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■36344 / inTopicNo.37)  「原則の分析論」Kant 的「序」!
  
□投稿者/ pipit -(2024/01/31(Wed) 15:58:06)
    というわけで、
    No36336-36337 へと読書続きます。
    ----------------------------
    序.超越論的な判断の能力一般について

    もし悟性一般が、法則や規則の能力と定義されるなら、
    判断の能力は規則のもとに包摂する能力と言えるだろう。

    つまり、与えられた規則の下にそれがしたがうかしたがわないか(与えられた規則の事例かどうか)を判別する能力である。
    ----------------------------

    INTRODUCTION. Of the Transcendental Faculty of judgement in General
    If understanding in general be defined as the faculty of laws or rules, the faculty of judgement may be termed the faculty of subsumption under these rules; that is, of distinguishing whether this or that does or does not stand under a given rule (casus datae legis). General logic contains no directions or precepts for the faculty of judgement, nor can it contain any such. For as it makes abstraction of all content of cognition, no duty is left for it, except that of exposing analytically the mere form of cognition in conceptions, judgements, and conclusions, and of thereby establishing formal rules for all exercise of the understanding. Now if this logic wished to give some general direction how we should subsume under these rules, that is, how we should distinguish whether this or that did or did not stand under them, this again could not be done otherwise than by means of a rule. But this rule, precisely because it is a rule, requires for itself direction from the faculty of judgement. Thus, it is evident that the understanding is capable of being instructed by rules, but that the judgement is a peculiar talent, which does not, and cannot require tuition, but only exercise. This faculty is therefore the specific quality of the so-called mother wit, the want of which no scholastic discipline can compensate.
引用返信/返信 削除キー/
■36345 / inTopicNo.38)  「原則の分析論」純粋理性批判B171-172
□投稿者/ pipit -(2024/01/31(Wed) 17:02:43)
    2024/01/31(Wed) 17:41:57 編集(投稿者)

    みなさま、こんにちは。

    No36344 の続きの箇所の日訳です。

    (英訳のpipit日訳)
    一般論理学には、判断能力のための指示や原則は含まれていないし、そのようなものを含むこともできない。
    というのも、認識のすべての内容を抽象化する以上、認識には、概念、判断、推論という認識の単なる形式を分析的に明らかにし、それによって知性(悟性)の使用のための形式的規則全てを確立するという義務しか残されていないからである。

    --------------
    (pipit感想)
    カント的には、「個別の内容 を 普遍的概念へ包摂させる際の判断」の問題をこの箇所で扱っているので、
    内容の一切を抽象化する一般論理学には、(対象の内容による包摂規則)みたいな項目を含めることは不可能、、、と言ってるのかなと思いました。

    あ、、、そういえば、
    ちょっと気になってる箇所を引用します。
    今読んでる「原則論」の前の「概念論」で、B102です。

    (カントの文章、中山元先生訳)
    『すでに繰り返し指摘したように、一般論理学は認識のすべての内容を無視するものであり、それがどこであろうと他の場所から像や観念[=表象]が与えられるのを〈待って〉いて、与えられた像や観念をまず概念に変換するのであるが、この操作は分析的に行われる。
    これにたいして超越論的な論理学では、感性においてアプリオリに与えられた多様なものを、すでに目の前にもっているのである。
    この多様なものは、超越論的な感性論が超越論的な論理学に提供したものであり、超越論的な論理学ではこれを素材として、純粋知性概念を作りだす。
    この素材なしでは超越論的な論理学はいかなる内容ももたず、まったく空虚なものとなるだろう。』
    『純粋理性批判2』p66.67

    一般論理学が、他の場所から表象が与えられるのを待って概念に変換する、ってどういうことなのかなぁ。
    (内容を抽象化して無内容のオブジェクト(対象)が複数個ということになるけど、そのオブジェクトの関係性を外延とか否定とかの概念化するということ?????)

    それに超越論的論理学の箇所では包摂ではなく、概念をつくりだす、になってる...
    (判断の原則論や図式論できちんと論じるのかなあ????)

