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■40897 / )  Re[18]: 図式の復習・数
□投稿者/ pipit -(2025/02/08(Sat) 14:44:36)
    2025/02/08(Sat) 14:46:31 編集(投稿者)

    引き続き「数える」について考えたことを書きます。

    Windows付属の無料ソフトに「ペイント」というアプリがあります。
    このアプリには「レイヤー」という機能があります。
    透明の紙を複数枚重ねて表示できるような機能です。

    今回三角形を順番に数える絵を書きました。
    レイヤーは4枚出来ています。
    下の赤枠は4番目の絵だけ見えるようにした図ですが、1番目、2番目、3番目の絵も見えるように総合したのが上の絵です。

    ここでレイヤーの継起(順番に絵を作成していくので)を「時間」と考えると、
    『4』と数えているときに、「1」「2」「3」も見えているなら、それが想像力のなせるわざ、なのではないかと考えました。

    前回のNo40894のイラストは、継起が空間的に表現されています。時間を空間で表象しようとしている、と言えるかなと思いました。
    今回のイラストも結局は空間的に表現されているかもですが、「ペイント」のレイヤー機能の構造は、記憶という像を今作成して総合して認識を作成する、という認識の可能性を妄想してみる時のヒントになり得るのではないかと思いました。


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■40900 / )  映画
□投稿者/ pipit -(2025/02/08(Sat) 15:46:32)
    キティさんの書いてた『室町無頼』検索してみた。
    最近の映画だったんだ!(2025年!)

    私は今日テレビで『翔んで埼玉 ~琵琶湖より愛を込めて~ 』見ようかなー
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■40901 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/08(Sat) 19:32:25)
    今のなんとなくのイメージなんですけど、、、

    ・・・+1+1+1+1+1+・・・

    で時間の中に何かが現れるとして、その「1」を束ねた形には『球』(きゅう)のイメージを持っています

    時間という球体(全体性)  の中にある「1」

    1レイヤーや1コマや1枚の紙の「1」

    時間球体は、、、心 だったりして?!

    ☆彡
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■40902 / )  Re[10]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/08(Sat) 19:59:59)
    「認識」っていうの、コトバンクのを見て、
    〈物事を正しく理解し判断すること〉ってして、これを〈思考に属するもの〉ってしてわたし見たんだけど、

    No40871の(本Ko)を読んでるなかで、いろいろ考えて見たのね。
    でね、コトバンクの中でも、
    [n認識]―――――――――――
    ブリタニカ国際大百科事典  cognition; Erkenntnis
    知ること,あるいは知られた事柄。後者の意味では knowledgeの語も多く用いられる。概念,推理,判断を主要3契機として遂行され,推理と判断において認識全体が積極的に関与する。推理の過程のない認識を直観的認識という。さらに判断の契機が消えるか極小になると知覚になり,認識と区別される。しかし知覚により近い自然科学的認識の場合,判断は客観的であり,その認識は一般性をもっている。そこでの認識の働きは本質的に重要でなく,結果のみが価値をもっている。このような認識内容は知識と呼ばれることが多い。一方形而上学的,宗教的認識などでは認識主体の役割が大きく,この場合認識の働きそのものが認識内容と等しい重要性をもっている。
    ―――――――――――――
    これをこのごろわたし採用することにしたんだけど、
    でね、まずね、
    (A-E)「認識」=〈知〉=〈知ること-知られたもの〉
    ってすることにした。
    〈知ること〉は運動(作用・働き)で、〈知られたもの〉っていうのはそれによってもたらされたものね。わたし両者は分けることにしてる。

    わたしのばあい、世界を知るその仕方として、per-ceptとcon-ceptの二つの仕方によって、ってして見てるからこれとも合うし。

    (本Ko)を読むときでも、「認識」を〈知〉とか〈知ること-知られたもの〉って言い換えて見ることにして見たのね。
    たとえば、
    Ko@〔人間の認識からア・プリオリな(すなわち経験に依存しない)形式を取り出し〕(p7)
    は、
    〈人間の知からア・プリオリな(すなわち経験に依存しない)形式を取り出し〉
    KoA〔カントは理性認識を「理論的認識」と「実践的認識」とに分けます〕(p39)
    は、
    〈カントは理性による知を「理論的な知」と「実践的な知」との分けます〉
    ってなるのね。


    No40810での(資料b)で、カントの「認識」について、
    〔カントにおいて,認識(Erkenntnis)とは一般に「経験的認識」〕ってあって、もう一つ、
    〔「我々の認識は経験と共に始まるが,我々の認識が全て経験から生ずるのではない」 (Wenn aber gleich alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anhebt, so entspringt sie darum doch nicht eben alle aus der Erfahrung, Bl).〕
    ともあった。
    これをわたしなりに見ると、
    (b-@A)〈カントにおいて、知とは一般的に経験的知。我々の知は経験と共に始まるが、我々の知が全て経験から生じるのではない〉
    っていうふうにして見ることになるね。

    (本Ko)に、
    KoB〔人間とは何か。ここでそれを規定することはできません。それこそれこそ哲学の究極の問いだからです。当面、自分が創ったわけではない地上に産み落とされ、さまざまなものを体験・教育・研究など介して徐々に知っていくことしかできない存在として押さえておきましょう。〕(p28)
    ってあって、
    KoC〔このさまざまなものを知っていく中で客観的な知を得る働きが「認識」であり、その能力の一つが理性なのです〕(p28)
    ってあった。

    KoBとKoAから、カントの場合、人間の認識〈知〉について考えてるなかで、特に〈客観的な知(認識)〉、〈理性による知(認識)〉を主題においてるんじゃないかしら、って。

    あ、わたしが再認識(知られたもの)したのは(A-E)って言うことね。

    20周年を記念して、
    「科学的な知見ならともかく、今どき、哲学なんてものに興味を抱く人ってどれくらいいるのだろう」
    に寄せて。

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■40903 / )  Re[47]: 祝!ニーチェクラブ20周年!!
□投稿者/ アートポット -(2025/02/08(Sat) 22:38:11)
    こんばんは

    20周年おめでとうございます。

    チラシの裏のような投稿の僕ですが、とても助かっています。現実生活では「疑心暗鬼」が酷くて寝込んでいる僕ですが、今日も、ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
返信/引用返信 削除キー/

■40904 / )  Re[48]: 祝!ニーチェクラブ20周年!!
□投稿者/ パ二チェ -(2025/02/09(Sun) 07:30:47)
    おはようございます、アートポットさん。レスありがとうございます。

    No40903に返信(アートポットさんの記事)

    > 20周年おめでとうございます。

    ありがとうございます。メンバーの投稿があってこそのニークラです。

    > チラシの裏のような投稿の僕ですが、とても助かっています。現実生活では「疑心暗鬼」が酷くて寝込んでいる僕ですが、今日も、ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。

    ここに投稿する内容は独り言でも、ニークラポリシーに合致する限り、何でも構いませんし、ロムを意識(気遣い)する必要もないと思います。

    アートポットさんにとってプラスになっているなら何よりですが、BBS Dionysos Hallを利用することによるメリットとデメリットを天秤にかけ、デメリットの方が上まわるような時期があるならば、その時はしばらく離れて下さい。

    BBS Dionysos Hallやここに設置しているトピはしばらく投稿しなくてもなくなりませんから、余計なお世話かもしれませんが。。。^^

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■40905 / )  Re[26]: 般若心経
□投稿者/ akaimi -(2025/02/09(Sun) 08:47:39)
    2025/02/09(Sun) 08:51:54 編集(投稿者)

    あくまで私の脳内ひとりごととして書いてみます。

    前出の『般若心経』の本に、『般若心経』は釈迦の仏教を否定している(それより上位の世界観である、ということを説いている)ということが具体的な説明として出てきます。
    その説明と漢字で書かれている『般若心経』そのもの(本に載っています)を合わせるとたしかにそうだなと思えます。
    次の投稿でそのあたり引用しながら書いてみるつもりです。

    『般若心経』の空と龍樹の空とでは、同じ空を説明しながらもある意味違うものなのではないかと、ごくわずかな知識しかないながらも今のところ暫定として感じています。
    どちらも、あらゆるものの実体の無さを説明しているところは共通していますが。

    龍樹の空は、仏陀の教えを理論としてまとめあげたもので、八不も中道を説くためのものだと考えます。
    つまり、龍樹の空は仏陀の教えとは矛盾しないものだということ。

    こんなふうに自分のなかで暫定的に考えながら、別な本も読んでみようと思っています。(龍樹研究の先生の持っている本と、以前に読んで売ってしまった本をまた買ってのと

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■40906 / )  Re[20]: 図式の復習・数
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/09(Sun) 10:29:10)
    pipiさま、お邪魔しま〜す。

    カントの「図式論」なんだけど、わたし、数じゃなくて図で見たのね。
    No40052 の(資料b)の
    No40735のAについてペイントして見たのがあるので添付して見ま〜す。

    紙の上にいろんな「大きさ」「形」をした8個の図形を描いて見た、っていうんで見てね。

    これ、「形」はどれも同じ、って見る?(個々の図形はぜ〜んぶ異なるよ。重ねて見るとわかると思うけど。)
    こう見る人はたぶん8個の図形すべて〈三角形〉って見てるんじゃないかしら?
    こういうのが純粋悟性概念の図式。じゃ、その〈三角形〉、描いて見て、って言われると、たしかに描けない。
    C「純粋悟性概念の図式は,決して形像化しえないもの」

    わたしのはこんな感じ。

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■40907 / )  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2025/02/09(Sun) 12:35:52)
    2025/02/09(Sun) 12:53:32 編集(投稿者)

    や〜悪魔ちゃん、レスうれしいよ、ありがとう。

    No40906
    > 紙の上にいろんな「大きさ」「形」をした8個の図形を描いて見た、っていうんで見てね。
    >
    > これ、「形」はどれも同じ、って見る?(個々の図形はぜ〜んぶ異なるよ。重ねて見るとわかると思うけど。)
    > こう見る人はたぶん8個の図形すべて〈三角形〉って見てるんじゃないかしら?
    > こういうのが純粋悟性概念の図式。じゃ、その〈三角形〉、描いて見て、って言われると、たしかに描けない。
    > C「純粋悟性概念の図式は,決して形像化しえないもの」
    >
    > わたしのはこんな感じ。<

    カントは、三角形の図式と純粋悟性概念の図式を区別してるんだよ。
    御子柴先生の解説本で言えば、p250前後にそのことについて載っています。(p250の最終2行に御子柴先生の見解が載っています)

    pipitの考えてる感じを文章化してみるね。
    まず『三角形』についての図式は、想像力で『三角形』概念を純粋直観(純粋な空間)に作図する手続き、です。
    その作図手続きによってできた形像を通して、包摂が2回行われる。
    まず第一に経験的直観を、図式によりできる形像へと包摂する行為。第二に図式によりできた形象を、概念へと包摂する行為。

    概念『三角形』・・・『同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形。』と定義したとすると、
    想像力で上記の定義を描いてみるんだよ。(これが図式機能使っている場面)
    それでNO40906で悪魔ちゃんが描いてくれた図形を作れるか純粋直観で試してみるんだよ。
    それで一致したなら、この具体的△は三角形である。と判断するんじゃないかな、とpipitは今のところ考えてます。

    図式なら直角三角形でも鋭角三角形でもNo40906にでてくる図形を純粋直観に描くことが可能、というpipitのイメージです。

    純粋悟性概念の図式については、pipitが自分がイメージするためにイラスト化してるけど、カントは純粋悟性概念の図式は形像化されえないと言っているね。

    なんかさ〜、カントって辞め時(諦め時)がわからなくなる『沼』だよな〜って気分になるよ。
    カント哲学は大好きだけどさ((+_+))


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■40908 / )  「時間」
□投稿者/ knowingitself -(2025/02/09(Sun) 16:22:18)
    >大型バスが目の前を通り過ぎる。

    >あっという間でしょう?

    >もう目の前にはバスなどない。

    >大型バスの内部のディテールを知ることは、そもそもありえないくらい難しいんではないか。

    「時間」とはなんだろうね?

