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No43877,44186,44534,44755 の記事


■43877 / )  超越論的分析論XI−8
□投稿者/ うましか -(2025/08/03(Sun) 11:36:22)
    2025/08/03(Sun) 11:44:05 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー
    返信ありがとうございました(・∀・)

    No.43828 (pipitさん)

    >Apprehensionですね!

    「把捉」これ、未だよく分からないんですよねー( ノД`)シクシク…
    こんな解説を発見しました

    h
    ttps://ameblo.jp/henry-english/entry-12731876741.html

    >多様を認識する

    多様(なもの)は、見渡され、総合される、つまり把捉され、多様なものを多様なものとして直観の統一をなす、、、(。´・ω・)?
    このプロセスは「認識」未満(。´・ω・)? ちがうかな…

    (;´・ω・)沼地

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕

    第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】

    ◆ 1. 直観における把捉の綜合について〔1. Von der Synthesis der Apprehension in der Anschauung 〕

    ◆ 私たちの諸表象は〔unsere Vorstellungen〕、それが何処から生じ〔entspringen〕ようと、それら〔私たちの諸表象〕が引き起こされたのが外的な諸物〔aeusserer Dinge〕の影響に因るにせよ、或いは、内的な原因〔innere Ursachen〕に因るにせよ、また、それら〔私たちの諸表象〕がア・プリオリに生じたにせよ、或いは現象として経験的に生じたにせよ、それらの諸表象は心の変様としての内的感官に属し、だからそのようなもの〔心の変様〕として、あらゆる私たちの認識は、結局は内的感官の形式的条件、つまり時間に従っているのであって、この時間において、それらの諸表象はことごとく秩序付けられ、連結され、関係づけられなければならない。これが以下の論述に際して一貫して根底に置かれなければならない一般的な注意である。

    ◆ あらゆる直観は或る多様なもの〔ein Mannigfaltiges〕をそれ自身の内に含んでいるが、しかしこの多様なものは、心が次々におこる諸印象の継続において時間を互いに区別することがなければ、そのようなものとして表象されるには至らないであろう。何故なら、一瞬間の内に含まれているものとして〔als in einem Augenblick enthalten,〕≠ヘ、あらゆる表象は絶対的統一以外の何ものでも決してあり得ないからである。ところで、この多様なものから直観の統一が生ずる(例えば、空間の表象におけるように)ためには、先ずこの多様性にざっと目を通し〔Durchlaufen〕、次にそれらを総合すること〔Zusammennehmung〕が必要であるが、私はこの働きを把捉の綜合〔die Synthesis der Apprehension〕≠ニ名づける。というのも、この働きは真っすぐに直観に向けられているのであって、直観はなるほど或る多様なものを提供しはするものの、その際現われる綜合無しではこの多様なものを多様なものとして、しかも一つの表象のうちに♀ワまれているものとして、引き起こすことは決してあり得ないからである。

    ―― No.43813の続き ---

    ◇ ところで、把捉のこの綜合〔diese Synthesis der Apprehension〕はまた、ア・プリオリにも、換言すれば、経験的ではない〔nicht empirisch sind〕諸表象に顧慮して〔in Ansehung der Vorstellungen〕も、行使され〔ausgeuebt werden〕なければならない。何故なら、把捉のこの綜合無しでは、私たちは空間の諸表象をも、時間の諸表象をも、ア・プリオリにも持つことはできないであろうである。

    ◇ というのも、これらの諸表象は、感性〔die Sinnlichkeit〕が、その根源的な受容性において〔in ihrer urspruenglichen Rezeptivitaet〕提供する、多様なものの綜合によってのみ〔nur durch die Synthesis des Mannigfaltigen〕、産出され得る〔erzeugt werden koennen〕からである。
    それ故、私たちは、把捉の純粋な綜合〔eine reine Synthesis der Apprehension〕を持っている。

    ◇ 2. 構想における再生産の綜合について〔2. Von der Synthesis der Reproduktion in der Einbildung〕

    ◇ 次のことが或る単純で経験的な法則〔ein bloss empirisches Gesetz〕に従うことは確か〔zwar〕である。すなわち、しばしば継起し〔gefolgt〕、または随伴してきた〔begleitet haben〕諸表象が、最後には互いに連合し合い〔vergesellschaften〕、このことによって連結し合う〔Verknuepfung〕に至り、このような連結の後に、その対象の存在がなくても〔ohne die Gegenwart des Gegenstandes〕、これらの諸表象の一つが、心の他の表象へ移行することを、或る恒常不変の規則〔einer bestaendigen Regel〕に従って引き起こす〔hervorbringt〕のである。


