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■36207 / inTopicNo.85)  Re[10]: 純粋理性批判B169英訳
  
□投稿者/ pipit -(2024/01/18(Thu) 23:01:21)
    As this merely formal logic makes abstraction of all content of cognition, whether pure or empirical, and occupies itself with the mere form of thought (discursive cognition), it must contain in its analytic a canon for reason.
    For the form of reason has its law, which, without taking into consideration the particular nature of the cognition about which it is employed, can be discovered a priori, by the simple analysis of the action of reason into its momenta.
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■36206 / inTopicNo.86)  Re[9]: 純粋理性批判B169
□投稿者/ pipit -(2024/01/18(Thu) 23:00:25)
    みなさまこんばんはー。
    No36184 の次の箇所....

    一般論理学について述べてるみたいで、ゆっくり考えながら読んでみたいけど、今日は寝ますー
    (*_*)

    まずは英訳と、その英訳のDeepL日訳を引用します。

    ※英訳略(後で投稿してみます)

    (DeepL日訳)
    この単に形式的な論理学は、純粋なものであれ経験的なものであれ、認識のすべての内容を抽象化し、単なる思考の形式(言説的認識)に専念するのであるから、その分析には理性の公準が含まれていなければならない。なぜなら、理性の形式にはその法則があり、それは、理性が用いられる認識の特殊な性質を考慮することなく、理性の作用をその運動量に単純に分析することによって、アプリオリに発見することができるからである。

    おやすみなさいー(_ _).。o○

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■36186 / inTopicNo.87)  Re[9]: 純粋理性批判B169
□投稿者/ pipit -(2024/01/18(Thu) 00:48:24)
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■36184 / inTopicNo.88)  純粋理性批判B169
□投稿者/ pipit -(2024/01/18(Thu) 00:30:16)
    2024/01/18(Thu) 00:30:49 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは。
    「純粋悟性概念の超越論的演繹」に続きまして、
    超越論的分析論第二篇「原則の分析論」(B169-)の英訳に目を通して行きたいと思います。
    J. M. D. Meiklejohnさんの英訳をpipitが意訳・日訳しています。

    BOOK II. Analytic of Principles

    第二篇.原則の分析

    General logic is constructed upon a plan which coincides exactly with the division of the higher faculties of cognition.

    一般論理学は、認識の高次の能力の区分に正確に一致する計画に基づいて構築されている。

    These are, understanding, judgement, and reason.

    高次の認識能力の区分とは、悟性/判断力/理性である。

    This science, accordingly, treats in its analytic of conceptions, judgements, and conclusions in exact correspondence with the functions and order of those mental powers which we include generally under the generic denomination of understanding.

    従ってこの学は、概念/判断/帰結(推論)の分析を扱う。
    知性(悟性)一般という総称の下に含まれる心の機能と秩序に正確に対応した分析として。


    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap53

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■36170 / inTopicNo.89)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/01/17(Wed) 12:57:18)
    年末年始終わってまあまあ一息.....

    カントの文章を読む気力がなかなか起きない.....

    近所の温泉に久しぶりに行こうかなと....

    光のあみあみ見られるかな...

    癒されて今日また読むぞー*(^o^)/*(仮)
引用返信/返信 削除キー/
■36134 / inTopicNo.90)  Re[6]: 超越論的分析論[−4
□投稿者/ pipit -(2024/01/12(Fri) 00:09:50)
    うましかさん、こんばんはー

    No36127
    > ◇ 最後に第三には、完全性≠ェある。
    >
    > ◇ この完全性は逆にこの数多性がひっくるめてその概念の単一性へと還元され、いかなる他の概念にでもなく、この概念に完全に一致するということにあるのであって、これは質的完璧性=i総体性)と名付けられ得る。<

    謎謎です....


