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■35176 / inTopicNo.37)  Re[20]: 形而上学批判
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/11/25(Sat) 13:08:20)
    2023/11/26(Sun) 07:01:47 編集(投稿者)

    形而上について「形をもっていないもの」という定義が複数の辞書やサイトで散見される。
    こういうのを見た時に思い出すのはixtlanさんとの認識論に関するレス交換というか議論。

    当時の私は今以上に無知だったこともあり、怖いもの知らずで、カントだったかハッキリとは覚えてないが、ixtlanさんがKIDAMASAさんだったかな?認識論に関する議論をしているところに横入りして「古典の認識論をもとにした議論ってのは発展性がありますか?哲学はもともと学問全体のことなんだから、現代では認識論は脳科学の知見を積極的に取り込むべきだと思います」みたいなことをレスしたことが思い出される。

    その後、寛容なixtlanさんは私の意見を取り入れていただき「脳と意識の地形図」という書籍の読書会を実施してもらい、もの凄く有意義なレス交換となった。

    「形がある」「形がない」「個物」も明らかに古典的な分類であって、特殊相対性理論でもってE=mc^2が証明されている以上、「形あるもの」と「形ないもの」は同等であるということ。
    さらに量子力学の登場でもって「形のある、なし」以前に存在についても素朴実在論がどうやら怪しいということが明確になった。

    形而上の対象として「形をもっていないもの」なんて定義は古典哲学を研究する学ならともかく、現代哲学ではナンセンスな定義だと思う。
    もし、この主張自体が否定されるような哲学が本道なら、哲学なんて過去の学問はますます衰退するのではないか?


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■35265 / inTopicNo.38)  Re[15]: 野矢茂樹「言語哲学がはじまる」
□投稿者/ パニチェ -(2023/12/03(Sun) 22:27:37)
    こんばんは、knowing itselfさん。

    No34967に返信(knowingitselfさんの記事)

    > 先月の岩波新書の新刊、「言語哲学がはじまる」の著者は野矢茂樹です。これは読まずにはいられないと思う人が少なくないでしょう。

    今日、紀伊國屋梅田本店で購入してきました。

    ボチボチ読んでみます。
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■35342 / inTopicNo.39)  Re[16]: 野矢茂樹「言語哲学がはじまる」
□投稿者/ パニチェ -(2023/12/08(Fri) 16:12:20)
    No35315に返信(パニチェさんの記事)
    >> ■No34967に返信(knowingitselfさんの記事)
    >>ここあたりは、前期ウィトゲンシュタインの背景知識として重要なので、ウィトゲンシュタインの研究者として定評のある野矢茂樹本人による、最新の新書は目をとおす価値があるでしょう。一般的にいって、新書ほどわかりやすいものはない。そのわかりやすさが安直にわかったつもりでおわる危険がないではないが、本格的に原本にあたる前に新書レベルは避けて通れない。

    > まだP.54ですが確かに仰る通りです。
    > ここまで読んでふっと思ったのは。。。。
    > 前期の写像理論と後期の言語ゲームの関係性ってのは、特殊相対性理論と一般相対性理論みたいな関係かな、と思いました。

    上記の補足です。
    特殊相対性理論というのは等速直線運動のみあてはまる理論であり、一般相対性理論というのは加速度運動も含めより一般的な運動に当てはまる理論。
    前期写像理論というのは言語と世界の鏡像関係が当てはまる言語に関する理論であり、後期言語ゲームというのはより広範囲の言語に当てはまる理論であるということ。

    get953さんの例えをお借りすれば。。。
    「私はキツネ」は前期写像理論では偽あるいは非意義的な命題。
    「私はキツネ」は後期言語ゲームではうどん屋での(への)注文というシチュエーション(文脈)が加われば有意味(有意義?)な言葉。

    あくまでも現段階で思いついたこととして。。。

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■35887 / inTopicNo.40)  執着
□投稿者/ パニチェ -(2023/12/29(Fri) 09:41:40)
    苦の因は執着である。

    仏教的には煩悩と執着は同義。


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■35902 / inTopicNo.41)  Re[18]: 執着
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/29(Fri) 18:37:39)
    「自負」っていうの、

    仏教的にはどういうことになってるのかしら?

