■36507 / inTopicNo.78) |
Re[23]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/02/11(Sun) 11:01:21)
| No36016のメルポンのを見てく前に、
No36289の、 現象学では、〔想像を知覚と認識の中間に位置づけたりせず、知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象、つまり像あるいはイメージと見なした。〕 (qs) のところ、 わたし、〔認識〕を、〈考知性〉―認識(物事を正しく理解し判断すること)的に、概念的に、客観的に、述語的に、学的に捉える。―として、〔知覚〕を、〈端的な知覚〉として見てる。
現象学では、〔知覚と並び知覚にどこまでも近い〕ものとして想像、ってしてるところ、ここらへんがわたしに分かりにくくさせてる感があるのね。 No35921で、 メルポンの意識の分節、大きく、「知性的意識」と「知覚的意識」に分けてる、ってわたし見たんだけど、「想像」っていうのを「知覚的意識」のうちに含めているような感じ@。ってすると、「知覚」と「想像」の区別がわたしにはいまいち分からなくなるから、 No36162で、 〈端的な知覚〉っていうのを想定して、「想像」と区別して見て、〈知覚されているもの〉として、知覚、記憶、想像の協働、ってして見てるところ。
あと、知覚や想像の両方を「イメージ」(像)ともしてるようにも見える。で、わたしのうちで区別するために、 No36234 で見たようなのから、 「共現在化」を、〈単一の「もの(それ)」の全体的なイメージ(感じ)〉として、これを〈知覚されているもの〉って呼ぶことにして、このイメージには、〈知覚的イメージ〉、〈想像的イメージ〉、〈記憶的イメージ〉がある、って分けて見た。
あと、現象学では、「意識の志向性」っていうのがあって、 No36322のようなのも見とく必要もあるし。
で、 No36016のメルロの、(o),(p)に、『知覚されたもの』、『現実的なものの知覚』、『想像的なもの』っていう表現がある。 こういうのと、 これまでにわたしに見られたものを重ね合わせて見たのね。 『現実的なものの知覚』を〈端的な知覚〉、『知覚されたもの』を〈知覚-されたもの〉、として見る、こ〜んな感じで。
整えて見たのを添付しま〜す。 あ、これあくまでも@から、「知覚」っていう語を使った場合ね。
『知覚されたもの』〈知覚-されたもの〉(知覚の内容)を、「知覚像」とか「物理的像」としたり、〈想像-されたもの〉(想像の内容)を「想像・像」とか「ファンタスマ」とするのは違うかもだけど。
もうこうなってくると、わたしの想像の世界になっちゃう、かも、だから、自分勝手に喋りができそう。
No36016の(m)の、 『…想像する力は、あざむく力であると同時に、意識の自由の現れです。意識は、想像的なものによってわれわれを現実から解放してくれますが、それは諸事物の外で自らを非現実化する力なのです。』 みたいな?
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