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■16112 / inTopicNo.85)  Re[13]: 演繹論 第一六項
  
□投稿者/ pipit -(2021/09/08(Wed) 10:45:43)
    2021/09/08(Wed) 18:16:09 編集(投稿者)

    みなさま、おはようございます。
    次男は元気で、「副作用としては全然大丈夫なかんじやったね」とさっき本人が言ってました。2回目もいろいろあるかなあσ(^_^;)
    カントの読解チャレンジ続けます!

    第一六項 自己統合の意識[=統覚]の根源的で総合的な統一について
    中山先生独自番号144から(第ニ巻p116-)

    B132あたり

    何かが心に浮かんで意識したのなら、その対象は、「わたしは考える」と伴うことが可能な像だということ。

    思考に先立って与えられるのは直観。
    ゆえに、
    直観に含まれる多様なものが「わたしは考える」ということと必然的に結びついている。

    ふーむ、
    直観のときは思考なしだから、「わたしは考える」も無いということだよね。
    直観に含まれる多様なものが、「わたしは考える」という一つのものに関連づけされる、秩序づけされる、感じかな。
    思考の自発性だね。

    あ、ここらへん、まーえにおくたがわさんとお話ししてもらったことがあるなぁ。
    「根源的な自己統合」の過去スレ検索ででてきたのは
    No.2389
    過去スレなので、飛べないかもですm(_ _)m
    その他にもいろいろお話ししていただいた記憶があります。
    (ありがとうございます(^人^)) 

    ※※※※※※※※

    さまざまな感性的情報を、思考において、「わたしは考える」という表象を一つの頂点として秩序づける。
    このとき、自己意識は、一つのものとして維持される。
    単一存在への志向意識だけではなく、さまざまな存在像の総合を意識するときに、その関係性の中から、はじめて主体としての同一性が生まれる、、、
    関係の中から、主体の同一性が初めて生まれる、ということかな。
    しかも、総合、は、自発性だしね。

    カントの文章を引用します。
    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p119
    引用開始
    『だからわたしが、直観において与えられたこれらのすべての像がわたしに属するものであると考えるということは、わたしが一つの自己意識のうちに、これらの像を統一するということであり、少なくともこれらの像を自己意識のうちに統一できるということである。

    だからこのように考えるということは、まださまざまな像の総合は意識していないとしても、そのような総合が可能であることを前提としていることになる。

    わたしがさまざまな像に含まれる多様なものを一つの[自己]意識において把握できるときにこそ、わたしはそれらのすべてをわたしの像と呼ぶのである。

    それでなければわたしは、自分が意識する像の数と同じだけの多様な異なる自己をもっていることになってしまうだろう。

      だから直観において与えられた多様なものが総合的に統一されるのはアプリオリに可能であり、これが自己統合の意識そのものの同一性の根拠となる。

    この自己統合の意識は、わたしのしかじかの思考いっさいにアプリオリに先立つのである。

    ところでこの[像における多様なものの]結合は、対象のうちに存在しているものではないし、知覚を通じて対象からいわば借りてくることで初めて知性のうちに取り込むことができるようなものでもない。
    これは知性が作りだしたものである。

    知性そのものは、アプリオリに結合する能力であり、与えられた多様な像を、自己統合の意識の統一のもとにもたらす能力であるにすぎない。

    自己統合の意識のもとに統一されるというこの原則こそが、人間のすべての認識の最高の原則にほかならない。』
    引用終了。

    うーん、難しいしややこしいな。

    次は第一七項から。
    中山先生独自番号では147から。
    B137あたり。


引用返信/返信 削除キー/
■16097 / inTopicNo.86)  Re[12]: 演繹論
□投稿者/ pipit -(2021/09/07(Tue) 07:25:18)
    No.16086
    >なんとなくだけど、この起源を、『わたしは考える』という自己意識につなげていく雰囲気を感じてます。。。<

    あ、何も本を読んでなく、思考に差し込まれただけなんですけど、

    起源は自己意識ではなく、想像力(構想力)につなげるのかな???と
    さっき、思いました。
    何が正解?かわからないけど、また先を読んでみます。

    今日は仕事行ってきまーす。
    次男は36度5分、平熱、元気です(^_^)とりあえずは一安心かな(*^▽^*)

引用返信/返信 削除キー/
■16086 / inTopicNo.87)  演繹論
□投稿者/ pipit -(2021/09/06(Mon) 16:42:32)
    読んでみるかー
    ページ挟んでるところから。

    挟んでたページは、
    超越論的な分析論 の
    概念の分析論 の
    第二章 純粋知性概念の根拠づけ[=演繹] の
    第二節 純粋知性概念の超越論的な根拠づけ の
    第一五項 結合一般の可能性について
    (中山先生本第二巻p112から。中山先生独自番号142。B130あたり)

    pipitの感想。
    今見てるものから概念を引いたもの、が、感覚的な直観とカントは考えてるとしたら、
    その直観に、多様なものの結合は存在しない、と、言ってるのかな、と。

    多様なものが、直観に与えられて、それらを結合するのは、知性だと。
    そして、結合する働きに総合という名称を与える。

    総合があるから、分析も生まれる。
    レゴで言えば、結合させてないとき、分解もあり得ない、だね。

    でもね、と、カント。
    結合という概念には、多様なものという概念と、多様なものの総合という概念の他にも、こうした多様なものの統一という概念も含まれてる。
    結合とは、多様なものが総合的に統一された像。

    うーん、違うかもだけど、
    個別の存在としての統一のための結合、かなぁ。
    例えば、わたしたちは、何かを個別に存在するものとして分別する。
    とりあえずそう思って読み進めます。

    カントの文章
    『むしろ結合の概念が可能となるためには、まず〈統一されたもの〉という像が、多様なものの像に加わる必要がある。』
    中山先生独自番号143、B131あたりより引用

    指向性?

    レゴのブロックで統一という概念のもと結合させていくんだね。そして対象が出来上がる。

    この統一性は、カテゴリーの単一性の働きによるものではないだろう、と。
    判断においては、もう所与の概念の統一が思考されてる、と。
    この統一の起源を探す必要がある、と。
    その起源が、判断においてさまざまな概念の統一の土台となる。

    、、、うぅ、ここで、あの難所につながっていくのか( ; ; )

    なんとなくだけど、この起源を、『わたしは考える』という自己意識につなげていく雰囲気を感じてます。。。


    沼すぎ箇所かも。。。

    次は、第一六項 自己統合の意識[=統覚]の根源的で総合的な統一について
    です。( ; ; )
    中山先生独自番号144、B132あたりから。
引用返信/返信 削除キー/
■16080 / inTopicNo.88)  うましかさんへ 
□投稿者/ pipit -(2021/09/06(Mon) 10:06:20)
    No.16076
    おはようございます(o^^o)
    第一版序論完読、すばらしい!
    カントの文章を読み進める困難(いろんな意味含み)を経験してる方は、
    ぶらぼー☆*:.
    と思われるんじゃないかな、もちろんpipitも敬服します!
    おつかれさまです(*^▽^*)

    次男のこと、気にかけてくださってありがとうございます(^人^)
    読後笑顔になってもらって嬉しいです
    イクラめちゃめちゃ美味しかったです!(●´ω`●)
    次男は今のところ大丈夫そうでホッとしてます。

    > ◇それはすなわち、おそらく共通の、しかし私たちには未知の根から生じているところの人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考されるということである。

    ◇ところで、感性もア・プリオリな諸表象を含んでいるはずであり、そうしたア・プリオリな諸表象が、私たちにそのもとで対象が与えられる諸条件をなす限り、感性は超越論的哲学に属するであろう。

    ◇超越論的感性論は原理論の第一部門に属さなければならないだろうが、それは、人間の認識の対象がそのもとでのみ与えられる諸条件は、その同じ対象がそのもとで思考される諸条件に先行するからである。<

    感性論への導入箇所ですね!
    多くのカント読者がワクワクする箇所かも(変人の集まり)

    何はともあれ、第一版序論、完了おめでとう&おつかれさまです!
    ・:*+.((o(^∇^)o)).:+


引用返信/返信 削除キー/
■16076 / inTopicNo.89)  カント沼番外地:第一版序論 Z−3
□投稿者/ うましか -(2021/09/05(Sun) 21:37:52)
    2021/09/05(Sun) 21:39:31 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんばんはー。

    今回で「カント沼番外地:第一版序論」は終了です。

    しかしそんなことより、pipitさん次男さんのコロナワクチン接種の様子を読んだうましかはヒヤリ(;´・ω・)

    でも読後は笑顔でした!
    イクラドーン(゚д゚)!

    2回目も無事終わりますように!m(__)m

    *******

    ◇ところで、人がこの学の区分を体系一般という一般的な観点からこころみようとするならば、私たちが今論述している区分は、第一には純粋理性の原理論、第二には純粋理性の方法論を含まねばならない。これらの主要部分のそれぞれはその小区分をもつであろうが、それにもかかわらず、そうした小区分の根拠はここではまだ論述され得ない。

    ◇ただ、次のことだけは序論あるいは前書きには必要であると思われる。

    ◇それはすなわち、おそらく共通の、しかし私たちには未知の根から生じているところの人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考されるということである。

    ◇ところで、感性もア・プリオリな諸表象を含んでいるはずであり、そうしたア・プリオリな諸表象が、私たちにそのもとで対象が与えられる諸条件をなす限り、感性は超越論的哲学に属するであろう。

    ◇超越論的感性論は原理論の第一部門に属さなければならないだろうが、それは、人間の認識の対象がそのもとでのみ与えられる諸条件は、その同じ対象がそのもとで思考される諸条件に先行するからである。

    --- 第一版序論 終わり ---

    T 超越論的原理論 第一部門 超越論的感性論 へと続きます。


    →原佑訳上巻、p.138〜p.140参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。


    *******

    Z−1 No.16049, Z−2 No.16064, Z−3 No.16076
    Y−1 No.15783, Y−2 No.15914, Y−3 No.16013
    V−7 No.15588, V−8 No.15701
    V−4 No.15366, V−5 No.15456, V−6 No.15460
    V−1 No.15143, V−2 No.15340, V−3 No.15341
    W−1 No.14848, W−2 No.14849
    V−7 No.14620, V−8 No.14662
    V−4 No.14271, V−5 No.14415, V−6 No.14455,
    V−1 No.13815, V−2 No.14009, V−3 No.14097,
    U−1 No.13643 
    T−1 No.13389, T−2 No.13436, T−3 No.13576
引用返信/返信 削除キー/
■16066 / inTopicNo.90)  Re[8]: カント沼番外地:第一版序論 Z−2
□投稿者/ pipit -(2021/09/05(Sun) 13:43:50)
    うましかさん、こんにちは!
    読解おつかれさまです(^ ^)

    うましかさんがまとめられてる箇所あたり、カントの学の理念とか思い出すんですよねー。
    中山先生の最終巻に出てくるみたいなんですけど。

    なかなか辿り着けないなぁσ(^_^;)

    うましかさんの次のお勉強なにを選択されるのかなぁ
    また気が向いたら教えてもらえたら嬉しいな(*^▽^*)♪

    もっちろん、カント以外も覚悟してますよー :(;゙゚'ω゚'):
引用返信/返信 削除キー/
■16064 / inTopicNo.91)  カント沼番外地:第一版序論 Z−2
□投稿者/ うましか -(2021/09/05(Sun) 12:37:50)
    2021/09/05(Sun) 12:57:24 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんにちはー。
    おじゃまします。

    pipitさんへ。

    No.16049 のタイトルを「Y−4」から「Z−1」に変更しております。 No.16053 で返信いただいていたのにすみませんm(__)m

    *******

    ◇したがって純粋理性の批判には、超越論的哲学を形成するすべてのものが属しており、だからこの批判は超越論的哲学の完璧な理念であるが、しかしまだこの学それ自身ではない。というのは、この批判はア・プリオリな綜合的認識の完璧な判定にとって必要とされるかぎりにおいてのみ、分析をおこなうからである。


    ◇そうした学を区分する際に最も重要な着眼点は、なんらかの何か経験的なもの〔etwas Empirisches〕をそれ自身のうちに含んでいるいかなる概念も、全然入りこんではならないということ、或いはア・プリオリな認識は完全に純粋であるということである。

    ◇だから、たとえ道徳性〔Moralitaet〕の最高原則〔Grundsaetze〕、および道徳性の根本概念〔Grundbegriffe〕がア・プリオリな概念だとしても、それでもそれらは超越論的哲学に属するべきではない。というのは、快と不快、欲望や傾向性、選択意志〔Willkuer〕などのことごとく経験的起源〔empirischen Ursprunges〕をもつ諸概念が、その際前提とされざるを得ないはずだからである。

    ◇だから、超越論的哲学は単に思弁的な純粋理性の哲学的な理論〔Weltweisheit *1〕である。なぜなら全ての実践的なもの〔alles Praktische〕は、それが動因〔Bewegungsgruende〕を含んでいる限り、経験的な認識源泉〔empirischen Erkenntnisquellen〕に属する感情に基づいているからである。

    *1 "Weltweisheit"については、原佑訳上巻は「哲学」と訳していたが、中山元訳1p.243で「哲学的な理論」と訳していたので採用。手持ちの独和辞典では「哲理」「哲学」とある。ちなみに高峯訳,p.60は「世界知」と訳している。

    →原佑訳上巻、p.138〜p.140参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。*1〜は私による覚書。



    さて、いよいよ第一版序論も最後に近づいてきました。

    長かったなあ(´;ω;`)ウゥゥ

    さて、今後どうするか…


    *******

    Z−1 No.16049
    Y−1 No.15783, Y−2 No.15914, Y−3 No.16013
    V−7 No.15588, V−8 No.15701
    V−4 No.15366, V−5 No.15456, V−6 No.15460
    V−1 No.15143, V−2 No.15340, V−3 No.15341
    W−1 No.14848, W−2 No.14849
    V−7 No.14620, V−8 No.14662
    V−4 No.14271, V−5 No.14415, V−6 No.14455,
    V−1 No.13815, V−2 No.14009, V−3 No.14097,
    U−1 No.13643 
    T−1 No.13389, T−2 No.13436, T−3 No.13576

引用返信/返信 削除キー/
■16054 / inTopicNo.92)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/09/04(Sat) 22:11:04)
    No16051に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま、お邪魔しま〜す。<

    こんばんは、いつでもどうぞ (*^▽^*)


    > カントの「超越的」と「超越論的」、中島義道ちゃんの意味から見て、わたし簡単に見て、
    > 超越的=神的
    > 超越論的=人間のうちの神のような
    > ってしちゃってる。
    >
    > No16008
    > >認識する仕組みにより生じた結果の認識 しか 認識 できない のに 認識の仕組み を 認識しようとするのは、ある意味、超越 であって、だから超越論的なのかなぁ、と、思った。<(a)
    > なんかこれって、なんかわたしのと近しいかも?<

    そうだね、近いと言えるかも、と、わたしも思うよ。
    ただ、私の知る限り、カントがなぜ「超越論的」という言葉を選択したのかを自分で説明してる箇所は読んだことないんだよね。
    「超越論的」が【どういう意味か】は、説明してるんだけどね。
    【なぜ】は、カント自身が説明してるところを私はみてなくて、読者がいろいろ想像してるかんじに思ってるよ。


    > 「するもの」と「されたもの」の関係において、「されたもの」が「するもの」の仕業を捉えようとすること、
    > 神が人間を創った、としたとき、「するものである神」を「創られたものである人間」が「するものである神」の仕業を捉えようとすること、
    > これって、人間のうちの神のような(超越論的な)ことね。
    >
    > あ、これってあくくまでも”カントの”に関してのわたしのよ。
    > わたし「神」を前提にしてないから。わたしのと異なるよ。<

    うん。


    > 「理性」を神が人間に与えしもの、って見るとき、でもこれってあくまでも「するもの(主)」である「神」によって「されたもの」である限り、あくまでも人間のうちの神のような(超越論的)にすぎなく(人間の認識の限界)、っていうふうにもわたしには見えてる。(わたしのばあい「認識」=〈真正な判断〉で、これは「理性」による判断によるもの、ってしてる。とくにカントのについてわたしが語るときにはね)<

    人間には理性判断しかできなくて、それは物自体をみてるわけではない、とカントは考えてる、と、悪魔ちゃんは思ってる、ってことかな?(違うならごめん!)
    もしそうなら、わたしも、「純粋理性批判」での主張はそうなるのかなと思ってるよ。

    その観点からずれると思うけど、今思い浮かぶことを書くね。
    カントは、なんで「理性」がこういう仕組みになってるのかはわからないけど、こうなってることは自分の中にあることだからわかる、みたいなことを書いてたように記憶してるよ(記憶違いしてたらごめんね)
    少なくとも「純粋理性批判」内では、神様を認識の根拠にすることを考えてないと思ってる。


