだいぶ違うというような違いとはまた別ですものね。

    >>私が感じるには、ナマの命であった私を知ることにより、〈私〉は自然に深まるのではないか、ということ。
    >>なので、〈私〉は各自が取り組めばいい課題であり、仏教や非二元などでは、普遍的なものを教えるに留まるしかないのではないか、という理解をしている。
    >
    > なるほど!それは気付きませんでした。
    > あと、minoriさんのレスに触発されて思ったのは。。。
    > 禅者が〈私〉をスルーしていたり、知らなかったりするのは、求道の目的でもある苦の滅却にあまり役立たない(全く役立たないということではないが、あまりにも遠回りというか本道ではない)からかもしれないとも思いました。

    はい、それもあるでしょうし、西洋哲学まで手が回らない人が多いというのもあるんじゃないでしょうか。
    どっちにも手が回ってないminoriが言うのは僭越すぎて厚顔無恥にもほどがあるのは承知の上で・・・書かないと始まらないので、皆様どうぞお許しくださいね。。。<m(__)m>

    > パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。


    縁ってすごいな、って思います。
    テキストリームでの縁からニーチェクラブへと繋がり、パニチェさんに〈私〉を教えていただいて、なんとかそれを理解できるようになり・・・。
    そうした縁(縁起)からなる全体性から、救い上げられる〈私〉。
    西洋と東洋の出会いなのかな、と。

    〈私〉は、仏教で言うと「諸法実相」で表わされるもの、でいいのでしょうか?
    そうであれば、仏教でもまったく扱ってはいないわけでもないのかな、と思いました。
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■6816 / )  良い知らせ、悪い知らせ
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/19(Sat) 12:56:53)
    音に囲まれている我々、波といっていいだろう。
    波に囲まれている我々、波に流されている我々。
    良い知らせがあれば、その正体を知らずとも、想像するだろう。
    悪い知らせがあれば、その正体を知らずとも、想像するだろう。

    そうやって世界が作り上げるのかもしれない。
    DNAを抽出すれば、それは有機物質であり、物である。
    このような、たかが物に肉が付き、精神が宿り、いつしか理想郷を描くようになる。
    それをOutputし、今や人生100年人生。
    ま、長生リスクつーのもありますが(笑)
    実に不思議なもんだなと…

    より良い未来を開拓する事は、自分だけの逃げ道ではないという事だ。
    やはり、群れを背負う気概が必要になってくる。
    先祖たちはよくやったと思います。
    黄金に輝く小麦畑…、このようなものを人間として私は創造したいと思う。
    私の頭の中には世界がある、
    思い立てば、いろんな国へも行ける
    思い立てば、思いを告白する事もできる。
    まるで、この世に夜がないかのような毎日になってきている。

    ただ、羽をもがれた鳥のように、奈落の底の闇に放りこまれたら、
    私は、光を見つける事はできるだろうか?
    私は、闇を照らす光になれるだろうか?

    やはり、黄金が鍵だと思う、最高のパフォーマーになるしかないと思う。
    緊張するぜ(笑)

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■6815 / )  Re[41]: 第五図
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 12:03:35)
    2020/09/19(Sat) 12:32:19 編集(投稿者)

    こんにちは、横レス失礼します。

    No6814に返信(minoriさんの記事)
    > 永井均さんが、仏教には〈私〉がないのがつまらない、とおっしゃるのは、唯一無二の存在である〈私〉が活かされていない、ということが言いたいのかな、と感じる。

    同意です。無我を目指す自己探究の起点において一般的な「私」からスタートすることはあまりにも短絡的ではないか、というような意味も含んでいるんだと思います。
    例えば無我にある有無、つまり「何をもって存在とするか」を問う存在論は、これだけで哲学の主要な一大テーマですからね。

    『「無我」と言った時に、何がないのか。この「無我」って概念ははっきりしないんですね。我って言うと、分かったような気がして、我が無いんだというようなことを言うんですけど、いったい何がないのか、つまり、ないそれはいったい何であるのか、が問題です。哲学をやっている人間は、無我というような単純な表現で分かったつもりになって、それを金科玉条のようにしてしまうことを好みません。(ヴァージョン1-「〈仏教3.0〉を哲学する P.33」より引用)』

    > 私が感じるには、ナマの命であった私を知ることにより、〈私〉は自然に深まるのではないか、ということ。
    > なので、〈私〉は各自が取り組めばいい課題であり、仏教や非二元などでは、普遍的なものを教えるに留まるしかないのではないか、という理解をしている。

    なるほど!それは気付きませんでした。
    あと、minoriさんのレスに触発されて思ったのは。。。
    禅者が〈私〉をスルーしていたり、知らなかったりするのは、求道の目的でもある苦の滅却にあまり役立たない(全く役立たないということではないが、あまりにも遠回りというか本道ではない)からかもしれないとも思いました。

    パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。

返信/引用返信 削除キー/

■6814 / )  第五図
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 10:40:23)
    内山老師が描いた「第五図」。
    師が描いたそのままの意図というのは、「ナマの命が展開する」ということなのだと思う。
    第四図で七転八倒している人間も、根柢のところではナマの命である、ということ。


    永井均さんが、仏教には〈私〉がないのがつまらない、とおっしゃるのは、唯一無二の存在である〈私〉が活かされていない、ということが言いたいのかな、と感じる。

    私が感じるには、ナマの命であった私を知ることにより、〈私〉は自然に深まるのではないか、ということ。
    なので、〈私〉は各自が取り組めばいい課題であり、仏教や非二元などでは、普遍的なものを教えるに留まるしかないのではないか、という理解をしている。
返信/引用返信 削除キー/

■6813 / )  形骸化と堕落
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 10:39:30)
    2020/09/19(Sat) 10:42:12 編集(投稿者)

    キリスト教に限らず仏教も、その他、体制や組織、制度や規範やルールも介在する人や時間とともに形式化、形骸化します。

    宗教なら権威主義的にもなり、その反動として原点に戻そうという運動が生じる。

    大乗仏教運動やルターによる宗教改革。

    そしてまた檀家に胡坐をかいた日本の伝統仏教は葬式、法事、先祖供養を主とした形骸化が生じ、戒名に位を付けて高値で売るなどという、本来の目的とは正反対のことがまかり通るような権威主義によって堕落しています。

返信/引用返信 削除キー/

■6812 / )  Re[44]: 宣言!
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/19(Sat) 10:33:53)
    パニチェさん、早々とありがとうございますた。
返信/引用返信 削除キー/

■6811 / )  Re[26]: 善悪の狭間
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 10:23:37)
    レスありがとうございます。

    No6806に返信(ななしさんの記事
    > パニチェさん、さすがですね。
    > >ななしさんのレスを引用させてただき、私なりに結ぶと以下のようになります。
    > 三段の変化は、結局、「永遠回帰」の思想における「然り」という肯定にほかならないと思いますし、生命の充実感であり、嫌なことさえも肯定できる。
    > つまり、その一デナリオン(約1万円)というのは、決して来世や永遠の命などではなくて、自分なりの大いなる正午を自らの生であるところの大地で迎えることを至上の悦びとする瞬間であるということ。
    > 全くもって同意です。

    ありがとうございます。
    ななしさんの先のカキコからすれば少し抵抗があるかな、と思いつつ書きましたが。。。。
    ななしさんは、対応が柔軟というか、よい意味で執着の少ない謙虚な方とお見受けします。^^

    > 来世とかではなくて現在の「地上での恵み」と言ったらいいのか
    > 「生きる充実」というか、決してポジティブシンキングとかではなくて
    > 何もかもを受け入れ肯定出来るということ。
    > 仏教の正見ですね。

    全くもってその通りです。
    私も正見はあるがままをあるがままに観じ(中道)、あるがままを受け入れるという肯定の教義だと思っています。

    > 災害の時などは、特に、バイアスをかけずに、危険なことは危険であると
    > 素直に受け入れ即刻、避難すること。
    > つまり、ポジティブシンキングで、ここには洪水や津波は来ないと
    > 災害時における「正常性バイアス」などの自己暗示をかけても死が待っているだけですから。
    > 日常では心を守るための機能が、災害などの非常時に強く働くことで、
    > 一刻も早く避難しないといけない状況にいながら、「自分は大丈夫」
    > 「これくらいなら避難しなくてもいい」と考えてしまう場合があります。
    > それは、危険を過小評価する落とし穴ですね。

    同意です。そういう意味では恐怖の情動を発動し無意識的に退避行動を起こす扁桃体とか視床下部や即座に反応する身体性はニーチェも言うように大いなる理性だと思います。

    「身体は一つの大いなる理性である。一つの意味を持つ一つの多様であり、一つの戦争と一つの平和であり、一つの畜群と一人の牧人である。わたしの兄弟よ、きみが『精神』と呼ぶところの、きみの小さな理性もまた、きみの身体の道具である。きみの大いなる理性の一つの小さな道具ないしは玩具である。(ツァラトゥストラ 4.身体を軽蔑する者たちについて)」

    「意識。──意識性は、有機体の最後の、最も遅れた発展であり、したがってまたその表面の最も未熟な、最も無力な部分である。(悦ばしき知識第11番)」

返信/引用返信 削除キー/

■6810 / )  Re[26]: 善悪の狭間
□投稿者/ ななし -(2020/09/19(Sat) 10:09:08)
    日本では、クリスチャン人口は、1パーセント未満だと言われているそうです。

    その少なさの中で特徴的なことは、キリスト教の教会での日曜日ごとの礼拝ですが、ある信徒の言によれば、日曜日がいちばん忙しく疲れる日なのだそうです。

    というのも私自身は、教会生活を知らないので聞いた限りなのですが。

    礼拝が済めば待っているのは、決まってお茶の時間となり、
    信徒同士の交流の時間となり、そして待っているのが教会奉仕なのです。

    日々の人間関係に疲れているにもかかわらず礼拝が済めば早々に待っているのは、婦人会や青年会そしてイベントの打ち合わせなど心を落ち着かせる時間もないほどスケジュールは詰まっているのだそうです。

    少数の教会で共同体での組織活動に伴うものが人間関係です。
    疲れるのもあたりまえかもしれません。

    牧師や神父にしても人間です。
    そりが合う合わないもあることでしょう。

    通っている教会に、あれやこれやと不満も生まれることでしょう。
    きっと、ニーチェもこんな教会員の事も見ていたのではないでしょうか。

    教会生活が疲れる原因はいったい何でしょうか。
    難しい問題ですね。

    「あとの者は先になり、先の者があとになる」

    神の言葉は、奥が深いですね。


返信/引用返信 削除キー/

■6809 / )  Re[43]: 宣言!
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 09:57:45)
    No6805に返信(田秋さんの記事)

