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アドヴァイタと而今(にこん)
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□投稿者/ パニチェ -(2023/10/20(Fri) 20:30:44)
| こんばんは、田秋さん。レスありがとうございます。
■No34227に返信(田秋さんの記事)
『論考』の当該箇所を読み直して返信しますが、どうも私の解釈は禅的な発想が色濃く反映されており自信がないです。 仮に私の解釈が正しければウィトゲンシュタインこそ「論理と言語による見性悟道」の実践者みたいに見えてくるから不思議です。
> 「秘密の日記」の話の流れから論考6・4311が出てきました。 > 死は人生の出来事にあらず。人は死を体験せぬ。 > 永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きるものは、永遠に生きる。 > (秘密の日記より引用)
> 二つ質問があります。 > ・この「人は死を体験せぬ」というのは排他的論理和のように生と死は同時には成立しない、死ぬと生が終わるからという意味ですか?
「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」 上記は独我論を言い表しています。独我論的世界には他者の死は存在しても「私の死」は存在しません。 独我論的世界、言い換えれば「私の生(人生)の世界」であり、その意味において「人は(自分の)死」を「私の生(人生)の世界」では体験しないということではないでしょうか。
> ・後半に出てくる「無時間性」はパルメニデスが主張した「あるものは常に現在において存在する」と同じ意味ですか?
今ここに過去はない、そして今ここに未来もない。 今ここにあるのは今という瞬間であり、そこに過去も未来も集約される(道元禅師の“而今”今に生きると重なります)。 永遠が過去から未来へ継続するような幻想的な時間のことではなく、この瞬間の無時間性であるなら、今この瞬間に生きているものは、永遠に生きるということだと思います。
蛇足ですが、この発想は空間(アドヴァイタ)から見性へと導く禅的なアプローチと、時間(而今)から見性へ導く禅的なアプローチと相通じると思います。
PS.ザビビのふくろうさんの解説もリクエストしたいなぁ〜。
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