    現代文明人にとって「時間」とは、バスがその上を走る虚構の直線道路のようなものかもしれない。
    方向が決まった一直線で、不可逆的に進むだけ。デジタル的に数で参照され、生活と行動のほとんどを支配している。

    本来、自然界に理想的な直線もその上を動く物体もないはずだが。

    人間にとっての「時間」の参照基準も、天体の運動が基本のはずだが。

    P.S. パニチェさん 更新ありがとうございます



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■40909 / )  Re[2]: 「時間」
□投稿者/ knowingitself -(2025/02/09(Sun) 16:33:13)
    音楽は各種芸術のなかでもとくに時間を本質的な要素としているが、同時に、時間を超越しているのでしょう。

    そこが魅力か、神秘か。生きることそれ自体の神秘でもある。
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■40910 / )  Re[3]: 「時間」
□投稿者/ 田秋 -(2025/02/09(Sun) 21:15:03)
    2025/02/09(Sun) 21:16:37 編集(投稿者)

    knowingitselfさん、横レス失礼します。

    仰る通り、時間は音楽には必要不可欠な要素だと思います。バッハのフーガの技法はD-A-F-D-Cis-DEF-〜と始まります。Dの後にAが来てその後にFが来る、というように各音の発音には時間差があります。もしこの時間差が無かったら?と考えるとちょっと想像できません。時間差がないのなら同時に響くのだろうとも思いますが、同時という概念からして時間を前提としています。

    時間を超越しているかというとボクにはよくわかりません。時間を《超越》するとはどういうことかもよくわからないし、そもそも《時間》については科学的、哲学的に様々な議論があります(一応ボクは上に書いた〈時間差〉を踏まえ時間は有るという立場を取っています)。

    絵画が《時間を超越》していないか?と言うと「していない」と断言する勇気はありませんし、文学についても同様です。

    多分ボクは《時間を超越》というのを《時を越え》、言い換えると「良いものは何時までも残る」という風に解釈しているのだと思います。この辺りのknowingitselfさんの解釈はどんな感じですか?
返信/引用返信 削除キー/

■40911 / )  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2025/02/10(Mon) 07:28:39)
    2025/02/10(Mon) 07:37:53 編集(投稿者)

    悪魔ちゃんおはよー(^ ^)

    pipitがカントの図式をすごく誤解して書いてたらごめんね! m(_ _)m

    ちょっとカント関係なしに考えたとして、
    「ペイント」で挿入で△あるやん。
    その△自由に変形できるやん。

    変形出来る能力や規則(プログラミング?計算式?条件?)みたいなのも図式かな、って。


    今日、道路ツルツルやから、いややなー
    悪魔ちゃんとこは大丈夫かもやけど、気をつけてね~(^O^)/
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■40913 / )   室町無頼
□投稿者/ キティダニエル -(2025/02/10(Mon) 12:16:51)
    良かったですね。確かに日本の時代劇は英雄史観が中心で、民衆の視点に立った史

    劇というのは少なかった。応仁の乱の前夜、幕府権力の衰えに乗じて土豪や野武士

    僧兵らが治安を乱す暴挙に出る様相を見せたが、一揆はその民衆版ともいうべきも

    のでその規模は数万人の規模にまで膨れ上がった。しかし農民は戦い慣れしていな

    い。牢人や武芸者といった武士(崩れ)が指揮をしなければ強くない。そして一揆軍

    には牢人・武芸者・山伏・僧兵崩れ・野武士などが相当数紛れ込んでいたのだ。

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■40914 / )  Re[4]: 「時間」
□投稿者/ knowingitself -(2025/02/10(Mon) 16:08:34)
    田秋さん レスありがとうございます

    > knowingitselfさん、横レス失礼します。
    >
    > 仰る通り、時間は音楽には必要不可欠な要素だと思います。バッハのフーガの技法はD-A-F-D-Cis-DEF-〜と始まります。Dの後にAが来てその後にFが来る、というように各音の発音には時間差があります。もしこの時間差が無かったら?と考えるとちょっと想像できません。時間差がないのなら同時に響くのだろうとも思いますが、同時という概念からして時間を前提としています。

    そうですね。同時に音がなる和音は、クラシック、ジャズ、その他の音楽で極めて重要ですね。水平方向での時間的な音の展開、その時テンポにうるさいのが音楽で、それは他の芸術ジャンルではなかなかみられないと思います。演劇ではありますか。水平方向での音の展開と、同時になる幾つかの音の配合、音楽は基本的にこの二つの組み合わせだと思いますが、そこには無限の選択可能性があるようにみえます、そこから人間を感動させる組み合わせを発見するのが一流の作曲家ではないでしょうか。



    > 時間を超越しているかというとボクにはよくわかりません。時間を《超越》するとはどういうことかもよくわからないし、そもそも《時間》については科学的、哲学的に様々な議論があります(一応ボクは上に書いた〈時間差〉を踏まえ時間は有るという立場を取っています)。
    >
    > 絵画が《時間を超越》していないか?と言うと「していない」と断言する勇気はありませんし、文学についても同様です。
    >
    > 多分ボクは《時間を超越》というのを《時を越え》、言い換えると「良いものは何時までも残る」という風に解釈しているのだと思います。この辺りのknowingitselfさんの解釈はどんな感じですか?

    私も「良いものは何時までも残る」に近いと思います。「時間を超えた永遠」のような表現がよく使われますが、これも近いですかね。この意味なら、絵画でも文学でも、優れた作品は「時間を超越している」と思います。これは断言したいです(笑)。

    ただ、音楽はすべてを時間的な要素で構成せざるをえないのに、それを超える力も強力だと。

    色や線や文字は、素材としては、やはり空間的ではないでしょうか。

    もちろん、音楽も空間的に響いてはじめて感動的になるのですが。

    考えるときりがありませんが、これが面白さですね(笑)
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■40915 / )  音楽とシンクロニシティ
□投稿者/ knowingitself -(2025/02/10(Mon) 16:20:13)
    シンクロニシティという語というか概念がある。

    さまざまな分野で違ったニュアンスで用いられる。

    単純にいえば、同時化、意味ある遭遇、といった意味。

    わたしは音楽の感動もシンクロニシティから生まれるのではと考えている。

    例えば、ある交響曲を演奏するとする。オーケストラの奏者100人が同じ時空間に一つに集まること自体が

    シンクロニシティでしょう。それに加えて会場に集まる何百人以上の聴き手がそこに集まるのもシンクロニシティ。

    その演奏がライブ中継されれば、何万人それ以上の人間もシンクロニシティのもとにある。

    クロノス的な時間、過去現在未来と物理的に経過して去っていっていまう時間とは異質の何かが働いているのではないか。
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■40916 / )  武満徹
□投稿者/ knowingitself -(2025/02/10(Mon) 16:37:27)
    映画も時間的な芸術ですね。

    この点で思い出すのは、作曲家武満徹が大の映画好きだったこと。

    彼の場合は映画音楽の仕事があったこともあるが、それは別にしても、マニアックな映画ファンでもあった。

    映画論というかエッセイを出しているのでおすすめ。蓮實重彦との映画をめぐる対談も非常に面白い。

    音楽と映画は時間芸術としてどこかでつながるのかもしれない。

    映画はサイレントから始まったわけですが、創成期のシネアストたちが影響を受けたジャンルは文学や絵画より音楽だったといわれることがある。


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■40917 / )  羽ばたく若手
□投稿者/ 田秋 -(2025/02/10(Mon) 17:15:40)
    ずーちゃんの葬儀の後、後輩先生のレッスンを受けていたお弟子さんが昨日札響でバルトークのビオラコンチェルトを立派に演奏したと後輩先生から連絡がありました。大勢の観客の前でオーケストラをバックに演奏したのですからそこから得るものは計り知れないものがあります。今後の活躍を期待したいと思います。お疲れさまでした。

    写真はコンサートがあったkitaraホール。懐かしいなあ。


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■40918 / )  Re[23]: pipiさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/10(Mon) 19:05:21)
    pipiさま、こんばんわ〜

    わたしんとこ寒いけどここんとこ晴れれる。
    道路ツルツル、転ばないよに気をつけてね。

    カントの図式なんだけど
    御子柴先生の解説本のp250前後、読んでてまだ思案中。

    (資料b)では、
    「図式」っていうの、二つあって、
    (a)感性的概念の図式
    (b)純粋悟性概念の図式
    っていうことみたいなのね。
    で、わたし(a)を経験的概念の図式ってして見たのね。
    あと、
    〔図式は「概念にその形像を附与するという構想力の一般的な仕方(Verfahren)の表象」 (A140, B179-180)と呼ばれている。〕
    ってあって、
    これ、
    〈概念にその形像を付与する構想力の一般な仕方によって表象されたもの〉を図式、ってわたし見たのね。

    たぶん、「形像(Bild)」っていうのは(a)の図式のことじゃないかな?って。

    「経験(感性)的概念」と「純粋悟性概念」の間にあって、両者を結びつけているのが「構想力」によってもたらされたもの「図式」、見たいなんじゃないかしら?っていまんとこ。

    あと、おおおざっぱに、二つの方向があって、
    @「直観」から「概念」へ
    A「概念」から「直観」へ
    たとえばね
    @は、現前する個別のネコ(形像)からその概念へ
    Aは、「ネコ」っていう「概念-分類(語)」からその形像へ
    っていう。
    その間にあって、両者を結びつけるもの、それをカントの言う「構想力」とか「図式」っていうのを考えてるじゃないかしら?って。

    「純粋悟性概念」と「経験(感性)的概念」を結びつけてる「構想力」(する働き)とそれによって生み出された「図式」。これが結びつけられことができるのは両者の「同種」性があるから、って(本Ko)では言ってるんじゃないかしら?

    簡単に見ると、〈似てる〉から。

    >その△自由に変形できるやん<
    なるほど〜、変形できるその基になってるもの、ね。

    ごめんね、長々と。
    pipiさまもうやめちゃうみたいだからここにはできるだけ書き込まないようにしてたんだけど。
    カントの「純理」のわたしのは「つれづれ」で書いてくことにするね。










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■40919 / )  雪質
□投稿者/ 田秋 -(2025/02/10(Mon) 20:38:47)
    kitaraホールの写真は後輩先生が送ってくれたもの。後輩先生は弟子の演奏をわざわざ北海道まで聴きに行ったとても良い先生だ。

    この写真とその前のうちのレモンに積もった雪を見比べると北海道の雪は粉雪だ。うまく説明できないが、写真を見てそう感じる。

    日フィルはいつも9月に北海道旅行があったので、kitaraのこのような景色は見たことないが、学生の頃、新日フィルのエキストラで2月の網走に行ったことがある。凍った海に雪が降り積もるのでどこから海かわからなかったという記憶が強く残っているが、やはり粉雪だった。

    英国の雪質はどうなんでしょうね。どちらかと言うとウェットなのかな。
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■40920 / )  言語の時を超越する力
□投稿者/ knowingitself -(2025/02/11(Tue) 08:42:09)
    もともと、言語には時間を超越する力があると思う。

    時を経て読み継がれてきた古典だけでなく、

    例えば、10年前の無名人の短い書き込みを読んで、ああこの人は時間を超越する真理が見えていたなと簡単することがある。
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■40921 / )  Re[59]: 多様性と共同性
□投稿者/ rest -(2025/02/11(Tue) 09:19:03)
    2025/02/11(Tue) 21:37:23 編集(投稿者)
    No40865に返信(restさんの記事)
    > 2025/02/05(Wed) 20:05:36 編集(投稿者)
    >
    > 今日は午後からの仕事で午前中は時間があるので簡単に記す。備忘録として。考えたことは時間がたつとすぐ忘れてしまう。これも年のせいか。
    > 昨年の米大統領選で気になったことがある。得票数でハリス候補が7474万票(48.3%)、トランプ候補が7716万票(49.9%)となったが、これを大差とみるか僅差とみるか。
    > ハリスさんの敗因を考えてみた。たぶん「多様性の尊重」が内に抱える自己矛盾に気づかなかったからだと考えている。「多様性の尊重」を支持するというのは、個性を尊重するので、これは同時に類対立(似たものどうしが嫌いあう関係)が生じ、「多様性の尊重」を支持するもの同士の反発から、反対候補(ナショナリズム)へ傾斜したのではないか、と危惧している。だからこそ「共同性」も尊重しながら、バランスをとる必要があったが、ただ現在は社会的状況が「共同性」に偏りすぎているので、バランスをとるために「多様性の尊重」を主張するという立場を明確にすべきだったのではないか。
    >  最近私も類対立で悩んでいるが、対立をさけるためには思い切って個性化(違い)にかじをきることも必要ではないか、と考えている。むろん共同性は否定しない。しかしその「共同性」は強すぎるため、のみこまれてしまうおそれがある。個性を失いかねない。だからこそ個性を守るため、共同性を強いる緊張を避けるためにもいっそうの個別化してバランスをとる必要があるのだ。「個性的結合は同時に類対立」という原理から、類対立がつまり緊張がいやなら緊張のない個性的結合も選択肢としてあるということだ。類対立も選択肢だがいっそうの個別化も選択肢。どちらも個性原理上にある。相手があることだからバランスはとてもむつかしい。ほんと痛感している。

    追記1 相手が共同体意識で近づいてきても、こちらは個性の消失感を覚えてなぜか苦しくなることがある。こちらがバランス意識を形成していても、相手が強烈な類意識をもってくると、こちらのバランス感覚が崩れてしまい、そしてバランスを維持するためにより個性化を図ろうとする。同時に類対立も生じる。相手は類愛かも知れないが、こちらは類対立でかまえてしまう。こちらのバランスが相手によって崩されてしまった格好だ。
     超然と個人でバランスを保つということが、いかに不安定であることか。相手が関わることの影響は無視できない。繰り返しになるが、バランスは相手があることなのでとても難しい。フランスの「関係主義」か、仏教の「縁起」説が関わってくるかもしれないが。ひょっとすると「実体」といわれているものは、「現象」のひとつかもしれない。
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■40922 / )  居宅介護&スーパーマーケット。
□投稿者/ アートポット -(2025/02/11(Tue) 12:47:11)
    月曜日の居宅介護、僕「日本に億万長者世帯150万世帯にて。」、居宅介護「サファリで調べますね。あ、ホントだ。」、僕「日本にて好景気にて。」、居宅介護「でも、億万長者世帯150万世帯のほとんどは東京に居ると思います。地方じゃ、んな金持ちになれない、ホタテ漁ならランボルギーニに乗れるくらい儲かりますけど。」、僕「約友(約束の給料くれない友人の略)も、本当の金持ちは東京に集まる、って言っててにてにょ。」。

    今日のスーパーマーケットにて、約2980円のレシート、ちゃんこ鍋を2つ購入にてことになってて、店にクレームにてにょ。一二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。今日の昼飯は、ハッピーターンにてにょ。
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■40923 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/11(Tue) 13:40:06)
    『仏教について』トピは今回で終わりにしようと思ってて、
    『純粋理性批判を読んでみる』トピは一回休止してお休みした後、再開の申し込みしようと思ってるよ!

