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■37545 / inTopicNo.1)  トマス・ネーゲル
  
□投稿者/ パニチェ -(2024/06/21(Fri) 08:42:25)
    「わたしは死にたくない……でも、これを解き明かせるなら死んでもいい」とまで科学者が考えるものとは?
    https://news.yahoo.co.jp/articles/1e6e5de6199e84704fa9d8e2e20dbfdf3cb241dd?page=2
    ******** 以下,上記HPより引用 ********

    一石二鳥の妙案とは?
    わたしは長らく神経科学に身を置き、いつの頃からか意識の不思議に取り憑かれた。これを解き明かせるなら死んでもいいと思った。
    死にたくないと言った矢先に、今度は死んでもいいと曰(のたま)い、さぞかし、言葉が軽いように思えるだろうが、死にたくないとのわたしの思いは本物だ。 では、そんなわたしに、解明できたなら死んでもいいと言わせしめる「意識」とはいったい何か。
    哲学者のトマス・ネーゲルによれば、ずばり、“What it’s like(そのものになってこそ味わえる感覚=固有の内在感覚)” である。
    わたしたちの脳には、脳になってこそ味わえる感覚が数多(あまた)存在する。網膜からの視覚入力を受け、脳がそれを情報処理すれば、脳には「見える」との感覚が生じる。蝸牛(かぎゅう)からの聴覚信号を脳が処理すれば、脳には「聴こえる」との感覚が生じる。悲しい物語に触れれば「悲しい」、難しい意志決定に直面すれば「悩ましい」との感覚が生じる。 たった今、この文章を目にしているあなたの脳にも間違いなくそれは生じている。なにも難しいことを言ってるわけではない。白色の紙面に印刷された黒い文字が見えているだろう。ただそれだけの話だ。

    みなさんの狐につままれたような顔が目に浮かぶ。それが意識だとして、それが何か? と。ではラビット・ホールへとご案内しよう。
    生まれてこの方、世界を見て、聴いて、感じてきたあなたからすれば、それらの感覚は当たり前のものに思えるに違いない。それこそが意識であり、その根底には、現代科学では説明のつかない深遠なる謎が横たわっていると聞かされても俄(にわ)かには信じられまい。 ただ、ここで断言したい。脳にそれらの感覚(=意識)が生じることは、決して当たり前のことではない。マリー・アントワネットにとって当たり前のものであったケーキが、当時の庶民にとって当たり前のものではなかったのと同じように。
    しかし、マリーであるあなた、意識そのものであるあなたは、なかなかそのことに気づかない。意識の定義と意識の不思議は表裏一体の関係にあり、それらをきちんと理解するには、ある種の悟りが要求される。そして、悟った刹那、大きな衝撃があなたを襲う。

    先述のわたしの一石二鳥の妙案とは、まさにこの意識の難問に挑む、新たな科学的アプローチに他ならない。意識の問題の本丸、「そのものになってこそ味わえる感覚」を直接的に扱い、それを解き明かそうとするものだ。
    「意識の解明」と「不老不死の実現」。おそらく宇宙人はすでに達成している。産業革命から凡そ300年、我らが人類も、そろそろ本気でとりかかってよい頃合いだろう。
    渡辺 正峰(東京大学大学院工学系研究科准教授)

    ************* 引用終わり *************

    笑い話
    私の部屋というか寝室の書棚にトマス・ネーゲル著・永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』という本がある。
    家内が書棚のホコリ取りをする際にいつも「『コウモリであるとはどのようなことか』とはどういうことか?」と疑問を持つらしいwww
    しかしその疑問には全く興味がなく「なにそれ?」程度の変人に抱く?マークのようなもの。
    私も「『コウモリであるとはどのようなことか』とはどういうことか?」をどういうことか説明する自信と気力がないwww

引用返信/返信 削除キー/
■37525 / inTopicNo.2)  Re[22]: 桜桃の双子果
□投稿者/ akaimi -(2024/06/20(Thu) 09:41:13)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No37522に返信(パニチェさんの記事)
    > 2024/06/19(Wed) 20:41:37 編集(投稿者)


