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168時間以内に投稿された新着記事


■45215 / )  Re[18]: パラダイムの地殻変動
□投稿者/ knowingitself -(2026/01/22(Thu) 09:01:53)
    >もちろん、後世から振り返れば、とくに突出した影響力をもった人が注目されることは当然だが。

    >以上は哲学でも成り立つと考える。

    そういえは山内志朗先生も同じようなことを書かれていたなあ。

    ただし、アリストテレスは超弩級の大天才だと。

    永井均さんも、どんな哲学者も「ほんとうはたいしたことはない」理由をみつけることができるが、

    アリストテレスにはみつけることが困難だといっていた。

    もちろん、個別科学領域ではアリストテレス説は覆されて、真に受ける人はほとんどいないし、

    学校教育で哲学以外でアリストテレスが教えられることなど、世界的にほぼ皆無。

    歴史知識や三段論法の入門は別として。これはアリストテレスでなくてもいい。、

    要する、正答か誤答か、科学か非科学か、役に立つか立たないか、などではなく、

    哲学することそれ自体の本質を提示しているのがアリストテレスだと。
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■45214 / )  馬への餌をあげる時
□投稿者/ akaimi -(2026/01/22(Thu) 08:54:38)
    今、ネットニュースで知ったのだけど。
    馬に餌をあげる際、手に持ってそのままあげると、指までかまれて大怪我になることがあるそうです。
    牧場などでの体験のときに気をつけないとならないですね。
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■45213 / )  パラダイムの地殻変動
□投稿者/ knowingitself -(2026/01/22(Thu) 08:20:40)
    どんなジャンルでもそうだが、一人の天才にすべてを帰するのは、

    ある種の神話的な英雄史観だろうね。

    天才の仕事を否定するつもりはまったくないが、

    背景、背後に巨大なうねりが既に生じていた。

    パラダイムや思考環境、時代精神などの地殻変動というべきもこ

    産業革命、物理学革命、情報革命、他にいくらでもある。

    現代のスピリチュアルにおける、ノンデュアリティ、ワンネスなども、

    一人のスピリチュアルな天才にすべて淵源を求めるのは、実態に即さないと思う。

    それよりも、文化や言語の差異、宗教的伝統の違いなどを超えた、

    同時多発的な世界現象とみるべきでしょう。

    もちろん、後世から振り返れば、とくに突出した影響力をもった人が注目されることは当然だが。

    以上は哲学でも成り立つと考えている。
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■45212 / )  ニーチェとダーウィン
□投稿者/ akaimi -(2026/01/22(Thu) 07:48:26)
    ニーチェとダーウィン主義について。
    皆さまのやりとりを拝見して興味を持ち、私もChatGPTに質問してみました。
    以下は、『種の起源』をニーチェは読んでいたか?という問いへの回答です。
    間違いがある可能性はありますが参考までに投稿させてください。

    ………
    結論から言うと:
    ニーチェがダーウィンの『種の起源』を最初から通して精読した、という確かな証拠はない。
    ただし、ダーウィン思想そのものはよく知っていた。
    この「ねじれ」が大事。
    @ ニーチェは「ダーウィン主義」を知っていた
    ニーチェの著作には、
    ダーウィン
    自然淘汰
    生存競争
    への言及がはっきり出てくる。
    だから
    「ダーウィンを知らなかった」
    は完全に違う。
    ただし彼が主に触れていたのは、
    ダーウィンの原典そのもの
    というより
    19世紀後半に広まっていた“ダーウィン主義”の解釈
    A 実際にニーチェが読んでいたのは「二次文献」が中心
    研究的には、ニーチェが強く影響を受けたのは:
    フリードリヒ・アルベルト・ランゲ
    『唯物論史』
    ハーバート・スペンサー
    (進化=進歩・適応=善、という社会進化論)
    これらは、
    ダーウィンの理論を
    哲学・社会・道徳に拡張した解釈
    ニーチェが批判している「ダーウィン」は、
    かなりの部分が
    スペンサー化されたダーウィン。
    B 『種の起源』そのものについて
    『種の起源』は当時すでにドイツ語訳があり、
    ニーチェが後年それを所蔵していた可能性は高い。
    ただ、
    どの時期に
    どの程度
    どれくらい
    読んだかは、はっきりしない。
    少なくとも、
    『種の起源』の細かい議論
    変異・地理的隔離・人工選択の技術的部分
    に踏み込んだ痕跡は、
    ニーチェのテキストにはほぼ見られない。
    C だから起きた「すれ違い」
    ここが面白いところ。
    ダーウィン本人
    → 生物学の説明に徹しようとした
    ニーチェ
    → それが
    道徳
    進歩史観
    大衆主義
    に使われていくのを見て反発した
    つまりニーチェは、
    ダーウィンの理論
    ではなく
    ダーウィンが“象徴”になってしまった時代精神
    と戦っていた可能性が高い。
    ………

    この部分以外でもChatGPTから、ニーチェがなぜ象徴となってしまったダーウィン主義を批判したのかについて教えてもらったのですが、その情報が必ずしも正確かは確定できないのでとりあえずのものとしてですが興味深かったです。
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■45211 / )  ノイローゼとヒステリーにて。
□投稿者/ アートポット -(2026/01/22(Thu) 01:50:24)
    ここ数日、頭部の周囲の空気にて冷たくて精神状態にてやばいにて精神にて濁っている感覚で行動不能になったり、薬を飲む手順を一時的に忘れたり、スーパーマーケットにてボケぇって立ち尽くしたり、ヒットマンにて家の近くに潜んでいるみたいな感覚で脅えているにて。。

    愚痴って済みません。

    脳内(精神)にて濁っている感覚、やばい。。

    一二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <珈琲飲むにてにょ。
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■45210 / )  パニチェさんへ(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2026/01/22(Thu) 00:13:55)
    こんばんはー

    No.45205,45208,45209 (パニチェさん)

    >上記のような言い回し

    恐縮です(;´・ω・)

    No.45195 にも書きましたが、私の調査はChatGPTを利用したものです。

    私自身がニーチェやダーウィンの思想に疎いこと、そのためにChatGPTを利用したこと、とはいえ経験上ChatGPTの分析を全面的に信用することは危険だとおもっているので、パニチェさんからの情報をとても有益に感じた次第です。

    ありがとうございましたm(__)m

    ちなみに、この投稿中で私が提示した、

    ◇前川一貴『ニーチェの進化論批判 − 器官の形成を巡って 』.2014年

    ・h
    ttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/1925

    の冒頭には次のようにあります。

    >ニーチェ(1844−1900)がダーウィン(1809−1882)の『種の起源』(1859)を実際に読んでいたという確実な証拠はなく、彼の進化論受容は間接的なものだったと考えられる(1)。ニーチェには生物学を専門的に研究した経験がないことも踏まえれば、彼が進化論をどこまで正確に理解していたのかについても定かではない。<

    上記文中の注(1)にはこうあります。

    >注
    (1) Giuliano Campioni, u.a. (Hrsg.): Nietzsches personliche Bibliothek. Berlin/New York: Gruyter 2003. Luca
    Crescenzi: Verzeichnis der von Nietzsche aus der Universitatsbibliothek in Basel entliehenen Bucher (1869-
    1879). In: Nietzsche-Studien, Bd. 23 (1994), S. 388-442.<

    前川の説明の論拠とおもわれるこの注(1)は、ChatGPTによれば、@ニーチェの個人蔵書目録 Aニーチェのバーゼル大学図書館貸出書籍目録とのこと。

    @Aいずれの資料にもダーウィン『種の起源』は見当たらないとChatGPTは述べますが、見当たらないからといって読んでいないとは限らないともいえる(;´・ω・) 

    いずれにせよ私の能力ではこれ以上追究できないかな(;´・ω・)

    *******

    【メモ】

    ◇ 竹田純郎『ダーウィンとニーチェ』,1998年

    ・h
    ttps://tohoku.repo.nii.ac.jp/records/139046

    には次のようにあります。

    >ニーチェは、F.A・ランゲの『唯物論の歴史』やE・ハルトマンの『無意識の哲学』の第三部第九章「地上における有機的生命の上昇的発展(ダーウィン)」から、ダーウィンの進化論を学んだけれども、ダーウィニズムを真剣に検討しはじめたのは、はるか後年、W・ルーのI有機体における諸部分の戦い」(1881年刊)を読んでからのことである。かくて、「反ダーウィニズム」となづけられた三編の「覚書」 が遺されることに(12,304.13, 31517.13, 303ー5)なった。<





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■45209 / )  ニーチェとダーウィン
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/21(Wed) 16:33:20)
    ダーウィンの『種の起源』が公刊された1859年は、ニーチェ15歳の多感な年頃であった。

    その後、社会ダーウィニズムがヨーロッパを席巻していったことからして、ニーチェの精神の三変化に象徴される超人思想はダーウィニズムの影響があったことは否定できないだろう。

    進化論や物理学(宇宙論)の目覚ましい発展は創造論を退けつつ、唯物論的世界観がキリスト教圏に浸透していった。
    ニーチェは「神は死んだ」と過去形でツァラトゥストラに語らせたが、19世紀後半にドイツ観念論が唯物論によって侵食される時代であったことも反映している。

    但し、進化論を土台として超人思想が生まれたということではない。
    ツァラトゥストラに語らせた超人思想とは、あくまでも旧約・新約聖書へのアンチテーゼとして生まれた思想(福音)であるからだ。

    ダーウィニズムについてニーチェは両義的に捉えている。
    創造論を否定したダーウィンは高級な人間であり、前期ではダーウィニズムを真理と賞賛しているが、後期には反ダーウィンとしてのアフォリズムがメインとなる。

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■45208 / )  ニーチェによるダーウィン評
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/21(Wed) 15:42:41)
    「形象による思考の場合でも、ダーウィン説は正しい。すなわち、より強力な形象は、より軽微な諸形象を食い尽くして行く。(ちくま学芸文庫刊ニーチェ全集3「哲学者の書」P268)」

    「ダーウィン説の驚くべき帰結。ともかく私は、ダーウィン説は真理だと思っている。(ちくま学芸文庫刊ニーチェ全集3「哲学者の書」P300)」

    「イギリスのダーウィニズムそのもの周りには、イギリスの人口過剰の息詰まるような空気に似た何かが、窮乏に追いつめられた細民の臭気さながらの雰囲気が、匂っている。けれど、自然科学者であるかぎりは、おのれの人間臭い片隅から抜けだしてぃるべきだろう。それというのも、自然のうちに支配いているものは、窮迫状況ではなくして、過剰であり、浪費である、しかも馬鹿馬鹿しいまでの過剰浪費であるからだ。生存競争といったものなぞは、一個も例外にすぎない、生意志の一時的な制限状態にすぎない。ほかならぬ生の意志であるところの権力の意志のままに、大小の闘争が、いたるところで、優越を競い、成長へと拡大を競い、権力を競って、おこなわれているのだ。(悦ばしき知識349)」