    にしても、これだけ純理トピの更新回数を重ねて、まだココというのは、恥ずかしくもあるんだけど、

    でもhanaちゃんと話したように、
    好きなことするからいいねん!

    いや、しかし、沼...

    と気分がお天気やのpipitです。

    全部カント先輩のせいや~ ・:*+.(( °ω° ))/.:+ ソレハマコトカ?
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■40924 / )  Re[11]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/11(Tue) 16:05:57)
    No40871の(本Ko)を読んでるなかで、カントの用語の意味をまとめてるところ。

    「認識」については、
    No40902で見たように、

    わたしのは、
    (A-E)「認識」=〈知〉=〈知ること-知られたもの〉
    で、
    カントのは、
    (K-E)「認識」=客観的な知、論理的な認識〈知〉
    を中心にして考えてる。
    ってしとくことにした。

    わたし、「客観的な知」っていうのどういうのかいまいちわかんないけどね。

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■40925 / )  Re[12]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/11(Tue) 17:14:03)
    「直観」っていう語なんだけど

    ネットのコトバンクの中から一部
    [n直観]――――――――――――――――――――――――――
    「直観」  (英・仏)intuition (独)Anschauung
    (改訂新版 世界大百科事典 )
    @日本に初めて西洋の思想が紹介される際,intuition(英語,フランス語)の訳語には初め〈直覚〉が当てられていたが(例えば,西周《心理学》,1875-79),それがしだいに〈直観〉にとって代わられ,今日に至っている。

    Aintuitionは,〈凝視する〉とか,ときには〈瞑想する〉といった意味を有するラテン語intueriに由来し,一般に直接的知識を意味するが,ドイツ語のAnschauungも,事物への接近・接触などを表す接頭辞anと,意志的な見る行為を意味するschauenとからなり,やはり同様の知のあり方を意味する。

    B哲学では,何よりもまず,感覚にもとづく知が直観と呼ばれる。それこそは,推理によらない知の典型だからである。したがって,例えば,眼前の机を机として認知するのは一つの直観である。
    ――――――――――――――――――――――――――――――――
    っていうことってして、

    簡単に、わたしのは、
    (A-I)「直観」=感覚にもとづく知
    ってしとくことにした。

    No40617のところから、わたしのうちには、〈感性→感覚→現象←経験的直観→経験的概念〉っていう経験(感性)における流れができてるんだけど、(A-I)ってして見たとき、「経験的直観」って、「経験的」を付けなくてもいいとわたし思うんだけど、「純粋直観」っていうのがあるから、戸惑うのね。カントの「直観」っていうのどういうの?って。

    あと、このなかでわたしが気になってることが
    A〔ドイツ語のAnschauungも,事物への接近・接触などを表す接頭辞anと,意志的な見る行為を意味するschauenとからなり〕
    B〔推理によらない知〕
    なんだけど、これについてはまた後で。

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■40926 / )  Re[13]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/11(Tue) 17:35:00)
    「形而上学」っていうのも出てきてる。
    わたしが読んでるメルポンの本に中にはこの語はほとんど出てきてないからよくわかんないだけど、カントのを見てくときにはこれが重要になってるみたいだから、ちょっと見とく。

    ネットで、ウィキから一部
    [n形而上学]――――――――――――――――――
    @形而上学(英: metaphysics)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟で認識しようとする学問ないし哲学の一分野。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超越したものについて考える。

    A形而上学の研究には心理学的、宇宙論的、存在論的、神学的な関心に基づいた研究もあるにもかかわらず、形而上学は哲学的方法に基づいた研究であり、物理学や心理学や生物学といった科学的方法に基づいた自然諸科学や、特定の聖典や教義に基づいた神学と区別される。

    B形而下学
    形而下学は、実体のない原理を研究の対象とする形而上学の反対であって、実体のあるものを対象とする応用科学の学問。
    ―――――――――――――――――――――――――

    【「カント」小牧治著清水書院1967】から、
    ――――――――――――――――――――――――――
    自然学・哲学・神学など、学といわれるものにたずさわる者には、深刻な影響を及ぼした。そこで、哲学者たちは、自然科学と信仰との調和統一を考えた。すなわち、彼らは、神・霊魂・世界全体など、形而上的なもの〔われわれ人間の感性的経験では知りえないもので、経験的現象の奥にあると考えられるもの。およそこの世にあるありとあらゆるもの(形而下のもの)の上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべ、それを統一しているようなもの(神的なもの)。〕を、例えば数学的な方法などを用いて、合理的に説明しようとした。そして、自然科学と矛盾しないことを示そうとした。つまり、合理的な形而上学を目指したわけである。
    ――――――――――――――――――――――――――
    カントが生きてた時代にはこういう背景があったみたい。
    カントの生きた地方では、世界は「形而下」と「形而上」に分けられてたのかな。それにしてもなんかわけの分かんない日本語にしたものね。わたしにわかりやすい言葉では「この世」「あの世」かな。

    簡単にまとめると、
    「形而下」=およそこの世にあるありとあらゆるもの
    「形而上」=神・霊魂・世界全体など、われわれ人間の感性的経験では知りえないもので、経験的現象の奥にあると考えられるもの。形而下のもの上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべ、それを統一しているようなもの(神的なもの)。
    「形而上学」っていうのは@でいいかな。
    キーワードは、「感覚ないし経験を超え出でた」「普遍的な原理」「理性的な思惟で認識しようとする」かな。

    つづく。

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■40927 / )  カネロ×クロフォード戦二転三転(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2025/02/11(Tue) 17:43:23)
    やるならやる

    やらないならやらない

    もうどっちでもいーです(;´・ω・)


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■40928 / )  石川文康「良心論」(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2025/02/11(Tue) 18:03:17)
    ◇ 石川文康『良心論 − その哲学的試み −』,2001年

    ・unp.or.jp/ISBN/ISBN4-8158-0417-6.html

    *******

    ◎目 次

    はじめに

    第1章 「良心」の原義
         日本語の「良心」の由来
        「共に知る」
        「共に知る」というキーワードを確保する理由
         だれと共に知るのか

    第2章 「世間と共に知る」と「神と共に知る」
      1 「世間と共に知る」
      2 「神と共に知る」
        「神と共に知る」長い歴史
        「神と共に知る」という意味の根強さ
         カール・バルトによる「神と共に知る」良心の復興

    第3章 「自己自身と共に知る」
      1 ソクラテスの「自己自身と共に知る」
        「ダイモニオン」?
         無知の知
         徹底して「自己自身と共に知る」
         愛知者は死を恐れない
        「世間と共に知る」ことの拒絶
      2 ストア派の良心論
         キケロ、セネカ
         マルクス・アウレーリウス
         反省作用としての良心
      3 「自己自身と共に知る」良心の近世における端緒 − デカルト
        『情念論』?
         暫定的道徳にひそむ良心論
         決定的道徳における良心の樹立
        「コーギトー(われ思う)」の射程
         精神の能動としての良心
        「かつて……一人もいません」の真意
         第一道徳律とデカルト哲学のふくよかさ
      4 合理主義の良心論とその体系
         ヴォルフら
         ルソーの良心論
         良心の体系
      5 良心法廷説 − カント
         その典拠
         良心法廷は虚構か
        「自己自身」とは何か − どのようにして可能か
         内なる他者
         いわゆる「自己原因」の不合理性
         二重の自己
         良心法廷の特殊性 − 立法・司法は未分立である
         自律の真の意味
      6 「呼び声」としての良心 − ハイデガー、ヤスパースとの関連で
        「呼び声」説の長い歴史
        「呼びかけ」とは何か
         何ゆえに鐘は鳴る?
        「呼びかけ」から「声」へ − 道徳法則と良心の声
         法廷としての良心と声としての良心
         良心を中立性
      7 良心に対する反逆者の良心 − ニーチェ
         良心の発生論
         知的良心
         知的良心の発生
         美的良心、趣味としての良心
        「良心の自由」とその試練
         責罪ということ

    第4章 良心の三法則
      1 不知不可能性の法則(良心の第一法則)
         良心は「知らない」ということができない
         共に知ることからの逃亡 − ペテロの場合
         ユダの良心
         ペテロの自己回復
      2 絶対不謬性の法則(良心の第二法則)
         良心は「間違うことができない」
         形式的良心性 − ヨブの場合
         因果応報?
         良心と心
         疚しさのない良心
         疚しい良心の知も真である
         間違う良心?
      3 時間性の法則(良心の第三法則)
         良心の作用は時間の流れと共に強くなる
         警告する良心
         良心時間の未来性
         後悔は未来性の上に成り立つ − 沈殿する未来性
         警告する良心はあらゆる良心現象の公分母である
        「償い」も未来性の上に成り立つ
        「べし」は沈殿するだけでなく、醸成する
        「未完の過去」とその救済
         時間の治癒作用と覚醒作用
        『マクベス』の場合
        『復活』の場合
      4 良心の超時間性
         超時間から時間への作用
         良心に時効はない
         良心の超時間性の法則 − 第一、第二法則を回顧する
         あらかじめ考える − プロメーテウス

    第5章 共同体としての自己
         共同体としての自己
         伝統的な意味での個人と共同体
        「共同体としての自己」の拡大
         二人称「汝」の成立
         ブーバーの根源語 −「我−汝」
         コーヘンにおける自我の根源
        「世間と共に知る」への頽落
         共同体に必須な不協和音 −「〜べし」の衝突
         非共同体的共同体としての良心
        「スキエンティア」から「コンスキエンティア」へ
          −「コンスキエンティア」としての哲学

    おわりに
         未だないものの現在
         希望という刑 − 希望の逆説


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■40929 / )  カネロ×クロフォード戦二転三転(;´・ω・)
□投稿者/ パニチェ -(2025/02/11(Tue) 18:03:26)
    No40927に返信(うましかさんの記事)
    > やるならやる

    > やらないならやらない

    > もうどっちでもいーです(;´・ω・)


    ははは。今のところは「やる」になりましたね。
    やる→やらない→やる。リング誌のスクープが悪い!

    直近の楽しみは以下です。
    ttps://www.aboutamazon.jp/news/entertainment/prime-video-boxing-11

    上記HPより

    2025年2月24日(月・振替休日)
    ■WBC世界バンタム級タイトルマッチ
    王者 中谷潤人(27=M.T)29戦全勝(22KO) 
    vs ダビド・クエジャル(23=メキシコ)28戦全勝(18KO)

    ■WBA世界バンタム級タイトルマッチ
    王者 堤聖也(29=角海老宝石)14戦12勝(8KO)2分
    vs 比嘉大吾(29=志成)25戦21勝(19KO)3敗1分

    ■バンタム級10回戦
    王者 那須川天心(26=帝拳)5戦全勝(2KO) 
    vs ジェーソン・モロニー(34=オーストラリア)30戦27勝(19KO)3敗


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■40930 / )  Re[14]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/11(Tue) 18:12:46)
    ぎに(本Ko)のなかから「形而上学」についてかいてあるところを少し書き出して見たよ。

    KoD〔人間の理性による「ある種」の認識とはなんでしょうか。それは(略)「形而上学」です。むなしく転変する形而下の経験世界に対して、これを超えたところに、私たちの知の究極の根拠となるなにか変わらざるものを求めて止まない学問です。〕(p28)

    〔「ある種」の〕ってカッコでくくってあるのは、
    No40924
    (K-E)「認識」=客観的な知、論理的な認識〈知〉
    のようなことをいってるんじゃないかしら、って。

    これによると、
    (a)「形而下」=むなしく転変する経験世界。
    (b)「形而上学」=(a) に対して、これを超えたところに、私たちの知の究極の根拠となるなにか変わらざるものを求めて止まない学問。

    No40926のとだいたい同じ感じ。

    (本Ko)に、
    KoE〔さて、カントが普遍的なものを求める際のキーワードは「ア・プリオリ」です。(略)そのメルクマールは(略)普遍性と必然性です。〕(p7)
    ってあった。
    「ア・プリオリ」っていう語については後でまた見てくとして。

    ひとまず、「形而上学」、まとめて、

    (A-meta)「形而上学」=人間の経験的生活世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを探究する学問。

    ってしとく。

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■40931 / )  Re[41]: 雪質
□投稿者/ flora -(2025/02/11(Tue) 18:32:41)
    田秋さん、おはようございます。

    kitaraホール、札幌は今こんな感じなのでしょうか? 住んでいる方は大変でしょうけど、幻想的で美しいですね。 ホールの光も暖かく雪を照らしていて美しい。ここは音響的に良いホールなのですか?

    英国は緯度的には樺太と同じくらいなのですが、(学校で習ったと思いますが^^)、メキシコ湾流のお陰でさほど寒くないんです。雪も殆ど降りません。 冬でも湿っているので雪はお察しの通り、ウェットかな。

    メキシコ湾流といえばトランブさん、呼称をメキシコ湾からアメリカ湾に変更したそうですが、そうなるとアメリカ湾流となるのかな〜?

