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■36612 / inTopicNo.61)  純粋理性批判B 174
  
□投稿者/ pipit -(2024/02/22(Thu) 22:10:27)
    みなさまこんばんは(^ ^)続きです。B174

    But transcendental philosophy has this peculiarity, that besides indicating the rule, or rather the general condition for rules, which is given in the pure conception of the understanding, it can, at the same time, indicate a priori the case to which the rule must be applied.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#linknote-26

    (pipit日訳)

    しかし超越論的哲学は以下のような特殊性がある。
    悟性の純粋な概念の中で与えられる規則を示すこと、あるいはむしろ・・・規則のための普遍的な条件を示すこと、
    同時に、アプリオリにそれが適用されるべき場合を示すことができること、である。
引用返信/返信 削除キー/
■36613 / inTopicNo.62)  沼日記
□投稿者/ pipit -(2024/02/22(Thu) 22:30:39)
    超越論的、、、カントの定義はなんだっけなぁ

    wikiさんでは、、

    あら、出てきたのは『超越論哲学』やね、
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E8%AB%96%E5%93%B2%E5%AD%A6

    『カントによれば、哲学とは「全ての哲学的認識のシステム」であり、超越論的とは、先天的とは異なり「如何にして我々は先天的認識が可能であるのかその可能性と根拠についての問う認識」のことであり、超越論哲学はまさにこうした根拠を問う哲学であると言っている。

    ちなみに、「Transzendence=超越」から派生した形容詞は、「Transzendental=超越論的」と「Transzendent=超越的」の二種類があり、混同しやすいが、意味合いは似て非なるものである。

    超越論的な認識とは、われわれが一般に対象を認識する仕方に関する一切の認識を意味し、超越的原則とは、制限を踏み越えることを命じるような原則を意味する。

    尚、同じ語源tresから派生し、ラテン語のtrans(越える)とpasser(通りすぎる)に分解できる英語にtrespass(侵犯する)がある。』

    『(略)こうした状況を目の当たりにしたカントは、「理性自体の吟味・批判」を通じて、「人間の適正な理性的認識は、どこまで可能なのか」「人間の理性は、経験を超えた(先験的な)「超越的」真実在(すなわち物自体)と、どのように関わるべきなのか、関わり得るのか」についての、境界策定・基準設定(メタ規定)を行うことで、「超越的」なものに対する考察・関与(すなわち形而上学)の余地を、適正な形で復興しようと試みた。これがカントの「批判哲学」であり、「超越論哲学」(先験哲学)である。

    したがって、ここでいう「超越論的」(独:Transzendental、英:transcendental)哲学という表現は、

    「経験を超えた(先験的な)「超越的」真実在(すなわち物自体)- にまつわる適正な理性関与 (- の境界策定・基準設定(メタ規定)) - についての、事前的な/先行的な/自覚的な」
    哲学ということであり、「超越(についての)≪前提≫論的」「超越(についての)≪メタ≫論的」等とも言い換えることができる。』

    『類似的用法
    編集
    なお、こうした「XX的」と「XX論的」という語彙の使い分けは、例えば、マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』等における、

    「存在的」(独:Ontisch、英:ontic) - 「存在論的」(独:Ontologische、英:ontological)
    「実存的」(独:Existenziell、英:existent) - 「実存論的」(独:Existenzial、英:existential)
    のように、カントの後にも受け継がれた。』

    ほー

    、、、今日眠くて、いつもにもまして考えられないなぁ、、、

    >アプリオリにそれが適用されるべき場合< って、、あ、そうかぁ、?

    アプリオリな概念で、その概念に客観妥当性があるとカント的には『超越論的演繹』で証明?できたとしてるので、次に、どのように適用されるかを示すのかな?こういう場合にこの概念が適用される、と、これからの『原則論』で示していくのかな?

