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No34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 の記事


■34874 / )  超越論的分析論Z−4
□投稿者/ うましか -(2023/11/02(Thu) 00:34:19)
    2023/11/02(Thu) 12:05:49 編集(投稿者)


    pipitさん、こんばんはー

    (/・ω・)/

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十一項) 

    ◆第二の注解=Bあらゆる部類のカテゴリーは、全て同数、つまり三つであるが、このことも同じく熟考を促すことである。というのも、一般に、概念による全てのア・プリオリな区分は二分法でなければならないからである。その上しかも、それぞれの部類の第三のカテゴリーはどこでも第一のものと第二のものとの結合から生ずるということが、付け加わる。

    ◇ というわけで、
    全体性〔Allheit〕 (総体性〔Totalitaet〕)は、単一性〔Einheit〕と見なされた数多性〔Vielheit〕以外の何ものでもなく、
    制限性〔Einschraenkung〕≠ヘ、否定性〔Negation〕と結合した実在性〔Realitaet〕以外の何ものでもなく、
    相互性〔Gemeinschaft〕≠ヘ、他の実体と相互に規定し合う実体〔Substanz in Bestimmung der andern wechselsetig〕の原因性〔Kausaltaet〕であり、
    最後に、
    必然性〔Notwendigkeit〕≠ヘ、可能性〔Moeglichkeit〕自身を通じて与えられている現存〔Existenz〕以外の何ものでもない。

    --- No.34795 からの続き ---

    ◇ しかし、だからといって、第三のカテゴリーは純粋悟性の単なる派生的な概念であって、基幹概念ではないとは、決して考えてならない。

    ◇ というのも、第三の概念を産み出すためには、第一の概念と第二の概念との結合は悟性の或る特殊な活動を必要とし、この活動は、第一および第二の概念の際に行使されるものとは同一ではないからである。

    ◇ そういうわけで、数〔Zahl〕 (これは全体性のカテゴリーに属する)の概念は、多数と単位という概念があるからといって、必ずしも可能ではなく(例えば無限なもの〔Unendlichen〕の表象のように)、
    或いは、私が原因≠フ概念と実体≠フ概念との両者を結合するということからは、その限りではまだ、影響=A換言すれば、いかに或る実体が他の実体のうちの或るものの原因となり得るかは、理解することはできない。

    ◇ このことから明白なのは、そのためには悟性の或る特殊な活動が必要であるということであり、そして残余の場合についても同様である。


    *******

    ■ カテゴリー表 ■

    1 量〔Der Quantitaet:〕
     ・単一性〔Einheit〕
     ・数多性〔Vielheit〕
     ・全体性〔Allheit.〕

    2 質〔Der Qualitaet:〕
     ・実在性〔Realitaet〕
     ・否定性〔Negation〕
     ・制限性〔Limitation.〕

    3 関係〔Der Relation:〕
     ・内属〔der Inhaerenz〕≠ニ自体存在〔Subsistenz〕 
      (実体と偶有性 substantia et accidens)

     ・原因性〔der Kausalitaet〕≠ニ依存性〔Dependenz〕
      (原因と結果〔Ursache und Wirkung〕)

     ・相互性〔der Gemeinschaft〕
      (能動的なものと受動的なものとの間の相互作用〔Wechselwirkung zwischen dem Handelnden und Leidenden〕)

    4 様相〔Der Modalitaet:〕
     ・可能性〔Moeglichkeit〕=@− 不可能性〔Unmoeglichkeit〕
     ・現存在〔Dasein〕=@   − 非存在 〔Nichtsein〕
     ・必然性〔Notwendigkeit〕 − 偶然性 〔Zufalligkeit〕


    † 原佑訳上巻、p.229〜p.230参照。
    † その他に、中山元訳2、p.82〜p.83、石川文康訳上巻、p.140〜p.141を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    Z−4 No.34874
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節 No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,34874

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■34919 / )  超越論的分析論Z−5
□投稿者/ うましか -(2023/11/04(Sat) 19:25:35)
    2023/11/04(Sat) 19:27:57 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    >うましかさん、カント文章おつかれさまです!

