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■33859 / inTopicNo.1)  哲学全般、仏教、科学etc 15
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/10(Tue) 20:00:15)
    トピ主:パニチェ


    ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、比類なき先言の<私>など哲学全般


    初期仏教、中論、唯識、華厳、大乗仏教


    脳科学、進化論、物理(相対性理論、量子力学)、科学哲学などなど



    上記でなくても何でもどうぞ♪
引用返信/返信 削除キー/
■34227 / inTopicNo.2)  Re[1]: 哲学全般、仏教、科学etc 15
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/19(Thu) 14:59:28)
    こんにちは、パニチェさん

    「秘密の日記」の話の流れから論考6・4311が出てきました。
    死は人生の出来事にあらず。人は死を体験せぬ。
    永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きるものは、永遠に生きる。
    (秘密の日記より引用)
    二つ質問があります。
    ・この「人は死を体験せぬ」というのは排他的論理和のように生と死は同時には成立しない、死ぬと生が終わるからという意味ですか?

    ・後半に出てくる「無時間性」はパルメニデスが主張した「あるものは常に現在において存在する」と同じ意味ですか?
引用返信/返信 削除キー/
■34450 / inTopicNo.3)  アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/20(Fri) 20:30:44)
    こんばんは、田秋さん。レスありがとうございます。

    No34227に返信(田秋さんの記事)

    『論考』の当該箇所を読み直して返信しますが、どうも私の解釈は禅的な発想が色濃く反映されており自信がないです。
    仮に私の解釈が正しければウィトゲンシュタインこそ「論理と言語による見性悟道」の実践者みたいに見えてくるから不思議です。

    > 「秘密の日記」の話の流れから論考6・4311が出てきました。
    > 死は人生の出来事にあらず。人は死を体験せぬ。
    > 永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きるものは、永遠に生きる。
    > (秘密の日記より引用)

    > 二つ質問があります。
    > ・この「人は死を体験せぬ」というのは排他的論理和のように生と死は同時には成立しない、死ぬと生が終わるからという意味ですか?

    「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」
    上記は独我論を言い表しています。独我論的世界には他者の死は存在しても「私の死」は存在しません。
    独我論的世界、言い換えれば「私の生(人生)の世界」であり、その意味において「人は(自分の)死」を「私の生(人生)の世界」では体験しないということではないでしょうか。

    > ・後半に出てくる「無時間性」はパルメニデスが主張した「あるものは常に現在において存在する」と同じ意味ですか?

    今ここに過去はない、そして今ここに未来もない。
    今ここにあるのは今という瞬間であり、そこに過去も未来も集約される(道元禅師の“而今”今に生きると重なります)。
    永遠が過去から未来へ継続するような幻想的な時間のことではなく、この瞬間の無時間性であるなら、今この瞬間に生きているものは、永遠に生きるということだと思います。

    蛇足ですが、この発想は空間(アドヴァイタ)から見性へと導く禅的なアプローチと、時間(而今)から見性へ導く禅的なアプローチと相通じると思います。


    PS.ザビビのふくろうさんの解説もリクエストしたいなぁ〜。

引用返信/返信 削除キー/
■34487 / inTopicNo.4)  Re[3]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/20(Fri) 22:47:52)
    こんばんは、パニチェさん

    返信ありがとうございます。

    初めの質問に関して:
    やはり生と死は同時には存在はしない、というように感じてしまいます。独我論の我というのは生きているということが前提ではないのでしょうか。

    後の方の質問に関して:
    現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性ということなんですね(この理解で合ってますか?)

    >ザビビのふくろうさんの解説もリクエストしたいなぁ〜。
    禿同
引用返信/返信 削除キー/
■34577 / inTopicNo.5)  Re[4]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/21(Sat) 07:53:22)
    おはようございます、田秋さん。レスありがとうございます。

    No34487に返信(田秋さんの記事)

    > 初めの質問に関して:
    > やはり生と死は同時には存在はしない、というように感じてしまいます。独我論の我というのは生きているということが前提ではないのでしょうか。

    それはその通りだと思いますがウィトゲンシュタインが6.431〜6.4311で表明したいのは私の世界(ミクロコスモス=独我論)に「私の死は存在しない」ということだと思います。
    大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1 論理哲学論考」より引用しておきますね。

    ************************************
    6.431 また同じく、死に際しても世界が変わるのではなく、世界が終わるのである。
    6.4311死は生の出来事ではない。人は死を体験しない。
    もし永遠ということで無限な時の継続ではなく無時間性が理解されているのなら、現在の中で生きる人は永遠に生きるのである。
    我々の視野が限界を欠くのと全く同様に、我々の生も終わりを欠いている
    ************ 引用終わり ************

    > 後の方の質問に関して:
    > 現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性ということなんですね(この理解で合ってますか?)

