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Re[38]: 超越論的分析論XI−5
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□投稿者/ pipit -(2025/06/01(Sun) 18:17:40)
| 2025/06/01(Sun) 18:24:43 編集(投稿者)
うましかさん、こんばんは!
No43407
> 久しぶりの、久しぶりの、、カント沼です(´;ω;`)ウッ…感涙 > > 感無量(´-`).。oO<
読書おつかれさまですo(^▽^)o
> ◇ もし個々の表象のそれぞれが他の表象と全く無縁で、いわば孤立しており、他の表象から分離しているとすれば、比較され連結された諸表象の全体に他ならない認識といったような或るものは決して生じないに違いない。<
個々の表象、と、諸表象の全体、の区別をカントはつけているのですね。
> ◇ それ故、感官〔Sinne〕は自らの直観において多様性〔Mannigfaltigkeit〕を含んでいるので、私が感官に通観作用〔Synopsis〕を付与するならば、<
個々の表象の多様において、 通観作用を付与するなら、、、 大まかな概観?
>この通観作用にはいつでも綜合〔Synthesis〕が対応し、受容性〔Rezeptivität〕≠ヘ自発性〔Spontaneitaet〕≠ニ結合してのみ認識を可能にすることができる。<
個々の表象は受容性により現れ、通観作用は自発性である綜合により行われる、、、かな?
> ◇この自発性は、必然的に全ての認識において現われる三重の綜合の根拠である。<
綜合の発生源は自発性だということかな?
>即ち、〔それら三重の綜合とは、〕直観における心の変様としての諸表象の把捉〔Apprehension〕=A構想における諸表象の再生産〔Reproduktion〕=Aおよび概念における諸表象の再認〔Rekognition〕≠ナある。<
構想力では再生産かぁ...
> ◇これら〔の三者〕は三つの主観的な認識の源泉*1へと導いていくものであり、これら三つの主観的認識源泉が、悟性をすら可能にし、またの悟性を通じて、全ての経験を悟性の経験的産物〔empirisches Produkt〕として可能にするのである。 > *1 中山によれば、この「三つの主観的認識の源泉」とは、直観、想像力、概念<
初版では、 『把捉〔Apprehension〕∞再生産〔Reproduktion〕∞再認〔Rekognition〕=xの三つの綜合は、それぞれ『三つの主観的な認識の源泉*1へと導いていく』。と述べられる。
主観的認識の源泉を中山先生は[直観、想像力、概念](D05)と註釈されていますが、カントの原文では、「感官、構想力、統覚」と述べてる可能性もあるかと思いました。
宇都宮芳明先生監修の以文社『純粋理性批判 上』p161、162の田村一郎先生の註釈を引用します。 『以下の三つのパラグラフの代りに、第一版では次の文章が入っている。 「しかしすべての経験の可能性の条件を含み、それ自身は心のどんな他の能力からも導き出すことのできない三つの根源的な源泉(魂の持つ性能あるいは能力)がある。感官と構想力と統覚がそれである。(略)』 引用終わり。
統覚の作用で概念が作られるとしたら、中山先生の註釈のように【[直観、想像力、概念]という源泉】と解釈するのも、【「感官と構想力と統覚」という源泉】も同じような意味になるかもしれませんね。 (^ ^)
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