    この辺り、正直分からな過ぎて挫けそうです〜( ノД`)シクシク…

    (;´・ω・)沼深くうましか溺れる秋

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十一項) 

    ◆第二の注解=Bあらゆる部類のカテゴリーは、全て同数、つまり三つであるが、このことも同じく熟考を促すことである。というのも、一般に、概念による全てのア・プリオリな区分は二分法でなければならないからである。その上しかも、それぞれの部類の第三のカテゴリーはどこでも第一のものと第二のものとの結合から生ずるということが、付け加わる。

    ◆ というわけで、
    全体性 (総体性)は、単一性と見なされた数多性以外の何ものでもなく、
    制限性≠ヘ、否定性〔と結合した実在性以外の何ものでもなく、
    相互性≠ヘ、他の実体と相互に規定し合う実体の原因性であり、
    最後に、必然性≠ヘ、可能性自身を通じて与えられている現存以外の何ものでもない。
    しかし、だからといって、第三のカテゴリーは純粋悟性の単なる派生的な概念であって、基幹概念ではないとは、決して考えてならない。というのも、第三の概念を産み出すためには、第一の概念と第二の概念との結合は悟性の或る特殊な活動を必要とし、この活動は、第一および第二の概念の際に行使されるものとは同一ではないからである。
    そういうわけで、数 (これは全体性のカテゴリーに属する)の概念は、多数と単位という概念があるからといって、必ずしも可能ではなく(例えば無限なものの表象のように)、或いは、私が原因≠フ概念と実体≠フ概念との両者を結合するということからは、その限りではまだ、影響=A換言すれば、いかに或る実体が他の実体のうちの或るものの原因となり得るかは、理解することはできない。このことから明白なのは、そのためには悟性の或る特殊な活動が必要であるということであり、そして残余の場合についても同様である。

    --- No.34795,34874 からの続き ---

    ◇ 第三の注解=Bただ一つのカテゴリー、すなわち、第三の部類のうちに見出される相互性≠フカテゴリーについては、論理的機能の〔カテゴリー表に対応する判断〕表において、このカテゴリーと対応する選言判断〔「Aは、BであるかCであるかDであるかのいずれかである」〕の形式との合致は、残りの場合におけるほど目立ってはいない。

    ◇ この合致を確かめるためには人は次のことに注意しなければならない。すなわち、全ての選言判断においては、その圏域(その選言判断のもとに含まれている全てのものの集まり)は、諸部分(諸下位概念)に分割された一つの全体と見なされる。だから、それらの諸部分の一つは、他の部分のもとに含まれていることはあり得ないので、それらの諸部分は、互いに並存的なもの≠ニして考えられ、従属的なもの≠ニしては考えられず、従って、一つの系列≠ノおけるように、一方的に′ンいを規定しあっているのではなく、一つの集合≠ノおけるように、相互的に′ンいを規定しあっている(区分の一項が定立されると、その他全てのものは排除され、またその逆も同様である)と考えられるのである。


    † 原佑訳上巻、p.230〜p.231参照。
    † その他に、中山元訳2、p.83〜p.84、石川文康訳上巻、p.141を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節 No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,34874,34919

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■35259 / )  超越論的分析論Z−6
□投稿者/ うましか -(2023/12/03(Sun) 16:49:59)
    2023/12/03(Sun) 16:50:44 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    復活とまではいきませんが、リハビリがてら足だけカント沼につかります。

    あ〜カント沼が足湯のようだ(*‘∀‘)

    しみるなあ。。。


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十一項) 

    ◆第三の注解=Bただ一つのカテゴリー、すなわち、第三の部類のうちに見出される相互性≠フカテゴリーについては、論理的機能の〔カテゴリー表に対応する判断〕表において、このカテゴリーと対応する選言判断〔「Aは、BであるかCであるかDであるかのいずれかである」〕の形式との合致は、残りの場合におけるほど目立ってはいない。

