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■37301 / inTopicNo.61)  Re[33]: 純理B181 図式論
  
□投稿者/ pipit -(2024/05/15(Wed) 00:11:43)
    2024/05/15(Wed) 00:14:36 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは!
    亀の歩みの図式論です(*_*)

    Without entering upon a dry and tedious analysis of the essential requisites of transcendental schemata of the pure conceptions of the understanding,
    we shall rather proceed at once to give an explanation of them according to the order of the categories,
    and in connection therewith.

    (英訳のpipit日訳・意訳)
    純粋悟性概念の超越論的な図式の本質的な必要事項の分析はドライで退屈なので、
    それよりも、カテゴリーの順序に従って早速(純粋悟性概念の図式についてを)説明していきましょう。

引用返信/返信 削除キー/
■37303 / inTopicNo.62)  Re[34]: 純理B181 図式論
□投稿者/ pipit -(2024/05/15(Wed) 09:43:19)
    みなさま、おはようございます(^O^)
    続きの英訳です。

    For the external sense the pure image of all quantities (quantorum) is space; the pure image of all objects of sense in general, is time. But the pure schema of quantity (quantitatis) as a conception of the understanding, is number, a representation which comprehends the successive addition of one to one (homogeneous quantities). Thus, number is nothing else than the unity of the synthesis of the manifold in a homogeneous intuition, by means of my generating time itself in my apprehension of the intuition.

    沼予感ー(−_−;)

引用返信/返信 削除キー/
■37320 / inTopicNo.63)  純理B181図式論
□投稿者/ pipit -(2024/05/18(Sat) 00:23:46)
    2024/05/18(Sat) 00:40:21 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは。
    No37303の英訳を日訳しました。
    ========
    外官にとって、全ての量(quantorum) の純粋な形象は空間であり、
    感官一般の全ての対象の純粋な形象は時間である。

    しかし
    悟性による概念としての量(quantitatis) の純粋な図式は、数---(同種的な量の)一つから一つへの継起的な加算という理解の一つの表象---である。

    したがって数とは、私が直観を把捉するなかで私自身によって時間を生成するという手法での、同種的な直観の多様の総合の統一に他ならない。
    =========

    (pipit感想)

    @quantorum と Aquantitatis を分けて考えてるのかな。
    @は感性的に体験する量(の純粋形象は空間)で、Aは頭で考える(感性を排除しても成り立つ)概念の量(の純粋図式は数)としてるのかな。

    @は空間に現れるものだけど、それは結局は内官を通して生じるものなので、時間という形式の中に現れる。
    @にAを適用する際の媒介は、数(number)。

    同種のものを継続して加算して、ある数値として表現するのは、総合的統一という行為だとするとき、数えるという行為は、時間を自分で作りながら、今に立つ行為となる....のかな?!



引用返信/返信 削除キー/
■37321 / inTopicNo.64)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/05/18(Sat) 00:31:38)
    数(number)
    は、想像力のなせる技、、、という考え方も、おもしろく思えるな

    図式は構想力のお仕事だからね、カント的には。

    おやすみなさい ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■37344 / inTopicNo.65)  純理B182図式論
□投稿者/ pipit -(2024/05/22(Wed) 20:53:46)
    2024/05/23(Thu) 21:37:05 編集(投稿者)

    みなさま、こんばんは!
    さて、図式沼の2番目♪♪

    カントのカテゴリーは【量・質・関係・様相】の4種類。
    このカテゴリー(純粋悟性概念)の図式とは、↓
    No37249(御子柴先生訳)
    >純粋悟性概念の図式は、けっして形像化されえないようなものであり、もっぱら、概念一般に従った統一の規則---カテゴリーはこの規則を表現するものである---に適った純粋総合であり、また構想力の超越論的な産物である。(略)
    (A141f./B180f.)』
    (『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p250より引用)<

    この図式をカントは、
    No37301
    >カテゴリーの順序に従って早速(純粋悟性概念の図式についてを)説明していきましょう。<

    とのことで、まず1番目の図式の説明として、量の図式は数である、と↓
    No37320
    > 悟性による概念としての量(quantitatis) の純粋な図式は、数---(同種的な量の)一つから一つへの継起的な加算という理解の一つの表象---である。<

    それで、2番目は、【質】という悟性由来の純粋概念の図式、、、
    そちらの J. M. D. Meiklejohnさんによる英訳がこちら↓

    ※英訳は画像で投稿してみます。

    くぅー、大沼予感 ( ;∀;)

