| このところわたしの物語り振り返って見てるとこ。
現象学では、No36289の(q,s)にあるように、〔想像を、‥‥知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象、つまり像あるいはイメージと見なした。〕ってうことから、「知覚されているもの」のうちに「想像」を含めて言っている場合があるんじゃないかしら?って思って、 No36316で、「知覚」と「想像」を区別するためにわたし〈端的な知覚〉ってして〈想像〉を区別することにしたんだけど、この〈端的な知覚〉って言うの、わたしのなかでどこから出てきたのか見つかった。
【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】(訳注)に、(これ「統覚」について書いてあるんだけど) (「統覚」Apperzeption) ・・・・・・ Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。もとはライプニッツが、対象を判明に知覚するとき、その知覚作用自体にもわれわれは気づく、このことを「統覚」と呼んで哲学的概念として定着させた。その後、感性的直観の多様が悟性により結合される場合の、統一を形成する主観の根源的働きを「統覚」と呼んだ。フッサールは、カントの用法を踏まえながらも、或るものの端的な把握としての「知覚」と区別して、さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる。 ・・・・・・
この〔或るものの端的な把握としての「知覚」〕から、わたし〈端的な知覚〉って言うことにしたんだと思う。 これと区別される〔さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」〕よね。
No36191で、でふと思ったんだけど、 「統覚」と「準現在化」ってなんか似てない?、って。 いまここんとことりかかってるところ。 簡単にお喋りできるようになったら後で書いて見るつもり。
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