    > ◇ このことから次のことが明らかとなる。すなわち、
    > 認識一般の可能性を示すこれらの論理的な諸標識〔基準〕は、
    > 量をうみだす時の単一性がそこでは一貫して同種的と想定されなければならない量の三つの〔一、真、善という〕カテゴリーを、
    > ここでは、意識の内での異種的≠ナすらある諸認識要素を結合しようとだけ意図しており、原理としての認識の質によって変容させるということである。
    >

    カントは文章書くの下手なんかなと思ってしまいます...

    この箇所(純理B113)についての記述が載っている論文を見つけました。
    P戸一夫さん
    『カントが区別する〈認識〉の文法的性について(1)』
    の第9節(ページ(115))に載っていました。
    やっぱりいつものようにいろんな解釈あるのかなと思わせる文章も載っていました。
    (ーー;)

    http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/932/1/hougaku-86_89-141.pdf


    別の論文も見つけました。

    江川隆男さんの
    『一義性の哲学としての『純粋理性批判』 : カントにおける「現象の一義性」について』

    p57に純理B113についての記述がありました。

    https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/records/1035

    この先もきっと沼ですね( ; ; )どうぞご無理なさらずに....

    カント先輩の◯◯ーーーー( ;∀;)
引用返信/返信 削除キー/
■36128 / inTopicNo.91)  Re[6]: 超越論的分析論[−4
□投稿者/ pipit -(2024/01/11(Thu) 00:52:07)
    2024/01/11(Thu) 06:46:05 編集(投稿者)

    うましかさん、こんばんは!

    宇宙語のようなカント文章を、きちんと日本語の形に整えるのすごいと思っています。
    おつかれさまですm(_ _)m

    No36127
    > カント沼、あいかわらず霧の中を彷徨わされている感覚なのですが、pipitさんに倣って例(「リンゴ」という概念)を通して考えたほうが分かりやすくなるのかな…(´;ω;`)ウッ…
    >
    > 的外れな悩みかもしれないけど、当時のスコラ哲学者の知的ベースを形成していただろう論理学の知識が私に無いので、カントが言っていることがほとんど分からないまま先に読み進めなければならないのは、正直とても苦痛...
    >
    > 苦痛なんですが…(*‘∀‘) <

    そうかぁ、と、カント事典の索引から「スコラ哲学」を辿って、「超越論的」のp336に関連記事があるのを見つけました。

    『存在者のあらゆる可能な区分を超えるこの「超越者」は、基本的には「有」「一」「真」「善」の四つとされ、』
    (久呉高之さん執筆)

    私は「りんご」という概念通して、カテゴリーが存在を作る過程を想像してしまったけど、カントの文章としては、スコラ哲学で論じられていた超越概念(神様、みたいな?)について記述してるところだったのかな、と、考え直しました。
    うましかさんのおかげです、ありがとうございますm(_ _)m

    うぅ眠くていよいよ頭回転しません...
    そう、なにもかもカント先輩のせいということにしまして、、、

    今日は失礼します!

    また後ほどご投稿の後半を楽しみに読ませていただきますねー(^ ^)感謝です!


引用返信/返信 削除キー/
■36127 / inTopicNo.92)  超越論的分析論[−4
□投稿者/ うましか -(2024/01/10(Wed) 23:33:59)
    2024/01/10(Wed) 23:35:12 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    No.36124 (pipitさん)

    カント沼、あいかわらず霧の中を彷徨わされている感覚なのですが、pipitさんに倣って例(「リンゴ」という概念)を通して考えたほうが分かりやすくなるのかな…(´;ω;`)ウッ…

    的外れな悩みかもしれないけど、当時のスコラ哲学者の知的ベースを形成していただろう論理学の知識が私に無いので、カントが言っていることがほとんど分からないまま先に読み進めなければならないのは、正直とても苦痛...