    >  いつも次のトピックの頭に西遊記ものを書いていましたが・・・

    > 無理〜〜〜〜〜〜〜

    >  一つのトピックが終了するのが早すぎ。《田秋総合研究所6》はお願いしたいと思いますが(パニチェさん、お願いします)、今回は西遊記物は無しです。そうそう書けません。

    > と、宣言したら気が楽になりました。

    ははは。大盛況ですね。
    了解しますた♪^^
返信/引用返信 削除キー/

■6808 / )  田秋総合研究所 6
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 09:55:35)
    トピ主こと所長:田秋さん

    No3536に返信(田秋さんの記事)

    > 田秋=Turkey=おマヌケ(?) 総合=なんでも、研究所=酒の肴にする

    とのことです。

    引き続きよろしくお願いします。
返信/引用返信 削除キー/

■6807 / )  Re[39]: 第五図と気づき
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 09:46:07)
    ヤフーテキストリームにオリさん(マルコさん)という、カトリックの方がいて、仏教、キリスト教、アドヴァイタにも詳しい人だった。
    その人からは様々な知識を仕入れさせていただいたな、とつくづく思う。
    その人が語っていたすべてを私が知識として得ているなどということはまったくないけれど、私が知る知識の多くの部分は、その人の投稿から伝授されたものだと言える。

    さて。

返信/引用返信 削除キー/

■6806 / )  Re[25]: 善悪の狭間
□投稿者/ ななし -(2020/09/19(Sat) 09:38:28)
    パニチェさん、さすがですね。

    >ななしさんのレスを引用させてただき、私なりに結ぶと以下のようになります。

    三段の変化は、結局、「永遠回帰」の思想における「然り」という肯定にほかならないと思いますし、生命の充実感であり、嫌なことさえも肯定できる。
    つまり、その一デナリオン(約1万円)というのは、決して来世や永遠の命などではなくて、自分なりの大いなる正午を自らの生であるところの大地で迎えることを至上の悦びとする瞬間であるということ。

    全くもって同意です。

    来世とかではなくて現在の「地上での恵み」と言ったらいいのか
    「生きる充実」というか、決してポジティブシンキングとかではなくて
    何もかもを受け入れ肯定出来るということ。

    仏教の正見ですね。

    災害の時などは、特に、バイアスをかけずに、危険なことは危険であると
    素直に受け入れ即刻、避難すること。

    つまり、ポジティブシンキングで、ここには洪水や津波は来ないと
    災害時における「正常性バイアス」などの自己暗示をかけても死が待っているだけですから。

    日常では心を守るための機能が、災害などの非常時に強く働くことで、
    一刻も早く避難しないといけない状況にいながら、「自分は大丈夫」
    「これくらいなら避難しなくてもいい」と考えてしまう場合があります。

    それは、危険を過小評価する落とし穴ですね。



返信/引用返信 削除キー/

■6805 / )  宣言!
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/19(Sat) 09:27:55)
    2020/09/19(Sat) 09:30:11 編集(投稿者)

     いつも次のトピックの頭に西遊記ものを書いていましたが・・・

    無理〜〜〜〜〜〜〜

     一つのトピックが終了するのが早すぎ。《田秋総合研究所6》はお願いしたいと思いますが(パニチェさん、お願いします)、今回は西遊記物は無しです。そうそう書けません。

    と、宣言したら気が楽になりました。で、皆さん、書き込み中に自分のことをどう表現しているのかなあと、ちょっと調べてみました。

    1.自分を一人称代名詞で表現する
    ボクがそうです。以前は「私」を使っていましたが、最近は初対面、やや形式ばった時以外はボクや僕を使っています。

    2.自分のハンドルネーム等を使う。

    3.自分を出さない。

    学術論文等は基本、私を出さないので、3.はそれを意識してかそうでないかはわかりませんが、そういう文章を好まれる方なんでしょうね。

    僕は自分のことを田秋とは呼びません。これはあくまで僕個人の思いなのですが、何か恥ずかしいのです。ハンドルネームで自分を表現している方は大勢いらっしゃいますし、それを恥ずかしいという意図は全くありません。そこだけは誤解ないようにお願い申し上げます。

    自分をどう表現するかに興味のある人は多いようで、ネットでもそういうページがありました。
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■6804 / )  風を詠むとは
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/19(Sat) 08:58:55)
    風を詠むとはどういうことか?

    よく考えてみれば、古代サル(ショショニアス)は樹冠というユートピアで繁栄をしたんだけど、木の上には鳥類がいたはずだ。鳥類からメロディを学んだと思うんだな。そして、天敵の足音も感知していたのだろう。雷も感知していただろう。

    音で創造力を膨らませた可能性が非常に高い、めちゃくちゃ高いね。

    生命の法則は、構築と破壊だと思ったが、移動と蓄積と言う法則もあるな。
    なぜ、移動するのか?その源は「流れ」だったか?

    隕石が堕ちて、隕石から逃げたのではなく、隕石の影響で流れができて、四方八方に生命は拡散されたんだな。そこがその生命にとって天国、地獄でもどちらでも良いという事か?

    地下鉄サリン事件のオウム真理教で、
    ガスライティングを使用し信者をマインドコントロールしていたんだが、
    囁かれる事で、その人の心の世界が変わっちまうんだな…。

    耳からのInputが心を作り、心から生まれたOutputが、世界を作ってんだな。

    「 女性は耳で一殺(いちころ) 」だと思っていたが、こういうことか

    人によって世界観は違うつー話か…。

    「 宇宙があるよ 」と言われたから、「 宇宙がある 」んだな
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■6803 / )  善悪の狭間
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 07:52:18)
    2020/09/19(Sat) 08:26:50 編集(投稿者)

    人間の本性が基本的に善でないことは、社会主義や共産主義体制で理想国家を築くどころか一部の特権階級による独裁国家となっていることからして明らかだろう。

    同じく非常時での利他的行為や奉仕精神があることからして悪に塗れているわけでもない。

    人間という日本語はよくできた言葉だ。

    草食獣と肉食獣、共存共栄と弱肉強食(競争淘汰)の両面性を持ち合わせ

    善と悪の狭間で揺れ動く本性

    西洋的な善悪二元論よりも、煩悩によるけがれの有無や濃淡によって区分される善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)という仏教的な倫理観の方が現実的である。

    人間、未だ不確定な中間的生物

    「人間は動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱である。(ニーチェ著『ツァラトゥストラ』より)」

    不安定な綱の上を行く道化師

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■6802 / )  Re[38]: 第五図と気づき
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 07:51:49)
    No6799に返信(minoriさんの記事)
    > 自己レス。
    >
    >
    >>仏教3.0の第五図というのは、非二元での「気づき」と内容として似た部分があるのではないか、と推測している。
    >>
    >>すべてのものの存在の基盤が「気づき」であり、「気づき」とともにすべてが存在している、と非二元では考える。
    >>「気づき」は、物質ではなくどこに存在する、という具体的な場所を示すことが不可能なもの。
    >>神、仏と言い換えてもいいようなもの。
    >>
    >>宇宙がなぜ存在しているのか、人間にはわかりようはない。
    >>しかし。「気づいていること」と「存在していること」は同時的事態だ。
    >
    >
    > 「気づき」というのは、映画を映し出すスクリーンと考えるとわかりやすい。
    > 一つのスクリーンに、それぞれが生きる世界の愛憎や勝敗の物語が映しだされる。
    >
    > 私たちはなぜ存在しているのか、という疑問は、宇宙はなぜ存在しているのか、という疑問に繋がるしかないけれど、その疑問も人間にはわかりようがない。
    >
    > しかし。私たち人間が宇宙の中に生きているという壮大なストーリーは、「気づいていること」と共にある、というのは、神秘を必要としない。
    > 映画が常にスクリーンと共にあるのと同じように、神秘を必要とはしない話だと言えると思う。
    >
    > 映画が第四図。スクリーンが第五図に相当する、と考えられる。
    > (もちろんこれは、非二元的にはそうだろうということであって、これだけが正解だという意味では決してないです。)
    >
    > スクリーンと映画の譬えは、物自体から触発されて現れる現象というカントの認識論とも、偶然にも通じていると言えなくもないと思う。
    >
    > 映画とスクリーンの譬えというのは、ラマナマハルシ以降、アドヴァイタ(=非二元、ノンデュアリティ)で使われる表現。
    >
    > 人間は、第四図と第五図を同時に生きているが本籍は第五図だということ。


    禅と非二元(アドヴァイタ、ノンデュアリティ)が示すもの、というのはそもそも似ているところがある。

    第四図、第五図を借りれば。
    その両方を同時に生きているのが私たちである、という観方は、禅と非二元に共通すると思う。

    私たち人間は、いついかなる時も第五図を離れてはいない。
    しかし、そのことに気づいていないだけなのだ。
    そのことに気づき(思い出し)、生きていく時、その人なりの第六図を生きるということになる。
    第六図というのは、金太郎あめみたいに紋切り型で同じような人間になる、という意味ではけしてないと思う。
    その人の個性が活かされる形で、善が表現されていくのが第六図になるのだと思う。
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■6801 / )  Re[38]: 自殺について
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 07:43:33)
    >カントのは認識論って見ているし、わたし自殺っていうの精神の問題って見てるから、まったく関係ない話題でもないと思うけど、minoriさんのいまの主題からズレちゃってるみたいでごめんね。

    >もうこれについてはここでは書かないよ。


    悪魔ちゃんへ。
    田秋さんからのレスがあれば続けてもらって問題ないよ。^^
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■6800 / )  Re[14]: 古池や
□投稿者/ つばめ -(2020/09/19(Sat) 06:04:54)
    フローラさん、おはようございます。

    > そうです。普通は読み手とその対象が二極化していると思いますが、芭蕉は禅僧ですから、彼という個体が読み手ではなく、起こったことを全体の運動として表現されていると思います。ですから、とてもさらっと淡々とした感じがするのだと思います。止まらず、全部流れていくような・・・私=全体=宇宙(これは、神でも仏でも全体としての意味ならばなんでもいいらしいです=愚さんという方の受け売りです)。全体が全体を描写しているという感じでしょうか・・・芭蕉=古池=かわず=ぽちゃん。 説明が下手ですみません・・・・

    芭蕉が個人として世界?を描写しているわけではなく、
    芭蕉が全体として(全体に同化して?全体の一部として?)起こったことの全体を描写している。

    なので作品から「私」が感じられないというわけなのですね。

    親切な説明をありがとうございました。
    お手数をおかけして申し訳ありませんでした。感謝です。


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■6799 / )  Re[37]: 第五図と気づき
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 04:40:58)
    自己レス。


