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■37318 / inTopicNo.1)  マーラー3番とベートーヴェンの作品135
  
□投稿者/ knowingitself -(2024/05/17(Fri) 20:37:49)
    田秋さん こんばんは

    マーラー3番の第6楽章は、ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲の第3楽章にどこか似ていますね。

    マーラーはベートーヴェンの弦楽四重奏曲をオーケストラ用に編曲したくらいですから、影響関係は自明といっていいのかもしれません。


引用返信/返信 削除キー/
■37316 / inTopicNo.2)  日本の統治者
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/17(Fri) 20:02:01)
    こんばんは、悪魔ちゃん

    知恵袋に同じ質問をしている人がいました。
    https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1484155109

    なかなか的を射た回答だと思います。

    日本は国民主権ですが、どう考えても国民が日本を統治しているとは思えません。

    では岸田総理が統治者かというと???です。

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■37315 / inTopicNo.3)  Re[44]: 虎に翼 韓非子「難勢篇」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/17(Fri) 19:02:35)
    お邪魔しま〜す、田秋さん

    今の日本国の「統治者」って誰になってるの?
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■37308 / inTopicNo.4)  虎に翼 韓非子「難勢篇」
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/15(Wed) 16:11:42)
    「虎に翼」は韓非子の「難勢篇」という篇に出てきます。この篇は慎子という人物の言葉で始まっています。慎子というのは法家の思想家で詳しいことはあまりわかっていません。「慎子」という書物がありましたが散逸してしまい、今は断片(を集めたもの)しか残っていないそうです。

    慎子はまず
    「空飛ぶ龍は雲に乗るが、雲が消えれば(雲に乗ることもできず)ただのミミズと同じだ」
    と言います。そして
    「それは龍が拠り所を失ったからだ。賢人でありながら愚か者に屈服しなければならないのは賢人に権力がないからであり、愚か者でも権力があれば賢人を服従させることができる。聖人の堯でも無位無冠であったなら3人も支配できなかったであろうし、愚か者の桀も天子の座にずっと留まっていたならば世界を支配することができたであろう」
    とし、
    「以上のことから権勢や地位こそが頼りになるものと悟ったのである」
    と言います。

    それに対してある人が反論します。
    「龍が雲という後ろ盾を頼みにしていない、とは言わない。しかし、賢人を無視して権勢だけを頼りにしてはたしてうまく政治を行えるであろうか。そんな例は見たことがない。そもそも龍が雲に乗れるのは龍にそれだけの才能があるからだ。雲があるからと言ってミミズは雲には乗れない。それはそもそもミミズにはそれだけの才能がないからだ。紂や桀が天子になりながら天下の動乱を避けられなかったのは才能が劣っていたからだ。」
    と言い
    「権勢というものは愚か者が手に入れることもあれば賢人が手に入れることもある。そして世には賢人が少なくて愚か者が多い。だから権勢によって世の中が乱れることが多く天下をうまく治まることは少ないのだ」
    さらに
    「そもそも権勢というものは世の中を治めるのに便利であるが乱してしまうのにも便利である。『周書』にも『虎のために翼をつけてやってはならない。翼があれば、きっと村里に飛んできて、人間をとって食おうとするだろう』と書いてある。」

    ここが「虎に翼」の出典部分になります。ここで補足説明をしておくと周書というのは書経の中で周代について書かれた部分を指します。但し、現在の周書には虎に翼の話はなく、晋代に発見された汲冢周書に載っています。

    この後
    「桀や紂が悪行を行えたのは天子という位にいたからで、これが翼に相当する。もしも桀や紂がただの人であったならすぐに死刑になっていたであろう。天下を治めるのに権勢だけで十分だと主張するものは知恵が浅いのである。」
    と結びます。

    以上の話に対してさらに論難する人が現れます。反対の反対ですから最初の慎子の立場からの発言です。「ある人」の論理ということになっていますが、多分韓非子の考えではないかと思います。ただ理解できない部分もあるので、わかったと思うところを所々言葉を補足し、或いは省いて書いてみます。