    >>さくらんぼの双子果が今年出荷分に多いそうです。
    >>花芽が出た昨年夏の高温で雌しべが2本できてたところに2つとも受粉し双子果になったという理由だそうで。
    >>今後、夏の高温が例年となり双子果が普通になったとしたら、そうした変化は、突然変異と獲得形質遺伝のどちらに分類されますか?
    >
    > 以下は素人の発想でもってダラダラと書いてみますね。テッキトーにスルーして下さい。
    >
    > 結論から言えば花芽の異常形成は突然変異だと思いますが、突然変異がランダムに起きるという従来の発想ではなく、自然環境と密接に結びついており、ひょっとすると酷暑を耐え抜くためのある種の方向性をもった進化である可能性も否定できないと思うのです。
    > 双子果の場合は通常よりも種が多いわけで、そのことからすると酷暑での生き残りをかけた変化(進化)ではないか、と。


    酷暑という自然環境と密接に結びついた変異であり、従来の発想に依るランダムな突然変異ではなく、酷暑を耐え抜くためのある種の方向性をもった進化である可能性も否定できない、ということですね。

    双子果にできる種も言われてみればそうですよね、2個になりますね。

    酷暑というストレス下で生き残るための確率をあげる変化(進化?)とも言えるのかな。

    このまま酷暑が続くとなると動物や人間にも、このサクランボのような変化が将来起こる可能性もあるかもしれません。

    > 20年以上前の2年以上に及ぶネオダーウィニストとの論争中に読んだスチュアート カウフマン著『自己組織化と進化の論理』のインパクトが強烈で未だに影響されているところもあるんですが。。。
    >
    > 生物進化を自然と切り離して考えること自体が間違っているように考えています。
    > セントラルドグマによって自然や環境からの生後の影響(獲得形質)は生物進化から長年にわたって排除され続けていましたが、例えば雪の結晶や砂紋等々(DNAに依存することなく同様の形質が自己組織化によって再現される)、生物に限らず自然と結びついた自己組織化をはじめとした複雑系の法則はあらゆる分野を貫いた普遍的な法則のように思うのです。

    雪の結晶、砂紋・・リアス式海岸のギザギザも同じ仕組み? なにかで見た記憶があります。

    おでこに横皺が数本並んでできてる人・・同じような形の皺が並んでる場合、こちらはDNA依存(親や先祖からの遺伝)だと思いますがが、遺伝ではなく心理的なもので出来た親の皺が子供に獲得形質遺伝するというのも可能性として無くはないのじゃないかとかふと浮かびました。
    (別トピでパニチェさんが載せられていたホロコーストによるトラウマのことから連想しました。)

    > そういう意味では獲得形質遺伝と突然変異も結びついており、両方の要素があると思います。

    わかりました。ありがとうございました。<(_ _)>

    > 答えをはぐらかすような返信になっているかもしれませんが、現時点での私の素人なりの正直かつ稚拙な意見です。^^

    いえいえ全然はぐらかされた気持ちはしないですし、知識が皆無に等しい私ですが納得しながら読ませていただけました。
    ありがとうございます(^^)!


引用返信/返信 削除キー/
■37522 / inTopicNo.3)  Re[21]: 桜桃の双子果
□投稿者/ パニチェ -(2024/06/19(Wed) 17:56:32)
    2024/06/19(Wed) 20:41:37 編集(投稿者)

    こんにちは、akaimiさん。レスありがとうございます。

    No37519に返信(akaimiさんの記事)

    > パニチェさん、おじゃまします。
    > ふと関心もったことについて質問させてください。

    > さくらんぼの双子果が今年出荷分に多いそうです。
    > 花芽が出た昨年夏の高温で雌しべが2本できてたところに2つとも受粉し双子果になったという理由だそうで。
    > 今後、夏の高温が例年となり双子果が普通になったとしたら、そうした変化は、突然変異と獲得形質遺伝のどちらに分類されますか?

