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No36646 の記事


■36646 / )  超越論的分析論\−4
□投稿者/ うましか -(2024/02/25(Sun) 01:06:32)
    2024/02/25(Sun) 02:02:24 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    >認識を一枚の織物に喩えてるの、おもしろいなーと思いました。〔 No.36601 pipitさん〕

    そうですねー(・ω・)ノ

    ところで、この織物に喩えられた「人間の認識」("der menschlichen Erkenntnis")。これ手持ちの英訳では、"human knowledge"と"human cognition"の二種類あります。
    どちらの翻訳がカント先輩の意図をより適切にあらわしているのか興味深い沼ですね。。。(;´Д`A `

    【追記】

    久しぶりに『語源から哲学がわかる事典』をひらきましたφ(..)メモメモ
    p.58に、「哲学における「認識」と日本語の「認識」」というタイトル(゚д゚)!

    ますます興味深い沼(´-`).。oO

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ 法律学者たちは、彼らが権限と越権について論ずるときには、一つの訴訟案件について、何が権利であるかという問い(quid juris 権利問題)を、事実に関する問い(quid facti事実問題)から区別し、両者〔権利問題と事実問題〕からの証明を要求する。
    彼らは、第一の証明〔権利問題〕、つまり権限、或いは権利の要求を立証すべき証明に演繹〔Deduktion〕≠ニ名づけたのである。
    私たちは、多くの経験的概念を誰にも反論されることなく使用している。だから、演繹無しで、それらの諸概念に、意味と想定された意義とを与えることを当然のこととしている。
    というのも、私たちはいつでも経験を手元に持っていて、その〔諸概念の〕客観的実在性を証明できるからである。
    ところが、例えば幸福≠ニか運命≠ニいった権限のあいまいな諸概念については、それらの諸概念はほとんど一般的には大目に見られて使い回されているはいるが、にもかかわらず、時には権利問題によって答弁を求められることがある。
    その場合、人は、それらの諸概念を演繹すると、ただちに少なからざる困惑に陥る。
    というのも、私たちは、それらの諸概念〔幸福とか運命〕を使用する権限が明らかとなるような、いかなる明白な法的な根拠をも、経験からも理性からも挙げることができないからである。

    ◆ しかし、人間の認識という極めて混み入った織物を作り上げている多種多様な諸概念の内には、純粋な使用にすら、ア・プリオリに(〔つまり、〕全ての経験に完全に依存せずに)規定されているいくつかの概念があり、これらの諸概念の権限は、いつでも演繹を必要とする。
    というのも、そうした使用の適法性〔合法性〕のためには経験に基づく証明では十分ではないにも関わらず、それらが決していかなる経験からも取ってくるのではない客観と、いかにしてそれらの諸概念が連関し得るのかを、人は知らなければならないからである。
    だから私は、ア・プリオリな〔つまり、全ての経験に完全に依存しない〕諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別する。
    経験的演繹とは、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである。だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。

    ―― No.36429,36501,36600 の続き ---

    ◇ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに対象と連関するという点においては互いに一致している。それらはつまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。

    ◇ これらの諸概念について、経験的演繹を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念の本性の特質とは、これらの諸概念が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである。

    ◇ それ故、もしこれらの諸概念の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう。


    † 原佑訳上巻、p.236〜p.237参照。 原典はMeiner, p.166
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.94、石川文康 訳 上巻,p.146、熊野純彦 訳, p.132、有福孝岳 訳(カント全集4 上),p.166、宇都宮芳明 監訳 上,p.154、M.Weigelt 訳, p.113
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−4 No.36646
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    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
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    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

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    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646

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