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木村敏「こと」としての生と死(;´・ω・)
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□投稿者/ うましか -(2024/04/27(Sat) 21:48:22)
| ◇ 木村敏『「こと」としての生と死』, 2017年
・https://www.jstage.jst.go.jp/article/itetsu/35/0/35_42/_article/-char/ja
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鷲田清一の「所有論」をヒマをみてはつまみ読みしているが、例によって一向にすすまない(´-ω-`)
ところで鷲田が引用しているなかに長井真理という人物がいるのだが、長井は木村敏の弟子だったとのこと。
上記の木村論文には長井(とミシェル・アンリと)をめぐる興味ぶかい考察が紹介されている。
>ここでアンリは、デカルトのいう videre videor(見ていると私には思われる)の videor(思われる)に伴う感覚性を克明に分析しているのだが、長井はこれ が フ ラ ン ス の 言 語 学 者 バ ン ヴ ェ ニ ス ト Benveniste(7)のいう「中動態」voix moyenne に他ならないことを指摘する。この能動でも受動でもない中動態は、cogito のもつ「私には〈私が……する〉と思われる」という「主体の二重構造」を示している。< [p.42〜p.43「1.「もの」と「こと」ミシェル・アンリと長井真理 中動態への着眼」]
デカルトのcogitoがもつ「私には<私が…する>と思われる」という「主体の二重構造」っておもしろいですね(;´・ω・)
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