| 2024/03/24(Sun) 16:35:58 編集(投稿者)
今回は、居士(在家者)に対して仏陀たちが説いていた法を、順不同で少し書いてみたいと思います。
ある経典では、広大なる心解脱(心の解放)、無量の心解脱(心の解放)という四無量心が説かれます。これは、最終的に梵天界(天界=善趣)への転生の為の道です。
他の経典では、死を間近にした者に対して説かれています。
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に執着しないと学べば、それらに対する識が生じないでしょう。続いて、六境(色・音・香・味・触・法)に、
六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)に、六触(眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触)に、六触所生の受に、六界(地界・水界・火界・風界・空界・識界)に、五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)に、無色界(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処)に、この世に、あの世に執着しないと学べば、それらに対する識が生じないでしょう。
この法を聞いた居士は泣き出しますが、その理由が、今までに聞いたことのない法話だったからという事です。それに対してこれを説いた比丘は、これは出家者のみに説かれる法であり、在家者には説かれないのですよと説明しますが、居士は、在家者の中にもこの法を理解できるものがいますので、これからは是非、在家者にも説いてくださいと懇願します。
他には、四禅定の説明から、それらは、無常にして滅尽の性質あるものだという説明。続いて、四無量心(慈無量心・悲無量心・喜無量心・捨無量心)で心の解放が説かれますが、しかしこれらも思惟されたものだという理解。
あらゆる色想を超えることで、有対想の滅により無色界に到達しますが、これらも思惟されたものだという理解と同時に、これらも無常であり滅尽の性質あるものだという理解。
他経典では、俗家の欲を絶ったと言い張る居士(比丘?)に、八つの善法がその説明とともに説かれます。殺生が、偸盗が、妄語が、両舌が、貪求と貪欲が、非難と論争が、忿怒と悩が、過慢が捨断されるべきです。という内容です。
他にも多くあるようですが、、ここまで書いて気が付きましたが、当時のインドと現代日本でのそれらに対する基礎的な事柄、文化的基盤が全く違うのではないでしょうか。理由は、当時のインドで仏陀たちが村々を托鉢の為に周り、また、食事に招かれた時等に簡略な法を説く場合、それらの言葉の意味を在家者たちは、ある程度以上は知っていたようだからです。例えば、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)とは、こういう事を意味しているのだという事をです。原始に残っているものの説明を書いてみますと、識は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の事で識別作用の事であり、六つの識は、六根と六境により生起します。そして、六根と六境と六識の3つで六触と定義されています。完ぺきではないにしても、基本的にこのような事を知っていなければ、いくら当時の在家者たちが仏陀たちに法を説かれたとしても、理解には至らなかったと思います。そして当時は、多くの在家者が天界への転生を達成しているようです。
文化的背景の違いは、布施という行為に対しても現代日本とは大きくその意味合いが違っているようですね。当時、隠れて行っている者がいたのであれば分かりませんが、当時の仏陀の周りでは、少なくとも金銭のやり取りとしての布施は、存在しなかったようです。布施の定義的なものの記載がありますが、それを現代日本で行った場合、仏陀の説いた最高の供養の内容とともに、非常識だと周りからは判断されるように思います。つまりは、現代日本の仏教から見れば、原始の内容は外道だと判断されるでしょうか。
|