    > 仏教3.0の第五図というのは、非二元での「気づき」と内容として似た部分があるのではないか、と推測している。
    >
    > すべてのものの存在の基盤が「気づき」であり、「気づき」とともにすべてが存在している、と非二元では考える。
    > 「気づき」は、物質ではなくどこに存在する、という具体的な場所を示すことが不可能なもの。
    > 神、仏と言い換えてもいいようなもの。
    >
    > 宇宙がなぜ存在しているのか、人間にはわかりようはない。
    > しかし。「気づいていること」と「存在していること」は同時的事態だ。


    「気づき」というのは、映画を映し出すスクリーンと考えるとわかりやすい。
    一つのスクリーンに、それぞれが生きる世界の愛憎や勝敗の物語が映しだされる。

    私たちはなぜ存在しているのか、という疑問は、宇宙はなぜ存在しているのか、という疑問に繋がるしかないけれど、その疑問も人間にはわかりようがない。

    しかし。私たち人間が宇宙の中に生きているという壮大なストーリーは、「気づいていること」と共にある、というのは、神秘を必要としない。
    映画が常にスクリーンと共にあるのと同じように、神秘を必要とはしない話だと言えると思う。

    映画が第四図。スクリーンが第五図に相当する、と考えられる。
    (もちろんこれは、非二元的にはそうだろうということであって、これだけが正解だという意味では決してないです。)

    スクリーンと映画の譬えは、物自体から触発されて現れる現象というカントの認識論とも、偶然にも通じていると言えなくもないと思う。

    映画とスクリーンの譬えというのは、ラマナマハルシ以降、アドヴァイタ(=非二元、ノンデュアリティ)で使われる表現。

    人間は、第四図と第五図を同時に生きているが本籍は第五図だということ。

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■6798 / )  白隠
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/19(Sat) 02:02:41)

    https://ishiinbr.amebaownd.com/posts/6571766

    非想非非想処を有頂天とはよく言ったもんで、有頂天になってしまうんだな。
    今から思えば、この時の汝徹せりは取り合えず汝徹せりと言うのが正確だと思う。
    やっと最近分かってきた。
    白隠の本当の徹せりは42歳の大悟18回小悟数知れずだと思う。
    果てしなく道のりは遠いなぁ。
    いや、衆生本来仏なりか(笑)

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■6797 / )  謎がとべてすけた
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/19(Sat) 01:42:00)
    解けたよ〜

    耳から入った情報は心へいく。目から入った情報は脳へいく。
    宗教は伝言、科学は映像。
    感性が宗教。

    生命は「流れ」を感じ取っているのだな…
    なるへそな〜。
    言葉と意見で世界を作っている、つまり、心で世界を作ってんだな。
    科学屋は単なる才能。

    軍配、両方いるけど、宗教の勝ち!
    耳だったか…。海流とか風とか言葉とか動きとか…。
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■6796 / )  Re[41]: 《ドビュッシー》
□投稿者/ flora -(2020/09/19(Sat) 00:31:42)
    こんにちは、田秋さん

    >小林秀雄の「平家物語は短調だ」というのは、例えばベートーベンの「運命」はハ短調ですが暗くも物悲しくもなく、力強く勇壮です。平家物語もそうなのだ、ということを言っているのだと思いました。

    そうだったのですか、知りませんでした。短調=minor、暗く物悲しいという先入観は捨てないとだめですね。 リズムや、強弱により変わるのですね。あ〜でも『平家物語』は私的には悲しいかな・・

    >曲の冒頭、一緒に始めるときは1st Vnが指揮者になります。映像をみればわかりますが、始まる1小節前の3拍目で体が少し沈みます、4拍目で体を起こすと同時に弓を持つ手があがります。これで3、4となりテンポがわかります。特に4拍目ではみんな一緒に息を吸います。これで合う(はずです)。
    >音を弾きだすときは《on the string》と言って、必ず弓を弦の上に置きます。弾きだす瞬間、弓を弦にぶつけることはしません(音が汚くなるから)。4拍めの裏で無意識にオンザストリングにしています。

    画面で見ると演奏者さんたちは、シレっとして1st Vnさんを見ていないように見えますが、実は動向を見ていたのですね。どうやって合わせるのかと思っていました。

    >全部がきれいな完璧なものというのは私にはちょっと難しく、どこかに間があったり、バランスが崩れているような感じのほうが好きということなのです。

    >へええ、ちょっと意外でした。庭園など日本のものにそういう傾向があるように思います。欧州の庭園を見ていると完全なシンメトリーの美しさ(しかも大きい)を感じます。わざとバランスを崩すという発想は欧州のお庭にありますか?

    私はアンバランスのバランスが好きなんです。西洋のフォーマルな庭園ですと、皆見せてしまっていますね。私は見えない部分が欲しいんです。またはわざと外した感じ・・・そこで息を継いだり、見えない部分を想像したりします。それと私の経験では、フォーマル庭園では建物に合わせて皆シメントリーだと思います。でもこれじゃ整いすぎて詰まんないんです。ファッションではあるかも、それこそディナージャケットにスニーカーとか・・

    >国芳は見に行くの2回目かと思ってましたが、うちに帰るとカタログが2冊あり、今度で3回目でした。好きなんですね!発想がユニークで(北斎もユニークですが)、というか浮世絵師はもみんなユニークですね。今回も掲載写真のがありました。あと国芳は猫が好きで擬人化したネコとか、ま、猫に限らず擬人化した金魚とかもありました。あと、2匹のタヌキの8畳敷のタマブクロを結び、魚を囲って漁をしている図とか、美人画、役者絵も楽しめました。最近はいつも一人で見に行ってましたが、今回は話をしながら1枚1枚見たので、時間が結構かかりました。

    どうもありがとうございます。浮世絵を含む日本絵画で骸骨をモチーフとした作品はご存じですか。やはり西洋絵画の影響ですよね。15 世紀ごろから「メメント・モリ」の意図で使われるようになりましたよね。国芳さんはどこから情報を得たのでしょうか?『解体新書』?私は北斎は好きです、が、西洋式の遠近法を取り入れてからあまり好きじゃなくなりました、浮世絵のあのペタッとした感じが好きなので^^。『北斎漫画』は実際にペラペラと捲って見たことがありんし。

    >追記:
    フォーレのレクイエム、これなんかボクの好みです。クリュイタンス=コンセルバトワールです。
    https://www.youtube.com/watch?v=B6hwBVR5RDs
    初めてレクイエムというものを演奏したのがフォーレのレクイエムで、確か新日フィルにエキストラに行った時で、指揮は小澤征爾でした。リベラ・メの《タンタン、、タン、タンタン、、タン》のリズムについて小澤さんがフランスでやったときにフランス人からこのリズムについて教わったことを話してたのを覚えています。軽くもなく重くもないんですよね、噛みしめながら停滞しないというのかなあ。

    ドイツは重いですよね国民性なんでしょうか? やはり雄弁な指揮者はいいですよね。小沢さん、元気になられるといいと思いますが・・・

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■6795 / )  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/19(Sat) 00:06:26)
    悪魔ちゃん、こんばんは(^_^)

    > 〔自然科学的な知識の正しさ、真理性(真理であるゆえんのもの)は、どこにあるのであろうか。まずそれを反省・批判・検討してみよう。そしてそのうえで、あの、同じく疑うことのできない形而上的関心のありかたは、どこにあるのだろうか。それとも、それは、許されない、いわば迷妄のようなものなのだろうか。しかし、もし、それが許されるとするなら、この形而上的関心を、学として基礎づけることはできないのだろうか。もちろん、そのような形而上学が、かつてのような独断論的なものではないことは、もうすまでもない。新しい形而上学は、法廷の審判をうけたうえでの、合法的なものではならないであろう。そこで、まずわれわれは、自然科学での知識の正当性・真理性(正しいゆえん、真理であるゆえん)を批判・検討することにしよう。『純粋理性批判』は、こうして、自然科学的な真理の性格の検討からはじまる。〕
    >
    > 『純粋理性批判』の”始まり”はこのようなものでいい?
    >
    > 「自然科学の知識は正当・真理である」が前提となっていて、この前提からその性格の検討が始まり。っていうことで?<

    『純粋理性批判』の序論を読んでみました。

    カントは、純粋数学と、純粋な自然科学は、真理という表現ではなく(見落としてたらごめん!)、【アプリオリな総合判断の実例】である、と表現していました。
    アプリオリな認識の特徴は、必然性と厳密な普遍性、とありました。

    悪魔ちゃんが書いてくれた流れのように書くと、

    「純粋数学と純粋な自然科学は、アプリオリな総合判断である、が、前提となっていて、その前提からその性格の検討が始まる」
    ってことかな?
    と、思いました。

    でも、その前提を、疑われることは、当時から現代に至るまで、カント批判として、よくあることかもしれません。

    以上が悪魔ちゃんの質問に対する、私見ですが、
    そのことからちょっと離れて、
    最近思ってること書くね。

    やっぱり、絶対的に正しいとする基準を設けようとするのは、心に苦しみを生むのかもしれないな、と、この頃思うこともあるよ。

    確実な基準を打ち立てようとする(ようにみえる)学説が、苦しく思えることもあるけど、

    でも、カントの考えを正確に汲み取れてない可能性は当たり前にあって、

    考えてることをちゃんと知りたい、というのはあるけど、

    難しいなーと思う。
    ごめん、聞いてもらっちゃったね。

    いつもありがとう、おつかれさま (^ ^)

    、、、連休、まあまあ仕事やね〜〜ん 、まあ、ありがたいことやけど
    。。。(°_°)


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■6794 / )  美学 宗教VS科学
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/18(Fri) 22:56:47)
    世界は「事実fact」で成り立っているわけではなく、
    「意見opinion」で成り立っている。
    「真実」と「幸福」は別物、「脳」と「心」は別物。

    宗教VS天文学という構図が見えていました。
    一つ目は科学革命の領域。
    コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンです。
    もう一つは、ボーア、アインシュタイン、ルメートルの領域。
    ポアンカレ予想を解いたグレゴリー・ペレリマン博士、2006年の事

    ――――――――――――――――

    人間の美学が絡んでいるんだと思うんだな。
    心で感じる美、頭で感じる美

    宗教VS科学

    私が思う「美しい」は…

    花嫁、日の出、ブラックホール、銀河、花火、タマムシ(笑)、
    機能美、フォルム、ルシフェリン生物(ホタル・深海魚)、
    ステンドグラス、宇宙からみた地球、冬から春、黒アゲハ、
    透き通った月、透き通った海、透き通った夜空、
    外国の城、金銀財宝、青、クレオパトラ(笑)、夜桜、
    フィンランドあたり、霧、白、黒、モミジ、模様、カラフル、
    鯱、虎系の肉食獣、馬…

    私が思う「醜い」は…

    アル中、洪水、浸水、濁流、荒廃したホテル、藁人形、嫉妬、
    肥満、スラム、吐しゃ物、肥溜め、ハラスメント、蛾、ゲジゲジ、
    便所こおろぎ、ミミズ、幼虫、哀しきモンスター、エボラ出血熱、
    ハンセン病、性病、死体の山、キリングフィールド、アウシュビッツ収容所、


    こうやって見ると義の精神だよね。

    清く正しく美しく強く明るく逞しく〜ってな感じ。
返信/引用返信 削除キー/

■6793 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/18(Fri) 22:46:52)
    ありがとうございます !