引用返信/返信 削除キー/
■36346 / inTopicNo.39)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/01/31(Wed) 17:18:00)
    アプリオリな領域の感性的素材(空間、時間)から純粋悟性概念を作り出し、
    その純粋悟性概念を経験的現象に適用する判断力の規準(インストラクター的なもの)が「判断の原則論」なのかなぁ???

    ※まだ本文に目を通してないpipitの勝手な妄想です
    (´-`).。oO カワッテルヒトダナー
引用返信/返信 削除キー/
■36364 / inTopicNo.40)  「原則の分析論」純粋理性批判B172
□投稿者/ pipit -(2024/02/03(Sat) 00:06:35)
    みなさまこんばんは(^ ^)
    次の文章が全然意味がわからなかったので、ここまで訳した文章を振り返ってからもう一度見てみます。
    ----------------------------
    序.超越論的な判断の能力一般について

    もし悟性一般が、法則や規則の能力と定義されるなら、
    判断の能力は規則のもとに包摂する能力と言えるだろう。
    つまり、与えられた規則の下にそれがしたがうかしたがわないか(与えられた規則の事例かどうか)を判別する能力である。

    一般論理学には、判断能力のための指示や原則は含まれていないし、そのようなものを含むこともできない。
    というのも、認識のすべての内容を抽象化する以上、認識には、概念、判断、推論という認識の単なる形式を分析的に明らかにし、それによって知性(悟性)の使用のための形式的規則全てを確立するという義務しか残されていないからである。
    ----------------------------

    続きの英訳
    Now if this logic wished to give some general direction how we should subsume under these rules,
    that is, how we should distinguish whether this or that did or did not stand under them,
    this again could not be done otherwise than by means of a rule.

    とりあえず略すると、、、

    this again could not be done otherwise than by means of a rule.

    「これもまた、規則以外にはありえない。」

    何に対して規則以外にあり得ないの?

    (how)に対して。

    何の(how)?

    how we should subsume under these rules,

    「我々はどのようにこの規則の下に包摂するべきか」



    もまた規則.....

    ふむー...改めて日訳にチャレンジしてみます。

    (英訳の日訳)
    「もしもこの論理学が、我々がどのようにこれらの規則の下に包摂するかについての一般的な指示を示したい、、、つまり、我々がこの下に包摂するか否かをどのように区別するのかを示したいならば、これもまた規則によるしかないのである。」

    (pipit感想)
    その概念が成り立つ規則があるとして、
    規則(概念)に合致するものとしてある事象を包摂させるのにも、また同じ規則を用いるしかない。。。
    包摂するか否かは、内容と内容の照らし合わせになるので、内容を抽象化してしまう(捨象してしまう)一般論理学には概念に個別を包摂するか否かの判断についての記述は無いということかなぁ。。。

引用返信/返信 削除キー/
■36429 / inTopicNo.41)  超越論的分析論\−1
□投稿者/ うましか -(2024/02/05(Mon) 01:36:25)
    2024/02/05(Mon) 01:37:24 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    いよいよ、第二部門★第一部☆第一篇★第二章☆彡突入です! (`・ω・´)ゞ

    が、、、一文で撃沈しました〜


    (゚Д゚; )(;゚Д゚) カント沼

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◇ 法律学者たち〔Rechtslehrer〕は、彼らが権限〔Befugnussen*1〕と権利の主張〔Anmassungen*2/claims〕について論ずるときには、一つの訴訟事件について、何が合法的であるか〔was Rechtens ist〕に関する問題(quid juris 権利問題)を、事実〔Tatsache〕に関わる問題(quid facti事実問題)から区別し、両者〔権利問題と事実問題〕について証明〔Beweis〕を要求する

    *1 権限、権能、資格
    *2 不当な行為 ・・・ 越権

    ◇ 彼らは、第一の証明〔権利問題〕、つまり権限〔Befugnis〕、或いは権利の要求〔Rechtsanspruch*3〕を立証すべき証明を、演繹〔Deduktion〕*4≠ニ呼ぶ。

