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カント沼番外地:第一版序論 U−1
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□投稿者/ うましか -(2021/06/06(Sun) 12:53:42)
| pipitさん、こんにちは〜 おじゃまします。
これまでの第一版序論についてのまとめを便宜上Tとします。これまでの番号は、T−1、−2、−3とします。
※TとかUに、いまのところ意味はありません。読んでいて、なんとな〜く気分転換したくなっただけなので追及しないでね!
No.13576 T−3 No.13436 T−2 No.13389 T−1
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◇ 私たちの経験〔Erfahrung〕のうちへすら〔dass selbest unter unsere Erfahrungen *1〕、おのれのア・プリオリな起源〔Ursprung a priori〕をもっているにちがいなく、またおそらく、〔経験に?〕私たちの感官の諸表象を脈絡づけるためだけに役立つ認識が混入していることは、明らかである。
*1 「(私たちの経験の)うちへすら」という原佑訳の表現が原文と照らしても現時点で私には文意がよくわからない〜。同じ箇所の中山元訳では「わたしたちの経験そのもののうちにも」(中山元訳1、p.223)とあり、個人的には中山元訳のほうが分かりやすい。
◇ なぜなら、私たちの経験から、感官に所属するすべてのものを除くとしても、にもかかわらず、或る種の根源的な諸概念と、それらの諸概念から生じた諸判断が残り〔*2〕、これらのものは全面的にア・プリオリに、経験〔Erfahrung〕に依存せずに成立したにちがいないからである。
*2 経験 = 感官に所属するすべてのもの+諸概念、そこから生じた諸判断 (;´・ω・)?
◇ というのは、そうした概念や判断によって、人は、感官にあらわれる諸対象について、たんに経験が教えるであろうこと以上のことを語ることができ、そうできると信ずるからであり、そのときの主張には、たんなる経験的な認識〔empirische Erkenntnis〕が提供することができないような、そのような真の普遍性〔Allgemeinheit〕と厳密な必然性〔Notwendigkeit〕を含むからである。
→原佑訳上巻、p.79〜p.80参照。文中〔〕内は私による挿入。*数字は私による覚書。
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