    尭や舜のような賢人、また紂や桀のような極悪人も千世代に一度現れば良い方だ。その他の君主と言えば、尭や舜ほど賢人でもなく紂や桀ほど愚かでもないのが殆どだ(並の君主)。そういう君主がもし法律による政治を行えば世の中は治まるが、もし法律に従わなければ世は乱れるであろう。

    並の君主が千世代法でもって治め1世代だけ桀、紂が法で悪政を極める場合と、並の君主が千世代法を用いず治め1世代だけ尭や舜が人徳で世を治める場合を比べると、前者が良いのは明らかである。

    大体そのような事が書かれていると理解しているのですが、くれぐれも人に話すときは自分で原典に当たってからにして下さい。m(_ _)m

    現代に置き換えてみると、法治国家を思い浮かべれば物凄く誤った理解にはならないと思いますが、今よく言われる「マニュアル」ですね。これがしっかりと定められ、これをよく理解し、これを判断の糧にすれば、ほどほどの人物でも物事にうまく対処していける、ということを言っているように思います。

    以下は法に関する私見です。並の人間に法を管轄させると四角四面に法を適用し、臨機応変ができません。ただ臨機応変をやりすぎると蟻の一穴から堤防が崩れるように次第に法が乱れてきます。その辺りの匙加減が大変微妙で難しく、やはり統治者は有能でなければならないと思います。

    (中公文庫「韓非子 下」町田三郎訳注を参考にしました)

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■37304 / inTopicNo.5)  Re[42]: マーラー3番の補足
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/15(Wed) 11:18:04)
    おはようございます。パニチェさん

    レスありがとうございます。

    詩を読み返すと《Weh》と《Lust》が対になっています。ちくま文庫では「苦痛」と「快楽」というペアにし、白水社は「悲しみ」と「歓び」の対にしています。日本語の語感だとそれぞれバランスが取れています。これをもし「苦痛」と「歓び」、或いは「悲しみ」と「快楽」の対にすると、バランスが悪く感じます。要するに詩全体のイメージを掴まえて訳して行かないといけないのですね。

    それにしても「悲しみ」と「苦痛」が同じ単語というのは、訳者泣かせ(?)ですね。日本語だと「悲しみ」と「苦痛」はかなり違いますが、ドイツ語圏の人には「Weh」と聞くと迷うこともない何か一つのイメージが湧いてくるですかね?

    今回はボクのマーラーの9番の話から始まって、それにknowingitselfさんが反応し、今度はマーラー繋がりでknowingitselfさんが9番から3番に飛び、それにボクが反応し、わからなかったところをパニチェさんに疑問を投げかけ、それにパニチェさんが応答して下さり、とても有意義な流れでした。

    knowingitselfさん、パニチェさん、ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■37302 / inTopicNo.6)  Re[41]: マーラー3番の補足
□投稿者/ パニチェ -(2024/05/15(Wed) 09:36:36)
    2024/05/15(Wed) 11:04:35 編集(投稿者)

    おはようございます、田秋さん。レスありがとうございます。

    No37300に返信(田秋さんの記事)

    > knowingitself さんがマーラーの3番とツァラトゥストラとの関係に言及されました。その補足です。
    > マーラーがツァラトゥストラから引用しているのは4楽章で、アルトが引用された詩を歌います。
    > https://www.youtube.com/watch?v=6aM9hezKudY
    > マーラーが引用しているのは「ツァラトゥストラはこう語った」の「酔歌」の最後に載っている詩です。「第二の舞踏歌」にもほぼ同じものが載っていますが、一つ!二つ!というのは3番の歌詞にはありません。

