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■38044 / inTopicNo.1)  pipitさんへ
  
□投稿者/ 時 -(2024/07/27(Sat) 10:41:07)
    pipitさんへ。おはようございます。返信をありがとうございます。

    No38040に返信(pipitさんの記事)

    > 【光明寺経蔵さんの訳】
    > 「なぜならラーフラよ、あなたが無常想という修習をおさめたなら、およそかの我慢が捨断されるからです。」
    > (原文)※記号省略
    > Aniccasannanhi te, rahula, bhavanam bhavayato yo asmimano so pahiyissati
    > https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmjp/mn07/mn07c04.files/sheet001.htm

    > 光明寺経蔵さんが『我慢』と日訳されている原語は「asmimano」。直訳としては「私という比較」みたいな感じかなとpipitが勝手に思ってきますが全然違ってたらすみません m(_ _)m

    私の個人的な仏典の読み方は、詳細部分にこだわらずに、まずはその文脈として捉えます。そしてその文脈のつながりから、その仏典全体の流れとして違和感等がなければ、その1つの仏典のそのままの理解としています。そして1つの仏典の理解に至れれば、多くの仏典群としての全体の流れとして違和感なく理解できるのかというのを行いました。

    > 【光明寺経蔵さんの訳】
    > 「なぜならラーフラよ、あなたが無常想という修習をおさめたなら、およそかの我慢が捨断されるからです。」

    上記の我慢という訳ですが、wikiで調べてみますと

    https://ru.wiktionary.org/wiki/asmim%C4%81na (パーリ語→ロシア語→日本語という訳になるのでしょうか?)

    上記では、asmimano(a)を「私はこうである」といううぬぼれ と訳されているのでしょうか?詳細は分かりませんが、光明寺経蔵氏の訳文に当てはめると、「およそかの我慢が捨断されるからです。」→「およそかの(私はこうであるといううぬぼれ)が捨断されるからです。」でも意味は理解できそうですし、pipitさんの、「私という比較」を当てはめてみても、「およそかの我慢が捨断されるからです。」→「およそかの(私という比較)が捨断されるからです。」でも、pipitさんご自身の理解としてできるのであれば、それはそれで良いと思います。そしてこの仏典全体として、違和感なくその理解に至れればそれで良いと思っています。

    ご参考まで。
引用返信/返信 削除キー/
■38043 / inTopicNo.2)  田秋さんへ
□投稿者/ 時 -(2024/07/27(Sat) 10:33:06)
    田秋さんへ。おはようございます。返信をありがとうございます。

    No38038に返信(田秋さんの記事)

    > この講義は東日本大震災を講師金菱清の視点から検証したものです。その中で、東日本大震災で流されて死亡し、その後発見された沢山の方の遺体が体育館に並べられていて、そこへ行方不明になった家族を探しに行くという場面が報告されています。そこは遺体の<安置>という状態ではなく、まだ顔も泥で汚れた状態であったそうです。

    > 上記の例は死体を観察するというのとは違いますが、スリランカでは遺体に対する感覚が日本とは違うんだなと思いましたし、行方のわからない家族の安否をそういう所で確認するというのも、日常では決して経験できないことで、でもそれをしなければならないという状況に、ある種の極限状況を感じました(決してその気持ちがわかったということではありません)。

    > 日本で死体と対面するのは肉親の死ではありますが、それ以外、報道などで遺体を掲載或いは放映することはなくなりました。しかしそうなったのはそう昔のことでもありません。三島由紀夫の自殺、川端康成のガス自殺、御巣鷹山での飛行機墜落の現場などの写真は新聞やフライデーに載っていた記憶があります。

    > ボクも死者を観察するということはありませんが、肉親や親戚や知人の死を経験することで何となく死を観察(他人の死を経験)しているのだと思います。

    そうですね。我々は、日常生活で他者の死を通して”なんとなく”死を思い浮かべるのでしょうね。。

    これも十数年前以前になりますが、今と比べて割とご遺体の写真がネット上でありましたが、今はその大半が見当たりません。インドや他国のものが大半だったように思います。

    仏典を読みますと、人間自体の死を通してその変化等を自ら観察し、自らの身と向き合いつつ、その中で不浄観や無常観というものを学ぶようです。生きている間は、自らも不浄の塊であるとう事はなかなか心底の理解に至らないものと思われますが、それの変化(無常)を、日常の身の回りにある死体自体(の変化)を通して説いたのだろうと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■38041 / inTopicNo.3)  田秋さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/07/27(Sat) 07:53:10)
    田秋さん、おはようございます(^○^)
    書き込みありがとうございます♪