    普遍的な条件、、、(感覚的に与えられた対象物が)特定の条件に当てはまるときに特定の概念が使用される、その条件についての記述、かなぁ

    なかなか図式論本論まで辿り着けないなぁ(T ^ T)

    (( _ _ ))..zzzZZ
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■36614 / inTopicNo.63)  Re[12]: 沼日記
□投稿者/ pipit -(2024/02/23(Fri) 07:40:29)
    みなさまおはようございます(^○^)

    No36612
    > (pipit日訳)
    >
    > しかし超越論的哲学は以下のような特殊性がある。
    > 悟性の純粋な概念の中で与えられる規則を示すこと、あるいはむしろ・・・規則のための普遍的な条件を示すこと、
    > 同時に、アプリオリにそれが適用されるべき場合を示すことができること、である。<

    朝起きて、、、
    あー、仏教の縁起だぁ、と思いました。

    これがあるとき、かれがある。
    これが生じるとき、かれも生じる。

    wiki『此縁性(しえんしょう』より抜粋引用↓

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A4%E7%B8%81%E6%80%A7

    『此縁性(しえんしょう、巴: idappaccayata, イダッパッチャヤター、梵: idampratyayata,イダムプラティヤヤター)とは、釈迦が説いたとされる仏教の縁起説の1つであり、その性質を指す。』

    『此縁性の出典としてよく持ち出されるのが、パーリ仏典経蔵小部『自説経』(ウダーナ)の冒頭[1]等に表れる、以下の表現である。
    此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。
    このように、「此」に縁って「彼」が規定され、有無生滅する関係を表しているので、これを此縁性[2]と呼ぶ。』
    抜粋引用終了。

    カントの場合はアプリオリを問題とするので、
    pipitの私見では、

    【こういう条件で、知性がこういう概念を即して作ります。】

    という意味での縁起を思い起こしました。

    世界をこのように理解する、という思考的理解能力のアプリオリ性をカントの記述から感じています。

    ・・・・・・・・・・・・

    純粋知性(悟性)概念は、経験なしに知性を源泉とする概念だとすると、
    感性能力のうちで与えられる現象を、純粋知性概念に包摂させる条件や規則を、今から論理学としての『原則論』で述べていくのかなと想像しました。
    (the rule, or rather the general condition for rules, which is given in the pure conception of the understanding)


引用返信/返信 削除キー/
■36621 / inTopicNo.64)  Re[13]: 沼日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/23(Fri) 20:55:08)
    pipitさま、お邪魔しま〜す。
    始まりに関することみたいなので。

    No36613
    わたしの関心があるところで、超越論的じゃなくてごめんだけど、

    >wikiさん<ので、わたし、「認識」っていうところだけ見て見たのね。
    「哲学的認識」「先天的認識」「可能性と根拠についての問う認識」「超越論的な認識」「一般に対象を認識」「一切の認識」

    そもそも、カントの場合、カントが言うその「認識」っていうの、どういうのかしら?

    って。


引用返信/返信 削除キー/
■36622 / inTopicNo.65)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/23(Fri) 22:11:36)
    悪魔ちゃんこんばんは(^○^)

    No36621

    > 「哲学的認識」「先天的認識」「可能性と根拠についての問う認識」「超越論的な認識」「一般に対象を認識」「一切の認識」
    >
    > そもそも、カントの場合、カントが言うその「認識」っていうの、どういうのかしら?
    >
    > って。<

    改めて中山元先生訳の第一巻の最初の方を見たんだけど、そんなに定義してるようにも私は読めなかったんだよね(><)当たり前の語句として使用してる印象...

    【諸表象様式の段階】という記述で、表象の側面から定義してる箇所はB376.377にあるので、引用しますね。

    ----------------------------
    カント純粋理性批判B376.377

    『以下は、諸表象様式の段階である。
    類は表象一般(repraesentatio)である。
    表象の下に、意識を伴った表象(perceptio)が属している。
    知覚は、主観の状態の変様としてもっぱら主観に関する場合、感覚(sensatio)であり、客観的知覚は、認識(cognitio)である。
    認識は、直観か概念のいずれか(intuitus vel conceptus)である。
    直観は直接に対象に関係し、個別的であるが、概念は、いくつかの事物に共通でありうる徴表を介して、間接的に対象に関係する。
    概念は、経験的概念か純粋概念のいずれかである。
    そして純粋概念は、それがもっぱら悟性のうちにその源泉を有するかぎり(感性の形象のうちにではなく)、悟性概念[Notio]と呼ばれる。
    悟性概念から生じ、経験の可能性を超える概念が、理念もしくは理性概念である。』

