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Re[68]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/22(Sat) 18:31:58)
| No37550、「キネステーゼ」のから、わたしの書いとかなくっちゃ、って。
どうやら、〔「運動の感覚」を意味するのではなくて〕、〔運動と感覚の不可分な結合〕、〔運動としての知覚〕、〔運動する感覚〕〔動く感覚〕のようなものを意味するみたいなんだけど、な〜んとなく、っていう感じかな、わたしのばあい。 ひとまず、「キネステーゼ」っていうのを、〔主観的な働き〕的な〔運動する感覚〕ってしとく。
No37496の(a-q)に関係するところとして、 〔物の現出の連続的連関と、キネステーゼ的に機能する身体性とが一つに結びついて、物の現出を「キネステーゼ的に動機づけている」わけである。この過程は一方で、主体での方向で、私がいまここにいるという「絶対的ここ」の意識として「私は動く」「私はなす」という自己意識を発生させる〕 っていうところを見たのね。 これ二つ見たのね。 @〔物の出現〕にかかわること。 A〔主体の方向〕にかかわること。 って。 @の方は、たとえば、私の外にある「物」とそれに触れたりなんかする体の運動によって、私の意識のうちに感覚-知覚される、そのような〈運動する感覚〉、みたいなのかな。 Aの方が(a-q)にかかわってくる感じ。 〔私がいまここにいるという「絶対的ここ」の意識として「私は動く」「私はなす」という自己意識を発生させる〕 の、 「絶対的ここ」ってあるけど、前に書いたと思うけど、 【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注に、 〔空間的場所としては、私が動くことによって、先ほどまでそこだった地点が今はこことなり、ここだった地点がそことなる。ところが、「私の身体」(自己の身体)がここと言われるのは、それとは異なり、私がどれだけ動いても、「私の身体」はいつもここにあって、そこになることはない。それをフッサールは「絶対的なここ」と呼んだ。〕 ってあったの想い出してる。
〔自己意識を発生させる〕ってある。わたし、「自己」っていうの〈(私の)自と体〉ってして見てるから、「自己意識」は「〈(私の)自と体〉の意識」ってなるから、《〈(私の)自と体〉の意識を発生させる》ってなる。 これ、わたし、《〈(私の)自〉と〈(私の)体〉を結びつける意識を発生させる》ってして見ちゃうのね。
〈自〉を絡めて、(a-q)への見方として、
(K-a)キネステーゼ(運動する感覚)は〈自〉に現れ、これによって〈(私の)自〉と〈(私の)体〉が結びいてる。
っていうふうに見ることになった。
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