    No38038
    > 前期受講した「災害社会学」の教科書から引用です。
    >
    > 「3.11の大震災後スリランカを訪れて調査をしているとき、あることが気になっていた。〜中略〜スリランカでは4万人の津波犠牲者を出したが、スリランカの慰霊碑を現地で見ると、電車に乗っていた乗客が津波に飲み込まれる様子がリアルに描かれていた。それだけでなく、当時の新聞のスクラップを調査同行者から差し出されてみて見ると、そこには大きく津波によって流された遺体がそのままのすがたで掲載されていて、現地の人に聞いてもそれは当然だという答えしか返ってこなかった」
    > (印刷教材「災害社会学」 金菱清著 2022年第2刷 放送大学教育振興会発行 P255)
    >
    > この講義は東日本大震災を講師金菱清の視点から検証したものです。その中で、東日本大震災で流されて死亡し、その後発見された沢山の方の遺体が体育館に並べられていて、そこへ行方不明になった家族を探しに行くという場面が報告されています。そこは遺体の<安置>という状態ではなく、まだ顔も泥で汚れた状態であったそうです。
    >
    > 上記の例は死体を観察するというのとは違いますが、スリランカでは遺体に対する感覚が日本とは違うんだなと思いましたし、行方のわからない家族の安否をそういう所で確認するというのも、日常では決して経験できないことで、でもそれをしなければならないという状況に、ある種の極限状況を感じました(決してその気持ちがわかったということではありません)。
    >
    > 日本で死体と対面するのは肉親の死ではありますが、それ以外、報道などで遺体を掲載或いは放映することはなくなりました。しかしそうなったのはそう昔のことでもありません。三島由紀夫の自殺、川端康成のガス自殺、御巣鷹山での飛行機墜落の現場などの写真は新聞やフライデーに載っていた記憶があります。
    >
    > ボクも死者を観察するということはありませんが、肉親や親戚や知人の死を経験することで何となく死を観察(他人の死を経験)しているのだと思います。<

    教科書を引用してくださり、大変参考になります、ありがとうございます。
    そういえば昔漫画で、タイのテレビではニュースで死体が普通に映っている、と読んだ記憶があります。

    放送大学って本当に様々な学びがあるのですね。
    田秋さんの影響で、放送大学での学びもいいなと思い始めました。
    ありがとうございます。
    レポートなどめちゃ大変そうですね、ふぁいとですー
    o(^▽^)o♪

引用返信/返信 削除キー/
■38040 / inTopicNo.4)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/07/27(Sat) 07:52:29)
    2024/07/27(Sat) 07:55:09 編集(投稿者)

    時さん、おはようございます(^○^)
    返信ありがとうございます!

    No38037
    > 多分ですが、出家者全員がそれを観察していたのかというと、そうでもないような気がしますし、出家者に限らず、在家者でもそれを見ていた者もいたと思いますね。当時のインドでは、そういう環境だったのだと思います。<

    そう言われてみれば、戦国時代や戦時中の日本でも、死や死体が身近にあったものだったろうな、と思いました。
    殺される確率も高そう...

    今の自分がいる環境が当たり前に思えるけど、そんなことは全然ないんだなと思いました。

    これも無常の想(今訳してる経典の原語は「Aniccasannanhi」で光明寺さんは「無常想」と訳されています。)となるのかなぁと思いました。

    【光明寺経蔵さんの訳】
    「なぜならラーフラよ、あなたが無常想という修習をおさめたなら、およそかの我慢が捨断されるからです。」
    (原文)※記号省略
    Aniccasannanhi te, rahula, bhavanam bhavayato yo asmimano so pahiyissati
    https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmjp/mn07/mn07c04.files/sheet001.htm

    光明寺経蔵さんが『我慢』と日訳されている原語は「asmimano」。直訳としては「私という比較」みたいな感じかなとpipitが勝手に思ってきますが全然違ってたらすみません m(_ _)m
    『我慢』(asmimano)をwikiで見ました。一部を引用します。
    『我慢(がまん)とは、仏教の煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のこと。
    四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。仏教では人間を固定的な実体として捉え、自己に執着(しゅうじゃく)することを我執(がしゅう)といい、その我執から、自分を高く見て他人を軽視する心をいった。』


