(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■15814 / inTopicNo.1)  純粋理性批判を読んでみる。26
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/08/25(Wed) 22:09:57)
    トピ主:pipitさん



    引き続きよろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■15826 / inTopicNo.2)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/08/26(Thu) 16:30:16)
    つくっていただき、ありがとうございます!(*^▽^*)

    よろしくお願いします m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■15978 / inTopicNo.3)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/09/02(Thu) 00:04:30)
    もうこんな時間
    読み返しができなかった(><)

    明日がんばろー
    って、あ、今0:00......

    今日がんばれたらがんばろー p(^_^)q

    元・宿Dさんもどなた様も、カント以外のお好きな話題でも、気が向いたら書き込んでくださいねー
    おつかれさまです♪
    おやすみなさい☆彡

    https://youtu.be/ZBkBELKlYUw
    Guianoさん
    ♪地球は青い(feat.初音ミク)
引用返信/返信 削除キー/
■16007 / inTopicNo.4)  序論日記
□投稿者/ pipit -(2021/09/04(Sat) 00:25:09)
    初版と第二版で微妙に違うところもありそうですが、
    まずは、初版を読んで考えてみます。

    ※※※※※※※※

    理性を〈考える能力性〉ととらえるとすると、
    純粋・理性・批判、は、経験が混ざらない領域で・人間が考える能力を・批判(吟味)する。

    この批判行為の道具にするべく、ある学の理念が生み出される。
    その理念とは、《対象一般についての人間のアプリオリな諸概念を認識しようとする認識》という学問。

    対象一般とは、イチゴ、や、犬、月、などの個別物ではなく、認識対象一般のこと、とすると、
    【[人間が、認識対象一般に対して、経験より前に関係を結ぶ諸概念]を認識しようとする】内容の学問。
    それが、【超越論的】学問。

    間違ってるかもしれませんが、とりあえずこのように初版序論の一部を読んで考えました。

引用返信/返信 削除キー/
■16008 / inTopicNo.5)  Re[4]: 序論日記
□投稿者/ pipit -(2021/09/04(Sat) 00:55:18)
    認識する仕組みにより生じた結果の認識 しか 認識 できない のに
    認識の仕組み を 認識しようとするのは、
    ある意味、超越 であって、
    だから超越論的なのかなぁ、と、思った。

    どっかでカントは、理性による理性批判はめちゃ困難なこと、みたいに書いてなかったかなあ
    また見つけたいと思った。

    外は、雨が降ってます
引用返信/返信 削除キー/
■16013 / inTopicNo.6)  カント沼番外地:第一版序論 Y−3
□投稿者/ うましか -(2021/09/04(Sat) 09:01:33)
    2021/09/04(Sat) 15:04:07 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、おはようございます。
    おじゃまします。

    *******

    ◇私は、対象にではなく、むしろ対象一般についての私たちのア・プリオリな諸概念にたずさわる全ての認識を、超越論的〔transzendental〕と呼ぶ。そうした諸概念の体系は超越論的哲学〔Transzendental-Philosophie〕と呼ばれるであろう。

    ◇しかし超越論的哲学と呼ぶのは、これまた最初のうちは過大である。なぜならそうした学は分析的認識ならびにア・プリオリな綜合的認識を完璧に含んでいなければならないはずであるから、私たちの意図に関するかぎりにおいて、その範囲が広がりすぎるからであるが、それは私たちが分析をおこなってさしつかえないのは、それのみが私たちにとっての問題に他ならないア・プリオリな綜合の諸原理を、その全範囲にわたって洞察するために、分析が不可欠的に必要であるかぎりにおいてのみであるからである。

    --- No.15914 からの続き ---

    ◇この研究は、それが意図するのが認識の拡張ではなく認識の是正であるに過ぎず、また全てのア・プリオリな認識の価値ないしは無価値の試金石をあたえるべきである。それゆえ私たちは、〔この研究を、〕もともと理説〔Doktrin〕とは名づけることができず、超越論的批判〔transzendentale Kritik〕としか名づけることができないのであるが、私たちがいまたずさわろうとしてしているのは、そうした研究に他ならない。

    ◇したがって、そうした批判は、可能ならば純粋理性の機関〔Organon〕に対する一つの準備であり、この機関が成功しないならば、少なくとも純粋理性の規準〔Kanon〕に対する一つの準備であって、この規準にしたがって、おそらくいつかは純粋理性の哲学の完璧な体系が、純粋理性の認識の拡張を本質とするにせよ、いずれにしても分析的ならびに綜合的に叙述されうるかもしれない。