    ◆ この合致を確かめるためには人は次のことに注意しなければならない。すなわち、全ての選言判断においては、その圏域(その選言判断のもとに含まれている全てのものの集まり)は、諸部分(諸下位概念)に分割された一つの全体と見なされる。だから、それらの諸部分の一つは、他の部分のもとに含まれていることはあり得ないので、それらの諸部分は、互いに並存的なもの≠ニして考えられ、従属的なもの≠ニしては考えられず、従って、一つの系列≠ノおけるように、一方的に′ンいを規定しあっているのではなく、一つの集合≠ノおけるように、相互的に′ンいを規定しあっている(区分の一項が定立されると、その他全てのものは排除され、またその逆も同様である)と考えられるのである。

    --- No.34919 からの続き ---

    ◇ ところで、同様の結びつきは、諸物の全体≠ノおいても考えられる。
    というのも、結果としての或る物が、この物の現存在の原因として他の物に従属している≠フではなく、他の諸物を規定するということに関しては原因として、同時に、かつ相互的に
    随伴している≠ゥらである(例えば、その諸部物が互いに相互に〔引力によって*1〕牽引し合うとともに、また〔反発力によって*1〕抵抗し合う物体におけるように)。

     *1 中山元訳2、p.85参照

    ◇このようなことは、原因と結果との(根拠と帰結との)単なる関係において見出されるのとは全く別の種類の結び付きであり、
    根拠と帰結との関係においては、帰結は相互的にこれまた根拠を規定するということはなく、それ故に根拠と共に(世界創造者が世界と共にといったふうに)一つの全体を成すということもない。

    ◇悟性が、〔選言判断において*2〕或る区分された概念の圏域を表象するときの、その悟性の同じ手続きを、
    悟性はまた、或る物を分割可能なものとして考えるときにも遵守する。
    だから、前者の場合の区分された概念における諸項が互いに排除しあうにも関わらず、一つの圏域のうちで結合し合っているように、
    悟性は、後者の場合の或る物の諸部分を、それぞれの部分が残余の諸部分から排除されても己の現存(実体としての)を持つにも関わらず、一つの全体のうちで結合しているような諸部分として表象する。

     *2 中山元訳2、p.85参照


    第三節 (第十二項) 

    ◇ しかし、古人の超越論的哲学のうちには、純粋悟性概念を含んでいるもう一つの章が見出される。

    ◇それらの純粋悟性概念はカテゴリーのうちには数え入れられないにも関わらず、彼らによれば、対象についてのア・プリオリな概念とみなされるべきであるが、しかしその場合にはそのためにカテゴリーの数は増大してしまうことになり、これはあり得ないことである。

    ◇このような諸概念を述べているのはスコラ哲学者のうちでは極めて有名な命題、即ち、「何であれ、存在するものは、一、真、善である quodlibet ens est unum,verum,bonum」という命題である。


    † 原佑訳上巻、p.231〜p.232参照。
    † その他に、中山元訳2、p.85〜p.87、石川文康訳上巻、p.141〜p.142を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節 No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,34874,34919,35259

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■35606 / )  超越論的分析論[−1
□投稿者/ うましか -(2023/12/19(Tue) 21:24:02)
    2023/12/19(Tue) 21:25:32 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    久しぶりのカント沼です(;´Д`A ```

    しかし体力のないときに原佑訳を読むと目が回りますね〜( ノД`)シクシク…

    こんなレベルですから、原典をひらくと、どこまでも続くカント先輩の文章を目で追ううちに酔ってしまいます( ノД`)シクシク…

    なので

    最近は、少しずつ、少しずつ、持続可能な程度に・・・
    を、よりこころがけるようにしています(;´・ω・)


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十一項) 

