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■14444 / inTopicNo.1)  Re[28]: 悪魔ちゃんへ 理性
  
□投稿者/ pipit -(2021/06/26(Sat) 00:35:21)
    原理の能力

    例えば、
    身体が意識を服従させていて生命の維持に優位な半幻覚の世界を作っている
    という原理があるとしたとき、
    その原理を認識させてる能力、が、理性

    私は、理性というと、【推論】という言葉が浮かびます。
引用返信/返信 削除キー/
■14443 / inTopicNo.2)  悪魔ちゃんへ 理性
□投稿者/ pipit -(2021/06/26(Sat) 00:26:44)
    こんばんは!
    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生著、p27から抜粋引用するね。

    『カントは人間の認識についてこう言った。「すべての我々の認識は感官に始まり、そこから悟性に進み、理性で終わる、理性を超えて、直観の素材を加工し、思惟の最高の統一の下へもたらす、より高次のものは我々のうちには見いだされない」(B355)。
    (略)
    イメージとして言えば、感性と悟性によって個別の認識が成立し、理性によってそれが体系化されるのである。』
    引用終了

    あと、カント事典の【理性】の項目から抜粋引用するね。

    カント事典p530より抜粋引用
    『(略)
    理性は、人間の認識のはたらきにおいて最上位に位し、思考の最高の統一をもたらす能力にほかならない。「規則の能力」としての悟性にたいして、理性は「原理の能力」と規定される。
    「悟性が規則を介して諸現象を統一する能力であるとすれば、理性は諸悟性規則を原理のもとへと統一する能力である」[B359]
    (略)』
    引用終了

    違うかもだけど、今思ってること言うね。

    悪魔ちゃんは、いろんなもの見て、いろんなもの知って、
    そういうの全部神なんじゃないかなー、と思ってるんじゃなかったかな?
    (勘違いしてたらごめんね)
    いろんなもの見て、知って、が、感性&悟性の働きで、
    それらがみんな神なんじゃないかなー、という概念のもとに体系化させる能力が理性ってかんじに
    カントは言ってるのかなーと今のところ思ったけど
    違ったらごめんね!
引用返信/返信 削除キー/
■14437 / inTopicNo.3)  Re[26]: まだまだ森日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/06/25(Fri) 20:17:27)
    pipitさま、お邪魔するね。

    わたし、人間は自然のなかから必然を見い出そうとしてるん、だと思ってる。

    とても人間にはとらえきれるものじゃない自然、っていうこと。
    このこと自体を悟ることからフィロソフィア(知りたい、っていう欲望)が生まれてるのかも。
    カントもそうだったんじゃないかしら?

    それでね、
    わたしカントの、で問題なのは、「人間の理性」。
    「理性」って、カントの場合、その意味(概念)をなんて記述してるのかしら?
    言いかえると、カントにおける「理性の定義」ね。






引用返信/返信 削除キー/
■14432 / inTopicNo.4)  Re[25]: まだまだ森日記
□投稿者/ pipit -(2021/06/25(Fri) 19:04:24)
    > 自然は、必然を人間には教えてくれない<

    というか、人間の理性は、自然から必然を抽出する能力はない、かな。

引用返信/返信 削除キー/
■14430 / inTopicNo.5)  まだまだ森日記
□投稿者/ pipit -(2021/06/25(Fri) 19:01:41)
    経験は必然を教えてくれない、
    自然は、必然を人間には教えてくれない、と、ヒュームは考えてるとカントは考えてたのかなあ??

    カントもその考えに頷きつつ、

    経験をつくる能力、
    経験対象としての自然をつくる能力、に、知るに対する必然素材がある、と言ったのかなあ。

    でも、自然からの帰納で、それらの能力を置いたのではない、とカント本人は言ってそうだよね?
    自然からの帰納では必然性を得られないって言ってそうだもんね。

    演繹論かぁ。。。

    どう違うゆうんやろうか。背理法使ってるの?
    アプリオリなそれらの要素がないとき、経験は存在できない、ってかんじ?

