TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

168時間以内に投稿された新着記事


■37254 / )  Re[1]: 温情型自由主義を生きる part3
□投稿者/ アートポット -(2024/05/05(Sun) 23:58:12)
    こんばんは、パニチェさん

    トピック建立ありがとうございます。m(__)m マッタリ福祉ライフを綴って行きます。ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
返信/引用返信 削除キー/

■37253 / )  温情型自由主義を生きる part3
□投稿者/ パニチェ -(2024/05/05(Sun) 21:26:07)
    トピ主:アートポットさん

    No30566

    パターナリスティックリバタリアン(温情型自由主義を生きる)
    アーキテクチャ(建築構造と経営せん略を考える)

    よろしくお願いします。
返信/引用返信 削除キー/

■37252 / )  トピック依頼
□投稿者/ アートポット -(2024/05/05(Sun) 20:08:12)
    こんばんは、パニチェさん いつもありがとうございます。

    トピック建立依頼です。

    温情型自由主義を生きる part3

    をお願い致します。
    ゴッドファーザーpart3という映画が好きなので大文字でも小文字でも良いのでpart3をつけて下さい。よろしくお願いいたします。
    m(__)m。
返信/引用返信 削除キー/

■37251 / )  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/05/05(Sun) 16:30:15)
    2024/05/05(Sun) 16:30:52 編集(投稿者)

    うましかさん、お久しぶりです!

    No37244
    > あーもう五月にはいってしまった、、、やっとカント沼に浸かれる時間が、、、でもまた明日から、ジゴクの日々…(´;ω;`)ウゥゥ<

    おつかれさまです−
    私もできることなら一日中、本などを読んだり考えたり好きな事をしたいと思うけど、現実はしなくてはならない事がいっぱいでてきちゃいますよね
    ( ; ; )アァ

    今日はうましかさんの好きなことが、もしもできていたのなら、うれしいなと思いました♪

    > ◇ ところが、たとえア・プリオリな純粋認識の可能的演繹の唯一の様式、つまり超越論的な道をたどる演繹の様式が認められるとしても、このことによってはまさしく、この様式がかくも不可避的に必然的であるこということは明白ではない。<



    > ◇先に私たちは、空間及び時間の概念を超越論的演繹によってその源泉にまで追求し、そのア・プリオリな客観的妥当性を説明し規定した。
    >
    > ◇ にもかかわらず、幾何学は空間という根本概念の純粋で合法則的な素性に関して哲学に証明書を懇願するまでもなく、自身の確実な歩みを純然たるア・プリオリな認識を通じてたどっているのである。<

    空間概念は直観的に現実として得られるからかな??

    > ◇ しかしながら、この概念の使用はこの幾何学において〔も〕外なる感性界〔aussere Sinnenwelt外的感覚界〕にのみ関わるのであり、外なる感性界については空間はその直観の純粋形式であり、故にこの外なる感性界〔外的感覚界〕においては、全ての幾何学的認識はア・プリオリな直観に根拠づけられているので、直接的な明証性を持つ。また、その〔幾何学の〕諸対象は、その認識自身を通じてア・プリオリに(その形式に関して)直観において与えられるのである。<

    ウゥ、先ほど表を作って今抜け殻になっているので、よく考えられませんが、
    外なる感性界?
    あ、外的直観のことなのかなぁ?
    外的直観の純粋形式に根拠を持つ概念は、外的直観として表現することが可能ということ??
    全然違うかなぁ

    うましかさんはすごくお忙しそう、、、
    私は明日から仕事再開で、、、
    案外自由時間が出来ると良いんですけど、、、

    書き込みありがとうございます!
返信/引用返信 削除キー/

■37250 / )  Re[11]: パニチェの密かな楽しみ(・∀・)
□投稿者/ うましか -(2024/05/05(Sun) 16:01:22)
    パニチェさん、こんにちはー

    投稿ありがとうございますm(__)m

    No.37248

    >西田凌佑がエマヌエル・ロドリゲスからIBF王者を奪取!

    これは、思わずエッとびっくりしました(;・∀・)

    >サウル・カネロ・アルバレス vs ハイメ・ムンギア

    これは、今日だったんだ! とびっくりしました(;゚Д゚)

    >武居由樹がジェイソン・マロニーからWBO王者を奪取すれば

    これは、武居のパンチ力がどれくらい通用するかによってあり得るとおもっています。がんばれ武居〜

    >井上拓真 vs 石田匠

    日本人同士の戦いは、きっと熱い戦いになると期待しています! (/・ω・)/

    おまけ

    >那須川天心

    次戦次第かな。。。(;´・ω・)



    では〜(・∀・)









返信/引用返信 削除キー/

■37249 / )  図式の表を作ってみた日記
□投稿者/ pipit -(2024/05/05(Sun) 15:40:33)
    2024/05/05(Sun) 15:51:39 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは!

    No37159,37224,37226 の箇所の御子柴善之先生の訳を引用させていただきます。(pipitの日訳は間違えているかもなので…しかもNo37226は日訳もしてませんけど…)

    この箇所や前後の箇所から自分で考えて表を作ってみたので投稿いたします。
    写真はWikipediaより、カントのイラストはいらすとやさんからコピペして使わせていただきました。

    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cat_poster_1.jpg
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Grus_japonensis_in_flight_at_Akan_International_Crane_Center.jpg
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Triangle_illustration.svg
    https://www.irasutoya.com/


    (御子柴先生訳のカントの文章)※番号は御子柴先生による挿入

    『@私たちの悟性のこのような図式機能は、諸現象とそのたんなる形式にかんして言うなら、人間の魂の深みにある隠された技である。この技の本当のこつのなんたるかを、私たちがいつか自然から察知し、覆い隠されることなく眼前に捉えることは困難であろう。

    A私たちに言うことができるのは、次のことだけである。形像は、産出的構想力の経験的能力の産物であり、感性的概念の図式(空間における図形)は、ア・プリオリな純粋構想力の産物であり、いわば組み合わせ文字(モノグラム)である。形像は、こうした産物を介し組み合わせ文字をなぞることで、はじめて可能になる。したがって、形象はつねに図式---形像はこの図式の特徴を表示する---を介してのみ概念と結び付けられねばならず、それ自体ではけっして概念と一致しない。

    Bこれらに対して、純粋悟性概念の図式は、けっして形像化されえないようなものであり、もっぱら、概念一般に従った統一の規則---カテゴリーはこの規則を表現するものである---に適った純粋総合であり、また構想力の超越論的な産物である。
    この超越論的な産物は、内官一般の形式の条件(時間)に従った規定に関係する、すなわち一切の表象---それらが統覚の統一に適ってア・プリオリに一つの概念の中で連関するはずである限り---に関して、関係する。(A141f./B180f.)』
    (『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p250より引用)
905×492 => 600×326

zusikineko.jpg
/102KB
返信/引用返信 削除キー/

■37248 / )  パニチェの密かな楽しみ(・∀・)
□投稿者/ パニチェ -(2024/05/05(Sun) 14:15:20)
    2024/05/05(Sun) 14:44:23 編集(投稿者)

    明日のスーパーバンタム級世界統一王者 井上尚弥 vs ルイス・ネリももちろん楽しみだけど。。。

    5月4日、5日にも2日続けて凄い試合があった。

    5月4日は大方の予想を覆して西田凌佑がエマヌエル・ロドリゲスからIBF王者を奪取!4Rに左ボディを打ち込んでロドリゲスからダウンを奪い、激戦を制して予想外3-0大差の判定勝ち。

    5月5日はメキシカン同士の新旧スター対決。
    四団体世界スーパーミドル級統一王者 サウル・カネロ・アルバレス vs ハイメ・ムンギア(43戦無敗34KO)。初回から最終ラウンドまで、壮絶な打ち合いの結果、カネロの判定勝ち!


