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■36524 / inTopicNo.49)  「原則の分析論」純粋理性批判B172
  
□投稿者/ pipit -(2024/02/12(Mon) 15:43:31)
    みなさまこんにちは。続きの英訳を読んでみました。

    For although education may furnish, and, as it were, engraft upon a limited understanding rules borrowed from other minds, yet the power of employing these rules correctly must belong to the pupil himself;
    and no rule which we can prescribe to him with this purpose is, in the absence or deficiency of this gift of nature, secure from misuse.[26]

    というのも、教育が、限定された知性に、他の心から借用した規則を与え、いわば移植することはできるかもしれないが、これらの規則を正しく用いる力は、生徒自身に属するものでなければならないからである。
    このような目的(規則を正しく用いる)のために私たちが彼に指示できる規則は、この自然からの贈り物(適切に判断する能力)がない場合、あるいは欠けている場合には、(規則の)誤用から免れることはできない[26]。


    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap55
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■36527 / inTopicNo.50)  Re[20]: 「原則の分析論」純粋理性批判B172
□投稿者/ pipit -(2024/02/12(Mon) 18:35:03)
    みなさまこんばんはー(^O^)
    訳注の英訳を読んでみて、pipitが意訳日訳してみました。間違えてたらすみませんm(_ _)m

    [26] Deficiency in judgement is properly that which is called stupidity; and for such a failing we know no remedy. A dull or narrow-minded person, to whom nothing is wanting but a proper degree of understanding, may be improved by tuition, even so far as to deserve the epithet of learned. But as such persons frequently labour under a deficiency in the faculty of judgement, it is not uncommon to find men extremely learned who in the application of their science betray a lamentable degree this irremediable want.

    判断力の不足は正確には愚かさと呼ばれるものであり、そのような症状を改善する術を私たちは知らない。
    適度な知性の他には何も欠けていない、鈍い、あるいは狭い気質の人は、
    有識者と呼ばれるに値するまでに、指導によって改善されるかもしれない。
    しかし、このような人たちは、しばしば判断力の不足によって苦労する。
    彼らの学識を用いる中で、この救いようのない欠如でもって嘆かわしいほど(正確な判断を)裏切る人たちを、非常に学識のある人の中に見つけることは珍しくない。


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■36529 / inTopicNo.51)   「原則の分析論」純粋理性批判B173
□投稿者/ pipit -(2024/02/12(Mon) 19:29:09)
    2024/02/13(Tue) 06:01:21 編集(投稿者)

    続き読みます(^ ^)

    英訳がアクセス禁止になるので略します。
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#linknote-26

    (英訳のpipit意訳・日訳)

    従って、医師も、裁判官も、あるいは政治家も、その頭の中には多くの立派な病理学的、法律学的、政治学的規則があるかもしれない-------その特定の学問において深遠な教師となりうる程に-------。
    しかし、これらの規則を適用する際に、彼は大変な不手際を犯す可能性がある。

    ---自然の判断力が欠けていて(知性は欠けていないとしても)、抽象的な一般論は理解できても、具体的な特定のケースを前者(抽象的な一般論)の下に置くべきかどうかを区別することができないからか、、
    あるいは、彼の判断力が、実例や実際の実践によって十分には鍛えられていないからである。


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■36530 / inTopicNo.52)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/02/13(Tue) 07:29:52)
    2024/02/13(Tue) 07:31:45 編集(投稿者)

    規則としての働きと、実物を規則に当てはめる力を、悟性と判断力に分けてるんだね。

    規則と実物の橋渡し・仲介を、想像力(構想力)に担わせる方向に行くのかなぁ...

    全然違うかなぁ....

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■36533 / inTopicNo.53)  Re[11]: 日記
□投稿者/ pipit -(2024/02/13(Tue) 19:54:20)
    2024/02/13(Tue) 19:55:37 編集(投稿者)

    みなさま、こんばんは(^ ^)続きです♪

    Indeed, the grand and only use of examples, is to sharpen the judgement.
    実際、実例の大きなかつ唯一の用途は、判断を鋭くすることである。

    For as regards the correctness and precision of the insight of the understanding,
    というのは、知性の洞察の正しさと厳密さに関しては、


    examples are commonly injurious rather than otherwise,
    実例はむしろ一般的に有害である。

    because, as casus in terminis they seldom adequately fulfil the conditions of the rule.
    なぜなら、術語の事例としては、それら(実例)が規則の条件を十分に満たすことは稀であるからだ。