    あ、確か、主観的演繹と客観的演繹に分けてたような(うろ覚え)

    知る、は、経験、から、はじまるけど、すべての知るは経験から生じる、ではない。
    経験を成り立たせる地平の確定。。。って黒ちゃん先生書いてなかったかなあ、書いてなかったらすみませんm(_ _)m


引用返信/返信 削除キー/
■14427 / inTopicNo.6)  Re[23]: natuerlich !
□投稿者/ pipit -(2021/06/25(Fri) 18:46:01)
    全然はずしてるかもやけど、

    自然に法則をも見るか
    自然に法則は見ないか


    という二つの態度が心に浮かびます。

    思考による選択、やね 


引用返信/返信 削除キー/
■14426 / inTopicNo.7)  natuerlich !
□投稿者/ pipit -(2021/06/25(Fri) 18:41:03)
    みなさま、こんばんはー (^-^)

    うましかさんが、natuerlichという言葉を載せてくださってたので、
    その語を選択してスマホで調べてみたら、以下のページが出ました。

    『ドイツ語ライダー: Galaxie AZ』さん?
    https://galaxieaz.com/naturlich/

    [ナテューアリヒ]
    もちろん

    なんですって !

    そういう使い方あるんやーと思ったので、投稿しますね。
    おもしろいなぁと思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■14415 / inTopicNo.8)  カント沼番外地:第一版序論 V−5
□投稿者/ うましか -(2021/06/25(Fri) 00:00:07)
    pipitさん、こんばんはー
    おじゃまします。

    No.14271 V−4
    No.14097 V−3
    No.14009 V−2
    No.13815 V−1
    No.13643 U−1
    No.13576 T−3
    No.13436 T−2
    No.13389 T−1

    *******

    ◇ 経験という地盤を捨て去るやいなや、その由来を知らずに所有している諸認識でもって、また、その起源〔Ursprung〕がわかっていない諸原則を信頼して、その基礎を慎重な研究によってあらかじめ確かにしておくことなしに、すぐさま一つの建物を建てるのではなく、それゆえ、いったいいかにして悟性はあらゆるこうしたア・プリオリな諸認識へと達しうるのか、またいかなる範囲〔Umfong〕、妥当性〔Gueltigkeit〕および価値〔Wert〕をそれらのア・プリオリな諸認識はもちうるのか、という問題がいち早く投げかけられているということ。

    ◇ 以上のことはたしかに自然的〔natuerlich〕であるとおもわれる。

    ◇ 事実また、(この自然的〔natuerlich〕という言葉を、)正当かつ当然行われるべきはずのものと理解するならば、これ以上自然的なことは何ひとつとしてない。

    ◇ しかし、この言葉を通例おこなわれているものと理解するならば、これまた、こうした研究が長くなおざりにされざるをえなかったということ以上に自然的で明白なことは何ひとつとしてない。

    ◇ なぜなら、こうしたア・プリオリな諸認識の一部、すなわち数学的認識は、昔から信頼をかちえており、だから、このことによって他の諸認識に対しても、たとえこれらの諸認識が、その本性をまったく異にするものであるかもしれないにせよ、好都合な期待がかけられているからである。


    →原佑訳上巻、p.92〜p.93参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。

引用返信/返信 削除キー/
■14347 / inTopicNo.9)  ヒューム !! 日記 
□投稿者/ pipit -(2021/06/22(Tue) 23:05:20)
    みなさまこんばんは!

    No.14332
    おくたがわさん、ヒュームのこと書いてくださってありがとうございます!
    カントはヒュームをすごく意識してそうですよね、衝撃受けたみたいで。
    ヒュームを絡めて読んでみると、なにか発見あるかも、と、思いました。

    おもしろいなぁ
    その時代に生きたカントのリアルを想像します
    なんか、生きてたの、うそみたい。。。(ん?失礼??)
    カント先生人間してたの??

    不思議やなー (失礼?)
    あ、失礼やな。
    あんなに、人間礼賛やもんね。ん?

    ヒュームのことも意識して、再読してみようと思います。
    今日は、、、おやすみなさーい (なまけ森)

    そうかぁ、ヒュームが頭にあったかもしれないなぁ。。。


引用返信/返信 削除キー/
■14342 / inTopicNo.10)  うましか沼日記
□投稿者/ うましか -(2021/06/22(Tue) 19:45:34)
    おくたがわさん、pipitさん、こんばんはー

    なんだか最近、日記ばかりで第一版序論のまとめから遠ざかっています〜
    (´;ω;`)ウッ…

    先日のカントのなが〜い文章がストレスだったんで逃避気味です。

    気分が乗ったらまた再開します(;´・ω・)

    *******

    さて、

    >たしかに、カントのあの文章で、一方は「価値(当然〜べき)」(当為・価値命題/価値判断)で、後に出てくる方は「事実(事実〜である)」を書いていると読めますね。
    No.14331