    明日の世界バンタム級ダブルタイトルマッチも見もの

    WBA王者 井上拓真 vs 石田匠
    WBO王者 ジェイソン・マロニー vs 武居由樹

    明日、武居由樹がジェイソン・マロニーからWBO王者を奪取すれば。。。。

    WBC王者 中谷潤人
    (2024年2月24日 アレハンドロ・サンディアゴより奪取)
    IBF王者 西田凌佑
    (2024年5月4日 エマヌエル・ロドリゲスから奪取)

    世界バンタム級の四団体王者を4人の日本人が制圧する歴史的な日となる。

    バンタム級には以下の強豪も控えてる
    那須川天心
    堤聖也
    増田陸

    世界バンタム級統一王者に向けた日本人同士によるサバイバルマッチがチョ−楽しみ♪

    https://www.youtube.com/watch?v=gRgXklHjHqU&t=205s

返信/引用返信 削除キー/

■37247 / )  Re: 木村敏「こと」としての生と死
□投稿者/ うましか -(2024/05/05(Sun) 12:51:16)
    2024/05/05(Sun) 13:53:24 編集(投稿者)
    2024/05/05(Sun) 12:56:03 編集(投稿者)

    ◇ 土屋 創『カントにおける「二重の固有性」の問題』,2022年

    https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2005746

    *******

    >デカルトのcogitoがもつ「私には<私が…する>と思われる」という「主体の二重構造」っておもしろいですね(;´・ω・)〔 No.37191

    土屋論文は、カントが例えば「義務の遂行という契機において」、人間をヌーメノンとフェノメノンとしての二重の固有性において捉えたとしています。p.87の注における土屋の説明にはこうあります。

    >フェノメノン(phaenomenon)は「現象〔体〕」と訳され、感官との関係における対象を意味するとともに、実践にかかわる文脈においては、自分自身やその行為を自然法則(他律)のもとにあると考える際のそれらのあり方を意味する。他方、ヌーメノン(noumenon)は「可想体」、「本体」と訳され、感官の客観にはならない可能的なある物を意味するとともに、実践に関する文脈においては、自分自身やその行為を自然から独立した、理性だけに基づいている法則のもとにあると考える際のそれらのあり方を意味する(cf. W 452)。<

    *******

    デカルトによるCogitoの「主体の二重構造」から、後世のカントによる人間の「固有の二重性」(ヌーメノンとフェノメノン)へ。これらには何らかの関係があるのかどうか…ふと思いつきの疑問でした(;´・ω・)

    【追記】

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/itetsu/35/0/35_42/_article/-char/ja

    >長井が「発見」したように、デカルトのコギトすなわち「私が見ていると私に思われる」videre videor の中には、自分というノエシス的主体が同じく自分というノエマ的客体を(ある意味で)感じとっているという中動態的な構造が認められる、ということに他ならない。< 〔木村論文, p.43〕

    ノエシス、ノエマは↓

    https://tetsugaku-chan.com/entry/Husserl


    デカルト〜カント〜フッサール〜、、、そしてアンリ、或いは長井(;´・ω・)

    難し過ぎる… ((+_+))


返信/引用返信 削除キー/

■37246 / )  Re[9]: 生成ゴースト(;゚Д゚)
□投稿者/ うましか -(2024/05/05(Sun) 12:27:15)
    ・もし私うましかが生前から生成AIと対話を繰り返したら、そのAIは「うましか」の思考の仕方や記憶をほぼ所有することができるような、そういう時代は目前かもしれない

    ・私うましかがやがてこの世から消滅しても、AIうましかは半永久的に存在し続けることができる、、、そうした技術はいずれ可能になるとおもわれる

    ・だが、これは私うましかが「死なない」ということではないだろう

    ・少なくともAIうましかが「うましか」と(さしあたりでも)同定されるには、対話相手である第三者の存在が不可欠だとおもわれる

    ・つまり対話相手の、例えばいのしか氏が、実はAIうましかであるうましかと話して、私うましかだと違和感なくやり取りできねばならないのではないか

    ・しかし、こう考えると、生成AIが発達すればするほど、音声や画像・動画の情報だけでは信用できない(そもそも「信用」とはなにか)

    ・けっきょく、モノ=身体回帰になっていくのだろうか?


返信/引用返信 削除キー/

■37245 / )  うましかの密かな楽しみ(・∀・)
□投稿者/ うましか -(2024/05/05(Sun) 11:54:15)
    明日はボクシングSB級統一王者の井上尚弥に、ルイス・ネリが挑戦! (/・ω・)/




返信/引用返信 削除キー/

■37244 / )  超越論的分析論\−7
□投稿者/ うましか -(2024/05/05(Sun) 11:35:24)
    2024/05/05(Sun) 11:36:06 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー

    お久しぶりですm(__)m


    あーもう五月にはいってしまった、、、やっとカント沼に浸かれる時間が、、、でもまた明日から、ジゴクの日々…(´;ω;`)ウゥゥ


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに〔全ての経験に完全に依存せずに 〕対象と連関するという点においては互いに一致している。
    それら〔二種類の概念〕とは、つまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。
    これらの諸概念〔空間・時間、カテゴリー〕について、経験的〔経験による〕演繹〔根拠づけ、権利づけ〕を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の本性の特質とは、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである。
    それ故、もしこれらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう。

    ◆ しかしながら、私たちは、これらの諸概念についても、全ての認識についてと同様、それらの可能性の原理を探し出すのではない場合には、それらの産出の機会因をやはり経験において探し出すことができる。その時には感官の印象が、これらの諸概念に関する全認識能力を活動せしめ、経験をせしめる最初の機縁を与える。
    この経験は、二つの極めて異種的な要素、すなわち、感官に基づく認識のための実質〔質料〕≠ニ、純粋な直観〔作用〕及び純粋な思考〔作用〕の内的源泉に基づきこの実質〔質料〕を秩序づける、或る種の形式≠ニを含んでいる。こうした純粋な直観〔作用〕と純粋な思考〔作用〕は、実質〔質料〕を機会として、まず活動をはじめ、そして概念を産み出すのである。
    私たちの認識力〔Erkenntniskraft〕が、個々の知覚から普遍的概念へと高まろうとする最初の努力をこのように跡付けてみることは、疑いなく極めて有益なことであり、そのための道が初めて開かれたのは、あの有名なロック〔John Locke, 1632-1704〕≠フおかげであるとしなければならない。
    しかしながら、ア・プリオリな〔全ての経験に完全に依存しない 〕諸純粋概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹〔根拠づけ、権利づけ〕≠ヘ、ロックの開いた道によっては決して成功することはない。何故なら、ア・プリオリな諸純粋概念の演繹は、徹頭徹尾この道にはないからである。
    というのも、経験には全面的に依存してはならないそうしたア・プリオリな諸純粋概念の将来の使用について、これらの諸純粋概念〔空間と時間、カテゴリー〕は、経験からの血統を示す出生証明書を示すことができなければならないからである。このような生理学的な〔physiologische〕導出の試みは、事実の問題(quaestionem facti)に関するので、そもそも演繹〔根拠づけ、権利づけ〕とは全く呼ばれることができないのである。なので、私はそうした導出を純粋認識の所有〔Besitzes〕≠フ説明と呼ぼうと思う。
    従って明瞭なのは、この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕のみがあり得るのであって、経験的演繹は断じてあり得ないということであり、また、経験的演繹は、ア・プリオリな諸純粋概念に関しては、空しい試み以外の何ものでもなく、そうした試みに携わることができるのは、こうした純粋認識の極めて特異な本性を理解していない人だけでしかあり得ないということである。