    『純粋理性批判 上』カント、宇都宮芳明監訳、以文社、p403、鈴木恒夫先生訳
    ----------------------------

    ↑上記を読むに、、、
    意識を伴った表象を『知覚』として、
    『知覚』を主観的と客観的に分けて、客観的知覚を《認識》としてるね。
    それでその客観的知覚は[直観]と[概念]に分けられる、と。

    別の箇所では、認識には直観と概念の両方が必要、と言ってるんだよね。どちらが欠けても認識にならない、直観と概念は全ての認識を構成する要素だと。(B74)

    でも「認識の方法」への認識、って、直観の要素って微妙じゃない??
    だから超越論的って言うのかなぁ...

    直観も概念も、意識を伴った表象という括りで、知覚と表現されてるよね。
    客観的な知覚を認識と言ってるのかな、と思ったよ。
    ということは、個人的な苦しいとかは感覚であり認識ではないということなのかなぁ、、、
    目の前にケーキが見えてたら、その知覚は客観的認識なのかなぁ、、、
引用返信/返信 削除キー/
■36626 / inTopicNo.66)  今日の悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/24(Sat) 08:03:38)
    2024/02/24(Sat) 08:04:17 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、おはよう!

    カント的『認識』気になって、御子柴善之先生の解説を朝読んでみたよ。
    きっかけをありがとう(^ ^)

    御子柴先生の解説として
    『このさまざまなものを知っていく中で客観的な知を得る働きが「認識」であり、その能力の一つが理性なのです。』
    (『カント純粋理性批判』角川選書、p28)
    とあったよ。

    それから、「純粋な数学」の認識と、「純粋な哲学的認識」の違いを略称『プロレゴーメナ』という本で記述してるらしく、(『カント哲学の核心『プロレゴーメナ』から読み解く』御子柴善之先生、p50参照)、
    そういえば『純粋理性批判』でも読んだ記憶あるので、今日仕事なので、帰ったらいろいろ探して引用しようと思います。

    間違えてたらごめんなんだけど、そういえば、(数学は定義を最初に、哲学は定義が最後に、)みたいな文意の文章も純理で見た記憶あるので、それも探してみますね。

    今の時点での感想なんだけど、
    もしかしたら、純粋悟性概念が概念でありながら直観の支持も得られると演繹(根拠づけ)されると、そのお墨付きの概念で哲学出来る、というもくろみを企ててるのかなーとか想像しました。
    全く違うかもだけどね!

    いつも悪魔ちゃんの疑問に思ったことから、pipitはすごくいろんなことを学べる気持ちになってます。
    ありがとうです!
引用返信/返信 削除キー/
■36632 / inTopicNo.67)  Re[16]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/24(Sat) 14:11:25)
    pipitさま、いろいろ調べてもらってありがとございま〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■36644 / inTopicNo.68)  認識とか定義とか日記_φ(・_・
□投稿者/ pipit -(2024/02/25(Sun) 00:23:38)
    2024/02/25(Sun) 00:39:52 編集(投稿者)

    悪魔ちゃんの書き込みをきっかけに、カント的『認識』について幾つか再読しました。
    一部を引用します。

    御子柴先生の解説として
    『まず、「人間の理性(die menschliche Vernunft)」とはどのような能力でしょうか。ここではまだなにも書かれていません。ともあれ、『純粋理性批判』という書名が含む「理性(Vernunft)」も「人間の理性」です。カントは、一八世紀になって現れた、あくまで人間の側から哲学しようとする哲学者の一人です。人間とはなにか、ここでそれを規定することなどできません。それこそ哲学の究極の問いだからです。しかし、当面、自分が創ったわけではない地上に産み落とされ、さまざまなものを体験・教育・研究などを介して徐々に知っていくことしかできない存在として押さえておきましょう。このさまざまなものを知っていく中で客観的な知を得る働きが「認識」であり、その能力の一つが理性なのです。』
    (『カント純粋理性批判』角川選書、p28)