    Google Mapはメキシコ湾(アメリカ湾)となっていました。



864×466 => 600×323

Google-Maps-02-11-2025_09_31_AM.png
/865KB
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■40932 / )  ラグランジュ偏微分方程式
□投稿者/ rest -(2025/02/11(Tue) 19:31:46)

    過去ログより

     
    □投稿者/ rest -(2022/07/02(Sat) 12:13:18)

    問題 6 次の偏微分方程式の一般解を求めよ。

    x(∂u/∂x)+y(∂u/∂y)=−u^2 ………(1) (x>0,y>0 )

    −y^2(∂u/∂x)+xy(∂u/∂y)=xu ………(2) (x>0,y>0 )


    解@ x(∂u/∂x)+y(∂u/∂y)=−u^2 ………(1)は
    P=x,Q=y,R=−u^2 と置くとラグランジュの偏微分方程式であることがわかる。
    この特性方程式は

    dx/x=dy/y=du/-u^2 ………(3)

    (3)を二つにわけて解くと
    @) dx/x=dy/yより∫(1/x)dx=∫(1/y)dy (x>0,y>0 )

    logx=logy+C1
    ここでC1=logC1と置くと

    log(x/y)=logC1
    よってC1=x/y ………(4)

    A) 次にdx/x=-du/u^2より∫(1/x)dx=-∫(1/u^2)du

    1/u=logx+C2 (C2=logC2と置くと)
    1/u=logC2x
    C2x=e^(1/u)

    C2=e^(1/u)・/x ………(5)

    ここで任意定数C1,C2の間に関数関係
    C2=φ(C1) ………(6)

    があるものとすると
    (4),(5),(6)より(1)の一般解は

    e^(1/u)・/x=φ(x/y)

    e^(1/u)=xφ(x/y) (φは任意関数)

    これを変形して
    1/u=log[xφ(x/y)]

    u=1/log[xφ(x/y)]
    となる。

    解A −y^2(∂u/∂x)+xy(∂u/∂y)=xu ………(2)
    (2)においてP=-y^2,Q=xy,R=xuと置くと
    この特性方程式は
    dx/-y^2=dy/xy=du/xu ………(7)

    (7)を二つにわけて解くと

    @) -dx/y^2=dy/xyより-dx/y=dy/xへ変形し
    さらにxdx=-ydyと変形し積分すると∫xdx=-∫ydy

    (1/2)x^2=-(1/2)y^2+C1
    x^2=-y^2+C1
    x^2+y^2=C1 ………(8)

    A) 次にdy/xy=du/xuより変形してdy/y=du/u
    積分すると∫(1/y)dy=∫(1/u)du
    従ってlog|u|=logy+C2 (C2=logC2と置くと)

    log|u|=logC2y

    |u|=C2y
    u=±C2y=C"2y ………(9)

    C1,C"2の間に関数関係C"2=φ(C1) ………(10)
    があるとすれば
    (8),(9),(10)より一般解は

    u=yφ(x^2+y^2)
    となる。ただしφは任意関数。



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■40933 / )  Re[15]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/11(Tue) 20:04:27)
    きりのいいところまで

    No40930で「形而上学」っていうの、わたしの見方がひとまずできたところで、
    つぎにね
    (本Ko)から、
    「形而上学」と『純粋理性批判』との関係について書いてあると思われるところを少し書き出して見ると、

    KoF〔まずは人間理性そのものが認識されなくてはなりません。そのためには、人間理性になにが認識できてなにが認識できないかを「分ける」法廷が必要です。そして、この法廷が『純粋理性批判』なのです。〕(p32)

    KoG『なお、ここで純粋理性の批判とは、書物や体系の批判のことではなく、理性能力一般の批判のことである。それも、純粋理性が、経験に一切依存することなく追究しようとする、すべての認識にかんする理性能力一般の批判である。したがって、純粋理性の批判とは、形而上学一般が可能であるか不可能であるかを決定することであり、また形而上学一般に源泉ならびに範囲と限界を規定することである。しかも、この批判はこれらすべてを原理に基づいて行うのである。(AXU)』(p33)

    『純粋理性批判』、カントがこの著作を執筆した目的
    KoH〔その目的とは、形而上学に対する同時代人の無関心に対して、人間にとって実はどうでもよくないはずの形而上学について、その可能性あるいは不可能性を決定することです。そのための方法は、純粋理性という認識能力を批判すること、言い換えれば、人間理性に分かることと分からないことを分けることです。〕(p35)

    「理性」っていうの、後で見てくことにして。

    これらと、
    No40930で見たような
    (A-meta)「形而上学」=人間の経験的生活世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを探究する学問。
    とから、
    わたしに思われたのを、

    カントの世界には、形而下(人間の経験的生活世界)と形而上っていうのがあって、後者に全知全能である世界の創造主みたいなのがあって、これをたとえば「神」という名で呼んだとして、そこには普遍・必然があって、それにかかわる人間の形而上学っていうのがあって、「知(認識)」において、それにかかわる人間の「理性」っていうのを見てて、だから、あくまでも神に対する“人間の”「理性」による「知(認識)」なのであって、こういうなかで、〔人間理性になにが認識できてなにが認識できないかを「分ける」法廷〕(a)、『形而上学一般が可能であるか不可能であるかを決定することであり、また形而上学一般に源泉ならびに範囲と限界を規定する』(b)、「人間理性に分かることと分からないことを分けること」(c)、こういうことをしようとしてるのが『純粋理性批判』。

    超簡単に、
    普遍性・必然性をもった神の全知全能性に対して人間の理性(認識)はどうなのよ。
    っていいうことかな?

    あと、
    (本Ko)には、こんなことも書いてあったよ。

    KoI〔人間の理性は、この形而上学の領域において、自分では答えられない問いを自分で立ててしまうという困った事態につきまとわれるのです。〕(p28)

    KoJ〔純粋理性批判において、批判されるのも理性であり、批判するのも理性であることになります。これがまさに理性の自己認識です。あるいは理性の自己批判といてもいいでしょう。〕(p34)

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■40934 / )  共済。
□投稿者/ アートポット -(2025/02/11(Tue) 20:27:17)
    共済にて残り2年から3年、年6万円を払えば、契約終了にて満期で150万円戻ってくる予定にて。ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。

    金曜日に農協にて8万円出金予定にてにょ。
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■40935 / )  Re[42]: 雪質
□投稿者/ 田秋 -(2025/02/11(Tue) 20:45:47)
    こんにちは、floraさん

    kitaraホールは良い音響だと思います。このホールの音響設計者は豊田泰久氏で、氏はサントリーホールの音響設計も手掛けています。写真上がkitaraホール、下がサントリーホールです。似てますね^^

    英国はあんまり雪が降らないんですか。青いガーネットなどに雪の描写があるし、ブダペストは普通に降っていたので、英国(ロンドン)も冬は雪だと思っていました。ボクが住んでいた頃ハンガリーはまだ共産圏で、仕事はなるべく怠けたいはずなのに除雪だけは日本より全然迅速でした(こんな感じで「全然」を使っちゃいます)。
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■40936 / )  えいおうせん。
□投稿者/ アートポット -(2025/02/11(Tue) 21:12:02)
    水曜日の朝9時から、えいおうせん、のはず。記憶曖昧にて。ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
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■40937 / )  ジャズで一休み
□投稿者/ 田秋 -(2025/02/12(Wed) 07:40:10)
    rest in jazzリスナーの田秋です。

    Count Basie - Show of the week (1965)
    no40055

    カウントベーシーは安心できる。カウントベーシー楽団に限らずビッグバンドには強力な中心人物がいて、各メンバーの個人プレーがどんなにソリスティックであっても楽曲の構成内に収まり、どこかクラシックのオーケストラ(作品)を思わせるところがある。
    それに特にこの楽団には良きアメリカ的な懐かしさとエンターティナーとしての華がある。自分だけが楽しむのではなく常に観客の存在を感じる。
    それにしても最後(35'40"〜)のドラムのソロ、ちゃんとジャケットを着てこの重労働は凄い!
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■40938 / )  農協。
□投稿者/ アートポット -(2025/02/12(Wed) 09:38:48)
    1985年の1月くらいに母方の祖父にて亡くなってにて農協と長い付き合いだった人にて。一二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。

    2002年くらいに農協職員にて家に来て、農協「いいから早く印鑑押せよ。」、母親「そんなこと言われても。。」、農協「いいから押せよ。」、母親「そんなこと言われても。。」、僕「どうしたよ?」、あわてて逃げる農協職員にて。

    次に来てにて時に丁寧な柔らかい口調になってて、母親「解った印鑑押す。」。

    2009年から2011年くらいに、母親が共済30年契約で毎年12万円払っていることが判明。

    2022年10月に法律が改正され、農協職員にて契約の変更に来てにて。

    ・契約の上限が5年間になった
    ・年12万円払っているのが年6万円になった
    ・満期で一部戻ってくる金額が百万円減って150万円になるらしい

    母親にて亡くなってにても残る共済ろーん。もうちょっとにて契約終了にてにょ。
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■40939 / )  Re[43]: 雪質
□投稿者/ flora -(2025/02/12(Wed) 13:42:13)
    No40935に返信(田秋さんの記事)
    > こんにちは、floraさん
    >
    > kitaraホールは良い音響だと思います。このホールの音響設計者は豊田泰久氏で、氏はサントリーホールの音響設計も手掛けています。写真上がkitaraホール、下がサントリーホールです。似てますね^^

    そっくり^^、収容人数も同じくらいですか?
    >
    > 英国はあんまり雪が降らないんですか。青いガーネットなどに雪の描写があるし、ブダペストは普通に降っていたので、英国(ロンドン)も冬は雪だと思っていました。

    SHの『青いガーネット』ですよね?私の好きな短編の一つです。雪の描写ありましたっけ? とても寒いクリスマスの時期だったようですが、雪の記載は思い出せない・・・・ 

    >ボクが住んでいた頃ハンガリーはまだ共産圏で、仕事はなるべく怠けたいはずなのに除雪だけは日本より全然迅速でした(こんな感じで「全然」を使っちゃいます)。

    雪は振らなくとも気温が下がると路面が凍結しますよね。解氷するためにすかさず塩を巻く作業車が出てきます。歩道にも巻かれています。こちらもこれだけは早いです^^
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■40940 / )  Re[27]: 般若心経
□投稿者/ akaimi -(2025/02/12(Wed) 15:55:02)
    2025/02/12(Wed) 16:08:06 編集(投稿者)

    100分de名著『般若心経』佐々木閑 著 をもとに、今日は、仏陀の「空」と『般若心経』の「空」の違いを知り、投稿とします。

    ・・・・・
    「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119)
    これが、釈迦の説いた「空」です。一見、「色即是空」ととてもよく似ています。
    そのため、ときおり、『般若心経』が説く「空」は大乗仏教の発明ではなく、仏教の創始以来受け継がれてきた釈迦の思想そのものだと言われることがあります。しかし、そうではないのです。
    ・・・・・
    同書p49より引用

    そうなると、まず仏陀は何を指して空だと言っていたのかを知らねばなりません。(a)

    ・・・・・
    釈迦という人はたいへん精緻な論理思考の持ち主であり、この世の本当の姿を理解するために、独自の方法で全世界を分類してみせました。実際に釈迦本人がやったかどうかは疑問も残りますが、ともかく「釈迦の仏教」では、この全世界が厳密に整理分類されているのです。
    ・・・・・
    同書p49〜p50より引用


    具体的には、「五蘊」「十二処」「十八界」という分類。
    ここについては読んで理解するだけにしました。
    投稿にすると長くなるし、たくさんの引用になってしまうので。(a)


    ・・・・・
    では、これらの分類にもとづいて、「釈迦の仏教」はどのように世界を認識していたのか、具体的に例をあげてみましょう。なぜ十二処や十八界が世界の構成要素になるのか、という話です。
     たとえば、道端に「石」が落ちているとします。私たちは目でその「いろ」や「かたち」を認識し、手に拾いあげて感触や重さを味わいます。二つの石を打ち合わせて硬さを確かめたりもします。そのとき、多くの人は、自分が手に持っているものは「石」という絶対的に確固たる物体であり、色や形や手触りなどは、その石に付随している「属性」にすぎないと考えます。「石に、いろやかたちや固さがある」と考えるのです。しかし、釈迦はそうは考えません。反対なのです。絶対的に実在しているのは目や手がとらえた「いろ」や「かたち」や「手触り」のほうであり、「石」というのは、それらを心の中で組み上げた架空の集合体にすぎないと考えるのです。
    今は「石」を考えましたが、「私」だったらどうでしょうか。「私」もまた「石」と同じです。いろやかたち、手触りや温度、重さなど、様々な基本要素を集積してできている「仮りの姿」です。人の場合は「肉体」だけでなく、そこに心というものも加えなければなりません。「認識」とか「思考」とか、あるいは「執着」とか「怒り」とか「感性」とか、様々な心的作用も、その集合体の要素になっているのです。集積され、絡まりあってできている「何ものか」です。
    (中略)
    この「石」や「私」の例からわかるとおり、この世に実在するのは「眼」「耳」などの認識器官、「色」「声」などの個別の認識対象、そして「心」や「心の作用」といった内側の諸要素だけなのであり、われわれが普段、そこに実在すると思っている様々な対象物は、それらを寄せ集めた架空の存在、実体のない虚像だというわけです。
    真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。
    これが、釈迦の言った「ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」の意味です。
    ・・・・・
    同書p54〜pp57より引用