    よろしくお願いしますm(_ _)m
返信/引用返信 削除キー/

■6792 / )  Re[27]: 善意志
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/18(Fri) 21:02:02)
    >カントにおける人間の存在様式は、叡智界=物自体界、感性界=現象界、両方の世界にまたがるとされる。<
    としたとき、
    ■6756
    >善意志は感性界の人間が対象に向けて発する意志ではなく、物自体から発せられる意志。唯一この場合だけ、人間は物自体界にいる<

    人間が物自体、すなわち叡知界にいるときのみ、物自体から発せられる意志が善意志となる。感性界にいる人間は対象に向けて発する意志には善なるもの、あるいは悪なるものは存在してない。

    knowing itselfさま、わたしもそう思ってる。


返信/引用返信 削除キー/

■6791 / )  大いなる正午
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/18(Fri) 20:19:37)
    こんばんは、ななしさん。レスありがとうございます。

    No6746に返信(ななしさんの記事)

    以下も思ったところを忌憚なく返信させてもらいます。

    > パニチェさん、こんばんは。
    > ぶどう園の労働者のたとえは、まるで、「ツァラトゥストラ」の荒涼とした断崖のほとりで、若い牧人の口から黒く重たい蛇が垂れ下がり横たわり、のたうちまわっていたときにツァラトゥストラは牧人に向かって「その頭をかみ切れ」と言いヘビを噛みきり、その頭をはき飛ばして高らかに笑ったというようなニヒリズムとの闘いのように感じました。

    上記の箇所を以下に引用します。

    『そして、まことに、わたしが見たもの、そんなふうなものを、わたしはいまだかつて見たことがなかった。一人の若い牧人が、身もだえし、息づまり、けいれんし、顔面をゆがめているのを、私は見た。彼の口からは、一匹の黒い重いヘビが垂れ下がっていた。かつて私は、一つの顔面に、こんなにおびただしい吐きけと色青ざめた恐怖を見たことがあったか?おそらく彼は眠っていたのであろう?そのとき、ヘビは彼ののどのなかに這いこみ── そこにしっかりとかみついたのだ。わたしの手はヘビを引きに引いた。── が、むだであった!わたしの手はヘビをのどから引き出せなかった。そのとき、わたしのなかから叫ぶものがあった、「かみつけ!かみつけ!頭をかみ切れ!かみつけ!」── このようにわたしのなかから叫ぶものがあった。わたしの恐怖、わたしの憎悪、わたしの吐きけ、わたしの憐憫、わたしの一切の善と悪が、声をひとつにして、わたしのなかから叫んだ。── きみたち、わたしを取り囲む大胆な者たちよ!きみたち、探り試みる者たちよ、また、きみたちのうでで狡猾な帆を上げて、いまだ探究されたことのなにもろもろの海に乗り出したことのある者たちよ!きみたち謎を喜ぶ者たちよ!さあ、もうここらで、わたしがあのとき見た謎を明かしてくれ、さあ、もうここらで、最も孤独な者の見た幻影を判じてくれ!というのは、それは一種の幻影であり、一種の予見であったからだ。── わたしはあのとき比喩のかたちで何を見たのか?そして、やがていつの日か来たらざるをえない者は、誰であるのか?あのように自分ののどのなかへヘビに這いこまれた牧人は、誰であるのか?やがてあのように自分ののどのなかへ一切の最も重いもの、最も黒いものに這いこまれるであろう人間は、誰であるのか?── だが、牧人は、わたしの叫びが彼に勧めた通りに、かんだ。彼は物の見事にかんだのだ!彼はヘビの頭を遠くへ吐き捨てた ──。そして跳び上がった。── もはや牧人ではなく、もはや人間でもなく、── 一人の変化した者、一人の光に取り囲まれた者として、彼は笑った(哄笑した)のだ!彼が笑った(哄笑した)ように、一人の人間が笑った(哄笑した)ことは、地上ではいまだかつて一度もなかったのだ!(ニーチェ著「ツァラトゥストラ 幻影と謎について」より)』

    上記の蛇は永劫回帰の暗黒面とそれに伴う受動的ニヒリズムの象徴です。
    この箇所と「ぶどう園の労働者のたとえ」がどう関連するのか私には分かりません。

    > 三段の変化は、結局、「永遠回帰」の思想における「然り」という肯定にほかならないと思いますし、生命の充実感であり、嫌なことさえも肯定できる。
    > つまり、その一デナリオン(約1万円)というのは、決して来世や永遠の命などではなくて

    ここまでは同意できますが、以下は違和感があります。
    何故ならニーチェ哲学にとって神(ユダヤ・キリスト・イスラム教が信仰対象とする人格神)は人類にとっての福音ではなく禍因でしかないからです。

    > この世における神への信仰による生きがい、生命の充実感の事ではないかなと思いました。
    > それが、現世において神から与えられるのが「あとの者は先になり、先の者があとになる」ということ。天の国とは、このような神との交わりの場なのかなと思います。

    ななしさんのレスを引用させてただき、私なりに結ぶと以下のようになります。

    三段の変化は、結局、「永遠回帰」の思想における「然り」という肯定にほかならないと思いますし、生命の充実感であり、嫌なことさえも肯定できる。
    つまり、その一デナリオン(約1万円)というのは、決して来世や永遠の命などではなくて、自分なりの大いなる正午を自らの生であるところの大地で迎えることを至上の悦びとする瞬間であるということ。

返信/引用返信 削除キー/

■6790 / )  Re[10]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/18(Fri) 20:15:24)
    No6502に返信(エフニさんの記事)

    > 全然全然、いつも楽しいです。&#65533;
    >
    > イェイ&#65533;
    >
    > >・・・夢のようだと思う。<
    >
    > 荘子胡蝶の舞、なんてのも、ありましたね。
    >
    > 夢のなかで鏡を見たり、自分の写真・映像を見たりした記憶がありません。
    >
    > 夢のなかの「わたし」は、本当にこの現実の「私」と同じ顔をしているのだろうかと考えています。
    >
    > >哥哥に悪いかなぁと思ったりしています。<
    >
    > そんなことありませんよ&#65533;
    >
    > それよりも、あの時は鼻糞を投げつけてごめんなさい。
    >
    > そして・・・。
    >
    >
    > カッコよすぎて、ゴメン&#65533;

    *****************

    楽しいと言ってくださってありがとうございます。
    調子に乗ります♪

    > 夢のなかで鏡を見たり、自分の写真・映像を見たりした記憶がありません。

    そう言えばそうですね〜〜〜。
    ふむふむ。(メモメモ)

    > 夢のなかの「わたし」は、本当にこの現実の「私」と同じ顔をしているのだろうかと考えています。

    あ〜〜〜。

    以前、私と友人と見知らぬ少年の三人で山道をマラソンしている夢を見たことがありました。
    見晴らしのいい頂上付近でルートの確認をしようと立て看板の地図を見たら、地図の文字が動き始めたために不安を覚えたこと覚えています。
    その後マラソンを続けるのですが、最後のころには見知らぬ少年がいつの間にか自分になっていたという夢でした。自分が少年になったのか、少年が自分になったのかよくわからないのですが、最初は三人で最後は一人みたいな変な夢でした。

    考えてみたら、現実の私の顔もどのような顔をしているのか正確にはわからないような気がしないでもないです。
    夢に顔がないように現実にもないのかも知れないです。
    便宜上顔があるような認識でいるけれど本当はないのかもしれないですね。

    > それよりも、あの時は鼻糞を投げつけてごめんなさい。

    いえ。いえ。
    何故か少し傷ついたこと敏感に察知していただいた記憶があります。

    > カッコよすぎて、ゴメン&#65533;

    はい♪


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■6789 / )  Re[43]: 小林秀雄その他
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/18(Fri) 20:14:36)
    田秋さん、こんばんは

    > knowing itselfさんは小林秀雄の評論や音楽観についてどのような感想をお持ちですか。

    小林秀雄の評論は相手を借りて自分を語るものだとみているので、論じる芸術家の本来からズレることも多いと思います。モーツァルトの一面は捉えても、捉え損ねたところもまた多い?よくいわれるのは、小林秀雄のモーツァルト論ではオペラの占める割合がなきに等しいと。小林秀雄の信者になって、モーツァルトのオペラを食わず嫌いする一方ト短調シンフォニーばかり聴く人がいるなら異常ですね。

    評論活動全体の話しですが、小林秀雄は良い意味でのニーチェの影響をかなり受けていると思います。

    >ただ、小林の「平家物語は短調」というのはその通りだと思いました。

    ハ短調交響曲の勇壮さ健康的な男らしさをカキコされていましたね?その通りだと思います。あと、ピアノ協奏曲3番とピアノソナタ32番がハ短調ですね。どちらもベートーヴェンの中でも好きな上位に入ります。前者はピアノ協奏曲では一番好きかな。最後のピアノソナタはもう神ピアノソナタかと思うレベルです。澄み切った境地ですね。

    > クリュイタンスのフォーレのレクイエムはドイツ的な重厚さがないところが好きです。

    そうですね。クリュイタンスはかのベルリンフィルでベートーヴェン交響曲全集を録音していますが、これまたカラヤン的なドライブしすぎ重厚すぎ感がない、ラテン的な明晰さと洗練がありますね。
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■6788 / )  Re[9]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/18(Fri) 19:48:41)
    No6499に返信(エフニさんの記事)
    > 妹君ちゃん、すいません、お手数をおかけしてしまって。(反省)
    >
    > ☆ゲゲ、アマガエルも夏の季語なんですか&#65533;
    >
    > 哥哥はこの「古池や〜」の蛙は、アマガエルだと思っていました。
    >
    > じゃあ春のこの時の蛙って、何だろう。
    >
    > 妹君ちゃんと同じで、哥哥も季節感が無くなってきました。
    >
    > ☆ていうか、哥哥はカジカの声って聞いたことがありません。
    >
    > 蛙の歌といえば、ケロケロか、ゲロッゲロッしか聞いたことがありません。
    >
    > 鹿のように鳴くカエルって、何?って感じです。
    >
    > ☆妹君ちゃん、歳時記でいろいろと調べて下さって、どうもありがとうございました。
    >
    > 春の「かはづ」と、秋の「かはづ」と二種類あることを勉強させてもらいました。
    >
    > 感謝&#65533;