    ん?この概念は仏教では何にも語られてない、っていうことだたら、それはそれでいいんだけど。

    ちょっと聞いてみたかっただけ。


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■35905 / inTopicNo.42)  Re[19]: 執着
□投稿者/ knowingitself -(2023/12/29(Fri) 19:02:22)
    横レス失礼します。

    私の理解では、「自負」は仏教では「慢」の概念にカバーされると思います。「慢」は仏教ではよい意味では使われないのじゃないかな。仏教の「慢」はかなり精妙。仏教国日本であろうと、ほとんどの現代人は仏教からは落第でしょう。

    この点、キリスト教では「プライド」はサタンの餌食になる最悪の傾向でもあるから、実質的には接近するかもしれない。


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■36077 / inTopicNo.43)  Re[15]: 野矢茂樹「言語哲学がはじまる」
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/07(Sun) 20:18:14)
    こんばんは、knowing itselfさん。

    No34967に返信(knowingitselfさんの記事)

    > ここあたりは、前期ウィトゲンシュタインの背景知識として重要なので、ウィトゲンシュタインの研究者として定評のある野矢茂樹本人による、最新の新書は目をとおす価値があるでしょう。一般的にいって、新書ほどわかりやすいものはない。そのわかりやすさが安直にわかったつもりでおわる危険がないではないが、本格的に原本にあたる前に新書レベルは避けて通れない。

    knowing itselfさんの仰る通りでした。
    前期ウィトゲンシュタインの写像理論を理解する上で重要な哲学的背景が紹介されていました。
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■36148 / inTopicNo.44)  独〈私〉論
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/13(Sat) 08:03:36)
    永井氏は誰にでも当てはまる独我論を似非独我論とし、これと区別するために真正独我論を「独在論」と名付けた。

    独我論や独在論において常に問題となるのが他者の自我や私秘性の有無である。

    日常感覚(自然的態度)からすればどんな人間でも他者の自我(心的状態)や私秘性は暗黙の前提として認めており、日常生活の上でもこれを認めないなんてことは現実離れしている。

    確かに他者の自我や私秘性は私の認識可能な世界内にはなく、確認しようがないのだから仕方がないと言えばそれまでではあるが、同じ身体(脳をはじめとした感覚器官)を有することからして、他者にも自分と同じ自我や私秘性があるということは排除できない。

    言いかえればこれは一種の身体性に対する信念というか信仰みたいなものかもしれない。

    哲学の一側面がより確かなものの探究であるとするなら、他者の自我や私秘性はあるともないとも言えない(確証不能)。

    ただ一つだけ確実には断言できるのは、今ここに在る「比類なき先言の<私>」は他者にはありえないということ。

    何故なら、今まさにここから視野が開け世界を見ている地点はここしかなく、自分の痛みや感覚を体験しているのは〈私〉であることから、他者に〈私〉は当てはまらない。

    仮に世界に数多くの自我や私秘性があったとしても、〈私〉が体験する自我や私秘性は広大な時空間において、「今、ここ」の特異点しかないということ。

    これをもって「比類なき先言の<私>」は唯一無二の存在であるということからパニチェ独自の独在論を「独〈私〉論」と名付ける。


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■36295 / inTopicNo.45)  〈私〉の哲学をアップデートする
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/26(Fri) 21:52:25)
    2024/01/26(Fri) 22:29:05 編集(投稿者)

    永井 均、入不二 基義、青山 拓央、谷口 一平 共著

    『〈私〉の哲学 をアップデートする』


    一応、チェックするためにAmazonをプチっとしますた。
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■36301 / inTopicNo.46)  『〈私〉の哲学をアップデートする』1
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/27(Sat) 18:11:50)
    2024/01/27(Sat) 20:38:24 編集(投稿者)

    そもそもの問い(永井氏の引用ではなくパニチェの問い)世界に多くの自我意識が存在する中で、今ここにある意識が何故私なのか?

    もう少し正確に言えば、何故世界が今ここから開かれているという唯一の地点に私であるという特殊な在り方をした意識が存在しているのか?

    この問いは正確には他者に伝わらない。他者に伝わらないことがこの問いの本質と言ってもよい。

    但し、この文を読む他者は一般論として読解することはできる。

    そして自分自身に当てはめ、一般論を超えた特殊な問いであり、唯一無二の問いでもあり事実であるというように捉えることは可能だろう。

    その時点では誰にとっても当てはまる問いや存在ではありえなくなっているはずである。

    さらに言えば上記の問いは答えを求める問いではなく、〈私〉に気付くための問い(公案のようなもの)であるということ。


    異論、反論、ここまでは理解できる等々、横レス歓迎します。
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■36421 / inTopicNo.47)  倫理道徳の源泉
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/04(Sun) 09:30:12)
    DNAで方向づけられている近しい遺伝子を保存しようとするベクトルが倫理道徳の源泉ではないか?

