■13576 / ) |
カント沼番外地:第一版序論 3
|
□投稿者/ うましか -(2021/06/04(Fri) 23:34:50)
| ◇ 経験〔Erfahrung〕は、私たちの悟性〔Verstand〕が、感性的感覚〔sinnlicher Empfindungen〕の生まの素材を加工することによって産み出す最初の産物である。
◇ それにもかかわらず、経験は、私たちの悟性がそこに制限される唯一の分野ではとうていありえない。
◇ 経験は、現に存在するものの何であるかを私たちに告げるが、そのものが必然的に存在せざるをえず、そうであって別様であってはならないことを告げはしない。
◇まさにこのゆえに、経験は真の普遍性〔Allgemeinheit〕を私たちに与えない。
◇だから、この種の認識〔Erkenntnissen〕をはげしく求める理性〔Vernunft〕は、経験によって満足させられるよりも、むしろ刺激されるのだ。
◇そうした普遍的認識〔allgemeine Erkenntnisse〕は、経験に依存せず、それ自身だけで明瞭で確実でなけれぱらない。
◇そうした認識は、ア・プリオリな認識と名づけられる。
◇というのも、経験〔Erfahrung〕から借り受けてきているものは、一般に言われるように、ア・ポステリオリにのみ、あるいは経験的にのみ認識される〔emprisch erkennt wird〕からである
→原佑訳上巻、p.77〜p.79参照。文中の〔ドイツ語〕は私による挿入。
|
|