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■36622 / inTopicNo.37)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ pipit -(2024/02/23(Fri) 22:11:36)
    悪魔ちゃんこんばんは(^○^)

    No36621

    > 「哲学的認識」「先天的認識」「可能性と根拠についての問う認識」「超越論的な認識」「一般に対象を認識」「一切の認識」
    >
    > そもそも、カントの場合、カントが言うその「認識」っていうの、どういうのかしら?
    >
    > って。<

    改めて中山元先生訳の第一巻の最初の方を見たんだけど、そんなに定義してるようにも私は読めなかったんだよね(><)当たり前の語句として使用してる印象...

    【諸表象様式の段階】という記述で、表象の側面から定義してる箇所はB376.377にあるので、引用しますね。

    ----------------------------
    カント純粋理性批判B376.377

    『以下は、諸表象様式の段階である。
    類は表象一般(repraesentatio)である。
    表象の下に、意識を伴った表象(perceptio)が属している。
    知覚は、主観の状態の変様としてもっぱら主観に関する場合、感覚(sensatio)であり、客観的知覚は、認識(cognitio)である。
    認識は、直観か概念のいずれか(intuitus vel conceptus)である。
    直観は直接に対象に関係し、個別的であるが、概念は、いくつかの事物に共通でありうる徴表を介して、間接的に対象に関係する。
    概念は、経験的概念か純粋概念のいずれかである。
    そして純粋概念は、それがもっぱら悟性のうちにその源泉を有するかぎり(感性の形象のうちにではなく)、悟性概念[Notio]と呼ばれる。
    悟性概念から生じ、経験の可能性を超える概念が、理念もしくは理性概念である。』

    『純粋理性批判 上』カント、宇都宮芳明監訳、以文社、p403、鈴木恒夫先生訳
    ----------------------------

    ↑上記を読むに、、、
    意識を伴った表象を『知覚』として、
    『知覚』を主観的と客観的に分けて、客観的知覚を《認識》としてるね。
    それでその客観的知覚は[直観]と[概念]に分けられる、と。

    別の箇所では、認識には直観と概念の両方が必要、と言ってるんだよね。どちらが欠けても認識にならない、直観と概念は全ての認識を構成する要素だと。(B74)

    でも「認識の方法」への認識、って、直観の要素って微妙じゃない??
    だから超越論的って言うのかなぁ...

    直観も概念も、意識を伴った表象という括りで、知覚と表現されてるよね。
    客観的な知覚を認識と言ってるのかな、と思ったよ。
    ということは、個人的な苦しいとかは感覚であり認識ではないということなのかなぁ、、、
    目の前にケーキが見えてたら、その知覚は客観的認識なのかなぁ、、、
引用返信/返信 削除キー/
■36621 / inTopicNo.38)  Re[13]: 沼日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/23(Fri) 20:55:08)
    pipitさま、お邪魔しま〜す。
    始まりに関することみたいなので。

    No36613
    わたしの関心があるところで、超越論的じゃなくてごめんだけど、

    >wikiさん<ので、わたし、「認識」っていうところだけ見て見たのね。
    「哲学的認識」「先天的認識」「可能性と根拠についての問う認識」「超越論的な認識」「一般に対象を認識」「一切の認識」

    そもそも、カントの場合、カントが言うその「認識」っていうの、どういうのかしら?

    って。


引用返信/返信 削除キー/
■36614 / inTopicNo.39)  Re[12]: 沼日記
□投稿者/ pipit -(2024/02/23(Fri) 07:40:29)
    みなさまおはようございます(^○^)

    No36612
    > (pipit日訳)
    >
    > しかし超越論的哲学は以下のような特殊性がある。
    > 悟性の純粋な概念の中で与えられる規則を示すこと、あるいはむしろ・・・規則のための普遍的な条件を示すこと、
    > 同時に、アプリオリにそれが適用されるべき場合を示すことができること、である。<

    朝起きて、、、
    あー、仏教の縁起だぁ、と思いました。

    これがあるとき、かれがある。
    これが生じるとき、かれも生じる。

    wiki『此縁性(しえんしょう』より抜粋引用↓

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A4%E7%B8%81%E6%80%A7

    『此縁性(しえんしょう、巴: idappaccayata, イダッパッチャヤター、梵: idampratyayata,イダムプラティヤヤター)とは、釈迦が説いたとされる仏教の縁起説の1つであり、その性質を指す。』

