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No40294 の記事


■40294 / )  超越論的分析論]−7
□投稿者/ うましか -(2024/12/31(Tue) 20:49:34)
    2025/01/01(Wed) 00:09:52 編集(投稿者)
    2024/12/31(Tue) 20:50:33 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    今年も大変、たいへんお世話になりましたm(__)m

    深く、沼ふかく感謝いたしますm(__)m

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕

    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き

    ◆ それ故、全てのア・プリオリな概念の超越論的な根拠付け〔演繹〕は、その全探究が向けられなければならない一つの原理を持っている。
    それはすなわち、ア・プリオリな諸概念は経験の可能性のア・プリオリな条件として認識されなければならない(それが、経験において見出される直観の可能性の条件としてであろうと、或いは、思考の可能性の条件としてであろうと)という原理である。
    経験の可能性の客観的な根拠を与える諸概念は、まさにこの故に必然的である。しかし、そうした諸概念がそこで見出される経験を展開してみせることは、そうした諸概念の根拠付け〔演繹〕ではない(そうではなくて例証である)。というのも、そうした諸概念は、その際には何としても単に偶然的なものとなるおそれがあるからである。
    認識の全ての対象は可能的な経験において現われる。この可能的な経験との以上のような根源的な連関無しに、ア・プリオリな諸概念と何らかの客観との連関は全く理解され得ないに違いない。

    ◆あの有名なロック≠ヘ、このような考察を欠いていたことによって、また彼は悟性の諸純粋概念を経験において見出した。
    それ故、〔ロックは〕それらの純粋概念をも経験から導出し、しかも経験の全ての限界をはるかに越え出ていく認識を、そうした純粋概念でもって敢えて試みようとするほど不整合な≠竄阨を行った。
    デイヴィド・ヒューム≠ヘ、こうしたことをなし得るためには、これらの諸概念〔純粋概念〕はそのア・プリオリな
    起源を持っていなければならないということが必然的であると認めた。
    しかしヒュームは、悟性がそれ自体では悟性のうちで結合されていない諸概念を、にもかかわらず対象においては必然的に結合されているものとして思考しなければならないということがいかにして可能であるのかを全く説明できなかった。
    だから〔ヒュームは〕、おそらく悟性は、それらの諸概念によって己の諸概念がそこで見出され得る経験の創始者ですらあり得るということに思いつかなかったので、彼はそれらの諸概念を、やむをえず経験から導出した
    (つまり、経験においてしばしば連想されることによって生ずる主観的必然性から導出したのであり、この主観的必然性が結局は誤って客観的に妥当するものと看做されるのであるが、換言すれば習慣≠ゥら導出したのである)。
    しかしついで、それらの諸概念とそれらの諸概念から誘発される諸原則とでもっては経験の限界を越え出ていくことは不可能である、と彼〔ヒューム〕が説明する点では、極めて整合的なやり方を行った。
    しかし、経験的%ア出は、ロックとヒュームの両者ともそれに思いついたように、私たちが持っているア・プリオリな学的認識、即ち純粋数学≠ニ一般自然学≠ェ現実に存在しているということとは合致せず、従って事実によって論駁される。

    ―― No.40240の続き ---

    ◇ これらの有名な二名〔ロックとヒューム〕のうち、ロックは狂信〔Schwaermerei〕≠ノ門戸を開いた。というのも、理性はいったん権限が自分の側にあると見るや否や節度という不確かな称揚によってはもはや抑制されないからである。

    ◇ ヒュームは懐疑〔Skeptizim〕≠ノ全面的に身を委ねたが、それは彼が、理性と見做されているものが私たちの認識能力の極めて一般的な錯覚〔Taeuschung〕だということを発見したと信じたからである。

    ◇ − 私たちは今や、人間の理性をこれら二つの断崖〔ロック(による狂信)とヒューム(による懐疑)〕の間をうまく通過させ、この理性に規定された限界を指示し、にもかかわらず、その目的ある活動〔Zweckmaessigen Taetigkeit〕の全分野を、この理性のために開放しておくことが、できないものかどうか試みようとしているのである。


    † 原佑訳上巻、p.247〜p.248参照。 原典はMeiner, p.174〜p.175
    † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.109〜p.110、石川文康 訳 上巻, p.155、有福孝岳 訳, p.174〜p.175
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

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    ]−7 No.40294
    ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
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    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
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    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

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    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,
    No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,
    No.39943,40101,40235,40240,40294





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