    同じく御子柴先生の解説です。
    『なお、§1の末尾でカントは、いずれもア・プリオリな認識である、「純粋数学」の認識と「純粋な哲学的認識」とには相違があることを示唆している。ここで論じられている形而上学的認識は後者に相当する。『純粋理性批判』によれば、前者は「概念の構成に基づく認識」であり、後者は「概念に基づく認識」である。概念の「構成」とは描き出すことであり、たとえば、三角形という図形を描き出すことである。私たちが小中学生のころ、図形を描いては補助線を引くなどして、何らかの証明をしたことを思い出せばよい。他方、哲学的認識はそうした手続きをもたず、もっぱら概念だけを頼りに行われる。このとき、頼りになる概念とはどのような概念なのか、これもまた形而上学の成否にかかわる大問題である。』
    (『カント哲学の核心『プロレゴーメナ』から読み解く』御子柴善之先生、p50より引用)


    定義についてのカントの記述を見つけました。けっこうページ数を使って記述されていますが、抜粋引用します。
    『哲学においては、数学の真似をして最初に定義を示すようなことをしてはならない(たんに試みてみる場合を除いて。)[哲学における]定義は、与えられた概念を分解することにすぎないのだから、[定義よりも]前に示されるのは(たとえ混乱したものであっても)概念なのである。(略)
    要するに哲学においては適切な明晰さをそなえた定義は、仕事を始めるための前提ではないのであり、定義がえられれば、そこで仕事を終えねばならない(注)。
    これにたいして数学では、定義する前にはいかなる概念も存在しない。定義によって初めて概念が示されるのである。だから数学ではつねに、定義から仕事を始めねばならないのであり、つねにそこから仕事を始めることができるのである。』
    (『純粋理性批判 7』中山元先生訳、p52-.B758)
    『数学の[総合的な]定義においては、誤るということがありえない。まず定義が概念を示すのであるから、概念には、定義においてその概念によって考えられたものしか含まない。(略)
    これにたいして[哲学の]分析的な定義では、さまざまな形で誤謬を犯すことがありうる。その概念には実際には含まれていない特徴を定義に持ち込んだり、定義の本質である〈詳細さ〉に欠けたりすることで、誤るのである。概念の分析が詳細に行われたかどうかについては、わたしたちは完全に確実であることはできない。
    だからこそ、定義にかんする数学的な方法を、哲学においては真似ることができないのである。』
    同本p54.55、B759.760

    以上です(^ ^)
    おやすみなさいー
    (( _ _ ))..zzzZZ
引用返信/返信 削除キー/
■36646 / inTopicNo.69)  超越論的分析論\−4
□投稿者/ うましか -(2024/02/25(Sun) 01:06:32)
    2024/02/25(Sun) 02:02:24 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    >認識を一枚の織物に喩えてるの、おもしろいなーと思いました。〔 No.36601 pipitさん〕

    そうですねー(・ω・)ノ

    ところで、この織物に喩えられた「人間の認識」("der menschlichen Erkenntnis")。これ手持ちの英訳では、"human knowledge"と"human cognition"の二種類あります。
    どちらの翻訳がカント先輩の意図をより適切にあらわしているのか興味深い沼ですね。。。(;´Д`A `

    【追記】

    久しぶりに『語源から哲学がわかる事典』をひらきましたφ(..)メモメモ
    p.58に、「哲学における「認識」と日本語の「認識」」というタイトル(゚д゚)!

    ますます興味深い沼(´-`).。oO

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ 法律学者たちは、彼らが権限と越権について論ずるときには、一つの訴訟案件について、何が権利であるかという問い(quid juris 権利問題)を、事実に関する問い(quid facti事実問題)から区別し、両者〔権利問題と事実問題〕からの証明を要求する。
    彼らは、第一の証明〔権利問題〕、つまり権限、或いは権利の要求を立証すべき証明に演繹〔Deduktion〕≠ニ名づけたのである。
    私たちは、多くの経験的概念を誰にも反論されることなく使用している。だから、演繹無しで、それらの諸概念に、意味と想定された意義とを与えることを当然のこととしている。
    というのも、私たちはいつでも経験を手元に持っていて、その〔諸概念の〕客観的実在性を証明できるからである。
    ところが、例えば幸福≠ニか運命≠ニいった権限のあいまいな諸概念については、それらの諸概念はほとんど一般的には大目に見られて使い回されているはいるが、にもかかわらず、時には権利問題によって答弁を求められることがある。
    その場合、人は、それらの諸概念を演繹すると、ただちに少なからざる困惑に陥る。
    というのも、私たちは、それらの諸概念〔幸福とか運命〕を使用する権限が明らかとなるような、いかなる明白な法的な根拠をも、経験からも理性からも挙げることができないからである。