    ―― No.36646,36657,36908 の続き ---

    ◇ ところが、たとえア・プリオリな純粋認識の可能的演繹の唯一の様式、つまり超越論的な道をたどる演繹の様式が認められるとしても、このことによってはまさしく、この様式がかくも不可避的に必然的であるこということは明白ではない。

    ◇先に私たちは、空間及び時間の概念を超越論的演繹によってその源泉にまで追求し、そのア・プリオリな客観的妥当性を説明し規定した。

    ◇ にもかかわらず、幾何学は空間という根本概念の純粋で合法則的な素性に関して哲学に証明書を懇願するまでもなく、自身の確実な歩みを純然たるア・プリオリな認識を通じてたどっているのである。

    ◇ しかしながら、この概念の使用はこの幾何学において〔も〕外なる感性界〔aussere Sinnenwelt外的感覚界〕にのみ関わるのであり、外なる感性界については空間はその直観の純粋形式であり、故にこの外なる感性界〔外的感覚界〕においては、全ての幾何学的認識はア・プリオリな直観に根拠づけられているので、直接的な明証性を持つ。また、その〔幾何学の〕諸対象は、その認識自身を通じてア・プリオリに(その形式に関して)直観において与えられるのである。

    † 原佑訳上巻、p.238〜p.239参照。 原典はMeiner, p.167〜p.168
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.96〜p.97、石川文康 訳 上巻,p.147〜p.148
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−7 No.37244
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244

返信/引用返信 削除キー/

■37243 / )  昨日
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/05(Sun) 11:26:53)
    昨日、昼前に東京に着き代々木上原へ。昼食は卵とじ蕎麦。1時から弦楽トリオのコンサートを聴く。前半は小品を7、8曲。ボッケリーニ、シベリウス、コダーイ、モーツァルト、リヒャルト・シュトラウス、ガーシュイン、エネスコなど。音楽で世界を巡るというコンセプト。後半はベートーベンのトリオ作品9-2。シンフォニー第1番の前年に書かれたそうだ(知りませんでした)。演奏は楽しめたし、同僚に会えたのも嬉しかった。
    その後上野鈴本へ行き寄席を聞く。寄席は何故か聴くより聞くがピッタリする(あくまで個人的感想)。決してボーっと聞いてるわけでもないのだが、笑うからか?あと、見る要素も多くある。3時間半、中だるみなく聞けた。春風亭一之輔がこれからの落語界を牽引していく気がする。
    その後御徒町デリーへ行ってカシミールカレーを食べた。
    ホテルに10時半ころ戻る。

    只今新幹線の中。

返信/引用返信 削除キー/

■37242 / )  Re[93]: 涙と悪。
□投稿者/ アートポット -(2024/05/04(Sat) 22:10:50)
    No37241に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >故障するまで温風ヒーターを凹凹に<
    >
    > 良かったね。

    こんばんは、悪魔ちゃん

    温風ヒーターにてとても可哀想。本音では。 若い時にガストにていつも安い目玉焼きハンバーグを毎回注文にての節約も今となっては無駄になってにてかもしれないにて。

    被害妄想の為に、このような結果に。
返信/引用返信 削除キー/

■37241 / )  Re[92]: 涙と悪。
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 20:58:05)
    >故障するまで温風ヒーターを凹凹に<

    良かったね。
返信/引用返信 削除キー/

■37240 / )  涙と悪。
□投稿者/ アートポット -(2024/05/04(Sat) 18:52:12)
    故障するまで温風ヒーターを凹凹ににて直後自然に起動準備ににてあわててプラグをはずにて「(温風ヒーターのヤツ、みちづれにって企んでにてとんでもない温風ヒーターにて。。)」

    「(いや、違う、違うなあ。コンセントからプラグをはずさないと危ないよって最後のチカラを振り絞って知らせてくれたんだ。なんて優しい温風ヒーターだ。)」

    でもイライラにて金属バット購入にてもっと徹底的に凹凹ににてやるにょ。って、金属バット購入予算にてもったいないので今はやめとくにょ。

    映画にて始まって瞬時に推理にて豊悦の藤枝梅安って解って、本当ににてマッタリにてにょ。

    もっと金持ちになる恐怖からドリームくじの購入にて躊躇にてけど購入予定にて。
912×1600 => 342×600

IMG_20240422_064228.jpg
/496KB
返信/引用返信 削除キー/

■37239 / )  Re[23]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 18:43:55)
    No37238のつづき、
    【「現象学事典」弘文堂2014】にあったの、前にも一部書いたと思うけど、今回は全部書いとく。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    受動的総合/能動的総合 [(独)passive Synthesis/aktive Synthesis]
    フッサールにおいて総合は意識の原形式であり、その特徴は「流れ去る多様の統一」と規定される。サイコロという統一的対象の知覚は、どの側面から、どの距離で、どの光のもとで、見るか(さらには、どのように触れるかなど)に応じて変化する多様な現れ方を通して、その総合として成立する。この知覚したサイコロをのちに想起するときにも、かつて知覚したサイコロと同一のサイコロの想起であるという同一性の意識は総合にとってつくり出される。こうした個別的意識体験の総合が可能になのは、もともと意識生の全体が総合的に統一化されているからである。この普遍的総合の根本形式はすべてを包括する内的時間意識である。「能動的/受動的」という発生的現象学の基本概念は、以前から使用されていた「顕在的/潜在的」「主題/背景(地平)」などの対概念を力動化したものである。自我はいま見えているサイコロの面前を主題として顕在的に意識していると同時に、裏面を背景として潜在的に意識している。この区別の根拠は自我の関わり方の相違にある。「能動的/受動的」の区別も同様であり、能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。
    能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。受動的総合の基底をなすのは内的時間意識による時間構成であり、キネステーゼによる空間構成とともに総合の形式条件を形成する。実質的条件をなすのは連合法則に従う布置形成である。布置形成によって図と地が分化し、地から浮き上がった図が自我を触発する。自我は図に注目して把握的に対向する。それが触発の受容であり、能動性の最低段階をなす。受動的総合と能動的総合の境界線はここに引かれる。把握する、解明する、関係づけるなどの低次の能動的総合を超えた、数える、述定するなどの高次の能動的総合においては、数や述定的事態がなどのイデア的対象が産出される。能動的総合は作用としてはまもなく過ぎ去るが、その成果は自我極に沈殿し、習慣として妥当しつづける。習慣は第二の受動性として、より高度の能動的総合の土台となる。したがって、すべての能動性に先立つ受動性と能動性に由来する受動性が区別される。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。

    わたしのばあい、
    「自我」を〈考えることする自〉ってしてて、「能動的総合」を〈考知性〉、「受動的総合」を〈感知性〉って言うことにしてるから、

    〔能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕
    の部分、わたし的に言うと、
    《〈考知性〉はとくに〈考えることする自〉的な作用であるに対して、〈感知性〉は〈考えることする自〉の関与なしに〈自ずから〉生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。〈考知性〉はすべて〈感知性〉を土台にして行われる。》
    ってなる。
    〔おのずから〕を〈自ずから〉ってして見たよ。

