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No36016 の記事


■36016 / )  Re[73]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/04(Thu) 11:22:45)
    「想像力」について思うきっかけとなった、【モーリス・メルロ=ポンティ『子供の心理−社会学』ソルボンヌ講義2/松葉祥一・澤田哲生・酒井麻衣子訳/みすず書房2023】の「イメージ」のところから、わたしが気になったところを書き出しておく。

    (a)『イメージは弱体化した知覚ではありません。それは「観察され」うるものではないのです。』(p70)

    (b)『イメージは、内的もしくは「心的」な「事物」ではなく、むしろ包括的な確信です。』(p70)

    (c)『イメージと幻覚には欺瞞が含まれており、それらは疑似的な視覚として示されます。狂人の虚言は、自分自身をだましているわけではないでしょう。彼の視覚はつねに、彼の行動の基盤となっている積極的な何かがあります。』(p70)

    (d)『想像力はつねに知覚された対象を目ざします。想像することは、内的な場面を熟視することではなく、単一の対象を参照することです。』(p71)

    (e)『想像することは、現実の対象をここに出現させようとして、それに向かうことなのです。想像的な対象の偽―現実化があり、不在の対象の「類同物〔analogon〕」の産出があるのです。サルトルは、心のイメージと結合した現象とを比較することで、この類同物の機能を明らかにしました。』(p71)

    (f)『物質的な拠りどころのない純粋なイメージ。そこで重要なのがまさに投影ですが、それは情動的で、活動的で、非知性的な投影です。』(p72)

    (g)『想像力は、本質的に情動的かつ運動的な現象であることが明らかになります。』(p72)

    (h)『こうした見方をするなら、感情とは、対象を志向し、それを疑似−現前させる方法のことです。われわれは対象を実際に思い描かなくても、運動や運動的志向性によって対象を志向します(たとえば、自分の背後の空間を想像する場合、重要なのはある包括的な印象とつながる一種の身体を割り出すことです。つまり、知的に表象することはなく、空間を志向するのです)。このように、情動性は、もはや「状態」ではなく、「志向の仕方」ないしは志向性によって定義されうるのです。』(p72)

    (i)『情緒は諸事物の把握である』(p73)

    (J)『(サルトル)われわれはたとえば怒りのなかで問題の直接的解決を探しますが、解決できないのでその問題を抹消し否定しようとする(自分が利用できない物を壊す)ということを示します。それは、実際の活動を、問題の情緒的否定に置き換えることです。他者との関係においても同様です。敵を説得できないとき、われわれは激怒のうちに敵を仮想的に破壊します。情緒のなかには、意識のあらゆる力の肯定、ある種の「対自」の狂気があります。この狂気のなかでは、問題が、外部の目撃者自身においてではなく、私に対して解決されます。したがって、それは本質的に魔術的な意識の仕方なのです。』(p74)

    (k)『情緒とは存在の仕方のことなのです。この考え方から、われわれは、想像的なものの源泉が情緒にあること、また夢や幻覚という現象が新たなかたちで解明されることが理解できます。幻覚にとらわれた人は、想像的な世界を定立します。自分の行動によって、彼は諸事物に幻想的な意味を与えます。彼は自分の幻覚を知覚していません。彼自身が知覚された事物と幻覚の進展を区別しており、他の人々は彼の言葉(ヴォワ)を理解できないはずです。彼の知覚は妄想の方向に湾曲されているので、その知覚を包み込んでいる態度から新しい意味を受け取ります。したがって、幻覚の対象は感覚器官の対象ではなく、 ある志向対象なのです。病者にとって、幻覚の対象が現実の代わりとなるのは、現実の価値が下げられて、病者は、健康な主体のように、生きられた世界を想像的な世界に対置できないからなのです。』(p75)

    (l)『イメージと現実的なもののあいだにある根本的な違いを見てきました。イメージは、決して観察可能ではないという点で、知覚と区別されます。しかし、イメージは、それが観察可能ではないがゆえに、幻覚を見ている人や夢を見ている人の意識に密着します。イメージは、直接的で絶対的なコミュニケーションという観念を私に与えてくれます。イメージは突然もたらされます。この点で、イメージにはある種の説得力があります。イメージの知覚と子どもの絵には類似点があります。』(p75)

    (m)『イメージのなかでわれわれがもつ信念は、われわれが現実(そして現実が前提とする相対主義)との接触を失い。ある特殊な態度に移行したことから帰結します。あらゆる知覚は、自らが部分的で、相対的なもののなかで活動しているということを知っています。〔それに対して〕想像的なものは絶対的なものなかで活動します。想像的なものによって、私は絶対的なものとかかわることになります。だからといって、私は、想像的なものが現実的であると信じているわけではありません。幻覚を見ている人でさえ、この二つの世界を区別しますが、現実的なものへの準拠(あるものをよりどころとしてそれに従うこと。また、そのよりどころ)を失ったがゆえに、想像的なもののなかで生きるのです。  この意味で、想像する力は、あざむく力であると同時に、意識の自由の現れです。意識は、想像的なものによってわれわれを現在から解放してくれますが、それは諸事物の外で自らを非現実化する力なのです。』(p76)

    (n)『意識は、諸対象の世界で生きるのをやめ、自分にもたらされた光景のなかに身を「置かなければ」ならないのです。主観的なものと客観的なものは崩壊しています。このとき、問題になるのが言い表しがたい第三の次元です(サルトル『イマジネール』参照)。主観的−客観的という区別の手前にとどまることが、夢幻的意識の固有性なのです。・・・・神話はこの第三の夢幻の秩序に属しています。著者〔サルトル〕はこの第三の秩序を、著作の後半から導入します。この秩序は健康な大人の覚醒した知覚と「虚構」のあいだにあります。』(p76)

    (o)『現実的なものの知覚のなかに信念があるとすら言えません。信念は先行する懐疑の後に入ってくるだけです。われわれの信念には何の支えもないので、われわれが本当に信じているのは想像的なものです。私は、自分が見ているこの椅子すら信じていません。椅子がそこにある。ただそれだけです。知覚は対象に密着するために、証明を期待しません。それは注意深い観察以前にあります。この意味で、知覚は想像的なものと同じく、前提を乗り越えます。現実と同じ、ように想像的なものが価値をもつためには、知覚されたもののなかに、推測的で両義的な部分がある必要があります。この共通の両義性のおかげで、時として、想像的なものが現実的なものに取って代わることができるのです。子どもは、目覚めている大人の二極的な世界のなかにわけではありません。子どもは混合領域に、つまり夢幻の両義的領域に住んでいるのです。』(p76)

    (p)『想像的なものと現実的なもののあいだには弁証法があり、この二つの領域のあいだには両義性があります。可能な合理性は、生や知覚の非合理的な枠組みを受け入れる合理性だけです。われわれと他者との関係の合理性は、私が他者を考察しているときでも他者は自由だという事実にあります。私が他者に対して抱くイメージに合わせるような他者に強制しないようなコミュニケーションを確立する必要があるのです。』(p78)

    はじまりとして、

    すこしづつつづける

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