    『此縁性の出典としてよく持ち出されるのが、パーリ仏典経蔵小部『自説経』(ウダーナ)の冒頭[1]等に表れる、以下の表現である。
    此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。
    このように、「此」に縁って「彼」が規定され、有無生滅する関係を表しているので、これを此縁性[2]と呼ぶ。』
    抜粋引用終了。

    カントの場合はアプリオリを問題とするので、
    pipitの私見では、

    【こういう条件で、知性がこういう概念を即して作ります。】

    という意味での縁起を思い起こしました。

    世界をこのように理解する、という思考的理解能力のアプリオリ性をカントの記述から感じています。

    ・・・・・・・・・・・・

    純粋知性(悟性)概念は、経験なしに知性を源泉とする概念だとすると、
    感性能力のうちで与えられる現象を、純粋知性概念に包摂させる条件や規則を、今から論理学としての『原則論』で述べていくのかなと想像しました。
    (the rule, or rather the general condition for rules, which is given in the pure conception of the understanding)


引用返信/返信 削除キー/
■36613 / inTopicNo.40)  沼日記
□投稿者/ pipit -(2024/02/22(Thu) 22:30:39)
    超越論的、、、カントの定義はなんだっけなぁ

    wikiさんでは、、

    あら、出てきたのは『超越論哲学』やね、
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E8%AB%96%E5%93%B2%E5%AD%A6

    『カントによれば、哲学とは「全ての哲学的認識のシステム」であり、超越論的とは、先天的とは異なり「如何にして我々は先天的認識が可能であるのかその可能性と根拠についての問う認識」のことであり、超越論哲学はまさにこうした根拠を問う哲学であると言っている。

    ちなみに、「Transzendence=超越」から派生した形容詞は、「Transzendental=超越論的」と「Transzendent=超越的」の二種類があり、混同しやすいが、意味合いは似て非なるものである。

    超越論的な認識とは、われわれが一般に対象を認識する仕方に関する一切の認識を意味し、超越的原則とは、制限を踏み越えることを命じるような原則を意味する。

    尚、同じ語源tresから派生し、ラテン語のtrans(越える)とpasser(通りすぎる)に分解できる英語にtrespass(侵犯する)がある。』

    『(略)こうした状況を目の当たりにしたカントは、「理性自体の吟味・批判」を通じて、「人間の適正な理性的認識は、どこまで可能なのか」「人間の理性は、経験を超えた(先験的な)「超越的」真実在(すなわち物自体)と、どのように関わるべきなのか、関わり得るのか」についての、境界策定・基準設定(メタ規定)を行うことで、「超越的」なものに対する考察・関与(すなわち形而上学)の余地を、適正な形で復興しようと試みた。これがカントの「批判哲学」であり、「超越論哲学」(先験哲学)である。

    したがって、ここでいう「超越論的」(独:Transzendental、英:transcendental)哲学という表現は、

    「経験を超えた(先験的な)「超越的」真実在(すなわち物自体)- にまつわる適正な理性関与 (- の境界策定・基準設定(メタ規定)) - についての、事前的な/先行的な/自覚的な」
    哲学ということであり、「超越(についての)≪前提≫論的」「超越(についての)≪メタ≫論的」等とも言い換えることができる。』

    『類似的用法
    編集
    なお、こうした「XX的」と「XX論的」という語彙の使い分けは、例えば、マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』等における、

    「存在的」(独:Ontisch、英:ontic) - 「存在論的」(独:Ontologische、英:ontological)
    「実存的」(独:Existenziell、英:existent) - 「実存論的」(独:Existenzial、英:existential)
    のように、カントの後にも受け継がれた。』

    ほー

    、、、今日眠くて、いつもにもまして考えられないなぁ、、、

    >アプリオリにそれが適用されるべき場合< って、、あ、そうかぁ、?

    アプリオリな概念で、その概念に客観妥当性があるとカント的には『超越論的演繹』で証明?できたとしてるので、次に、どのように適用されるかを示すのかな?こういう場合にこの概念が適用される、と、これからの『原則論』で示していくのかな?