    「弱化の状態としても最高の公平と柔和(新約聖書と原始キリスト教団、──イギリス人ダーウィン、ウォレスは、これがまったくの愚事であることを示した)。君たち高級な方々よ、君たちの公平は君たちを普通選挙その他に、君たちの「人間性」は犯罪や愚味に対する柔和にかりたてる。やがては、かくして君たちは愚味と無難なものとに勝利をもたらすであろう。快適と愚味──中間。(権力への意志130)」

    「根本問題。どこから信仰のこの全能は由来するのか?道徳を信ずることの全能は?(この信仰は、生の根本条件ですら道徳のためとなら誤った解釈をうけるといいうことからもうかがいしることができる、動物界や植物界について知られていることはそうした解釈をゆるさないにもかかわらず。「自己保存」は、利他主義の原理と利己主義の原理とを調停するためのダーウィン主義的遠近法である。)(権力への意志253)」

    「哲学者についての迷信、すなわち、科学的人間の取りちがえ。あたかも価値は事物のうちにひそんでいて、それを確保しさえすればよいかのごとくであるとは!どこまで彼らがあたえられた価値の教唆のもとで研究するかの問題(仮象、肉体などに対する彼らの憎悪)。道徳に関してはショーペンンハウアー(功利主義に対する嘲笑)。最後にはこの取ちがえは、ダーウィン主義が哲学とみなされるほどはなはだしくなり、かくして現今では科学的人間が支配権をにぎっている。(権力への意志422)」

    「ダーウィン主義に反対して。──或る機関の有用さはその発生を説明しはしない、逆なのである!このうえなく長期にわたって或る固有性が形成されつつある間は、その固有性は、個体を保存することもなく、個体に有用であることもなく、外的環境や外敵との闘争においてはことさらそうである。結局「有用」とは何か?「何に関して有用なのか?」と問われなければならない。たとえば個体の持続にとって有用であるものは、その個体の強さや華麗さにとっては不都合であるかもしれない。個体を保存するものは、同時にその個体の発達を固定させ停止させるものであるかもしれない。他方、或る欠陥は、或る変質は、それが他の機関の刺戟剤としてはらたくかぎり、このうえなく有用でありうる。(権力への意志647)」

    「ダーウィン主義的生物学の意味での「有用である」とは──言いかえれば、他者との闘争においておのれを好都合のものとして証明することにほかならない。しかし私には、高揚された感情、より強くなるという感情がすでに、闘争における有用さをまったく別としても、本来の進歩であると思われる。すなわち、この感情からはじめて闘争への意志が発現するのである──(権力への意志649)」

    「反ダーウィン。──人間の馴致、これはいかなる決定的価値をもちうるのか?ないしは総じて馴致ということは或る決定的価値をもっているのか?──私たちは、この後者を否認する根拠を持っている。…〈中略〉… 生存競争が、弱者の死滅と最も強壮な最も天賦にめぐまれてたものの存続が、予期されている。したがって、生物は完全性へと不断に生長していると想像されている。私たちが確証してきたのはこれと逆であって、それは生存競争においては、偶然は強者にと同じく弱者にも幸いするということ、狡智はしばしば力に有利な補強をするということ、類の豊饒性は破滅の機会と注目すべき関係にあるということであった・・・(権力への意志684)」

    「反ダーウィン。──人間の大いなる運命を概観して私が最も多く驚かされるのは、今日ダーウィンがその学派とともに認めないしは認めようと欲していることは、すなわち、より強いものに、出来のよいものに好都合な淘汰、類の進歩とは正反対のことをつねにまのあたりにするということである。まさしくこの正反対のことが、すなわち、幸運の抹殺、出来上がりの高級な類型の無用性、中位の類型の、中位以下の類型すらの不可避的支配が、明白なのである。なぜ人間は被造物のうちで例外であるかということの根拠が私たちに示されないなら、私はダーウィン学派はいたるところで思いちがいをしていると頭から考えざるをえない。私がすべての変化の究極的根拠や性格をそのうちで再認識するあの権力への意志が、なぜまさしく例外や幸運に好都合な淘汰が生じないかを明らかにする手引きをあたえてくれる。すなわち、最も強く最も幸福な者は、組織化された畜群本能を、弱者の恐怖心を、大多数を敵にまわすときには、弱いのである。価値の世界に関する私の総体観は、今日の人類の頭上にかかげられている至高の価値のうちで優勢を持しているのは、幸運では、淘汰された類型ではないということを示している。むしろそれはデカダンスの類型であり、──おそらくはこの世において、こうした望ましからざる光景にもまして興味深いものは何ひとつないであろう・・・(権力への意志685)」

    「反ダーウィン。──あの有名な「生存競争」に関して言えば、それはさしあたり私には証明されているというより、むしろ主張されていると思われる。それはおこりはするが、しかし例外としてである。生の総体的光景は、窮乏状態、飢餓状態ではなく、むしろ豊富、豊満であり、ばからしいほどの浪費ですらある、──闘争がおこなわれるときでも、それは権力をめぐる闘争である・・・人はマルサスと自然とを取りちがえてはならない。──しかし、この闘争がおこるとすれば──そして事実、それはおこるのであるが──、遺憾ながらそれは、ダーウィン学派が願っているのとは、おそらくはこの人がこの学派とともに願ってさしつかえないと思うのとは逆の結果となる。すなわち、強者、特権者、幸福な例外者には不利となる。種属は完全性という状態のうちで成長するのではない。弱者が繰り返し強者を支配するからであり、──それは、弱者が多数であり、弱者がより怜悧でもあるためである・・・ダーウィンは精神を忘れてしまっていた。(偶像の黄昏14)」


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■45207 / )  Re[5]: チェザーレ・ボルジア
□投稿者/ flora -(2026/01/21(Wed) 14:17:36)
    >>私は若いときに塩野七生氏の『チェザーレボルジア あるいは優雅な冷酷』を読み、それ以降チェザーレの名前は記憶から離れませんでした<

    >とありますが、塩野氏自身のチェザーレボルジアに対する評価はどんなものだったでしょうか?「優雅な冷酷」という相反するワードを使った表題に、何か物思わせるもの、怪しげなモノ・・が、ありそうです。

    お恥ずかしいことに塩野氏の該当本は日本の実家に有りまして確認できないのが、残念です。^^;キンドルが出ていれば・・・と思ったのですがキンドルは出ていなかった・・・

    優雅というのは、チェザーレの生まれや職歴それに関わる生活様式や衣装等、ルネッサンスにおいては上流の優雅さをバックボーンに持ちながらも、その装飾の内部には実は血に飢えた狼のようなところがあった・・・ということなのかな〜?私も若い頃非常にそのアンバランスに魅せられました。ましてフィクションではなく実在の人物だったわけですし、若くして戦争で亡くなったということも逆に魅力の一つになっているかも知れませんね。

    >本題であるニーチェとチェザーレボルジアの親和性については、また時間がある時にでもカキコを。(^^;)

    はい。よろしくお願いいたします^^

    追記)散歩といえば、ジャン・ジャック・ルソーを思い出します。代表作に『孤独な散歩者の夢想』がありましたね。
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■45206 / )  Re[9]: ニーチェとチェーザレ・ボルジア
□投稿者/ flora -(2026/01/21(Wed) 14:05:44)
    パニチェさん、お返事ありがとうございます。

    >私は道徳心というのは結局のところ自己保存本能や種の保存本能に根差したものであると考えています。
    人間という種の保存にとってプラスになるのが善で、その反対が悪。
    病原菌は種族の維持という目的に適わないから「悪」玉菌、ビフィズス菌は種族維持という目的に適うから「善」玉菌みたいな発想です。

    そういえば、同じ神を崇める神をキリスト教国家同士の戦いにおいても、勝利したほうが「神が自分たちを勝利させた、故に自分たちが正しい」という考え方が長い間あったようですね。似ていますね。

    ダーウィンとニーチェ論では、ウマシカさんも参加なされて楽しい展開になりました^^。引き続きよろしくお願いいたします。


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■45205 / )  うましかさんへ(^_-)-☆
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/21(Wed) 09:19:46)
    おはようございます、うましかさん。レスありがとうございます。

    No45200に返信(うましかさんの記事)
    > こんばんはー
    > No.45199(パニチェさん)を読ませていただいてテンションがあがりました!
    >  (* ̄0 ̄)/ オゥッ!!
    > というのも、 No.45195 のfloraさん宛の投稿で書いた内容↓について、私の調査結果と相反する解説が、なんとあの『ニーチェ事典』にあることを知ったからです(;´・ω・)

    上記のような言い回しにうましかさんの優しさと気遣いを感じます。
    ほんと私と違ってよくできた方だなぁ〜と。^^

    > >・ただし研究によればニーチェが直接的に『種の起源』の原著(英語であれドイツ語訳であれ)を読んだ可能性は低いとのことです。〔by うましか〕
    > 手持ちの『ニーチェ事典』(1995年)をさっそく確認したところ、野家啓一による「ダーウィニズム」の解説で以下のような記述がありました。

    > >1859年にダーウィンの『種の起源』が公刊されたとき、ニーチェは15歳であった。すなわち、ダーウィンの進化論がヨーロッパ中を瞬く間に席巻していった時期は、そのままニーチェの精神形成期に重なっている。しかも、ニーチェが旺盛な執筆活動を続けていた1870年代から80年代にかけては、社会ダーウィニズム、すなわち人間は遺伝と環境に支配されつつ生存闘争を行いながら、優勝劣敗の鉄則に従って不適応者は次第に淘汰されていく、という宿命的ペシミズムの思想が世界的流行を見せていた時期でもあった。それゆえ、ニーチェがこうした時代思潮から影響を受けなかったわけはない。事実、彼はダーウィンの『種の起源』と『人間の由来』を丹念に読んでおり、またランゲの『唯物論の歴史』を通じて進化論の思想的意味を把握していた。しかし、ダーウィニズムに対するニーチェの態度は、いわば両義的と言わざるをえない。< 同書p.347