    > 前に書いたと思うけど、中ちゃんの、
    > 〔…人間の認識の限界を設定することができるためには、われわれはその外側に位置する「超越的なもの」にーー認識できなくとも――何らかの仕方で関与できねばならない。カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥る…〕(仮象=誤った現れ=錯覚ね)
    > を想い出してる。
    >
    > なんか長くなっちゃったみたい。
    > (a)について”わたしが思ったこと”があったので書いて見たよ。<

    ありがとうね。
    悪魔ちゃんの視点は、とてもおもしろいよ。

    この前も、電子レンジがわたしに姿を示している、という意識が、悪魔ちゃんという存在を通して、わたしに現前してたよ、おもしろい。

    悪魔ちゃんが示してくれないと、わたしには考えつかなかった認識だと思う。
    ありがとう !
引用返信/返信 削除キー/
■16053 / inTopicNo.93)  Re[7]: カント沼番外地:第一版序論 Y−4
□投稿者/ pipit -(2021/09/04(Sat) 21:39:34)
    うましかさん、こんばんは
    読解おつかれさまです(^_^)

    わたしも読解がんばりたいです !
引用返信/返信 削除キー/
■16051 / inTopicNo.94)  Re[7]: 序論日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/09/04(Sat) 19:26:35)
    pipitさま、お邪魔しま〜す。

    カントの「超越的」と「超越論的」、中島義道ちゃんの意味から見て、わたし簡単に見て、
    超越的=神的
    超越論的=人間のうちの神のような
    ってしちゃってる。

    No16008
    >認識する仕組みにより生じた結果の認識 しか 認識 できない のに 認識の仕組み を 認識しようとするのは、ある意味、超越 であって、だから超越論的なのかなぁ、と、思った。<(a)
    なんかこれって、なんかわたしのと近しいかも?

    「するもの」と「されたもの」の関係において、「されたもの」が「するもの」の仕業を捉えようとすること、
    神が人間を創った、としたとき、「するものである神」を「創られたものである人間」が「するものである神」の仕業を捉えようとすること、
    これって、人間のうちの神のような(超越論的な)ことね。

    あ、これってあくくまでも”カントの”に関してのわたしのよ。
    わたし「神」を前提にしてないから。わたしのと異なるよ。

    「理性」を神が人間に与えしもの、って見るとき、でもこれってあくまでも「するもの(主)」である「神」によって「されたもの」である限り、あくまでも人間のうちの神のような(超越論的)にすぎなく(人間の認識の限界)、っていうふうにもわたしには見えてる。(わたしのばあい「認識」=〈真正な判断〉で、これは「理性」による判断によるもの、ってしてる。とくにカントのについてわたしが語るときにはね)

    前に書いたと思うけど、中ちゃんの、
    〔…人間の認識の限界を設定することができるためには、われわれはその外側に位置する「超越的なもの」にーー認識できなくとも――何らかの仕方で関与できねばならない。カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥る…〕(仮象=誤った現れ=錯覚ね)
    を想い出してる。

    なんか長くなっちゃったみたい。
    (a)について”わたしが思ったこと”があったので書いて見たよ。






引用返信/返信 削除キー/
■16049 / inTopicNo.95)  カント沼番外地:第一版序論 Z−1
□投稿者/ うましか -(2021/09/04(Sat) 17:33:27)
    2021/09/05(Sun) 08:22:53 編集(投稿者)

    続きです(・ω・)ノ

    *******

    U 超越論的哲学の区分

    ◇超越論的哲学はここではたんに一つの理念であるが、そのために、純粋理性の批判は、その全計画を建築術的に、言いかえると諸原理に基づいて、この建物を形成するあらゆる部分の完璧性と安全性を完全に保証しつつ立案すべきである。

    ◇この批判が必ずしもそれ自体、超越論的哲学と呼ばれないのは、もっぱらそれが一つの完璧な体系となるにはア・プリオリな人間的認識全体の手落ちの無い分析をも含まなければならないはずだということに基づく。

    ◇ところで、なるほど私たちの批判も前述の純粋認識を形成する全ての基本概念を完璧に枚挙することを念頭にしておかねばならないのは言うまでもないことではある。

    ◇しかし、これらの基本概念自体の手落ちの無い分析や、同じくまたそれらからの派生概念の完璧な論評は、私たちの批判は当然差し控えるが、それは、
    一つにはこうした分析が目的に相応しないからであり、つまり分析は本来この全批判がそのために現に存在している綜合に際して見いだされるそうした疑惑をもっていないからであり、
    一つにはそうした分析や導出を完璧にに成し遂げる責任に関わりあうのは、この計画の統一性にもとるのであって、人はおのれの意図に関してそうしたことを為さずに済まし得たからである。