    ここに出てくる、「内的時間意識」、「触発」、「自我極」っていうの、今回の資料にも出てくるんだけど。
    「キネステーゼ」っていうのは、
    No37189でちょっと書いた。

    現象学に関心がに人にはどうでもいい話しなんだけどね。

返信/引用返信 削除キー/

■37238 / )  Re[22]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 15:54:52)
    No37237の感想ね。

    「先-自我的」、「間モナド的」、「先-対象的」、「先-反省的」、「先-言語的」ってあるんだけど、

    (a)の「先-自我的」っていうの、わたしのばあい、〈考えることする前の自〉って見るし、「先-反省的」の「反省」っていうのはたぶんデカルトのだと思うから、だいたい同じようなことなんだと思う。

    (b)にある、
    「間モナド的」は、
    No37183で見たように
    〈間にある、具体的な、生まれつき備わってる、ななかだちする領域的〉、ってなるんだけど、なんか分かりにくい。
    〔受動的で先-自我的な間モナド的原コミュニケーション〕ってあるから、
    〈受動的の領域で、考えることする前の自のような、なかだちする領域での原コミュニケーション、って見たらいいのかな?

    あと、「先-対象的」っていうの「非対象的な他者性」と関連してるようにも見えてて、これ、
    No37211で見たような、「対化」、「非対象化的・非主題化的」を想い出す。

    (d)の「先-言語的」からは、
    No35001の、
    〔フッサールは、この世界を前述語的と名づけ、それを現象学的記述の対象としている。〕みたいなのを想い出してる。

    「受動的総合」ってあるけど、次にちょっと書いとくことにする。

返信/引用返信 削除キー/

■37237 / )  Re[21]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 14:17:12)
    No37109の資料のから見てるんだけど、
    No37236で(5)からのを少し書いたから、つぎに資料(6)のからのを少し書いとく。

    〔フッサールの発生現象学は、20年代からのフッサール現象学の展開を決定づけているが、その内容と方法は、いまだ明確になっていない。この領域は、次第に明らかになっていったという領域そのものの開示のプロセスをもつ。その際、最も重要な契機となったのが、時間構成の分析と、時間内容に重点を置いて深化した時間分析でもある、20年来展開した「受動的綜合の分析」である。この展開に関して興味深いことの一つに、最近公刊された、『時間意識についてのベルナウ草稿』執筆期である1917/18年に、受動的総合の分析の端緒が見出されうることである。〕

    って言うことみたい。

    これもフッサール現象学を研究している人の論みたいなんだけど、やっぱわたしには難しくてよく分かんなかった。

    (6)の中には「原-自我(Ur-Ich)」って言う語は出てきてないんだけど、「先-自我」っていうのが出てきてるところを書き出して見ると、

    ・・・・・・・・・・
    (a)〔間モナド的共同化の能動的な感情移入において、ある人格が他の人格に人格全体で向かうことによって「我と汝の合致」
    が生じうる。しかし、そこでは、自分自身の行動を客観視し、対象化する理論的で反省的態度は、決定的な役割をはたしてはいない。能動的間主観性を基づける受動的で先−自我的な間モナド的原コミュニケーションにおいては、いまだ自我極もそれに相関的な対象極も形成されてはいない。しかも、重要なのは、この能動的相互主観性の頂点に位置する「我と汝の合致」においては、形成ずみの自我極と対象極としての汝が消滅し、融合する、ということである。〕

    (b)〔原初的な流れる先−自我的で先−対象的な時間化において、形式と内容が不可分離に生じているのと同様に、主観的形式と客観的形式の不可分離性は、我と汝の合致にも妥当するのであり、そこでは他者性に帰属する具体的内容が、非対象的な他者性へと転化しているのである。〕

    (c)〔我と汝の合致の超越論的可能性は、対象化する主観と対象化された客観の亀裂の克服である。〕

    (d)〔我と汝の合致が、発生的現象学による、無意識的に働き、先−反省的で、先−言語的に働く自己中心化と身体中心化の発生の解明なしには、その達成が難しいのも当然であるといえよう。〕
    ・・・・・・・・・・

    これについてのわたしの感想は後で。

返信/引用返信 削除キー/

■37236 / )  Re[20]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 10:41:29)
    きょうもお喋りしちゃうよ〜

    No37233のつづき

    いまの話題は、フッサールの言う「原-自我(Ur-Ich)」っていうの、どういうかな?ね。

    No37109の(5)のを少し。

    〔一般にフッサールの発生的現象学は、1920/21年に始まる「超越論的論理学」講義をもってその成立とされる。他方、発生的現象学という方法論の発見あるいは自覚と連動して、「自我」をめぐる思索もまた新たな深まりを見せた。『ベルナウ草稿』は「純粋自我」についての比較的まとまった新たな分析を含むことになった。〕
    ってある。
    わたしのばあい、
    ここにある「自覚」っていうのを、〈自に目覚める〉ってして見るのね。
    「自我」っていうのを、〈考えることする自〉ってして見るのね。
    「純粋自我」は、〈考えることする純粋な自〉ってして見る。
    こうみたとき、『ベルナウ草稿』あたりからフッサールの自我は、〈自〉への思索へ、って見ちゃったりして?

    〔純粋自我に関する限り、その原初的発生がそのまま時間的構成であるとは限らなない。〕
    〔以下の論考では、純粋自我の原初的発生と時間的構成が事柄として別ものであるという可能性に立脚しながら、問題を再構成しつつ、‥‥「内的時間意識」と「原-自我」との間の関係を規定し直すことで、フッサールが原-自我の発見とともに辿り着いた境位を明らかにしたい。〕
    っていうことみたいなんだけど、わたしにはよく分かんなかった。
    「内的時間意識」っていうの、【「現象学事典」弘文堂2014】のなかにあったけど、話がごちゃごちゃしてくるからここでは触れないよ。

    わたしがいちばん気になったのは、
    〔自我は「存在者ではなく、むしろ全ての存在者にとって対を成すもの(Gegenst&#252;ck)」であり、「一つの対象ではなく、全ての対象性にとっての原象(Urstand)」であると言われる(Ibid.,S.277)。このような「原象」としての自我を、フッサールは便宜的に「原-自我(Ur-Ich)」(Ibid.S.286)と呼ぶ。この呼び名が便宜的である理由は、自我は「本来、自我と呼ばれるべきではなく」、「名無し(das Namenlose)」であるからだ(Ibid.S.277f.)。1931年のフッサールの草稿から引用すれば、「機能する自我は、それが機能しているときには匿名的」(Mat.V111,S.53,vgl.auch S.2,7,338)なのである。〕
    っていうところ。
    もうこうなると、「原-自我(Ur-Ich)」、「私(Ich)」、「自我(Ich)」――「私」、「自我」、「Ich」、もうごちゃごちゃになってる感じ。
    もし、「原-自我」っていうのが、人称的な「私(Ich?)」って言うのもでもなく、「自我」って言うでもないんだったら、こういう語を使わず、なんか“そのようなもの”に、別の名前をつけた方がいいんじゃない?って、わたし思うけどね。
    フッサールは、デカルトのやカントのをひきずっていたからかも?ね。