    *3 権利の主張、法律上の請求権
    *4 中山元訳2では、「根拠づけ」と訳す。


    † 原佑訳上巻、p.235参照。 原典はMeiner,p.164〜p.165
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.91〜p.92、石川文康 訳 上巻,p.145、熊野純彦 訳,p.131、有福孝岳 訳(カント全集4 上),p.165、宇都宮芳明 監訳 上,p.153〜p.154、M.Weigelt 訳, p.112
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−1 No.36429
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429

引用返信/返信 削除キー/
■36460 / inTopicNo.42)  Re[8]: 超越論的分析論\−1
□投稿者/ pipit -(2024/02/07(Wed) 00:33:11)
    2024/02/07(Wed) 10:07:39 編集(投稿者)

    うましかさん、こんばんはー(^○^)

    No36429
    もうなんなんですかねー このカント沼 ヽ(;▽;)ノナゾ

    演繹論は、純理の中の難所中の難所として、御子柴先生も『さあ、たいへん・・・・・・。』とおっしゃってますもんね(『カント哲学の核心』p109)

    > (゚Д゚; )(;゚Д゚) カント沼<

    うまさんも、しかさんも、困惑してる!

    > ◇ 法律学者たち〔Rechtslehrer〕は、彼らが権限〔Befugnussen*1〕と権利の主張〔Anmassungen*2/claims〕について論ずるときには、一つの訴訟事件について、何が合法的であるか〔was Rechtens ist〕に関する問題(quid juris 権利問題)を、事実〔Tatsache〕に関わる問題(quid facti事実問題)から区別し、両者〔権利問題と事実問題〕について証明〔Beweis〕を要求する
    >
    > *1 権限、権能、資格
    > *2 不当な行為 ・・・ 越権

    > ◇ 彼らは、第一の証明〔権利問題〕、つまり権限〔Befugnis〕、或いは権利の要求〔Rechtsanspruch*3〕を立証すべき証明を、演繹〔Deduktion〕*4≠ニ呼ぶ。
    >
    > *3 権利の主張、法律上の請求権
    > *4 中山元訳2では、「根拠づけ」と訳す。<

    立証すべき証明 が、演繹〔Deduktion〕*4≠ゥぁ。

    カントの時代では、法律の場で『Deduktion』という用語が一般的に使われてたんですかね。

    wikiの『演繹』のページには、

    『イマヌエル・カントは、通常の意味とは異なった形で演繹 (Deduktion) という語を用いている。カントにおいて演繹とは概念の正当性の証明を意味する。最も代表的な例は『純粋理性批判』におけるカテゴリー(範疇)の超越論的演繹である。演繹のこのような用法は当時の法学用語に由来するといわれ、カントのいたるところにみられる。』

    とありました。

    演繹沼... ( ゚д゚) 図式沼...
    ........ 二律背反沼......... そしてやがて辿り着けるのか、道徳の大沼....
引用返信/返信 削除キー/
■36465 / inTopicNo.43)  Re[17]: 「原則の分析論」純粋理性批判B172
□投稿者/ pipit -(2024/02/07(Wed) 14:31:47)
    みなさま、こんにちはー

    No36364 の続きです。
    まず英訳から、、、

    But this rule, precisely because it is a rule, requires for itself direction from the faculty of judgement.
    Thus, it is evident that the understanding is capable of being instructed by rules, but that the judgement is a peculiar talent, which does not, and cannot require tuition, but only exercise.
    This faculty is therefore the specific quality of the so-called mother wit, the want of which no scholastic discipline can compensate.