    > 野家によれば、ニーチェはダーウィンの『種の起源』を丹念に読んでいることは事実であるとのこと(・∀・)♪
    > 残念なのは野家が参考文献を示していないことですが、パニチェさんは野家の「ニーチェはダーウィンの『種の起源』を丹念に読んでいる」という解説を支持する情報を何かご存じですか?(;´・ω・)
    > もしご存じでしたら、教えていただけますと幸いです。。。m(__)m

    ニーチェが『種の起源』を丹念に読んでいる」という確たる証拠にはなりませんが私が思うところの有力な記述を以下で引用しておきますね。
    せっかくなので次の投稿ではダーウィンやダーウィン主義についてニーチェが述べているアフォリズムを引用しておきます。Panietzsche Roomにもまとめたいと思ったので。
    私が言えるのは次の引用も含めて『種の起源』を読まずにこれだけダーウィンのことを賞賛したり、批判したりできないのではないか?ということぐらいですかねぇ〜。

    「ここで僕はひとりの男の功績をもう一度、称えざるをえないのだが、その男については以前いちど君に手紙を書いたことがあるね。もし君に今日の唯物論的な動きについて、ダーウィンの理論や宇宙体系や命のっかよっている暗箱などを応用した自然科学について完全に知りたいという気があるなら、また同時に倫理的な唯物論やマンチェスター理論などについても知りつくしたいなら、いちばん素晴らしいものを紹介することができるよ。つまり、フリードリヒ・アルベルト・ランゲ(イーザーローン、1866年)の『唯物論の歴史』だ。(ちくま学芸文庫刊ニーチェ全集別館T「ニーチェ書簡集 26カール・フォン・ゲルスドルフへ ナウムブルク、1868年2月16日」より)」

    「──これがレー博士には知られていなかった。だが彼はダーウィンを読んでいた。──そのため彼の仮説のなかでは、ダーウィン式の野獣と、〈もはや噛みつきはしない〉飛び切り現代風の慎ましやかな道徳的優男とが、すくなくとも面白みはある格好で慇懃に手を取りあっている。(道徳の系譜 7)」

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■45204 / )  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2026/01/21(Wed) 08:33:59)
    うましかさん、おはようございま〜す(^^)/
    ゾッとされるのですね、おもしろいなぁ

    No45203を読んで思い出した経典の場面があります。

    釈尊が歩く瞑想をしていて、その場で殺人や雷鳴があって、住民が集まってきて、釈尊に「なにか見た?なにか聞いた?」と聞いたら、意識があって、表象もあったにもかかわらず、「何も見なかった。何も聞かなかった。」と答えたそうです。

    [長部16. 大いなる完全なる涅槃の経』の中の「マッラ族のプックサの事」という箇所から抜粋引用します。
    釈尊が過去のことを振り返ってプックサさんに話してる箇所です。

    『プックサよ、そこで、まさに、その人に、この〔思い〕が有りました。
    『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ああ、まさに、出家者たちは、寂静の住によって〔世に〕住む。なぜなら、そこで、まさに、表象ある者として存しつつ、〔眠らずに〕起きていながら、天が雨を降らせ、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせるなか、諸々の雷光が放たれ、雷が炸裂するとき、まさしく、見ることもなく、また、音を聞くこともないからだ』と。』

    (関西パーリ語実習会さま日訳)
    //suttacentral.net/dn16/jpn/kansai?lang=en&reference=none&highlight=false
    ※中村元先生の岩波文庫『ブッダ最後の旅』ではp114

    (うましかさん)
    >それは感情が抜け落ちている、ただ、その出来事と独立して存在していたんだと。<

    ほんとですね、『出世間』という仏教用語を思い出しました。

    寒くなりますね、どうぞ風邪などひかれませんように(^^♪

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■45203 / )  感情が抜け落ちた世界(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2026/01/20(Tue) 23:30:08)
    pipitさん、こんばんはー

    的外れかもしれないけど、、、うましかは史跡、たとえば刑場跡とか古戦場とかを訪れる機会があると、しばしばそこを見渡しどんなことが行われていたか想像してゾッとするのです。しかしその後、そこにある古木とか空をみあげると、さらにゾッとするのです。

    それは感情が抜け落ちている、ただ、その出来事と独立して存在していたんだと。

    こわーーーぃ沼(;´Д`A ```

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■45202 / )  あれ?
□投稿者/ pipit -(2026/01/20(Tue) 23:12:55)
    No45201
    > 私の場合、感情が抜け落ちた世界を見てみたいんだ!!(可能か不可能かもわからんけど)<

    むむ?A.I ???
返信/引用返信 削除キー/

■45201 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2026/01/20(Tue) 23:05:38)
    全ては変化している

    固定化されたものはない

    そう思って生きたい、と、思った

    まぁ壊れゆくという面もあることだけどね

    なんでも生滅なのかな

    認識の実験(by ニーチェさん)、だねd(^_^o)

    私の場合、感情が抜け落ちた世界を見てみたいんだ!!(可能か不可能かもわからんけど)
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■45200 / )  パニチェさんへ(・ω・)ノ♪
□投稿者/ うましか -(2026/01/20(Tue) 22:47:26)
    こんばんはー

    No.45199(パニチェさん)を読ませていただいてテンションがあがりました!
     (* ̄0 ̄)/ オゥッ!!

    というのも、 No.45195 のfloraさん宛の投稿で書いた内容↓について、私の調査結果と相反する解説が、なんとあの『ニーチェ事典』にあることを知ったからです(;´・ω・)

    >・ただし研究によればニーチェが直接的に『種の起源』の原著(英語であれドイツ語訳であれ)を読んだ可能性は低いとのことです。〔by うましか〕

    手持ちの『ニーチェ事典』(1995年)をさっそく確認したところ、野家啓一による「ダーウィニズム」の解説で以下のような記述がありました。

    >1859年にダーウィンの『種の起源』が公刊されたとき、ニーチェは15歳であった。すなわち、ダーウィンの進化論がヨーロッパ中を瞬く間に席巻していった時期は、そのままニーチェの精神形成期に重なっている。しかも、ニーチェが旺盛な執筆活動を続けていた1870年代から80年代にかけては、社会ダーウィニズム、すなわち人間は遺伝と環境に支配されつつ生存闘争を行いながら、優勝劣敗の鉄則に従って不適応者は次第に淘汰されていく、という宿命的ペシミズムの思想が世界的流行を見せていた時期でもあった。それゆえ、ニーチェがこうした時代思潮から影響を受けなかったわけはない。事実、彼はダーウィンの『種の起源』と『人間の由来』を丹念に読んでおり、またランゲの『唯物論の歴史』を通じて進化論の思想的意味を把握していた。しかし、ダーウィニズムに対するニーチェの態度は、いわば両義的と言わざるをえない。< 同書p.347

    野家によれば、ニーチェはダーウィンの『種の起源』を丹念に読んでいることは事実であるとのこと(・∀・)♪

    残念なのは野家が参考文献を示していないことですが、パニチェさんは野家の「ニーチェはダーウィンの『種の起源』を丹念に読んでいる」という解説を支持する情報を何かご存じですか?(;´・ω・)
    もしご存じでしたら、教えていただけますと幸いです。。。m(__)m



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■45199 / )  Re[8]: ニーチェとチェーザレ・ボルジア
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/20(Tue) 21:07:40)
    こんばんは、こんにちは、フローラさん。レスありがとうございます。

    No45182に返信(floraさんの記事)
    > パニチェ様、種々の引用等、貴重なお時間を割いてくださりありがとうございます。
    > 私は若いときに塩野七生氏の『チェザーレボルジア あるいは優雅な冷酷』を読み、それ以降チェザーレの名前は記憶から離れませんでしたが、最近、友人からニーチェがチェザーレに関心を持っていたと聞き、これはパニチェさんに伺って見ようと思った次第です。上記の著作はもとより『君主論』も自宅に有り、引用その他、全く表示出来ない状況にもかかわらず、お返事くださり感謝しております。

    どういたしまして。

    > >ニーチェが批判対象としている(ニーチェが思うところの)キリスト教的道徳とは、他者への同情や哀れみ、神の前では平等ということを重んじる、いわば弱者の道徳(奴隷道徳)であり、人間や生が本来有するダイナミズムや創造性を委縮させ弱体化させる禍因であると看破している。
    > >ニーチェにとってチェーザレ・ボルジアは倫理的側面からみればアンチクリストであるということ。
    > おそらく教皇職に必要にしがみついた実は傲慢な偽善者であった父 ロドリーゴ・ボルジア(後のアレクサンデル6世)が反面教師としてあったかも知れませんね。

    なるほど、そうかもしれませんね。
    ニーチェの祖父はアイレンブルグの管区総監督牧師の地位にも昇った人であり、父も牧師、母の家系も牧師であったことから、これまた反面教師としたのだと思います。

    > >ニーチェは人間について位階を認めている。生物進化も一部から生じるように人間の精神的進化も万人に生じるわけではない。
    > これはすごいですね!ダーウィンの『種の起源』の初版が1859年出版、一方ニーチェは1844年生まれ、ニーチェが15歳にして、英国でかつ英語で記された著作を読んだとは想像するのが難しい・・・精神的進化の部分も考察していたのは正直 驚きでした。

    ニーチェは小学校の頃に級友から「小さな牧師さん」と呼ばれるくらい牧師的教養も深く博学だったようです。
    以下、ニーチェ事典から引用します。

    「1859年にダーウィンの『種の起源』が公刊されたとき、ニーチェは15歳であった。すなわち、ダーウィンの進化論がヨーロッパ中を瞬く間に席巻していった時期は、そのままニーチェの精神形成期に重なっている。しかもニーチェが旺盛な執筆活動を続けていた1870年代から80年代にかけては、社会ダーウィニズムが、すなわち人間は遺伝と環境に支配されつつ生存闘争を行いながら、優勝劣敗の鉄則に従って不適応者は次第に淘汰されていくという宿命的ペシミズムの思想が世界的流行を見せていた時期でもあった。それゆえ、ニーチェがこうした時代思潮から受けなかったわけはない。事実、彼はダーウィンの『種の起源』と『人間の由来』を丹念に読んでおり、またランゲの『唯物論の歴史』を通じて進化論の思想的意味を把握していた。しかし、ダーウィニズムに対するニーチェの態度は、いわば両義的と言わざるをえない(ニーチェ事典 ダーウィイズムより)」