    以下は素人の発想でもってダラダラと書いてみますね。テッキトーにスルーして下さい。

    結論から言えば花芽の異常形成は突然変異だと思いますが、突然変異がランダムに起きるという従来の発想ではなく、自然環境と密接に結びついており、ひょっとすると酷暑を耐え抜くためのある種の方向性をもった進化である可能性も否定できないと思うのです。
    双子果の場合は通常よりも種が多いわけで、そのことからすると酷暑での生き残りをかけた変化(進化)ではないか、と。

    20年以上前の2年以上に及ぶネオダーウィニストとの論争中に読んだスチュアート カウフマン著『自己組織化と進化の論理』のインパクトが強烈で未だに影響されているところもあるんですが。。。

    生物進化を自然と切り離して考えること自体が間違っているように考えています。
    セントラルドグマによって自然や環境からの生後の影響(獲得形質)は生物進化から長年にわたって排除され続けていましたが、例えば雪の結晶や砂紋等々(DNAに依存することなく同様の形質が自己組織化によって再現される)、生物に限らず自然と結びついた自己組織化をはじめとした複雑系の法則はあらゆる分野を貫いた普遍的な法則のように思うのです。

    そういう意味では獲得形質遺伝と突然変異も結びついており、両方の要素があると思います。
    答えをはぐらかすような返信になっているかもしれませんが、現時点での私の素人なりの正直かつ稚拙な意見です。^^

    > まったく的外れなことを言ってるかもで、すみませんm(_ _)m

    全然、大丈夫です。^^

引用返信/返信 削除キー/
■37519 / inTopicNo.4)  桜桃の双子果
□投稿者/ akaimi -(2024/06/19(Wed) 14:34:40)
    2024/06/19(Wed) 15:14:05 編集(投稿者)

    パニチェさん、おじゃまします。
    ふと関心もったことについて質問させてください。

    さくらんぼの双子果が今年出荷分に多いそうです。
    花芽が出た昨年夏の高温で雌しべが2本できてたところに2つとも受粉し双子果になったという理由だそうで。

    今後、夏の高温が例年となり双子果が普通になったとしたら、そうした変化は、突然変異と獲得形質遺伝のどちらに分類されますか?


    まったく的外れなことを言ってるかもで、すみませんm(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■37476 / inTopicNo.5)  Re[19]: 聖なる沈黙
□投稿者/ 時 -(2024/06/11(Tue) 21:47:47)
    悪魔ちゃんへ。こんばんは。

    No37472に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    >「固執」がないと何かを「する」っていう行動も生まれないんじゃないかしら。

    その通りだと思います。何も知らない状態から何かを知ろうとすると、そこには、知りたいという欲望やそれをどうにかしたいという衝動や梵行という行為に固執しますね。それらを経て、学得し体験して、最終的にそれらを捨棄してこれらに拘らず、固執せずに住するのですね。

    >「心の平安に至る」ことをブッダが望んでいたのだとしたら、そういうのにブッダは「固執」してたんじゃない?って見れるんだけど。

    固執を検索すると、自分の意見を押し通し、妥協しないこと。(Weblio辞書)と出てきますが、仏陀は、このような意味での主張をしていません。というか、他にも何かを対立的に主張する事自体をしていませんので、我々には分かりずらいのだろうと思います。ですので「心の平安に至ること」にも固執していなかったと思いますね。

    No37470
    >>恐らく仏陀の言っていたことは、それらを捨棄してこれらに拘らず、固執せずに住しなさいという事だったのだろうと思いました。

    恐らくは、こちらが主であり、上記の境地の事を心の平安と表現したのだろうと思います。苦行から離れた仏陀が最終的に出した答えだったのだろうと思いましたが、それは「固執しないという事に固執している!」ように見えるなんて事になると、もう、ギブアップです。(笑)

    レスをありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■37472 / inTopicNo.6)  Re[18]: 聖なる沈黙
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/11(Tue) 19:24:13)
    「固執」がないと何かを「する」っていう行動も生まれないんじゃないかしら。

    「心の平安に至る」ことをブッダが望んでいたのだとしたら、そういうのにブッダは「固執」してたんじゃない?って見れるんだけど。


引用返信/返信 削除キー/
■37471 / inTopicNo.7)  Re[17]: 聖なる沈黙
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/11(Tue) 19:16:58)
    「チューリングテスト」自体、あやしいよね〜。