    † 原佑訳上巻、p.259〜p.261参照。 原典はMeiner,p.209〜p.210
    † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.190〜p.191、石川文康 訳 上巻, p.160、宇都宮監訳 上巻p.167〜p.168
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    XI−7 No.43813、XI−8 No.43877
    XI−4 No.41315、XI−5 No.43407、XI−6 No.43622
    XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741
    ]−7 No.40294、]−8 No.40300
    ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,
    No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,
    No.39943,40101,40235,40240,40294,40300
    第二節 No.40347,40360,40741,41315,43407,43622,43813,
    No.43877

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■44186 / )  超越論的分析論XI−9
□投稿者/ うましか -(2025/09/15(Mon) 23:22:11)
    2025/09/15(Mon) 23:26:02 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    遅くなってしまいましたが、コメント( No.43878 )ありがとうございました(・∀・)!

    "Apprehension"、これ宇都宮監訳(田村一郎担当の訳)では「覚知」と訳していますね!

    「把捉」もそうだけど、「覚知」も聞き慣れないなー(;´・ω・)

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕

    第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】

    ◆ 1. 直観における把捉の綜合について〔1. Von der Synthesis der Apprehension in der Anschauung 〕

    ◆ 私たちの諸表象は、それが何処から生じようと、それら〔私たちの諸表象〕が引き起こされたのが外的な諸物の影響に因るにせよ、或いは、内的な原因に因るにせよ、また、それら〔私たちの諸表象〕がア・プリオリに生じたにせよ、或いは現象として経験的に生じたにせよ、それらの諸表象は心の変様としての内的感官に属し、だからそのようなもの〔心の変様〕として、あらゆる私たちの認識は、結局は内的感官の形式的条件、つまり時間に従っているのであって、この時間において、それらの諸表象はことごとく秩序付けられ、連結され、関係づけられなければならない。これが以下の論述に際して一貫して根底に置かれなければならない一般的な注意である。

    ◆ あらゆる直観は或る多様なもの〔ein Mannigfaltiges〕をそれ自身の内に含んでいるが、しかしこの多様なものは、心が次々におこる諸印象の継続において時間を互いに区別することがなければ、そのようなものとして表象されるには至らないであろう。何故なら、一瞬間の内に含まれているものとして≠ヘ、あらゆる表象は絶対的統一以外の何ものでも決してあり得ないからである。ところで、この多様なものから直観の統一が生ずる(例えば、空間の表象におけるように)ためには、先ずこの多様性にざっと目を通し〔Durchlaufen〕、次にそれらを総合すること〔Zusammennehmung〕が必要であるが、私はこの働きを把捉の綜合〔die Synthesis der Apprehension〕≠ニ名づける。というのも、この働きは真っすぐに直観に向けられているのであって、直観はなるほど或る多様なものを提供しはするものの、その際現われる綜合無しではこの多様なものを多様なものとして、しかも一つの表象のうちに♀ワまれているものとして、引き起こすことは決してあり得ないからである。

    ◆ ところで、把捉のこの綜合はまた、ア・プリオリにも、換言すれば、経験的ではない諸表象に顧慮しても、行使されなければならない。何故なら、把捉のこの綜合無しでは、私たちは空間の諸表象をも、時間の諸表象をも、ア・プリオリにも持つことはできないであろうである。というのも、これらの諸表象は、感性が、その根源的な受容性において提供する、多様なものの綜合によってのみ、産出され得るからである。それ故、私たちは、把捉の純粋な綜合〔eine reine Synthesis der Apprehension〕を持っている。

    ◆ 2. 構想における再生産の綜合について〔2. Von der Synthesis der Reproduktion in der Einbildung〕

    ◇ 次のことが或る単純で経験的な法則に従うことは確かである。すなわち、しばしば継起し〔gefolgt〕、または随伴してきた〔begleitet haben〕諸表象が、最後には互いに連合し合い〔vergesellschaften〕、このことによって連結し合う〔Verknuepfung〕に至り、このような連結の後に、その対象の存在がなくても、これらの諸表象の一つが、心の他の表象へ移行することを、或る恒常不変の規則〔einer bestaendigen Regel〕に従って引き起こすのである。

    ―― No.43813,43877 の続き ---

    ◇ しかしこうした再生産の法則〔Gesetz der Reproduktion〕が前提しているのは、諸現象自身が実際にそうした規則に従っているということ、また、それらの諸現象の表象の多様なものにおいては、或る種の規則に適った随伴乃至は継起〔Begleitung, oder Folge〕が起こるということである。