    資料(5)には、「原-自我(Ur-Ich)」、他にもっと書いてあったけどなんかめんどくさくなってきたから書き出すのやめとく。

    (5)からのはひとまずこれだけにしとく。

返信/引用返信 削除キー/

■37235 / )  週刊土曜日
□投稿者/ rest -(2024/05/04(Sat) 09:48:17)
返信/引用返信 削除キー/

■37234 / )  映画の喩え
□投稿者/ knowingitself -(2024/05/04(Sat) 09:17:19)
    多数の登場人物が出演している映画。この自分はその映画の唯一の観客。
    登場人物であるAさんはリアルではどんなに親しくても、映画の登場人物として知りうるのみ。

    一方、Aさんもまた多数の登場人物が出演している映画の唯一の観客であり、この自分はAさんの映画の登場人物でしかない。


    「映画の唯一の観客」という喩えを出したが、三次元空間でスクリーンを眺める観察主というイメージではない。

    わたしがイメージしているのは、厚みのないうすーい二次元のスクリーン。二次元、三次元という語やイメージはあくまで方便なので、二次元といった時点でこれも違うのだが。要するに、次元を書いた直接性。媒介なしの直接性。ここに映画を観る自分がいる。そういうことだ。
返信/引用返信 削除キー/

■37233 / )  Re[19]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:08:02)
    今日はもうちょっと

    No37217で、「自我」、
    No37231で、「自己」(資料の中では、っていうことでね)、
    わたしの目安が出来たところで、

    資料の中をのぞいていって見る。

    No37109の(3)で、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    〔現象学にとって他者が困難な問題となるのは、他者が他者についての私の経験として、〈省察する私〉の反省の俎上にのせられてしまい、〈省察する私〉そのものとの関係で問われることがないからである。フッサールは、『イデーンT』や『省察』において曖昧であった〈超越論的自我〉と〈省察する自我〉との関係に関して、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1954)において、徹底的に首尾一貫した判断中止について言及している。そこでフッサールは、これまで「私の」という人称的意味を密かに冠していた〈超越論的自我〉を「原自我(Ur-Ich)」と呼び、規定し直すのである。フッサールによれば、それは他に呼びようがないので曖昧なまま「私」と呼ばれていたが、それ固有の意味では、「私」という人称的意味をもたない自我極として規定されるものである。〕
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。

    〈超越論的自我〉、この〈超越論的〉っていうの、
    No37157で見たように、〈純粋〉とも言っていいのかな。
    簡単に見て、
    〈超越論的(純粋)自我〉って呼んでいたもの、後で「原自我(Ur-Ich)」って、言い変えた、っていうことなのかな。
    そして、このような「自我(原自我)」っていうの、どうやら、人称的意味の「私」っていうんじゃなくて、って、いうことなのかな。
    ってすると〜、資料(3)の、「私・自我(Ich)」っていうの、じゃないんじゃないの?ってわたし思うけど。

    ここに〈省察する自我〉ってあるけど、わたしの見方では〈省察する考えることをする自〉っていう言い方になるかな。
    そして、その前の(原初の)自、こういうのを、フッサールは「先-自我」とか「原-自我」って呼んだんじゃないかしら?

返信/引用返信 削除キー/

■37232 / )  Re[18]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:00:08)
    そこはかとなく

    誰かに作り出された自分の価値っていうのあるかもね。
返信/引用返信 削除キー/

■37231 / )  Re[17]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 17:21:34)
    連休も再開したことだし、わたしのお喋りも再開〜

    いまは、
    No37109のを読んでて、
    No37212に揚げたようないろんな「私」を見ようとしてるところ。
    あ、わたしのはフッサール現象学を正確に理解することじゃなくて、
    それを手引きとして、わたしのどうしとっこかな〜、っていうの。

    つぎに、「自己」っていうの、どう見とっこっかな、って。

    資料の中で、「自我」と「自己」をどう使い分けてるのか、いくつか探し出して見たよ。

    (3)に、
    「自己移入」「自己統覚」「自我の自己構成」「自己時間化」
    (5)に、
    「反省以前に自己感触が機能していた」「自我の自己感触」
    (6)に、
    「内的時間による自己構成」「自己自身」
    ってあるのね。

    たとえば、(3)の「自我の自己構成」みたいに、「自我」と「自己」は区別されてる。
    日本語で考えて見るんだけど、
    「自我」「自己」の区別は「我」と「己」の違い。
    で、いろいろ考えたんだけど、いまんとこ、
    資料の中での「己」っていうのを〈体〉ってして見て、
    「自己」≒〈自体〉ってして、見ようとしてる。
    こう見たとき、「私自身」となんか似てる感じだから、
    「自己」≒〈自体〉≒「私自身」ってして見ていくことにしたよ。

    「〈意識(精神)〉と〈身体〉」を表す語としてね。

    かなりむりやりな感じするけど‥‥ひとまず。

返信/引用返信 削除キー/

■37230 / )  選手交代
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/02(Thu) 21:01:21)
    多分今年最後のタケノコ、有終の美(?)は若竹煮。巷ではタケノコの豊作が報じられているがうちのタケノコはいつもの半分くらい、とは言っても40本くらい採ったかな。

    入れ替わりに蕗の季節。まだ小さめだが、季節の香りがいい。
881×660 => 600×449

1000003341.jpg
/465KB
返信/引用返信 削除キー/

■37229 / )  叡王戦
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/02(Thu) 19:07:11)
    藤井叡王対伊藤巧7段第3局は伊藤匠7段が勝ち対戦成績を2勝1敗とした。叡王戦は5番勝負なので伊藤匠7段がタイトル奪取に王手をかけたことになる。藤井8冠がタイトル戦でカド番に追い込まれたのは初めて。

    この二人は同い年。藤井8冠と互角に渡り合えるのはやはり若手ということか?


返信/引用返信 削除キー/

■37228 / )  金持ち喧嘩せず。
□投稿者/ アートポット -(2024/05/02(Thu) 18:38:09)
    2024/05/03(Fri) 04:00:13 編集(投稿者)

    地活にて、「クルマの免許持ってないけど、トヨタのスープラを購入にて駐車場に飾っても良いですか?」って助言を求めて、みんな難色を示して、「金持ち過ぎてにて資産と予算の管理にて鬱と恐怖で正気を失うとこまで来ているにてにょ。」って、「アイルトンセナが猛追のシューマッハに恐怖にてアランプロストへの複雑な心境を運転中に語った直後に事故死にて、僕も今のうちに資産を豪快に用い切らないとにてにょ。」、地活仲間のほとんどが劣等感のような小さな声の声色にて、「(これは危ない。裏切り者がでるかもしれない。)」、ピタリと話をやめて長椅子にてグッタリ。帰宅後、一時間行動不能にて、父親と柏餅を食べたら途端に鬱が回復、マッタリネット起動にて。

    金曜日に訪問看護に、鬱になることが増えて躁の時もちょっとあるかもって話す。
    統合失調症になってから双極性障害にもなった例はほとんどないって地活の精神保健福祉士に助言されてにてって訪問看護に話す。

    訪問看護に薬を間に合わせる。追加で届いてにて薬の話も話す。

    追記
    ぺキロンにて数年後の7月にてのを塗るにて。数年後の10月のにてよく見るにて。
返信/引用返信 削除キー/

■37227 / )  ジャズ、オスカー・ピーターソン
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/02(Thu) 09:57:13)
    https://www.youtube.com/watch?v=QScPIdT6fjI