    ◇ ところで、同様の結びつきは、諸物の全体≠ノおいても考えられる。
    というのも、結果としての或る物が、この物の現存在の原因として他の物に従属している≠フではなく、他の諸物を規定するということに関しては原因として、同時に、かつ相互的に
    随伴している≠ゥらである(例えば、その諸部物が互いに相互に牽引し合うとともに、また抵抗し合う物体におけるように)。
    このようなことは、原因と結果との(根拠と帰結との)単なる関係において見出されるのとは全く別の種類の結び付きであり、
    根拠と帰結との関係においては、帰結は相互的にこれまた根拠を規定するということはなく、それ故に根拠と共に(世界創造者が世界と共にといったふうに)一つの全体を成すということもない。
    悟性が、或る区分された概念の圏域を表象するときの、その悟性の同じ手続きを、
    悟性はまた、或る物を分割可能なものとして考えるときにも遵守する。
    だから、前者の場合の区分された概念における諸項が互いに排除しあうにも関わらず、一つの圏域のうちで結合し合っているように、
    悟性は、後者の場合の或る物の諸部分を、それぞれの部分が残余の諸部分から排除されても己の現存(実体としての)を持つにも関わらず、一つの全体のうちで結合しているような諸部分として表象する。

    第三節 (第十二項) 

    ◇ しかし、古人の超越論的哲学のうちには、純粋悟性概念を含んでいるもう一つの章が見出される。それらの純粋悟性概念はカテゴリーのうちには数え入れられないにも関わらず、彼らによれば、対象についてのア・プリオリな概念とみなされるべきであるが、しかしその場合にはそのためにカテゴリーの数は増大してしまうことになり、これはあり得ないことである。このような諸概念を述べているのはスコラ哲学者のうちでは極めて有名な命題、即ち、「何であれ、存在するものは、一、真、善である quodlibet ens est unum,verum,bonum」という命題である。

    --- No.35259 からの続き ---

    ◇ところで、
    たとえ、この原理を使用したところで得られる結論(これは純然たる同語反復の命題しか与えなかった)は極めて乏しいものに終わったので、近代においてはほとんど単に、体面上、形而上学のうちで挙げられるのが常であるほどであるにせよ、
    このように長い期間保存されてきた思想は、どれほどそれが空虚なもの見えようとも、常にその起源を研究している価値はある、
    だから、この思想は何らかの悟性規則のうちにその根拠を持ってはいるが、その根拠が、しばしばあることだが、誤って解釈されたに過ぎないのではなかろうか、と推測されてよい。


    † 原佑訳上巻、p.232参照。
    † その他に、中山元訳2、p.87、石川文康訳上巻、p.142〜p.143を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    [−1 No.35606
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節 No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,34874,34919,35259,35606

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■36085 / )  超越論的分析論[−2
□投稿者/ うましか -(2024/01/07(Sun) 23:38:05)
    2024/01/08(Mon) 07:52:22 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    久しぶりに『純理』目を通しましたが、かるく眩暈が…(´;ω;`)ウッ…

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十二項) 

    ◇ しかし、古人の超越論的哲学のうちには、純粋悟性概念を含んでいるもう一つの章が見出される。
    それらの純粋悟性概念はカテゴリーのうちには数え入れられないにも関わらず、彼らによれば、対象についてのア・プリオリな概念とみなされるべきであるが、
    しかしその場合にはそのためにカテゴリーの数は増大してしまうことになり、これはあり得ないことである。
    このような諸概念を述べているのはスコラ哲学者のうちでは極めて有名な命題、即ち、「何であれ、存在するものは、一、真、善である quodlibet ens est unum,verum,bonum」という命題である。
    ところで、たとえ、この原理を使用したところで得られる結論(これは純然たる同語反復の命題しか与えなかった)は極めて乏しいものに終わったので、近代においてはほとんど単に、体面上、形而上学のうちで挙げられるのが常であるほどであるにせよ、
    このように長い期間保存されてきた思想は、どれほどそれが空虚なもの見えようとも、常にその起源を研究している価値はある、
    だから、この思想は何らかの悟性規則のうちにその根拠を持ってはいるが、その根拠が、しばしばあることだが、誤って解釈されたに過ぎないのではなかろうか、と推測されてよい。