    ◇というのも、こうしたことが無ければ、私たちの経験的な構想力〔unsere empirische Einbildungskraft〕は、何か己の能力に適ったことを決して為すことができず、それ故、死んだ、私たち自身に未知の能力のように、心の内部に隠されたままでいるに違いないからである。

    ◇辰砂〔Zinnober〕が、ときには赤くときには黒く、ときには軽くときには重く、人間が、ときにはこの動物の姿に、ときにはあの動物の姿に変化したり、夏至になって土地が、ときには作物で、ときには氷雪でおおわれたりすれば、私の経験的な構想力〔meine empirische Einbildungskraft〕は、赤い色を表象する際に重い辰砂を思い浮かべる機会を決して持ち得ないだろう。

    ◇ また、或る言葉が、ときにはこの物に、ときにはあの物に与えられたり、さらにまた、同一のものが、あれこれ名づけ変えられて、そこに、諸現象が既に自ずから従っている或る規則が支配していないとすれば、再生産〔der Reproduktion〕のいかなる経験的な綜合〔empirische Synthesis〕も起り得ないだろう。


    † 原佑訳上巻、p.261〜p.263参照。 原典はMeiner,p.210〜p.211
    † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.191〜p.192、石川文康 訳 上巻, p.160〜p.161、宇都宮監訳 上巻p.168
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

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    XI−7 No.43813、XI−8 No.43877、XI−9 No.44186
    XI−4 No.41315、XI−5 No.43407、XI−6 No.43622
    XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741
    ]−7 No.40294、]−8 No.40300
    ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,
    No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,
    No.39943,40101,40235,40240,40294,40300
    第二節 No.40347,40360,40741,41315,43407,43622,43813,
    No.43877,44186

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■44534 / )   超越論的分析論XI−10
□投稿者/ うましか -(2025/10/27(Mon) 23:57:42)
    2025/11/04(Tue) 01:35:16 編集(投稿者)

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕

    第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】

    ◆ 2. 構想における再生産の綜合について〔2. Von der Synthesis der Reproduktion in der Einbildung〕

    ◆ 次のことが或る単純で経験的な法則に従うことは確かである。すなわち、しばしば継起し〔gefolgt〕、または随伴してきた〔begleitet haben〕諸表象が、最後には互いに連合し合い〔vergesellschaften〕、このことによって連結し合う〔Verknuepfung〕に至り、このような連結の後に、その対象の存在がなくても、これらの諸表象の一つが、心の他の表象へ移行することを、或る恒常不変の規則〔einer bestaendigen Regel〕に従って引き起こすのである。
    しかしこうした再生産の法則〔Gesetz der Reproduktion〕が前提しているのは、諸現象自身が実際にそうした規則に従っているということ、また、それらの諸現象の表象の多様なものにおいては、或る種の規則に適った随伴乃至は継起〔Begleitung, oder Folge〕が起こるということである。
    というのも、こうしたことが無ければ、私たちの経験的な構想力〔unsere empirische Einbildungskraft〕は、何か己の能力に適ったことを決して為すことができず、それ故、死んだ、私たち自身に未知の能力のように、心の内部に隠されたままでいるに違いないからである。
    辰砂〔Zinnober〕が、ときには赤くときには黒く、ときには軽くときには重く、人間が、ときにはこの動物の姿に、ときにはあの動物の姿に変化したり、夏至になって土地が、ときには作物で、ときには氷雪でおおわれたりすれば、私の経験的な構想力〔meine empirische Einbildungskraft〕は、赤い色を表象する際に重い辰砂を思い浮かべる機会を決して持ち得ないだろう。
    また、或る言葉が、ときにはこの物に、ときにはあの物に与えられたり、さらにまた、同一のものが、あれこれ名づけ変えられて、そこに、諸現象が既に自ずから従っている或る規則が支配していないとすれば、再生産〔der Reproduktion〕のいかなる経験的な綜合〔empirische Synthesis〕も起り得ないだろう。

    ―― No.44186 の続き ---

    ◇ それ故、諸現象のこの再生産そのものを可能にする或るものがなければならない。すなわち、それは、この或るものがそれらの諸現象の必然的な綜合的統一のア・プリオリな根拠であることによって可能にするものでなければならない。

    ◇ しかし人は、諸現象は諸物自体ではなく私たちの諸表象の単なる戯れであって、これらの諸表象が結局は内的感官の諸規定に帰着するということを省察するや否や、直ちにその或るものに気づくのである。