    質のカテゴリーには、下位に(?)3項目立てられており、〔実在性、否定性、制限制〕の英訳は、〔Reality、Negation、Limitation〕となっています。
    だから引用英訳の冒頭が、Realityの話題から入ってるんですね。
    質の実在性と否定性の図式が、、、
    うーむ、、、個人的にパーリ仏典の小空経が思い起こされるような、、、(めっちゃ誤解かもしれませんが)
    うむむ、沼予感 (ーー;)


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■37371 / inTopicNo.66)  Re[37]: 純理B182図式論
□投稿者/ pipit -(2024/05/26(Sun) 17:02:17)
    みなさまこんにちは。
    No37344の英訳の前半を日訳しました。

    (英訳のpipit日訳)
    悟性の純粋な概念における実在性とは、感覚一般に対応するものである;
    つまり、(実在性の)概念は、(時間における)存在(Sein)を示している。
    否定性は、(時間における)非存在(Nichtsein)を表している。
    これら二つの対立は、一つで同じ時間の相違---満たされた時間か、空っぽの時間かの相違---による。
    さて、時間とはたんに直観の形式であり、つまりは現象としての対象の形式であり、
    対象の中で感覚に対応するのは、
    対象それ自体(事象性、実在性)の超越論的質料である。
    全ての感覚はそれにより時間を満たすことができるような度あるいは量・・・つまり、多かれ少なかれの、消えて無になるまでの対象の表象に関しての内的感覚・・・を持つ。

    (pipit感想)
    前半だけでぐったりやー_(┐「ε:)_

    YouTubeでちょうどこの辺りを説明されている五十嵐涼介さんの動画があるので、後でまたみようと思います。
    https://youtu.be/lbVc-UwlZiE?si=cGoAz808LEO-gfVv

    (*_*)
引用返信/返信 削除キー/
■37382 / inTopicNo.67)  RGB日記
□投稿者/ pipit -(2024/05/27(Mon) 22:47:45)
    2024/05/27(Mon) 22:49:12 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは!

    No37371
    > (英訳のpipit日訳)
    > 悟性の純粋な概念における実在性とは、感覚一般に対応するものである;<

    感覚の「有」に対応するのが、「実在性」の概念ということかなと思いました。


    > つまり、(実在性の)概念は、(時間における)存在(Sein)を示している。
    > 否定性は、(時間における)非存在(Nichtsein)を表している。
    > これら二つの対立は、一つで同じ時間の相違---満たされた時間か、空っぽの時間かの相違---による。<

    例えば「赤色」の存在と非存在。
    今目にしてる感覚の中に、赤色が満たされているのか、赤色が空っぽなのかに対応するのが、「赤色の存在」と「赤色の非存在」という概念になるのかと思いました。


    > さて、時間とはたんに直観の形式であり、つまりは現象としての対象の形式であり、
    > 対象の中で感覚に対応するのは、
    > 対象それ自体(事象性、実在性)の超越論的質料である。<

    ↑ちょっとわからないから今は飛ばして、、

    > 全ての感覚はそれにより時間を満たすことができるような度あるいは量・・・つまり、多かれ少なかれの、消えて無になるまでの対象の表象に関しての内的感覚・・・を持つ。<

    感官により生じる感覚には「度」がある、ということかなと思いました。

    感官により生じる感覚に「度」があることのイメージとして、コンピュータにおける光の三原色を題材に使ってイラスト化してみました。
    添付ファイルとして投稿します。

    参考ページ
    https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00754/051600006/?P=2


    例えば耳で感じる「音」では、周波数、
    舌で感じる「味」もデータ化するなら、「度」を持った連続量?となるでしょうか??

    https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00109/00065/


    人間の感じる感覚には度があり、
    「満たされた時間」としての『存在』、
    「空っぽの時間」としての『非存在』という
    (概念による)捉え方をおもしろく思いました。

    英訳部分の後半をまた後ほど日訳してみようと思います
    (^ ^)

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■37409 / inTopicNo.68)  超越論的分析論\−8
□投稿者/ うましか -(2024/06/02(Sun) 03:24:22)
    2024/06/02(Sun) 03:25:12 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー(;´・ω・)