    仏陀も「空」については説いていた(スッタニパータにも「空」は出てくるしと)、と漠然とこれまで考えていましたが、仏陀の「空」の意味はこういうことだったのかと今更ながら確認できました。
    「集積し絡まりあってできている何ものか」というのが引用中にもありますが、実在とされる「五蘊」などとして示される諸要素の組み合わせによって因って起こる、したがって「空」なのだ、ということなのだと理解しました。(a)

    では、『般若心経』では何を「空」だとしているのか、になりますね。(a)

    ・・・・・
    それは、こういうことです。大乗仏教も釈迦と同じく、「石」や「私」などは、私たちが「ある」と思い込んでいるだけのまぼろしだと考えました。そこまでは一緒です。しかし、彼らは、それらを構成している「五蘊」「十二処」「十八界」のような基本要素までも「実在しない」と言ったのです。すべてが実在しないのですから、要素と要素の間を結んでいた因果関係のようなものも実在しないことになります。そうすると、釈迦が説いたこの世の法則性もすべて架空のものになってしまいます。
     要するに、釈迦が構築した世界観を「空」という概念を使うことによって無化し、それを超えるかたちで、さらなる深遠な真理と新しい世界観を提示したのです。これが、『般若心経』において「空」がことさらに重視された理由です。
    ・・・・・
    同書p57より引用

    同書p10〜p11に『般若心経』全文が出ています。
    以下で、そこから、仏陀が実在としたとされる「五蘊」「十二処」「十八界」も「空」だとしていると思われる部分を抜き出してみます。

    ・・・・・
    色不異空空不異色

    色即是空空即是色

    色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相

    不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃無意識界
    ・・・・・

    同書p135に。
    ・・・・・
    『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。
    ・・・・・
    とあります。

    『般若心経』の中に「無」がたくさん出てきますが、これは、仏陀が世界の構成要素として区分したもの、それらの「区分は本当は無い」と言う意味での「無」だということなのかもしれません。。
    とりあえず暫定的にそのように理解しておこうと思うので、間違えているかもしれませんが、このまま投稿とします。(a)

    ちょっと思ったのは、「名づけられる前の世界」ですかねぇ。
    様々に分類され名づけられる前の世界。それが『般若心経』が語る世界ということになるのかな。。だとしたら、「因果関係」というものも無化されますね。(a)


    ・・・
    投稿中の (a)が後についている文章は、私の頭の中のつぶやきになります。

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■40941 / )  青いガーネット
□投稿者/ 田秋 -(2025/02/12(Wed) 16:01:31)
    2025/02/12(Wed) 16:12:15 編集(投稿者)

    こんにちは、floraさん

    ジェレミー・ブレット版の青いガーネットの一番最後、無実のホーナーが釈放される場面で雪が積もっていました。雪の中、子供と妻に再会するシーンが記憶に残っていたのでしょうね。ただし、オリジナルは真犯人のライダーをホームズの部屋から追い出したあと、真犯人を放免した言い訳(?)をホームズがするところで終わっています。

    オリジナルはクリスマスが終わって二日後から始まっているのに対し、ジェレミーブレット版ではホーナー夫妻がショーウィンドウを見ながら「明日はクリスマス」と言っています。ただオリジナルではクリスマス用の鵞鳥と言っているのでそれに合わせた変更かも知れません。あとホーナーの釈放をクリスマスの朝(+αとして雪)にしたかったのかも。

    ===追記
    調べるとkitaraホールの収容人員は2020(車椅子専用12を含む)とありました。サントリーは確か2200人くらいだったと思います。
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■40942 / )  図式の復習・感覚のグラデーション
□投稿者/ pipit -(2025/02/12(Wed) 17:19:01)
    2025/02/12(Wed) 17:21:32 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは(^▽^)

    図形の復習2です。
    純粋悟性概念『質』には3つの下位(?)概念。@実在性A否定性B制限性。
    さて、この図式は?

    この箇所のカント文の英訳のpipit日訳。
    No37371、No37419より引用。
    -----------------------------------------

    (B182)
    悟性の純粋な概念における実在性とは、感覚一般に対応するものである;
    つまり、(実在性の)概念は、(時間における)存在(Sein)を示している。

    否定性は、(時間における)非存在(Nichtsein)を表している。

    これら二つの対立は、一つで同じ時間の相違---満たされた時間か、空っぽの時間かの相違---による。

    さて、時間とはたんに直観の形式であり、つまりは現象としての対象の形式であり、
    対象の中で感覚に対応するのは、
    対象それ自体(事象性、実在性)の超越論的質料である。

    全ての感覚はそれにより時間を満たすことができるような度あるいは量・・・つまり、多かれ少なかれの、消えて無になるまでの対象の表象に関しての内的感覚・・・を持つ。

    このように、実在性と否定の間には関係や結びつきがあり、むしろ前者から後者への移行が、全ての実在性を私たちに量として表象させ得る;

    そして、時間を満たす限りにおける何かの量としての実在性の図式は、まさにこの時間における実在の連続的かつ同型的な生成である。

    我々はある度合いを持つ感覚からその消失へと時間において下降するように、あるいは否定からその量へと段々に上昇するように生成する。

    -----------------------------------------
    引用終わり。

    ↓(pipitの勝手気ままな想像的考え)

    【想像力で感覚を一つの時間枠で「0%から100%」の感覚を作り出し】、それを仲介にして対象を概念で把握するのではないかと思いました。
    【  】が質の図式。

    概念から直観、でも、直観から概念、でもどちらでも仲介できるのではないかと。
    以前に質の図式についてpipitが考えていることを表現してみたイラストを再投稿します。
    このイラストの中に青色のグラデーションの長方形を描いてるでしょう?
    それが想像力により生成された(1つの時間)としての図式の生成像のpipit的イメージです。

    直観に関する像を生成したら、直観を肯定(実在)の概念に包摂することが可能になるし、
    概念から性質のグラデーション像を生成したら、対象物を否定概念に包摂することも、制限性概念に包摂することも可能になる。
    そのように考えました。


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■40943 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/12(Wed) 17:40:25)
    物が「ある」(実在)ってなんやろう?

    感覚と時間が総合(統一??)され、満たされた時間が連続的に生じるとき、概念的に「在る」って捉えるんかなぁ

    物が「ない」ってなんやろう。

    空虚な時間、お目当てのものが空っぽな時間、ってことなんかな




返信/引用返信 削除キー/

■40944 / )  Re[21]: 日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/12(Wed) 19:35:16)
    pipiさま、お邪魔しま〜す。
    ここ終わっても、いつか復活すみたいなので。

    ちょっと想い出したのが、前にここどこかで、
    「私が月を見ていないときに、月は存在するのか?」(q)
    みたいなのが話題になったってのを。
    で、これカント的見てみたのね。

    私(主観)が、月(空間)を、見ていない(触発されてない)とき(時間)に、月は「存在する」のか?

    ってなるんじゃないかしら?って。

    あ、わたしの問題は、(q)を問うてる人の「存在する」っていうのをどういう意味で使ってるのかがわたしの問題になるんだけどね。

    あと、わたしのばあい
    「実在する」と「存在する」
    「否」と「非」と「無」
    は、分けて見てる。

    ごめんねわたし日記で。




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■40945 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/12(Wed) 19:40:14)
    わたしさー

    客観的、って、私いなくても的、って思ってるんだよねー

    だから、カントの、おもしろくてさ

    わたし から わたしいなくても の世界を つくる 人
返信/引用返信 削除キー/

■40946 / )  Re[23]: 日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/12(Wed) 19:41:16)
    今わたしちょっとわたしの世界に感傷的になってんねん



返信/引用返信 削除キー/

■40947 / )  Re[24]: 日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/12(Wed) 19:59:57)
    お邪魔しま〜す

    わたし、カントのつまんない。

    pipiさま、カントの「コペルニクス的転回」っていうのどう見ます?
返信/引用返信 削除キー/

■40948 / )  12平和党
□投稿者/ キティダニエル -(2025/02/12(Wed) 20:10:22)
    >政治団体「12平和党」は「犬や猫を守り、人類との共生を目指す」ことを基本理念に掲げていて、

    デヴィ夫人が代表を務めるほか、実業家の堀池宏氏が共同代表に就任します。

    面白そうですね。
返信/引用返信 削除キー/

■40949 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/12(Wed) 20:29:18)
    わたしには、カントの考えてること、すごくおもしろいねんなー。

    コペルニクス的転回は、
    自分で対象つくって認識してる、って考えることかなー
返信/引用返信 削除キー/

■40950 / )  Re[26]: 日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/12(Wed) 20:33:55)
    でも、わたしは神様的じゃないから、何でも思うままに作れるわけでは全然ないね
返信/引用返信 削除キー/

■40951 / )  Re[27]: 日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/12(Wed) 20:40:00)
    客観的認識に対象が従う!
返信/引用返信 削除キー/

■40952 / )  Re[28]: 日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/12(Wed) 20:47:43)
    好みってなんやろねー

    自分を肯定してくれるから好き?

    自分を否定するから嫌い?

    そんな単純なもんでもないやろねー

    自分に有利やから好き?

    不利やから嫌い?

    何に対して有利?

    欲望に対して有利?
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■40953 / )  Re[45]: 青いガーネット
□投稿者/ flora -(2025/02/13(Thu) 03:39:01)
    田秋さん、こんばんは。

    久しぶりにブレットさんのSHを見ましたが、この方、声が素晴らしくいいですよね。それも非常に鍛えられた声だと思いました。『青いガーネット』の時は、まだ病気ににはなられていなかったのでしょうか、体も顔もむくみがなくて久しぶりに役者さんらしい役者の演技を見ることができました。機会を提供いただきありがとうございます^^

    TV版は、クリスマスの雰囲気を出すために最後の場面では雪を見せ、そしてまた原作とは違うけどクリスマス25日に冤罪をかけられたホーナーが釈放されそれが一家にとってはクリスマスプレゼントになったのでしょうね。

    私は、ホワイトクリスマスに憧れていますが、なかなかそうはならなくて・・・・
返信/引用返信 削除キー/

■40954 / )  おはよう日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/13(Thu) 06:46:49)
    No40943に返信(pipitさんの記事)

    朝、思いつきました。

    純粋理性批判のカントにおいては、
    『有る』と『無い』は知性による判断。
    感性能力に判断機能は無いので、感性的直観に与えられたものを知性の概念に包摂させる際には、想像力により感性的に与えられたものについての度(グラデーション?)を生成して包摂の判断しなくてはならない。

    このみかんの質・・・(硬さ)10、(甘さ)60、(黄色さ)85
    このつくえの質・・・(硬さ)85、(甘さ)2、(黄色さ)40

    などと分析できるのは、感性に与えられたものについての(0%から100%)を想像力で作成し、感性に与えられたものを知性の概念に分類させてるから。

    って感じにカントは考えてるのかな??というアイデアが浮かびました。
    すごく誤解してたらすみませんm(_ _)m


返信/引用返信 削除キー/

■40955 / )  良心考【17】
□投稿者/ 田秋 -(2025/02/13(Thu) 10:28:37)
    conscieceは良心と訳される。ウィキペディアによれば中村正直が明治初期にconscienceを良心と訳したのが最初とされる。そこでよく話題になるのがconscienceには良いという意味はないということである。

    最近ウィキペディアで日本語で良心と訳される言葉を色んな言語で調べてみた。そこでわかったことは当たり前と言えば当たり前だが、ある名著を各々の言語に翻訳するとかサイエンスに載った論文の翻訳ということではなく、各国それぞれが良心について記述しており、それはそれぞれにそれぞれの良心が存在するということを意味する(これを究極にまで拡張すれば一人ひとりにそれぞれの良心があるということになるが、今は便宜上各ウィキペディアの良心の記述を最小単位としておく)。

    勿論良心についての記述であるから、それなりの共通点はある。しかしそこには微妙な違いでは済まされない相違もあるように思う。英語版ウィキペディアのcoinscienceは一通り読んでみたので次に日本語版ウィキペディアの良心を紹介する。まず驚くのがその記述の簡潔さである。簡潔というより手抜きといって良い。通り一遍に読む人には手頃なのだろうが。

    最初に良心の定義がある。
    「良心(りょうしん)とは、自身に内在する価値観(規範意識)に照らして、ことの可否ないし善悪を測る心の働きのこと」
    次に英語のconscienceには良いという意味はないことが記され、性善説、性悪説にも触れる(触れただけ)。普段は意識しないがそれに反した時に良心の呵責として意識されることがやや詳しく述べられている。
    精神分析関係に約3行、物語の題材として3行余り記述し、そのあと最高裁の判断、日本国憲法第76条第3項に規定された良心について「有形無形の外部の圧迫、誘惑に屈しないで自己内心の良識と道徳感に従う意味である」と述べている。最後にconscienceの和訳について3例列記、これが日本語版ウィキペディアの良心の記述の全てである。

    あの英国版conscienceの記述に比べると日本版のそれはあまりにも教科書的、辞書的で薄っぺらい。ウィキペディアならではの無駄かもしれないがためになるかもしれない記述がなく、読んで多様性を感じるところが何一つなかった。

    今ボクにわかっていることは、良心はconscienceの訳語に当てられたがその2語の意味には違いがあること、良心という言葉の出典は孟子であること、そしてこれはボクの推測になるが、多くの日本人は前述二つの事を知る前に、或いは今でも知らずに自分なりの良心を育んできたということである。ただ誤解してもらっては困るが、conscienceや孟子との関係を知らないからといってその人の良心は間違っているということではない。様々な良心があるということだ。

    最後の推測については少し補足する。conscienceは高3以上のレベル(weblioより)であり、英和辞書には良心と訳されているが、「conscienceに良いという意味はない」という但し書きは管見の限り、見当たらない。また日本語の良心の「良」は小学4年生配当漢字、「心」は小学2年生配当漢字であり、また道徳の時間で良心がいつ出てくるのか(出てこないのか)知らないが、その出典が孟子であることはどの段階でも学習しないのではないか?習うとすれば歴史の時間で春秋戦国時代の中国に起こった百家争鳴あたりで、孟子の性善説、荀子の性悪説を扱った折りに良心の出典に触れるか?

