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■35329 / inTopicNo.25)  Re[26]: 感想日記・『時間』について
  
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/12/07(Thu) 22:03:21)
    はい、こんばんわ、Pipitさん。

    物自体の世界に時間はないって事ですか?
引用返信/返信 削除キー/
■35323 / inTopicNo.26)  感想日記・『時間』について
□投稿者/ pipit -(2023/12/07(Thu) 19:15:09)
    2023/12/07(Thu) 19:22:38 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは(*^◯^*)

    No35311
    (カントの文章の英訳の日訳)
    > この根拠づけの短いまとめ。
    > 前述の根拠づけは、経験が可能となる原理としての、純粋悟性概念の説明であり、
    > (それとともに、全てのアプリオリな理論的認識の説明であり)、
    > 経験の...空間と時間における全ての現象一般の規定としての、経験を可能ならしめる原理としての純粋悟性概念の説明であり、
    > 統覚の根源的な総合的統一の原理から、感性の根源的な形式としての時間と空間との関係においての知性の形式として、導かれたものである。<

    この箇所の内容を、pipitなりに考えてみました。

    見る対象、聞く対象、香る対象、、、
    私は、順次、何かを感じています。

    カントの認識論では、この順番に生じることが、時間という形式なのではないか、とpipitは思いました。

    ここで理解しやすくするために、感覚が時間という形式に現れることを、
    『主観に現れる像の生滅に順番がある』と言わせてください。

    この順番は、まだ私的な順番です。
    右を向いたり、左を向いたり、私的な行為で順番は変わります。
    録画されたものを見たり、恣意的な順番にもできます。

    カテゴリーは、この私的な像を、客観に妥当するように像の生滅の順番も含めて編集すると、カントは言っているのかと思っています。
    そのことを表現しているのが、
    カントの文章、B136の【第二の原則】だと思いました。
    中山元先生の日訳を引用します。

    =============
    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p123から126から抜粋引用
    B136-
    [ ]は中山先生による補注。

    『超越論的な感性論が明らかにしたところでは、〈感性〉による直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、空間と時間という形式的な条件にしたがうということだった[これが第一の原則である]。
    そして〈知性〉に関するすべての直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、自己統合の意識の根源的で総合的な統一の条件にしたがうということである[これが第二の原則である](注)。
     直観に含まれるすべての多様なものの像は、それがわたしたちに与えられるという意味では、この第一の原則にしたがうのであり、それが一つの意識において結合されることができるという意味では、この第二の原則にしたがわねばならない。
    この結合なしでは何ものも考えることも、認識することもできない。というのも[この結合なしでは]与えられた像は、〈わたしは考える〉という自己統合の意識の働きにまったく与かることがないし、その働きによって一つの自己意識のうちで総括されることがないからである。
    (中略)
     このように意識の総合的な統一は、すべての認識が成立するための客観的な条件である。
    わたしが一つの客体を認識するためには、この条件が必要である。
    それだけでなく、直観がわたしにとっての客体となるためにはこの条件にしたがわなければならない。
    この総合が与えられないその他の方法では、多様なものは一つの意識のうちに結合されないはずだからである。』
    引用終了。
    ===============

    先に私は
    > 『主観に現れる像の生滅に順番がある』と言わせてください。<
    としましたが、

    主観的像から、客観的とみなされる現象の生滅の順番を規定するのが、カテゴリーなのではないかと思いました。

    例えば、阪神大震災と東日本大地震という現象には、人間の知識として、出来事の現れ方に順番がつけられますね。

    この「順番がつけられる」という事態が、経験の形式としての「時間」と考えてもいいのではないか?と、pipitは今の時点では思いました。

    ちなみにカントは、物自体の世界に時間があるかないかなどは不可知、としてるかと思っています。
    でも、表象や経験の形式として時間(順番?)というものがある、としてるのかとpipitは考えています。


引用返信/返信 削除キー/
■35311 / inTopicNo.27)  Re[24]: 純粋理性批判B168-169
□投稿者/ pipit -(2023/12/07(Thu) 00:51:02)
    2023/12/07(Thu) 00:59:54 編集(投稿者)
    2023/12/07(Thu) 00:52:21 編集(投稿者)

