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■36908 / inTopicNo.13)  超越論的分析論\−6
  
□投稿者/ うましか -(2024/03/24(Sun) 21:56:20)
    2024/03/24(Sun) 21:57:15 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    お久しぶりになってしまいました〜(;´・ω・)

    あーもうすぐ四月か! (;゚Д゚)(゚Д゚; )

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに〔全ての経験に完全に依存せずに 〕対象と連関するという点においては互いに一致している。
    それら〔二種類の概念〕とは、つまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。
    これらの諸概念〔空間・時間、カテゴリー〕について、経験的な演繹〔根拠づけ、権利づけ〕を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の本性の特質とは、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである。
    それ故、もしこれらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう。

    *1 概念@ 感性の形式:空間と時間 −ア・プリオリな連関− 対象 → 表象
    概念A 悟性の概念:カテゴリー  −ア・プリオリな連関− 対象 → 表象

    ◇しかしながら、私たちは、これらの諸概念についても、全ての認識についてと同様、それらの可能性の原理を探し出すのではない場合には、それらの産出の機会因をやはり経験において探し出すことができる。その時には感官の印象が、これらの諸概念に関する全認識能力を活動せしめ、経験をせしめる最初の機縁を与える。
    この経験は、二つの極めて異種的な要素、すなわち、感官に基づく認識のための実質〔質料〕≠ニ、純粋な直観〔作用〕及び純粋な思考〔作用〕の内的源泉に基づきこの実質〔質料〕を秩序づける、或る種の形式≠ニを含んでいる。こうした純粋な直観〔作用〕と純粋な思考〔作用〕は、実質〔質料〕を機会として、まず活動をはじめ、そして概念を産み出すのである。

    ―― No.36646,36657 の続き ---

    ◇ 私たちの認識力〔Erkenntniskraft〕が、個々の知覚から普遍的概念へと高まろうとする最初の努力をこのように跡付けてみることは、疑いなく極めて有益なことであり、そのための道が初めて開かれたのは、あの有名なロック〔John Locke, 1632-1704〕≠フおかげであるとしなければならない。

    ◇ しかしながら、ア・プリオリな〔全ての経験に完全に依存しない 〕諸純粋概念の演繹〔根拠づけ、権利づけ〕≠ヘ、ロックの開いた道によっては決して成功することはない。何故なら、ア・プリオリな諸純粋概念の演繹は、徹頭徹尾この道にはないからである。

    ◇というのも、経験には全面的に依存してはならないそうしたア・プリオリな諸純粋概念の将来の使用について、これらの諸純粋概念は、経験からの血統を示す出生証明書を示すことができなければならないからである。

    ◇ このような生理学的な〔physiologische〕導出の試みは、事実の問題(quaestionem facti)に関するので、そもそも演繹〔根拠づけ、権利づけ〕とは全く呼ばれることができないである。なので、私はそうした導出を純粋認識の所有〔Besitzes〕*1≠フ説明と呼ぼうと思う。

    *1 「私は、ア・プリオリな〔つまり、全ての経験に完全に依存しない〕諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別する。経験的演繹とは、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである。だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。」〔 No.36646 より引用。〕

    ◇ 従って明瞭なのは、この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕のみがあり得るのであって、経験的演繹は断じてあり得ないということであり、
    また、経験的演繹は、ア・プリオリな諸純粋概念に関しては、空しい試み以外の何ものでもなく、そうした試みに携わることができるのは、こうした純粋認識の極めて特異な本性を理解していない人だけでしかあり得ないということである。


    † 原佑訳上巻、p.237〜p.238参照。 原典はMeiner, p.166〜p.167
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.95〜p.96、石川文康 訳 上巻,p.146〜p.147
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908

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■36917 / inTopicNo.14)  Re[2]: 超越論的分析論\−6
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 08:44:13)
    うましかさん、こんにちはー(^∇^)

    No36908
    > あーもうすぐ四月か! (;゚Д゚)(゚Д゚; )<

    もうすぐ うまさんとしかさんの日ですね!
    ちょうど桜の開花と重なるかなー??

    > ◇ 私たちの認識力〔Erkenntniskraft〕が、個々の知覚から普遍的概念へと高まろうとする最初の努力をこのように跡付けてみることは、疑いなく極めて有益なことであり、そのための道が初めて開かれたのは、あの有名なロック〔John Locke, 1632-1704〕≠フおかげであるとしなければならない。<

    認識の段階で、知覚から普遍的概念へと高まろうとする....
    この道順はロックさんの主張と重なるところがある、と....