    --- No.35606からの続き ---

    ◇ 超越論的な述語と思い誤られたところの、物≠フこれらの〔一、真、善である等の〕諸述語は、諸物一般の全ての認識≠フ論理的要求と標識〔基準〕以外の何ものでもなく、
    これらの諸述語は、量のカテゴリー、即ち、単一性=A数多性=A全体性≠フカテゴリーをそうした認識の根底に置くのであるが、
    ただ彼ら〔スコラ哲学者〕は、本来は実質的に諸物自身の可能性に属するものと解されなければならなかったこれらの諸カテゴリーを、実際は形式的な意味においてのみ、あらゆる認識に関する論理的欲求に属するものとして使用し、
    しかも思考のこれらの諸標識〔基準〕を軽率にも諸物自体そのものの固有性足らしめたのである。


    † 原佑訳上巻、p.232〜p.233参照。
    † その他に、中山元訳2、p.87〜p.88、石川文康訳上巻、p.143を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    [−1 No.35606、[−2 No.36085
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節 No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,33016,33658,
    No.33668,33776,33825,33829,34795,34874,34919,35259,
    No.35606,36085

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■36113 / )  超越論的分析論[−3
□投稿者/ うましか -(2024/01/09(Tue) 22:29:07)
    2024/01/09(Tue) 22:29:51 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    とりあえず先へ…のカント沼

    (/・ω・)/沼

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十二項) 

    ◇ しかし、古人の超越論的哲学のうちには、純粋悟性概念を含んでいるもう一つの章が見出される。それらの純粋悟性概念はカテゴリーのうちには数え入れられないにも関わらず、彼らによれば、対象についてのア・プリオリな概念とみなされるべきであるが、しかしその場合にはそのためにカテゴリーの数は増大してしまうことになり、これはあり得ないことである。
    このような諸概念を述べているのはスコラ哲学者のうちでは極めて有名な命題、即ち、「何であれ、存在するものは、一、真、善である quodlibet ens est unum,verum,bonum」という命題である。
    ところで、たとえ、この原理を使用したところで得られる結論(これは純然たる同語反復の命題しか与えなかった)は極めて乏しいものに終わったので、近代においてはほとんど単に、体面上、形而上学のうちで挙げられるのが常であるほどであるにせよ、このように長い期間保存されてきた思想は、どれほどそれが空虚なもの見えようとも、常にその起源を研究してみる価値はある。だから、この思想は何らかの悟性規則のうちにその根拠を持ってはいるが、その根拠が、しばしばあることだが、誤って解釈されたに過ぎないのではなかろうか、と推測されてよい。
    超越論的な述語と思い誤られたところの、物≠フこれらの〔一、真、善である等の〕諸述語は、諸物一般の全ての認識≠フ論理的要求と標識〔基準〕以外の何ものでもなく、これらの諸述語は、量のカテゴリー、即ち、単一性=A数多性=A全体性≠フカテゴリーをそうした認識の根底に置くのであるが、ただ彼ら〔スコラ哲学者〕は、本来は実質的に諸物自身の可能性に属するものと解されなければならなかったこれらの諸カテゴリーを、実際は形式的な意味においてのみ、あらゆる認識に関する論理的欲求に属するものとして使用し、しかも思考のこれらの諸標識〔基準〕を軽率にも諸物自体そのものの固有性足らしめたのである。

    --- No.36085からの続き ---

    ◇ すなわち、客観のあらゆる認識の内には概念の単一性≠ェある。この単一性は、それが認識の多様なものの総括の単一性とのみ考えられる限り、質的単一性≠ニ名付けられ得るが、これは例えば、演劇、演説、寓話における主題の単一性と同じものである。