    間違えてるかもしれませんが、英訳をpipitが日訳しました。
    ----------------------------

    この根拠づけの短いまとめ。

    前述の根拠づけは、経験が可能となる原理としての、純粋悟性概念の説明であり、
    (それとともに、全てのアプリオリな理論的認識の説明であり)、

    経験の...空間と時間における全ての現象一般の規定としての、経験を可能ならしめる原理としての純粋悟性概念の説明であり、

    統覚の根源的な総合的統一の原理から、感性の根源的な形式としての時間と空間との関係においての知性の形式として、導かれたものである。


    ※私は、項(セクション)による分割はこの時点までしか必要ないと考えている。
    というのも、ここまでは基本的な概念を扱わなければならなかったが、
    これからは、これら概念の使用方法の説明に進むからである。
    今後、このような形で章を指定することはしない。
    -----------------------------------

    一日おつかれさまです。おやすみなさい(^ ^)☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■35310 / inTopicNo.28)  純粋理性批判B168-169
□投稿者/ pipit -(2023/12/07(Thu) 00:08:43)
    2023/12/07(Thu) 00:58:00 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは
    寝てしまいました...(T ^ T)クッ

    とりあえず続きのJ. M. D. Meiklejohnさんの英訳を...

    Short view of the above Deduction.

    The foregoing deduction is an exposition of the pure conceptions of the understanding (and with them of all theoretical a priori cognition),

    as principles of the possibility of experience,

    but of experience as the determination of all phenomena in space and time in general ー of experience,

    finally,

    from the principle of the original synthetical unity of apperception,

    as the form of the understanding in relation to time and space as original forms of sensibility.

    I consider the division by paragraphs to be necessary only up to this point,

    because we had to treat of the elementary conceptions.

    As we now proceed to the exposition of the employment of these,

    I shall not designate the chapters in this manner any further.


引用返信/返信 削除キー/
■35291 / inTopicNo.29)  YouTubeショート日記
□投稿者/ pipit -(2023/12/06(Wed) 11:51:08)
引用返信/返信 削除キー/
■35288 / inTopicNo.30)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/12/06(Wed) 00:09:01)
引用返信/返信 削除キー/
■35267 / inTopicNo.31)  Re[19]: 超越論的分析論Z−6
□投稿者/ pipit -(2023/12/03(Sun) 23:28:07)
    2023/12/03(Sun) 23:38:18 編集(投稿者)

    うましかさん、こんばんはー(^O^)

    No35259
    > 復活とまではいきませんが、リハビリがてら足だけカント沼につかります。<

    薬湯のような効果がカントエキスにじんわりあるといいな♪
    (・・?)エ?

    > ◇ ところで、同様の結びつきは、諸物の全体≠ノおいても考えられる。
    > というのも、結果としての或る物が、この物の現存在の原因として他の物に従属している≠フではなく、他の諸物を規定するということに関しては原因として、同時に、かつ相互的に
    > 随伴している≠ゥらである(例えば、その諸部物が互いに相互に〔引力によって*1〕牽引し合うとともに、また〔反発力によって*1〕抵抗し合う物体におけるように)。
    >
    >  *1 中山元訳2、p.85参照<

    諸物の全体の場合....

    今日、頼んでた『子どものためのカント』S.フリートレンダーさん著、長倉誠一さん訳、が届いて、、、
    感想としては、
    あれ?エルンスト・マルクスさんという方のカント解釈についての書?って感じで、期待してたのと雰囲気は違ってたのですが、、、(フリートレンダーさん曰く『エルンスト・マルクスは、私たちの時代の唯一のカント理解者だし、彼にはカントの「後継者」というショーペンハウアーの言葉が実にぴったり当てはまる。このテキストのほとんどすべての問いと答えは、エルンスト・マルクスの著作から借り受けたものである。』とのこと。(p2))
    まだパラパラとしか読めてないのですが、印象に残ってる文章があります。