    苦痛なんですが…(*‘∀‘)

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十二項) 

    ◇ しかし、古人の超越論的哲学のうちには、純粋悟性概念を含んでいるもう一つの章が見出される。

    ◇ それらの純粋悟性概念はカテゴリーのうちには数え入れられないにも関わらず、彼らによれば、対象についてのア・プリオリな概念とみなされるべきであるが、しかし、その場合にはそのためにカテゴリーの数は増大してしまうことになり、これはあり得ないことである。

    ◇ このような諸概念を述べているのはスコラ哲学者のうちでは極めて有名な命題、即ち、「何であれ、存在するものは、一、真、善である」という命題である。

    ◇ ところで、この原理を使用したところで得られる結論(これは純然たる同語反復の命題しか与えなかった)が極めて乏しいものに終わったため、近代においてはほとんど単に、体面上、形而上学のうちで挙げられるのが常であるほどであるにせよ、このように長い期間保存されてきた思想は、どれほどそれが空虚なもの見えようとも、常にその起源を研究してみる価値はある。

    ◇ だから、この思想は何らかの悟性規則のうちにその根拠を持ってはいるが、しばしばあることだが、その根拠が、誤って解釈されたに過ぎないのではなかろうか、と推測されてよい。

    ◇ 超越論的な述語と思い誤られたところの、物≠フこれら〔一、真、善である等〕の諸述語は、諸物一般の全ての認識≠フ論理的要求と標識〔基準〕以外の何ものでもない。

    ◇ これらの諸述語は、量のカテゴリー、即ち、単一性=A数多性=A全体性≠フカテゴリーをそうした認識の根底に置くが、彼ら〔スコラ哲学者〕はただ、本来実質的に諸物自身の可能性に属するものと解されなければならなかった、これらの諸カテゴリーを、実際は形式的な意味においてのみ、あらゆる認識に関する論理的要求に属するものとして使用し、しかも思考のこれらの諸標識〔基準〕を、軽率にも、諸物自体そのものの固有性足らしめたのである。

    ◇ すなわち、客観〔客体〕のあらゆる認識の内には、概念の単一性≠ェある。

    ◇ この単一性は、それが認識の多様なものの総括の単一性とのみ考えられる限り、質的単一性≠ニ名付けられ得るが、これは例えば、演劇、演説、寓話における主題の単一性と同じものである。

    ◇ 第二には、帰結に関する真理性≠ェある。

    ◇ 或る与えられた概念から導き出される真なる帰結が多ければ多いほど、その概念の客観的な実在性の目印もますます多くなる。これは、共通的な根拠としての一つの概念に属するところの(その概念において量として考えられるのではないところの)、徴表の質的数多性≠ニ名付けられ得るかもしれない。

    --- No.36113,36085 からの続き ---

    ◇ 最後に第三には、完全性≠ェある。

    ◇ この完全性は逆にこの数多性がひっくるめてその概念の単一性へと還元され、いかなる他の概念にでもなく、この概念に完全に一致するということにあるのであって、これは質的完璧性=i総体性)と名付けられ得る。

    ◇ このことから次のことが明らかとなる。すなわち、
    認識一般の可能性を示すこれらの論理的な諸標識〔基準〕は、
    量をうみだす時の単一性がそこでは一貫して同種的と想定されなければならない量の三つの〔一、真、善という〕カテゴリーを、
    ここでは、意識の内での異種的≠ナすらある諸認識要素を結合しようとだけ意図しており、原理としての認識の質によって変容させるということである。


    † 原佑訳上巻、p.233〜p.234参照。
    † その他に、中山元訳2、p.88〜p.89、石川文康訳上巻、p.143、熊野純彦訳 p.130を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    [−4 No.36127
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,

引用返信/返信 削除キー/
■36124 / inTopicNo.93)  Re[5]: 超越論的分析論[−3
□投稿者/ pipit -(2024/01/10(Wed) 19:42:48)
    うましかさん、こんばんはー(^O^)

    No36113
    カント大沼おつかれさまです( ;∀;)