    *****************

    >> じゃあ春のこの時の蛙って、何だろう。

    歳時記で見る限り殿様蛙、赤蛙、土蛙(イボ蛙)、昼蛙(昼鳴く蛙全般)、遠蛙(遠くで鳴く蛙全般)、夕蛙(夕方鳴く蛙全般)等々のようです。

    > 妹君ちゃんと同じで、哥哥も季節感が無くなってきました。

    はい。でも、基本に忠実であるならば「春」だったわけです。(「蛙」=「春」)
    多分、こういうところを俳句を知らない私たちは外してしまいがちなのだろうと。

    >☆ていうか、哥哥はカジカの声って聞いたことがありません。

    わたしも♪
    検索したら河鹿の声を聞くことのできる温泉宿があるようです。
    今度行ってみようかなと思っています。

    > 春の「かはづ」と、秋の「かはづ」と二種類あることを勉強させてもらいました。

    どうも昔は蛙と言えば鹿と並んで哀愁たっぷりに鳴く河鹿蛙を指したようで、その他の蛙は和歌の対象とはされていなかったようです。(ゲコゲコやってるんで。)

    河鹿は春から秋にかけて鳴いていたのだと思います。





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■6787 / )  純粋理性批判を読んでみる。13
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/18(Fri) 19:40:53)
    トピ主:pipitさん

    ニーチェクラブNo1人気トピ

    引き続きよろしくお願いします。
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■6786 / )  Re[7]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/18(Fri) 19:16:02)
    No6498に返信(エフニさんの記事)

    > 加藤楸邨は、俳句は世界を二つに断裁するほどの力があるという信念の持ち主でして、蛙が跳び込んで世界が断裁される、無音でなくても、少なくとも跳び込む音よりも静寂だった世界と、動の世界が、俳句によって断裁されるというのが、彼の信念によって構築された観念であると哥哥は理解しました。


    > 楸邨の思想を、天地創造の話と同型対応させて考えれば、イメージが掴みやすいかも知れません。
    >
    > 永遠のカオスに、一瞬、不動の動者・第一原因者からの、「光あれ!」というロゴス(言葉)から、万物が創造され、カオスがコスモスになった。
    >
    > 世界はその一瞬に分節された(断裁された)というのとの同型対応。
    >
    > だめ?

    *****************

    ウイスキーにソーダを入れると違う飲み物になる、みたいな話かなぁ。
    ・・・・なんか変すぎ?(笑)
    ソーダを入れる前と入れた後では世界が変わっている。
    ウイスキーとハイボールとは断裁されている。

    ・・・違うか。(・・;)

    難しい・・・。

    > だめ?

    だめじゃなくて哥哥に私がついていけないだけです。

    最近ついていけないと尻尾が生えてきちゃうので注意してます。
    (とびかからないように。)
    (私以外にはほぼ、意味不明ですが。)


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■6785 / )  たーぼーさんとおくたがわさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/18(Fri) 19:03:41)
    たーぼーさん、はじめまして。よろしくお願いします。

    おくたがわさん、第四図と第五図の引用、ありがとうございます。
返信/引用返信 削除キー/

■6784 / )  Re[37]: 自殺について
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/18(Fri) 18:40:32)
    ■6760、田秋さま
    ありがとうございます。

    自殺した人はどうして自殺したの?、っていうことが、わたしの問題。
    自殺っていうの、精神が身体を殺す、っていまのところ見てます。
    ふつう精神がおかしくなっちゃたから、っていうけど、どのようにおかしくなっちゃてるから?っていう問い。

    身体を自分の力で動かすことができない人は自殺することはできない。
    もともと精神に不具合がある人は自殺するのかしら?
    いわゆるふつうの精神だった人の精神がどうにかなって自殺しちゃうんじゃないかしら?

    なんていろいろ考えてる。

    自殺することはよくないことだ。ってすると、自殺してしまった人はよくないことをしてしまった人。っていうことになる?

    自殺した人の魂がどうなるかを、神、仏はなんか言ってるのかしら。

    カントのは認識論って見ているし、わたし自殺っていうの精神の問題って見てるから、まったく関係ない話題でもないと思うけど、minoriさんのいまの主題からズレちゃってるみたいでごめんね。

    もうこれについてはここでは書かないよ。






返信/引用返信 削除キー/

■6783 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/18(Fri) 16:49:54)
    こんばんは、いつもお世話になっていますm(_ _)m

    パニチェさんが無理なく作れる時に、『純粋理性批判を読んでみる。13』を作っていただけるとうれしいです
    どうぞよろしくお願いします

    おつかれさまです〜 (^_^)
返信/引用返信 削除キー/

■6782 / )  たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/18(Fri) 16:33:16)
    たーぼーさん、こんにちは〜(^O^)/
    まだ返信してないのですが、返信させてもらうつもりしてます!
    たーぼーさんが紹介してくださった法話も聞くつもりしてます!
    (実は、一個上の法話を間違えて聞いてしまっていました。。。)
    いろいろありがとうございます
    いただいたコメントは、あとでゆっくり考えさせていただきますね(^_^)



    No6774に返信(たーぼーさんの記事)
    > knowing itselfさん、初めまして。
    >
    > <第五図VS第四図は、カントによる物自体VS現象の内山興正バージョンだと思います
    >
    > Pipitさんとのお話に割り込むようで申し訳ないのですが、この第五図と第四図というのは何でしょうか?
    > 何処の本に載ってるとか、なるべく具体的に教えてほしいのですが。
    > 私のIPOD だとNo6737でpipitさんのメッセージにknowing itselfさんが返信したレスから始まっていてpipit さんがknowing itselfさんに送ったレスが見当たりません。
    >
    > 何か気になるもんで。少しでもお力になれたらと思います。
返信/引用返信 削除キー/

■6781 / )  第五図と気づき
□投稿者/ minori -(2020/09/18(Fri) 15:19:50)
    仏教3.0の第五図というのは、非二元での「気づき」と内容として似た部分があるのではないか、と推測している。

    すべてのものの存在の基盤が「気づき」であり、「気づき」とともにすべてが存在している、と非二元では考える。
    「気づき」は、物質ではなくどこに存在する、という具体的な場所を示すことが不可能なもの。
    神、仏と言い換えてもいいようなもの。

    宇宙がなぜ存在しているのか、人間にはわかりようはない。
    しかし。「気づいていること」と「存在していることは」は同時的事態だ。

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■6780 / )  Re[28]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/18(Fri) 15:06:32)
    あっちとこっちがないから二元対立の世界まで戻ってこないと認識出来ないわけです。
    だから悟りを思い出すには他者が必要です。
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■6779 / )  Re[27]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/18(Fri) 14:54:47)

    > 添付した画像の中の第四図・第五図になります。
    > この画像の出典は内山興正著「進みと安らい」ですが、他の書籍にも載っているようです。図の背景や意味についてはknowing itselfさんがお詳しいです。

    おくたがわさん、ありがとうございます。
    親切な方ですね。
    これはもう内山老師のお書きになっている通りです。

    スッパニパータで仏陀がなんて言ってるかと言うと、

    最古層の仏典『スッタニパータ』で【空】が説かれているのは
    【つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。】の箇所くらいです。いかに仏陀は【空】を説かなかったか、です。

    さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。

    それを解明するには、『ダンマパダ』の
    【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。


    死王も彼を見ることがないと言ってるんですよ。
    今の特に臨済宗系(名誉のために言うと全てではないと思います)の見性至上主義とは全く正反対なんです。
    仏陀は見性などしないほうがいいと言ってるんですよ。
    それは何故かと言えば悟るより悟りを落とす方が何倍も大変だからです。
    それは目の前のpcが私だったというならすぐ忘れられるかもしれないけど、本来の見性は腰抜かすようなとてつもない世界なんです。
    それを(小さい方の自分)が抱え込んでしまうんですよ。
    空とは無常であるのに抱え込んでしまうと自分のところで止まってしまうんです(笑)
    そうすると身動きが取れなくなるんです。
    悟りを自分の物にしてしまうんです。無常で苦で非我なのに(笑)
    だから苦しむから仏陀は二元対立の世界(内山老師の図で言うと第三図)
    に帰って来なければ死の王を見ることはないと言ってるんです。
    第五図の頭で展開する根本の世界は、第三図(第四図ではないと思う)の二元対立の世界まで戻らないと思い出せません。
    だから本当の悟りの部分は内山老師図にはないけど第六図なんです。自己を忘れきったところ。
    第六図もしくは(頑張って第七図?)いって、また第四図に帰ってきて第一話が終わりです。

    だから印可2個持ちの方とか無事禅は悟りがないとか良く批判してたけど、この構造を分かってないんですよ。物足りないし、やっぱり神のお姿を見たいけど、悟りがないから無事なんです(笑)


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■6778 / )  Re[7]: しかし何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2020/09/18(Fri) 13:54:04)
    >ちょうど私も犬笛のことを考えていました。<

    シンクロ〜〜廂

    犬笛って不思議ですよね。

    逆に人間に見えて犬に見えないものが、色です。

    >驚きますが、なんかこれ、カントみたいっすね〜。<

    核兵器を投下されても、音が大き過ぎて、人間には聞こえないのです。

    強烈な光と爆風だけが人間に知覚できます。

    >より大きなものを私たちは知ることができない、みたいな。<

    ウィトゲンシュタインもこれに近いですよね。

    キリスト教の教父、トマス・アクィナスなんかもこれに近いです。

    ☆妹君ちゃん、楽しく素敵な四連休をお過ごし下さいね廂
返信/引用返信 削除キー/

■6777 / )  Re[7]: しかし何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2020/09/18(Fri) 13:26:41)
    >蛙が飛び込む音が聞こえるくらい静かな場所だった(静かにしていた)<

    哥哥も支考の叙述で納得いたしました。

    ただ、季節感がですね、どうにも腑に落ちないのです。

    春、新暦の五月頃といえば、田んぼ、沼や池は、蛙の鳴き声で大変かまびすしいです。

    この蛙の大合唱のなかで、飛び込む水の音が聞こえるのかなぁ、って不思議に思ったりしてます。

    >音だけあったから、かな。<

    なるほど。

    どうもありがとうございました
返信/引用返信 削除キー/

■6776 / )  オリジナル政治
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/18(Fri) 12:43:29)
    「オリジナル政治」が蔓延っているわけで、それをニーチェの「力への意志」と捉えてもいいと思う。世界は「事実fact」で成り立っているわけではなく、「意見opinion」で成り立っている。「真実」と「幸福」は別物、「脳」と「心」は別物になる。

