□投稿者/ うましか -(2023/07/30(Sun) 17:29:26)
| 2023/07/30(Sun) 17:30:05 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
カント沼の亀こと?うましかです(。´・ω・)?
暑すぎていつも以上にアタマが働かず、沼に入るまえに甲羅干してます〜
( ノД`)シクシク…
*******
T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて
□全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き 第三節 (第十項) 純粋悟性概念またはカテゴリーについて〔Von den reinen Verstandesbegriffen oder Kategorien〕
◆ 一般論理学〔Die allgemeine Logik〕は、既に何度も言ったように、認識の全ての内容を捨象して、どこからにせよ他所から表象が己に与えられることを期待するのであって、かくしてその表象はまず概念へと変ぜられるが、このことは分析的に〔analytisch〕行われる。 他方、超越論的論理学は、ア・プリオリに提供された感性の多様なものを持っているのであって、この多様なものを超越論的感性論は、純粋悟性概念に素材を与えるために超越論的論理学に提供したが、この素材が無ければ超越論的論理学は全ての内容を欠き、従って完全に空虚となるに違いない。 ところで、空間と時間は、ア・プリオリな純粋直観の多様なものを含むが、にもかかわらず私たちの心がその下でのみ諸対象についての表象を受け取り得るところの、私たちの心の受容性の諸条件に属しているのであり、従って、それらの諸条件はそれらの諸対象の概念をもいつでも触発しなければならない。 しかしながら、私たちの思考の自発性は、この多様なものが、まず或る種の仕方で、見渡され〔durchgegangen〕、受容され〔aufgenommen〕、結合され〔verbunden〕、かくしてこのことから一つの認識が作られることを要求する。この働きを私は綜合〔Synthesis〕と名づける。
--- No.31693 からの続き ---
◇ しかし、私が最も一般的な意味で綜合≠ニ理解しているのは、様々な諸表象を互いに加え合わせ、それらの多様性を一つの認識として包括する働きのことである。
◇そうした綜合が純粋≠ナあるのは、その多様なものが経験的に与えられているのではなく、ア・プリオリに与えられている(空間及び時間における多様なもののように)ときである。
◇私たちの諸表象の全ての分析に先立ってこれらの諸表象がまず与えられていなければならず、いかなる概念もその内容からみれば&ェ析的に発現することはあり得ない。
◇だが、多様なものの綜合が(この多様なものが経験的に与えられていようと、或いはア・プリオリに与えられていようと)、まず認識を産み出すのであって、この認識は、なるほど最初はまだ粗雑で混乱していることがあり得るし、それ故分析を必要としはするが、にもかかわらず、綜合こそ、本来その諸要素を収集して認識となし、統合して或る種の内容となす、そのものに他ならない。
◇ それ故、この綜合は、私たちが私たちの認識の最初の起源に関して判断しようとするとき、私たちが注目すべき第一のものである。
† 原佑訳上巻、p.221参照。 † その他に、中山元訳2、p.68、石川文康訳上巻、p.133を参照。 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
*******
Y−1 No.31693、Y−2 No.32053 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874、 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
*******
第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節 No.31693,32053
|
|