    「問答」っていうのをどう見てるのかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■37470 / inTopicNo.8)  聖なる沈黙
□投稿者/ 時 -(2024/06/11(Tue) 13:17:55)
    仏教を説明するとなると、やはり難しいですね。

    仏典内での仏陀が「このように表現した。」というのは、仏典を読んで理解して言葉や文字として表現すればできますが、伝えたかった事というのは言語化でききれないように感じます。なぜならば、言語化する直前には、想念内に何某かの無常なる色等が沸き起こり、夫々の解釈と同時にそれを言語や文字として現すのですから。

    仏陀が何を伝えたかったのかという事を強いて表現するのであれば、一切のそのようなことに固執しないで平安でいなさいよという事だろうと思います。というよりも、一切に対する固執がなければ、その他の選択肢はなく、平安でしかないという事なのでしょう。そのようにしか読み解けません。

    ここでいう「そのようなこと」と言うのは、論理的にどうとか道徳がどうとか、梵行でのロジックがとか戒律を守るだとか誰かよりも知っているとか知らないとかといった事ですが、このような事柄に固執せず、執着せずに平安でいなさい。という事だったのだろうと思います。当時仏陀は、それを言語化してたのだろうと思います。

    一切を尊重せずに、一切からの離貪。貪りは感受より生起するので、感受の生起と滅尽を遍知し、その受の因であるその触の生起と滅尽の法を遍知する。そして離貪する。

    迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)の生起の道理は、六内外処から六識が生起し、これら3つで六触です。この六触から三受が生起し、それが想念に沸き起こります。沸き起こった想念について尋して迷妄が生起します。

    現代においても、我々凡夫がそれを知るためには、やはりあーだこうだと思考し、そのロジックを考えて、思考内でそれらがつながった時喜びが沸き起こりますが、それが当たり前になった時、その喜びは消滅します。

    ある仏典によると、有尋有伺や無尋有伺よりも無尋無伺が優れているという表現がなされていますが、無尋無伺が優れているという事実の理解に至るためには、有尋有伺や無尋有伺を体験しなければなりません。3つの定を知った後の、無尋無伺が優れているという事を知るのですね。ですので、この表現を用いれば、何も知らない人に対して「無尋無伺が優れているのですよね?」と問いかけたとしても、まずは、何の事を言っているのか理解できないはずですね。それは、言葉としての他の2つとの比較での体験においてのその意味内容を知らないからです。

    古い業から新しい業へと変化し、やがてその新しい業も滅尽します。これも仏陀の説いた内容から読み解ける道理です。

    古い業は、我々不善人の想念の事で、新しい業は、善人の想念。それらを超えた、いわば業の滅尽した境地。業が想念・思念の事ならば、業の滅尽は想の滅尽となり、想受滅となりますね。

    五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)の中で、受蘊・想蘊・行蘊の因縁は触であるという記載がありますが、触の滅尽が出来たのであれば、少なくとも受蘊・想蘊・行蘊は滅尽できます。色蘊の因縁は、四大種です。残る識蘊の因縁は名色です。

    もしも想念の滅尽が起こったのであれば、その時、四大種も名色も消滅するでしょう。

    通常我々凡夫は、五取蘊の状態でいます。学得により、五取蘊から五蘊の状態を知ります。この時の教えが五蘊非我です。そして、五蘊の状態をも滅尽した境地というややこし気なロジックが見えてきます。なるほどその境地を直接の言葉で言語化できないはずです。言語化できるとすると、それ以前には尋があり、尋の直前には想があり、受があり、受の直前には触が、識が、六処があるのですから。

    算数で、1+5=6。これを3倍すると、(1+5)×3=18 といったような式は、仏教では成り立たないように思います。つまり、戒律を守れば、道徳を守れば、梵行を行えば、心の平安に至るとは言えませんし、戒律を守らなくても、道徳を守らなくても、梵行を行わなくても、心の平安に至るとは言えないという事でしょう。