    > > ◇ すなわち、客観のあらゆる認識の内には概念の単一性≠ェある。この単一性は、それが認識の多様なものの総括の単一性とのみ考えられる限り、質的単一性≠ニ名付けられ得るが、これは例えば、演劇、演説、寓話における主題の単一性と同じものである。
    >
    > ◇ 第二に、帰結に関する真理性≠ェある。或る与えられた概念から導き出される真なる帰結が多ければ多いほど、その概念の客観的な実在性の目印もますます多くなる。これは、共通的な根拠としての一つの概念に属するところの(その概念において量として考えられるのではないところの)、徴表の質的数多性≠ニ名付けられ得るかもしれない。<

    勘違いしてるかもだけど、この辺の記述おもしろく感じます。

    > ◇ すなわち、客観のあらゆる認識の内には概念の単一性≠ェある。この単一性は、それが認識の多様なものの総括の単一性とのみ考えられる限り、質的単一性≠ニ名付けられ得るが、これは例えば、演劇、演説、寓話における主題の単一性と同じものである。<

    例えば「りんご」なら、りんごという対象としての単一性かなぁと、いまのところ思っています。
    個人的には、認識における「対象・物」とはいかなるものか、みたいな想像がかきたてられます。


    > ◇ 第二に、帰結に関する真理性≠ェある。或る与えられた概念から導き出される真なる帰結が多ければ多いほど、その概念の客観的な実在性の目印もますます多くなる。これは、共通的な根拠としての一つの概念に属するところの(その概念において量として考えられるのではないところの)、徴表の質的数多性≠ニ名付けられ得るかもしれない。<

    これなんか特にわからないのですが、その概念に数多の性質が紐付けられているということなのかなぁ、、、
    wikiで、りんごを見てみると、
    「リンゴ(林檎[5]、学名:Malus domestica, Malus pumila)は、バラ科リンゴ属の落葉高木、またはその果実のこと。植物学上ではセイヨウリンゴと呼ぶ。春、白または薄紅の花が咲く。人との関わりは古く、紀元前から栽培されていたと見られ、16世紀以降に欧米での生産が盛んになり、日本においても平安時代には書物に記述がみられる。現在世界中で生産される品種は数千以上といわれ、栄養価の高い果実は生食されるほか、加工してリンゴ酒、ジャム、ジュース、菓子の材料などに利用されている。西洋美術、特に絵画ではモチーフとして昔からよく扱われる。」
    とありました。
    一つの概念に、複数の概念が(性質として?)含まれている、、、

    全くはちゃめちゃに勘違いしてるかもしれませんが、とりあえず今はそのような感想を持ちました。

    私の誤解釈はさておき、
    うましかさん、大沼への取り組み、本当におつかれさまです!

引用返信/返信 削除キー/
■36113 / inTopicNo.94)  超越論的分析論[−3
□投稿者/ うましか -(2024/01/09(Tue) 22:29:07)
    2024/01/09(Tue) 22:29:51 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    とりあえず先へ…のカント沼

    (/・ω・)/沼

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十二項) 