    ↓『子どものためのカント』p89より引用します。フリートレンダーさんの文章です。

    『(略)。感覚は、たとえば空間のなかへと入り込んでくるのである。(略)。私たちは物体を、自分に属する空間感覚を介して認識する。もろもろの物体は、空間的に限界づけられた可変的な空間であり、これらの可変的な空間は、相互に自分の場所を空間の内で争っているのである。(略)』

    相互作用という概念が頭に浮かびます。
    相互性のカテゴリーですもんね(^◇^;)

    > ◇このようなことは、原因と結果との(根拠と帰結との)単なる関係において見出されるのとは全く別の種類の結び付きであり、
    > 根拠と帰結との関係においては、帰結は相互的にこれまた根拠を規定するということはなく、それ故に根拠と共に(世界創造者が世界と共にといったふうに)一つの全体を成すということもない。<
    > ◇悟性が、〔選言判断において*2〕或る区分された概念の圏域を表象するときの、その悟性の同じ手続きを、
    > 悟性はまた、或る物を分割可能なものとして考えるときにも遵守する。
    > だから、前者の場合の区分された概念における諸項が互いに排除しあうにも関わらず、一つの圏域のうちで結合し合っているように、
    > 悟性は、後者の場合の或る物の諸部分を、それぞれの部分が残余の諸部分から排除されても己の現存(実体としての)を持つにも関わらず、一つの全体のうちで結合しているような諸部分として表象する。
    >
    >  *2 中山元訳2、p.85参照<

    あれか、それか、で、あれとそれで一つの全体、かな。

    > 第三節 (第十二項) 
    >
    > ◇ しかし、古人の超越論的哲学のうちには、純粋悟性概念を含んでいるもう一つの章が見出される。
    >
    > ◇それらの純粋悟性概念はカテゴリーのうちには数え入れられないにも関わらず、彼らによれば、対象についてのア・プリオリな概念とみなされるべきであるが、しかしその場合にはそのためにカテゴリーの数は増大してしまうことになり、これはあり得ないことである。
    >
    > ◇このような諸概念を述べているのはスコラ哲学者のうちでは極めて有名な命題、即ち、「何であれ、存在するものは、一、真、善である quodlibet ens est unum,verum,bonum」という命題である。<

    ひぇー、このあたり、私にはわからな過ぎてスルーした箇所として覚えています....

    とりあえずは、、、
    古人の主張する純粋悟性概念のうちで、カントの主張するカテゴリーに含まれてないものは、、、、古人の誤解なんじゃない?みたいな論調なのかなぁ
    (ーー;)

    謎の?沼浴、おつかれさまです♪

引用返信/返信 削除キー/
■35259 / inTopicNo.32)  超越論的分析論Z−6
□投稿者/ うましか -(2023/12/03(Sun) 16:49:59)
    2023/12/03(Sun) 16:50:44 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    復活とまではいきませんが、リハビリがてら足だけカント沼につかります。

    あ〜カント沼が足湯のようだ(*‘∀‘)

    しみるなあ。。。


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十一項) 

    ◆第三の注解=Bただ一つのカテゴリー、すなわち、第三の部類のうちに見出される相互性≠フカテゴリーについては、論理的機能の〔カテゴリー表に対応する判断〕表において、このカテゴリーと対応する選言判断〔「Aは、BであるかCであるかDであるかのいずれかである」〕の形式との合致は、残りの場合におけるほど目立ってはいない。

    ◆ この合致を確かめるためには人は次のことに注意しなければならない。すなわち、全ての選言判断においては、その圏域(その選言判断のもとに含まれている全てのものの集まり)は、諸部分(諸下位概念)に分割された一つの全体と見なされる。だから、それらの諸部分の一つは、他の部分のもとに含まれていることはあり得ないので、それらの諸部分は、互いに並存的なもの≠ニして考えられ、従属的なもの≠ニしては考えられず、従って、一つの系列≠ノおけるように、一方的に′ンいを規定しあっているのではなく、一つの集合≠ノおけるように、相互的に′ンいを規定しあっている(区分の一項が定立されると、その他全てのものは排除され、またその逆も同様である)と考えられるのである。