    政治家になりたければ、秘書、それに代わる仕事をすべきであって、
    その工程を度外視し、オリジナル政治をし始める人が多いって話よ。
    少なくとも私は品責を経験しているので、必要悪の対処は心得ている。
    ソクラテスはいった、「悪法もまた法なり」と。

    国を作ってみよう。

    寒天培地が入っているシャーレに、細菌を塗りついて、コロニーをつくる。
    そして、そのシャーレを机から、水をはった水槽の水面に浮かべる。
    これが国だと。

    「政治家気取りの普通の人」は、国境を考えていないんだな。
    外交を考えていない。

    この水に浮かぶシャーレの外は、水である。
    シャーレの外に出た細菌は溺れ死ぬだろうと、微塵も思っていない。
    そして、このシャーレが沈没するとは。微塵も思っていない。
    基本、国外には何もなしだ。

    国は船なのだ。
    プカプカと浮かんだ船が国なのだ。
    じゃ、どうするか?
    何が決めてか?
    国民だ、国民の個性だ、国民の能力しかない。
    今となっちゃ、「厳格」の方がいらない。

返信/引用返信 削除キー/

■6775 / )  Re[26]: たーぼーさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2020/09/18(Fri) 11:01:30)
    No6774に返信(たーぼーさんの記事)
    初めまして。横からすみません。

    > この第五図と第四図というのは何でしょうか?
    > 何処の本に載ってるとか、なるべく具体的に教えてほしいのですが。

    添付した画像の中の第四図・第五図になります。
    この画像の出典は内山興正著「進みと安らい」ですが、他の書籍にも載っているようです。図の背景や意味についてはknowing itselfさんがお詳しいです。
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■6774 / )  knowing itselfさん
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/18(Fri) 10:29:25)
    knowing itselfさん、初めまして。

    <第五図VS第四図は、カントによる物自体VS現象の内山興正バージョンだと思います

    Pipitさんとのお話に割り込むようで申し訳ないのですが、この第五図と第四図というのは何でしょうか?
    何処の本に載ってるとか、なるべく具体的に教えてほしいのですが。
    私のIPOD だとNo6737でpipitさんのメッセージにknowing itselfさんが返信したレスから始まっていてpipit さんがknowing itselfさんに送ったレスが見当たりません。

    何か気になるもんで。少しでもお力になれたらと思います。
返信/引用返信 削除キー/

■6773 / )  Re[42]: 小林秀雄その他
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/18(Fri) 10:19:02)
    おはようございます、knowing itselfさん

    小林秀雄は学生の頃に無常という事、モオツァルトを読んだくらいです。knowing itselfさんは小林秀雄の評論や音楽観についてどのような感想をお持ちですか。
    高校の授業の時に先生は「私が知っている評論家に《小林秀雄の音楽観》を聞いてみると、”?”をつける人が多かった」と言ってました。ただ、小林の「平家物語は短調」というのはその通りだと思いました。

    クリュイタンスのフォーレのレクイエムはドイツ的な重厚さがないところが好きです。最初、レーーーーと始まるのも「おお、Requiemのレか」と、聴く前の心が少し和み、安らかに聴けます(弾けました)。

返信/引用返信 削除キー/

■6772 / )  小林秀雄その他
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/18(Fri) 09:18:09)
    おはようございます。

    小林秀雄についての文芸評論集が気鋭の新人によって最近出版されました。「小林秀雄 最後の音楽会」杉本圭司 新潮社。それによると、「本居宣長」を書くときに絶えず聴いていたのがブラームスの交響曲1番だったそうです。小林秀雄本人も「本居宣長はブラームスで書いている」と語っています。カラヤンのものはレコードが擦り切れるほど聴いた。ところがブラームスについての文章はすべて廃棄してしまったので、小林秀雄がブラームスの音楽についてどういう思索をしていたのか、ほどんとわからないそうです。

    「本居宣長」の後、小林秀雄が最晩年に執筆を予定していたのが画家ルオーだといわれています。ルオーは音楽家フォーレとも感性的に響きあうものがあります。

    フォーレのレクイエムは六種類以上はもっていますが、一つ上げればやはりクリュイタンスですかね。
返信/引用返信 削除キー/

■6771 / )  Re[36]: 悪用される政治力 C
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/18(Fri) 08:38:33)
    ま、政治を考えると、やはり悪が憑きモノだろうと思います。
    ジェノサイド、ホロコースト、奴隷などを見てて思いますね。

    まず、マジモンの道徳の無さを答えます。決して真似しないように。
    私が道徳が無いわけではありません。
    他の方が、「先見性」がないんです。
    現代人の7割の方に先見性はないんじゃないか?と思い始めました。
    先見性ってのは、人のレベルを謀るバロメーターであって、
    最低でも、客観性、紳士性、先見性を持っていないといけない。

    紳士性の中に道徳が入っているのだけど、
    相手が明らかに劣っている場合、例えば子供が相手だった場合、
    誰だって、客観性、紳士性、先見性は発揮できているはず。

    しかし、難問にぶちあった場合、そこには余裕がなく、
    客観性、紳士性、先見性を3つ同時に発動する事ができないのです。
    普通の人は、よくても2つの事しかできません。
    時々、特殊能力でマルチタクスの方がいるが、そういう人は3つどころか、4つできますね。

    普通の人は、客観性、紳士性のみなんだわな。
    マジモンは、客観性、紳士性、先見性を3つ意識して生きているが、
    難問にぶちたった場合、紳士性を真っ先に捨てて、客観性と先見性のみで対応します。

    自分より優っている人、
    ま、私からみると大企業の社長や天皇陛下のような方が相手だった場合、
    先見性を真っ先に捨てて、客観性、紳士性で対応します。

    なので、優秀な方でなければ、当然、政治家なんてもんは務まらないと思いますね。
    マジモンの悪い所は、過去を振り返ると、口の悪さですね。
    理由は家庭内の不和です。
    ニーチェクラブにきて良かった事は、いま、それに気づいた事でしょうね。
    日本人の遺伝子は、国語loveですからね(笑)



    政治で重要なのは、「故郷」でしょう。
    そして、好き嫌いの感情です。

    ★★ 故郷が好きっていう方が、基本、政治家をすればいいと思います ★★

    故郷が嫌いっていう方は、病的な臆病を発動している状態でしょう。
    不毛者って奴ですね、故郷が嫌いなら出ていけばいいだけよ。

    可愛い子には旅をさせろは正解だが、バカ息子には旅をさせるなです。
    バカに旅をさせると、より一層バカになって戻ってくるだけです。

    私の可愛い子が船出をします。そして、その子は戻ってくる場所は故郷です。
    ノスタルジア(郷愁)というものでしょうね。
    故郷が混沌とし、まして消滅していたら、その子の帰る場所がないわけです。
    難民誕生です。

    落ち武者もそうでしょうね。
    もどる故郷がなく、山に籠ることになって、やがて山賊になる。

    故郷の政治は皆で守らなきゃいけない…
    やっぱり…、民主主義が良いね(笑)

    家庭の不和、故郷の不和が悪を生むかもしれません。

返信/引用返信 削除キー/

■6770 / )  Re[40]: 《ドビュッシー》
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/18(Fri) 08:24:11)
    2020/09/18(Fri) 08:54:24 編集(投稿者)

    おはようございます、floraさん

    ソルフェージュというのは基本的読譜力を養う訓練みたいなものです。まずは楽譜に忠実に、ということです。

    小林秀雄の「平家物語は短調だ」というのは、例えばベートーベンの「運命」はハ短調ですが暗くも物悲しくもなく、力強く勇壮です。平家物語もそうなのだ、ということを言っているのだと思いました。

    曲の冒頭、一緒に始めるときは1st Vnが指揮者になります。映像をみればわかりますが、始まる1小節前の3拍目で体が少し沈みます、4拍目で体を起こすと同時に弓を持つ手があがります。これで3、4となりテンポがわかります。特に4拍目ではみんな一緒に息を吸います。これで合う(はずです)。
    音を弾きだすときは《on the string》と言って、必ず弓を弦の上に置きます。弾きだす瞬間、弓を弦にぶつけることはしません(音が汚くなるから)。4拍めの裏で無意識にオンザストリングにしています。

    >全部がきれいな完璧なものというのは私にはちょっと難しく、どこかに間があったり、バランスが崩れているような感じのほうが好きということなのです。
    へええ、ちょっと意外でした。庭園など日本のものにそういう傾向があるように思います。欧州の庭園を見ていると完全なシンメトリーの美しさ(しかも大きい)を感じます。わざとバランスを崩すという発想は欧州のお庭にありますか?

    国芳は見に行くの2回目かと思ってましたが、うちに帰るとカタログが2冊あり、今度で3回目でした。好きなんですね!発想がユニークで(北斎もユニークですが)、というか浮世絵師はもみんなユニークですね。今回も掲載写真のがありました。あと国芳は猫が好きで擬人化したネコとか、ま、猫に限らず擬人化した金魚とかもありました。あと、2匹のタヌキの8畳敷のタマブクロを結び、魚を囲って漁をしている図とか、美人画、役者絵も楽しめました。最近はいつも一人で見に行ってましたが、今回は話をしながら1枚1枚見たので、時間が結構かかりました。

    追記:
    フォーレのレクイエム、これなんかボクの好みです。クリュイタンス=コンセルバトワールです。
    https://www.youtube.com/watch?v=B6hwBVR5RDs
    初めてレクイエムというものを演奏したのがフォーレのレクイエムで、確か新日フィルにエキストラに行った時で、指揮は小澤征爾でした。リベラ・メの《タンタン、、タン、タンタン、、タン》のリズムについて小澤さんがフランスでやったときにフランス人からこのリズムについて教わったことを話してたのを覚えています。軽くもなく重くもないんですよね、噛みしめながら停滞しないというのかなあ。

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■6769 / )  Re[35]: 野生とコード
□投稿者/ minori -(2020/09/18(Fri) 08:02:19)
    >>レヴィ=ストロースは、現地人が用いるこのような知性を「具体の論理」と呼んだ。
    >>それは、感覚的なものと知的なものの二つが結合した論理。


    植物、動物、気象などを詳細に分類し、それらの知識を組み合わせて自分たちの世界を作り上げていた、ということ。
返信/引用返信 削除キー/

■6768 / )  野生とコード
□投稿者/ minori -(2020/09/18(Fri) 07:53:47)
    レヴィ=ストロースは、感覚にも論理性があり、知性が内在していることを認識していた。
    そして、アマゾン奥地の先住民社会でも、生態系のすべてが人間に語りかけてきて、先住民は、そのメッセージを、コードを使い解読し、それらを分類して体系を作っている、ということを考察した。