引用返信/返信 削除キー/
■36467 / inTopicNo.44)  Re[18]: 「原則の分析論」純粋理性批判B172
□投稿者/ pipit -(2024/02/07(Wed) 22:51:16)
    2024/02/08(Thu) 07:26:33 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは♪

    No36465の英訳をpipitが日訳してみました。

    しかし、この規則は、規則であるがゆえに、それ自体、判断能力からの指示を必要とする。
    したがって、悟性は規則によって教えられることが可能であるが、判断力は特別な能力であり、規則によって教えられることはなく、訓練を必要とするだけである。
    したがって、この能力は、いわゆる「生まれつきの才覚」の特別な資質であり、学問的訓練ではその欠如を補うことはできない。

    --------------
    (pipit感想)

    悟性が規則の能力って言われても???...と思ってたら、山口修二先生が詳しく解説してくださっていました。

    (山口先生の解説文)
    『たとえば悟性は「赤」という概念を「Xは赤い」という規則として可能にする。』
    (『カント超越論的論理学の研究』p146)

    それでXに何が当てはまるか決定するのは判断力ということですね。

    (山口先生の解説文)
    『「判断力」は、「規則の下に包摂する能力」であり、悟性が与える概念=規則のもとに何が属するのかを「区別する」能力である。』
    (同本p146)

    山口先生と同じように超親切に解説される御子柴善之先生の解説も引用します。

    (御子柴善之先生の解説文)
    『もし概念(規則)が欠けているなら、それを学校で学ぶことができます。(略)しかし、考えるに際して私たちがその道具をどのように使用すべきかという判断を行う力は、誰も教えることができず、私たち自身が反復練習して磨くしかないとカントは言います。(略)
     カントはこうした判断力は「天賦の資質」のようなものであり、他人が外から植え付けることができないと指摘します。(略)』
    (『カント純粋理性批判』p238.239より引用)

    インターネットですぐに検索できるし、ありがたい時代だなぁ

    でももう何がフェイクかわからない時代にもなってしまってるようですけど
    (・・;)
引用返信/返信 削除キー/
■36482 / inTopicNo.45)  Re[8]: 超越論的分析論\−1
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/09(Fri) 16:53:02)
    No36429に返信(うましかさんの記事)
    うましかさん、pipitさん、こんにちは

    > T 超越論的原理論
    > 第二部門 超越論的論理学
    > 第一部 超越論的分析論
    > 第一篇 概念の分析論
    > 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    > 第二章 純粋悟性概念の演繹について
    >
    > 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について
    >
    > ◇ 法律学者たち〔Rechtslehrer〕は、彼らが権限〔Befugnussen*1〕と権利の主張〔Anmassungen*2/claims〕について論ずるときには、一つの訴訟事件について、何が合法的であるか〔was Rechtens ist〕に関する問題(quid juris 権利問題)を、事実〔Tatsache〕に関わる問題(quid facti事実問題)から区別し、両者〔権利問題と事実問題〕について証明〔Beweis〕を要求する
    >
    > *1 権限、権能、資格
    > *2 不当な行為 ・・・ 越権
    >
    > ◇ 彼らは、第一の証明〔権利問題〕、つまり権限〔Befugnis〕、或いは権利の要求〔Rechtsanspruch*3〕を立証すべき証明を、演繹〔Deduktion〕*4≠ニ呼ぶ。
    >
    > *3 権利の主張、法律上の請求権
    > *4 中山元訳2では、「根拠づけ」と訳す。

    例えば土地の所有権が争われているとすると、
    誰がいつから、どのように、その土地を占有・使用してきたかなどなどが事実問題で、
    そこで証明された事実をもとに、どのような(法的)根拠で(誰に)所有権を認めるかが権利問題。後者の証明を演繹(or 根拠付け)と呼ぶ、みたいなことですかね。
    余計な口出しすみません。
引用返信/返信 削除キー/
■36485 / inTopicNo.46)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/09(Fri) 21:23:55)
    おくたがわさん、こんばんはー(^O^)
    書き込みありがとうございます!

    No36482
    > 例えば土地の所有権が争われているとすると、
    > 誰がいつから、どのように、その土地を占有・使用してきたかなどなどが事実問題で、
    > そこで証明された事実をもとに、どのような(法的)根拠で(誰に)所有権を認めるかが権利問題。後者の証明を演繹(or 根拠付け)と呼ぶ、みたいなことですかね。<

    そうですね、主張の正当性の証明、みたいなものなのですかね?