    ◇なぜなら、この体系が、その全体を完成しようと望んだところで、まさか大きな範囲となる気遣いはないということは、次のことからすでに、あらかじめ見極められるからである。それは、この場合に対象とされるのが無尽蔵な諸物の本性〔Natur der Dinge〕ではなくて、そうした諸物の本性に関して判断する悟性であり、しかもこれまたはおのれのア・プリオリな認識に関してのみ対象となる悟性であって、そうした悟性の貯えは私たちのそれを決して外部に求める必要がないので、私たちに隠されたままであることはできず、それ故どのように推測してみても完璧に取り集められ、その価値〔Werte〕ないしは無価値〔Umwerte〕にしたがって判定され、正しい評価のもとにもたらされうるに十分なほど少ないものであるということに他ならない。


    →原佑訳上巻、p.132〜p.135参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。


    *******

    Y−1 No.15783, Y−2 No.15914
    V−7 No.15588, V−8 No.15701
    V−4 No.15366, V−5 No.15456, V−6 No.15460
    V−1 No.15143, V−2 No.15340, V−3 No.15341
    W−1 No.14848, W−2 No.14849
    V−7 No.14620, V−8 No.14662
    V−4 No.14271, V−5 No.14415, V−6 No.14455,
    V−1 No.13815, V−2 No.14009, V−3 No.14097,
    U−1 No.13643 
    T−1 No.13389, T−2 No.13436, T−3 No.13576
引用返信/返信 削除キー/
■16049 / inTopicNo.7)  カント沼番外地:第一版序論 Z−1
□投稿者/ うましか -(2021/09/04(Sat) 17:33:27)
    2021/09/05(Sun) 08:22:53 編集(投稿者)

    続きです(・ω・)ノ

    *******

    U 超越論的哲学の区分

    ◇超越論的哲学はここではたんに一つの理念であるが、そのために、純粋理性の批判は、その全計画を建築術的に、言いかえると諸原理に基づいて、この建物を形成するあらゆる部分の完璧性と安全性を完全に保証しつつ立案すべきである。

    ◇この批判が必ずしもそれ自体、超越論的哲学と呼ばれないのは、もっぱらそれが一つの完璧な体系となるにはア・プリオリな人間的認識全体の手落ちの無い分析をも含まなければならないはずだということに基づく。

    ◇ところで、なるほど私たちの批判も前述の純粋認識を形成する全ての基本概念を完璧に枚挙することを念頭にしておかねばならないのは言うまでもないことではある。

    ◇しかし、これらの基本概念自体の手落ちの無い分析や、同じくまたそれらからの派生概念の完璧な論評は、私たちの批判は当然差し控えるが、それは、
    一つにはこうした分析が目的に相応しないからであり、つまり分析は本来この全批判がそのために現に存在している綜合に際して見いだされるそうした疑惑をもっていないからであり、
    一つにはそうした分析や導出を完璧にに成し遂げる責任に関わりあうのは、この計画の統一性にもとるのであって、人はおのれの意図に関してそうしたことを為さずに済まし得たからである。

    ◇分析のこうした完璧性、ならびに後で与えられるはずのア・プリオリな諸概念からの導出のこうした完璧性は、それにもかかわらず、それらのア・プリオリな諸概念がまずもって綜合の手落ちの無い原理として現に存在し、それらにとってこの本質的意図に関して何一つ欠けていなくさえすれば、容易に補うことができるものである。

    →原佑訳上巻、p.136〜p.138参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。


    *******

    Y−1 No.15783, Y−2 No.15914, Y−3 No.16013
    V−7 No.15588, V−8 No.15701
    V−4 No.15366, V−5 No.15456, V−6 No.15460
    V−1 No.15143, V−2 No.15340, V−3 No.15341
    W−1 No.14848, W−2 No.14849
    V−7 No.14620, V−8 No.14662
    V−4 No.14271, V−5 No.14415, V−6 No.14455,
    V−1 No.13815, V−2 No.14009, V−3 No.14097,
    U−1 No.13643 
    T−1 No.13389, T−2 No.13436, T−3 No.13576
引用返信/返信 削除キー/
■16051 / inTopicNo.8)  Re[7]: 序論日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/09/04(Sat) 19:26:35)
    pipitさま、お邪魔しま〜す。

    カントの「超越的」と「超越論的」、中島義道ちゃんの意味から見て、わたし簡単に見て、
    超越的=神的
    超越論的=人間のうちの神のような
    ってしちゃってる。

    No16008
    >認識する仕組みにより生じた結果の認識 しか 認識 できない のに 認識の仕組み を 認識しようとするのは、ある意味、超越 であって、だから超越論的なのかなぁ、と、思った。<(a)
    なんかこれって、なんかわたしのと近しいかも?

