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■36648 / inTopicNo.61)  Re[28]: 戒名外道論
  
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/25(Sun) 09:50:23)
    2024/02/25(Sun) 09:58:39 編集(投稿者)

    おはようございます、ピピットさん。レスありがとうございます。

    No36635に返信(pipitさんの記事)
    > お釈迦さまが亡くなられた時、ある一人の弟子の、「あーうるさく言う人がいなくなったーこれから好きなことできるぞー」みたいな発言を聞いたマハーカッサパ長老(阿羅漢)が、こりゃいかん、教えをまとめるぞー、と、阿羅漢ばかりのメンバー限定で教えの編集を行ったそうです。(第一結集)

    はい、釈尊の死の翌年、摩訶迦葉を中心として行われた第一結集ですね。
    この時、集まったのが500人と言われており、各地にある五百羅漢像は結集(第一結集または第四結集)に参加した阿羅漢のことのようです。

    > 当時のインドは口伝文化だったので、各グループが経典を担当分けして伝承していたのですが、ある時飢饉や戦争などで比丘の数がすごく減ってしまって、初めて葉っぱに書写して文字化して伝えようと決意されたそうです。(第四結集)

    他かに調べたところ文字として書写されたのは第四結集が行われた時期のようですね。
    「誰によって?」というのは諸説あるようです。

    > この話を聞いてpipitが思うのは、第一結集での阿羅漢のお坊様たちの利他の行いです。
    > お釈迦さまもそうですよね、利他行されて説法されました。
    > 大乗仏教も元来はすごく優しい心から生まれたものだとpipitは思っています。
    > (でも戒名で大金を要求するとかは仏教として変だ、と思います。)
    > 伝言ゲームのように変質を免れるものはなにもなく、生じたものは滅していくのかなとも思います。
    > それぞれ少しでもいい方向に進むといいですね!

    同意です。

引用返信/返信 削除キー/
■36650 / inTopicNo.62)  Re[28]: 戒名外道論
□投稿者/ 時 -(2024/02/25(Sun) 12:17:29)
    2024/02/25(Sun) 12:48:10 編集(投稿者)

    パニチェさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36647に返信(パニチェさんの記事)

    > あと、結集が口伝中心で行われたのは釈尊の尊い教えは自らの身につけるべきもので、忘れないために書きとめるということからして、書きとめる行為自体が教えを身から離すことになると考えられていたようです。

    > 結集についてはピピットさんも返信されていましたが、第一回の結集は釈尊の死の翌年であり、口伝の期間は400年とも500年とも言われています。
    > 最初に文字にしたのはマウリア王朝の第三代のアショーカ王(BC269?〜BC232?第三結集が行われた時期)が上座部仏教の信者となり、石碑や摩崖に刻んだとのこと、(仏弟子による書写は諸説あるようですが一説には)BC100年頃に上座部の正統派マハーヴィハーラの比丘たちによって書写されたとのことでした。

    多くの情報を、ありがとうございます。

    > はい。私の中道解釈は拡大解釈だという自覚はありますが、実生活のさまざまな場面での指針にはしています。
    > 例えば子育てにおいても過保護も過放任もよくないとか、右だと思った時には左も想定してみて、自身のバランス感覚を省みる。。。etc。

    はい。その通りですね。時も可能な限り生活の中での指針にしています。ここ最近では当たり前になっているネット検索でも、どうしても興味のある事柄のみ、一方向のみの項目、内容を検索しがちになりますね。そうすると自らが良いと思う方の結果しか出てきません。ですので、自らにバイアスがかからないようにという意識のもと、対極の事柄も検索をかけたりします。他いろいろと書き出しますときりがないくらいです。

    > これは後学のためにお聞きします。
    > パーリ律蔵 大品(マハーヴァッガ)にある有名な「箜篌の喩」。釈尊が肉体を極限にまで追い詰める苦行から離れたとさせる逸話(中村元博士の見解によれば、後に創作されたエピソードとされているようですが)は、断・常の二見や有・無の二辺より、もう少し広範囲な教説だと思うのですが、如何でしょうか。

    https://zeropointbuddha.hatenablog.com/entry/veena_body1
    「箜篌の喩」このお話もどこかで見たような記憶がありますが、律蔵自体は見ていませんので、なんとも言えませんが、上記ページの内容がそれにあたるのであれば、時自身の理解でのこのお話の内容は、普通に素通りしています。張りすぎず緩めすぎず、ほどほどにね。と言った感じでしょうか。