    6月に突入ですね

    雨の季節はいやだなあ…でも酷く暑い夏よりはましかな(´;ω;`)ウッ…


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ しかし、人間の認識という極めて混み入った織物を作り上げている多種多様な諸概念の内には、純粋な使用にすら、ア・プリオリに(〔つまり、〕全ての経験に完全に依存せずに)規定されているいくつかの概念があり、これらの諸概念の権限は、いつでも演繹を必要とする。
    というのも、そうした使用の適法性〔合法性〕のためには経験に基づく証明では十分ではないにも関わらず、それらが決していかなる経験からも取ってくるのではない客観と、いかにしてそれらの諸概念が連関し得るのかを、人は知らなければならないからである。
    だから私は、ア・プリオリな〔つまり、全ての経験に完全に依存しない〕諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論的演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別する。
    経験的演繹とは、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである。だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。

    ◆ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに〔全ての経験に完全に依存せずに 〕対象と連関するという点においては互いに一致している。
    それら〔二種類の概念〕とは、つまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。
    これらの諸概念〔空間・時間、カテゴリー〕について、経験的〔経験による〕演繹〔根拠づけ、権利づけ〕を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の本性の特質とは、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである〔*1〕。
    それ故、もしこれらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう〔*2〕。

     *1 空間・時間(感性の形式)という概念と、悟性の概念としてのカテゴリー→ これらの概念は、自らの対象を表象するために、何も経験から借りることなく、対象と関係する。
     *2 空間・時間とカテゴリーを根拠づけるためには超越論的演繹を必要とする。

    ◆ しかしながら、私たちは、これらの諸概念についても、全ての認識についてと同様、それらの可能性の原理を探し出すのではない場合には、それらの産出の機会因をやはり経験において探し出すことができる。その時には感官の印象が、これらの諸概念に関する全認識能力を活動せしめ、経験をせしめる最初の機縁を与える。
    この経験は、二つの極めて異種的な要素、すなわち、感官に基づく認識のための実質〔質料〕≠ニ、純粋な直観〔作用〕及び純粋な思考〔作用〕の内的源泉に基づきこの実質〔質料〕を秩序づける、或る種の形式≠ニを含んでいる。こうした純粋な直観〔作用〕と純粋な思考〔作用〕は、実質〔質料〕を機会として、まず活動をはじめ、そして概念を産み出すのである。
    私たちの認識力が、個々の知覚から普遍的概念へと高まろうとする最初の努力をこのように跡付けてみることは、疑いなく極めて有益なことであり、そのための道が初めて開かれたのは、あの有名な〔ジョン・〕ロック≠フおかげであるとしなければならない。
    しかしながら、ア・プリオリな〔全ての経験に完全に依存しない 〕諸純粋概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹〔根拠づけ、権利づけ〕≠ヘ、ロックの開いた道によっては決して成功することはない。何故なら、ア・プリオリな諸純粋概念の演繹は、徹頭徹尾この道にはないからである。
    というのも、経験には全面的に依存してはならないそうしたア・プリオリな諸純粋概念の将来の使用について、これらの諸純粋概念〔空間と時間、カテゴリー〕は、経験からの血統を示す出生証明書を示すことができなければならないからである。このような生理学的な導出の試みは、事実の問題(quaestionem facti)に関するので、そもそも演繹〔根拠づけ、権利づけ〕とは全く呼ばれることができないのである。なので、私はそうした導出を純粋認識の所有≠フ説明と呼ぼうと思う。
    従って明瞭なのは、この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕のみがあり得るのであって、経験的演繹は断じてあり得ないということであり、また、経験的演繹は、ア・プリオリな諸純粋概念に関しては、空しい試み以外の何ものでもなく、そうした試みに携わることができるのは、こうした純粋認識の極めて特異な本性を理解していない人だけでしかあり得ないということである。

    ◇ ところが、たとえア・プリオリで純粋な認識のできうる演繹の唯一の様式が、つまり超越論的な道をたどる演繹の様式が、認められるとしても、このことによってこの様式〔超越論的演繹〕がかくも不可避的で必然的であることは明白ではない。
    私たちは先に、空間及び時間の概念を超越論的演繹によってその源泉にまで追求し、そのア・プリオリな客観的妥当性を説明し規定した。
    にもかかわらず、幾何学は空間という根本概念の純粋で合法則的な素性に関して哲学に証明書を懇願するまでもなく、自身の確実な歩みを純然たるア・プリオリな認識を通じてたどっている。
    しかしながら、この概念〔空間〕の使用はこの幾何学において〔も〕外なる感性界〔aussere Sinnenwelt外的な感覚領域〕にのみ関わるのであり、
    外なる感性界については、空間はその直観の純粋形式であり、
    故にこの外なる感性界〔外的感覚界〕においては、全ての幾何学的認識はア・プリオリな直観に根拠づけられているので、直接的な明証性を持つ。
    また、その〔幾何学の〕諸対象は、その認識自身を通じてア・プリオリに(その形式に関して)直観において与えられるのである。