    ボクにとってジャズは特別な存在です。ひと言で言うと「憧れ」です。

    好きなプレーヤー沢山います。ジョー・ザビヌル、ドン・プーレン、マイルス・デイビスなど。しかしボクのジャズの原点はオスカー・ピーターソンです。やはり大学1、2年の時、新宿の厚生年金会館で聴いたソロライブが強く影響しています。

    下は1974年の演奏。ボクが聴いた頃のオスカー・ピーターソン
    https://www.youtube.com/watch?v=SewFqU5SjuE

返信/引用返信 削除キー/

■37226 / )  Re[32]: 純理B181 図式論
□投稿者/ pipit -(2024/05/02(Thu) 09:30:44)
    2024/05/02(Thu) 09:31:31 編集(投稿者)

    続きです
    No37224は、幾何学のような感性的概念の図式についてだったのですが、今回は純粋悟性概念の図式について述べるようです。


    On the other hand, the schema of a pure conception of the understanding is something that cannot be reduced into any imageーit is nothing else than the pure synthesis expressed by the category, conformably, to a rule of unity according to conceptions. It is a transcendental product of the imagination, a product which concerns the determination of the internal sense, according to conditions of its form (time) in respect to all representations, in so far as these representations must be conjoined a priori in one conception, conformably to the unity of apperception.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap56

返信/引用返信 削除キー/

■37225 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2024/05/02(Thu) 09:16:23)
    三角形の概念が、
    『3本のまっすぐな線(直線)でかこまれた形』とするとき、

    https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/school/study_material/improvement/tokyo_basic_drill/files/math_pr02/2nen_kaisetu_9.pdf


    直角三角形(三角形の中で直角のかどがある三角形)も、鋭角三角形も、【三角形】に包摂されるので、
    【三角形】概念の唯一無二の映像化は不可能。

    どちらの包摂も可能となるのは、概念と形象の媒介に、概念を純粋直観としての空間に(制限範囲内で)自由に描き出すことを可能とする想像力があるから。
    想像力によるこの機能・仕事内容(概念の規定範囲内での映像指示)を、カントは『図式』と呼んでるのかな、と、思いました。
    勘違いしてたらすみません!
    一文解釈に要する時間が長ーーーーい ( ;∀;)

    No37224に返信(pipitさんの記事)
    > No37223
    > (英訳のpipit意訳・日訳)
    >
    > 我々が言えるのはこれだけのことです:
    >
    > 「イメージ(形象)は、生産的想像力の経験的機能の産物である。
    >
    > (たとえば空間における図形としての)感性的概念の図式は、純粋(非経験的)な想像力のアプリオリな産物であり、いわばモノグラムであり、それ(図式)にしたがってイメージは初めて可能になる。
    >
    > しかしながらイメージは、それらが指し示す図式によってのみ媒介的に概念と結びつけられるのであって、それ(イメージ)自体が概念に完全に適合することはない。」
    > と。
返信/引用返信 削除キー/

■37224 / )  Re[31]: 純理B181 図式論
□投稿者/ pipit -(2024/05/02(Thu) 08:40:34)
    No37223
    (英訳のpipit意訳・日訳)

    我々が言えるのはこれだけのことです:

    「イメージ(形象)は、生産的想像力の経験的機能の産物である。

    (たとえば空間における図形としての)感性的概念の図式は、純粋(非経験的)な想像力のアプリオリな産物であり、いわばモノグラムであり、それ(図式)にしたがってイメージは初めて可能になる。

    しかしながらイメージは、それらが指し示す図式によってのみ媒介的に概念と結びつけられるのであって、それ(イメージ)自体が概念に完全に適合することはない。」
    と。
返信/引用返信 削除キー/

■37223 / )  純理B181 図式論
□投稿者/ pipit -(2024/05/02(Thu) 07:26:30)
    2024/05/02(Thu) 07:29:23 編集(投稿者)

    みなさまおはようございます♪
    続きです_φ(・_・

    Thus much only can we say:
    “The image is a product of the empirical faculty of the productive imaginationーthe schema of sensuous conceptions (of figures in space, for example) is a product, and, as it were, a monogram of the pure imagination a priori, whereby and according to which images first become possible, which, however, can be connected with the conception only mediately by means of the schema which they indicate, and are in themselves never fully adequate to it.”

返信/引用返信 削除キー/

■37222 / )  著作権法の読み方
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/01(Wed) 20:43:02)
    例えば96条は以下のような文言です。

    (複製権)
    第九十六条 レコード製作者は、そのレコードを複製する権利を専有する。

    大事なところは最後の「専有する」で、故に

    「レコード製作者以外の者は無許可で複製してはいけないんですよ」

    となります。

    「〜を禁ずる」とは書かないんですね。
返信/引用返信 削除キー/

■37221 / )  喬太郎
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/01(Wed) 14:43:32)
    2024/05/01(Wed) 17:16:45 編集(投稿者)

    講談は演者の前に釈台という机を置いて行う。これを張扇でパンパン叩いて話に調子をつける。落語も似た机を使う場合があるが関西に限られれる。落語ではこれを見台と呼ぶ。

    BS-TBSには落語研究会という番組があって、久しぶりに柳家喬太郎が出た。ボクの一番のお気に入りの噺家で、東京にいた頃は、番組表を調べて彼が出る寄席に時々行ったものだ。

    久しぶりに見ると見台を使っていた。彼は関東の噺家だから見台を使うことはない。聞くと膝の調子が悪く、正座がきついとのこと。昔よりかなり太った気がする。

    4日に同僚の室内楽のコンサートを聴きに行く。それはマチネなので上野鈴本の夜席の番組を調べてみると喬太郎が出ていた。主任(取り)は柳家権太楼、その他春風亭一之輔も出演するので聴きに行くことにした。寄席は通常当日券のみなのだがゴールデンウィーク中は予約制。なので発売当日に予約を入れた。

    ボク的にはメインは同僚の室内楽コンサート、ではなく鈴本の寄席になってしまった。。。すまんこってす。
返信/引用返信 削除キー/

■37220 / )  わからん日記
□投稿者/ pipit -(2024/05/01(Wed) 10:35:15)
    図式論わからんー、気が重ーい(T . T)
    と思ってますが、、、

    ふと、『標準化』という意味をきちんと知らないワードが頭に浮かび、
    検索したらちんぷんかんぷんで、『標準化 簡単に』で再検索したら、めちゃ簡易に教えてくれているページがありました。
    https://wa3.i-3-i.info/word17587.html

    私の脳に浮かんだ言葉が、図式論に関係あるのかないのかわかりませんが、

    一文だけでも進んでみるかぁ _φ(・_・
返信/引用返信 削除キー/

■37219 / )  Re[26]: 脳の行方1
□投稿者/ パニチェ -(2024/05/01(Wed) 08:11:56)
    おはよう、悪魔ちゃん。横レス失礼!

    No37218に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ねえ、おくったがわさん、

    > その後どうなったの?

