□投稿者/ うましか -(2025/06/25(Wed) 00:18:41)
| 2025/06/25(Wed) 01:00:30 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー No.43416 のご指摘に感謝いたしますm(__)m 宇都宮監訳 上巻,p.213〜p.214、p.216も確認いたしました(^^♪
「純理」トピ再開まで自トピに投稿しまーす(・ω・)ノ
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕 第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕
第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】
◆ ところで、これらの諸概念はあらゆる経験の際に純粋な思考をア・プリオリに含むものであるが、私たちはそうした諸概念をカテゴリーで見出す。 だから、私たちがカテゴリーを介してのみ対象は思考され得るということを証明することができるならば、それはカテゴリーの十分な演繹であり、またその客観的な妥当性の是認〔正当化〕である。 しかし、そのような思想においては、思考する唯一の能力、即ち悟性以上のものが関わっており、しかも悟性自身も対象と連関すべき一つの認識能力として、この連関の可能性に関する解明を同様に必要するので、私たちは経験の可能性のア・プリオリな基礎をなす主観的な諸源泉を、それらの経験的な性質に従ってではなく、超越論的な性質に従って、先ず考究してみなければならない。
◆ もし個々の表象のそれぞれが他の表象と全く無縁で、いわば孤立しており、他の表象から分離しているとすれば、比較され連結された諸表象の全体に他ならない認識といったような或るものは決して生じないに違いない。 それ故、私が感官〔Sinne〕に通観作用〔Synopsis〕を付与するならば、感官は自らの直観において多様性〔Mannigfaltigkeit〕を含んでいるので、この通観作用にはいつでも綜合〔Synthesis〕が対応し、受容性〔Rezeptivitaet〕≠ヘ自発性〔Spontaneitaet〕≠ニ結合してのみ認識を可能にすることができる。 この自発性は、必然的に全ての認識において現われる三重の綜合の根拠である。即ち、〔それら三重の綜合とは、〕 〔@〕直観における心の変様としての諸表象の把捉〔Apprehension〕=A 〔A〕構想〔Einbildung〕における諸表象の再生産〔Reproduktion〕=Aおよび 〔B〕概念における諸表象の再認〔Rekognition〕≠ナある。 これら〔@〜B〕は三つの主観的な認識の源泉〔*1〕へと導いていくものであり、これら三つの主観的認識の源泉が、悟性をすら可能にし、またの悟性を通じて、全ての経験を悟性の経験的産物〔empirisches Produkt〕として可能にするのである。
*1 中山によれば、この「三つの主観的認識の源泉」とは、直観、想像力、概念〔中山訳,2, p.186〕である。 とはいえ、その解説p.334で中山があげるのは、感覚能力、想像力、自己統合の意識である。 いっぽうNo.40240 によれば、カント曰く、「しかし、全ての経験の可能性の諸条件を含み、だがそれ自身は心〔Gemuets〕のいかなる他の能力からも導出されない三つの根源的な源泉(魂〔Seele〕の性能または能力)がある。即ちそれは感官〔Sinn〕=A構想力〔Einbildungskraft〔imagination〕〕=A統覚〔Apperzeption〕≠ナある。これらに基づいているのは、1)感官によるア・プリオリな多様なものの通観〔Synopsis(共観、概観)〕=A2) 構想力による多様なものの綜合=Aそして最後に、3)根源的な統覚によるこの綜合の統一〔Einheit〔unity〕〕≠ナある。」(原佑訳 上, p.246)とある。
―― No.43407 の続き ---
◆ 差し当たっての注意 カテゴリーの演繹は、極めて多くの困難と結びついており、私たちの認識一般の可能性の第一根拠のうちへと極めて深く突入していく必要があるので、私は完璧な理論を述べることによる冗漫を避けるため、にもかかわらず、かくも必要な研究に際しては何一つとして揺るがせにしてはならないため、以下の四項目によって読者に教えるというよりむしろ準備し、それに続く第三節において、悟性のこれらの諸要素の論究を初めて体系的に示すのが一層得策であると認めた。このために読者は第三節に至るまでは曖昧さにつきまとわれるであろうが、そうした曖昧さはまだ全く足を踏み入れたことのない道においては、最初は避けられないことであるが、私が希望するように、第三節において解明されて完璧に洞察され得ることであろう。
† 原佑訳上巻、p.256〜p.257参照。 原典はMeiner,p.208 † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.187〜p.188、石川文康 訳 上巻, p.158〜p.159 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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XI−4 No.41315、XI−5 No.43407、XI−6 No.43622 XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741 ]−7 No.40294、]−8 No.40300 ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240 ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943 \−13 No.38896 \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689 \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955 \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908 \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600 [−4 No.36127、[−5 No.36266 [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849, No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795, No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 第二章 第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244, No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245, No.39943,40101,40235,40240,40294,40300 第二節 No.40347,40360,40741,41315,43407,43622
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