    自己保存本能や種の保存本能と呼ばれる方向性。

    人間以外の動物も子の面倒を見たり保護しようとするのは先天的なこのベクトルからであり、人間の場合は生後の教育によってこの原型が他者や利他の方向性もともなって倫理道徳と呼べるものとして形成される。

    よって人間を主とした倫理道徳とならざるをえない。

    結論から言えば理性や道徳は先天的なものでもなく、まして神から与えられたようなものではなくて、生物のもつ生へのベクトルが拡大化されたものであるということ。

    その意味ではニーチェの「力への意志」が上記の生のベクトルも意味するだとすれば、善悪の彼岸に位置する倫理道徳の源泉ではないか?と思う。
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■36609 / inTopicNo.48)  善悪の彼岸 第2章 自由な精神36
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/22(Thu) 19:40:22)
    横レス御免!

    No36599に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > そこはかとなく、
    > ちょっと想い出したので、

    > 【ニーチェ著『善悪の彼岸』1885-86/木場深定訳/発行者山口昭男/発行所岩波書店1970】の中に、
    > *************
    > 第2章 自由な精神
    > 36
    > 『実在的に「与えられて」いるのは、われわれの欲望と情熱の世界より他の何ものでもなく、従ってわれわれはまさにわれわれの衝動の実在性より以外の他の「実在性」へ下降することも上昇することもできないとすれば――思惟することはこれらの衝動が相互に関係し合うことにすぎないから――、この「与えられて」いるものがその同類のものから更にいわゆる機械的(または「物質的」)世界をも理解するに十分でないかどうかを、試みに問うことが許されるのではないか。・・・・』(P63)
    > *************
    > ってあるのね。
    > 「欲望と情熱の世界」、
    > スケベおやじも、
    > No36016のようなの、見てるんじゃないかしら?って。
    > (f)の『投影』
    > No36590で見たよな、〔刺激対象を知覚する際に,個体の興味,欲求,期待などの影響を受けてそれにそうように知覚が生じること。〕の〔個体の興味、欲求、期待〕のような「欲望」。
    > (j)の『想像的なものの源泉が情緒にある』
    > (m)の『意識の自由の現れ』
    > みたいなの。

    > 【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかの、
    > 『現象学はずっと以前から、その道を歩みつつあったのである。その信奉者たちはいたるところに、ヘーゲルやキルケゴールはもちろん、マルクス、ニーチェ、フロイトにもまた、現象学を見出すのである。』
    > っていうのも思い出してる。

    > ちなみに、わたしのいばあい、「価値」って、「欲求(欲望)を満たすもの」ってしてる。
    > 価値って、ひとそれぞれね。

    悪魔ちゃんが引用したアフォリズム『善悪の彼岸 第2章 自由な精神36』の結論部分を参考までに引用しておきます。

    「すなわち、〈作用〉が認められるところではどこでも意志が意志に作用しているのではないか──そしてあらゆる機械的な事象は、そのなかにある力がはたらいているかぎり,それはまさに意志の力、意志の作用ではないか、という仮説である。──かくて結局においてわれわれの衝動的生の全体を、意志の唯一の根本形態──すなわち私の命題にしたがえば、権力の意志──の発展的な形成および分岐として説明することができたなら、また、すべての有機的機能をこの権力の意志に還元して、そのうちに生殖や栄養の問題の解決──これは一つの問題だが──をも見出すことができたならば、それによってわれわれはあらゆる作用する力を一義的に権力の意志として提起する権利を手に入れたことになろう。内部から観られた世界、この〈叡智的性格〉にしたがって規定され特色づけられた世界、──これこそはまさに〈権力の意志〉なのであって、そのほかの何ものでもないだろう。──(善悪の彼岸 第2章 自由な精神36)」

    ニーチェが後に破棄した『権力への意志』に関するアフォリズム。
    普遍的真理や根本的原理を誤謬とし、形而上学を否定したはずのニーチェが新たな形而上学的概念でもある「権力の意志」をでっちあげようととしたまさにそのプロセスにあるアフォリズム。

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