    私の進化論関連の月蛇(moonlight_serpent)とのバトルも3〜4年続いたので先の投稿からまだまだ続くんだけど。。。

    同様におくたがわさんvs月蛇も、1年近く?あるいはそれ以上?続いたので、今後何回かに分けて投稿されると思います。
    おそらく。。。

返信/引用返信 削除キー/

■37218 / )  Re[25]: 脳の行方1
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/30(Tue) 19:15:08)
    ねえ、おくったがわさん、

    その後どうなったの?
返信/引用返信 削除キー/

■37217 / )  Re[16]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/30(Tue) 19:01:02)
    昨日はわたしの物語りの原稿、展開について考えてて、疲れちゃて寝ちゃった。

    No37212のつづき
    No37109のなかから、外国語の,あったのを、いくつか抜き出して見るよ。

    資料(3)に、
    @「私・自我(Ich)」
    A「純粋自我(reines Ich)」
    資料(3),(5)に、
    B「原-自我(Ur-Ich)」
    資料(5)に、
    C「先-自我(Vor-Ich)」
    ってあった。
    カッコ内の外国語はドイツ語みたい。

    ネットで調べて見たんだけど、簡単に、

    Aの[reines]、( reines &#8211; 日本語への翻訳 &#8211; ドイツ語の例文 | Reverso Context)
    (独)reines:純粋な。

    Bの[Ur-]、(プログレッシブ 独和辞典)
    ・非常に… 
    ・((名詞・形容詞と)) 原初の…,根源的な…
    ・((名詞と)) 最初の…
    ・(血縁関係で)一代前の…,一代後の…
    ・古くからの…

    ・Cの[Vor-]、(プログレッシブ独和辞典)
    …より前に,…前に;((順序))…より先に

    ってあった。

    資料(3)では、
    「私」=「自我」=「Ich」って見てるのかな?

    でね、わたしのね。
    日本語で見みるんだけど、

    わたしのばあい、「私」っていうのと「自我」っていうのとは、区別してる。
    「私」っていうのはちょっと置いといて、
    ABCにはぜ〜んぶ、「自我」っていうのあるから、まず、「自我」っていうの中心に見てくことにして、「自我」っていうの、わたしのばあいどうしとこっかな〜、って。
    で、
    「自我」っていうの、「自」と「我」に分けて見て、
    「我」っていうのを、デカルトの「我考える」の「我」ってして見て、
    「自我」って言うのを、〈考えることをする自〉ってする。
    これから、
    「純粋自我」は、〈考えることする純粋な自〉
    「先-自我」は、〈考えることをする前の自〉、
    「原-自我」は、〈考えることをする原初の自〉、
    ってなる。
    こう見ると、「先-自我」も「原-自我」もだいたい同じようなものを指してる、ってして見る。

    これでひとまず「自我」っていうの、わたしのが出来たところで、
    もし、フッサールの「原-自我」って言うのを問題としてるんだとしたら、
    わたしのばあい、この〈自〉っていうのが問題になるのね。

    なんか〈自〉が浮き上がってきた感じしない?

    つづく



返信/引用返信 削除キー/

■37216 / )  アヴェヴェルムコルプス
□投稿者/ knowingitself -(2024/04/30(Tue) 17:41:31)
    私はアニメには疎いが、「シンエヴァンゲリオン」の劇場版で「アヴェヴェルムコルプス」が効果的に使われて、観客を泣かせたと。
返信/引用返信 削除キー/

■37215 / )  Re[76]: 「坂部恵におけるロゴスと霊性」
□投稿者/ knowingitself -(2024/04/30(Tue) 12:19:29)
    坂部恵、モーツァルトの「アヴェヴァルムコルプス」。
    どちらも聞いたことがなければ意味をなさない文ではあるが。

    坂部恵をいま読んでいる人は少ないかもしれないが、井上忠、大森荘蔵、廣松渉、坂部恵は「駒場の四天王」と呼ばれていたそうだ。山内志朗の先生でもある。
返信/引用返信 削除キー/

■37214 / )  そばがき
□投稿者/ 田秋 -(2024/04/29(Mon) 19:05:03)
    伊賀上野にある蕎麦屋へ行った。以前にも書いたと記憶するが、ここの跡取りは昔Tpを日フィルのTpに習っていたが店を継ぐためにTpをやめ故郷に帰ったという経歴の持ち主、その縁でたまに食べに行く。美味しいのだがとにかく待つ。今日は開店15分前に着いて店内に入ったのは開店1時間半後だった。こんなに待たなくてもいいのなら、たま→時々、になるのだが。

    今日はざる蕎麦とそばがきを食べた。写真はそばがき。とても美味しい。
660×881 => 450×600

1000003337.jpg
/443KB
返信/引用返信 削除キー/

■37213 / )  脳の行方1
□投稿者/ おくたがわ -(2024/04/29(Mon) 13:55:00)
    哲学全般カテにilith_flag(リリスフラッグ)というハンドル名の投稿者がいて、進化論などについて投稿していた。普通に礼儀正しく知的な印象の女性だった。
    投稿頻度・文字数多めで、色々な人と会話も交わしていて、知名度が高い人物だったと思う。のちに本人自身が「西哲の三羽ガラスと呼ばれた」と語っていた。(西哲=西洋哲学カテ/私は西哲には基本参加無しだったので、三羽ガラスについては知らなかったが)
    哲カテ(哲学全般カテ)に参加したのは私の方が1,2年早かったと思うが、私は投稿頻度が低いうえ哲学についてほとんど知らず、たまに思い付きを投稿するだけで他者との会話も少なかったので、知り合いといえる人は限られていて知名度も無かった。その中で珍しく会話を交わすことが多かったのがリリスさん。パニチェさん・転法さんも縁があって知ってはいたが、あまり会話することはなく、私として最も親しかったのはリリスさんだった。第三者による仲が良いという指摘にリリスさんも肯定的な返事をしていた。
    転法さんとリリスさんも当初仲が良かったと思うが、ある時点で、おそらく進化論についての考え方の食い違いから対立的になった。
    1年ほど(?記憶不確か)対立的な関係の後、リリスさんが掲示板から姿を消した。
    就職して時間がなくなったか、恋人でもできて掲示板どころではなくなったか…。など憶測していたが、いずれにしても、投稿頻度のかなりの高さや長文の多さなどからすると、止めたことは良いことなのだろうと解釈していた。

    その後、moonlight_serpent(月虹蛇)という投稿者が現れ、転法さんの投稿にしばしば批判のレスを付け、批判文の後に様々な罵倒を加えるというスタイルで一年弱活動を続けた。
    結果として、moonlight_serpent自身が、元リリスフラッグであることをカミングアウトし、驚いたのだが、
    後で思い出して面白く思ったのは、
    カミングアウトより以前に、moonlight_serpentという人物を見ていて、知的レベルや進化論についての知識、それにもとづく転法さんへの反感という点で共通する二人の投稿者が近い時系列で登場したことになんとなく『不思議』と感じた瞬間があったのだった。
    しかし、同一人であるとは全く思いつかなかった。
    おそらくは、潜在意識が二つのハンドルの共通性を訴えていたのだが、顕在意識の方に『リリスさんがこのような罵倒投稿をするはずがない』という強固な認識があって、同一人であるという解釈にフタをしていたということなのかもしれない。ふと不思議感が浮かんだだけであり、それ以上考えている暇が無かったということもあるが。
    ある時、たぶん同じ理由(moonlight_serpentを見て潜在意識が浮かび上がらせる連想)で、「リリスさんどこ行ったんや〜」という投稿を私がして、それに反応してmoonlight_serpent=リリスである旨のカミングアウトが行われた。ご本人のコメントによるとダブハンを指摘されたと判断したようだったが、先に書いたように私の少なくとも顕在意識は両者を同一人とは考えておらず、開示に対して非常に驚いたのだった。

