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Re[14]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 12:05:53)
| No37210 のつづき、
特にわたしに関心があったのが(3)。 (3)について、とりあえず思いつくままに書くね。
〔はじめに 他我経験の解明にあたり、フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのかを明らかにし、他者経験の問題を受動的綜合の問題として再提起し直すこと、これが本論の目的である。〕 ってある。
「他者」とか「他我」を問題とする前に「私」が問題じゃん、っていってるのかな? わたしのばあい、単純な語で、〈他〉と〈自〉ってしてる。 あ、ここでのは、〈人〉のばあいの〈他〉と〈自〉ね。
(3)に、「ヘルト」っていうのがでてくるんだけど、 No15252 の「対化」(あ、これ、「ついか」って読むんだと思う、たぶん。何かと何かが「対(つい)になる」っていうこと)の中に、 @〔フッサールを内在的に超えてゆく道として、他者経験をむしろ非対象化的・非主題的な次元で捉えるというK.ヘルトの構想に沿って、この対化の現象を手掛かりにして他者経験を受動的総合と発生的現象学において解明しようとする試みもある。〕 ってあるんだけど、この〔K.ヘルトの構想〕っていうの、たぶんそう。 あと、 No36191の(w)「現在化/準現在化/共現在化」の、〔・・・・〕で省略したなかに、 A〔時間講義では原印象とともに現在を形づくる把持や予持は、厳密には現在化ではないが準現在化とも区別されており、共現前化と規定されうる(ヘルト)。〕 っていうのもあって、たぶんこの(ヘルト)、っていうのもそうだと思う。
ヘルトがなに言ってるんかはわたしにはよく分かんなかったんだけど、 (3)では、 〔ヘルトの批判は他者についての本源的意識を、他者を直接的に主題とする意識から、他者についての非主題的意識へと変更する。それによって〈省察する私〉の反省が直接及ばない段階、すなわち受動的構成の段階に共同主観の構成を位置づけるのである。しかしフッサールの他者経験の解明は静態的分析だけでなく、発生的分析を含むものであった。〕 って小林さんは言ってる。 あと、 (6)にもヘルトが登場してて、 〔ヘルトの主張する、フッサールにおける隠れた形而上学的前提としての「自我極と対象極」という批判は、妥当しない解釈であり、自我と対象の極化を定題化しうる発生的現象学の射程に注視せず、それを見落としした解釈である。〕 って山口さんは言ってる。
わたし、〔非対象化的・非主題的な次元で捉える〕っていうの、気になってるところ。
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