    ―― No.36646,36657,36908,37244の続き ---

    ◇これに反して、純粋悟性概念≠ニ共に、純粋悟性概念自身のみならず、空間についても超越論的演繹をもとめる不可避な要求が起こってくる。

    ◇というのも、純粋悟性概念が諸対象についての述べるのは、直観及び感性の述語によってではなく、ア・プリオリな純粋思考の述語によってであるので、
    純粋悟性概念は感性のあらゆる条件無しで諸対象と普遍的に連関するからであり、
    また、純粋悟性概念は経験に根拠づけられていないので、ア・プリオリな直観においても全ての経験に先立って己の綜合の根拠となっているいかなる客観をも呈示することができず、
    だから己の客観的妥当性や制限に関して疑惑を引き起こすのみではなく、あの空間の概念≠曖昧ならしめもするからである。

    ◇ このように、空間の概念が曖昧ならしめられるのは、純粋悟性概念がこの空間の概念を感性的な直観の諸条件を越えて使用しがちであることによってであり、それ故にまた、先にも空間の概念について超越論的演繹が必要だったのである。

    ◇そこで読者は、そうした超越論的演繹の不可避な必然性について、読者が純粋理性の分野のうちで最初の一歩を踏み出す前に確信しなければならない。
    というのは、さもなければ読者の行動は盲目的となり、あちこち迷い歩いたあげく、彼がそこから出発した無知へと再び戻ってこざるを得ないからである。

    ◇しかし、読者はまた不可避な困難をもあらかじめ判然と洞察していなければならないが、それは問題自身が深く隠されている場合に、曖昧であると嘆いたり、或いは場外の除去にあまりに早くうんざりないためである。
    というのは、問題は、最も愛好されている分野、つまり全ての可能的な経験の限界を越え出ている分野に他ならない純粋理性を洞察しようとする全ての要求を完全に放棄するか、それともこの批判的研究を完成するかのいずれかに帰着するからである。


    † 原佑訳上巻、p.236〜p.240参照。 原典はMeiner, p.165〜p.169
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.93〜p.99、石川文康 訳 上巻,p.146〜p.149
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−7 No.37244、\−8 No.37409
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,37409

引用返信/返信 削除キー/
■37411 / inTopicNo.69)  Re[4]: 超越論的分析論\−8
□投稿者/ pipit -(2024/06/02(Sun) 09:19:09)
    2024/06/02(Sun) 14:26:38 編集(投稿者)

    うましかさん、こんにちはー(^○^)

    No37409
    > 6月に突入ですね
    >
    > 雨の季節はいやだなあ…でも酷く暑い夏よりはましかな(´;ω;`)ウッ…<

    ジメジメいやですよねぇ(><)
    梅雨の後は夏...猛暑になったらいやだなぁ


    > *******
    >
    > T 超越論的原理論
    > 第二部門 超越論的論理学
    > 第一部 超越論的分析論
    > 第一篇 概念の分析論
    > 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    > 第二章 純粋悟性概念の演繹について
    >
    > 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について
    >
    > ◆ しかし、人間の認識という極めて混み入った織物を作り上げている多種多様な諸概念の内には、純粋な使用にすら、ア・プリオリに(〔つまり、〕全ての経験に完全に依存せずに)規定されているいくつかの概念があり、これらの諸概念の権限は、いつでも演繹を必要とする。
    > というのも、そうした使用の適法性〔合法性〕のためには経験に基づく証明では十分ではないにも関わらず、それらが決していかなる経験からも取ってくるのではない客観と、いかにしてそれらの諸概念が連関し得るのかを、人は知らなければならないからである。
    > だから私は、ア・プリオリな〔つまり、全ての経験に完全に依存しない〕諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論的演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別する。
    > 経験的演繹とは、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである。だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。
    >
    > ◆ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに〔全ての経験に完全に依存せずに 〕対象と連関するという点においては互いに一致している。
    > それら〔二種類の概念〕とは、つまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。
    > これらの諸概念〔空間・時間、カテゴリー〕について、経験的〔経験による〕演繹〔根拠づけ、権利づけ〕を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の本性の特質とは、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである〔*1〕。
    > それ故、もしこれらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう〔*2〕。
    >
    >  *1 空間・時間(感性の形式)という概念と、悟性の概念としてのカテゴリー→ これらの概念は、自らの対象を表象するために、何も経験から借りることなく、対象と関係する。
    >  *2 空間・時間とカテゴリーを根拠づけるためには超越論的演繹を必要とする。
    >
    > ◆ しかしながら、私たちは、これらの諸概念についても、全ての認識についてと同様、それらの可能性の原理を探し出すのではない場合には、それらの産出の機会因をやはり経験において探し出すことができる。その時には感官の印象が、これらの諸概念に関する全認識能力を活動せしめ、経験をせしめる最初の機縁を与える。
    > この経験は、二つの極めて異種的な要素、すなわち、感官に基づく認識のための実質〔質料〕≠ニ、純粋な直観〔作用〕及び純粋な思考〔作用〕の内的源泉に基づきこの実質〔質料〕を秩序づける、或る種の形式≠ニを含んでいる。こうした純粋な直観〔作用〕と純粋な思考〔作用〕は、実質〔質料〕を機会として、まず活動をはじめ、そして概念を産み出すのである。<