    潜在意識と顕在意識の関係とか、また自覚のある者ゆえに『見抜かれ指摘された』と思ってしまう心理とか、面白く思ったのだった。

    面白がっていられない事態がやがて訪れるということを、この時点では知る由もなかった。
返信/引用返信 削除キー/

■37212 / )  Re[15]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 13:37:01)
    今日はいっぱいお喋りしちゃう。

    No37211のつづき

    No37109の(3)では、
    〔フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのか〕っていう、「私」を問題としてる感で、フッサールの「他我問題」やその発生を見ていく前に、ここんとこちゃんとしとこって。
    でね、
    資料の中かから「私」を探して見たのね。

    いろんな「私」、
    「私自身」(3)
    「この私」(3),(5)
    「自己」(3),(5),(6)
    「自我」(3),(6)
    「純粋自我」(3),(5),(6)
    「先-自我」(5),(6)
    「原-自我」(3),(5)

    カッコ内は資料番号ね(これ、探し出すの大変だったよ)。

    これらの語、どう区別して見とこっかな〜、って。

    つづく

返信/引用返信 削除キー/

■37211 / )  Re[14]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 12:05:53)
    No37210 のつづき、

    特にわたしに関心があったのが(3)。
    (3)について、とりあえず思いつくままに書くね。

    〔はじめに
    他我経験の解明にあたり、フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのかを明らかにし、他者経験の問題を受動的綜合の問題として再提起し直すこと、これが本論の目的である。〕
    ってある。

    「他者」とか「他我」を問題とする前に「私」が問題じゃん、っていってるのかな?
    わたしのばあい、単純な語で、〈他〉と〈自〉ってしてる。
    あ、ここでのは、〈人〉のばあいの〈他〉と〈自〉ね。

    (3)に、「ヘルト」っていうのがでてくるんだけど、
    No15252 の「対化」(あ、これ、「ついか」って読むんだと思う、たぶん。何かと何かが「対(つい)になる」っていうこと)の中に、
    @〔フッサールを内在的に超えてゆく道として、他者経験をむしろ非対象化的・非主題的な次元で捉えるというK.ヘルトの構想に沿って、この対化の現象を手掛かりにして他者経験を受動的総合と発生的現象学において解明しようとする試みもある。〕
    ってあるんだけど、この〔K.ヘルトの構想〕っていうの、たぶんそう。
    あと、
    No36191の(w)「現在化/準現在化/共現在化」の、〔・・・・〕で省略したなかに、
    A〔時間講義では原印象とともに現在を形づくる把持や予持は、厳密には現在化ではないが準現在化とも区別されており、共現前化と規定されうる(ヘルト)。〕
    っていうのもあって、たぶんこの(ヘルト)、っていうのもそうだと思う。

    ヘルトがなに言ってるんかはわたしにはよく分かんなかったんだけど、
    (3)では、
    〔ヘルトの批判は他者についての本源的意識を、他者を直接的に主題とする意識から、他者についての非主題的意識へと変更する。それによって〈省察する私〉の反省が直接及ばない段階、すなわち受動的構成の段階に共同主観の構成を位置づけるのである。しかしフッサールの他者経験の解明は静態的分析だけでなく、発生的分析を含むものであった。〕
    って小林さんは言ってる。
    あと、
    (6)にもヘルトが登場してて、
    〔ヘルトの主張する、フッサールにおける隠れた形而上学的前提としての「自我極と対象極」という批判は、妥当しない解釈であり、自我と対象の極化を定題化しうる発生的現象学の射程に注視せず、それを見落としした解釈である。〕
    って山口さんは言ってる。

    わたし、〔非対象化的・非主題的な次元で捉える〕っていうの、気になってるところ。

返信/引用返信 削除キー/

■37210 / )  Re[13]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 10:59:11)
    No37209は、
    No37109の(3)(5)(6)を読んでて、ちょっと思ったの。

    ここからは資料(3)(5)(6)を読んでての感想になるかな。

    フッサール現象学の研究者たちの「論」なのかな。なんかわたしには難しく書かれてる感じ。
    わたしのお喋りは「論」じゃなくて、〈こんな感じ〜〉っていうの。
    で、わたしに思われた全体的な感じを書いて見ると、

    フッサールの『イデーンT』『イデーンU』『ベルナウ草稿』っていうのが出て来るんだけど、わたしこれ読んでないからよく分かんなかった。いまのところこれ読む予定ないけどね。わたしがフッサールので読んでるのは【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】だけ。

    フッサールの「他我経験」とか「発生的現象学」を問題としてるのかな?
    フッサールの思考の過程を辿りながら、「受動的綜合」や、「純粋自我」、その「発生」についてなのかな?
    なんか雰囲気的に、『ベルナウ草稿』あたりからフッサールはフッサールの「能動的総合」〈省察する私〉とか〈現象学する自我〉から「受動的総合」の方に志向していった、みたいなことが書かれてある感じ。

返信/引用返信 削除キー/

■37209 / )  Re[12]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 09:31:38)
    きょうもわたしんとこいい天気、気分もいい。この季節がいちばんいいのかも。

    No37202 のつづき

    フッサールは、意識の綜合の働きを「受動的総合」(a)と「能動的総合」(b)に分けて見てるんだと思う。
    わたしのばあい、(a)は、感覚-知覚、最近は想像もここに入れてる。(b)は思考の領域って見て、(a)を〈感知性〉(b)を〈考知性〉って呼んでる。

    「自覚」、「覚知」、「覚起」、「覚醒」って、〈感知性〉の「感覚」とか「知覚」みたいに、み〜んな「覚」っていう語が使われてる。
    (これって、日本語で見てるから、外人さんには関係ない話しだけど)
    で、
    〈感性〉における〈知〉のばあい、こういう語を使うことにしよっかな、って。
    逆に、現象学ののについて書かれてあるのを読むとき、「覚」っていう語が使われてるときには、〈感知性〉の領域について話ししてるんかな、って見るようにして見る、っていうこと。

    これと区別するために、〈考知性(思考)〉での〈知〉のことを〈認知〉ってしようかな〜、って思ったりもしてる。
    〈認知〉の〈認〉は〈認識=物事を正しく理解し判断する〉っていう意味でね。
    No36141の日本大百科全書の中では「知解」って呼んでるのかな?

    (a)について話してるのか、(b)について話してるのか、分かりやすくするために、「用語」で区別して見た、っていうことね。

返信/引用返信 削除キー/

■37208 / )  Re[37]: 小生が高校当時が聞いていたのは
□投稿者/ パニチェ -(2024/04/29(Mon) 09:02:34)
返信/引用返信 削除キー/

■37207 / )  サルも食べるタケノコ
□投稿者/ パニチェ -(2024/04/29(Mon) 08:32:31)
    おはようございます、田秋さん。レスありがとうございます。

    No37200に返信(田秋さんの記事)

    > 掘ることはさすがにサルには出来ません。一番多いのは15センチくらいに成長した穂先の部分だけを(剥いて)中の柔らかい部分を食べるケースです。最近、剥いた結構大きな皮も落ちているので、どうやったのかはわかりませんが元からへし折って食べたらしい形跡もあります。

    > きっと昨日今日と良いタケノコ見つけて食べてんだろうなあとちょっと口惜しい思いをしています。

    ははは。そうなんですね。やっぱ美味しいものは知ってるんですね。
    でも人間様はサル以上に美味しいもの食べてますし。。。^^
返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -