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Re[38]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/21(Wed) 19:22:28)
| No36590のつづき、
想像する力はあざむく力をもっていて、それによって、〈疑似的な感覚(感覚の変様態)〉が〈知覚〉に呈示され、それの〈知覚-されたもの〉が構成される。 って、わたし見てるなかで、 じゃ、「あざむかれ」てるのは、「知覚?」 ってなってるんだけど、
メルポンのいう「知覚」っていうの、 No36016の(o)に、 『現実的なものの知覚のなかに信念があるとさえ言えません。・・・・椅子がそこにある。ただそれだけです。』 ってある。 わたしのばあい、この『知覚』っていうの、わたしが見ている〈端的な知覚〉、あるいは「物理的像」のこと、って見てる。 ここのメルポンの『知覚』っていっていうの、《〈ただそこにある〉それだけ》っていうそういうそのようなもの、ってメルポンはして見てるんだと思う。
ネットで調べたら、「信念」の対義語は「疑念」ってあった。
で、わたしのばあい、〈端的に知覚-されてるもの〉自身にはそのような“念”っていうのは存在しなくて、単なる「物理的“像”」、ってして見てる。
こう見たとき、〈端的な知覚〉には「あざむかれてる(だまされてる)」っていうことさえ言えないのかも?って。
こんなふうに見なくて、素直に、「想像する力」は「知覚」をあざむいてる(だましてる)、ってして、お片付けして置いてもいいんだけどね。
でも、もし、あざむかれてるのが「知覚」じゃないとすると、「想像する力」は、何をあざむいて(だまして)、何があざむかれ(だまされ)て、いるのかしら?別の意識が? っていう問い、わたしのなかに置いとくことにしてる。
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