■38040 / inTopicNo.4) |
時さんへ
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□投稿者/ pipit -(2024/07/27(Sat) 07:52:29)
| 2024/07/27(Sat) 07:55:09 編集(投稿者)
時さん、おはようございます(^○^) 返信ありがとうございます!
■No38037 > 多分ですが、出家者全員がそれを観察していたのかというと、そうでもないような気がしますし、出家者に限らず、在家者でもそれを見ていた者もいたと思いますね。当時のインドでは、そういう環境だったのだと思います。<
そう言われてみれば、戦国時代や戦時中の日本でも、死や死体が身近にあったものだったろうな、と思いました。 殺される確率も高そう...
今の自分がいる環境が当たり前に思えるけど、そんなことは全然ないんだなと思いました。
これも無常の想(今訳してる経典の原語は「Aniccasannanhi」で光明寺さんは「無常想」と訳されています。)となるのかなぁと思いました。
【光明寺経蔵さんの訳】 「なぜならラーフラよ、あなたが無常想という修習をおさめたなら、およそかの我慢が捨断されるからです。」 (原文)※記号省略 Aniccasannanhi te, rahula, bhavanam bhavayato yo asmimano so pahiyissati https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmjp/mn07/mn07c04.files/sheet001.htm
光明寺経蔵さんが『我慢』と日訳されている原語は「asmimano」。直訳としては「私という比較」みたいな感じかなとpipitが勝手に思ってきますが全然違ってたらすみません m(_ _)m 『我慢』(asmimano)をwikiで見ました。一部を引用します。 『我慢(がまん)とは、仏教の煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のこと。 四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。仏教では人間を固定的な実体として捉え、自己に執着(しゅうじゃく)することを我執(がしゅう)といい、その我執から、自分を高く見て他人を軽視する心をいった。』
> そして、長部34経 十増経には、九想(不浄想、死想、食厭逆想、一切世間無喜想、無常想、無常苦想、苦非我想、捨断想、離貪想)が説かれているようです。この中の、死想(生命への欣求に対して厭逆が確立)は、増支部7-49に一応の説明があるようですよ。 > > 大念処経での死体の変化の観察での不浄想(観)や無常想(観)の修習を行い、九想の中の死想も修習するのですね。 > > 仏陀は、この世の一切を尊重しないと言っていますので、生への執着も無いようです。これは死にたいという意味ではありませんで、より生きたいという思いから遠ざかるという境地を目指すのだと思います。これでも仏陀の言う不死の境地に近づけると思いますよ。 > > マイペースで学んで行ってくださいね。^^
ありがとうございます! 今回も兄上の書き込みから調べていく過程で学びがたくさんありました。 執着を手放す分だけ苦も減るんだろうなぁ
少しずつでも、自分にできることを楽しみながら実践できたら最高だな!と思いました (#^.^#)
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