    コードとは。意味を伝達するメッセージを成立させる規則の全体。

    先日書いた「近親婚の禁止」が普遍の構造であることをレヴィ=ストロースが考察したという話に戻ると・・・。

    「婚姻」という〈コード〉には、「女性」「男性」という〈記号〉がついている、コードを成立させる要素としての〈記号〉ということになるのだろう、と今のところ暫定的に考えている。


    レヴィ=ストロースは、現地人が用いるこのような知性を「具体の論理」と呼んだ。
    それは、価感覚的なものと知的なものの二つが結合した論理。

    現代人のように抽象的な概念によって理解していこうとするのではなく、感覚的な能力を総動員しながら世界を知的に認識していく。
返信/引用返信 削除キー/

■6767 / )  Re[7]: しかし何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2020/09/18(Fri) 07:35:51)
    >これって一体どういう事なんでしょうね。<

    この生理というのを具体的にいうと、脳は退屈が死ぬほど嫌いなんですね。

    それで、何も見えない、聞こえないとなると、自分で創りだしちゃえァとなるのです。

    マッドサイエンティスト、ノーベル賞まであと一歩だった天才科学者ジョン・Cリリィという人がいました。

    映画「イルカの日」のモデルになった科学者です。

    やはりこの人をモデルにした、鬼才ケン・ラッセルの映画「アルタード・ステイト」というのがあるのです。

    ドラッグをやって、アイソレーションタンクに入ってトリップするのです。

    このアイソレーションタンクというのは検索して頂ければ助かるのですが、この中は暗黒、完全無音です。

    昭和の時代、日本にも輸入されて盛況でした。

    入ってから40分ぐらい経つと、脳が退屈してきて、大脳辺縁系や側頭葉を活発化させて、幻覚、幻聴を起こすのです。
返信/引用返信 削除キー/

■6766 / )  Re[6]: しかし何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2020/09/18(Fri) 07:02:26)
    >ありがとうございます。質素にして実(芭蕉)なわけですね。<

    あい。

    >はい。握手宦

    わお〜ァ

    これも妹君ちゃんにしてもらうの、何年かぶりです

    嬉しいマ

    >少しうるさい感じがします。<

    定家がなぜ若くして、この歌のような人生の無常を達観できたかと言えば、武士の鎌倉時代にどうしても馴染めないで、平安時代への憧憬をいつまでも持ち続けていたからなのです。

    定家の心象風景にとっては、花が平安時代、とまやが鎌倉時代だったのです。

    >なんか厳しそうですね。<

    トクビーさんが、「くたばれ、ヘーゲル」のトピをヤフーに作っていましたよね。

    「ヘーゲルがわかったという人を私は信用しません。」という始まりでした。(つまり、それくらい難解だということ。)

    トクビーさんは学生時代、あの加藤尚武(妹君ちゃんも著書を持っている)から、ドイツ語の原文で、みっちりヘーゲルを叩き込まれました。
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■6765 / )  Re[14]: しかし何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2020/09/18(Fri) 06:04:49)
    >そういうことってすごくありそうです。<

    でしょァ

    哥哥はネタじゃなくて、半分ガチでそう思っています。

    >これね。なぜ目が覚めるのだ?と不思議に思いませんか?<

    恐怖や異性との接触の夢は、身体からアドレナリンが出ると思うのですよ。

    そうすると、脳波は睡眠中のθ波(シータ波)やα波からβ波になってしまうから、目が覚めるのかなぁ、なんて思っています。
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■6764 / )  Re[14]: しかし何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2020/09/18(Fri) 05:55:05)
    >すごい。私は同じ夢を見たことがありません。<

    同じと言っても、全く同じでなくて、門の格子から覗くように見る場合や、勝手口が開いていて、そこから今まで見えなかった中が見えたりと、その時その時で具体的には違うのですが、その「豪邸を見ている」という点では、同じ夢なのです。

    >家を確かめに行くってのも凄いし。<

    哥哥は過去の経験を夢で思い出してるだけだと思っていたのです。

    だから、確かこの辺だったよな、とその家の方へ向かって行きました。

    >確認したら夢を見なくなったというのもおもしろいです。<

    何度も同じ夢を見るのは、身辺に危険が迫っているときの、潜在意識からの警告(サイン。しるし。)だと聞いたことがあるのですが、この夢に何のメッセージがあるのか全くわかりませんでした。

    その後、何事も無く現在に至ってます。
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■6763 / )  Re[39]: 《ドビュッシー》
□投稿者/ flora -(2020/09/18(Fri) 04:53:51)
    こんばんは、田秋さん。

    >レクイエムはフォーレが好きです。リベラ・メが特に好きです。そういえばフォーレのにはディエス・イレが入っていませんね。

    これですね。
    https://www.youtube.com/watch?v=7WvHDrcA084

    メロディラインがとても綺麗ですね・・・・私は(確か田秋さんはヴェルディが好きじゃなかった?)やはりヴェルディもディアス・イレが好きです。https://www.youtube.com/watch?v=cHw4GER-MiE

    モーツアルトのディアス・イレもそうですが、めちゃくちゃ怒っている感じが好きです。

    >commmons:schola Vol.3
    https://www.youtube.com/watch?v=nKgW1Lz7LXc
    >コモンズ・スコラの第3巻はドビュッシーです。ドビュッシーは良い曲がいっぱいありますが、オケの定番は意外に少なく、《牧神の午後への前奏曲》と《海》2曲くらいです。演奏回数は《牧神》の方が大分多いと思います。《牧神》はフルートのための曲のようなもので、こちとらふわふわすかすかと霧のような音で伴奏していればいいので気が楽です。

    私も見ました^^。教授ひとりだけの解説が好きだったのですが、後半から偉そうな評論家のような方々がゲストになられて面白くなくなりました。

    >《海》はジャン・フルネというフランス人の指揮者でのリハーサルが忘れられません。8分音符+付点8分音符+16音符というリズムパターンがあるのですが、オーボエが何度やっても「リズムが違う。機械的に。ソルフェージュ、ソルフェージュ」というのです。結局そのリハではOKが出ませんでした。ビオラにも同じリズムがあるのですが、オーボエの演奏のどこが違うのか、結局わかりませんでした。

    ソルフェージュというのは楽譜に添え。。。ということですか? オーボエのどこが違うのか説明はなかったのですか? 私はやっぱり雄弁で親切な指揮者がいいなあ・・・

    >リハはフランス語でいつも同じ通訳の女性が付くのですが、雑談したとき、通訳出来ないほどひどいことを言うことがあるので困る、って言ってました。来日する度に「ドビュッシーに会った(を見た?)ことがある」ということを自慢していました。

    そういうレベルの人はどこにでもいますね。「だからどうした!」といいたい!

    >弦楽四重奏も講義で取り上げられていますね。坂本教授はこの曲に出会ったのが中学2年と言ってますが、ボクは高校入ってからです。教授の話の中に《長調と短調》の話がありますね。「長調は元気な感じ、短調は悲しい感じ、とかいいますよね」

    そうなのね。そんな風におっしゃっていて、英語で短調とかマイナーって言いますか?そうイメージがあってか私も短調は悲しく暗い感じがします。

    >話はすっ飛ぶんですが、大昔、芸高の国語の授業で小林秀雄の《無常ということ》の一節に触れたことがあります。平家物語について小林が述べている部分があるのですが、「平家物語というとみんな哀調とか言うが平家物語は短調なのだ」
    >正確な表現は忘れましたが、「平家物語は短調なのだ」という指摘が忘れられません。

    昔の光今いずこのストーリーですものね。「短調、長調」、という表現は結構便利ですね。

    >アップしたのは大分のコンサートで弾いたものです。
    h*ttp://taakii.la.coocan.jp/Debussy_SQ.mp4

    田秋さんが紹介なさっていますね。マイクは結構話してあるのに、声の通りがいいですね。

    >録画の中でも触れていますが、曲に仕上げるのが大変難しい曲です。ドビュッシーもラヴェルも1曲しか書かなかったのは不思議&残念。

    聞いているだけで難しいそうだと感じます。ところで4名が一一斉に引き始めるタイミングをどう取るんですか?

    >追加:
    >ボクも付き合った女性に自殺未遂されたことはありません。頬をぶたれたことはあります。

    あら大変・・・私は人に暴力は振るったことないなあ・・・

    >>ベートーベンとの比較で坂本教授は、’モーツアルトはどこを切り取っても流麗で美しい’とか仰っていました。まさにそうで、そのせいか私はモーツアルトには、殆ど馴染みがありません。

    >ここの処、も少し詳しくお願いしまちゅ。

    モーツアルトもほとんど知らないのに勝手に断定的に書いてしまいましたが、全部がきれいな完璧なものというのは私にはちょっと難しく、どこかに間があったり、バランスが崩れているような感じのほうが好きということなのです。


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■6762 / )  悪用される政治力 B
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/18(Fri) 00:34:16)
    前に2000万円は地元に寄付していると私はいったが、
    もちろん隣町に寄付をする事はありません。
    私は地元の政(まつりごと)を良く知っているからであって、
    隣町の政(まつりごと)は知りません。

    ま、私の死んだ実父も政治好きだったのですが、
    そもそも政治家ではないのに、なぜゆえ、政治を趣味にするのか?

