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No16013 の記事


■16013 / )  カント沼番外地:第一版序論 Y−3
□投稿者/ うましか -(2021/09/04(Sat) 09:01:33)
    2021/09/04(Sat) 15:04:07 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、おはようございます。
    おじゃまします。

    *******

    ◇私は、対象にではなく、むしろ対象一般についての私たちのア・プリオリな諸概念にたずさわる全ての認識を、超越論的〔transzendental〕と呼ぶ。そうした諸概念の体系は超越論的哲学〔Transzendental-Philosophie〕と呼ばれるであろう。

    ◇しかし超越論的哲学と呼ぶのは、これまた最初のうちは過大である。なぜならそうした学は分析的認識ならびにア・プリオリな綜合的認識を完璧に含んでいなければならないはずであるから、私たちの意図に関するかぎりにおいて、その範囲が広がりすぎるからであるが、それは私たちが分析をおこなってさしつかえないのは、それのみが私たちにとっての問題に他ならないア・プリオリな綜合の諸原理を、その全範囲にわたって洞察するために、分析が不可欠的に必要であるかぎりにおいてのみであるからである。

    --- No.15914 からの続き ---

    ◇この研究は、それが意図するのが認識の拡張ではなく認識の是正であるに過ぎず、また全てのア・プリオリな認識の価値ないしは無価値の試金石をあたえるべきである。それゆえ私たちは、〔この研究を、〕もともと理説〔Doktrin〕とは名づけることができず、超越論的批判〔transzendentale Kritik〕としか名づけることができないのであるが、私たちがいまたずさわろうとしてしているのは、そうした研究に他ならない。

    ◇したがって、そうした批判は、可能ならば純粋理性の機関〔Organon〕に対する一つの準備であり、この機関が成功しないならば、少なくとも純粋理性の規準〔Kanon〕に対する一つの準備であって、この規準にしたがって、おそらくいつかは純粋理性の哲学の完璧な体系が、純粋理性の認識の拡張を本質とするにせよ、いずれにしても分析的ならびに綜合的に叙述されうるかもしれない。

    ◇なぜなら、この体系が、その全体を完成しようと望んだところで、まさか大きな範囲となる気遣いはないということは、次のことからすでに、あらかじめ見極められるからである。それは、この場合に対象とされるのが無尽蔵な諸物の本性〔Natur der Dinge〕ではなくて、そうした諸物の本性に関して判断する悟性であり、しかもこれまたはおのれのア・プリオリな認識に関してのみ対象となる悟性であって、そうした悟性の貯えは私たちのそれを決して外部に求める必要がないので、私たちに隠されたままであることはできず、それ故どのように推測してみても完璧に取り集められ、その価値〔Werte〕ないしは無価値〔Umwerte〕にしたがって判定され、正しい評価のもとにもたらされうるに十分なほど少ないものであるということに他ならない。


    →原佑訳上巻、p.132〜p.135参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。


    *******

    Y−1 No.15783, Y−2 No.15914
    V−7 No.15588, V−8 No.15701
    V−4 No.15366, V−5 No.15456, V−6 No.15460
    V−1 No.15143, V−2 No.15340, V−3 No.15341
    W−1 No.14848, W−2 No.14849
    V−7 No.14620, V−8 No.14662
    V−4 No.14271, V−5 No.14415, V−6 No.14455,
    V−1 No.13815, V−2 No.14009, V−3 No.14097,
    U−1 No.13643 
    T−1 No.13389, T−2 No.13436, T−3 No.13576
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