    詳しくは省きますが、結論から言えばニーチェのダーウィニズムに関する評価は賛否あるということです。

    > アンチクリストということは 道徳心を持たないということですか?道徳心とはどこから出てくるものなのでしょうか? 私はこの道徳心というのがわからないのです。

    アンチクリストというのは反キリスト教道徳&教会(キリスト教道徳の対岸が善悪の彼岸ということになります)ということであって道徳心を持たないということではありません。
    奴隷として生まれたユダヤ人がそのルサンチマンを原動力として築き上げたユダヤ・キリスト教道徳の禍因性を看破してということです。
    ニーチェは以下のように述べています。

    「自明なことであるが、──私が愚か者でないとすれば──、非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられるべきであり、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実践されるべきものであり、促進されるべきであるということを私は否定しない。──しかし前者も後者も、これまでとは別な理由からであると私は考える。われわれは学び直さなければならない。──結局おそらく極めて後のことかもしれないが、さらにそれ以上に到達するために、感じ直すために。(曙光103)」

    私は道徳心というのは結局のところ自己保存本能や種の保存本能に根差したものであると考えています。
    人間という種の保存にとってプラスになるのが善で、その反対が悪。
    病原菌は種族の維持という目的に適わないから「悪」玉菌、ビフィズス菌は種族維持という目的に適うから「善」玉菌みたいな発想です。

    実際、昨年日本では熊による被害が急増して駆除していたわけですが、これを動物保護団体が批判したり、世界的には捕鯨が批判されたりするわけですが、その一方では豚や牛、鶏や魚は毎日殺して食べてるわけで、道徳と呼ばれるものは人間優先でしかないわけであってそういうことも自覚すべきだと考えています。
    昔からそのように考えていたのですが、遠い昔、ニーチェに出会って以下のアフォリズムが私の言いたかったことを端的に捉えていてびっくりしました。

    「あらゆる時代の善人とは、古い思想の土を掘り起こし、それで収穫をあげる人間であり、精神の土百姓である。しかしついにはあらゆる土地が利用しつくされる、かくてくりかえし悪の犂頭が到来しなければならなくなる。──こんにちでは、とくにイギリスで名声嘖々たる道徳の根本誤謬があらわれている。それによると「善」と「悪」という判断は「目的に適う」と「目的に適わない」ということについての諸経験の蓄積の結果である。それによれば、善と呼ばれるものは種属を維持するもののことであるし、悪と称されるものは種属に有害なもののことである。だが実際には、悪の諸衝動は善のそれらとそっくり同様に高度に合目的のものであり、種属を維持するもの不可欠のものである、──違うのはそれらの機能の点だけである。(悦ばしき知識 第3番)」

    見事に道徳を解体していると思いました。

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■45198 / )  Re[7]: 哲学者と散歩
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/20(Tue) 20:02:26)
    こんばんは、knowing itselfさん。横レス失礼します。

    No45196に返信(knowingitselfさんの記事)
    > みなさん 横レス失礼します。

    > 散歩がアイデアや思考の素晴らしい手法というか、ツールというか、源泉というか、この点はまったく同意します。

    > ニーチェも散歩の素晴らしさをどこかで語っていた記憶があるので、AIに質問してみたら返答が速攻できました。

    > >ニーチェは「本当に素晴らしい考えは、みな散歩中に生まれる」と語るほど重視し、生涯にわたって長時間の散歩を続けた哲学者でした。

    > カントも散歩好きでしたね。

    永劫回帰を受胎した(永劫回帰の思想が突然ニーチェに閃いた)のも散策中ですね。

    以下、Nietzsche Wonderland > ニーチェ伝 > 哲学成熟期 よりの引用

    1881年病気療養のため各地を転々としていたニーチェは、8月スイスのシルス・マリア滞在中に、その後の思想に多大な影響を与える至高体験に襲われる。
    それはシルヴァプラナ湖畔を散歩中、巨大な尖った三角岩のほとりで起きた。完全な忘我の状態にありながら異常なまでに感覚が研ぎ澄まされる体験の中で、「永劫回帰(※2)」の思想を直観的に突然受胎するというものであった。
    健康の最下点にあったニーチェがランナーズハイに陥り、ある種の幻想体験をもって直観的に閃いたのが、「永劫回帰」という時間および存在概念であったのかもしれない。

    ***************************************

    上記の体験をニーチェは以下のように記しています。

    『完全な忘我の状態にありながらも、爪先にまで伝わる無数の微妙な戦きと悪寒とを、このうえなく明確に意識している。これはまた幸福の潜む深所でもあって、そこでは最大の苦痛も最高の陰惨さも幸福に逆らう反対物としては作用せず、むしろ幸福を引き立てるための条件として、挑発として、いいかえればこのような光の氾濫の内部におけるなくてはならない一つの色どりとして作用するのである。これはまたリズムの釣り合いを見抜く本能でもあって、さまざまな形の広大な場所を張り渡している。──その長さ、広く張り渡されたリズムへの欲求が、ほとんどインスピレーションの圧力と緊張に対抗する一種の調節の役目をも果たしている。…いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。…形象や比喩が自分の思いの儘にならぬことは、最も注目に値する点だ。われわれはもう何が形象であり、何が比喩であるのかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な表現となって、立ち現れる。実際、ツァラトゥストラの言葉を思い出して頂くなら、事物の方が自らに近寄って来て、比喩になるよう申し出ているかのごとき有様にみえる。(この人を見よ ツァラトゥストラ)』

    ***************************************

    どこかに行くための歩行ではなく、散歩とか散策ってのがいいのかもしれませんね。
    西田幾太郎が毎朝散歩してたところが京都の名所「哲学の道」になってますしね。

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■45197 / )  Re[25]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/20(Tue) 18:34:57)
    天才Danza?さまのおかげでひきつづきここでお喋りできて、ありがとございま〜す。
    日曜に投稿しようとしたのを書いちゃうね。

    No45177のようなことわたし考えてるなかで、「自・我」と、「時間」すなわち「感性」との関係が課題となってきたのね。
    で、いろいろ見て見たよ。

    No45141の、(6)-B―の最後の方
    (あ)〔ランドグレーべは、時間形式についてのカントとフッサールの立場上の違いを、フッサールにとって、「アプリオリに与えられた形式という仮定、つまり,そこにわれわれの様々な表象がいわば、収まり、順番づけられて配置されるような形式」は必要ではなく、「むしろ、反省的分析の中で意識における生起が証示され、形式が意識の中で形成されることが解明されうるのである。」と述べている。〕
    の部分、
    〔形式〕→カントコギトによる「感性」の「形式」としての「時間」
    ってして見て、(あ)を、わたしの見方で書いて見ると、

    (a あ) フッサールにとって、《カントコギトによる「時間」]という》アプリオリに与えられた《「感性」における「時間」という》形式という仮定…・順番づけられて《〈我〉が》配置されるような《「感性」における「時間」という》形式…‥《は、》むしろ、反省的分析の中で意識における生起が証示され、《「感性」における「時間」という》形式が意識の中で形成されることが解明されうる。
    っていうふうになるのね。

    あと、資料(8)に、
    (8)-J―――――――――――
    先行研究は、まさに働いている自我が存在することを認めつつも、そうした自我が反省においては捉えられないと、主張する。
    では、まさに働いている自我の存在は、どのようにして認められるのだろうか。「C草稿」においてフッサールも、まさに働いている自我が非主題的・匿名的に存在していることをみとめている(cf. Mat VIII, 2, 16)。さらに、同草稿でフッサールは、自我がまさに働いている場面を、「根源現象」として流れゆく現在と見做したうえで(cf. Mat VIII, 6)、次のように述べている。

    『生き生きと流れゆく現在としての原現象的な存在は、原本的に(originaliter)意識されており、その現在が形づくるすべてのものに向かう、原本的な気づき、知覚の領野である。』 (MatVIII, 7)

    この一節にあるように、フッサールによれば、まさに働いている自我の存在は、原本的な気づき、知覚という仕方で、意識されている。
    ―――――――――――(p118)
    ってあって、
    「まさに働いている自我の存在」、『生き生きと流れゆく現在としての原現象的な存在』→「原自我」〈自〉
    ってして見て、

    (Aup) 「(Hu)原自我」〈自〉の存在は知覚の領野で気づかれる(知覚という仕方で意識される)

    ってして見たのね。

    あと、カントのを振り返って、
    No44093から、
    @「私」は何ら認識され得るような対象ではない。…「私が存在する」という言明は対象認識(判断)ではなく、単なる「意識」である。
    A「私が存在する」という意識が・・・「何らかの実在的なもの」として「知覚される」
    B感じられる意識こそ、カントが本来意図していたところの自己(の存在)意識である
    C「感じ」のような感性系統
    D私の現存在は常にもっぱら感性的なものに留まる
    を抽出して見て見たのね。

    こういうのを見ると、たぶんだけど、カントもフッサールも、〈我〉(考えることするもの)から見ると、〈自〉っていうの、感性(知覚)のうちに“感じ”として気づかれるもの、って思われてるんじゃないかしら?って。
    もっともカントの言う「私」っていうのとフッサールの「自我」っていうのとは違うのかもだけどね。

    「(Hu)自我」については、どうして(Aup) なの?がわたしの課題だったんだけど、いろいろ考えて図cのようにして見たのあるから添付しま〜す。
    フッサールはこんなふうに見てるんじゃないかな?って。
    図Cのようにして見ると、
    「(Hu)「自我」(〈我〉と〈自〉)と、「感性(知覚の領域)」との関係において、
    「(Hu)自我」の〈我〉極にとって、〈自〉極は、「感性(知覚の領域)」に感じとして(匿名的に)気づかれるもの。
    みたいな?