    ◆ しかし、人間の認識という極めて混み入った織物を作り上げている多種多様な諸概念の内には、純粋な使用にすら、ア・プリオリに(〔つまり、〕全ての経験に完全に依存せずに)規定されているいくつかの概念があり、これらの諸概念の権限は、いつでも演繹を必要とする。
    というのも、そうした使用の適法性〔合法性〕のためには経験に基づく証明では十分ではないにも関わらず、それらが決していかなる経験からも取ってくるのではない客観と、いかにしてそれらの諸概念が連関し得るのかを、人は知らなければならないからである。
    だから私は、ア・プリオリな〔つまり、全ての経験に完全に依存しない〕諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別する。
    経験的演繹とは、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである。だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。

    ―― No.36429,36501,36600 の続き ---

    ◇ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに対象と連関するという点においては互いに一致している。それらはつまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。

    ◇ これらの諸概念について、経験的演繹を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念の本性の特質とは、これらの諸概念が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである。

    ◇ それ故、もしこれらの諸概念の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう。


    † 原佑訳上巻、p.236〜p.237参照。 原典はMeiner, p.166
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.94、石川文康 訳 上巻,p.146、熊野純彦 訳, p.132、有福孝岳 訳(カント全集4 上),p.166、宇都宮芳明 監訳 上,p.154、M.Weigelt 訳, p.113
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−4 No.36646
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646

引用返信/返信 削除キー/
■36654 / inTopicNo.70)  Re[11]: 超越論的分析論\−4
□投稿者/ pipit -(2024/02/25(Sun) 15:05:50)
    うましかさん、こんにちはー(^O^)

    No36646
    > >認識を一枚の織物に喩えてるの、おもしろいなーと思いました。〔 No.36601 pipitさん〕
    >
    > そうですねー(・ω・)ノ
    >
    > ところで、この織物に喩えられた「人間の認識」("der menschlichen Erkenntnis")。これ手持ちの英訳では、"human knowledge"と"human cognition"の二種類あります。
    > どちらの翻訳がカント先輩の意図をより適切にあらわしているのか興味深い沼ですね。。。(;´Д`A `<

    ほんとですねー
    カントならどちらの訳語を選ぶのかな??


    > 【追記】
    >
    > 久しぶりに『語源から哲学がわかる事典』をひらきましたφ(..)メモメモ
    > p.58に、「哲学における「認識」と日本語の「認識」」というタイトル(゚д゚)!<


    実は、本が多くなり過ぎて整理しまして....
    _| ̄|○ はやまったなぁ....(><)

    pipitの過去投稿を検索してみました。

    No2112(過去投稿)
    Erkenntnisで調べると、洞察、ナレッジ、エピステーメー、とかいう意味が出てきました。
    それで、『語源から哲学がわかる事典』山口裕之さん著のp58に、
    『つまり、哲学の対象となるのは、学問的に正しい知識なのである。この「正しい知識」のことを、英語ではknowledge、ギリシア語では「エピステーメー」と呼ぶ。この言葉は、哲学用語としては「認識」と訳された。
    なので、哲学の文献で「認識」という言葉が出てくれば「学問的に正しい知識」という意味であり、「認識する」といえば「正しく知る」という意味である。』
    とありました。
    (過去投稿引用終了)


    > ◇ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに対象と連関するという点においては互いに一致している。それらはつまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。<

    ここでは、空間、時間も、直観ではなく「概念」と述べてるんですね。
    論理学の部門だからなのかな?


