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■39691 / inTopicNo.1)  返礼
  
□投稿者/ パ二チェ -(2024/11/23(Sat) 21:03:12)
    No39687に返信(knowingitselfさんの記事)
    > 更新ありがとうございます

    どういたしまして。

    > 大事に書き込んでいきます

    ありがとうございます。
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■39680 / inTopicNo.2)  「ポギーとベス」
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/23(Sat) 13:13:51)
    「ポギーとベス」については、ジャズヴォーカルとしても、ミュージカルとしても楽しめる。

    マイルスディビスがギルエヴァンスの共同作業である「ポギーとベス」編曲は、マイルスファン、エヴァンスファンなら愛聴しているでしょう。

    クラシックのオペラとしてなら、ロリンマゼールとクリーブランド管による「ポギーとベス」全曲盤が、本格的なオペラとして完成度が高いとされています。昔聴いて感度したのを覚えています。

    クリーブランド管というのは、クラシックファンなら知っているように、

    春の祭典をはじめてとするストラビンスキー、マーラー、ベートーヴェン、ブラームスなどで、緻密で完成度の高い演奏を数多く残しているアメリカのオーケストラです。

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■39669 / inTopicNo.3)  「信仰とは、・・・確かな知識である」
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/23(Sat) 07:35:30)
    > カルヴァンによる「信仰」の定義
    >
    >
    > 信仰とは私たちへと向けられた神の慈しみについての着実で確かな知識である。それは、キリストにおける神の恵み深い約束の真実に基づいており、聖霊によって私たちの理性に啓示されると共に、私たちの心にはっきり刻印されるのである。
    >
    > 「神学のよろこび」アリスター・E・マクグラス p72


    知識、意識、認識。識という漢語の意味形成場は日本語の中に張りめぐらされている。

    仏教では、唯識思想を連想されたし。


    信仰が「知識」という場合、東西宗教思想の違いを超えて、かなり通じるところがあるように思われる。


    カルヴァンが「知識」(原語はもちろん違う!カルヴァンも漢字や仏教を想定していたわけではない)で語ろうもしていたのは、心の構造が根本的に変革されることであろうと思われる。仏教の悟りで「識」の全構造が深いところから変革されるのと、それはパラレル。
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■39659 / inTopicNo.4)  オペラと協奏曲
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/22(Fri) 09:18:27)
    ヴァイオリン協奏曲のオーケストラとソリストの関係に近いのかな。

    ソリスト一人の音量はオーケストラにかなわないが、ソリストだけ例外的に拡声器を使うとかはない。

    協奏曲のソリストとオーケストラの関係は、オペラにそのままあてはまるようにも思える。


    というより、歴史的にはオペラを追うようにして、器楽のコンチェルトが発展してきたといわれる。

    「声楽を模倣して器楽の奏法が発展していき、他方で器楽の精密さに倣らうように声楽も発展していった、相互に密接に関係は深い」
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■39658 / inTopicNo.5)  カラヤンはカルメンが得意だった
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/22(Fri) 07:56:21)
    ベルリンフィルやウィーンフィルはライブで機械を使って不自然に音を増幅させるか。


    オペラ歌手も同じでしょう。ファンもすぐわかると思う。もちろん、例外中の例外、非常措置のごまかしはあるかもしれません。


    一流のオーケストラと対等に渡り合える音をホールに響かせるのが超一流の歌手のあかし。超一流でなく無名の人でも、クラシックの歌唱を叩き込まれている人はオーケストラに埋没しないでしょう。

    そういえば、カラヤンはカルメンが得意でした。

    ベルリンフィルを鳴らし切って、超一流の歌手ばかり集めていた。
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■39642 / inTopicNo.6)  「信仰とは、・・・確かな知識である」
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/21(Thu) 07:30:21)
    > カルヴァンによる「信仰」の定義
    >
    >
    > 信仰とは私たちへと向けられた神の慈しみについての着実で確かな知識である。それは、キリストにおける神の恵み深い約束の真実に基づいており、聖霊によって私たちの理性に啓示されると共に、私たちの心にはっきり刻印されるのである。
    >
    > 「神学のよろこび」アリスター・E・マクグラス p72より引用

    トランプ時期大統領と石破首相の共通点は?

    カルヴァン派のクリスチャンであることです。意外かな?