    ■pipitさん
    >哲学用語なのかな?
    >そうかぁ、事実、と、価値、、、

    ■おくたがわさん
    >「ヒュームの法則」で出てきたりします。

    >カントのあの部分は両方とも「自然だ」と表現してるようなのが面白いかな。
    >あの部分は一方から他方を導いていないのでヒュームの言う誤謬とは関係ないけれど。

    >「自然主義的誤謬」を上記のヒュームの法則と混同していまして、ネット検索でも混同しているページもヒットします。(Wikiはさすがに区別している。)
    >上にあるように「〜は自然である」に触れているためなのかな…。

    No.14332


    *******

    お二方とも、関心をもっていただいてありがとうございます!(・ω・)ノ


    そうですねー

    私の感想の出どころは、ヒュームが元ネタのis/oughtですが、おくたがわさんご指摘のように、それそのものではありません。

    むしろカントの"natuerlich"の二義性、pipitさんの「自然因果的」の自然を考えていたら思いついたもので、カントの文章にis/oughtを期待するのは的外れだとおもいます。

    ところでこの"natuerlich"の二義的な使用、カントがライプニッツ=ヴォルフ学派(合理論)から出発し、ロックやヒュームらのイギリス経験論を経て、自らの立場をつくりあげたこととなにか関わりがあるのかな〜?などと、想像がふくらみますが力不足の私では収拾がつかないので、、、

    いまはこのあたりで打ち止めにします〜(;´・ω・)



    それでは〜









引用返信/返信 削除キー/
■14332 / inTopicNo.11)  Re[21]: カント先生のせいや日記
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/22(Tue) 11:17:58)
    2021/06/22(Tue) 12:29:59 編集(投稿者)
    2021/06/22(Tue) 11:37:17 編集(投稿者)

    No14327に返信(pipitさんの記事)
    こんにちは。

    > 当然、、、べき、を価値と表現することもあるんだなーと面白いです。
    > 哲学用語なのかな?
    >
    > そうかぁ、事実、と、価値、、、

    「ヒュームの法則」で出てきたりします。
    //pyrabital.hatenablog.com/entry/20180826/1535288851
    > ヒュームの法則とは、事実判断から価値判断を導くことはできない、という法則だ。わかりやすくいうと、「〜である」という事実に基づく前提から、「〜すべきである(でない)」とか「〜はよい(悪い)」といった価値評価を含む結論を導くことはできない、論理が飛躍している、ということだ。
    (このページは引用部分しか読んでません)

    //plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/humes_law.html
    > 「〜は自然である」「〜は不自然である」といった主張によって、 「だから〜をすべきである、すべきでない」 と続けて主張(あるいは含意)されることがしばしばあるが、 ヒュームによればこれは間違った推論である。 何かが自然であるとか不自然であるということのみからは決して「〜すべきだ、 すべきでない」という結論を導き出せない。

    .。o0 カントのあの部分は両方とも「自然だ」と表現してるようなのが面白いかな。
    あの部分は一方から他方を導いていないのでヒュームの言う誤謬とは関係ないけれど。


    なお、このページで
    > なお、ヒュームは、学生のレポートによく見られる「だ・である」調から 「です・ます」調への問題のある移行についてもつとに指摘しており、 今日ではこれは「ヒュームの第二法則」として知られている。

    これはジョークですね。この先生(児玉聡准教授)アホです(褒めてます。最上級です。 =面白い)。

    //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%81%A1
    > 児玉 聡(こだま さとし、1974年 - )は、日本の倫理学者。京都大学大学院文学研究科准教授。功利主義を中心とした英米道徳哲学史と生命・医療倫理学の研究を専門とする。


    ****
    私は長く、「自然主義的誤謬」を上記のヒュームの法則と混同していまして、ネット検索でも混同しているページもヒットします。(Wikiはさすがに区別している。)
    上にあるように「〜は自然である」に触れているためなのかな…。


引用返信/返信 削除キー/
■14331 / inTopicNo.12)  Re[19]: うましか沼日記
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/22(Tue) 10:37:37)
    No14322に返信(うましかさんの記事)
    おはようございます。

    > ほぼ的外れだろう、うましかの感想としては、カントは価値(当然〜べき)と事実(事実〜である)という二分法を意識しているのかなーというもの。

    たしかに、カントのあの文章で、一方は「価値(当然〜べき)」(当為・価値命題/価値判断)で、後に出てくる方は「事実(事実〜である)」を書いていると読めますね。鋭い!

引用返信/返信 削除キー/

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