    > そして、長部34経 十増経には、九想(不浄想、死想、食厭逆想、一切世間無喜想、無常想、無常苦想、苦非我想、捨断想、離貪想)が説かれているようです。この中の、死想(生命への欣求に対して厭逆が確立)は、増支部7-49に一応の説明があるようですよ。
    >
    > 大念処経での死体の変化の観察での不浄想(観)や無常想(観)の修習を行い、九想の中の死想も修習するのですね。
    >
    > 仏陀は、この世の一切を尊重しないと言っていますので、生への執着も無いようです。これは死にたいという意味ではありませんで、より生きたいという思いから遠ざかるという境地を目指すのだと思います。これでも仏陀の言う不死の境地に近づけると思いますよ。
    >
    > マイペースで学んで行ってくださいね。^^

    ありがとうございます!
    今回も兄上の書き込みから調べていく過程で学びがたくさんありました。
    執着を手放す分だけ苦も減るんだろうなぁ

    少しずつでも、自分にできることを楽しみながら実践できたら最高だな!と思いました
    (#^.^#)

引用返信/返信 削除キー/
■38038 / inTopicNo.5)  Re[45]: pipitさんへ
□投稿者/ 田秋 -(2024/07/27(Sat) 07:26:17)
    pipitさん、時さん。おはようございます。
    横レス失礼します。

    前期受講した「災害社会学」の教科書から引用です。

    「3.11の大震災後スリランカを訪れて調査をしているとき、あることが気になっていた。〜中略〜スリランカでは4万人の津波犠牲者を出したが、スリランカの慰霊碑を現地で見ると、電車に乗っていた乗客が津波に飲み込まれる様子がリアルに描かれていた。それだけでなく、当時の新聞のスクラップを調査同行者から差し出されてみて見ると、そこには大きく津波によって流された遺体がそのままのすがたで掲載されていて、現地の人に聞いてもそれは当然だという答えしか返ってこなかった」
    (印刷教材「災害社会学」 金菱清著 2022年第2刷 放送大学教育振興会発行 P255)

    この講義は東日本大震災を講師金菱清の視点から検証したものです。その中で、東日本大震災で流されて死亡し、その後発見された沢山の方の遺体が体育館に並べられていて、そこへ行方不明になった家族を探しに行くという場面が報告されています。そこは遺体の<安置>という状態ではなく、まだ顔も泥で汚れた状態であったそうです。

    上記の例は死体を観察するというのとは違いますが、スリランカでは遺体に対する感覚が日本とは違うんだなと思いましたし、行方のわからない家族の安否をそういう所で確認するというのも、日常では決して経験できないことで、でもそれをしなければならないという状況に、ある種の極限状況を感じました(決してその気持ちがわかったということではありません)。

    日本で死体と対面するのは肉親の死ではありますが、それ以外、報道などで遺体を掲載或いは放映することはなくなりました。しかしそうなったのはそう昔のことでもありません。三島由紀夫の自殺、川端康成のガス自殺、御巣鷹山での飛行機墜落の現場などの写真は新聞やフライデーに載っていた記憶があります。

    ボクも死者を観察するということはありませんが、肉親や親戚や知人の死を経験することで何となく死を観察(他人の死を経験)しているのだと思います。

    (全く別件ですが、アートポットさん、災害社会学について感想を聴かせ欲しいという書き込みを忘れている訳では決してありません)
引用返信/返信 削除キー/
■38037 / inTopicNo.6)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/07/27(Sat) 00:31:12)
    pipitさんへ。二回目のこんばんは。返信をありがとうございます。

    No38035に返信(pipitさんの記事)

    > 死体が置かれている墓地にいて、様々な状態の死体を観察して、(私も他人も確実にそうなる)と観るのかな、やっぱり出家者はすごいな、と思いました。
    > ありのままの事実から目をそらさない心意気...
    > おっしゃるように、不浄観と無常がセットになっていますね!
    > 迫力あります....
    > 生ぬるい私にはまだまだまだまだまだまだまだまだ無理っぽいです....