    > O Mensch! Gib acht!
    >   おお、人間よ!心せよ!
    > Was spricht die tiefe Mitternacht?
    >   暗い真夜中は何を語るか?
    > 》Ich schlief, ich schlief―,
    >   「わたしは眠っていた、わたしは眠っていた―
    > Aus tiefem Traum bin ich erwacht:―
    >   深い夢からわたしは目ざめた。―
    > Die Welt ist tief,
    >   世界は深い、
    > Und tiefer als der Tag gedacht.
    >   昼が考えていたより深い―。
    > Tief ist ihr Weh―,
    >   世界の苦痛は深い―。
    > Lust―tiefer noch als Herzeleid:
    >   快楽は―心の悩みよりもさらに深い。
    > Weh spricht: Vergeh!
    >   苦痛は語る、過ぎ去れと! と。
    > Doch alle Lust will Ewigkeit―,
    >   しかし一切の快楽が永遠を欲する―、
    > ―will tiefe, tiefe Ewigkeit!《
    >   ―深い、深い永遠を欲する!」

    >   (日本語訳はちくま文庫「ツァラトゥストラ 下」P345〜346より:傍点は省略)
    > これをほぼ正確に使っています。”ほぼ”という意味は、省略している部分はありませんが、繰り返している部分はあるということです。

    > ===
    > 《Weh》について
    > ちくまの日本語訳(吉沢伝三郎訳)は《Weh》を上述のように「苦痛」と訳している。一方、全音のマーラーの3番のスコアの解説を執筆している園部四郎氏は「悲しみ」と訳している。
    > ウィキペディア
    > https://en.wikipedia.org/wiki/Zarathustra%27s_roundelay
    > に載る英訳では該当部分に《woe》という単語を用い、weblioでは第一義に「悲哀」を載せる。また、deeplでは第一義に「災い」を載せ、ついで「悲痛、哀れ、憐れ」と訳される。

    > 私見では「悲しみ」が何となくぴったりするように思う(但し100%根拠のない感覚のみの感想です)。
    > パニチェさん、他の日本語版ではどのように訳されているんでしょうね?


    結論から返信しますと白水社版(個人的には和訳はこちらの方が好みです)では田秋さんのご明察通り「悲しみ」「悲哀」と訳されています。
    田秋さんから振っていただいて、今回初めて気づいた点が他にもあります。

    白水社版では『酔歌』の小題は『夜にさすらう者の歌』と訳されています。
    参考までに白水社版に載っている詩の部分を以下に引用しておきますね。

    ************************************
    白水社版「ツァラトゥストラはこう語った 夜にさすらう者の歌」よりの引用

    おお、人間よ!耳を澄ませ!
    深い真夜中は何をか語る?
    「わたしは眠った、わたしは眠った──。
    「深い夢からわたしは目覚めた。──
    「世界は深い、
    「昼が考えたよりも深い。
    「世界の悲しみは深い──、
    「だが歓びは──悲哀よりも深い。
    「悲しみは言う。<<過ぎ去れ!>>と。
    「しかしすべての歓びは、永遠を欲する──、
    「──深い深い永遠を!」

    ************ 引用終わり ************

引用返信/返信 削除キー/
■37300 / inTopicNo.7)  マーラー3番の補足
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/14(Tue) 23:51:55)
    2024/05/15(Wed) 07:12:02 編集(投稿者)

    knowingitself さんがマーラーの3番とツァラトゥストラとの関係に言及されました。その補足です。

    マーラーがツァラトゥストラから引用しているのは4楽章で、アルトが引用された詩を歌います。
    https://www.youtube.com/watch?v=6aM9hezKudY

    マーラーが引用しているのは「ツァラトゥストラはこう語った」の「酔歌」の最後に載っている詩です。「第二の舞踏歌」にもほぼ同じものが載っていますが、一つ!二つ!というのは3番の歌詞にはありません。