    例えば、苦と楽の中間の不苦不楽を維持しなさい。というのがあった場合に、これは解釈次第ではほどほどですとか、ましてや中道ですというのも違うように思いますしね。その時々の対象により、その表現は変わるのではないでしょうか。

    仏陀が苦行から離れた時のお話は、苦行に明け暮れていた当時、このままでは駄目(証得できない)だろうという自らの判断で、固形の食を少しづつ取り始めたのですね。特段拘ることではないとは思うのですが、経典の中にその言葉表現としての定義があるのであれば、一応、その通りに理解しているだけなのです。

    > 私は聖徳太子が仏教精神を政治的に体現した「十七条憲法(和をもって尊しとなす)」や神仏習合(外来の仏教と神道を融合させた)は日本人的な和の心を重んじる原点だと考えています。大乗仏教自体も日本に伝来する途上でインドや中国の神々も集合しており、仏教の懐の深さをあらわしていると思っています。

    ご認識は、了解しました。時自身は、良く調べられてはいませんので漠然とした表現になるのですが、日本人的な和の心を重んじる原点は、縄文文化にあるように感じています。

    > 素晴らしい!その通りです。
    > 永劫回帰の問いに“Yes”と答えることは、最高にして最も厳しい自己肯定だと思います。
    > 現在の自分を肯定するなら、自身を形成したこれまでの生も全肯定せよ、と。

    ありがとうございます。アドヴァイタの深い処での理解と共通するものがあるように感じました。akaimiさんならば、ご理解頂けそうですが^^

    では、この辺りで。ご返信をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■36652 / inTopicNo.63)  Re[29]: 戒名外道論
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/25(Sun) 13:52:40)
    時さん、返信ありがとうございます。

    No36650に返信(時さんの記事)

    >>私は聖徳太子が仏教精神を政治的に体現した「十七条憲法(和をもって尊しとなす)」や神仏習合(外来の仏教と神道を融合させた)は日本人的な和の心を重んじる原点だと考えています。大乗仏教自体も日本に伝来する途上でインドや中国の神々も集合しており、仏教の懐の深さをあらわしていると思っています。

    > ご認識は、了解しました。時自身は、良く調べられてはいませんので漠然とした表現になるのですが、日本人的な和の心を重んじる原点は、縄文文化にあるように感じています。

    情報ありがとうございます。くぐってみたところ、沢山出てきました。
    和の心のルーツが縄文時代にもあるってことは知りませんでした。

    >>素晴らしい!その通りです。
    >>永劫回帰の問いに“Yes”と答えることは、最高にして最も厳しい自己肯定だと思います。
    >>現在の自分を肯定するなら、自身を形成したこれまでの生も全肯定せよ、と。

    > ありがとうございます。アドヴァイタの深い処での理解と共通するものがあるように感じました。akaimiさんならば、ご理解頂けそうですが^^

    > では、この辺りで。ご返信をありがとうございました。

    ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■36670 / inTopicNo.64)  アナパナと禅定
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/27(Tue) 17:28:56)
    アナパナが本当にできるなら、禅定に入れるのは時間の問題だといわれる。

    そうはいってもアナパナは容易ではない。

    なぜアナパナがかくも重要で、しかし難しいのか。

    みなさん考えたことはありますか。

    思うに、呼吸を体験できるのはいま吸う息か、いま吐く息。これしかありえない。

    過去の呼吸や未来の呼吸は、どんな人間であろうと直接体験できない。過去や未来の呼吸は観念としての呼吸でしかない。
引用返信/返信 削除キー/
■36683 / inTopicNo.65)  Re[31]: アナパナと禅定
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/02(Sat) 08:05:53)
    おはようございます、knowing itselfさん。横レス失礼します。

    No36670に返信(knowingitselfさんの記事)

    > アナパナが本当にできるなら、禅定に入れるのは時間の問題だといわれる。
    > そうはいってもアナパナは容易ではない。

    > なぜアナパナがかくも重要で、しかし難しいのか。
    > みなさん考えたことはありますか。
    > 思うに、呼吸を体験できるのはいま吸う息か、いま吐く息。これしかありえない。
    > 過去の呼吸や未来の呼吸は、どんな人間であろうと直接体験できない。過去や未来の呼吸は観念としての呼吸でしかない。

    ここもうちょっと詳しく教えて下さい。
    呼吸に意識を向けるのは言いかえれば今だけに意識を集中することだとも思うのですが、そこに過去や未来の呼吸というのは入り込む余地はないと思うんですが。。。。

引用返信/返信 削除キー/
■36686 / inTopicNo.66)  Re[32]: アナパナと禅定
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/02(Sat) 15:12:39)
    パニチェさん レスありがとうございます

