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No36603 の記事


■36603 / )  Re[38]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/21(Wed) 19:22:28)
    No36590のつづき、

    想像する力はあざむく力をもっていて、それによって、〈疑似的な感覚(感覚の変様態)〉が〈知覚〉に呈示され、それの〈知覚-されたもの〉が構成される。
    って、わたし見てるなかで、
    じゃ、「あざむかれ」てるのは、「知覚?」
    ってなってるんだけど、

    メルポンのいう「知覚」っていうの、
    No36016の(o)に、
    『現実的なものの知覚のなかに信念があるとさえ言えません。・・・・椅子がそこにある。ただそれだけです。』
    ってある。
    わたしのばあい、この『知覚』っていうの、わたしが見ている〈端的な知覚〉、あるいは「物理的像」のこと、って見てる。
    ここのメルポンの『知覚』っていっていうの、《〈ただそこにある〉それだけ》っていうそういうそのようなもの、ってメルポンはして見てるんだと思う。

    ネットで調べたら、「信念」の対義語は「疑念」ってあった。

    で、わたしのばあい、〈端的に知覚-されてるもの〉自身にはそのような“念”っていうのは存在しなくて、単なる「物理的“像”」、ってして見てる。

    こう見たとき、〈端的な知覚〉には「あざむかれてる(だまされてる)」っていうことさえ言えないのかも?って。

    こんなふうに見なくて、素直に、「想像する力」は「知覚」をあざむいてる(だましてる)、ってして、お片付けして置いてもいいんだけどね。

    でも、もし、あざむかれてるのが「知覚」じゃないとすると、「想像する力」は、何をあざむいて(だまして)、何があざむかれ(だまされ)て、いるのかしら?別の意識が?
    っていう問い、わたしのなかに置いとくことにしてる。

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