    はい、私の解釈はそうです。

    > >ザビビのふくろうさんの解説もリクエストしたいなぁ〜。
    > 禿同

    ザビビのふくろうさん、よろしくお願いします。^^

引用返信/返信 削除キー/
■34579 / inTopicNo.6)  宇宙は「もつれ」でできている
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/21(Sat) 09:32:47)
    2023/10/21(Sat) 09:33:40 編集(投稿者)

    アインシュタインをして「量子との格闘に比べれば、相対性理論なんて息抜きみたいなものですよ(同書P.108)」と言わしめた難解な量子力学。

    運動によって時間が遅れ、空間が伸び縮みする相対性理論どころではない、とんでもないパラダイムを人類にもたらした。この衝撃波は現在も続いており、物理におさまらず科学哲学はもちろん、哲学の主要テーマである存在論や認識論も巻き込んで今も揺れ動いている。

    人類史上、科学や哲学に最大のパラダイムが訪れた黄金時代。
    綺羅星の如く登場した天才物理学者、ボルン(確率解釈)、パウリ(パウリの排他律)、ド・ブロイ(物質波)、ベル(ベルの不等式)、ボーア(相補性原理&非局所的長距離相関)、アインシュタイン(光量子仮説)、ハイゼンベルク(行列力学&不確定性原理)、シュレンディンガー(シュレンディンガー波動方程式)、プランク(プランク定数)、ディラック(ディラックの海)、ボーム(ホログラフィック・パラダイム)等が交流し、時と場所を忘れて議論を重ねながら、未だ経験したことのない現象の解明と理論化(記述化)に奔走したドキュメントのような書籍。

    ボーア、アインシュタイン、ゾンマーフェルトが市電で議論に夢中になり2度も降りるべき駅を乗り過ごしたり、発熱しているシュレディンガーがボーアの自宅でボーアの妻に看病されながらハイゼンベルクも交えて3日間ぶっ続けで議論するくだりなどは、まるで映画のワンシーンのように面白いし、天才科学者としての情熱と真摯な姿勢が伝わってくる。これほど多くの天才が同時代に切磋琢磨した歴史は人類史上ないだろう。

    ただ用語や現象の説明が省略されているため「EPRパラドックス」「ベルの不等式」「相補性」「対応原理」「量子飛躍」「パウリの排他律」「不確定性原理」「ラプラスの悪魔」等々は他の書籍かネット検索で大まかにでも把握しておく必要はある。

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■34591 / inTopicNo.7)  Re[3]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/22(Sun) 12:38:27)
    田秋さん、パニチェさん、こんにちは。
    正直なところ、わかりやすく、かつ、『論考』のロジックに沿ったきちんとした説明は、私には到底無理だと思いますので迷ったんですが、せっかくお二方にリクエストいただいたので、とりあえずトライします。