    >>思うに、呼吸を体験できるのはいま吸う息か、いま吐く息。これしかありえない。
    >>過去の呼吸や未来の呼吸は、どんな人間であろうと直接体験できない。過去や未来の呼吸は観念としての呼吸でしかない。
    >
    > ここもうちょっと詳しく教えて下さい。
    > 呼吸に意識を向けるのは言いかえれば今だけに意識を集中することだとも思うのですが、そこに過去や未来の呼吸というのは入り込む余地はないと思うんですが。。。。


    アナパナ、つまり呼吸それ自体を瞑想オブジェクトにする瞑想は、今ここを意識しようとするより、呼吸に気づいていって、今ここの呼吸だけを意識することをゴールにするものだと理解しています。

    それが簡単にはいかないというか、吸う息、吐く息だけを意識しようとしても、雑念が群がり起こってきます。


    ところで、言語は呼吸の変形だ思いませんか?私はそう思います。息を吐かずに言葉を発語することはできません。基本的に言葉をつかって考えることは、過去の呼吸の時の思考を再現反復することにならざるをえない。

    呼吸はいまここの吐く息吸う息しか直接体験できないのに、言葉や言語的想念に支配される人間は、いまここの呼吸を取り逃して、過去の呼吸の時の痕跡をコピーしてしまう。
引用返信/返信 削除キー/
■36689 / inTopicNo.67)  数や言語や記号の観念的操作
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/02(Sat) 15:52:56)
    数息観という手法があります。これ一本でも最終的には悟ることが可能という禅者は少なくない。
    そうだろうと思いますが、初心のうちの数息観は呼吸を観念的にカウントしているだけで、綿密に呼吸そのものに向き合って意識できていない。

    数の意味を理解するとか、言葉や数字や記号を操作できることは、呼吸から切断され抽象されて体得できていますが、これらを取得する原初の実戦場面では必ず呼吸していたはずです。呼吸は意識していない場合がほとんどだと思いますが。
引用返信/返信 削除キー/
■36697 / inTopicNo.68)  Re[1]: 哲学全般、仏教、科学etc 15
□投稿者/ lito_simple -(2024/03/02(Sat) 20:44:48)
    こんばんは。

    パニチェさんは以前にYahooの哲学掲示板に書き込みされていた方でしょうか。
    私も以前にYahooの掲示板をすこし見ていた時期がありまして、ふと今はどうなっているのだろうと思ってGoogle検索してみたところ、こちらのサイトにたどり着きました。
    Yahooの掲示板はなくなってしまったのですね。

    当時は他者理解というテーマに興味があり、なぜ誤解ということが起きてしまうのか、他者を真に理解するとはどういうことなのかといったことについて興味があり、その答えを科学哲学、言語哲学、論理学といった分野に求めていました。

    最近、グローバルビジネスに関するテキストに、次のような異文化コミュニケーションの原則が載っているのを見つけました。
    本質が端的に表現されていると感じました。(いろいろな国のメンバーからなるグローバルビジネスの現場での活用を想定した内容です。)

    1. 類似性が確認されるまでお互いは異なると仮定する
    2. 解釈や評価よりも記述を重視する
    3. 相手の立場で考える
    4. 自分の解釈は実証されていない仮説として取り扱う

    端的すぎて何を言っているのかわかりにくい、あるいは当たり前のことを言っているだけのように見えるという面もありますが、実際に異文化コミュニケーションの実践において失敗や改善を重ねたり、哲学的(批判的)に物事を考える経験を積むことで、これらの原則の言わんとしていることがより深く理解できるように感じました。
引用返信/返信 削除キー/
■36698 / inTopicNo.69)  Re[34]: 数や言語や記号の観念的操作
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/02(Sat) 22:30:34)
    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No36686に返信(knowingitselfさんの記事)

    > >>思うに、呼吸を体験できるのはいま吸う息か、いま吐く息。これしかありえない。
    > >>過去の呼吸や未来の呼吸は、どんな人間であろうと直接体験できない。過去や未来の呼吸は観念としての呼吸でしかない。

    >>ここもうちょっと詳しく教えて下さい。
    >>呼吸に意識を向けるのは言いかえれば今だけに意識を集中することだとも思うのですが、そこに過去や未来の呼吸というのは入り込む余地はないと思うんですが。。。。

    > アナパナ、つまり呼吸それ自体を瞑想オブジェクトにする瞑想は、今ここを意識しようとするより、呼吸に気づいていって、今ここの呼吸だけを意識することをゴールにするものだと理解しています。