    Besides, they often weaken the power of our understanding to apprehend rules or laws in their universality,
    その上、知性が特定の経験状況とは無関係に規則や法則の普遍性を理解する力を、実例は弱めてしまうことも多い、
    independently of particular circumstances of experience;

    and hence, accustom us to employ them more as formulae than as principles.
    それゆえ、規則を原理としてよりも公式として使うことに我々を慣らしてしまう。

    Examples are thus the go-cart of the judgement, which he who is naturally deficient in that faculty cannot afford to dispense with.
    このように、実例は、判断力が自然に欠如した者には手放すことのできない、判断力の歩行器なのである。

    (pipit感想)
    実例(examples)が、ある術語の事例としてぴったりくることはなかなかないし、元々の規則の厳密性から外れてしまうこともあるかもだけど、それでも判断力の足りない人には、実例の提示は、判断力の歩行器(赤ちゃんがつかまって歩く車)の役割のように助けになるもの、ってことかなぁ。
    私はよく勘違いしたり常識が無かったりするので、仕事の時は上司に一つ見本を作ってもらいます。
    そうすると、規則がわかりやすくなるんですよね。
    ありがたやー(^人^)

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■36542 / inTopicNo.54)  純粋理性批判B 174
□投稿者/ pipit -(2024/02/14(Wed) 20:51:47)
    みなさまこんばんは(^ ^)
    続き読みます。

    But although general logic cannot give directions to the faculty of judgement, the case is very different as regards transcendental logic, insomuch that it appears to be the especial duty of the latter to secure and direct, by means of determinate rules, the faculty of judgement in the employment of the pure understanding.

    (英訳のpipit意訳・日訳)
    しかし、一般論理学は判断能力に指示を与えることはできないが、超越論的論理学に関してはまったく異なる。
    超越論的論理学の特別な任務は、純粋悟性を働かせるための判断力を、明確な規則により確保して指示することのようにみえる。

    (pipit雑感)
    認識の内容を無視する一般論理学には、個別の事例の上位概念への?包摂に関する判断力への指示は含み得ないが、カントが構想する超越論的論理学では事情は異なり、判断力への指示を論理学の中で提示できる、ということかな。
    (ーー;)...
    カント先輩の◯◯....
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■36548 / inTopicNo.55)  Re[13]: 純粋理性批判B 174
□投稿者/ pipit -(2024/02/15(Thu) 19:00:55)
    みなさまこんばんは。続きです。

    For, as a doctrine, that is, as an endeavour to enlarge the sphere of the understanding in regard to pure a priori cognitions, philosophy is worse than useless, since from all the attempts hitherto made, little or no ground has been gained.
引用返信/返信 削除キー/
■36549 / inTopicNo.56)  Re[14]: 純粋理性批判B 174
□投稿者/ pipit -(2024/02/15(Thu) 19:17:47)
    文意をわかりやすくするため、前に訳したものもくっつけて投稿します。

    (英訳のpipit意訳日訳)

    超越論的論理学の特別な任務は、純粋悟性を働かせるための判断力を、明確な規則により確保して指示することのようにみえる。
    というのも、特定の思想体系---つまり、純粋でアプリオリな認識に関して悟性の領域を拡大しようとする試み---としての哲学は役に立たないにもほどがあるからだ。
    これまで試みられてきたすべての試みは、ほとんど、あるいはまったく成果を上げてこなかったからだ。

    (pipit雑感)

    今までの形而上学では結果を出せてない、とカントは思っている。
    形而上学の可能性を探るカントとしては、準備学として、
    形而上学という場でどこまでも飛んで行こうとする理性を適切な範囲に抑制し、悟性が適正に働ける条件を示す超越論的論理学の構築を目指すのかな??と思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■36567 / inTopicNo.57)  Re[15]: 純粋理性批判B 174
□投稿者/ pipit -(2024/02/17(Sat) 23:24:19)
    2024/02/18(Sun) 05:47:12 編集(投稿者)

    みなさまこんばんはー。続きです♪

    (英訳略)

    しかし、私たちが所持する数少ない純粋な悟性概念の使用における判断力の誤りを防ぐために---その効用はこの場合純粋に消極的なものだとしても---、批判としての哲学はその鋭敏さと洞察力のすべてを用いることが求められる。