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■45196 / )  哲学者と散歩
□投稿者/ knowingitself -(2026/01/20(Tue) 06:16:38)
    みなさん 横レス失礼します。

    散歩がアイデアや思考の素晴らしい手法というか、ツールというか、源泉というか、この点はまったく同意します。

    ニーチェも散歩の素晴らしさをどこかで語っていた記憶があるので、AIに質問してみたら返答が速攻できました。

    >ニーチェは「本当に素晴らしい考えは、みな散歩中に生まれる」と語るほど重視し、生涯にわたって長時間の散歩を続けた哲学者でした。

    カントも散歩好きでしたね。
返信/引用返信 削除キー/

■45195 / )  ニーチェと「種の起源」(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2026/01/19(Mon) 22:01:12)
    2026/01/19(Mon) 22:22:35 編集(投稿者)

    floraさん、こんばんはー

    以下のfloraさんの感想を読んで「おもしろいな」とおもったのでChatGPTを利用しながら調べてみました(/・ω・)/

    No.45182(floraさん)

    >ニーチェは人間について位階を認めている。生物進化も一部から生じるように人間の精神的進化も万人に生じるわけではない。

    これはすごいですね!ダーウィンの『種の起源』の初版が1859年出版、一方ニーチェは1844年生まれ、ニーチェが15歳にして、英国でかつ英語で記された著作を読んだとは想像するのが難しい・・・精神的進化の部分も考察していたのは正直 驚きでした。

    *******

    ・ダーウィンの『種の起源』をはじめてドイツ語に訳したのは、Heinrich Georg Bronn(ハインリヒ・ゲオルク・ブロン)だそうで、1860年に初版が出ているようです。この独訳はブロンの解釈がかなり含まれたものだったとのこと。

    ・次が、J. Victor Carus(ユリウス・ヴィクトル・カールス)の1867年のドイツ語訳で、これはブロン訳の問題点を修正し、ダーウィン本人にも助言をもらいながら原著に忠実に訳したものとのこと。

    ・ただし研究によればニーチェが直接的に『種の起源』の原著(英語であれドイツ語訳であれ)を読んだ可能性は低いとのことです。

    *******

    ◇松永俊男『『種の起源』のアメリカ版とドイツ語訳』,2023年

    ・h
    ttps://stars.repo.nii.ac.jp/records/9629

    ◇前川一貴『ニーチェの進化論批判 − 器官の形成を巡って 』.2014年

    ・h
    ttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/1925


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■45194 / )  大の里
□投稿者/ 田秋 -(2026/01/19(Mon) 21:46:53)
    大の里は先場所傷めた肩がまだ相当悪いようだ。休場すると思う。
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■45193 / )  Re[5]: チェザーレ・ボルジア
□投稿者/ 田秋 -(2026/01/19(Mon) 21:37:59)
    こんばんは、ディディモさん

    横レス失礼します。

    >日課にしている散歩の途中、ハッと気づきました!

    散歩の威力ではないでしょうか。ボクの場合、散歩の途中でわからなかったことが突然氷解したり、新しいアイデアがパッと浮かんだりすることが一度ならずありました。健康にも良いですしね。

    最近、散歩してないなあ・・・
返信/引用返信 削除キー/

■45192 / )  Re[4]: チェザーレ・ボルジア
□投稿者/ ディディモ -(2026/01/19(Mon) 16:48:22)
    フローラさん今日は。

    >ひょんなことで、ニーチェが、かのチェザーレ・ボルジアに関して興味を示していたことを知りました。

    ん?チェザーレ・ボルジアか・・これ確かにどっかで聞いた名前なんだけどなぁ・・と思いながら、それがどういう機会で、何処で出会った名前なのか、いくら考えても記憶は蘇らず、そのまま2,3日読み流しておりました。

    思い出せないという事は、のどに刺さった小骨のように不快なものです。
    日常の生活では、その気分の悪さを避ける自衛措置?が働いて、そのことは忘れ(ようとし)ていたと思うんですが、体の中の小さなシナプスが微かに蠢いていたんでしょうね、きっと。(^^;)・・日課にしている散歩の途中、ハッと気づきました!

    散歩を途中で打ち切り、大急ぎで帰宅してPCを起ち上げ、ニーチェ倶楽部を開き、検索欄に「ネポティズム」と書いて、検索範囲を「全過去ログ」として検索したら・・アラ不思議!・・でもないか(笑)、チェザーレ・ボルジアなる人物の名前が鮮やかに出ているではないですか!「灯台下暗し」とは、まさにこの事だったんですね。

    その検索では2件ヒットし、私の投稿(No19745)とそれに対するフローラさんのレス(No19809)があり、フローラさんの方に、私のカトリック教会の当時の聖職者の道徳的退廃の指摘に対して

    【私がすぐに思いつくのはスペイン出身のボルジア家でしょうか、かのチェザーレ・ボルジアなどは大司教ですものね。】

    というレスが燦然と輝いておりました。(^^;) 該当箇所をやっと見つけました。パチパチパチ!\(^o^)/

    まぁ、この応答は宗教改革に関してのものですが、良いレス交換だったと思います。

    それと、昨日の投稿で

    >私は若いときに塩野七生氏の『チェザーレボルジア あるいは優雅な冷酷』を読み、それ以降チェザーレの名前は記憶から離れませんでした<

    とありますが、塩野氏自身のチェザーレボルジアに対する評価はどんなものだったでしょうか?「優雅な冷酷」という相反するワードを使った表題に、何か物思わせるもの、怪しげなモノ・・が、ありそうです。

    本題であるニーチェとチェザーレボルジアの親和性については、また時間がある時にでもカキコを。(^^;)
返信/引用返信 削除キー/

■45191 / )  自分の真のアイデンティティ
□投稿者/ knowingitself -(2026/01/19(Mon) 09:28:29)
    「思考」が自分や私ではないことがわかっていること。これが目覚めとか覚醒と密接に関係している。

    確かにその通りだし、最近はこの種の言説がネットなどで拡散して同意を得ている。

    ただ、抽象的一般的な「思考」と自分を同一化しないことは、それほど大したことではない。

    問題は、「思考」とつながる「感情」「身体」「交感神経」「潜在意識」との同一化を外せることができるかだ。

    抽象的記号的言語的な「思考」との同一化は外せても、

    これらと不可分に自分の中で動く、感情や自律神経や身体などの乱れ、動揺、不快感などから本当にどこまで自分を分離できるか。

    ごまかしなしに完全にこれができたとき、覚醒や真の心の解放に近づく。


返信/引用返信 削除キー/

■45190 / )  Re[91]: ありがとうございます
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/19(Mon) 08:19:06)
    2026/01/19(Mon) 20:16:36 編集(投稿者)

    おはようございます、田秋さん。レスありがとうございます。

    No45185に返信(田秋さんの記事)

    > こんばんは、ダンザさん、パニチェさん
    > 復旧お疲れさまでした。

    ありがとうございます。

    > サーバー側のエラーとあったのに直しちゃうんですね!スゴイ!

    フローラさんにもお伝えしましたが管理画面内での私の操作ミスによるトラブルでした。
    ご不便をおかけしましてすみませんでした。
    相談役はレンタルサーバーに入ってファイルを見つけ出し、私の操作ミスを削除し復旧してもらいました。
    ほんと凄いです。救世主です!^^
返信/引用返信 削除キー/

■45189 / )  ニークラについて(トピ作成依頼など) 10
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/19(Mon) 07:58:58)
    ニーチェクラブへの質問、意見、要望などを投稿して下さい。

    意に沿えるかどかはともかく返信はします。


    トピ作成依頼もお気軽にどうぞ♪

    作成するトピ名(&内容)も教えて下さい。
返信/引用返信 削除キー/

■45188 / )  Re[89]: 復旧のお知らせとお詫び
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/19(Mon) 07:57:58)
    2026/01/19(Mon) 08:29:52 編集(投稿者)

    おはようございます、こんばんは、フローラさん。レスありがとうございます。

    No45186に返信(floraさんの記事)
    > パニチェ様、
    > サーバー側の問題なのに、サックと復旧してくださり、ありがとうございます。

    どういたしまして。
    実は管理画面内での私の入力ミスが原因でした。
    すみません(_ _(--;(_ _(--; ペコペコ

    > 週末の土曜日、大変でしたね・・・
    > ダンザ様にもよろしくお伝えくださいませ。
    > おつかれ様でした。

    danza_espanolaさんには本当に毎回お世話になってます。
    しかも無料奉仕ですから足を向けて寝れませんw
    ご不便をおかしてすみません、丁寧なレスをありがとうございました。
返信/引用返信 削除キー/

■45187 / )  雑多な日記
□投稿者/ pipit -(2026/01/18(Sun) 23:08:39)
    人工知能とカントの文章について話し合う。
    さすがのカント先輩もこの未来は想定外!?

    カント先輩の書いてた文章に木の名前を見つける。
    星も木も見てたんですね

    あ!カント先輩が生きていた時に放たれた星の光を現在の私が見ている可能性もあるのかな?!

    今日は(も〜?)勉強いっこもできなかったなぁ
    明日はできるかな?

    この前おっきな松がありました。なんかほのぼのしました。
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■45186 / )  Re[88]: 復旧のお知らせとお詫び
□投稿者/ flora -(2026/01/18(Sun) 23:03:56)
    パニチェ様、

    サーバー側の問題なのに、サックと復旧してくださり、ありがとうございます。

    週末の土曜日、大変でしたね・・・

    ダンザ様にもよろしくお伝えくださいませ。

    おつかれ様でした。
返信/引用返信 削除キー/

■45185 / )  ありがとうございます
□投稿者/ 田秋 -(2026/01/18(Sun) 22:52:54)
    こんばんは、ダンザさん、パニチェさん

    復旧お疲れさまでした。

    サーバー側のエラーとあったのに直しちゃうんですね!スゴイ!

返信/引用返信 削除キー/

■45184 / )  Re[89]: ありがとうございます!!
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/18(Sun) 21:41:15)
    pipitさん、こんばんは。レスありがとうございます。

    No45183に返信(pipitさんの記事)
    > No45179
    >パニチェさん、相談役Danza-Espanolaさん、復旧してくださりありがとうございます!!

    どういたしまして。
    ご不便をおかけしてすみませんでした。

    > 嬉しいです!(^○^)
    > 対処大変だったと思います、おつかれさまでした! m(_ _)m感謝-

    相談役におんぶに抱っこでお世話になりました。
    私にとっては救世主みたいな存在です。
    pipitさん、丁寧にレスいただきありがとうございました。
返信/引用返信 削除キー/

■45183 / )  ありがとうございます!!
□投稿者/ pipit -(2026/01/18(Sun) 21:13:15)
    No45179
    パニチェさん、相談役Danza-Espanolaさん、復旧してくださりありがとうございます!!

