| No36655で、 (h-A)〔〈情〉は、「疑似-現前させる」〈想像〉を使って(という仕方で)、私の外にある「もの(それ)」(「対象」)を捉えてる。〕 ってして見たんだけど、もう一度見直して見たよ。 これ、意識の志向性っていうのから言い変えて、 (h-A-1)〔〈するもの-情〉は、〈想像-すること〉(疑似-現前させる)という仕方で、「対象」を捉えてる。〕 ・・・・・・〔捉えてる〕ってして見たけど、これでいいのかな?って。 〈知覚〉を仲間入りさせて、「対象」と〈知覚〉と〈想像〉と〈情〉の関係で見て見ることにした。 「対象」っていうの、〔私の外にある「もの(それ)」〕ってして、簡単に「それ」って表現することもあるよ。
No36016の(j)に、『たとえば怒りのなかで問題の直接解決を探しますが、解決できないのでその問題を抹消し否定しようとする』とか『敵を説得できないとき、われわれは激怒のうちに敵を仮想的に破壊します』とか『私に対して解決されます』ってある。 これ見て見た。
〔〈情〉の発動〕っていうのあると思う。「それ」に〈情〉が発動する、っていうこと。これ、発動しない場合もある、っていうこと。〈情〉が発動しない場合、「それ」は〈情〉にとっては志向的「対象」となっていない、って見ることもできるかな。こういうのもちょっと考えといて。
意識のなかで、〈情〉の〈対象〉は〈知覚-されたもの〉、ってする。 私の外にある「それ」−―現前(現在)するもの/現実的なもの――が、意識のなかで構成されたもの――〈知覚-されたもの〉を〈それ〉って表現して区別するね。 〈するもの-情〉は、〈知覚-されたもの〉へ志向し、〈それ〉が〈情〉を発動させるものとなってるとき、〈情-されたも〉(情の内容)が出て来るのね(たとえば喜怒哀楽って呼ばれてるもの)。こういう〈情-すること〉(情の作用)がある、ってする。
(j)では、この先のことを言ってるのかも。 で、(j)を次のように見た。 (A-j)私の外にある「それ」は〈知覚-されたもの〉となり、〈情〉はそれを参照にして、〈怒り〉という〈情-されたもの〉が発動され(感じられ)たとき、私のうちで発生した〈怒り〉を鎮める(直接解決)しようとするとき、でも、それが解決できないとき、私の内で発生した〈怒り〉を仮想的に破壊する。こういうふうにして『私に対して解決されます』。 って。 「それ」に〈怒り〉を感じているのは「私」なんだけど、その怒りを「それ」に向けて「それ」を破壊する場合もあるかもけど、(j)の場合、それができない場合なのかな。
こう見たとき、 (h-A-1)の〔「対象」を捉えてる〕っていうよりか、〔かかわってる〕ってした方がいいかな。 で、 (h-A-2)〈するもの-情〉は、〈想像-すること〉(疑似-現前させる)という仕方で、「対象」にかかわってる。 ってなった。 そして、 (h-A-3)〈情〉は、〈想像〉を携えてる。 ともして見た。
簡単にまとめると、 (A-h)〈情-すること〉(情の作用)には、 @〈するもの-情〉は、〈知覚-されたもの〉を参照にして、〈情-されたもの〉を発動する。 A〈するもの-情〉は、携えてる〈想像〉の〈疑似-現前化させる〉働きを使って、〈情-されたもの〉に志向して対処している。 この2つの働きがある、って見た。
Aのように見ることによって、 (h)の『感情とは、対象を志向し、それを疑似−現前させる方法のこと』 っていうのが見えてくるような〜? いずれにしても、 (k)『想像的なものの源泉が情緒にある』 っていうことからは、意識において、〈想像〉は〈情〉ではないっていうこと、そして、〈想像〉と〈情〉は区別して見るっていうことは、言えるかも?
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