    恐らく仏陀の言っていたことは、それらを捨棄してこれらに拘らず、固執せずに住しなさいという事だったのだろうと思いました。

    そこに固執がなければ、論争も起こりえませんし、聖なる沈黙も担保されます。道理です。
引用返信/返信 削除キー/
■37410 / inTopicNo.9)  人工知能と知能関連ニュース
□投稿者/ パニチェ -(2024/06/02(Sun) 08:05:31)
    チューリングテスト
    https://www.itmedia.co.jp/aiplus/articles/2405/29/news052.html

    ******* 以下上記HPより引用 *********

    米カリフォルニア大学サンディエゴ校に所属する研究者らが発表した論文「People cannot distinguish GPT-4 from a human in a Turing test」は、AIが人間と区別がつかないレベルに達しているかどうかを調べるために、チューリングテストを実施した研究報告である。チューリングテストとは、人間の判定者が、人間とAIのどちらかと会話し、相手が人間かAIかを当てるというものである。実験では、参加者500人を対象に、3種類のAI(ELIZA、GPT-3.5、GPT-4)と人間が、判定者役の人間参加者とランダムにマッチングされ、テキストチャットで5分間の会話を行う。判定者には、相手が人間かAIかを判断し、その確信度と理由を答えてもらった。結果として、GPT-4は54%、GPT-3.5は50%の確率で人間だと判定された。これは古典的なAIであるELIZA(22%)よりも高く、統計的にチャンスレベル(50%)と有意差がなかった。一方、実際の人間は67%の確率で人間と判定された。

    ************ 引用終わり ************


    意識は、脳が金属イオンをどう扱うか? にかかっている可能性がある
    https://www.esquire.com/jp/news/science/a60781695/consciousness-brain-metals-link-study/

    ******* 以下上記HPより引用 *********

    ・世界は現在、感情のあるAIの台頭を懸念しているかもしれないが、人間の意識はまだまだ探求の余地がある分野である。
    ・エルサレム・ヘブライ大学の科学者たちによる新しい研究は、よく知られた二つの神経科学理論に新しい視点を提案するもので、人間の意識における記憶の重要性を探るものである。
    ・研究者たちは、脳が金属(陽)イオンを使って記憶ユニットを形成する仕組みを理解することで、意識の生化学的形成をより深く掘り下げ、アルツハイマー病や自閉症など特定の脳障害の背後にある潜在的な原因を発見したいと考えている。

    ************ 引用終わり ************

引用返信/返信 削除キー/
■37340 / inTopicNo.10)  景教碑
□投稿者/ 時 -(2024/05/22(Wed) 11:15:35)
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/66/2/66_744/_pdf

    イギリスの女性宗教研究家であるE・A・ゴルドンの研究で、結論的には、空海は長安より景教の教義を密教に取り入れて日本に持ち帰ったとのことでした。

    景教とは、キリスト教で異端と判断されたネストリウス派の中国での呼び名なのだそうです。

    特に、ゴルドンは高野山に景教碑(レプリカ)を建立したという事で、それは今も残っているようです。

    真言宗の総本山である高野山が、なぜ景教碑(レプリカ)を受け入れたのか?真言密教の儀式で十字を切る仕草や、額に水滴を注ぐ灌頂の儀式。そのように考えてみると、納得できそうな気がします。

    詳しく詰める気はありませんが、興味深い考察でした。
引用返信/返信 削除キー/
■37280 / inTopicNo.11)  説法の順番
□投稿者/ 時 -(2024/05/11(Sat) 10:59:11)
    仏陀は、法の順番として何を教えたのか?