    嬉しいです!(^○^)

    対処大変だったと思います、おつかれさまでした! m(_ _)m感謝-
返信/引用返信 削除キー/

■45182 / )  Re[7]: ニーチェとチェーザレ・ボルジア
□投稿者/ flora -(2026/01/18(Sun) 19:47:34)
    パニチェ様、種々の引用等、貴重なお時間を割いてくださりありがとうございます。

    私は若いときに塩野七生氏の『チェザーレボルジア あるいは優雅な冷酷』を読み、それ以降チェザーレの名前は記憶から離れませんでしたが、最近、友人からニーチェがチェザーレに関心を持っていたと聞き、これはパニチェさんに伺って見ようと思った次第です。上記の著作はもとより『君主論』も自宅に有り、引用その他、全く表示出来ない状況にもかかわらず、お返事くださり感謝しております。

    >ニーチェが批判対象としている(ニーチェが思うところの)キリスト教的道徳とは、他者への同情や哀れみ、神の前では平等ということを重んじる、いわば弱者の道徳(奴隷道徳)であり、人間や生が本来有するダイナミズムや創造性を委縮させ弱体化させる禍因であると看破している。

    >ニーチェにとってチェーザレ・ボルジアは倫理的側面からみればアンチクリストであるということ。

    おそらく教皇職に必要にしがみついた実は傲慢な偽善者であった父 ロドリーゴ・ボルジア(後のアレクサンデル6世)が反面教師としてあったかも知れませんね。

    >ニーチェは人間について位階を認めている。生物進化も一部から生じるように人間の精神的進化も万人に生じるわけではない。

    これはすごいですね!ダーウィンの『種の起源』の初版が1859年出版、一方ニーチェは1844年生まれ、ニーチェが15歳にして、英国でかつ英語で記された著作を読んだとは想像するのが難しい・・・精神的進化の部分も考察していたのは正直 驚きでした。

    >精神的な君主たりえるのはやはり少数の人間であり、大多数の人間は畜群的であり、かつ近視眼的でもある。

    >そういう民衆を統治する場合には有害になりうることも想定しなければならないというのがニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』であり、それを実践したのがチェーザレ・ボルジアであるなら、ニーチェからすれば親近感を抱く対象にはなりうる。

    >ニーチェにとってチェーザレ・ボルジアはアンチクリストとして「高級な人間」ではあるが、かららずしも「偉大な人間」と等価ではなく、ましてや超人のモデルではない。

    >何故なら、神の対極である超人は対極であることからして、ひとつの理想的な典型を持ちえないからである。外延としては自律的、自制的な君主道徳を有する対象ではあるが、共通の内包を持ちえないのが超人の本質でもあるからである。

    アンチクリストということは 道徳心を持たないということですか?道徳心とはどこから出てくるものなのでしょうか? 私はこの道徳心というのがわからないのです。

    私は短絡的に、非道徳とか、冷酷、手段を選ばないエゴイストとチェザーレを捉えていましたが、それも考えてみれば、どこから発生したのかわからない道徳心やらに固執した結果からのことなんでしょうね。

    チェザーレ、残念ながらその名の意味の通りシーザー(カエサル)のように志を貫くことは出来ませんでしたね。

    丁寧な御返事ありがとうございました。



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■45181 / )  また一人
□投稿者/ 田秋 -(2026/01/18(Sun) 16:37:49)
    2026/01/18(Sun) 19:37:02 編集(投稿者)

    昨日は日本フィルの東京定期があり、聴きに行ってきた。というか、昨日はボクの親しかった仲間が乗る最後の定期演奏会だったのでそれを見に行ったというのが本当のところである。

    写真上:昨日をもって日フィルを卒業するのはトランペットの中里くん。恒例で最後の定期の時はプログラム終了後、指揮者から花束が贈られる。昨日の指揮者は広上淳一氏で、中里くんと広上氏は共に東京音大出身で歳もほぼ同じ。

    中里くんは実に44年間日本フィルに在籍した。ちなみにボクは30年。ボクが入団した時彼は日フィルに籍を置いてソビエトに留学中だった。ボクが入る前から日フィルにいてボクの退団後9年間日フィルにいた。

    コンサート後近くの店で送別会があり、そこで彼は
    「決してあっという間ではなかったが」
    と言っていた。

    写真下:舞台上で記念撮影。最近恒例となった。

    実はボクは今日から放送大学の試験週間なので、演奏会聴いたらすぐ帰るつもりだったのだが、急に送別会を演奏会終了後にすると決まったと連絡がきたので、帰りの新幹線を2時間あまり遅らせて出てきた。昔の面々が続々と集まり楽しかった。


    昨日の演奏会の批評
    h
    ttps://classicnavi.jp/newsflash/post-38959/

    2枚目の写真に注目!何かを振っているのはビオラ奏者!普通打楽器奏者が受け持つものだが、作曲者の指定によりビオラ奏者が演奏している。
    写真に写っている男性奏者が本番前バックステージで
    「パーカッションとしてデビューしました」
    と言っていた。
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■45180 / )  ニーチェとチェーザレ・ボルジア
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/18(Sun) 14:31:35)
    2026/01/18(Sun) 14:59:41 編集(投稿者)

    ニーチェが批判対象としている(ニーチェが思うところの)キリスト教的道徳とは、他者への同情や哀れみ、神の前では平等ということを重んじる、いわば弱者の道徳(奴隷道徳)であり、人間や生が本来有するダイナミズムや創造性を委縮させ弱体化させる禍因であると看破している。

    ニーチェにとってチェーザレ・ボルジアは倫理的側面からみればアンチクリストであるということ。
    ニーチェは人間について位階を認めている。生物進化も一部から生じるように人間の精神的進化も万人に生じるわけではない。

    精神的な君主たりえるのはやはり少数の人間であり、大多数の人間は畜群的であり、かつ近視眼的でもある。
    そういう民衆を統治する場合には有害になりうることも想定しなければならないというのがニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』であり、それを実践したのがチェーザレ・ボルジアであるなら、ニーチェからすれば親近感を抱く対象にはなりうる。

    ニーチェにとってチェーザレ・ボルジアはアンチクリストとして「高級な人間」ではあるが、かららずしも「偉大な人間」と等価ではなく、ましてや超人のモデルではない。

    何故なら、神の対極である超人は対極であることからして、ひとつの理想的な典型を持ちえないからである。外延としては自律的、自制的な君主道徳を有する対象ではあるが、共通の内包を持ちえないのが超人の本質でもあるからである。


    『カスト制度の秩序は、最上位の、支配的な立法であるので、一つの自然秩序を、つまり第一級の自然法則を、ただ単に承認継承したというにすぎないのであって、いかなる人間の恣意も、いかなる「近代的理念」も、これを左右することなどはとうてい出来ない。・・・カストの秩序、位階秩序は、生そのものの最上の法則を方式化しているだけなのである。三つの型を裁然と区別することは、社会の維持のために、つまりより高い型、最も高い型を可能にするために必要である。──権利の不平等ということがあってはじめて、そもそも権利というものが存在することの条件が成立する。(アンチクリスト 第57番)』

    『「より以上のものとなるためには、いま所有するよりも、より以上に所有しようと欲しなければならない」と。つまり、生あるすべてのものに、生自身をつうじて説かれる教えはこのように主張するが、これがすなわち発展の道徳である。所有し、さらにより以上所有しようと欲すること、一言をもってすれば生長──これこそが生自身である。(力への意志 第125番)』

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■45179 / )  復旧のお知らせとお詫び
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/18(Sun) 13:36:19)
    2026/01/18(Sun) 13:46:06 編集(投稿者)

    相談役のおかげでレンタルサーバーの返事を待つまでもなく復旧しました。

    ダンには感謝感激、雨アラレだす。

    今回もINFOでお知らせしていましたが、次回もあったらダメだけど、もしあったらINFOでお知らせするようにします。

    ご不便をおかけしまして、申し訳ありませんでした。

    相談役には今回もお世話になり、ありがとうございました。
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■45177 / )  Re[24]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/17(Sat) 14:33:29)
    わたしの物語りつづけるね。

    これまでのところからわたしに見えたのを超簡単に整理し直して見たよ。

    No45090で、
    (a)反省のとき、自我の自己分離(分極)と再同一化がおこなわれている。
    ってして見たなかで、
    No45123で、
    (ae)「(Hu)自我」を〈自〉と〈我〉に分けて見る。
    「(Hu)純粋自我」→〈我〉
    「(Hu)原自我」→〈自〉
    で、(a)を、
    (b)〈我〉が反省してるとき、「自我」は〈我〉と〈自〉に分離・分極され、〈自〉によって同一化される。
    ってして見て、
    No45087のデカルトの反省とからめて、
    あと
    No45143で見たように、
    (Auet)先-無時間性の「(Hu)原自我」〈自〉のうちに、時間そのものが形成され、「(Hu)純粋自我」〈我〉は、時間化しつつ時間化される。

    ってして見てるのをまとめてペイントして見たので添付しま〜す。
    ちょっとごちゃごちゃしてるけど、こんな感じのがわたしのいまんとことろのイメージ。

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■45176 / )  Wikipediaからの引用
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/17(Sat) 13:32:23)
    ニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』

    第15章から「臣民や味方に対する君主の態度と政策がどのようにあるべきか」と本来の意味での君主論に移る。マキャヴェッリはチェーザレ・ボルジアに理想的な君主の能力を見ている。第24章からは現実のイタリアに目を向ける。

    君主国における民衆の心理の分析を踏まえて、その対処については「覚えておきたいのは、民衆と言うものは、頭をなでるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである」という見解を示している[3]。つまり、君主は領民を被治者としてだけでなく、潜在的に有害な敵にもなりうる存在として認識すべきことをマキャヴェッリは強調している。

    また、君主の気質として残酷さと憐れみ深さについて考慮すると、憐れみ深い評判の方が好ましいことは自明である。しかしマキャヴェッリは注意を促しており、君主は臣民に忠誠を守らせるためには残酷であると評価されることを気にしてはならないと論じている。憐れみ深い政策によって結果的に無政府状態を許す君主よりも、残酷な手段によってでも安定的な統治を成功させることが重視されるべきである。

    ***************************************

    チェーザレ・ボルジア

    その権力闘争はニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』に大きなインスピレーションを与えた。

    ニッコロ・マキャヴェッリはフィレンツェ共和国から派遣され、チェーザレとの交渉の最前線に立ち、チェーザレの行動をつぶさに観察していた。マキャヴェッリは、チェーザレの死後、外国に蹂躙されるイタリアの回復を願い、統治者の理想像をフィレンツェのメディチ家に献言するため『君主論』を執筆した。マキャヴェッリは『君主論』の中で、「チェーザレは高邁な精神と広大な目的を抱いて達成するために自らの行動を制御しており、新たに君主になった者は見習うべき」[30]とし、「野蛮な残酷行為や圧政より私達を救済するために神が遣わした人物であるかのように思えた」[41]と記した。

    「チェーザレ・ボルジアは冷酷、残忍だと思われていたが、その冷酷さによってロマーニャに秩序を形成して、平和と忠誠をもたらす事となった。(中略)……愛情と恐怖を兼ね備えるのが最も理想的であるが、愛情は自らの利害によって簡単に破られるのに対して、恐怖は必ず降りかかる処罰の為に破られる事は無い……(後略)──マキャヴェッリ 『君主論』 第17章」