    ◇ しかし、古人の超越論的哲学のうちには、純粋悟性概念を含んでいるもう一つの章が見出される。それらの純粋悟性概念はカテゴリーのうちには数え入れられないにも関わらず、彼らによれば、対象についてのア・プリオリな概念とみなされるべきであるが、しかしその場合にはそのためにカテゴリーの数は増大してしまうことになり、これはあり得ないことである。
    このような諸概念を述べているのはスコラ哲学者のうちでは極めて有名な命題、即ち、「何であれ、存在するものは、一、真、善である quodlibet ens est unum,verum,bonum」という命題である。
    ところで、たとえ、この原理を使用したところで得られる結論(これは純然たる同語反復の命題しか与えなかった)は極めて乏しいものに終わったので、近代においてはほとんど単に、体面上、形而上学のうちで挙げられるのが常であるほどであるにせよ、このように長い期間保存されてきた思想は、どれほどそれが空虚なもの見えようとも、常にその起源を研究してみる価値はある。だから、この思想は何らかの悟性規則のうちにその根拠を持ってはいるが、その根拠が、しばしばあることだが、誤って解釈されたに過ぎないのではなかろうか、と推測されてよい。
    超越論的な述語と思い誤られたところの、物≠フこれらの〔一、真、善である等の〕諸述語は、諸物一般の全ての認識≠フ論理的要求と標識〔基準〕以外の何ものでもなく、これらの諸述語は、量のカテゴリー、即ち、単一性=A数多性=A全体性≠フカテゴリーをそうした認識の根底に置くのであるが、ただ彼ら〔スコラ哲学者〕は、本来は実質的に諸物自身の可能性に属するものと解されなければならなかったこれらの諸カテゴリーを、実際は形式的な意味においてのみ、あらゆる認識に関する論理的欲求に属するものとして使用し、しかも思考のこれらの諸標識〔基準〕を軽率にも諸物自体そのものの固有性足らしめたのである。

    --- No.36085からの続き ---

    ◇ すなわち、客観のあらゆる認識の内には概念の単一性≠ェある。この単一性は、それが認識の多様なものの総括の単一性とのみ考えられる限り、質的単一性≠ニ名付けられ得るが、これは例えば、演劇、演説、寓話における主題の単一性と同じものである。

    ◇ 第二に、帰結に関する真理性≠ェある。或る与えられた概念から導き出される真なる帰結が多ければ多いほど、その概念の客観的な実在性の目印もますます多くなる。これは、共通的な根拠としての一つの概念に属するところの(その概念において量として考えられるのではないところの)、徴表の質的数多性≠ニ名付けられ得るかもしれない。


    † 原佑訳上巻、p.233参照。
    † その他に、中山元訳2、p.88、石川文康訳上巻、p.143を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,33016,
    No.33658,33668,33776,33825,33829,34795,34874,34919,
    No.35259,35606,36085,36113


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■36111 / inTopicNo.95)  Re[6]: 純粋理性批判B169 英訳
□投稿者/ pipit -(2024/01/09(Tue) 20:29:25)
    超越論的分析論第二篇「原則の分析論」英訳

    BOOK II. Analytic of Principles

    General logic is constructed upon a plan which coincides exactly with the division of the higher faculties of cognition. These are, understanding, judgement, and reason. This science, accordingly, treats in its analytic of conceptions, judgements, and conclusions in exact correspondence with the functions and order of those mental powers which we include generally under the generic denomination of understanding.

引用返信/返信 削除キー/
■36110 / inTopicNo.96)  純粋理性批判B169「原則の分析論」
□投稿者/ pipit -(2024/01/09(Tue) 20:28:13)
    みなさまこんばんは(^ ^) 前の続きは、、、
    No35845
    No35846
    より再掲、、、、

    超越論的分析論第二篇「原則の分析論」英訳

    BOOK II. Analytic of Principles

    英訳略※後で投稿します。

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap53

    とりあえずコピペとDeepL日訳だけ
    (*_*)コンジョウナシ...
    また少しずつ見ていきたいです。

    英訳略※後で英訳部分のみで投稿してみます。

    (英訳のDeepL日訳)
    第2巻原理の分析
    一般論理学は、高次の認識能力の区分と正確に一致する計画に基づいて構築されている。すなわち、理解、判断、理性である。したがって、この科学は、一般に理解という総称の下に含まれる精神力の機能と秩序に正確に対応して、概念、判断、結論をその分析において扱う

    再掲終わり。

    ここからはおそらく、、、どのようにカテゴリー(純粋悟性概念)を現象に適用するのか、その際の原則についての記述が始まるのではないかと思っています。
    「図式」というのが出てくるんじゃないかなー。
    少しずつでも読み進めたいです
    _φ(・_・

引用返信/返信 削除キー/

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