    あ!「質料」の文字が…
    No37382で飛ばしてしまった、
    (英訳のpipit日訳)
    > さて、時間とはたんに直観の形式であり、つまりは現象としての対象の形式であり、
    > 対象の中で感覚に対応するのは、
    > 対象それ自体(事象性、実在性)の超越論的質料である。<
    (pipit日訳終了)
    No37382の箇所の話題は、質料に関するアプリオリな知見としての「感覚」のことを言ってたのかな??

    > 私たちの認識力が、個々の知覚から普遍的概念へと高まろうとする最初の努力をこのように跡付けてみることは、疑いなく極めて有益なことであり、そのための道が初めて開かれたのは、あの有名な〔ジョン・〕ロック≠フおかげであるとしなければならない。
    > しかしながら、ア・プリオリな〔全ての経験に完全に依存しない 〕諸純粋概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹〔根拠づけ、権利づけ〕≠ヘ、ロックの開いた道によっては決して成功することはない。何故なら、ア・プリオリな諸純粋概念の演繹は、徹頭徹尾この道にはないからである。
    > というのも、経験には全面的に依存してはならないそうしたア・プリオリな諸純粋概念の将来の使用について、これらの諸純粋概念〔空間と時間、カテゴリー〕は、経験からの血統を示す出生証明書を示すことができなければならないからである。このような生理学的な導出の試みは、事実の問題(quaestionem facti)に関するので、そもそも演繹〔根拠づけ、権利づけ〕とは全く呼ばれることができないのである。なので、私はそうした導出を純粋認識の所有≠フ説明と呼ぼうと思う。
    > 従って明瞭なのは、この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕のみがあり得るのであって、経験的演繹は断じてあり得ないということであり、また、経験的演繹は、ア・プリオリな諸純粋概念に関しては、空しい試み以外の何ものでもなく、そうした試みに携わることができるのは、こうした純粋認識の極めて特異な本性を理解していない人だけでしかあり得ないということである。
    >
    > ◇ ところが、たとえア・プリオリで純粋な認識のできうる演繹の唯一の様式が、つまり超越論的な道をたどる演繹の様式が、認められるとしても、このことによってこの様式〔超越論的演繹〕がかくも不可避的で必然的であることは明白ではない。
    > 私たちは先に、空間及び時間の概念を超越論的演繹によってその源泉にまで追求し、そのア・プリオリな客観的妥当性を説明し規定した。
    > にもかかわらず、幾何学は空間という根本概念の純粋で合法則的な素性に関して哲学に証明書を懇願するまでもなく、自身の確実な歩みを純然たるア・プリオリな認識を通じてたどっている。
    > しかしながら、この概念〔空間〕の使用はこの幾何学において〔も〕外なる感性界〔aussere Sinnenwelt外的な感覚領域〕にのみ関わるのであり、
    > 外なる感性界については、空間はその直観の純粋形式であり、
    > 故にこの外なる感性界〔外的感覚界〕においては、全ての幾何学的認識はア・プリオリな直観に根拠づけられているので、直接的な明証性を持つ。
    > また、その〔幾何学の〕諸対象は、その認識自身を通じてア・プリオリに(その形式に関して)直観において与えられるのである。
    >
    > ―― No.36646,36657,36908,37244の続き ---
    >
    > ◇これに反して、純粋悟性概念≠ニ共に、純粋悟性概念自身のみならず、空間についても超越論的演繹をもとめる不可避な要求が起こってくる。
    >
    > ◇というのも、純粋悟性概念が諸対象についての述べるのは、直観及び感性の述語によってではなく、ア・プリオリな純粋思考の述語によってであるので、
    > 純粋悟性概念は感性のあらゆる条件無しで諸対象と普遍的に連関するからであり、
    > また、純粋悟性概念は経験に根拠づけられていないので、ア・プリオリな直観においても全ての経験に先立って己の綜合の根拠となっているいかなる客観をも呈示することができず、
    > だから己の客観的妥当性や制限に関して疑惑を引き起こすのみではなく、あの空間の概念≠曖昧ならしめもするからである。
    >
    > ◇ このように、空間の概念が曖昧ならしめられるのは、純粋悟性概念がこの空間の概念を感性的な直観の諸条件を越えて使用しがちであることによってであり、それ故にまた、先にも空間の概念について超越論的演繹が必要だったのである。<

