□投稿者/ パニチェ -(2024/01/13(Sat) 08:03:36)
| 永井氏は誰にでも当てはまる独我論を似非独我論とし、これと区別するために真正独我論を「独在論」と名付けた。
独我論や独在論において常に問題となるのが他者の自我や私秘性の有無である。
日常感覚(自然的態度)からすればどんな人間でも他者の自我(心的状態)や私秘性は暗黙の前提として認めており、日常生活の上でもこれを認めないなんてことは現実離れしている。
確かに他者の自我や私秘性は私の認識可能な世界内にはなく、確認しようがないのだから仕方がないと言えばそれまでではあるが、同じ身体(脳をはじめとした感覚器官)を有することからして、他者にも自分と同じ自我や私秘性があるということは排除できない。
言いかえればこれは一種の身体性に対する信念というか信仰みたいなものかもしれない。
哲学の一側面がより確かなものの探究であるとするなら、他者の自我や私秘性はあるともないとも言えない(確証不能)。
ただ一つだけ確実には断言できるのは、今ここに在る「比類なき先言の<私>」は他者にはありえないということ。
何故なら、今まさにここから視野が開け世界を見ている地点はここしかなく、自分の痛みや感覚を体験しているのは〈私〉であることから、他者に〈私〉は当てはまらない。
仮に世界に数多くの自我や私秘性があったとしても、〈私〉が体験する自我や私秘性は広大な時空間において、「今、ここ」の特異点しかないということ。
これをもって「比類なき先言の<私>」は唯一無二の存在であるということからパニチェ独自の独在論を「独〈私〉論」と名付ける。
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