    --- No.34919 からの続き ---

    ◇ ところで、同様の結びつきは、諸物の全体≠ノおいても考えられる。
    というのも、結果としての或る物が、この物の現存在の原因として他の物に従属している≠フではなく、他の諸物を規定するということに関しては原因として、同時に、かつ相互的に
    随伴している≠ゥらである(例えば、その諸部物が互いに相互に〔引力によって*1〕牽引し合うとともに、また〔反発力によって*1〕抵抗し合う物体におけるように)。

     *1 中山元訳2、p.85参照

    ◇このようなことは、原因と結果との(根拠と帰結との)単なる関係において見出されるのとは全く別の種類の結び付きであり、
    根拠と帰結との関係においては、帰結は相互的にこれまた根拠を規定するということはなく、それ故に根拠と共に(世界創造者が世界と共にといったふうに)一つの全体を成すということもない。

    ◇悟性が、〔選言判断において*2〕或る区分された概念の圏域を表象するときの、その悟性の同じ手続きを、
    悟性はまた、或る物を分割可能なものとして考えるときにも遵守する。
    だから、前者の場合の区分された概念における諸項が互いに排除しあうにも関わらず、一つの圏域のうちで結合し合っているように、
    悟性は、後者の場合の或る物の諸部分を、それぞれの部分が残余の諸部分から排除されても己の現存(実体としての)を持つにも関わらず、一つの全体のうちで結合しているような諸部分として表象する。

     *2 中山元訳2、p.85参照


    第三節 (第十二項) 

    ◇ しかし、古人の超越論的哲学のうちには、純粋悟性概念を含んでいるもう一つの章が見出される。

    ◇それらの純粋悟性概念はカテゴリーのうちには数え入れられないにも関わらず、彼らによれば、対象についてのア・プリオリな概念とみなされるべきであるが、しかしその場合にはそのためにカテゴリーの数は増大してしまうことになり、これはあり得ないことである。

    ◇このような諸概念を述べているのはスコラ哲学者のうちでは極めて有名な命題、即ち、「何であれ、存在するものは、一、真、善である quodlibet ens est unum,verum,bonum」という命題である。


    † 原佑訳上巻、p.231〜p.232参照。
    † その他に、中山元訳2、p.85〜p.87、石川文康訳上巻、p.141〜p.142を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節 No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,34874,34919,35259

引用返信/返信 削除キー/
■35225 / inTopicNo.33)  pipitさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/11/30(Thu) 20:43:09)
    2023/11/30(Thu) 20:45:04 編集(投稿者)

    こんばんは、pipitさん。レスありがとうございます。

    No35215に返信(pipitさんの記事)
    > ニーチェの文章の引用をありがとうございます。
    > パニチェさんの「原因と結果」の記事も読ませていただきました。

    ありがとうございます。

    > >全「内的経験」は、神経中枢の興奮に対して一つの原因が探しもとめられ表象されるということ──また、みいだされた原因がまず意識されるにいたるということにもとづいているが、この原因は本当の原因に対応するということは絶対にない。──それは、以前の「内的経験」を、言いかえれば記憶を根拠とした一つの手探りである。しかるに記憶は、古い解釈の、言いかえれば誤った原因性の習慣をも保存しているのであり、──そのため「内的経験」は、以前につくられた偽りの因果という虚構すべての帰結をもしれ自身のうちにになわざるをえないのである。私たちが瞬間ごとに投影している私たちの「外界」は、根拠についての古い誤謬に解けがたく結びつけられている。それゆえ私たちは「事物」その他の図式でもって外界を解釈するのである。<

    > ここらへんの文章とか、興味深いです。
    > 私は因果性を思う時、「effect」という単語が頭に浮かぶのですが、
    > 神経中枢の興奮のeffectで原因が表象される、という表現も可能なんだなーと、ニーチェさんの文章を読んで改めて思いました。

    ある意味でニーチェはカントの対極かもしれせんが、その対比も面白いです。^^

    > レスありがたいです!