    ◇分析のこうした完璧性、ならびに後で与えられるはずのア・プリオリな諸概念からの導出のこうした完璧性は、それにもかかわらず、それらのア・プリオリな諸概念がまずもって綜合の手落ちの無い原理として現に存在し、それらにとってこの本質的意図に関して何一つ欠けていなくさえすれば、容易に補うことができるものである。

    →原佑訳上巻、p.136〜p.138参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。


    *******

    Y−1 No.15783, Y−2 No.15914, Y−3 No.16013
    V−7 No.15588, V−8 No.15701
    V−4 No.15366, V−5 No.15456, V−6 No.15460
    V−1 No.15143, V−2 No.15340, V−3 No.15341
    W−1 No.14848, W−2 No.14849
    V−7 No.14620, V−8 No.14662
    V−4 No.14271, V−5 No.14415, V−6 No.14455,
    V−1 No.13815, V−2 No.14009, V−3 No.14097,
    U−1 No.13643 
    T−1 No.13389, T−2 No.13436, T−3 No.13576
引用返信/返信 削除キー/
■16013 / inTopicNo.96)  カント沼番外地:第一版序論 Y−3
□投稿者/ うましか -(2021/09/04(Sat) 09:01:33)
    2021/09/04(Sat) 15:04:07 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、おはようございます。
    おじゃまします。

    *******

    ◇私は、対象にではなく、むしろ対象一般についての私たちのア・プリオリな諸概念にたずさわる全ての認識を、超越論的〔transzendental〕と呼ぶ。そうした諸概念の体系は超越論的哲学〔Transzendental-Philosophie〕と呼ばれるであろう。

    ◇しかし超越論的哲学と呼ぶのは、これまた最初のうちは過大である。なぜならそうした学は分析的認識ならびにア・プリオリな綜合的認識を完璧に含んでいなければならないはずであるから、私たちの意図に関するかぎりにおいて、その範囲が広がりすぎるからであるが、それは私たちが分析をおこなってさしつかえないのは、それのみが私たちにとっての問題に他ならないア・プリオリな綜合の諸原理を、その全範囲にわたって洞察するために、分析が不可欠的に必要であるかぎりにおいてのみであるからである。

    --- No.15914 からの続き ---

    ◇この研究は、それが意図するのが認識の拡張ではなく認識の是正であるに過ぎず、また全てのア・プリオリな認識の価値ないしは無価値の試金石をあたえるべきである。それゆえ私たちは、〔この研究を、〕もともと理説〔Doktrin〕とは名づけることができず、超越論的批判〔transzendentale Kritik〕としか名づけることができないのであるが、私たちがいまたずさわろうとしてしているのは、そうした研究に他ならない。

    ◇したがって、そうした批判は、可能ならば純粋理性の機関〔Organon〕に対する一つの準備であり、この機関が成功しないならば、少なくとも純粋理性の規準〔Kanon〕に対する一つの準備であって、この規準にしたがって、おそらくいつかは純粋理性の哲学の完璧な体系が、純粋理性の認識の拡張を本質とするにせよ、いずれにしても分析的ならびに綜合的に叙述されうるかもしれない。

    ◇なぜなら、この体系が、その全体を完成しようと望んだところで、まさか大きな範囲となる気遣いはないということは、次のことからすでに、あらかじめ見極められるからである。それは、この場合に対象とされるのが無尽蔵な諸物の本性〔Natur der Dinge〕ではなくて、そうした諸物の本性に関して判断する悟性であり、しかもこれまたはおのれのア・プリオリな認識に関してのみ対象となる悟性であって、そうした悟性の貯えは私たちのそれを決して外部に求める必要がないので、私たちに隠されたままであることはできず、それ故どのように推測してみても完璧に取り集められ、その価値〔Werte〕ないしは無価値〔Umwerte〕にしたがって判定され、正しい評価のもとにもたらされうるに十分なほど少ないものであるということに他ならない。


    →原佑訳上巻、p.132〜p.135参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。


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