    ◇ 第二に、帰結に関する真理性≠ェある。或る与えられた概念から導き出される真なる帰結が多ければ多いほど、その概念の客観的な実在性の目印もますます多くなる。これは、共通的な根拠としての一つの概念に属するところの(その概念において量として考えられるのではないところの)、徴表の質的数多性≠ニ名付けられ得るかもしれない。


    † 原佑訳上巻、p.233参照。
    † その他に、中山元訳2、p.88、石川文康訳上巻、p.143を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,33016,
    No.33658,33668,33776,33825,33829,34795,34874,34919,
    No.35259,35606,36085,36113


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■36127 / )  超越論的分析論[−4
□投稿者/ うましか -(2024/01/10(Wed) 23:33:59)
    2024/01/10(Wed) 23:35:12 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    No.36124 (pipitさん)

    カント沼、あいかわらず霧の中を彷徨わされている感覚なのですが、pipitさんに倣って例(「リンゴ」という概念)を通して考えたほうが分かりやすくなるのかな…(´;ω;`)ウッ…

    的外れな悩みかもしれないけど、当時のスコラ哲学者の知的ベースを形成していただろう論理学の知識が私に無いので、カントが言っていることがほとんど分からないまま先に読み進めなければならないのは、正直とても苦痛...

    苦痛なんですが…(*‘∀‘)

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十二項) 

    ◇ しかし、古人の超越論的哲学のうちには、純粋悟性概念を含んでいるもう一つの章が見出される。

    ◇ それらの純粋悟性概念はカテゴリーのうちには数え入れられないにも関わらず、彼らによれば、対象についてのア・プリオリな概念とみなされるべきであるが、しかし、その場合にはそのためにカテゴリーの数は増大してしまうことになり、これはあり得ないことである。

    ◇ このような諸概念を述べているのはスコラ哲学者のうちでは極めて有名な命題、即ち、「何であれ、存在するものは、一、真、善である」という命題である。

    ◇ ところで、この原理を使用したところで得られる結論(これは純然たる同語反復の命題しか与えなかった)が極めて乏しいものに終わったため、近代においてはほとんど単に、体面上、形而上学のうちで挙げられるのが常であるほどであるにせよ、このように長い期間保存されてきた思想は、どれほどそれが空虚なもの見えようとも、常にその起源を研究してみる価値はある。

    ◇ だから、この思想は何らかの悟性規則のうちにその根拠を持ってはいるが、しばしばあることだが、その根拠が、誤って解釈されたに過ぎないのではなかろうか、と推測されてよい。

    ◇ 超越論的な述語と思い誤られたところの、物≠フこれら〔一、真、善である等〕の諸述語は、諸物一般の全ての認識≠フ論理的要求と標識〔基準〕以外の何ものでもない。

    ◇ これらの諸述語は、量のカテゴリー、即ち、単一性=A数多性=A全体性≠フカテゴリーをそうした認識の根底に置くが、彼ら〔スコラ哲学者〕はただ、本来実質的に諸物自身の可能性に属するものと解されなければならなかった、これらの諸カテゴリーを、実際は形式的な意味においてのみ、あらゆる認識に関する論理的要求に属するものとして使用し、しかも思考のこれらの諸標識〔基準〕を、軽率にも、諸物自体そのものの固有性足らしめたのである。

    ◇ すなわち、客観〔客体〕のあらゆる認識の内には、概念の単一性≠ェある。

    ◇ この単一性は、それが認識の多様なものの総括の単一性とのみ考えられる限り、質的単一性≠ニ名付けられ得るが、これは例えば、演劇、演説、寓話における主題の単一性と同じものである。

    ◇ 第二には、帰結に関する真理性≠ェある。

    ◇ 或る与えられた概念から導き出される真なる帰結が多ければ多いほど、その概念の客観的な実在性の目印もますます多くなる。これは、共通的な根拠としての一つの概念に属するところの(その概念において量として考えられるのではないところの)、徴表の質的数多性≠ニ名付けられ得るかもしれない。