    こちらこそ、ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■35223 / inTopicNo.34)  Re[20]: 原因と結果
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/30(Thu) 19:15:46)
    No35213 、pipitさま、ありがと。
    でもカントのよくわかんなかった。

    No35213、パニさん、ありがと。
    でもニーチェのよくわかんなかった。

    >内的直観としてその現象<
    >「内的世界」の現象論<
    だけが印象に残ってる。
    なにこれ?って。

    関係ないこと言っちゃったみたいでごめんね。



引用返信/返信 削除キー/
■35215 / inTopicNo.35)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/11/29(Wed) 21:47:25)
    パニチェさん、こんばんは!
    ニーチェの文章の引用をありがとうございます。
    パニチェさんの「原因と結果」の記事も読ませていただきました。


    >全「内的経験」は、神経中枢の興奮に対して一つの原因が探しもとめられ表象されるということ──また、みいだされた原因がまず意識されるにいたるということにもとづいているが、この原因は本当の原因に対応するということは絶対にない。──それは、以前の「内的経験」を、言いかえれば記憶を根拠とした一つの手探りである。しかるに記憶は、古い解釈の、言いかえれば誤った原因性の習慣をも保存しているのであり、──そのため「内的経験」は、以前につくられた偽りの因果という虚構すべての帰結をもしれ自身のうちにになわざるをえないのである。私たちが瞬間ごとに投影している私たちの「外界」は、根拠についての古い誤謬に解けがたく結びつけられている。それゆえ私たちは「事物」その他の図式でもって外界を解釈するのである。<

    ここらへんの文章とか、興味深いです。

    私は因果性を思う時、「effect」という単語が頭に浮かぶのですが、
    神経中枢の興奮のeffectで原因が表象される、という表現も可能なんだなーと、ニーチェさんの文章を読んで改めて思いました。

    レスありがたいです!

引用返信/返信 削除キー/
■35213 / inTopicNo.36)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2023/11/29(Wed) 21:20:01)
    No35211に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > なんか、場違いなのだけど
    >
    > 「原因」と「結果」
    >
    > 「原因」は「結果」の先にあるものじゃない。
    > みたいなの、なんか記憶にある。
    >
    > ニーチェだったけ?<

    悪魔ちゃん、こんばんは(^O^)

    カントの場合は、二つの現象をくっつける際に働いているキーワードが「原因」という概念、と言ってるのかなー、と今のところpipitは思っています。
    例えば『水の凍結』って、カント的には「原因」という概念のもと、ある時点で知覚された(水)と、異なる時点で知覚された(氷)をくっつけてる、って感じかなぁって。
    この『水の凍結』を例にした「原因」概念について述べてる箇所が、純理のB162と163にあって、過去投稿で、DeepLと pipitが部分的に英訳を日訳してるんだけど、それを複合させてみるね。

    以下過去投稿より再編。

    ※※※※※※※※
    (カントの文章の英訳の日訳)
    純粋理性批判B162-163
    (※DeepL日訳とpipit日訳
    私が水の凍結を知覚するとき、私は二つの状態(流動性と固体性)をそのようなものとして理解し、それらは互いに時間の関係の中で対立している。
    しかし、私が内的直観としてその現象の根拠とする時間において、私は必然的に多様体の総合的な統一性を想像するのであり、それなしには、その関係は(時間の順序に関して)明確な知覚において与えられることはありえない。
    さて、この総合的統一は、
    私が直観一般の多様を結合するためのアプリオリな条件であるが、
    もし私の内的な直観の常なる形式である時間を捨象するなら、
    この総合的統一とは原因のカテゴリーであり、
    もし私が原因のカテゴリーを私の感覚に適用するなら、その関係に従って時間一般の中で起こる全てのことを規定する。
    その結果、そのような出来事(水の凍結)における把握およびその出来事自体は、その知覚の可能性に関して言えば、原因と結果の関係という概念の下に立つことになる。そのほかの全ての場合についても同様である。
    ※※※※※※※※

    ニーチェさんのことは、パニチェさんが書いてくださってるね!

    私も今から読ませていただきまーす (o^^o)

引用返信/返信 削除キー/

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