    O Mensch! Gib acht!
      おお、人間よ!心せよ!
    Was spricht die tiefe Mitternacht?
      暗い真夜中は何を語るか?
    》Ich schlief, ich schlief―,
      「わたしは眠っていた、わたしは眠っていた―
    Aus tiefem Traum bin ich erwacht:―
      深い夢からわたしは目ざめた。―
    Die Welt ist tief,
      世界は深い、
    Und tiefer als der Tag gedacht.
      昼が考えていたより深い―。
    Tief ist ihr Weh―,
      世界の苦痛は深い―。
    Lust―tiefer noch als Herzeleid:
      快楽は―心の悩みよりもさらに深い。
    Weh spricht: Vergeh!
      苦痛は語る、過ぎ去れと! と。
    Doch alle Lust will Ewigkeit―,
      しかし一切の快楽が永遠を欲する―、
    ―will tiefe, tiefe Ewigkeit!《
      ―深い、深い永遠を欲する!」

      (日本語訳はちくま文庫「ツァラトゥストラ 下」P345〜346より:傍点は省略)

    これをほぼ正確に使っています。”ほぼ”という意味は、省略している部分はありませんが、繰り返している部分はあるということです。

    ===
    《Weh》について
    ちくまの日本語訳(吉沢伝三郎訳)は《Weh》を上述のように「苦痛」と訳している。一方、全音のマーラーの3番のスコアの解説を執筆している園部四郎氏は「悲しみ」と訳している。

    ウィキペディア
    https://en.wikipedia.org/wiki/Zarathustra%27s_roundelay
    に載る英訳では該当部分に《woe》という単語を用い、weblioでは第一義に「悲哀」を載せる。また、deeplでは第一義に「災い」を載せ、ついで「悲痛、哀れ、憐れ」と訳される。

    私見では「悲しみ」が何となくぴったりするように思う(但し100%根拠のない感覚のみの感想です)。

    パニチェさん、他の日本語版ではどのように訳されているんでしょうね?

引用返信/返信 削除キー/
■37295 / inTopicNo.8)  Re[39]: マーラーの9番 
□投稿者/ knowingitself -(2024/05/14(Tue) 12:39:23)
    田秋さん 書き込みありがとうございます


    > 曲全体の構成をみるとチャイコフスキーの悲愴との類似は明らかです。悲愴の2楽章は風変わりなワルツ、それに対して9番はレントラーでどちらも踊り、3楽章は悲愴はスケルツォ(とは書いてありませんが)、対して9番はブルレスク(これはスコアに書いてあります。無理に日本語にすると諧謔曲、ウィキペディアによれば「 ユーモア と辛辣さを兼ね備えた、剽軽でおどけた性格の楽曲」となります)、4楽章はどちらも遅い曲で死を予想させます(9番の最後にはersterbend;消え入るように、死に絶えてと書かれています)

    > ただ両者の死に方はかなり違うような気がします。悲愴は何か地底に引きずりこまれるように感じます。対して9番は全てを受け入れて《昇華》するイメージを持っています。今でも忘れませんが、ロッホランの時は一番最後、ロッホラン(或いはステージ)から何かが立ち上ってホールの天井へ消えていくのが見えた、様な気がします。

    そうですね。私もマーラー9番の4楽章は、暗さとか救いのなさを感じることはあまりありません。美しい音楽だと思うし、救いや満たされを感じて、また聴きたくなります。

    > knowingitselfさんは曲の冒頭に涅槃を感じられたとのことですが、ボクが曲の最後に感じる昇華と、ひょっとすると同じ(或いは同質の)ものかもしれません。確かにマーラーは前作「大地の歌」で東洋思想に深く入りこんでいます。大地の歌は中国の詩から題材を取っているので仏教に特化している訳ではないとは思いますが、涅槃への理解はあったと思います。knowingitselfさんに比べるとボクはこの曲をやはり西洋音楽と捉えていて、その違いが涅槃と昇華なのかもしれません。この曲を聴いて涅槃を思い浮かべる人がいたとしても、「そういう捉え方もあるのか!」と思いこそすれ、全く違和感はありません。