    普遍的な条件、、、(感覚的に与えられた対象物が)特定の条件に当てはまるときに特定の概念が使用される、その条件についての記述、かなぁ

    なかなか図式論本論まで辿り着けないなぁ(T ^ T)

    (( _ _ ))..zzzZZ
引用返信/返信 削除キー/
■36612 / inTopicNo.41)  純粋理性批判B 174
□投稿者/ pipit -(2024/02/22(Thu) 22:10:27)
    みなさまこんばんは(^ ^)続きです。B174

    But transcendental philosophy has this peculiarity, that besides indicating the rule, or rather the general condition for rules, which is given in the pure conception of the understanding, it can, at the same time, indicate a priori the case to which the rule must be applied.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#linknote-26

    (pipit日訳)

    しかし超越論的哲学は以下のような特殊性がある。
    悟性の純粋な概念の中で与えられる規則を示すこと、あるいはむしろ・・・規則のための普遍的な条件を示すこと、
    同時に、アプリオリにそれが適用されるべき場合を示すことができること、である。
引用返信/返信 削除キー/
■36601 / inTopicNo.42)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/21(Wed) 15:03:27)
    うましかさん、こんにちはー(^○^)

    No36600

    > 今夜も何を言ってるのか分からないカントの夜。。。(´;ω;`)ウゥゥ<

    カント先輩のお◯◯ー (*_*)


    > ◇ しかし、人間の認識という極めて混み入った織物を作り上げている多種多様な諸概念の内には、純粋な使用にすらア・プリオリに(全ての経験に完全に依存せずに)規定されているいくつかの概念があり、これらの諸概念の権限はいつでも演繹を必要とする。
    >
    > ◇ というのは、そうした使用の適法性〔合法性〕のためには経験に基づく証明では十分ではないにも関わらず、いかにしてそれらの諸概念は、それらが決していかなる経験からも取ってくるのではない客観と連関し得るのかを、人は知らなければならないからである。<

    認識を一枚の織物に喩えてるの、おもしろいなーと思いました。
    アプリオリの糸、アポステオリの糸...

    アプリオリに規定されている概念 と 客観の連関 かぁ...


    > ◇ だから私は、ア・プリオリな諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、<

    両者が連関し得る仕方を示す説明 を 超越論的演繹 と名付けて、

    >それを経験的演繹≠ゥら区別するが、経験的演繹は、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである、だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。<


    経験から作られた概念 と 客観の連関は(経験的演繹)、
    その概念が経験と経験についての反省からどのように作られたのかを説明する


    【経験的演繹】問い:どのように作成された概念か?

    説明:
    『犬』 ←← U・x・U
    『猫』 ←← (=^ェ^=)

    経験的演繹により、各概念の個別の包摂の条件が明確になる。概念の客観的実在性は、概念の発生源が実在から、という点で無問題?

    【超越論的演繹】問い:アプリオリな概念と客観の連関は可能か?

    説明:
    『一つ』 ←連関可能→ 客観としての一つの内容?

    (・・?)

    そもそも『一』や、『原因と結果』などの概念をアプリオリな概念とするのがカントの思考が超変態的なとこだと思います....
    (ーー;)おもしろいけど...

    カント的には今回の超越論的演繹の前、形而上学的演繹で、アプリオリな概念の存在を確定付けてるんですよね、多分....?