    それはともかく、上記のカルヴァンからの引用で注目すべきは、

    「信仰とは、・・・・・・確かな知識である」

    邦訳しか手元にないので原文のニュアンスを確認できませんが、一般的にいってこれはなんらおかしくありません。カトリックの伝統でも「知解する信仰」は基本路線です。
      
    現代の日本人なら、信仰とはわけのわからない世界へのジャンプだ、闇雲の妄信だ、非合理的な跳躍だ、などととらえるのが普通の感覚かもしれないが。
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■39611 / inTopicNo.7)  コーヒー
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/19(Tue) 15:18:27)
    コーヒー好きが多いようなので、私もちょっと書きます(笑)。

    コーヒーは美味しいけれど体に悪いと思い込んでいた時期がある。

    さらに、ブラックより砂糖やミルクを入れた方が体に優しいのかと、これまた非科学な刷り込みを抱えていた。

    ところが、最近の医学や栄養学の知見は全然違うようです。

    コーヒーくらいあらゆる病気の死亡率を下げる飲食物は他に少ないというエビデンスに裏打ちされた研究もちらほらみられる。

    他方、砂糖ほど体に悪いものはないくらいのこともいわれる。


    よって、コーヒーの健康効果をえるにはブラックに限ると。

    この二年くらい、コーヒーを飲むときはブラック限定にしているが、自分としてはミルクや砂糖入りより健康効果は確実にあると言い切れます。
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■39599 / inTopicNo.8)  Re[66]: 定量と定性
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/19(Tue) 07:08:28)
    形而上学の不可避性というのはこういことです。

    たとえば、

    誰も産みの母親は一人しかいない。現在地球に生きる八十数億人、誰一人例外はない。

    有史以来の無数の人間についても同じ。

    それなのに、個人的な関係を超えて、見聞覚知できる有限の実例を超えて、「母なるもの」「母性」を考えることは不可避であって、何ら悪いことではない。

    例として「母性」をあげたが、他の場合でも原理は同じだと思う。言語をつかって自分の経験を抽象化一般化するのが人間の本質であることを誰も否定できない。

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■39560 / inTopicNo.9)  定量と定性
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/17(Sun) 15:51:11)
    >どういうことかといえば、社会や生活はほとんどが定量性による計測の原理で動いている。

    >経済、金融、貿易、政治、財政、医学、農業、栄養学、コンピュータ、エネルギー、福祉、その他。例外はどこに?

    数の観念や計算、数学の発展があったから、定量性によって現実世界の中でフィードバックをかけながら、文明を推し進めることが可能になったわけだ。

    言葉そのものは本来、定性的な表現や切り取りしかできない。「仏性」「仏」「煩悩」「ドーサ」「涅槃」「輪廻」、いずれもそう。言葉を使うところ、形而上学は不可避だろう。

    仏教を形而上学といって怒る人がいるなら、まったくの見当違いだと思う。

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■39527 / inTopicNo.10)  形而上学批判
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/16(Sat) 07:20:46)
    形而上学ということなら、欧米でも日本を含めた東アジアでも、現代文明は非形而上学が基本になっている。

    どういうことかといえば、社会や生活はほとんどが定量性による計測の原理で動いている。

    経済、金融、貿易、政治、財政、医学、農業、栄養学、コンピュータ、エネルギー、福祉、その他。例外はどこに?


    これに比べれば、「仏教」などの方が遥かに形而上学的だと思える。

    どちらも批判する意味はまったくないが。現代文明といっても、これを支える「人間」中心主義は形而上学だ、そうとしか言えない。
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■39512 / inTopicNo.11)  カント哲学の枠組みなら
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/15(Fri) 18:50:36)
    >ランニングしているのはただ一人となる。、
    ただ、ランニングのとき周囲の風景の流れ方が八十数億通りあることになる。

    カント哲学なら、ランナー=物自体
            風景=現象

    になると思う。ランナーについては理性は認識できないというのが「純理」

    道徳律からランナーに触れることはできる。


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■39509 / inTopicNo.12)  「ドーサ」
□投稿者/ knowingitself -(2024/11/15(Fri) 14:05:09)
    >現在の世界人口が八十数億人だとするなら、ランニングしているのはただ一人となる。、
    ただ、ランニングのとき周囲の風景の流れ方が八十数億通りあることになる。

    仏教的な怒りの基本感情、つまり、「ドーサ」というのは、自分の目の前に流れる風景が「イヤだ、見たくない」という感情でしょう。

    世界の変化や多様性を受け入れたくない、イヤだ!という感情といってもいいかもしれない。欲望によって多様性を貪るのとはもちろん違います。貪るのでなくサラサラと受け入れるのが賢いのに、それができない、難しい!貪りと怒りは表裏一体でしょう。
引用返信/返信 削除キー/

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