    実りのない日本版ウィキペディアの良心の記述からはひとまず離れ、次回は中国版ウィキペディアの良心にいついて見ていこうと思う。
返信/引用返信 削除キー/

■40956 / )  12平和党にて。
□投稿者/ アートポット -(2025/02/13(Thu) 12:27:13)
    次の参院選にて12平和党に投票予定にて。一二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。猫の平和にてにょ。
返信/引用返信 削除キー/

■40957 / )  Re[28]: 般若心経
□投稿者/ 時 -(2025/02/13(Thu) 17:25:53)
    2025/02/13(Thu) 20:32:29 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。

    大乗仏教の教義とともにそれが誕生した経緯を知りませんでしたので、とても興味深く読ませていただいています。^^

    No40940に返信(akaimiさんの記事)
    > 「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119)
    > これが、釈迦の説いた「空」です。一見、「色即是空」ととてもよく似ています。
    > そのため、ときおり、『般若心経』が説く「空」は大乗仏教の発明ではなく、仏教の創始以来受け継がれてきた釈迦の思想そのものだと言われることがあります。しかし、そうではないのです。

    このあたりの漠然とした違いではなく、原始と大乗との対比からくる空のはっきりとした区別は、原始のみの経典からでは読み解けないことですね。

    > 真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。
    > これが、釈迦の言った「ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」の意味です。

    www.youtube.com/watch?v=VLiFmTujoVc&list=PLmwYOQLkF8YgOUHA24lG2-JueW4nri2fB
    こちらのシリーズ他の動画を見ましたが、佐々木先生には珍しくはっきりとした表現をされていますね。もちろんこの切り取り方をすればこのような表現にもなると思いますが、少しだけ引っかかったのが「真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。」というところですが、これも空の大乗との比較により生まれた表現だろうと思いました。

    私の知る原始のみの内容での空は、何かを捉えたときにはそれを空ならざる存在と捉えて、それ以外を存在しないものとして空と観よということで、村を捉えたのであれば村という単一のみを作意してそれ以外を存在しないものと観る観方をしますし、地想を捉えたのであれば、地想の単一のみを作為してそれ以外の村について空であると了知するとあります。

    ですので、心に浮かぶ何か、村や人々、何かの香りや空間等の中で、村に集中すればそれは空ならざるものとして存在し、それ以外のものはそこに存在しないものとして空とみなすといった記載があります。その目的は、清浄な空性の顕現のようです。

    これは、空ではない存在と空なる非存在との各認識の体得になるでしょうか。つまりは、何か一つを認識対象とした場合に、それは存在して空ならざるもの。それ以外を非存在としての空と表現しているのだと理解しています。

    それと存在と実在の言葉の表現ですが、これは、語元をたどるとどうも同じ語元を存在、実在と文脈により使い分けているような気がします。丁度、無我と非我の語元が同じで訳文にするときに訳者の感覚で使い分けている事と同じような気がしました。

    これで冒頭の「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119)ということを考察しますと、この世のもは空であると観るならば、死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は、見ることがない。ということで、仏陀は、輪廻の終焉を目的として説いているのだと思いました。

    > 仏陀も「空」については説いていた(スッタニパータにも「空」は出てくるしと)、と漠然とこれまで考えていましたが、仏陀の「空」の意味はこういうことだったのかと今更ながら確認できました。
    > 「集積し絡まりあってできている何ものか」というのが引用中にもありますが、実在とされる「五蘊」などとして示される諸要素の組み合わせによって因って起こる、したがって「空」なのだ、ということなのだと理解しました。(a)

    > では、『般若心経』では何を「空」だとしているのか、になりますね。(a)

    > ・・・・・
    > それは、こういうことです。大乗仏教も釈迦と同じく、「石」や「私」などは、私たちが「ある」と思い込んでいるだけのまぼろしだと考えました。そこまでは一緒です。しかし、彼らは、それらを構成している「五蘊」「十二処」「十八界」のような基本要素までも「実在しない」と言ったのです。すべてが実在しないのですから、要素と要素の間を結んでいた因果関係のようなものも実在しないことになります。そうすると、釈迦が説いたこの世の法則性もすべて架空のものになってしまいます。

    >  要するに、釈迦が構築した世界観を「空」という概念を使うことによって無化し、それを超えるかたちで、さらなる深遠な真理と新しい世界観を提示したのです。これが、『般若心経』において「空」がことさらに重視された理由です。
    > ・・・・・
    > 同書p57より引用

    > 同書p10〜p11に『般若心経』全文が出ています。
    > 以下で、そこから、仏陀が実在としたとされる「五蘊」「十二処」「十八界」も「空」だとしていると思われる部分を抜き出してみます。

    > 色不異空空不異色
    > 色即是空空即是色
    > 色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相
    > 不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃無意識界

    > 同書p135に。
    > ・・・・・
    > 『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。
    > ・・・・・
    > とあります。

    > 『般若心経』の中に「無」がたくさん出てきますが、これは、仏陀が世界の構成要素として区分したもの、それらの「区分は本当は無い」と言う意味での「無」だということなのかもしれません。。
    > とりあえず暫定的にそのように理解しておこうと思うので、間違えているかもしれませんが、このまま投稿とします。(a)

    > ちょっと思ったのは、「名づけられる前の世界」ですかねぇ。
    > 様々に分類され名づけられる前の世界。それが『般若心経』が語る世界ということになるのかな。。だとしたら、「因果関係」というものも無化されますね。(a)

    原始に、婆羅門の一人が仏陀に対して「私は自己による行為は存在しない。他者による行為は存在しない」という見解の持ち主です。といいます。これに対して仏陀は「そのような見解は見たくも聞きたくもありません」と完全否定している経典があります。

    > 『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。

    自己による行為、他者による行為という区分を存在しないということで否定した婆羅門の見解を仏陀は否定しましたが、多分、般若心経の中での世界観では肯定するということでしょうか。。

    まるで、スタート地点とゴール地点が同じなのだから、ここから長いマラソンはしなくても同じ位置だといっているようにも観えますね。ということで、今のところ、見方によれば大乗の空の思想は、なるほど仏教哲学としての最たるものなのかもしれないなぁと思いました。

    www.youtube.com/watch?v=-nH7Rewh-Bw
    今となっては、「阿含経」で生きる人、「般若心経」で生きる人。それぞれで良いのではないでしょうか。無常なる様相の世界観で生じたものは必ず滅するのですから。

    今のところ私の知る範囲でのインド哲学の中でのもので、空の思想はやはり四句分別の4番目である不一不二の領域としか認識できないですかね。雑感としては、私が一番知りたかった仏陀の時代からどのように、なぜ根本分裂が生じたのか?という明確な史料がないようで、そこは少し残念でしたが、少し前に佐々木先生の教室で講義を受けていたのであれば、、私としては、いろいろと楽しかっただろ言うなぁと思いました。^^
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■40958 / )  放送大学
□投稿者/ 田秋 -(2025/02/13(Thu) 17:30:21)
    今日から放送大学の来学期の受講科目の登録が始まりました。取りたい科目がどうも民法を沢山覚えなければならない様なので受講科目数を減らそうと考えてますが、本当にそうなのか、早目に一度試聴し過去問も見て判断しようと思います(著作権法の時、覚えるのに随分苦労したので)。
    hanaさんも来学期何か取るのかな?
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■40959 / )  二つの高齢化
□投稿者/ 田秋 -(2025/02/13(Thu) 20:38:42)
    今期受講した「持続可能な社会と生活」で習ったのだが、今日本には二つの高齢化の波が押し寄せている。一つは人の高齢化、そしてもう一つがハコモノ・インフラの高齢化である。以下、教科書から引用する。

    国土交通省によると、2023年に橋や水門などの4割、トンネルや港湾岸壁の約3割で、耐用年数とされる50年以上を経過する。水道でも、耐用年数である40年を経過した管路が2015年時点で、13.6%であるのに対し、更新率は年率で0.74%にとどまっており、「このままでは130年以上要する」と、厚生労働省自ら述べている。
    引用オワリ

    八潮市で起きた道路陥没事故は起こるべくして起こった。

    再び引用
    人とハコモノ・インフラの「2つの高齢化」は、自治体財政にすでに大きな影響を及ぼしつつある。平成の大合併の最終年度となった2005年から新型感染症への対応が求められた2020年までの15年間に、都道府県の歳出、いわば仕事は24.7%増えたのに対し、職員数は11.0%減っており、職員1人あたりの業務負担は40%増えたことになる。市町村では歳出54.6%増、職員数4.5%減、職員1人あたりの業務負担は62%増、つまり15年前は3人で担当していたことを、今では1人で担当しているのと同じくらいの負担増となっている。


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■40960 / )  Re[29]: 般若心経
□投稿者/ akaimi -(2025/02/14(Fri) 10:46:29)
    2025/02/14(Fri) 11:02:41 編集(投稿者)
    時さん、こんにちは! 投稿ありがとうございます。


    No40957に返信(時さんの記事)
    > 2025/02/13(Thu) 20:32:29 編集(投稿者)

    > 大乗仏教の教義とともにそれが誕生した経緯を知りませんでしたので、とても興味深く読ませていただいています。^^

    ありがとうございます。(^^)

    >>真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。
    >>これが、釈迦の言った「ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」の意味です。
    >
    > www.youtube.com/watch?v=VLiFmTujoVc&list=PLmwYOQLkF8YgOUHA24lG2-JueW4nri2fB
    > こちらのシリーズ他の動画を見ましたが、佐々木先生には珍しくはっきりとした表現をされていますね。もちろんこの切り取り方をすればこのような表現にもなると思いますが、少しだけ引っかかったのが「真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。」というところですが、これも空の大乗との比較により生まれた表現だろうと思いました。

    そうかもですね。空の思想だけでなく原始仏教でも当然のことながら、「真の実在」という表現は本来は成り立たないとは私も考えました。
    仏陀はそれらを「在る」ということにして説明した、ってことなんじゃないのかな、というのは思いました。
    ですから、時さんがおっしゃられるように、般若心経との比較においてわかりやすくするために佐々木さんはこのような表現をされたのかもしれません。

    > 私の知る原始のみの内容での空は、何かを捉えたときにはそれを空ならざる存在と捉えて、それ以外を存在しないものとして空と観よということで、村を捉えたのであれば村という単一のみを作意してそれ以外を存在しないものと観る観方をしますし、地想を捉えたのであれば、地想の単一のみを作為してそれ以外の村について空であると了知するとあります。
    >
    > ですので、心に浮かぶ何か、村や人々、何かの香りや空間等の中で、村に集中すればそれは空ならざるものとして存在し、それ以外のものはそこに存在しないものとして空とみなすといった記載があります。その目的は、清浄な空性の顕現のようです。

    たしか、「牛がいる」というときに「空ではない」、「牛がいない」というときは「空である」のような譬えもあったような記憶があるのですが、定かではありません。

    > これは、空ではない存在と空なる非存在との各認識の体得になるでしょうか。つまりは、何か一つを認識対象とした場合に、それは存在して空ならざるもの。それ以外を非存在としての空と表現しているのだと理解しています。

    はい。

    > 原始に、婆羅門の一人が仏陀に対して「私は自己による行為は存在しない。他者による行為は存在しない」という見解の持ち主です。といいます。これに対して仏陀は「そのような見解は見たくも聞きたくもありません」と完全否定している経典があります。

    六師外道と言われる人々の仲間になるのでしょうか。

    >>『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。
    >
    > 自己による行為、他者による行為という区分を存在しないということで否定した婆羅門の見解を仏陀は否定しましたが、多分、般若心経の中での世界観では肯定するということでしょうか。。

    『般若心経』の一部分から引用してみます。
    ・・・・・
    舎利子
    色不異空 空不異色
    色則是空 空即是色
    受想行識 亦復如是

    【訳】
    舎利子よ、
    この世の「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)であり、「実体がないという状態」が「物質要素」である。
    「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)と別ものではなく、「実体がないという状態」は「物質要素」とは別ものではない。
    「物質要素」(色)が「実体がないという状態」(空性)なのであり、「実体がないという状態」が「物質要素」なのである。
    [五蘊のその他の要素である]「感受作用」(受)、「構想作用」(想)、「意思作用およびその他の様々な心の作用」(行)、「認識作用」(識)についても、「物質要素」(色)と全く同じことが言える。
    ・・・・・
    100分de名著『般若心経』佐々木閑 著 p46〜p47から引用