    同質かもしれませんね。「大地の歌」も女声つきの長い終楽章などは、耽美的でハマる美しさです。

    > 今回この曲を生で聴いて感じたことの一つに、やはりマーラーは1楽章に最も心血を注いで書いたんだなあというのがあります。これはベートーベンの第9でも感じるのですが、あれの音楽的クライマックスが第4楽章にあることは間違いありませんが、ベートーベンが最も力を注いで書いたのは第1楽章ではなかったか、と感じています。マーラーの9番の第1楽章も込められた意図が複雑で難解です。日フィルの生を聴いて、演奏者も観客も容易には寄せ付けない作曲家の想いを感じました。


    最も感動するのは第4楽章で、最も緻密に作られているのは第1楽章なんだろう、と感じています。わたしのようなシロウトは掠るのが精一杯ですね。

    > ワルターの9番です。
    > https://www.youtube.com/watch?v=EMarpnKzflY&t=3s
    > 第1楽章、19’40”の金管の強奏がこの楽章のクライマックスです(5連符→19’20”)。最後の審判というか、煉獄に落とされるというか、いつもそう感じます。これが最後の昇華の伏線になっているのかなと思います。

    > ワルターの演奏は金管の強奏の直前、デクレッシェンドしています。金管の一撃をより際立たせるため
    > 曲の冒頭、殆ど音楽が崩壊、というか細胞にまで分割されています。旋律の体をなしていません。冒頭のチェロとホルンによるリズム音型、このいびつなリズムがこの楽章を支配しているのです。その後のティンパニやビオラの3度の6連符は、第9やブルックナーとはまた違った宇宙の始まりを表しているかの様です。
    >

    ここで直面したくないものを突きつけられて、イヤだ、ぞっとする、怖い、これは聴き手それぞれでしょうね。
    こういうことを書くと、まだ聴いていない人に先入観を植え付けるかも知れませんが、この曲は実に美しい名曲です。

    あと、この1楽章は現代音楽の先取り的な可能性を孕んでいる先鋭な要素をもっているということかも知れません。
引用返信/返信 削除キー/
■37294 / inTopicNo.9)  マーラーの9番 特にknowingitselfさんへ
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/13(Mon) 11:20:44)
    2024/05/13(Mon) 17:51:51 編集(投稿者)

    おはようございます、knowingitselfさん

    knowingitselfさんのマーラー9番の書き込みを読みました。そちらのスレに書こうかなとも思いましたが、長いし写真も添付するのでこちらに書くことにしました。

    マーラーの9番に関しては以前「ラストシンフォニーシリーズ」の第1曲目で書いたことがありましたね。
    No3181
    考え方は余り変わっていませんが改めて書いてみます。

    曲全体の構成をみるとチャイコフスキーの悲愴との類似は明らかです。悲愴の2楽章は風変わりなワルツ、それに対して9番はレントラーでどちらも踊り、3楽章は悲愴はスケルツォ(とは書いてありませんが)、対して9番はブルレスク(これはスコアに書いてあります。無理に日本語にすると諧謔曲、ウィキペディアによれば「 ユーモア と辛辣さを兼ね備えた、剽軽でおどけた性格の楽曲」となります)、4楽章はどちらも遅い曲で死を予想させます(9番の最後にはersterbend;消え入るように、死に絶えてと書かれています)

    参考:レントラー 1’10”辺りから
    https://www.youtube.com/watch?v=G4Yd-Ru3RRQ&t=82s

    ただ両者の死に方はかなり違うような気がします。悲愴は何か地底に引きずりこまれるように感じます。対して9番は全てを受け入れて《昇華》するイメージを持っています。今でも忘れませんが、ロッホランの時は一番最後、ロッホラン(或いはステージ)から何かが立ち上ってホールの天井へ消えていくのが見えた、様な気がします。

    knowingitselfさんは曲の冒頭に涅槃を感じられたとのことですが、ボクが曲の最後に感じる昇華と、ひょっとすると同じ(或いは同質の)ものかもしれません。確かにマーラーは前作「大地の歌」で東洋思想に深く入りこんでいます。大地の歌は中国の詩から題材を取っているので仏教に特化している訳ではないとは思いますが、涅槃への理解はあったと思います。knowingitselfさんに比べるとボクはこの曲をやはり西洋音楽と捉えていて、その違いが涅槃と昇華なのかもしれません。この曲を聴いて涅槃を思い浮かべる人がいたとしても、「そういう捉え方もあるのか!」と思いこそすれ、全く違和感はありません。