    (御子柴善之先生の解説)
    『たとえば、ある人が自分の賃金が不当に安いと訴えたとします。
    この訴訟においては、一方で、当人の労働時間や労働内容などが調べられるとともに、他方で、当人が結んだ契約内容やその法的根拠が問い尋ねられます。
    前者が事実問題で、後者が権利問題です。この両者を踏まえて、当人の訴えに正当性があるかどうかが判断されることになります。
    このとき、正当か不当かという点では権利問題の証明こそが中心的な課題となります。』
    (『カント純粋理性批判』p143より引用)

    (山口修二先生の解説)
    『周知のようにカントによれば、「演繹(Deduktion)」という語は「事実問題(quid facti)」ではなく「権利問題(quid juris)」(A84,B116)についての説明を指す。一般に「権利問題」とは或る事柄についてその正当性に疑念が生じる場合にのみ成立するような問題である。したがって、或る「概念」に対して「演繹」が要求されるのは、その概念の正当性についての意義が申し立てられ、それによって「権利問題」が発生する場合に限られる。
    (略)
    、カテゴリーが普遍的概念であるが故に、その使用を経験に制限することの可能性が疑われると同時に、その客観的妥当性が疑われるのである。(略)』
    (『カント超越論的論理学の研究』p97-106から引用)

    難しくていやになるのに読むのを諦めるのもいや.....
    ひどいよカント沼っ!。゚(゚´ω`゚)゚。
    とカントのせいにしてみます.....

    >余計な口出しすみません。<

    わたしは本当に!ありがたいです。感謝です!
引用返信/返信 削除キー/
■36501 / inTopicNo.47)  超越論的分析論\−2
□投稿者/ うましか -(2024/02/10(Sat) 23:22:12)
    2024/02/10(Sat) 23:24:09 編集(投稿者)

    pipitさん、おくたがわさん、こんばんはー

    No.36460(pipitさん)

    >カントの時代では、法律の場で『Deduktion』という用語が一般的に使われてたんですかね。

    そうみたいですね! (;・∀・)

    No.36482(おくたがわさん)

    >例えば土地の所有権が争われているとすると、誰がいつから、どのように、その土地を占有・使用してきたかなどなどが事実問題で、そこで証明された事実をもとに、どのような(法的)根拠で(誰に)所有権を認めるかが権利問題。後者の証明を演繹(or 根拠付け)と呼ぶ、みたいなことですかね。

    佐々木尽によれば、D.ヘンリッヒや石川文康の指摘によると、カントの生きた当時では、

    >主として土地や財産に関する利権争い、遺産相続の争い等の主として民事的な訴訟案件において、その経過を記述したり、議論の余地ある法的要求が出た場合にどちらに正当性があるかを記録した文書があり、「演繹書[Deduktionsschriften]」と呼ばれていた<

    とのことです。カントは、民事的係争の経過を記述し、どちらに正当性があるか〔石川文康『カント第三の思考』,p.192〜参照〕を問う「演繹」を、自らの問い「ア・プリオリな綜合判断はいかにして可能か」に答える際に援用したということですかね?なお、佐々木によれば、

    >「権利問題」と「事実問題」に関しては、ある『覚書』が次のようにも述べる。「事実問題[quaestio facti]とは、いかなる仕方である概念が所有へともたらされたか、である。権利問題[quaestio juris]とは、いかなる権利によってその同一の概念を所有し、また用いるか、である」(XVIII 267:Refl. 5636)。カントは上記の問いにおける「いかにして」を「いかなる仕方で[…]所有へともたらされたか」ではなく、「いかなる権利で[…]所有し、また用いるか」として解し、それに答えるという手続きを「演繹」と呼んだ。<

    とのことです。上の「ある『覚書』」って気になるな〜(;´・ω・)

    【参照】
    https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/78425/mp_51_027.pdf
    https://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN4-8158-0299-8.html
    http://kant.korpora.org/