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■45175 / )  ニーチェのチェーザレ・ボルジア評
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/17(Sat) 12:25:53)
    『ひとびとは猛獣や猛獣的人間(たとえばチェーザレ・ボルジア)を根本から誤解している。あらゆる熱帯産の怪獣や生物のなかでも最も健康なこれらのものの根底には何やら〈病的なもの〉をさがしたり、それどころか彼らに生まれつきの〈地獄〉を見ようとしているかぎり、ひとびとは〈自然〉というものを誤解しているのだ。──これまでほとんどの道徳家が、そんなふうにやってきたのだ。道徳家というものは、原始林や熱帯にたいする憎悪があるのではないだろうか?そして〈熱帯的人間〉をば、人類の病気か変種とみなすなり、あるいは生来的な地獄か自己拷問とみなすなりして、とにかく是が非でもやっつけなければならぬと思っているのでないか?温和な人間のためになるというのであるのか?いわゆる〈道徳的人間〉のためであるのか?凡庸な者どものためなのか?──これは「臆病としての道徳」という章の主題となるものだ。(善悪の彼岸 第197番)』

    『ここでは「神のまえでの人間の価値の平等」という概念がこのうえなく有害である。それ自体で人間の品位にふさわしいものででもあるかのように。最も弱い者(おのれ自身に対してもまた最も弱い者)の防御手段が価値規範として立てられたことによって、強い人間の全傾向が悪評をこうむった。この取りちがえはきわめてはなはだしくなったので、まさしく生の偉大な達人(この達人の自主性は背徳的で放縦な者とも最も鋭く対立している)が最も恥ずべき名称を烙印された。現今でもチェーザレ・ボルジアのごとき人物は非とされなければならないと信ぜられている。これはまったく笑うべきことである。教会はドイツ皇帝をその背徳ゆえに破門した。あたかもこれは、フリードリヒ二世のごとき人物がおおれに要求することの許されていたことについて、坊主どもが口をはさんでもよいかのごとくである。ドン・ファンのごとき人物は地獄に落とされるが、これまたきわめて無邪気なことである。天国には興味深い人間はひとりもいないということに、お気づきのことがおありか?・・・これは、ご婦人がたが最も身の安全をみつけやすいのはどこであるかということについての一つのヒントにすぎない。──いささか筋道をとおして、さらにそのうえ、「偉大な人間」とは何であるかを深く洞察しながら考えてみれば、教会がすべの「偉大な人間」を地獄に落とすということは、疑問の余地がない、──教会はすべての「人間の偉大さ」に対抗して戦う。(権力への意志 第871番)』

    『はたして私たちはいっそう道徳的となっているかの問題。──「善悪の彼岸」という私の概念に対して、予期していたとおり、周知のごとくドイツにおいては道徳そのものとして通用している道徳的愚鈍のありったけの無慈悲なしうちが──あびせかけられた。だから私はそれについていくつかの面白い話をしなければなるまい。とりわけ私は、道徳的判断における現代の「否みがたい卓越性」を、この点で真になされた私たちの進歩を熟考するよう求められた。チェーザレ・ボルジアのごとき人物は、私たちとくらべれば、私がそうしているように、「高級な人間」として、一種の超人として断じて立てることはできないと言うのである。(偶像の黄昏 第37番)』

    『──私の発する問いはルネサンスの発した問いである──、これにもましてより原則的な、より直截な、全戦線にわたり中心をめがけてより厳しく襲いかかる攻撃の形式もいまだかかつてなかったのである!決定的な地点で、キリスト教自身の本拠で攻撃をしかけること、この場所で高貴な価値を王位につけること、言ってみれば、そこに坐している者たちの本能のうちへと、底の底なる欲求や欲望のうちへと引き込まれること・・・私には完全に超地上的な魅力と五彩の蠱惑をもつ一つの可能性が眼前にまざまざと見える、──私にはこの、この可能性が、洗練された美のあらゆる戦慄のなかで光輝いているかのごとく、そこでは一つの芸術がその緒についているが、しかしそれは神々しく、悪魔と見まちがうほど神々しいので、いく千年をかけて第二のそうした可能性を探しもとめても徒労であるかのごとくと思われる。私は、オリュンポスの神々もすべて不滅の哄笑にさそわれたにちがいないほど、意味深い、同時にまた驚嘆すべく逆説的な、一つの光景をまのあたりにする──すなわち、法王としてのチェーザレ・ボルジアを・・・おわかりであろうか?・・・いざよし、今日私だけがそれをのぞんでいるそのものが、勝利をしめたでもあろうに──、かくしてキリスト教が除去されてしまったのである!(反キリスト者 第61番)』

    『「超人」という語は最高にできのよい人間という一つのタイプを言い表すための語であって、「近代」人とか、「善」人とかキリスト教徒とかその他のニヒリストたちなどとはわけが違う──特にこの語が道徳の絶対者ツァラトゥストラのような人の口で語られると、これは一つの非常に意味深長な語になる──ところがこの「超人」という語が、なんと、ほとんど至る所で、まるで無邪気に、およそ見当外れの価値を意味するものと誤解せられている。…《略》…自分の知識と意志とに反して大のにせ金造りになってしまったあのカーライルの「英雄崇拝」、これを私はあれほど意地悪く拒絶しておいたにもかかわらず、なんと私の「超人」という語にはカーライルの「英雄崇拝」が認められると言った人まである。こんな調子だから、「超人」のなんたるかを知るためにはパルジファルのような正義の勇者よりもむしろチェーザレ・ボルジアのような極悪非道の人間を念頭に思い浮かべておいた方がいいですよと私は或る人に耳打ちしたら、その人は自分の耳を信じようとしなかった。(この人を見よ なぜ私はこんなに良い本を書くのか1)』


    PS.私の意見は夜に投稿させてもらいます。

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■45174 / )  真理 2ー追記
□投稿者/ Appendix -(2026/01/17(Sat) 12:16:12)
    2026/01/18(Sun) 21:40:49 編集(投稿者)
    再々掲載します。

     □投稿者/ Appendix -(2026/01/14(Wed) 23:49:06)

    2026/01/16(Fri) 09:17:19 編集(投稿者)

    再掲載します。

    □投稿者/ Appendix -(2025/09/28(Sun) 12:31:29)

    ある理論が正しいかどうかは現実で検証されてわかる。
    つまり真理は現実的なものだということ。
    すると真理を求める求道者は現実的であらねばならない。
    カントの物自体の認識判断の保留(コペルニクス的転回)は理性的ではあっても
    現実的ではない。
    物の実体はあるか、ないかのどちらかであり、どちらかが現実なのだ。
    唯物論か観念論かどちらかが現実なのだ。
    それを確かめる方法はないものだろうか。

    追記

    フッサールは客観的にある実体をドグマとして主観性に置き換えた。
    無論、実体は判断停止(エポケー)されるが、理性認識としては
    認識できない。だから客観的実体に関しては追求せず、表面的主観性の関係性、
    たとえば、ノエシス・ノエマとか認識できる主観性の関係性を追求する。その
    結果、意味がないとは言えないが、実体があるか、ないかという現実問題に
    蓋をする形になってしまった。物自体というカントの不可知論も同じだ。
    立場としては唯物論や観念論とは異なる理性的認識限界を示したもので
    あるが、その立場は現実的ではない。現実は唯物論か観念論かどちらかなのだ。
    ちょうどrestさんが唯物論と観念論の統合について述べているので、私も
    可能性を否定しない立場に立ちたいと思っている。
    以前restさんが展開していたのは、光や電子の「波と粒子」の二重性から
    物質(粒子)の実体は「波」であり、波動エネルギーで示せる、と。
    すると人間の主観性も感情の波エネルギーがあり、共通しているのではないか、
    と述べていた。感情も起伏のある波で示せる。たとえば客観的世界での破壊的
    エネルギーは主観的世界では憎しみの感情で示せる。
    仮説だが力をベクトルの矢印ー→で物理では示すが、主観的に表現するとベクトルの矢印ー→の右端は「憎しみ」の感情であり、左端は「愛」の感情ではないか、「憎しみ」を作用とすると、反作用も「憎しみ」であり、「愛」を作用とすると、反作用は「愛」となる。憎しみが突き放す作用とすれば、愛は引き付ける作用がある。
    「憎しみ」の反作用としての「憎しみ」は感覚的には「苦痛」の感情で示され、
    「愛」の反作用としての「愛」は感覚的には「喜び」の感情で示される。
    主観的感情の世界の構造を客観的物理の構造で示すことも、逆に客観的物理の世界の力の構造を主観的に示すことも可能である、といえる。
    restさんの「社会哲学」に即していうと、たとえば共同体の類愛は同時に異質なものへの憎しみを派生させている、といえるし、異質な者への愛は同類への憎しみを同時に生じさせているとも言える。

    追記 2

    愛の感情は慈悲の感情ともいわれ、悲しみの感情とも言えるのではないか。

    自分に属する主観以外のものが、外に実体としてある、とする唯物論。
    自分に属する主観以外のものが、外には実体としてない、とする観念論。
    唯物論と観念論の統合ができるか、今は試行錯誤している段階だ。

    ベクトルで憎しみと愛が同時に反対向きに存在しているというのは、
    たとえば他者への愛は同時に自己への憎しみを同時に派生させている。逆に
    他者への憎しみは同時に自己への愛を同時に生じさせている、ということ。
    反作用としての憎しみは、たとえば私が作用として他者を憎んだとき、
    反作用として他者も私を憎むという、物理の作用・反作用の法則が働くのではないか。

    反作用として憎しみを相手が私に向けた時、私は苦痛を覚える。
    逆に反作用として愛を相手が私に向けた時、私は喜びを覚える。
    愛、憎しみ、苦痛、喜び、悲しみなどの力学的構造は唯物論と観念論との
    統合につながるのではないか。

    もしそれらが正しいとすれば、私はイメージとして目の前のコップへ憎しみを向けただけで破壊することができるはずだが実際にはできない。なぜか。
    脳の壁があって、イメージとしての憎しみが脳の外に出ることができないからだ。
    間接的には手を使ってハンマーでコップを割ることができるが、直接的にイメージそのもので割ることはできない。山奥で修行を重ねた僧侶なら、あるいはニーチェのいう優れた超人なら可能かもしれない。凡人にはできない。