    いろいろ勘違いしてたらすみません!
    少し解説本見てみます。

    カント文、おつかれさまです(^ ^)♪

    --------------
    山口修二先生の『カント超越論的論理学の研究』p104-105がおもしろいなと思いました。

    (山口修二先生の解説)※解説の中でのカントの引用文部分にはpipitが★【  】★を挿入させていただきます。

    『 このように、カテゴリーの客観的妥当性の問題は、対象一般についてのアプリオリ=普遍的な思考の権利を示すことにある。
    しかるに、この普遍的思考が空虚であるということは、経験的な思考も含めた一切の思考が空虚であることを意味する。
    「形而上学的演繹」で示されたように、カテゴリーは、経験的思考からの抽象によってではなく、思考一般を可能にする諸機能(判断機能)から導出された。
    したがって、もしカテゴリーが空虚であるなら、我々がなしうるかぎりのすべての思考が空虚なものと見なされざるをえない。
    カテゴリーの権利問題が、対象のアプリオリ=普遍的な思考に向けられているかぎり、その問題の及ぶ範囲は、対象の思考の一部分に限定されたものではありえないのである。
    それは、一般に思考が対象に関係しているという事実それ自体を「単なる妄想」と見なすことに導く。
    何故に何かが思考されると言えるのか。
    むしろ何も思考され得ないのではないのか。
    こうしてカテゴリーの客観的妥当性に対する懐疑は、一般にすべての思考において実は何も思考されていないのではないかと問うことに帰結する。ヒュームの懐疑の「一般化」から導かれるこの帰結をカントは「普遍的な懐疑論(allgemeiner Skeptizismus)」と名付けている。

    ★【「こうしてヒュームの原則的な経験論は、数学に関してすらも、したがって理性のあらゆる学的な理論的使用において、また不可避的に懐疑論へと導くのである・・・・・・。通常の理性使用が、(認識の指導者たちを襲うこの恐るべき崩壊にもかかわらず)うまく切り抜けるか、それともむしろ回復不可能なまでに一切の知の破壊に巻き込まれてしまうか、すなわち同じ原則から普遍的な懐疑論が帰結せざるを得ないか(もちろんこれは学者たちをしか襲わないであろうが)については、私は各自に判断を任せようと思う」(W,S.52)】★

    カテゴリーを「単なる妄想」と見なすことは、★【「対象について判断する能力、つまり対象および対象に属するものを認識する能力を理性に対して拒む」(W,S.12)】★ことに帰着する。
    カテゴリーの客観的妥当性に対する「疑念」とは、対象を認識するという我々の理性能力そのものに対する懐疑なのである。
     以上において、カテゴリーの普遍性がカテゴリーの「客観的妥当性と制限」についての二重の「疑念」を生む理由とその疑念の内容が明らかとなった。カントは、「超越論的演繹」の課題がこの二つの疑念に対して向けられていることを明確に述べている。

    ★【「これから我々が行おうとしているのは、人間の理性をしてこの二つの岩礁の間をうまく通過させることができるかどうかの試みである、すなわち、理性に対して一定の限界を示すことができるかどうか、そしてそれにもかかわらず、理性にはそれに適合した活動の全領域が開かれていることを確保することができるかどうかを試みることである。」(B128,】★』
    引用終了


引用返信/返信 削除キー/
■36600 / inTopicNo.43)  超越論的分析論\−3
□投稿者/ うましか -(2024/02/20(Tue) 22:39:53)
    2024/02/20(Tue) 22:42:22 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    今夜も何を言ってるのか分からないカントの夜。。。(´;ω;`)ウゥゥ

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ 法律学者たちは、彼らが権限と越権について論ずるときには、一つの訴訟案件について、何が権利であるかという問い(quid juris 権利問題)を、事実に関する問い(quid facti事実問題)から区別し、両者〔権利問題と事実問題〕からの証明を要求する。彼らは、第一の証明〔権利問題〕、つまり権限、或いは権利の要求を立証すべき証明に演繹〔Deduktion〕≠ニ名づけたのである。
    私たちは、多くの経験的概念を誰にも反論されることなく使用している。だから演繹無しで、それらの諸概念に意味と想定された意義とを与えることを当然のこととしている。というのも、私たちはいつでも経験を手元に持っていて、その〔諸概念の〕客観的実在性を証明できるからである。
    ところが、例えば幸福≠ニか運命≠ニいった権限のあいまいな諸概念もあり、それらの諸概念はほとんど一般的には大目に見られて使い回されているはいるが、にもかかわらず、時には権利問題によって答弁を求められることがある。その場合、人はそれらの諸概念を演繹するとただちに少なからざる困惑に陥るのである。
    というのも、私たちは、それらの諸概念を使用する権限が明らかとなるようないかなる明白な法的な根拠をも、経験からも理性からも挙げることができないからである。

    ―― No.36429,36501 の続き ---

    ◇ しかし、人間の認識という極めて混み入った織物を作り上げている多種多様な諸概念の内には、純粋な使用にすらア・プリオリに(全ての経験に完全に依存せずに)規定されているいくつかの概念があり、これらの諸概念の権限はいつでも演繹を必要とする。