引用返信/返信 削除キー/
■36568 / inTopicNo.58)  純粋理性批判B 174英訳
□投稿者/ pipit -(2024/02/17(Sat) 23:25:10)
    But, as a critique,
    in order to guard against the mistakes of the faculty of judgement (lapsus judicii) in the employment of the few pure conceptions of the understanding which we possess,
    although its use is in this case purely negative, philosophy is called upon to apply all its acuteness and penetration.
引用返信/返信 削除キー/
■36600 / inTopicNo.59)  超越論的分析論\−3
□投稿者/ うましか -(2024/02/20(Tue) 22:39:53)
    2024/02/20(Tue) 22:42:22 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    今夜も何を言ってるのか分からないカントの夜。。。(´;ω;`)ウゥゥ

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ 法律学者たちは、彼らが権限と越権について論ずるときには、一つの訴訟案件について、何が権利であるかという問い(quid juris 権利問題)を、事実に関する問い(quid facti事実問題)から区別し、両者〔権利問題と事実問題〕からの証明を要求する。彼らは、第一の証明〔権利問題〕、つまり権限、或いは権利の要求を立証すべき証明に演繹〔Deduktion〕≠ニ名づけたのである。
    私たちは、多くの経験的概念を誰にも反論されることなく使用している。だから演繹無しで、それらの諸概念に意味と想定された意義とを与えることを当然のこととしている。というのも、私たちはいつでも経験を手元に持っていて、その〔諸概念の〕客観的実在性を証明できるからである。
    ところが、例えば幸福≠ニか運命≠ニいった権限のあいまいな諸概念もあり、それらの諸概念はほとんど一般的には大目に見られて使い回されているはいるが、にもかかわらず、時には権利問題によって答弁を求められることがある。その場合、人はそれらの諸概念を演繹するとただちに少なからざる困惑に陥るのである。
    というのも、私たちは、それらの諸概念を使用する権限が明らかとなるようないかなる明白な法的な根拠をも、経験からも理性からも挙げることができないからである。

    ―― No.36429,36501 の続き ---

    ◇ しかし、人間の認識という極めて混み入った織物を作り上げている多種多様な諸概念の内には、純粋な使用にすらア・プリオリに(全ての経験に完全に依存せずに)規定されているいくつかの概念があり、これらの諸概念の権限はいつでも演繹を必要とする。

    ◇ というのは、そうした使用の適法性〔合法性〕のためには経験に基づく証明では十分ではないにも関わらず、いかにしてそれらの諸概念は、それらが決していかなる経験からも取ってくるのではない客観と連関し得るのかを、人は知らなければならないからである。

    ◇ だから私は、ア・プリオリな諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別するが、経験的演繹は、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである、だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。


    † 原佑訳上巻、p.236参照。 原典はMeiner, p.165
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.93、石川文康 訳 上巻,p.146、熊野純彦 訳,p.131〜p.132、有福孝岳 訳(カント全集4 上),p.166、宇都宮芳明 監訳 上,p.154、M.Weigelt 訳, p.113
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600

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■36601 / inTopicNo.60)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/21(Wed) 15:03:27)
    うましかさん、こんにちはー(^○^)

    No36600

    > 今夜も何を言ってるのか分からないカントの夜。。。(´;ω;`)ウゥゥ<

    カント先輩のお◯◯ー (*_*)


    > ◇ しかし、人間の認識という極めて混み入った織物を作り上げている多種多様な諸概念の内には、純粋な使用にすらア・プリオリに(全ての経験に完全に依存せずに)規定されているいくつかの概念があり、これらの諸概念の権限はいつでも演繹を必要とする。
    >
    > ◇ というのは、そうした使用の適法性〔合法性〕のためには経験に基づく証明では十分ではないにも関わらず、いかにしてそれらの諸概念は、それらが決していかなる経験からも取ってくるのではない客観と連関し得るのかを、人は知らなければならないからである。<

    認識を一枚の織物に喩えてるの、おもしろいなーと思いました。
    アプリオリの糸、アポステオリの糸...

    アプリオリに規定されている概念 と 客観の連関 かぁ...