    > ◇ しかしながら、ア・プリオリな〔全ての経験に完全に依存しない 〕諸純粋概念の演繹〔根拠づけ、権利づけ〕≠ヘ、ロックの開いた道によっては決して成功することはない。何故なら、ア・プリオリな諸純粋概念の演繹は、徹頭徹尾この道にはないからである。<

    でもアプリオリな概念の演繹は、知覚→普遍的概念 への道には含まれていない。


    > ◇というのも、経験には全面的に依存してはならないそうしたア・プリオリな諸純粋概念の将来の使用について、これらの諸純粋概念は、経験からの血統を示す出生証明書を示すことができなければならないからである。<

    アプリオリ → 純粋概念

    にも関わらず、経験からの産出の証明(血統書) も 私たちの生と関わる『学』に純粋概念も使用するつもりなら 提出義務がある。


    > ◇ このような生理学的な〔physiologische〕導出の試みは、事実の問題(quaestionem facti)に関するので、そもそも演繹〔根拠づけ、権利づけ〕とは全く呼ばれることができないである。なので、私はそうした導出を純粋認識の所有〔Besitzes〕*1≠フ説明と呼ぼうと思う。<

    なるほどー
    違うかもだけど、、、、

    生理学的導出の試みが、論理学の判断表から純粋悟性概念を導出することなのかな、と思いました。


    > *1 「私は、ア・プリオリな〔つまり、全ての経験に完全に依存しない〕諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別する。経験的演繹とは、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである。だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。」〔 No.36646 より引用。〕
    >
    > ◇ 従って明瞭なのは、この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕のみがあり得るのであって、経験的演繹は断じてあり得ないということであり、
    > また、経験的演繹は、ア・プリオリな諸純粋概念に関しては、空しい試み以外の何ものでもなく、そうした試みに携わることができるのは、こうした純粋認識の極めて特異な本性を理解していない人だけでしかあり得ないということである。<

    カントは、判断表からアプリオリなカテゴリーを導出して、
    >所有〔Besitzes〕<の説明
    をなしたあと、
    次は
    >この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕<
    にとりかかる、と....

    うましかさんのおかげで、カントの記述に向き合うことができます。
    大感謝です!

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■36940 / inTopicNo.15)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/27(Wed) 10:36:54)
    晴れてきたなー

    空を見ながら、味噌せんべいおやつで食べちゃおうかなー

    春だなー
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■36944 / inTopicNo.16)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/27(Wed) 19:00:20)
    ワンくんの散歩行ったら、遠くからけっこう大きなキツネがずっとこっちを見ていた。

    ワンくんは鈍感なので気づかない。

    うちのワンくんはしつけがなってないので、キツネに気づくと絶対取り乱して大変そうなので、気づかせないために立ち位置変えたりヒヤヒヤした。

    (ーー;)

    ワンくん、結果、最後まで気づきませんでした U・x・U
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■37008 / inTopicNo.17)  Re[5]: 日記
□投稿者/ pipit -(2024/04/03(Wed) 22:51:42)
    2024/04/03(Wed) 22:52:19 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは!
    No36878の続きです。

    After what has been proved in our deduction of the categories, no one, it is to be hoped, can hesitate as to the proper decision of the question, whether the employment of these pure conceptions of the understanding ought to be merely empirical or also transcendental; in other words, whether the categories, as conditions of a possible experience, relate a priori solely to phenomena, or whether, as conditions of the possibility of things in general, their application can be extended to objects as things in themselves.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap56

    (英訳のpipit意訳・日訳)

    これら純粋悟性概念は、単なる経験的にのみ利用されるか、
    それとも超越論的にも利用されるのか、

    別の言葉で言うと、、、

    カテゴリーは可能な経験の条件として、アプリオリにもっぱら現象に関係するだけなのか、
    それとも、物一般の可能性の条件として、カテゴリーの適用が物自体にまで拡張され得るのかどうか、、、

    我々のカテゴリーの演繹(根拠づけ)において示されことの後では、誰もこの質問への適切な答えに迷う人がいないことが期待される。

    (pipit感想)
    カテゴリーの演繹で、カテゴリーの適用が正当性を持てるのは、経験の条件として用いられるときのみと示したので、読者はもうわかってるよね?
    『カテゴリーは単なる経験的にのみ利用される、換言すれば、可能な経験の条件として、アプリオリにもっぱら現象に関係するだけ。』と答えるのに躊躇する人は、きっといないよね?(カントの期待)
    って感じなのかなーと思いました。
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■37039 / inTopicNo.18)  ねこケーブルカー日記
□投稿者/ pipit -(2024/04/07(Sun) 15:20:42)
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■37047 / inTopicNo.19)  純粋理性批判B178.179英訳@
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:21:54)
    みなさまこんにちは!
    続きですー、、、と思ったら英訳文が投稿できないので、少しずつ投稿してみます