    > ◇ これらの諸概念について、経験的演繹を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念の本性の特質とは、これらの諸概念が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである。<

    アプリオリな連関を示す概念だから、経験的演繹は無理なのかな?

    > ◇ それ故、もしこれらの諸概念の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう。<

    概念としての空間、時間も超越論的演繹するということなのかな、、、

    すごい思考量だなぁ(*_*)と思い、ふと頭に浮かんだのが、
    カントの散歩....
    雨が降っても毎日きっちり行ってたとか

    ちゃんと自然(雨や虫や鳥や木や川や)も観察してたのかなあ?と想像したらすこし楽しい気持ちになりました♪

引用返信/返信 削除キー/
■36657 / inTopicNo.71)  超越論的分析論\−5
□投稿者/ うましか -(2024/02/26(Mon) 00:46:27)
    2024/02/26(Mon) 00:47:17 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    >pipitの過去投稿を検索してみました。
    No2112(過去投稿)
    Erkenntnisで調べると、洞察、ナレッジ、エピステーメー、とかいう意味が出てきました。

    ありがとうございます! m(__)m

    私も調べてみましたが、邦訳で「認識」と訳されている"Erkenntnis"のもとであろう動詞"erkennen"について、『純理』原典での使用例を英訳でいくつかあたってみたところ、
    "Erkenntnis"を"knowledge"と訳しているものは、"erkennen"を"know"、
    "Erkenntnis"を"cognition"と訳しているものは、"erkennen"を"cognize"
    と訳していました。
    やっぱり訳者ごとに解釈、理解が異なるということなのかな…当たり前かもしれないけど(-_-;)

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに〔全ての経験に完全に依存せずに 〕対象と連関するという点においては互いに一致している。
    それら〔二種類の概念〕とは、つまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。
    これらの諸概念〔空間・時間、カテゴリー〕について、経験的な演繹〔根拠づけ、権利づけ〕を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の本性の特質とは、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである。
    それ故、もしこれらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう。

    ―― No. 36646 の続き ---

    ◇しかしながら、私たちは、これらの諸概念についても、全ての認識〔allem Erkenntnis〕についてと同様、それらの可能性の原理〔das Principium ihrer Moelglichkeit〕を探し出すのではない場合には、それらの産出の機会因をやはり経験において探し出すことができる。

    ◇ その時には感官の印象が、これらの諸概念に関する全認識能力〔ganze Erkenntniskraft〕を活動せしめ、経験をせしめる最初の機縁を与える。

    ◇ この経験は、二つの極めて異種的な要素、すなわち、感官に基づく認識のための実質〔質料〕≠ニ、純粋な直観〔作用〕及び純粋な思考〔作用〕の内的源泉に基づきこの実質〔質料〕を秩序づける或る種の形式≠ニを含んでいる。

    ◇ こうした純粋な直観〔作用〕と純粋な思考〔作用〕は、実質を機会としてまず活動をはじめ、そして概念を産み出すのである。


    † 原佑訳上巻、p.237参照。 原典はMeiner, p.166
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.94、石川文康 訳 上巻,p.146〜p.147、熊野純彦 訳, p.132、有福孝岳 訳(カント全集4 上),p.166〜p.167、宇都宮芳明 監訳 上,p.154〜p.155、M.Weigelt 訳, p.113〜p.114
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−4 No.36646、\−5 No.36657
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657

引用返信/返信 削除キー/
■36661 / inTopicNo.72)  エピステーメー
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/26(Mon) 18:51:37)
    お邪魔しま〜す。

    「エピステーメー」っていう語が出てきたので、

    【「フーコー入門」/著者中山元/発行者喜人冬子/発行所筑摩書房/1996年】のなかに、

    「新しいまなざしが新しい物の秩序を開く。存在する物の秩序を認識するためには物の認識に先立って一つの知の枠組みが必要である。フーコーはこれを、ギリシア語で「知」を意味するエピステーメーという用語で呼ぶ。この知の枠組みは哲学的な理論よりもはるかに強固であり、さまざまな学問の基盤にあって、学問そのものを可能にする条件であり、しかも学問自体には不透明な前提である。」(p077)

    っていうのがあったよ、参考までに。

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