    「質の悪い政治家もどき」という愚か者が必ずおって、
    やっぱり、隣町から自分の住んでいる街の政(まつりごと)に
    参加してくるんだわな。

    悪ってのは、基本、例外なく病的な臆病もので、
    まず逃げる事を前提とした、侵入罪を考えるんだよ。

    隣町の人間が、自分の町の政(まつりごと)に参加ってのは、
    町興しにすらなっていないわけです。単なる利得権益ですよね。

    この逆パターンもあるよ。

    自分の地元を捨てて隣町に引っ越し、
    そっから地元の政(まつりごと)に参加する。
    これも逃げ前提だよね。

    これが県レベルになると解りやすいよ
    神奈川県に住んでいる人が、東京の東京都知事選に立候補する感じ?
    「東京の何を知ってんの?」ってことです。

    このように政治は悪用しやすいのです。
    結構あるよね、このパターン。

    東日本大震災の時も、復興ビジネスは酷かったね。
    その惨劇をみて、私は知り合いの何人か縁をきったよ。
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■6761 / )  Re[34]: 政治
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/17(Thu) 22:37:25)
    悪魔ちゃんへ

    政治ってのは、どう考えても国の維持だろうね。
    けど、手段がなんでもいいんですよ、ここが俺の政治が嫌いな理由です。

    まず、道徳は脇に置いて話させていただきます。
    ↑この表現の間違っているけどね。

    まず、バカには政治は無理よ。バカほど政治やりたがるけど(笑)
    政治は根拠がいらないからね(笑)

    私の独自の犯罪心理
    大要因:病的な臆病、ストレス過多
    小要因:自己中心、妄想、政治的、良心の欠如、依存症

    政治ってのは、悪になる可能性が大で歴史を振り返っても酷いジェノサイドはあった。
    ※ナチス、クメールルージュとか

    国創りは船創りなんですよ。
    国創りを国創りと思っている政治家は国を沈没させるでしょうね。

    国創りを国創りと思っているのなら、まず、こいつは国境の事を考えていないんだ(笑)
    ようは、どこの国だって作れると思っている愚者だね。近づかないねーことだ。

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■6760 / )  自殺について
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/17(Thu) 22:06:20)
    横レス失礼します。

    悪魔ちゃん、こんばんは。

    自殺について、ボクの考えです。
    結論としては、自殺するべきではない、です。
    そう思うようになったのはアフリカなどで飢餓とか伝染病で人が死んでいくニュースをみて、何の罪もない人々が、死を望んでいない(と思う)多くの人たちが死んでいくというニュースをみて、この人たちの分まで生きなきゃ、と思ったからです。

    そう考えるようになったのは40〜50歳くらいからで、その前は、結論は同じなのですが、理由が違っていました。
    Hしたからといって必ず妊娠する訳でもなく、受精するときは何億個の精子のうち1個だけが卵子と結合できる、ということを考えると、この《ボク》というのは物凄く低い確率で選ばれた存在なので、自らそれを放棄するのは勿体ない、という理由でした。

    「ああ、もう死んじゃいたい」と思ったことはありますが、幸運にもそれを実行するほどのシリアスさはありませんでした。
    最近、TVゲームなどの影響で《死》というものが安易に捉えられているのではないか?(リセットボタンを押すと復活する)と思うことはあります。

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■6759 / )  こんばんは
□投稿者/ pipit -(2020/09/17(Thu) 22:04:21)
    みなさま、こんばんは、コメントありがとうございます!

    今日は用事が入ってしまったので、また、ゆっくり読ませていただいて、
    返信させていただきます。

    ありがとうございます!

    悪魔ちゃん、後半部分への返信は、また明日以降に書きますね〜

    ひとまず失礼します m(_ _)m

    おつかれさまです (o^^o)
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■6758 / )  Re[20]: カントの現象
□投稿者/ pipit -(2020/09/17(Thu) 21:55:31)
    No6707

    悪魔ちゃん、こんばんは(^O^)/

    > 中島義道さんによると、カントの「現象」はあくま「正しい現れ」のこと。
    > もしそうだとするなら、カントの「現象」で見てゆこうとするなら、まずこの前提をおさえておいて、って思うんだけどわたしのばあい。
    >
    > 現象学の「現象」はカントの「現象(正しい現れ)」だけを相手にしてないとわたし思ってるから、ちょっと書いてるのね。<

    ちょっとね、ここらへん、ちょっとややこしそうだぞ?って、思ってるよ。


    pipitの今の私見書くね。

    例えば、
    私が手品使って、悪魔ちゃんとpipitの間で、ボールが宙に浮いたとするよ。

    中ちゃん先生の言う現象って、
    2人の間でボールが宙に浮き、その状態には何かしらの理由がある、
    みたいなことかと、思ってるんだ(もちろん大きく間違えてるかも、その場合はごめん!)

    2人の間で、そういう現象を「知る」ことが共有できる。
    2人とも、原因があり、その結果として、宙に浮くボール、という現象を「知る」
    ここまでが、中ちゃん先生の言う、正しい現れ、なんかなーって。

    そして、そうなってる、そう見えている、理由を、2人で、話し合うことができる。
    それが、黒ちゃん先生の言う、経験の地平の確定、なんじゃないかなーって。
    (黒ちゃん先生の文章を後で引用するね。)
    「pipitの超能力だよ〜」とpipitが嘘をついても、
    手品の仕掛けを悪魔ちゃんが見つけて、
    「嘘ついちゃだめ!物理的仕掛けみつけたよ!」
    って、2人で(本当のこと)を探求することができ得る。

    みたいな感じで、カント哲学での現象とかを捉えてるんだけど、
    全然違ってたらごめんなさいm(_ _)m
    多分、まちがってるかな。。
    だけど、今は、そういうかんじに思ってしまってるかんじです


    先に言ってた、黒ちゃん先生の〈経験の地平の確定〉などについての文章の引用です↓

    黒崎政男先生『カント『純粋理性批判学校入門』p182より引用開始
    『超越論的真理とは〈経験の地平〉の確定のこと

    このようにカントは、対象との具体的出会いに先立って、ア・プリオリに経験の〈形式〉を確定しようとする。(略)

    これは具体的な存在者との出会いをあらかじめ可能にするような〈経験の地平〉の確定、というふうに言いあらわすことができるだろう。
    この経験の地平においてのみ、我々は認識が客観的妥当性を持つことを主張しうるのである。そして、この地平の確定こそ、「超越論的真理」と呼ばれることの内実なのである。

    (略)だから、経験の個々の内容にまで立ちいって考察することは『純粋理性批判』の仕事ではない。
    つまり、個々の内容を伴った経験的認識の真理の一般基準を提示することが目的なのではない。

    (略)カントが確立した経験の地平は、したがって真なる認識も偽なる認識をも許容する、というか、むしろそれらを初めて可能にする地平なのである。
    この地平の上でのみ、我々は初めて認識の客観的妥当性を主張しうる。
    その主張はあるいは誤謬であるかもしれないが、この主張の修正・改変は、「超越論的真理」を前提にして初めて可能なのである。

    (略)さて、カントの超越論的真理が、〈経験の地平〉を確定することだとすれば、個別的、具体的な経験法則や知識は、カテゴリーから〈導出〉されてくるようなものではなくて、「経験の地平」の上で、具体的に経験を積みながら求められていくようなものでなければならない。
    カントは「すべての経験的法則は、その起源を純粋悟性概念から導出することはできない」(A127)と述べている。
    (略)、そこには、経験において「与えられる」という感性の契機がどうしても必要なのである。
    (略)
    『純粋理性批判』によれば、真理は最初から誤謬や仮象と峻別されてア・プリオリに与えられているようなものではなく、実験や経験の検証を重ねる運動のうちからえられてくるものである。
    このような真理のダイナミックな性格は、感性と悟性とをともに人間認識の不可欠な契機とし、真理の成立根拠を人間自身のうちに置くことによって、はじめて確立され、基礎づけられたものである。
    そして、この真理獲得の運動を根底からささえているのが、カントの〈超越論的真理〉ということなのである。
    真理は、ア・プリオリな形で先取的に枚挙されてり、体系性の「高い塔のうち」に存するのではなく、その存する場所は、「経験という実りゆたかな低地(Bathos)」(ともに『プロレゴメナ』付録)なのである。』
    引用終了

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■6757 / )  Re[33]: 政治
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/17(Thu) 21:03:08)
    No6744に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > マジモンさん
    > 「人類」における「政治」ってなあに?

    細胞で例えるとホメオスタシス(恒常性)だろうね(笑)
    ですから政治家というのは、優秀じゃなきゃいけない。

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■6756 / )  Re[26]: knowing itselfさまへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/17(Thu) 20:46:32)
    善意志は感性界の人間が対象に向けて発する意志ではなく、物自体から発せられる意志。唯一この場合だけ、人間は物自体界にいる。
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■6755 / )  コモンズ・スコラ第3巻 《ドビュッシー》
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/17(Thu) 20:45:23)
    2020/09/17(Thu) 21:40:14 編集(投稿者)

    こんばんは、floraさん
    レクイエムはフォーレが好きです。リベラ・メが特に好きです。そういえばフォーレのにはディエス・イレが入っていませんね。

    commmons:schola Vol.3
    https://www.youtube.com/watch?v=nKgW1Lz7LXc
    コモンズ・スコラの第3巻はドビュッシーです。ドビュッシーは良い曲がいっぱいありますが、オケの定番は意外に少なく、《牧神の午後への前奏曲》と《海》2曲くらいです。演奏回数は《牧神》の方が大分多いと思います。《牧神》はフルートのための曲のようなもので、こちとらふわふわすかすかと霧のような音で伴奏していればいいので気が楽です。
    《海》はジャン・フルネというフランス人の指揮者でのリハーサルが忘れられません。8分音符+付点8分音符+16音符というリズムパターンがあるのですが、オーボエが何度やっても「リズムが違う。機械的に。ソルフェージュ、ソルフェージュ」というのです。結局そのリハではOKが出ませんでした。ビオラにも同じリズムがあるのですが、オーボエの演奏のどこが違うのか、結局わかりませんでした。
    リハはフランス語でいつも同じ通訳の女性が付くのですが、雑談したとき、通訳出来ないほどひどいことを言うことがあるので困る、って言ってました。来日する度に「ドビュッシーに会った(を見た?)ことがある」ということを自慢していました。

    弦楽四重奏も講義で取り上げられていますね。坂本教授はこの曲に出会ったのが中学2年と言ってますが、ボクは高校入ってからです。教授の話の中に《長調と短調》の話がありますね。「長調は元気な感じ、短調は悲しい感じ、とかいいますよね」
    話はすっ飛ぶんですが、大昔、芸高の国語の授業で小林秀雄の《無常ということ》の一節に触れたことがあります。平家物語について小林が述べている部分があるのですが、「平家物語というとみんな哀調とか言うが平家物語は短調なのだ」
    正確な表現は忘れましたが、「平家物語は短調なのだ」という指摘が忘れられません。

    アップしたのは大分のコンサートで弾いたものです。
    h*ttp://taakii.la.coocan.jp/Debussy_SQ.mp4

    録画の中でも触れていますが、曲に仕上げるのが大変難しい曲です。ドビュッシーもラヴェルも1曲しか書かなかったのは不思議&残念。

    追加:
    ボクも付き合った女性に自殺未遂されたことはありません。頬をぶたれたことはあります。

    上のコンサートの前夜、1st Vnの女性とイカを食べに行きました。大分では美味しいイカを食べることができます。その食事中、ボクの一言が彼女の逆鱗に触れ、大げんかになりました。結局このコンサートのお話はボクがやるということで収まりました。
    逆鱗→龍のあご辺りに1枚だけ逆さまになっている鱗で、これに触れると龍は激怒するそうです。→!st Vnは龍なんです・・・っていうかぁ、このお方そのものが龍だったりしてぇ・・・
    =================

    >ベートーベンとの比較で坂本教授は、’モーツアルトはどこを切り取っても流麗で美しい’とか仰っていました。まさにそうで、そのせいか私はモーツアルトには、殆ど馴染みがありません。
    ここの処、も少し詳しくお願いしまちゅ。

    国芳については次回以降で。
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