    No34450に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、田秋さん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No34227に返信(田秋さんの記事)
    >
    > 『論考』の当該箇所を読み直して返信しますが、どうも私の解釈は禅的な発想が色濃く反映されており自信がないです。
    > 仮に私の解釈が正しければウィトゲンシュタインこそ「論理と言語による見性悟道」の実践者みたいに見えてくるから不思議です。
    >
    >>「秘密の日記」の話の流れから論考6・4311が出てきました。
    >>死は人生の出来事にあらず。人は死を体験せぬ。
    >>永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きるものは、永遠に生きる。
    >>(秘密の日記より引用)
    >
    >>二つ質問があります。
    >>・この「人は死を体験せぬ」というのは排他的論理和のように生と死は同時には成立しない、死ぬと生が終わるからという意味ですか?
    >
    > 「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」
    > 上記は独我論を言い表しています。独我論的世界には他者の死は存在しても「私の死」は存在しません。
    > 独我論的世界、言い換えれば「私の生(人生)の世界」であり、その意味において「人は(自分の)死」を「私の生(人生)の世界」では体験しないということではないでしょうか。
    >
    >>・後半に出てくる「無時間性」はパルメニデスが主張した「あるものは常に現在において存在する」と同じ意味ですか?
    >
    > 今ここに過去はない、そして今ここに未来もない。
    > 今ここにあるのは今という瞬間であり、そこに過去も未来も集約される(道元禅師の“而今”今に生きると重なります)。
    > 永遠が過去から未来へ継続するような幻想的な時間のことではなく、この瞬間の無時間性であるなら、今この瞬間に生きているものは、永遠に生きるということだと思います。
    >

    ここまでのパニチェさんによる説明は、『論考』のはしごを登って到達する(結果としての)思想内容の直観的説明としては、私としても違和感がありません。

    > 蛇足ですが、この発想は空間(アドヴァイタ)から見性へと導く禅的なアプローチと、時間(而今)から見性へ導く禅的なアプローチと相通じると思います。
    >
    >

    ここは私はよく知らないのでわかりませんが、田秋さんの二つめの質問

    >>・後半に出てくる「無時間性」はパルメニデスが主張した「あるものは常に現在において存在する」と同じ意味ですか?

    という質問については、私のパルメニデス理解が間違っていないとしたらですが、大体同じ意味としてもよいと思います。
    あと、死についての直観的説明としては、エピクロスの次の言葉も、示唆的ではないでしょうか。

    死は我々にとって何ものでもない。なぜなら、我々が存在するときには死はまだ訪れておらず、死が訪れたときには我々は存在しないのだから。

    他にも、思想内容が似ている思想家や思想はあると思います。
    これも詳しくないのではっきりしたことは言えませんが、梵我一如の思想は『論考』の独我論(ミクロコスモス=マクロコスモス)と似ているように思います。
    ********************

    次のレスでは、『論考』にもう少し沿った形で、田秋さんの質問に私なりの回答をしたいと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■34593 / inTopicNo.8)  Re[2]: 哲学全般、仏教、科学etc 15
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/22(Sun) 12:48:19)
    田秋さん、こんにちは。
    ここでは、直観的解釈ではなく、『論考』のむしろ本体であるところの「はしご(ロジック)」の観点からご質問に私なりの回答をします。
    とは言え、正直、『論考』の根本思想とも言うべき「語り」と「示し」の区別についてある程度理解していないと、このロジックの理解はむずかしいと思います。


    No34227に返信(田秋さんの記事)
    > こんにちは、パニチェさん
    >
    > 「秘密の日記」の話の流れから論考6・4311が出てきました。
    > 死は人生の出来事にあらず。人は死を体験せぬ。
    > 永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きるものは、永遠に生きる。
    > (秘密の日記より引用)
    > 二つ質問があります。
    > ・この「人は死を体験せぬ」というのは排他的論理和のように生と死は同時には成立しない、死ぬと生が終わるからという意味ですか?
    >
    > ・後半に出てくる「無時間性」はパルメニデスが主張した「あるものは常に現在において存在する」と同じ意味ですか?

    二つ目の質問については前レスにて述べましたので、ここでは一つ目の質問にのみ述べます。

    生と死(独我論的私の存在と無)を排他的論理和で語ることはできません。

    『論考』において、そもそも有る無しを語り得るとされるのは、その有無がともに私の経験世界(生)の内部の出来事=私に経験可能な事柄に限られます。
    したがって、自分の生死について語り得るためには、私が私の死を経験可能でなくてはなりません。
    しかし、死が生(経験世界)の終わり=限界である以上、私に死を経験することは不可能です。
    要は、自分の死は、自分の生(経験世界)の中の出来事ではなく、生そのもの(経験世界全体)の終わりだからです。
    それゆえ、生死についてその有無を語ることはできないのです。

    まとめます。
    質問(1)に対する私の回答はこうなります。

    いいえ、違います。生と死は排他的論理和で捉えることはできず、同時に成立しないとか、同時でないなら成立する、とも語り得ません。
    死ぬと生が終わるのではありません。
    死は生の終わり、即ち生(私の経験世界)の限界だから、死を経験することは不可能なのです。
    ちょうど、視野(視覚的世界)の限界を見ることができないように、です。



引用返信/返信 削除キー/
■34594 / inTopicNo.9)  Re[5]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/22(Sun) 12:53:37)
    No34577に返信(パニチェさんの記事)
    > おはようございます、田秋さん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No34487に返信(田秋さんの記事)
    >
    >>初めの質問に関して:
    >>やはり生と死は同時には存在はしない、というように感じてしまいます。独我論の我というのは生きているということが前提ではないのでしょうか。
    >
    > それはその通りだと思いますがウィトゲンシュタインが6.431〜6.4311で表明したいのは私の世界(ミクロコスモス=独我論)に「私の死は存在しない」ということだと思います。
    > 大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1 論理哲学論考」より引用しておきますね。
    >
    > ************************************
    > 6.431 また同じく、死に際しても世界が変わるのではなく、世界が終わるのである。
    > 6.4311死は生の出来事ではない。人は死を体験しない。
    > もし永遠ということで無限な時の継続ではなく無時間性が理解されているのなら、現在の中で生きる人は永遠に生きるのである。
    > 我々の視野が限界を欠くのと全く同様に、我々の生も終わりを欠いている
    > ************ 引用終わり ************
    >
    >>後の方の質問に関して:
    >>現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性ということなんですね(この理解で合ってますか?)
    >
    > はい、私の解釈はそうです。
    >

    正直、私にはパニチェさんがこれを肯定されるのは腑に落ちないんですよ。
    私には、これは明らかに違うと思われますね。
    私見では、ここで言う無時間性とは、「経過するものとしての時間」における「経過時間=0」(相対的無時間性)という意味ではなく、生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、と思います。
    パルメニデスやショーペンハウアーなどの「現在」も、そうではないでしょうか。

    No34450におけるパニチェさんの説明なら、この私見と同じじゃないかと思うんですが、どうでしょうね?


    >>>ザビビのふくろうさんの解説もリクエストしたいなぁ〜。
    >>禿同
    >
    > ザビビのふくろうさん、よろしくお願いします。^^
    >

    お二人とも、このあたりでご勘弁をm(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■34595 / inTopicNo.10)  論考解説
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/22(Sun) 12:54:41)
    こんにちは、ザビビのふくろうさん。

    説明ありがとうございます。

    >死は我々にとって何ものでもない。なぜなら、我々が存在するときには死はまだ訪れておらず、死が訪れたときには我々は存在しないのだから。
    ここはやはり排他的存在故に経験できない、経験できないことだから《何ものでもない》という主張のように聞こえます。

    高校生か大学生の時の、興味ある授業や講義を聴くときのウハウハの気分を思い出します。
引用返信/返信 削除キー/
■34596 / inTopicNo.11)  Re[6]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/22(Sun) 13:03:26)
    こんにちは、ザビビのふくろうさん

    一つ目の書き込みの御礼を書いたら、既に二つ目の書き込みがありました。

    >生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである

    また考えなければいけなくなりました。
引用返信/返信 削除キー/
■34599 / inTopicNo.12)  Re[5]: 論考解説
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/22(Sun) 14:54:18)
    田秋さん、こんにちは。
    レスをありがとうございます。

    No34595に返信(田秋さんの記事)
    > こんにちは、ザビビのふくろうさん。
    >
    > 説明ありがとうございます。
    >
    > >死は我々にとって何ものでもない。なぜなら、我々が存在するときには死はまだ訪れておらず、死が訪れたときには我々は存在しないのだから。
    > ここはやはり排他的存在故に経験できない、経験できないことだから《何ものでもない》という主張のように聞こえます。
    >

    直観的な説明は、わかりやすい反面、そういういう誤解が生じやすいのが難点ですね^^

    > 高校生か大学生の時の、興味ある授業や講義を聴くときのウハウハの気分を思い出します。

    今ひとつ意味がわかってないんですが(笑)、もしウィトゲンシュタインの哲学への興味が増したとすれば、私のレスも多少は役立ったのかな?と嬉しく感じます。
    ありがとうございましたm(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/

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