    まずは、五比丘へ初期の法を説きました。
    その時の内容は、五妙欲を教え、次には四禅定そして無色界定という事で、これは、悪しき者の認識範囲に入らない処へ到達した境地の者という事だったようです。

    当時、五比丘+仏陀ということで6人の中だけで説かれた法でした。

    五妙欲(五根によって識られる、欲の具わった、染心を煽る五境)から四禅定(初禅・二禅・三禅・四禅)、そして(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)という事で、悪しき者の認識範囲に入らない処へ至るという事を説いたようです。ここでいう悪しき者の認識範囲に入らない処とは、四禅定の初禅からの処の事を表現しているようですね。つまりは、九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の初禅に至れれば、悪しき者の認識範囲に入りませんので、輪廻転生はないという事になります。

    他経典でも、初禅は、(段階的な)慧解脱という事で説明がされているようですが、より求められるのであれば、完全な慧解脱という記載もあるようです。これは、その各人の機根次第だという事になるのでしょうか。

    そして月日がたち、サーリプッタとモッガラーナの一団約500名ほどが仏陀の元に合流した後での説法の基本は、波羅提木叉の防護→六根の防護→飲食の適量を知る事→不眠の実践→正念正知→遠離せる住処→五蓋の捨→四禅定という事です。

    仏陀の中では、まずは波羅提木叉の防護を教え、それを修習すると六根の防護を教えるといった順番があったようですね。

    五比丘の時と比較して教えが多くなっており、まずは最初に不善な事柄より自らの心を守る方法を教えていたのが理解できます。当時の真面目な部類の修行者たちは、教えにより自らの心を守りつつ梵行に励んでいたのでしょう。

    そして仏陀独自の四禅定の教えの修習により慧解脱者は多く誕生したものと思います。そしてこの慧解脱者に、識無辺処だ無所有処だという事を尋ねても答えられませんし、答える必要もなかったのですね。

    仏典内容から、いつ?というのは分からないのですが、初期の五比丘への説法と人数が増えた頃の説法と、それ以降のものとは違ったと思われますが、最終的に目指したものは同じに思います。

    出家者は、現世での苦の滅尽に伴う輪廻の終焉(般涅槃)であり、在家者は、次世の天界への転生からの般涅槃です。
引用返信/返信 削除キー/
■37140 / inTopicNo.12)  持戒
□投稿者/ 時 -(2024/04/19(Fri) 12:00:26)
    今から約2500年前、仏陀存命中の僧伽は出家者の集団でしたが、そこでは戒が守られる事がまずはの目標だったのでしょう。所謂、持戒ですね。今お話する戒には、大きく分類して、小戒、中戒、大戒と3つほどあったようです。

    小戒は、殺生を断じて一切の生物生類を哀愍して住し、偸盗を断じ、非梵行を断じて淫欲から離れ、妄語を断じて、真実を語り世間を欺かず、両舌を断じ、悪口を断じ、綺語を断じ、夜食を慎み、立派な寝床から離れ、山羊や羊を受け取ることから離れ、何某かの売買から離れ、欺瞞や詐欺、何某かの破壊、殺害、拘束等から離れると言ったものです。

    中戒は、食物の飲料の衣服の財の貯蔵から離れて住し、闘牛、闘鶏等の見物から離れ、賭博や囲碁等の遊び事から離れ、立派な寝床から離れ、装身具を装飾することから離れ、無益な話から離れ、各論争から離れ、虚談から離れると言うものです。

    大戒は、手相占いや夢判断、火による護摩や血液占い、土地、宅地の占い事や呪文、火を噴く事、願掛け、地鎮祭や外科手術等の無益な呪術によるよこしまな生活から離れていると言うものです。

    よこしまな生活というのは、八支聖道の中の正命に対する八支邪道の中の邪命(欺瞞、虚談、占相業、詐欺等によって利得を貪求する事)ですが、その他にも多くの事が記載されているようです。しかし、これらを全てを記憶する必要はありません。記憶してもその意味がないからです。

    上記の持戒の共通項は、出家者の目標とされた戒です。そして仏陀を始めとした、サーリプッタやモッガラーナ等の阿羅漢果の者達は、当然守れたであろう戒です。なぜならば、当時の阿羅漢果は無所有の実践者だったからです。

    あるときアーナンダが村人と雑談をしていたのを知ったその地域の神が、雑談することに何の意味があるのですか?禅定を成しなさい。と注意を促したという経典があります。これはおそらく、アーナンダの心の中に一瞬湧き起こった自らの気づきだったのだろうと思います。そしてこれらに気づけるのも気づけないのも、本人の機根が導く運命次第という事になるでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/

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