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No35001 の記事


■35001 / )  Re[82]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/11(Sat) 15:17:56)
    現象学における「世界」というものについてわたしが抽出したとこをもう少し。

    (k)『人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは、〈知覚〉や〈感覚的なもの〉の段階においてでなければならないのであるが、しかるにハイデガーの言う企投なるものは(『存在と時間』によれば、それがわれわれに現実の理解可能性を与えてくれるはずのものである)、日常的実存の主体が釘を打って物をつくる以上は〈腕をあげ〉、時計を見るからには〈目を向け〉、車に乗って行くからには〈向きを定める〉のだということを、すでにあらかじめ前提しているからなのである。つまり、行動したり身体を動かしたりする機能や知覚の能力が「自明」なものとあらかじめ判断されてしまえば、後は、人間存在が右のようなさまざまの営みを果たしうるというように、なんの問題もおこらない道理であろう。ひとびとが常識の「自明さ」を最後まで問いつめた試しはいまだかつてなかったが、ハイデガーの読者も、われわれの意図している〈世界の記述〉において彼の展開する精細さが、その引きかえに、「つねに−すでに−そこに」あるわれわれの世界(3)をまったく無視していたのだということに、後になって、やっと気づくというわけである。』 (『行動の構造』上p8)
    (3)原注
    フッサールは、この世界を前述語的と名づけ、それを現象学的記述の対象としている。彼は、『経験と判断』のなかでその世界を次のように性格づけている。「環境は、前所与性〔=あらかじめ与えられてあること〕、つまり受動的前所与の領域として、すなわち、われわれがなんの深いかかわりもなく、把捉的まなざしを向けることもなく、なんの関心も目覚めないままのとき、つねに、すでにそこにある前所与性の領域として、同時にそこにあるものである。いかなる認識活動も、個々の対象に向う把捉活動も、すべてこの受動的前所与性の領域を前提としている」(24ページ)しかし、じつはこの前述語的経験は、認識ばかりではなく〈主題〉をもった活動(ハイデガーによれば「として−構造」をあらわす経験〔Sein und Zeit,pp.15lf〕)にも先行するのである。「世界信念(Weltglauben)という、この普遍的基底は、生活的実践であれ、認識という理論的実践であれ、あらゆる実践の前提となるものである。」(25ページ)。〔『両義性の哲学』2ページ〕

    ここんところについてのも、わたしに思われたのは後で。

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