    --- No.36113,36085 からの続き ---

    ◇ 最後に第三には、完全性≠ェある。

    ◇ この完全性は逆にこの数多性がひっくるめてその概念の単一性へと還元され、いかなる他の概念にでもなく、この概念に完全に一致するということにあるのであって、これは質的完璧性=i総体性)と名付けられ得る。

    ◇ このことから次のことが明らかとなる。すなわち、
    認識一般の可能性を示すこれらの論理的な諸標識〔基準〕は、
    量をうみだす時の単一性がそこでは一貫して同種的と想定されなければならない量の三つの〔一、真、善という〕カテゴリーを、
    ここでは、意識の内での異種的≠ナすらある諸認識要素を結合しようとだけ意図しており、原理としての認識の質によって変容させるということである。


    † 原佑訳上巻、p.233〜p.234参照。
    † その他に、中山元訳2、p.88〜p.89、石川文康訳上巻、p.143、熊野純彦訳 p.130を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    [−4 No.36127
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,

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■36266 / )  超越論的分析論[−5
□投稿者/ うましか -(2024/01/24(Wed) 00:24:28)
    2024/01/24(Wed) 00:28:13 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    ようやく、、、ようやく、次回から「概念の分析論 純粋悟性概念の演繹について」へ入れます(´;ω;`)ウッ…

    長かった…そして、今回もまったく意味が分からなかった(;´・ω・)

    なんだかもう、正直、何を言ってるのかさっぱり分からない原佑訳を何とか自分が読める文章にするためにいくつ翻訳を投入するか、
    という作業になってしまっています。。。(;´д`)トホホ

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十二項) 

    ◇ 最後に、第三には、完全性≠ェある。この完全性は逆にこの数多性がひっくるめてその概念の単一性へと還元され、いかなる他の概念にでもなく、この概念に完全に一致するということにあるのであって、これは質的完璧性=i総体性)と名付けられ得る。このことから次のことが明らかとなる。すなわち、認識一般の可能性を示すこれらの論理的な諸標識〔基準〕は、量をうみだす時の単一性がそこでは一貫して同種的と想定されなければならない量の三つの〔一、真、善という〕カテゴリーを、ここでは、意識の内での異種的≠ナすらある諸認識要素を結合しようとだけ意図しており、原理としての認識の質によって変容させるということである。

    --- No.36127 からの続き ---

    ◇ だから、概念の(概念の客観のではなく)可能性の標識〔基準〕は、
    その概念の単一性≠ニ、
    その概念から先ずもって導出され得る全てのものの真理性≠ニ、
    最後に、その概念から引きだされたものの完璧性≠ニが、
    そこでは、その全概念の成立のために、その概念が必要とするものを成すような定義である。

    ◇或いはまた、仮説の標識〔基準〕≠焉A
    想定された説明根拠≠フ理解しやすさ、
    もしくはその説明根拠の単一性(補助仮説無しの)、
    そこから導出されるべき諸帰結の真理性(それらの諸帰結相互の、及び経験との合致)、最後には、それらの諸帰結に対するその説明根拠の完璧性≠ナあって、
    それらの諸帰結は、その仮説において想定されたより以上のものにも、以下のものにも、帰着することなく、
    ア・プリオリに綜合的に思考されていたものを、ア・ポステリオリに分析的に再び提供して、それに合致するのである。

    ◇ それ故、単一性、真理性、完全性という諸概念によって、
    カテゴリーの超越論的表は、あたかもそれが欠けているところでもあるかのように補足されるのではなく、これらの諸概念と客観との関係が全面的に除外されることによってのみ、これらの概念をもってする手続きが、認識のそれ自身との合致という、一般の論理学的規則のもとにもたらされるのである。

    † 原佑訳上巻、p.234参照。
    † その他に、中山元訳2、p.89〜p.90、石川文康訳上巻、p.143〜p.144、熊野純彦訳 p.130を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266


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