    ・・・・・
    「釈迦の仏教」では、「私たちを形成する基本要素」である五蘊は確かに実在する、と言っているのですが、ここではそれを「実在しない」と言います。
    五蘊とは実在の要素ではなく、「実体をもたないという状態」に与えられた仮の名称だ、と言うのです。
    ・・・・・
    同書p46〜p47から引用

    二つの引用からも考えるに、その婆羅門の言い分と『般若心経』の語りはまた別なものであると私には思えます。

    >>『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。<<同書p135より
    というのを前の私の投稿でも書きましたが、
    これが、色即是空の部分だと考えています。
    しかし、色即是空は空即是色と対になっていますので。

    > まるで、スタート地点とゴール地点が同じなのだから、ここから長いマラソンはしなくても同じ位置だといっているようにも観えますね。ということで、今のところ、見方によれば大乗の空の思想は、なるほど仏教哲学としての最たるものなのかもしれないなぁと思いました。
    >
    > www.youtube.com/watch?v=-nH7Rewh-Bw
    > 今となっては、「阿含経」で生きる人、「般若心経」で生きる人。それぞれで良いのではないでしょうか。無常なる様相の世界観で生じたものは必ず滅するのですから。

    動画を拝見しました。昔のお坊さんたち(日本のだと思います)は、阿含経より大乗仏教のほうが優れているという考えの人が多かったというお話をされていますね。
    日本に広まったのは大乗仏教だったので自然にそのように考えられてきたのでしょうね。
    しかし、順序というか歴史の流れがあり、釈迦の仏教の後に大乗仏教が生まれてきたのであり、どちらが優れているという話ではない、と。

    > 今のところ私の知る範囲でのインド哲学の中でのもので、空の思想はやはり四句分別の4番目である不一不二の領域としか認識できないですかね。雑感としては、私が一番知りたかった仏陀の時代からどのように、なぜ根本分裂が生じたのか?という明確な史料がないようで、そこは少し残念でしたが、少し前に佐々木先生の教室で講義を受けていたのであれば、、私としては、いろいろと楽しかっただろ言うなぁと思いました。^^

    根本分裂・・・再度最近購入した三枝さんという仏教学者の方の本に、結集についてなどの経緯は出ているのですが、分裂の理由についての明確な説明はなかったような気がします。(おぼろげな記憶で言ってるので違うかもですが)

    あくまで私の考えですけど、仏陀が亡くなり、自由に自分たちの考えを主張できるようになっていったから、というのはあるんだろうなと。



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■40961 / )  中毒性
□投稿者/ akaimi -(2025/02/14(Fri) 16:26:19)
    h−ttps://youtu.be/ZnphQMl_SSE?si=tT6oTgFIOQAcow91

    [Alexandros]の Swan
    数年前に好きでよく聴いてたのを思い出し、また中毒性にやられてしまった。

    そういえばここで先日、偶然、白鳥のこと書いた。
    ワタリドリという曲もあり、それもかっこいいのだ。
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■40962 / )  音が生まれる実在感
□投稿者/ knowingitself -(2025/02/14(Fri) 16:48:33)
    例えば弦楽奏者が音を鳴らしたのは、もう確実に現実世界である特定の音として鳴らされたわけだ。それを実在というかはともかく、虚構、妄想、錯覚の類いでは決してない。

    特定の演奏会で鳴らした音だけではなく、その弦楽奏者が練習を含めて、生涯で鳴らした音はすべて現実世界で、リアルに出力された、音として生まれた。そのすべての音を正確に記憶できることはないと思うが、少なくとも音を鳴らしたときは、音として認知していたのではないか。


    >この世界で演奏された音楽は結局よくわからない?少なくとも素人にはほとんどのことはわからない。

    >感動するにせよ退屈するにせよ、ある意味、心の妄想に近い体験をしているにすぎないともいえる。

    >しかし、これが音楽の面白さというか、世界そのものの面白さだが、

    >音は確実に鳴っていた、響いてわけでしょう?

    >音が出されていたかそれ自体が妄想だった、あったのは沈黙だけで想像力や妄想力で音が響いたことにしているわけではない。


    No40711に返信(knowingitselfさんの記事)
    >>>列車、新幹線、リニアモーター、もっと大型でも、もっと高速でもいい。
    >>
    >>>客船でも、飛行機でも、宇宙船でも。
    >>
    >>>要は、多数の人間を収容できる空間的な余裕のある乗り物。
    >>
    >>その中で多数の人が、会話をしたり、本を読んでいたり、スマホやパソコンで何かをやっていたり、音楽を聴いていたり、そういう並列的、多層的な空間が移動していると。
    >
    > 一曲の交響曲の演奏もこの喩えがあてはまるかもしれない。
    >
    > 例えば、交響曲のライブ演奏をCDにするとする。
    >
    > 後からその録音を聴いたとしても、ライブ演奏をその場で体験するのとは違う。
    >
    > 録音は過去の残骸にすぎないともいえる。ライブ演奏を客席から聴いていたとしても、
    >
    > 実際の演奏で「何が起こっていた」かは、演奏していたオーケストラのプレーヤーほどにはわからない。
    >
    > オーケストラをコントロールして見渡していた指揮者はかなりわかっているだろうが、それでもわからない部分はたくさんあるのでは?
    >
    > その楽団員や指揮者にしても、過去に振り返るときは、実際の演奏体験のときをリアルに再現することは困難では。
    >
    > 結局、その時の演奏はもうどこにもないといえるのではないか。
返信/引用返信 削除キー/

■40963 / )  迫り来る大量絶滅期
□投稿者/ キティダニエル -(2025/02/14(Fri) 18:05:42)
    >人類が全滅してしまうかもしれない&#8265;迫り来る大量絶滅期
    >人類も絶滅する種の一つになる可能性がある (C)kh/PIXTA(ピクスタ) 地球上で起きていること、どれだけ知っている? この地球で当たり前に感じていることでも、うまく説明できないことがありますよね。例えば、「青い空が夕暮れに赤く染まるのはなぜ?」「台風が日本列島めがけてやってくる理由は?」 そんな地球に生きる私たちが知っておくべき「理系雑学」をご紹介します。太陽系を含む地球の歴史をはじめ、地球上で成立した大自然や気候、動植物、資源など、地球をめぐる大疑問にスッキリ回答!あらためて考えると、私たちはこの地球にまつわるさまざまなことを、じつはほとんど知らないのかもしれないかもしれません。 ※本記事は雑学総研著の書籍『人類なら知っておきたい 地球の雑学』から一部抜粋・編集しました。 今は大量絶滅期!? 人類が全滅してしまうかもしれない! 地球上の生命は、過去5億年のあいだに5回の大量絶滅を経験したといわれているが、世界は今、まさに6回目の大量絶滅を迎えつつあるといわれている。そして、過去に起こった絶滅は、火山の噴火や隕石の衝突、それにともなう気候変動などが引き金となったが、6回目の大量絶滅を引き起こす原因は、我々人類になるかもしれない。 最新の研究によれば、20世紀に発生した生物種の絶滅は、人類の活動がなかった頃に比べて約100倍のペースで進んだとされている。しかもこの研究は、ほ乳類、鳥類、は虫類、両生類など、我々がよく知る動物種だけに研究対象を絞ったデータに過ぎない。その数すらわかっていない、海や森などに生息する動植物を含めれば、さらに多くの生物種が、発見されることもなく絶滅している可能性が高いのだ。 いったいどのくらいの生物種が、いつ頃までに姿を消すのか。現在のところ、その詳細について具体的な予測を立てることは不可能とされている。しかし、過去の大量絶滅の時期に匹敵する速いペースで、多くの生物種が失われていることだけは事実である。 また、地球上の人口が70億人を超えたことで、今後も資源やエネルギーの消費などにより、環境に対する負荷が増え続けることも予想されている。人類がこうした環境負荷を減らす決断をしないかぎり、近い将来、生物種の消滅がさらに拡大していくだけでなく、人類も絶滅する種の一つになる可能性があることを、肝に銘じなければならないだろう。 著=雑学総研/『人類なら知っておきたい 地球の雑学』

    いわゆる人新世の到来だよね。人口が100億を超えたらまさにそれだね。
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■40964 / )  Re[16]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/14(Fri) 18:26:25)
    カントの用語、わたしの日常生活のなかでは見たことも聞いたことのない語がいっぱい出て来るから大変なのよね〜。

    人間には「理性」とか「悟性」っていう性(能力)があるみたい。

    (本Ko)のなかからちょっと抜き出して見るね。

    「悟性」
    @規則としての概念を用いて思考する(p35)
    A現象を概念によって理解する能力(p64)
    B現象に対して「それはなにであるか」と問い答える能力(p64)

    「理性」
    C(広義)自発的な認識能力(p35)
    D(狭義)推理の能力として、原理・根拠を問いたずねる能力(p35)
    E悟性が理解する自然現象に対して、その根拠・原理を問い抜こうとする能力(p64)
    F(悟性に対して)「その根拠はなにか(それはなぜか)」と問うことで、根拠と帰結を推理する能力(p64)

    A、B、Eに「現象」っっていう日訳は現象学で言う「現象」っていうのはどやら異なることまでは分かったんだけど、後でまた見て見ることにするとして。

    (A-Vd)「悟性」=概念によって理解したり、概念を利用して思考する能力
    (A-Vt)「理性」=悟性の根拠・原理を推理する能力

    ってひとまずしとく。

    (A-Vd)は、
    No39828で見たような、〈思考-概念〉と〈概念-思考〉と似てる感じしてる。
    (a-Vd)を簡単に〈概念-理解/概念-思考〉って略してもいいかな。

    あと、
    〈すること(あるいはするもの)〉と、それによって〈されたもの〉を区別して見るとき、「悟性」や「理性」は〈すること・するもの〉っていうことになるのかな。
    そして、「悟性」〈すること・するもの〉によって〈されたもの〉が「概念」だたたり「概念によって思考されたもの」、「理性」〈すること・するもの〉によって〈されたもの〉が「根拠・原理」とか「推理されたもの」、っていうことになるかな。

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■40965 / )  Re[17]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/14(Fri) 18:50:35)
    今日はカント用語、もう一つ

    「ア・プリオリ」なんだけど、

    ネットから一部
    [nア・プリオリ]―――――――――――――――
    (ウィキペディア)
    @アプリオリ(羅: a priori)とは、議論や知識の前提があらゆる経験に依存しないことを表す言葉。知識が経験的証拠(英語版)に依存する場合、アポステリオリと表現される。

    Aカントにおける「アプリオリ」の概念
    「わたしは何を知ることができるか」「わたしは何をなすべきか」を問い、自然や人間を認識する「理性」(理論理性)の限界を明らかにするために批判哲学を打ち立てた18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、哲学もまた数学や自然科学にならって、必然的で普遍的な思考方法を獲得しなければならないと主張した。そして、そのためには、人間のあらゆる経験から独立して、理性自身が認識のわく組みを決めることができなければならない、とした。これが「アプリオリな認識」である(アプリオリな認識のうち、経験的なものをまったく混入していない認識を「純粋認識」と呼ぶ)。

    (改訂新版 世界大百科事典 )
    Bア・ポステリオリa posterioriと対をなして,推論の二つのあり方を規定する中世スコラ哲学の用語。ア・プリオリとは〈より先なるものから〉の意味で,元来,原因から結果へ,原理から帰結へという方向をとる推論・認識を,ア・ポステリオリ(〈より後なるものから〉の意)は,その逆の方向をたどる推論・認識を意味した。神とその諸属性,理性,道徳的諸性質やそれらについての概念,判断,認識はア・プリオリと,一方,人間により近い感覚的経験的なものをもととする推論・認識はア・ポステリオリと考えられたのである。
    ――――――――――――――――――――――――

    (本Ko)から、

    (Ko-a)〔「ア・プリオリ」とは「経験に依存することなく、感官の一切の印象にさえ依存することのない」ことです。他方「ア・ポステリオリ」とは経験を源泉としてそれに依存していることです。〕(p57-58)

    あと、カントにおいて、「ア・プリオリ」と区別される「純粋(rein)」っていうのもあるみたいで、

    (K-ar)『したがって、以下でア・プリオリな認識とは、この経験やあの経験から独立に生じる認識ではなく、すべての経験からたんてきに成立する認識のことである。この意味でのア・プリオリな認識には、経験的認識、言い換えれば、たんにア・ポステリオリにすなわち、経験によって可能な認識が対置される。さらに、ア・プリオリな認識の内で、まったく経験的なものが混入していない認識は純粋と呼ばれる。たとえば、「それぞれの変化にはその原因がある」という命題は、ア・プリオリな命題だが純粋ではない。なぜなら、変化は、経験からだけ引き出すことのできる概念だからである。』(B2f.)  (p59)

    ってあった。なんかカントにおいては「ア・プリオリ」と「純粋」っていうのビミョーに違うみたいなんだけど、
    ひとまず、

    (A-pr)「ア・プリオリ」→〈経験に拠るものではないもの〉
    (A-r)「純粋」→〈一切経験に拠るものではないもの〉
    (A-po)「ア・ポステリオリ」→〈経験に拠るもの〉

    ってしとくことにした。

    (本Ko)では、
    「純粋」=〈たんてきに一切の経験に依拠しないで生じる〉(p59)
    っていう言い方をしてるみたいなんだけど、わたしのばあい(A-r)ってした。