    ◇ ところで、私たちが、私たちのア・プリオリで最も純粋な直観でさえ、それが、再生産の一貫した綜合を可能にするような、多様なもののそうした結合を含まなければ、いかなる認識も与えないということを立証できるならば、構想力のこの綜合も全ての経験に先立ちア・プリオリな諸原理に根拠付けられていることになり、だから構想力の純粋な超越論的綜合が想定されなければならないが、この綜合は、全ての経験の可能性(これは諸現象の再生産を必然的に前提とする)の根底にあるものである。


    † 原佑訳上巻、p.263〜p.264参照。 原典はMeiner,p.211
    † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.192〜p.193、石川文康 訳 上巻, p.161、宇都宮監訳 上巻p.168
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

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    XI−10 No.44534
    XI−7 No.43813、XI−8 No.43877、XI−9 No.44186
    XI−4 No.41315、XI−5 No.43407、XI−6 No.43622
    XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741
    ]−7 No.40294、]−8 No.40300
    ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,
    No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,
    No.39943,40101,40235,40240,40294,40300
    第二節 No.40347,40360,40741,41315,43407,43622,43813,
    No.43877,44186,44534

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■44755 / )  超越論的分析論XI−11
□投稿者/ うましか -(2025/11/30(Sun) 20:12:01)
    2025/11/30(Sun) 20:18:49 編集(投稿者)

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕

    第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】

    ◆ 2. 構想における再生産の綜合について〔2. Von der Synthesis der Reproduktion in der Einbildung〕

    ◇ それ故、諸現象のこの再生産そのものを可能にする或るものがなければならない。すなわち、それは、この或るものが、それらの諸現象の必然的な綜合的統一のア・プリオリな根拠であることによって、可能にするものでなければならない。
    しかし人は、諸現象は諸物自体ではなく、私たちの諸表象の単なる戯れであって、これらの諸表象が、結局は内的感官の諸規定に帰着するということを省察するや否や、直ちにその或るものに気づくのである。
    ところで、私たちが、私たちのア・プリオリで最も純粋な直観でさえ、それが、再生産の一貫した綜合を可能にするような、多様なもののそうした結合を含まなければ、いかなる認識も与えないということを立証できるならば、構想力のこの綜合も全ての経験に先立ちア・プリオリな諸原理に根拠付けられていることになり、だから構想力の純粋な超越論的綜合が想定されなければならないが、この綜合は、全ての経験の可能性(これは諸現象の再生産を必然的に前提とする)の根底にあるものである。

    ―― No.44534 の続き ---

    ◇ ところで次のことは明らかである。すなわち、私が一本の線を頭の中で〔in Gedanken〕引こうとしたり、あるいは或る日の正午から次の日の正午までの時間を考えようとしたり、あるいは或る種の数だけでも表象しようとしたりする時には、私はまず何よりも、必然的にこれらの多様な諸表象を次々と頭の中で捉えなければならない。

    ◇ しかし、私が先行する表象(線の最初の部分、時間の先行する部分、或いは順次表象された単位)を常に忘れてしまい、次の表象へと進んでいって、先行する表象を再生産しないとすれば、一つの全体的な表象は、前述の全ての思想のいずれも、それどころか空間と時間という最も純粋で最初の根本表象〔Grundvorstellungen〕すら、決して生じ得ないであろう。

    ◇ それ故、把捉の綜合〔Die Synthesis der Apprehension〕は、再生産の綜合〔der Synthesis der Reproduktion〕と離れがたく結合している。

    ◇ そして、前者〔把捉の総合〕は全ての認識一般(経験的認識のみならず、ア・プリオリな純粋認識も含めて)の可能性の超越論的根拠をなすので、構想力の再生産的綜合は心の超越論的働き〔den transzendentalen Handlungen des Gemuets〕に属するものであり、この働きを顧慮して、私たちはこの能力をまた構想力の超越論的能力〔das transzendentale Vermoegen der Einbildungskraft〕と呼ぼう。


    † 原佑訳上巻、p.264〜p.266参照。 原典はMeiner,p.211〜p.212
    † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.193〜p.194、石川文康 訳 上巻, p.161〜p.162、宇都宮監訳 上巻p.168〜p.169、有福孝岳 訳, p.181〜p.182
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    XI−10 No.44534、XI−11 No.44755
    XI−7 No.43813、XI−8 No.43877、XI−9 No.44186
    XI−4 No.41315、XI−5 No.43407、XI−6 No.43622
    XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741
    ]−7 No.40294、]−8 No.40300
    ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
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    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
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    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,
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    No.43877,44186,44534,44755


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