    > ◇ だから私は、ア・プリオリな諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、<

    両者が連関し得る仕方を示す説明 を 超越論的演繹 と名付けて、

    >それを経験的演繹≠ゥら区別するが、経験的演繹は、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである、だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。<


    経験から作られた概念 と 客観の連関は(経験的演繹)、
    その概念が経験と経験についての反省からどのように作られたのかを説明する


    【経験的演繹】問い:どのように作成された概念か?

    説明:
    『犬』 ←← U・x・U
    『猫』 ←← (=^ェ^=)

    経験的演繹により、各概念の個別の包摂の条件が明確になる。概念の客観的実在性は、概念の発生源が実在から、という点で無問題?

    【超越論的演繹】問い:アプリオリな概念と客観の連関は可能か?

    説明:
    『一つ』 ←連関可能→ 客観としての一つの内容?

    (・・?)

    そもそも『一』や、『原因と結果』などの概念をアプリオリな概念とするのがカントの思考が超変態的なとこだと思います....
    (ーー;)おもしろいけど...

    カント的には今回の超越論的演繹の前、形而上学的演繹で、アプリオリな概念の存在を確定付けてるんですよね、多分....?

    いろいろ勘違いしてたらすみません!
    少し解説本見てみます。

    カント文、おつかれさまです(^ ^)♪

    --------------
    山口修二先生の『カント超越論的論理学の研究』p104-105がおもしろいなと思いました。

    (山口修二先生の解説)※解説の中でのカントの引用文部分にはpipitが★【  】★を挿入させていただきます。

    『 このように、カテゴリーの客観的妥当性の問題は、対象一般についてのアプリオリ=普遍的な思考の権利を示すことにある。
    しかるに、この普遍的思考が空虚であるということは、経験的な思考も含めた一切の思考が空虚であることを意味する。
    「形而上学的演繹」で示されたように、カテゴリーは、経験的思考からの抽象によってではなく、思考一般を可能にする諸機能(判断機能)から導出された。
    したがって、もしカテゴリーが空虚であるなら、我々がなしうるかぎりのすべての思考が空虚なものと見なされざるをえない。
    カテゴリーの権利問題が、対象のアプリオリ=普遍的な思考に向けられているかぎり、その問題の及ぶ範囲は、対象の思考の一部分に限定されたものではありえないのである。
    それは、一般に思考が対象に関係しているという事実それ自体を「単なる妄想」と見なすことに導く。
    何故に何かが思考されると言えるのか。
    むしろ何も思考され得ないのではないのか。
    こうしてカテゴリーの客観的妥当性に対する懐疑は、一般にすべての思考において実は何も思考されていないのではないかと問うことに帰結する。ヒュームの懐疑の「一般化」から導かれるこの帰結をカントは「普遍的な懐疑論(allgemeiner Skeptizismus)」と名付けている。

    ★【「こうしてヒュームの原則的な経験論は、数学に関してすらも、したがって理性のあらゆる学的な理論的使用において、また不可避的に懐疑論へと導くのである・・・・・・。通常の理性使用が、(認識の指導者たちを襲うこの恐るべき崩壊にもかかわらず)うまく切り抜けるか、それともむしろ回復不可能なまでに一切の知の破壊に巻き込まれてしまうか、すなわち同じ原則から普遍的な懐疑論が帰結せざるを得ないか(もちろんこれは学者たちをしか襲わないであろうが)については、私は各自に判断を任せようと思う」(W,S.52)】★

    カテゴリーを「単なる妄想」と見なすことは、★【「対象について判断する能力、つまり対象および対象に属するものを認識する能力を理性に対して拒む」(W,S.12)】★ことに帰着する。
    カテゴリーの客観的妥当性に対する「疑念」とは、対象を認識するという我々の理性能力そのものに対する懐疑なのである。
     以上において、カテゴリーの普遍性がカテゴリーの「客観的妥当性と制限」についての二重の「疑念」を生む理由とその疑念の内容が明らかとなった。カントは、「超越論的演繹」の課題がこの二つの疑念に対して向けられていることを明確に述べている。

    ★【「これから我々が行おうとしているのは、人間の理性をしてこの二つの岩礁の間をうまく通過させることができるかどうかの試みである、すなわち、理性に対して一定の限界を示すことができるかどうか、そしてそれにもかかわらず、理性にはそれに適合した活動の全領域が開かれていることを確保することができるかどうかを試みることである。」(B128,】★』
    引用終了


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