    ◇ というのは、そうした使用の適法性〔合法性〕のためには経験に基づく証明では十分ではないにも関わらず、いかにしてそれらの諸概念は、それらが決していかなる経験からも取ってくるのではない客観と連関し得るのかを、人は知らなければならないからである。

    ◇ だから私は、ア・プリオリな諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別するが、経験的演繹は、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである、だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。


    † 原佑訳上巻、p.236参照。 原典はMeiner, p.165
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.93、石川文康 訳 上巻,p.146、熊野純彦 訳,p.131〜p.132、有福孝岳 訳(カント全集4 上),p.166、宇都宮芳明 監訳 上,p.154、M.Weigelt 訳, p.113
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600

引用返信/返信 削除キー/
■36568 / inTopicNo.44)  純粋理性批判B 174英訳
□投稿者/ pipit -(2024/02/17(Sat) 23:25:10)
    But, as a critique,
    in order to guard against the mistakes of the faculty of judgement (lapsus judicii) in the employment of the few pure conceptions of the understanding which we possess,
    although its use is in this case purely negative, philosophy is called upon to apply all its acuteness and penetration.
引用返信/返信 削除キー/
■36567 / inTopicNo.45)  Re[15]: 純粋理性批判B 174
□投稿者/ pipit -(2024/02/17(Sat) 23:24:19)
    2024/02/18(Sun) 05:47:12 編集(投稿者)

    みなさまこんばんはー。続きです♪

    (英訳略)

    しかし、私たちが所持する数少ない純粋な悟性概念の使用における判断力の誤りを防ぐために---その効用はこの場合純粋に消極的なものだとしても---、批判としての哲学はその鋭敏さと洞察力のすべてを用いることが求められる。

引用返信/返信 削除キー/
■36549 / inTopicNo.46)  Re[14]: 純粋理性批判B 174
□投稿者/ pipit -(2024/02/15(Thu) 19:17:47)
    文意をわかりやすくするため、前に訳したものもくっつけて投稿します。

    (英訳のpipit意訳日訳)

    超越論的論理学の特別な任務は、純粋悟性を働かせるための判断力を、明確な規則により確保して指示することのようにみえる。
    というのも、特定の思想体系---つまり、純粋でアプリオリな認識に関して悟性の領域を拡大しようとする試み---としての哲学は役に立たないにもほどがあるからだ。
    これまで試みられてきたすべての試みは、ほとんど、あるいはまったく成果を上げてこなかったからだ。

    (pipit雑感)

    今までの形而上学では結果を出せてない、とカントは思っている。
    形而上学の可能性を探るカントとしては、準備学として、
    形而上学という場でどこまでも飛んで行こうとする理性を適切な範囲に抑制し、悟性が適正に働ける条件を示す超越論的論理学の構築を目指すのかな??と思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■36548 / inTopicNo.47)  Re[13]: 純粋理性批判B 174
□投稿者/ pipit -(2024/02/15(Thu) 19:00:55)
    みなさまこんばんは。続きです。

    For, as a doctrine, that is, as an endeavour to enlarge the sphere of the understanding in regard to pure a priori cognitions, philosophy is worse than useless, since from all the attempts hitherto made, little or no ground has been gained.
引用返信/返信 削除キー/
■36542 / inTopicNo.48)  純粋理性批判B 174
□投稿者/ pipit -(2024/02/14(Wed) 20:51:47)
    みなさまこんばんは(^ ^)
    続き読みます。

    But although general logic cannot give directions to the faculty of judgement, the case is very different as regards transcendental logic, insomuch that it appears to be the especial duty of the latter to secure and direct, by means of determinate rules, the faculty of judgement in the employment of the pure understanding.

    (英訳のpipit意訳・日訳)
    しかし、一般論理学は判断能力に指示を与えることはできないが、超越論的論理学に関してはまったく異なる。
    超越論的論理学の特別な任務は、純粋悟性を働かせるための判断力を、明確な規則により確保して指示することのようにみえる。

    (pipit雑感)
    認識の内容を無視する一般論理学には、個別の事例の上位概念への?包摂に関する判断力への指示は含み得ないが、カントが構想する超越論的論理学では事情は異なり、判断力への指示を論理学の中で提示できる、ということかな。
    (ーー;)...
    カント先輩の◯◯....
引用返信/返信 削除キー/

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