    「するもの」と「されたもの」の関係において、「されたもの」が「するもの」の仕業を捉えようとすること、
    神が人間を創った、としたとき、「するものである神」を「創られたものである人間」が「するものである神」の仕業を捉えようとすること、
    これって、人間のうちの神のような(超越論的な)ことね。

    あ、これってあくくまでも”カントの”に関してのわたしのよ。
    わたし「神」を前提にしてないから。わたしのと異なるよ。

    「理性」を神が人間に与えしもの、って見るとき、でもこれってあくまでも「するもの(主)」である「神」によって「されたもの」である限り、あくまでも人間のうちの神のような(超越論的)にすぎなく(人間の認識の限界)、っていうふうにもわたしには見えてる。(わたしのばあい「認識」=〈真正な判断〉で、これは「理性」による判断によるもの、ってしてる。とくにカントのについてわたしが語るときにはね)

    前に書いたと思うけど、中ちゃんの、
    〔…人間の認識の限界を設定することができるためには、われわれはその外側に位置する「超越的なもの」にーー認識できなくとも――何らかの仕方で関与できねばならない。カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥る…〕(仮象=誤った現れ=錯覚ね)
    を想い出してる。

    なんか長くなっちゃったみたい。
    (a)について”わたしが思ったこと”があったので書いて見たよ。






引用返信/返信 削除キー/
■16053 / inTopicNo.9)  Re[7]: カント沼番外地:第一版序論 Y−4
□投稿者/ pipit -(2021/09/04(Sat) 21:39:34)
    うましかさん、こんばんは
    読解おつかれさまです(^_^)

    わたしも読解がんばりたいです !
引用返信/返信 削除キー/
■16054 / inTopicNo.10)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/09/04(Sat) 22:11:04)
    No16051に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま、お邪魔しま〜す。<

    こんばんは、いつでもどうぞ (*^▽^*)


    > カントの「超越的」と「超越論的」、中島義道ちゃんの意味から見て、わたし簡単に見て、
    > 超越的=神的
    > 超越論的=人間のうちの神のような
    > ってしちゃってる。
    >
    > No16008
    > >認識する仕組みにより生じた結果の認識 しか 認識 できない のに 認識の仕組み を 認識しようとするのは、ある意味、超越 であって、だから超越論的なのかなぁ、と、思った。<(a)
    > なんかこれって、なんかわたしのと近しいかも?<

    そうだね、近いと言えるかも、と、わたしも思うよ。
    ただ、私の知る限り、カントがなぜ「超越論的」という言葉を選択したのかを自分で説明してる箇所は読んだことないんだよね。
    「超越論的」が【どういう意味か】は、説明してるんだけどね。
    【なぜ】は、カント自身が説明してるところを私はみてなくて、読者がいろいろ想像してるかんじに思ってるよ。


    > 「するもの」と「されたもの」の関係において、「されたもの」が「するもの」の仕業を捉えようとすること、
    > 神が人間を創った、としたとき、「するものである神」を「創られたものである人間」が「するものである神」の仕業を捉えようとすること、
    > これって、人間のうちの神のような(超越論的な)ことね。
    >
    > あ、これってあくくまでも”カントの”に関してのわたしのよ。
    > わたし「神」を前提にしてないから。わたしのと異なるよ。<

    うん。


    > 「理性」を神が人間に与えしもの、って見るとき、でもこれってあくまでも「するもの(主)」である「神」によって「されたもの」である限り、あくまでも人間のうちの神のような(超越論的)にすぎなく(人間の認識の限界)、っていうふうにもわたしには見えてる。(わたしのばあい「認識」=〈真正な判断〉で、これは「理性」による判断によるもの、ってしてる。とくにカントのについてわたしが語るときにはね)<

    人間には理性判断しかできなくて、それは物自体をみてるわけではない、とカントは考えてる、と、悪魔ちゃんは思ってる、ってことかな?(違うならごめん!)
    もしそうなら、わたしも、「純粋理性批判」での主張はそうなるのかなと思ってるよ。

    その観点からずれると思うけど、今思い浮かぶことを書くね。
    カントは、なんで「理性」がこういう仕組みになってるのかはわからないけど、こうなってることは自分の中にあることだからわかる、みたいなことを書いてたように記憶してるよ(記憶違いしてたらごめんね)
    少なくとも「純粋理性批判」内では、神様を認識の根拠にすることを考えてないと思ってる。