    No36689に返信(knowingitselfさんの記事)
    > 数息観という手法があります。これ一本でも最終的には悟ることが可能という禅者は少なくない。
    > そうだろうと思いますが、初心のうちの数息観は呼吸を観念的にカウントしているだけで、綿密に呼吸そのものに向き合って意識できていない。
    > 数の意味を理解するとか、言葉や数字や記号を操作できることは、呼吸から切断され抽象されて体得できていますが、これらを取得する原初の実戦場面では必ず呼吸していたはずです。呼吸は意識していない場合がほとんどだと思いますが。

    はい、私も数息観はアナパナに近い手法だと思っていました。
    そしてknowing itselfさんが言われるように「呼吸に気づいていって、今ここの呼吸だけを意識することをゴールにするもの」と思っていて「呼吸に意識を向けるのは言いかえれば今だけに意識を集中すること」と述べたのですが。言葉足らずでうまく伝われなかったようです。

    > それが簡単にはいかないというか、吸う息、吐く息だけを意識しようとしても、雑念が群がり起こってきます。

    はい、それはその通りだと思います。

    > ところで、言語は呼吸の変形だ思いませんか?私はそう思います。息を吐かずに言葉を発語することはできません。基本的に言葉をつかって考えることは、過去の呼吸の時の思考を再現反復することにならざるをえない。

    そう言われてみればそうですね。
    あと呼吸というのは身体反応の中でも意識と無意識のはざまにあることも重要だと思います。

    > 呼吸はいまここの吐く息吸う息しか直接体験できないのに、言葉や言語的想念に支配される人間は、いまここの呼吸を取り逃して、過去の呼吸の時の痕跡をコピーしてしまう。

    確かにそうですね。
    restさんもNo36684で触れられていますが。。。
    時間を過去・現在・未来と、今ここにあるはずもない過去や未来も含め分断化してしまうのも言語のなせる業だと思います。


引用返信/返信 削除キー/
■36699 / inTopicNo.70)  lito_simpleさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/02(Sat) 22:56:24)
    2024/03/03(Sun) 06:28:58 編集(投稿者)

    こんばんは、lito_simpleさん。チョ〜お久しぶりです。
    投稿ありがとうございます!^^

    No36697に返信(lito_simpleさんの記事)
    > こんばんは。
    > パニチェさんは以前にYahooの哲学掲示板に書き込みされていた方でしょうか。

    そうです。
    おそらくYahoo!掲示板の「神はいるか」トピで、レス交換してから、10年。。。いや、ひょっとしたら20年くらい経ってるかもしれませんね。

    > 私も以前にYahooの掲示板をすこし見ていた時期がありまして、ふと今はどうなっているのだろうと思ってGoogle検索してみたところ、こちらのサイトにたどり着きました。
    > Yahooの掲示板はなくなってしまったのですね。

    よくぞ、この僻地までたどり着いていただきました!
    そうです、Yahoo!掲示板がなくなって5年くらい経ちますね。

    lito_simpleさんはよく覚えていますし、何を隠そう私が尊敬していた投稿者のお一人です!!
    以下のトピでリトさんの名前をあげさせてもらってます、印象に残る方はカタカナ表記にしています。
    ニーチェクラブBBSに投稿いただき凄く嬉しいですし、今日はいい日になりました。

    > ■No36236に返信(パニチェさんの記事)
    > 【神はいるか】
    > Temporal_anitya(転法祖師)、JA50(鰯頭教教祖)、whiskey_bonbon(科学教梵梵法主)、Hal_pandora(パンドラ)、ktsurut(毛ツルット)、Akasakashimozuma(赤坂下妻)、 asura_zerojp(荒鷲乱)、 kontondesu (コントン)、okuta_gawa(オクタガワ)、noisemanex(ノイズマン)、 zellofadvols(ゼロ)、Dr_2O00、lordkenton、nigyagya、Rikimaru7、yattermz、he_is_sekiba(セキバ)、Yamanoutiyoudou(山ノ内容堂)、 K_CN、
    lito_simple(リト)……敬称略


    > 当時は他者理解というテーマに興味があり、なぜ誤解ということが起きてしまうのか、他者を真に理解するとはどういうことなのかといったことについて興味があり、その答えを科学哲学、言語哲学、論理学といった分野に求めていました。

    はい。

    > 最近、グローバルビジネスに関するテキストに、次のような異文化コミュニケーションの原則が載っているのを見つけました。
    > 本質が端的に表現されていると感じました。(いろいろな国のメンバーからなるグローバルビジネスの現場での活用を想定した内容です。)

    > 1. 類似性が確認されるまでお互いは異なると仮定する
    > 2. 解釈や評価よりも記述を重視する
    > 3. 相手の立場で考える
    > 4. 自分の解釈は実証されていない仮説として取り扱う

    > 端的すぎて何を言っているのかわかりにくい、あるいは当たり前のことを言っているだけのように見えるという面もありますが、実際に異文化コミュニケーションの実践において失敗や改善を重ねたり、哲学的(批判的)に物事を考える経験を積むことで、これらの原則の言わんとしていることがより深く理解できるように感じました。

    1のお互いは異なると仮定することは異なる価値観を認める、あるいは許容するということにつながるんでしょうね。
    2の記述を重視するというのは極力バイアスや印象を抑えて、趣旨や論理を記述通りに受け取るってことになるんですかねぇ〜。哲カテでの理想的な議論にも相通じると思います。
    3も重要ですが、あくまでも自分が考えるところの相手の立場であるということも忘れないことが大事ですね。
    4は自分の解釈は間違っているかもしれない仮説として取り扱うということでしょうか?

引用返信/返信 削除キー/
■36719 / inTopicNo.71)  Re[3]: lito_simpleさんへ
□投稿者/ lito_simple -(2024/03/04(Mon) 03:52:33)
    パニチェさん、ご返信ありがとうございます。
    かなりお久しぶりですよね。20年くらい前だと思います。
    そんな昔のことなのに、パニチェさんはもちろん、パニチェさんに挙げていただいた何人かの方々(ktsurutさん等)含めて覚えています。
    よほど私にとって印象的で大切なコミュニケーションをさせていただいていたんだなと思いました。

    私が紹介させていただいた4つの原則ですが、手持ちの資料には書いたまま、文字通りの内容しか載ってなく、書き手の本当の意図はわかりません。
    読み手が自身の経験等から解釈するしかないというのが現状です・・

    4については、私としてもパニチェさんが仰るように、自分の解釈は間違っているかもしれない仮説として取り扱うということだと思います。
    その上で、「相手の発言や言動は、それがなされた背景と合わせて解釈することで初めて正しく解釈できる」との原則に基づき、必要に応じて相手の発言や言動がなされた背景を知るための努力を行い(時にはその人がどのような人生を歩んできたのかというところまで遡って)、解釈をより正しい方向にアップデートさせていくということになるのだと思います。また、相手にネガティブな印象を持ってしまったり、ネガティブな反応をする前には、特にそのような努力を行うことが推奨されるということになるのだと思います。

    このような考え方は、職場や家庭において、相手をよりよく理解したり、不毛な争いを避けるにあたって実践的な考え方の一つと言えるように思います。

    哲学は、実生活においてはあまり役立たないと思われがちな面もあると思いますが、私の実生活においては過去いろいろ考えてきたことが役立つシーンもいくらかあったと感じています。

    いまはちょっと時間がなかなかとりにくい事情もあり、哲学からは離れてしまっていますが、いつかまた時間ができたらいろいろ本を読んだり考えたりしてみたいと思います^^

引用返信/返信 削除キー/
■36722 / inTopicNo.72)  Re[4]: lito_simpleさんへ
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/05(Tue) 09:40:47)
    初めまして、lito_simpleさん

    田秋と申します。

    lito_simpleさんが紹介された4つの原則は異文化コミュニケーションだけでなく概ね通常の人との付き合いにも適用できるのではと思います。自分が大勢の中の一人に過ぎず、相手もその人の考えを持っていて、それは優劣で比較するのではなく多様性を認めるということだと思います。

    ただ「2. 解釈や評価よりも記述を重視する」に関しては異文化コミュニケーションの場合は日本人同士とは異なる注意が必要かもしれません。日本社会には謙遜というバイアスがあり、日本人特有の慣習というものもあります。そういうもので本来の記述(相手の話も)を再評価したりすると相手の真意から外れる場合があるかもしれません。とりあえずは言葉通りに解釈しておく(明らかにジョークとわかる場合は別)ことが相互理解の齟齬の防止になると思います(この辺り、実際は微妙ですが)。

    自分の経験上、異文化コミュニケーションの場合には5.として「自分の考えをはっきり述べる」というのも付け加えたいと思います。但しこれは日本社会の中ではマイナスに働くときもありますが。。。

    lito_simpleさんのこのハンドルネーム、ちょっと考えたんですがまさか「簡易ベッド」という意味ではないですよね?^^
    間違っていたら大変失礼いたしました。m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/

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