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No36601 の記事


■36601 / )  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/21(Wed) 15:03:27)
    うましかさん、こんにちはー(^○^)

    No36600

    > 今夜も何を言ってるのか分からないカントの夜。。。(´;ω;`)ウゥゥ<

    カント先輩のお◯◯ー (*_*)


    > ◇ しかし、人間の認識という極めて混み入った織物を作り上げている多種多様な諸概念の内には、純粋な使用にすらア・プリオリに(全ての経験に完全に依存せずに)規定されているいくつかの概念があり、これらの諸概念の権限はいつでも演繹を必要とする。
    >
    > ◇ というのは、そうした使用の適法性〔合法性〕のためには経験に基づく証明では十分ではないにも関わらず、いかにしてそれらの諸概念は、それらが決していかなる経験からも取ってくるのではない客観と連関し得るのかを、人は知らなければならないからである。<

    認識を一枚の織物に喩えてるの、おもしろいなーと思いました。
    アプリオリの糸、アポステオリの糸...

    アプリオリに規定されている概念 と 客観の連関 かぁ...


    > ◇ だから私は、ア・プリオリな諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、<

    両者が連関し得る仕方を示す説明 を 超越論的演繹 と名付けて、

    >それを経験的演繹≠ゥら区別するが、経験的演繹は、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである、だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。<


    経験から作られた概念 と 客観の連関は(経験的演繹)、
    その概念が経験と経験についての反省からどのように作られたのかを説明する


    【経験的演繹】問い:どのように作成された概念か?

    説明:
    『犬』 ←← U・x・U
    『猫』 ←← (=^ェ^=)

    経験的演繹により、各概念の個別の包摂の条件が明確になる。概念の客観的実在性は、概念の発生源が実在から、という点で無問題?

    【超越論的演繹】問い:アプリオリな概念と客観の連関は可能か?

    説明:
    『一つ』 ←連関可能→ 客観としての一つの内容?

    (・・?)

    そもそも『一』や、『原因と結果』などの概念をアプリオリな概念とするのがカントの思考が超変態的なとこだと思います....
    (ーー;)おもしろいけど...

    カント的には今回の超越論的演繹の前、形而上学的演繹で、アプリオリな概念の存在を確定付けてるんですよね、多分....?

    いろいろ勘違いしてたらすみません!
    少し解説本見てみます。

    カント文、おつかれさまです(^ ^)♪

    --------------
    山口修二先生の『カント超越論的論理学の研究』p104-105がおもしろいなと思いました。

    (山口修二先生の解説)※解説の中でのカントの引用文部分にはpipitが★【  】★を挿入させていただきます。

    『 このように、カテゴリーの客観的妥当性の問題は、対象一般についてのアプリオリ=普遍的な思考の権利を示すことにある。
    しかるに、この普遍的思考が空虚であるということは、経験的な思考も含めた一切の思考が空虚であることを意味する。
    「形而上学的演繹」で示されたように、カテゴリーは、経験的思考からの抽象によってではなく、思考一般を可能にする諸機能(判断機能)から導出された。
    したがって、もしカテゴリーが空虚であるなら、我々がなしうるかぎりのすべての思考が空虚なものと見なされざるをえない。
    カテゴリーの権利問題が、対象のアプリオリ=普遍的な思考に向けられているかぎり、その問題の及ぶ範囲は、対象の思考の一部分に限定されたものではありえないのである。
    それは、一般に思考が対象に関係しているという事実それ自体を「単なる妄想」と見なすことに導く。
    何故に何かが思考されると言えるのか。
    むしろ何も思考され得ないのではないのか。
    こうしてカテゴリーの客観的妥当性に対する懐疑は、一般にすべての思考において実は何も思考されていないのではないかと問うことに帰結する。ヒュームの懐疑の「一般化」から導かれるこの帰結をカントは「普遍的な懐疑論(allgemeiner Skeptizismus)」と名付けている。

    ★【「こうしてヒュームの原則的な経験論は、数学に関してすらも、したがって理性のあらゆる学的な理論的使用において、また不可避的に懐疑論へと導くのである・・・・・・。通常の理性使用が、(認識の指導者たちを襲うこの恐るべき崩壊にもかかわらず)うまく切り抜けるか、それともむしろ回復不可能なまでに一切の知の破壊に巻き込まれてしまうか、すなわち同じ原則から普遍的な懐疑論が帰結せざるを得ないか(もちろんこれは学者たちをしか襲わないであろうが)については、私は各自に判断を任せようと思う」(W,S.52)】★

    カテゴリーを「単なる妄想」と見なすことは、★【「対象について判断する能力、つまり対象および対象に属するものを認識する能力を理性に対して拒む」(W,S.12)】★ことに帰着する。
    カテゴリーの客観的妥当性に対する「疑念」とは、対象を認識するという我々の理性能力そのものに対する懐疑なのである。
     以上において、カテゴリーの普遍性がカテゴリーの「客観的妥当性と制限」についての二重の「疑念」を生む理由とその疑念の内容が明らかとなった。カントは、「超越論的演繹」の課題がこの二つの疑念に対して向けられていることを明確に述べている。

    ★【「これから我々が行おうとしているのは、人間の理性をしてこの二つの岩礁の間をうまく通過させることができるかどうかの試みである、すなわち、理性に対して一定の限界を示すことができるかどうか、そしてそれにもかかわらず、理性にはそれに適合した活動の全領域が開かれていることを確保することができるかどうかを試みることである。」(B128,】★』
    引用終了


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