    For we have there seen that conceptions are quite impossible,
    and utterly without signification, unless
    either to them, or at least to the elements of which they consist, an object be given;

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap56

引用返信/返信 削除キー/
■37048 / inTopicNo.20)  純粋理性批判B178.179英訳A
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:22:24)
    and that, consequently, they cannot possibly apply to objects as things in themselves without regard to the question whether and how these may be given to us;
引用返信/返信 削除キー/
■37049 / inTopicNo.21)  純粋理性批判B178.179英訳B
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:22:58)
    and, further, that the only manner in which objects can be given to us is by means of the modification of our sensibility;
引用返信/返信 削除キー/
■37050 / inTopicNo.22)   純粋理性批判B178.179英訳C
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:23:29)
    and, finally, that pure a priori conceptions, in addition to the function of the understanding in the category, must contain a priori formal conditions of sensibility (of the internal sense, namely), which again contain the general condition under which alone the category can be applied to any object.

引用返信/返信 削除キー/
■37051 / inTopicNo.23)   純粋理性批判B178.179英訳
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:29:11)
    全部英訳文を投稿できました!

    No37047-37050

    この英訳文を、pipitが意訳・日訳しました。

    ----------------------------
    (日訳)

    というのも、そこ(超越論的演繹)で明らかにされたのは、以下のこと・・・

    ※※※※※※※※

    その(純粋悟性)概念に、あるいは少なくともその(純粋悟性)概念を構成する要素に、対象が与えられることなしには、純粋悟性概念は全く不可能であり、全く意味を欠くこと:

    その結果、我々に与えられるか否か、どのように与えられるか、などの疑問を考慮しなくても、それら(純粋悟性概念)を物自体としての対象に適用することが不可能であること:

    そしてさらに、対象が私たちに与えられる唯一の方法は、私たちの感性の変容という手段によること:

    そして最後に、純粋なアプリオリ概念は、カテゴリーにおける悟性の機能に加えて、感覚(つまり内的感覚)のアプリオリな形式的条件を含んでいなければならないこと---また、ただその下でのみカテゴリーが対象に適用することが可能となる一般的条件も含んでいなければいけないこと:

    ※※※※※※※※

    ・・・であるからだ。

    ----------------------------
引用返信/返信 削除キー/
■37052 / inTopicNo.24)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 15:51:56)
    ちょっと、反対に見ていってみます

    No37051

    > そして最後に、純粋なアプリオリ概念は、カテゴリーにおける悟性の機能に加えて、感覚(つまり内的感覚)のアプリオリな形式的条件を含んでいなければならないこと---また、ただその下でのみカテゴリーが対象に適用することが可能となる一般的条件も含んでいなければいけないこと:<

    純粋でアプリオリな概念が私たちにある。
    カテゴリーにおける悟性の機能として。
    それだけではなく、
    その概念には、感覚(内官)の形式的条件→→時間も含まれている。
    その概念には、カテゴリーの対象への適用を可能とする条件も含まれている。

    >対象が私たちに与えられる唯一の方法は、私たちの感性の変容という手段によること:
    <

    感性の変容、、、時間・空間という形式と共に生じる、感性の内容的変容によって、私たちの前に対象が現れる。

    > 我々に与えられるか否か、どのように与えられるか、などの疑問を考慮しなくても、それら(純粋悟性概念)を物自体としての対象に適用することが不可能であること:<

    感性を超えたものとしての物自体が我々に与えられるか、どのように与えられるかなどの考察とは別に、
    純粋悟性概念は感性的対象にのみ適用されるので、物自体としての対象には適用出来ない。

    > その(純粋悟性)概念に、あるいは少なくともその(純粋悟性)概念を構成する要素に、対象が与えられることなしには、純粋悟性概念は全く不可能であり、全く意味を欠くこと:<

    概念と対象のペアで考えると、感性的対象以外の対象と純粋悟性概念はペア不成立で、純粋悟性概念は概念として機能できずに概念としての意味も持てない。

    そんな感じかなー?と思いました。





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