    今回この曲を生で聴いて感じたことの一つに、やはりマーラーは1楽章に最も心血を注いで書いたんだなあというのがあります。これはベートーベンの第9でも感じるのですが、あれの音楽的クライマックスが第4楽章にあることは間違いありませんが、ベートーベンが最も力を注いで書いたのは第1楽章ではなかったか、と感じています。マーラーの9番の第1楽章も込められた意図が複雑で難解です。日フィルの生を聴いて、演奏者も観客も容易には寄せ付けない作曲家の想いを感じました。

    ワルターの9番です。
    https://www.youtube.com/watch?v=EMarpnKzflY&t=3s
    第1楽章、19’40”の金管の強奏がこの楽章のクライマックスです(5連符→19’20”)。最後の審判というか、煉獄に落とされるというか、いつもそう感じます。これが最後の昇華の伏線になっているのかなと思います。

    https://www.youtube.com/watch?v=udhHFt--10Q
    アバド 19'10"  5連符→18’52”

    https://www.youtube.com/watch?v=StF5xlXqhjs
    小澤征爾 20'29" 5連符→20'15"

    https://www.youtube.com/watch?v=qyzmka57LkE
    ハイティンク 20’25”  5連符→20’06”

    ここだけ聴いていても仕方ありませんが。。。

    ワルターの演奏は金管の強奏の直前、デクレッシェンドしています。金管の一撃をより際立たせるためでしょうが、スコアにはデクレッシェンドはありません。

    曲の冒頭、殆ど音楽が崩壊、というか細胞にまで分割されています。旋律の体をなしていません。冒頭のチェロとホルンによるリズム音型、このいびつなリズムがこの楽章を支配しているのです。その後のティンパニやビオラの3度の6連符は、第9やブルックナーとはまた違った宇宙の始まりを表しているかの様です。

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■37279 / inTopicNo.10)  マーラーの9番
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/10(Fri) 23:29:03)
    先週に続き今週も上京、今回もコンサートだが今日は日フィル東京定期。日フィルの首席指揮者のカーチュン・ウォンによるマーラーの9番。80分くらいかかる大曲。
    2,3楽章は良かった。4楽章はボクの趣味とは異なるが、それは好みの問題。悪い演奏では無かった。
    1楽章は難しい。ボクのこの1楽章に対するイメージは後期ロマン派が熟しすぎて、あたかも熟柿が落ちる寸前の、そんなイメージ。今日の演奏はもっと生き生きとして溌溂とした感じだった。
    この交響曲の前、大地の歌で「生は暗く、死もまた暗し」と言ったマーラーにしては、健全な演奏だった。

引用返信/返信 削除キー/
■37273 / inTopicNo.11)  オマケ 2
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/08(Wed) 21:42:32)
    鈴虫寺の人気は和尚さんの法話にもあるのかも知れないけれど、一番はやはりそこにいらっしゃるお地蔵さまで、幸福地蔵と呼ばれています。お地蔵さまは普通裸足なのですがここのお地蔵さまは草鞋を履いていて、そういうお地蔵さまは日本全国ここだけだそうです。願掛けをするとその人の所まで来て願いをかなえて下さるのだそうで、和尚さんの話によると、お願いするときは自分の住所も唱えて下さいとのことでした。


引用返信/返信 削除キー/
■37267 / inTopicNo.12)  オマケ
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/07(Tue) 10:28:19)
    2024/05/07(Tue) 20:06:55 編集(投稿者)

    左上 苔寺
    左下 ハネ太鼓
    右上 スミレと揚羽蝶
    右下 発酵御膳
1000×1000 => 600×600

ryokoushasin.jpg
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