    いままでの発明品や創造物はイメージを外部の材料を使って間接的に実現したものだが、直接的に実現することは不可能であるようだ。夢の世界を除いては。
    それが現実だと思う。

    追記 3

    意志とは「憎しみ」の感情を理性によって昇華したものではないか。

    「クオリア」とは意識に現れる「感覚的な質」のことであり、客観的外部にはない
    クオリア独自の世界である。主観的意識の世界。
    外部の世界と関係ない世界とすれば、それは唯物論の立場になる。主観と客観はまったく別と考えるのが唯物論だ。今や科学を通して唯物論が席巻している状態だ。事実上、観念論は否定され影が薄い。
    クオリアは本当に客観的世界と別個のものなのか、再検討する必要がある。
    感覚の痛みというのは外部の他者からの力による作用によって生じる。作用・反作用の法則によればその時同時に反作用としてなんらかの力が働くがそれが「憎しみ」の感情ではないか。
    主観的感性の世界が客観的世界と物理の法則を介在して呼応している。決して別の世界とは
    いえない。



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■45173 / )  Re[3]: チェザーレ・ボルジア
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/17(Sat) 08:46:37)
    こんばんは、おはようございます、フローラさん。レスありがとうございます。

    No45170に返信(floraさんの記事)
    > パニさん、こんにちは。(遅かれながら!)、今年もよろしくお願いいたします。

    こちらこそ、申し遅れました。今年もよろしくお願いします。
    その後、お身体の具合はどうですか?フローラさんにとってよい1年になりますよ〜に♪

    > ひょんなことで、ニーチェが、かのチェザーレ・ボルジアに関して興味を示していたことを知りました。マキアベリがチェザーレをモデルにして『君主論』にて、ある意味理想の君主として描いていたと思うのですが、ニーチェが、冷酷で、当時のカトリック的または道徳的価値観を無視し、目的にためには手段を選ばないチェザーレ・ボルジアに対してどのような興味・関心を示していたのか教えていただけないでしょうか? またそれがニーチェと『超人』とどのように関わるのかもご教示いただければうれしく思います。
    > 私、ご存知のように哲学、ニーチェ、まったく無知ですが、よろしくお願いいたします。

    正直に言いまして、ニーチェのチェザーレ・ボルジア評というのは知りませんでした。
    自分自身の後学のためと、久々にニーチェに関しての嬉しい質問をいただきましたので、これからニーチェ全集索引を調べ、チェザーレ・ボルジアに関して記されているアフォリズムを次回の投稿で引用し、その後に自分の意見を述べさせてもらいます。ちなみに光文堂『ニーチェ事典』にはチェザーレ・ボルジアは載っていませんでした。

    ニーチェに関して自分が知らないことに接する機会をいただき感謝です。
    しばらくお待ち下さい。

返信/引用返信 削除キー/

■45172 / )  最強のテクニック。
□投稿者/ アートポット -(2026/01/16(Fri) 20:15:13)
    ここ数年で急速に広まっているテクニック。傷病手当と失業手当にて。正社員の時に初診日 → 休職で傷病手当(毎月もらっている給料の3分の2)を毎月 1年半もらう → 退職で失業手当を1年くらいもらう → 失業手当をもらっている途中に障害者手帳をもらう → 障害厚生年金をもらう(初診日に正社員だったので障害基礎年金の2倍の額もらえるにて)。

    これがTwitterのスペース生放送機能で急速に広まって真似する人にて続出にて。でも、このテクニックでも貧乏とのこと。奥さんや子供を養えず離婚。

    ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。僕は、時効にてもらえない障害年金800万円にて(国民の皆様に申し訳無いって思っていたから。)。
返信/引用返信 削除キー/

■45171 / )  詐欺と訪問勧誘。
□投稿者/ アートポット -(2026/01/16(Fri) 19:05:47)
    昼3時15分頃に、来訪者「おうちの前の電線工事のお知らせに伺いました。玄関の外まで来てください。」、僕「怪しいので帰って下さい。」。Bingで調べたら、増えはじめている詐欺と訪問勧誘のてぐちらしい。玄関開けずに帰ってもらって良かった。

    ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
返信/引用返信 削除キー/

■45170 / )  チェザーレ・ボルジア
□投稿者/ flora -(2026/01/16(Fri) 17:00:53)
    パニさん、こんにちは。(遅かれながら!)、今年もよろしくお願いいたします。

    ひょんなことで、ニーチェが、かのチェザーレ・ボルジアに関して興味を示していたことを知りました。マキアベリがチェザーレをモデルにして『君主論』にて、ある意味理想の君主として描いていたと思うのですが、ニーチェが、冷酷で、当時のカトリック的または道徳的価値観を無視し、目的にためには手段を選ばないチェザーレ・ボルジアに対してどのような興味・関心を示していたのか教えていただけないでしょうか? またそれがニーチェと『超人』とどのように関わるのかもご教示いただければうれしく思います。

    私、ご存知のように哲学、ニーチェ、まったく無知ですが、よろしくお願いいたします。
返信/引用返信 削除キー/

■45169 / )  バレリーナ大の里
□投稿者/ 田秋 -(2026/01/16(Fri) 16:10:28)
    本来バレリーナは女性形、男性形はバレリーノとなるがこちらはまだ日本語化していないので、バレリーナにしておきます。両手の指先の反りが可愛い。


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■45168 / )  株高円安
□投稿者/ 田秋 -(2026/01/16(Fri) 09:06:04)
    このところの株高円安。

    この状況の判断は経済のプロの間でも色々あるようだ。ボクの判断は「危険の香りがする」だ。

    株高ということは日本企業は投資に値するということで、普通、価値がある物の価格は上がる。今その逆が起きている。

    買うと安くなるはヘンだが、安いから買うと考えれば納得がいく。買いの理由が安さにあるとするならば、中々円安是正の方向には向かわないのではないか。

    輸出関連企業にはメリットがあるが、輸入関連にはデメリットとして働く。大雑把に言えば、今まで100円で買えていたものが1円円安になれば101円かかる。多くの食料を輸入に頼っている日本では家計に直接響く。

    ボクのイメージ
    山小屋で暖を取っている。外は寒い。薪をくべるのなら良いが、山小屋の壁の板を剥がして薪替わりにしている。
返信/引用返信 削除キー/

■45167 / )  バタバタ
□投稿者/ 田秋 -(2026/01/15(Thu) 18:04:02)
    2026/01/15(Thu) 20:37:44 編集(投稿者)

    大の里は今日もバタバタ相撲。最後は運動神経で勝った。

    写真下:一度土俵から浮いた大の里は左足で徳俵付近に着地。
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■45166 / )  Re[19]: 帰ってきた日記
□投稿者/ pipit -(2026/01/15(Thu) 17:22:30)
    そんで
    『すべての直観は外延量である』(B202)

    が、カント的には形而上学としてのアプリオリな総合判断の一つ、ということかなと思いました。

    ど変人!(褒め言葉)

    理解が間違えてたらすみませんー
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■45165 / )  帰ってきた日記
□投稿者/ pipit -(2026/01/15(Thu) 17:19:07)
    みなさまこんばんはー(^O^)

    > No45153
    > (pipitの読書感想)
    >>空間も時間も、ひろがる量として直観される・・・<

    時間の場合、ひろがる、というか加算されていく(ひろがるのイメージを持つことも可能かも?)ので、『数』が成り立つ、というのがカントの理屈かな?と思いました。

    おもしろいな!と思いました(#^.^#)

    さぁワンくんの散歩に行ってこよう!
    U・x・Uサムイ
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■45164 / )  人間はこの二つの作用が交錯する一点
□投稿者/ knowingitself -(2026/01/15(Thu) 14:25:15)
    ヴァーティカルとホリゾンタルというのがある。

    時間軸のうえの展開、流れをホリゾンタルとするなら、

    個人が自分の生のホリゾンタルな過越行く末を考えたとき、そのあまりの複雑さ、豊かさ、意外さに呆然とするのではないだろうか。ある程度人生を長く生きてきた人ならとくに。

    これを人類史、地球史、宇宙史にまで伸ばすと?

    人間なんてあまりにちっぽけで無知すぎだ。

    ホリゾンタルそうだとして、ヴァーティカルは?

    同じ時間軸上の一点にあっても、ヴァーティカルのすべてなど、人間ごときには見渡せない。

    物質にしても、ミクロかマクロまで、その高さと深さは限りない。

    人間とはホリゾンタルな無限性とヴァーティカルや無限性が交錯するところで生きる存在だろう。




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■45163 / )  Re[15]: ヴァーティカルとホリゾンタル
□投稿者/ knowingitself -(2026/01/15(Thu) 14:16:46)
    ヴァーティカルとホリゾンタルは下記と逆が正しい。

    訂正します。そそっかしいのですみません。

    もちろん、時間軸がホリゾンタル、

    時間軸上の同じ一点に垂直に働いているのがヴァーティカル

    No45162に返信(knowingitselfさんの記事)
    > ヴァーティカルとホリゾンタルというのがある。
    >
    > 時間軸のうえの展開、流れをヴァーティカルとするなら、
    >
    > 個人が自分の生ヴァーティカルな過越行く末を考えたとき、そのあまりの複雑さ、豊かさ、意外さに呆然とするのではないだろうか。ある程度人生を長く生きてきた人ならとくに。
    >
    > これを人類史、地球史、宇宙史にまで伸ばすと?
    >
    > 人間なんてあまりにちっぽけで無知すぎだ。
    >
    > ヴァーティカルはそうだとして、ホリゾンタルは?
    >
    > 同じ時間軸上の一点にあっても、ホリゾンタルのすべてなど、人間ごときには見渡せない。
    >
    > 物質にしても、ミクロかマクロまで、その高さと深さは限りない。
    >
    >
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■45162 / )  ヴァーティカルとホリゾンタル
□投稿者/ knowingitself -(2026/01/15(Thu) 14:03:19)
    ヴァーティカルとホリゾンタルというのがある。

    時間軸のうえの展開、流れをヴァーティカルとするなら、

    個人が自分の生ヴァーティカルな過越行く末を考えたとき、そのあまりの複雑さ、豊かさ、意外さに呆然とするのではないだろうか。ある程度人生を長く生きてきた人ならとくに。

    これを人類史、地球史、宇宙史にまで伸ばすと?

    人間なんてあまりにちっぽけで無知すぎだ。

    ヴァーティカルはそうだとして、ホリゾンタルは?

    同じ時間軸上の一点にあっても、ホリゾンタルのすべてなど、人間ごときには見渡せない。

    物質にしても、ミクロかマクロまで、その高さと深さは限りない。


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