    多分ですが、出家者全員がそれを観察していたのかというと、そうでもないような気がしますし、出家者に限らず、在家者でもそれを見ていた者もいたと思いますね。当時のインドでは、そういう環境だったのだと思います。

    そして、長部34経 十増経には、九想(不浄想、死想、食厭逆想、一切世間無喜想、無常想、無常苦想、苦非我想、捨断想、離貪想)が説かれているようです。この中の、死想(生命への欣求に対して厭逆が確立)は、増支部7-49に一応の説明があるようですよ。

    大念処経での死体の変化の観察での不浄想(観)や無常想(観)の修習を行い、九想の中の死想も修習するのですね。

    仏陀は、この世の一切を尊重しないと言っていますので、生への執着も無いようです。これは死にたいという意味ではありませんで、より生きたいという思いから遠ざかるという境地を目指すのだと思います。これでも仏陀の言う不死の境地に近づけると思いますよ。

    マイペースで学んで行ってくださいね。^^
引用返信/返信 削除キー/
■38035 / inTopicNo.7)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/07/26(Fri) 23:19:05)
    兄上様、こんばんはー(o^^o)

    No38034
    > 前回と合わせると、不浄観と無常観の修習となりますね。
    >
    > 長部22経の大念処経には、身随観として九段階の死体の観察があります。我が身と比べつつ、死体を九段階に分けて観察するというものですが、これらの九段階の夫々単体だけならば不浄観の修習となり、全体としての連続で無常観の修習となります。
    >
    > 実際には現代の日本で死体の観察はできないのですが、当時のインドでは出来たのでしょうね。<

    少し検索して、「り @脳内多動が止まらない」さんの記事を恐る恐る読みました。

    『世にも禍々しい「タイの死体博物館」に行って、仏教の死生観について考えた話』
    ※『今回の記事はかなりショッキングな描写を含みます。写真や動画は掲載していませんが、苦手な方はご遠慮ください。』とのことです。
    https://note.com/rio_nounaitadou/n/n0c4ff18ff792

    死体が置かれている墓地にいて、様々な状態の死体を観察して、(私も他人も確実にそうなる)と観るのかな、やっぱり出家者はすごいな、と思いました。
    ありのままの事実から目をそらさない心意気...
    おっしゃるように、不浄観と無常がセットになっていますね!
    迫力あります....
    生ぬるい私にはまだまだまだまだまだまだまだまだ無理っぽいです....
引用返信/返信 削除キー/
■38034 / inTopicNo.8)  Re[42]: 中部経典62経「大ラーフラ教誡経」
□投稿者/ 時 -(2024/07/26(Fri) 21:31:58)
    pipitさんへ。こんばんは。

    No38033に返信(pipitさんの記事)

    > 無常を瞑想なさい。無常を瞑想すれば、「私は」という自惚れが捨てられるから。

    前回と合わせると、不浄観と無常観の修習となりますね。

    長部22経の大念処経には、身随観として九段階の死体の観察があります。我が身と比べつつ、死体を九段階に分けて観察するというものですが、これらの九段階の夫々単体だけならば不浄観の修習となり、全体としての連続で無常観の修習となります。

    実際には現代の日本で死体の観察はできないのですが、当時のインドでは出来たのでしょうね。
引用返信/返信 削除キー/
■38033 / inTopicNo.9)  Re[41]: 中部経典62経「大ラーフラ教誡経」
□投稿者/ pipit -(2024/07/26(Fri) 21:07:34)
    No38032を日訳しました。

    無常を瞑想なさい。無常を瞑想すれば、「私は」という自惚れが捨てられるから。
引用返信/返信 削除キー/
■38032 / inTopicNo.10)  Re[40]: 中部経典62経「大ラーフラ教誡経」
□投稿者/ pipit -(2024/07/26(Fri) 20:45:07)
    次の英訳です。

    Meditate on impermanence. For when you meditate on impermanence any conceit ‘I am’ will be given up.
引用返信/返信 削除キー/
■38031 / inTopicNo.11)  Re[39]: 中部経典62経「大ラーフラ教誡経」
□投稿者/ pipit -(2024/07/26(Fri) 20:44:02)
    みなさまこんばんは。No38028を日訳しました。

    不浄さを瞑想なさい。君が不浄を瞑想するとき、どんな欲望も捨て去られるから。
引用返信/返信 削除キー/
■38028 / inTopicNo.12)  Re[38]: 中部経典62経「大ラーフラ教誡経」
□投稿者/ pipit -(2024/07/26(Fri) 17:53:53)
    hanaさんありがと!
    がんばって日訳するぞー p(^_^)q ....後で....☆彡

    Meditate on ugliness. For when you meditate on ugliness any lust will be given up.
引用返信/返信 削除キー/

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