    ?
    直観の形式としての空間については与えられる対象としての直接的な明証性があるけど、
    純粋悟性概念は思考内の産物なので、概念内に空間の要素が組み込まれる時は、概念要素としての空間概念への超越論的演繹も必要ということかなぁ
    (´-`).。oO?


    > ◇そこで読者は、そうした超越論的演繹の不可避な必然性について、読者が純粋理性の分野のうちで最初の一歩を踏み出す前に確信しなければならない。
    > というのは、さもなければ読者の行動は盲目的となり、あちこち迷い歩いたあげく、彼がそこから出発した無知へと再び戻ってこざるを得ないからである。<

    ひょぇー、pipitのことでしょうか?
    (ーー;)

    > ◇しかし、読者はまた不可避な困難をもあらかじめ判然と洞察していなければならないが、それは問題自身が深く隠されている場合に、曖昧であると嘆いたり、或いは場外の除去にあまりに早くうんざりないためである。
    > というのは、問題は、最も愛好されている分野、つまり全ての可能的な経験の限界を越え出ている分野に他ならない純粋理性を洞察しようとする全ての要求を完全に放棄するか、それともこの批判的研究を完成するかのいずれかに帰着するからである。<

    あまりのややこしさに
    ぶーぶー先輩に文句言いたくなりますぅー...が、文句言うなと言うカント先輩??
    |( ̄3 ̄)|

    うましかさん、純粋理性批判の文章、おつかれさまです!
    書き込みありがとうございまーす
    (o^^o)♪

引用返信/返信 削除キー/
■37419 / inTopicNo.70)  Re[37]: 純理B182図式論
□投稿者/ pipit -(2024/06/03(Mon) 00:34:40)
    2024/06/03(Mon) 00:55:16 編集(投稿者)

    No37344
    No37371
    みなさまこんばんは。英訳の後半を日訳しました。

    (英訳のpipit日訳)
    このように、実在性と否定の間には関係や結びつきがあり、むしろ前者から後者への移行が、全ての実在性を私たちに量として表象させ得る;

    そして、時間を満たす限りにおける何かの量としての実在性の図式は、まさにこの時間における実在の連続的かつ同型的な生成である。

    我々はある度合いを持つ感覚からその消失へと時間において下降するように、あるいは否定からその量へと段々に上昇するように生成する。

    (pipit感想)
    全然違うのかもなのですが、、、

    pipitは感覚の度について
    No37382でRGBを例として出しました。
    例えば『赤』に0から255までの強度の番号を割り当てているのですが、、、

    >このように、実在性と否定の間には関係や結びつきがあり、むしろ前者から後者への移行が、全ての実在性を私たちに量として表象させ得る;<

    『赤』を実在から否定までの移行、と知性で捉えることによって、思考で、『赤』を量として表現してるわけですよね。
    例えば255の強度の赤しかこの世に存在しないとき、255は内容を表していない表現になりますよね。

    >そして、時間を満たす限りにおける何かの量としての実在性の図式は、まさにこの時間における実在の連続的かつ同型的な生成である。<
    >我々はある度合いを持つ感覚からその消失へと時間において下降するように、あるいは否定からその量へと段々に上昇するように生成する。<

    図式は人間の構想力(想像力)の産物ということですので、、、
    赤を感覚している正にこの時に、構想力(想像力)で[赤の実在から消失]までの時間規定を生成して、目にしてる「赤」を「実在性という概念」に包摂させてる、あるいは別の表現で言えば、目にしてる「赤」に「実在性という概念」を適用する、とカントは言ってるのかなぁ、、、と考えました。

    全然違ってたらすみません!

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