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◇ 法律学者たちは、彼らが権限〔Befugnussen〕と越権〔Anmassungen〕について論ずるときには、一つの訴訟案件について、何が権利であるか〔was Rechtens ist〕という問い(quid juris 権利の問題)を、事実〔Tatsache〕に関する問い(quid facti事実の問題)から区別し、両者〔権利問題と事実問題〕からの証明を要求する。彼らは、第一の証明〔権利問題〕、つまり権限〔Befugnis〕、或いは権利の要求〔Rechtsanspruch〕を立証すべき証明を演繹〔Deduktion〕≠ニ呼んでいる。

    ―― No.36429 の続き ---

    ◇ 私たちは、多くの経験的概念を誰にも反論されることなく使用している。だから演繹無しで、それらの諸概念に意味〔Sinn〕と想定された意義〔eingebildete Bedeutung〕を与えることを当然のこととしている。というのも、私たちはいつでも経験を手元に持っていて、その〔諸概念の〕客観的実在性〔objektive Realitaet〕を証明できるからである。

    ◇ ところが、例えば幸福〔Glueck〕≠ニか運命〔Schicksal〕≠ニいった権限のあいまいな諸概念もあり、それらの諸概念はほとんど一般的には大目に見られて使い回されているはいるが、にもかかわらず、時には権利問題quid jurisによって答弁を求められることがある。その場合、人はそれらの諸概念を演繹するとただちに少なからざる困惑に陥るのである。

    ◇ というのも、私たちは、それらの諸概念を使用する権限が明らかとなるようないかなる明白な法的な根拠を、経験からも理性からも挙げることができないからである。


    † 原佑訳上巻、p.235〜p.236参照。 原典はMeiner, p.165
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.92、石川文康 訳 上巻,p.145、熊野純彦 訳,p.131、有福孝岳 訳(カント全集4 上),p.165、宇都宮芳明 監訳 上,p.154、M.Weigelt 訳, p.112〜p.113
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−1 No.36429、\−2 No.36501
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501

引用返信/返信 削除キー/
■36523 / inTopicNo.48)  Re[9]: 超越論的分析論\−2
□投稿者/ pipit -(2024/02/12(Mon) 12:51:54)
    うましかさん、こんにちはー(^ ^)

    No36501
    カント文への取り組みおつかれさまです!

    > ◇ 私たちは、多くの経験的概念を誰にも反論されることなく使用している。だから演繹無しで、それらの諸概念に意味〔Sinn〕と想定された意義〔eingebildete Bedeutung〕を与えることを当然のこととしている。というのも、私たちはいつでも経験を手元に持っていて、その〔諸概念の〕客観的実在性〔objektive Realitaet〕を証明できるからである。<

    あ、『反論されることなく』が入ってるのですね。
    〔objektive Realitaet〕かぁ...
    最近、いまさらながら、カント的『客観』ってなんなんだろうなぁ?って思っていました....います....(T ^ T)

    > ◇ ところが、例えば幸福〔Glueck〕≠ニか運命〔Schicksal〕≠ニいった権限のあいまいな諸概念もあり、それらの諸概念はほとんど一般的には大目に見られて使い回されているはいるが、にもかかわらず、時には権利問題quid jurisによって答弁を求められることがある。その場合、人はそれらの諸概念を演繹するとただちに少なからざる困惑に陥るのである。<
    > ◇ というのも、私たちは、それらの諸概念を使用する権限が明らかとなるようないかなる明白な法的な根拠を、経験からも理性からも挙げることができないからである。 <

    幸福とか運命とかの意味〔Sinn〕と想定された意義〔eingebildete Bedeutung〕と、その〔諸概念の〕客観的実在性〔objektive Realitaet〕の証明、かぁ
    やっぱり『運命』という概念のobjektive Realitaetの証なんて言われても難しそうですよね。

    純粋悟性概念(カテゴリー)の演繹、かぁ。

    成否はともかくとして、カントの仕事量を思うと、ほんまに?と驚きます。
    変◯さん....
引用返信/返信 削除キー/

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