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■40966 / )  Re[30]: 般若心経
□投稿者/ 時 -(2025/02/14(Fri) 19:19:35)
    2025/02/14(Fri) 19:38:04 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No40960に返信(akaimiさんの記事)
    > そうかもですね。空の思想だけでなく原始仏教でも当然のことながら、「真の実在」という表現は本来は成り立たないとは私も考えました。
    > 仏陀はそれらを「在る」ということにして説明した、ってことなんじゃないのかな、というのは思いました。
    > ですから、時さんがおっしゃられるように、般若心経との比較においてわかりやすくするために佐々木さんはこのような表現をされたのかもしれません。

    原始の日本語訳を読みますと、実在と存在やある(在る)という表現がされていますが、実在等の定義らしきものはありませんで、存在の方はあるのですね。

    原始内では、堅固で恒常な不変易の性質ある五蘊は存在しなくて、無常で苦なる変易易の性質ある五蘊は存在するといっています。つまりは、存在とは、無常なる性質(五蘊)で、存在しないのは、恒常なる性質(五蘊)だといえそうです。

    ですので、実在と存在のパーリ語の語元が同じならば、真も何も、一切が無常な状態ということになりますね。しかし先生が日本の学生たちに教えるときには、分かりやすく真の実在という表現をされたのだろうと思いました。

    >>私の知る原始のみの内容での空は、何かを捉えたときにはそれを空ならざる存在と捉えて、それ以外を存在しないものとして空と観よということで、村を捉えたのであれば村という単一のみを作意してそれ以外を存在しないものと観る観方をしますし、地想を捉えたのであれば、地想の単一のみを作為してそれ以外の村について空であると了知するとあります。

    >>ですので、心に浮かぶ何か、村や人々、何かの香りや空間等の中で、村に集中すればそれは空ならざるものとして存在し、それ以外のものはそこに存在しないものとして空とみなすといった記載があります。その目的は、清浄な空性の顕現のようです。

    > たしか、「牛がいる」というときに「空ではない」、「牛がいない」というときは「空である」のような譬えもあったような記憶があるのですが、定かではありません。

    この牛の喩は、私の記憶にはありませんかね。清浄な空性の顕現を説いているようですので、一般的な我々凡夫の心といいますか頭の中にある雑多な途切れのない思考の世界を、空と空ならざるものいう表現を用いて空の状態を知るべく説かれたものだと想像します。

    例えば、村での生活の中での煩わしい人々との付き合いから離れて、湖のほとりで一人瞑想するとき、、人との付き合いの中で今まであった煩わしさは消え去っており(空な状態)で、その代わり今あるのは、空ならざる静けさがあるといった感じですね。今まであった事象がなくなることにより、今ある事象が認識できるということでしょう。これを繰り返すことにより、清浄な空性の顕現が体得できるということだと思います。

    原始内で空として仏陀が説いたことは、このようなことだと理解しています。

    >>原始に、婆羅門の一人が仏陀に対して「私は自己による行為は存在しない。他者による行為は存在しない」という見解の持ち主です。といいます。これに対して仏陀は「そのような見解は見たくも聞きたくもありません」と完全否定している経典があります。

    > 六師外道と言われる人々の仲間になるのでしょうか。

    原始内で、有情の雑染のための因はなく、縁はない。因なく縁なくして有情は汚れ、有情の清浄のための因はなく、縁はない。因なく縁なくして、有情は清まるのである。といった一人の外道の言があるようですので、もしかすると仲間だったのかもしれませんが、上記の婆羅門については外道との記載はないようですね。

    > >>『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。

    >>自己による行為、他者による行為という区分を存在しないということで否定した婆羅門の見解を仏陀は否定しましたが、多分、般若心経の中での世界観では肯定するということでしょうか。。

    > 『般若心経』の一部分から引用してみます。
    > ・・・・・
    > 舎利子
    > 色不異空 空不異色
    > 色則是空 空即是色
    > 受想行識 亦復如是

    > 【訳】
    > 舎利子よ、
    > この世の「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)であり、「実体がないという状態」が「物質要素」である。
    > 「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)と別ものではなく、「実体がないという状態」は「物質要素」とは別ものではない。
    > 「物質要素」(色)が「実体がないという状態」(空性)なのであり、「実体がないという状態」が「物質要素」なのである。
    > [五蘊のその他の要素である]「感受作用」(受)、「構想作用」(想)、「意思作用およびその他の様々な心の作用」(行)、「認識作用」(識)についても、「物質要素」(色)と全く同じことが言える。
    > ・・・・・
    > 100分de名著『般若心経』佐々木閑 著 p46〜p47から引用

    > ・・・・・
    > 「釈迦の仏教」では、「私たちを形成する基本要素」である五蘊は確かに実在する、と言っているのですが、ここではそれを「実在しない」と言います。
    > 五蘊とは実在の要素ではなく、「実体をもたないという状態」に与えられた仮の名称だ、と言うのです。
    > ・・・・・
    > 同書p46〜p47から引用

    > 二つの引用からも考えるに、その婆羅門の言い分と『般若心経』の語りはまた別なものであると私には思えます。

    > >>『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。<<同書p135より
    > というのを前の私の投稿でも書きましたが、
    > これが、色即是空の部分だと考えています。
    > しかし、色即是空は空即是色と対になっていますので。

    失礼しました。私の読解不足でした。ご指摘後に考えますと、多分、般若心経ではなくて、龍樹の中論あたりの断片的な空のイメージをしていたのだろうと思います。

    > 動画を拝見しました。昔のお坊さんたち(日本のだと思います)は、阿含経より大乗仏教のほうが優れているという考えの人が多かったというお話をされていますね。
    > 日本に広まったのは大乗仏教だったので自然にそのように考えられてきたのでしょうね。
    > しかし、順序というか歴史の流れがあり、釈迦の仏教の後に大乗仏教が生まれてきたのであり、どちらが優れているという話ではない、と。

    はい。そうですね。

    上記の「〜よりも私は優れている、〜と同等だ、〜よりも劣っている」といった想いがあると争いが起こる要因になりますし、これら3つの慢を取り除くために行われるのが、八支聖道の修習です。といった記載が原始にはあるのですね。

    > 根本分裂・・・再度最近購入した三枝さんという仏教学者の方の本に、結集についてなどの経緯は出ているのですが、分裂の理由についての明確な説明はなかったような気がします。(おぼろげな記憶で言ってるので違うかもですが)

    www.youtube.com/@shizukasasaki490/playlists
    こちらのページの「ブッダ亡き後の仏教」のシリーズで説明されているようですよ。

    www.youtube.com/watch?v=bjc0UC6FOGo&list=PLmwYOQLkF8YhBkBPjjO5FiY2D4LceRR22&index=3
    この辺りから続いていくようです。・・第二結集時に律(サンガ内での法律、規律)について金銀の解釈からそれを受け取れるか受け取れないかという問題を起点として十の問題(十事問題)が僧伽内で生じて、大問題になったのだそうですが、この十事問題をはじめとして、第一結集も第二結集も実際に行われたという確かな証拠はないのだそうです。

    > あくまで私の考えですけど、仏陀が亡くなり、自由に自分たちの考えを主張できるようになっていったから、というのはあるんだろうなと。

    私も、仏陀の存命中ならば出来なかった各比丘の主張や行動が始まったように思えますね。

    仏陀の時代から、どのように分裂して大乗仏教が生じたのかという私の疑問には、はっきりとは分かっていないという今現在の佐々木先生の研究結果で一応は理解しましたので、今はこれ以上は突っ込まないでおこうと思いました。^^
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■40967 / )  今日の星空
□投稿者/ pipit -(2025/02/14(Fri) 19:47:13)
    今日も金星の光がすごく強かった。

    星空の輝きは1日で変わる。

    今日は、綺麗めの輝きの星だ。

    赤い星も印象的なんだ。

    台風が去ったあの夜の星空は強烈に綺麗だった。



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■40968 / )  洗濯機
□投稿者/ pipit -(2025/02/14(Fri) 20:07:25)
    2025/02/14(Fri) 22:58:28 編集(投稿者)

    昨日洗濯機壊れて今コインランドリー。

    昨日はびっくりしたよー、ケムリでてきたん。

    すぐケムリは自然に消えたけど、小さい消火器のピンが慌て過ぎて上手く抜けなくて、いい訓練になったよ。

    消火器使わなかったからピンは戻せたよ。

    あ!乾燥終わったから帰ろーっと

    帰ってから、、、

    よーうがんばってくれたね、ありがとう とポンポンしながら言ってみる。

    人間も、いろんなものも、同じやなーと感じる

    よーうがんばってる かんじ
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■40969 / )  坂本龍一
□投稿者/ 田秋 -(2025/02/14(Fri) 23:40:18)
    2025/02/14(Fri) 23:55:52 編集(投稿者)

    急に思い立って東京都現代美術館で開催している【「音を視る 時を聴く」坂本龍一】を観に行った。インスタレーションと言うらしいが、映像(或いは空間)と音楽が一体化して一つのアート(芸術)になる。音楽は所謂バックミュージックよりはるかに重要な地位を占めている。5時間位鑑賞(体験)していた。音楽の手法はミニマル・ミュージックで坂本龍一の発明ではないが、中身は坂本龍一そのものだった。東京近郊にお住いの方は行く価値アリ。

    写真の説明
    下左
    本物のピアノの前に特殊な透明なスクリーンがあり、こちらからはピアノが見え、スクリーンにピアノを弾いている半透明の坂本龍一が映し出されさもピアノを弾いているように見える。

    下右
    霧のロンドンを再現したもの
899×899 => 600×600

1000004513.jpg
/418KB
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■40970 / )  レイ・クロック
□投稿者/ アートポット -(2025/02/15(Sat) 02:50:28)
    金曜日の哲学生放送は、キルケゴールとカントとレイ・クロックの思想の共通点にて面白かってにてにょ。一二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
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■40971 / )  3変数関数の全微分方程式
□投稿者/ rest -(2025/02/15(Sat) 09:14:52)
     過去ログより

     □投稿者/ rest -(2022/07/10(Sun) 00:28:39)
    2022/07/10(Sun) 08:52:49 編集(投稿者)
    2022/07/10(Sun) 00:30:31 編集(投稿者)

    問題 7 次の3変数関数の全微分方程式の一般解を求めよ。

    e^ydx+xe^ydy+2zdz=0 …………(1)


    解) P=e^y , Q=xe^y , R=2z と置くとf=[e^y ,xe^y ,2z]とすれば
    回転rotfを求めると
    ∂R/∂y−∂Q/∂z=∂2z/∂y−∂xe^y/∂z=0−0=0 …………(2)

    ∂P/∂z−∂R/∂x=∂e^y/∂z−∂2z/∂x=0−0=0 …………(3)

    ∂Q/∂x−∂P/∂y=∂xe^y−∂e^y/∂y=0−0=0  …………(4)

    (2),(3),(4)よりrotf=0となり、(1)は完全微分方程式である。
    この一般解は
    ∫e^ydx[区間0,x]+∫0.e^ydy[区間0,y]+∫2zdz[区間0,z]=C

    [e^y.x][区間0,x]+[z^2][区間0,z]=C
    従ってxe^y+z^2=C [C:任意定数]


    問題 8 次の全微分方程式を解きなさい。

    ydx+xdy+(xy/z)dz=0 …………(a)[z≠0]


    解) P=y , Q=x , R=xy/zと置き、f=[y,x,xy/z]とすれば
    回転rotfを求めると
    ∂R/∂y−∂Q/∂z=∂(xy/z)/∂y−∂x/∂z=x/z−0=x/z …………(1)

    ∂P/∂z−∂R/∂x=∂y/∂z−∂(xy/z)/∂x=0−y/z=-y/z …………(2)

    ∂Q/∂x−∂P/∂y=∂x/∂x−∂y/∂y=1−1=0 …………(3)

    (1),(2),(3)より(a)は完全微分方程式ではない。
    rotf=[x/z , -y/z , 0](≠0)より
    ベクトルの内積は
    f・rotf=[y,x,xy/z]・[x/z,-y/z,0]=xy/z−xy/z+0=0 …………(4)

    従って(4)より(a)は積分可能な全微分方程式である。

    (@).dz=0とおくと(a)はydx+xdy=0 …………(b)
    となる。ここでP=y,Q=xと置くと∂P/∂y=1,∂Q/∂x=1より
    ∂P/∂y=∂Q/∂xが成立して(b)は完全微分方程式である。
    (b)の一般解を求めると
    φ=∫ydx[区間0,x]+∫0.dy[区間0,y]=[xy][区間0,x]=xy=C …………(c)

    (A)∂φ/∂x=∂xy/∂x=y=λP (P=yなのでλ=1)

    (B)さらにη=λR−∂φ/∂z=1.xy/z−0=xy/zより(a)は
    dφ+ηdz=dφ+xy/z.dz=dφ+φ/z.dz=0
    すなわち両辺にzをかけると、

    zdφ+φdz=0 …………(d)
    ここでP"=z,Q"=φと置くと
    ∂P"/∂z=1 , ∂Q"/∂φ=1より∂P"/∂z=∂Q"/∂φが成立
    するので(d)は完全微分方程式である。

    従って
    u=∫zdφ[区間0,φ]+∫0.dz=[zφ][区間0,φ]=zxy=C

    以上により積分可能な全微分方程式(a)の一般解はxyz=Cとなる。

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