    > 前に書いたと思うけど、中ちゃんの、
    > 〔…人間の認識の限界を設定することができるためには、われわれはその外側に位置する「超越的なもの」にーー認識できなくとも――何らかの仕方で関与できねばならない。カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥る…〕(仮象=誤った現れ=錯覚ね)
    > を想い出してる。
    >
    > なんか長くなっちゃったみたい。
    > (a)について”わたしが思ったこと”があったので書いて見たよ。<

    ありがとうね。
    悪魔ちゃんの視点は、とてもおもしろいよ。

    この前も、電子レンジがわたしに姿を示している、という意識が、悪魔ちゃんという存在を通して、わたしに現前してたよ、おもしろい。

    悪魔ちゃんが示してくれないと、わたしには考えつかなかった認識だと思う。
    ありがとう !
引用返信/返信 削除キー/
■16064 / inTopicNo.11)  カント沼番外地:第一版序論 Z−2
□投稿者/ うましか -(2021/09/05(Sun) 12:37:50)
    2021/09/05(Sun) 12:57:24 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんにちはー。
    おじゃまします。

    pipitさんへ。

    No.16049 のタイトルを「Y−4」から「Z−1」に変更しております。 No.16053 で返信いただいていたのにすみませんm(__)m

    *******

    ◇したがって純粋理性の批判には、超越論的哲学を形成するすべてのものが属しており、だからこの批判は超越論的哲学の完璧な理念であるが、しかしまだこの学それ自身ではない。というのは、この批判はア・プリオリな綜合的認識の完璧な判定にとって必要とされるかぎりにおいてのみ、分析をおこなうからである。


    ◇そうした学を区分する際に最も重要な着眼点は、なんらかの何か経験的なもの〔etwas Empirisches〕をそれ自身のうちに含んでいるいかなる概念も、全然入りこんではならないということ、或いはア・プリオリな認識は完全に純粋であるということである。

    ◇だから、たとえ道徳性〔Moralitaet〕の最高原則〔Grundsaetze〕、および道徳性の根本概念〔Grundbegriffe〕がア・プリオリな概念だとしても、それでもそれらは超越論的哲学に属するべきではない。というのは、快と不快、欲望や傾向性、選択意志〔Willkuer〕などのことごとく経験的起源〔empirischen Ursprunges〕をもつ諸概念が、その際前提とされざるを得ないはずだからである。

    ◇だから、超越論的哲学は単に思弁的な純粋理性の哲学的な理論〔Weltweisheit *1〕である。なぜなら全ての実践的なもの〔alles Praktische〕は、それが動因〔Bewegungsgruende〕を含んでいる限り、経験的な認識源泉〔empirischen Erkenntnisquellen〕に属する感情に基づいているからである。

    *1 "Weltweisheit"については、原佑訳上巻は「哲学」と訳していたが、中山元訳1p.243で「哲学的な理論」と訳していたので採用。手持ちの独和辞典では「哲理」「哲学」とある。ちなみに高峯訳,p.60は「世界知」と訳している。

    →原佑訳上巻、p.138〜p.140参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。*1〜は私による覚書。



    さて、いよいよ第一版序論も最後に近づいてきました。

    長かったなあ(´;ω;`)ウゥゥ

    さて、今後どうするか…


    *******

    Z−1 No.16049
    Y−1 No.15783, Y−2 No.15914, Y−3 No.16013
    V−7 No.15588, V−8 No.15701
    V−4 No.15366, V−5 No.15456, V−6 No.15460
    V−1 No.15143, V−2 No.15340, V−3 No.15341
    W−1 No.14848, W−2 No.14849
    V−7 No.14620, V−8 No.14662
    V−4 No.14271, V−5 No.14415, V−6 No.14455,
    V−1 No.13815, V−2 No.14009, V−3 No.14097,
    U−1 No.13643 
    T−1 No.13389, T−2 No.13436, T−3 No.13576

引用返信/返信 削除キー/
■16066 / inTopicNo.12)  Re[8]: カント沼番外地:第一版序論 Z−2
□投稿者/ pipit -(2021/09/05(Sun) 13:43:50)
    うましかさん、こんにちは!
    読解おつかれさまです(^ ^)

    うましかさんがまとめられてる箇所あたり、カントの学の理念とか思い出すんですよねー。
    中山先生の最終巻に出てくるみたいなんですけど。

    なかなか辿り着けないなぁσ(^_^;)

    うましかさんの次のお勉強なにを選択されるのかなぁ
    また気が向いたら教えてもらえたら嬉しいな(*^▽^*)♪

    もっちろん、カント以外も覚悟してますよー :(;゙゚'ω゚'):
引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>

[このトピックに返信]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -