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カント沼番外地:第一版序論 V−2
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□投稿者/ うましか -(2021/06/12(Sat) 09:20:32)
| pipitさん、おはようございます! おじゃまします。
No.13815 V−1 No.13643 U−1 No.13576 T−3 No.13436 T−2 No.13389 T−1
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◇それ以上にいうべきこと。それは、或る種の認識が、すべての可能的な経験〔aller moeglichen Erfahrungen〕の分野すら捨て去り、いかなる対応する〔entsprechender〕対象も経験のうちではどこにも与えられない概念によって、私たちの判断の範囲を経験のあらゆる限界を越えて〔ueber alle Grenzen *1〕拡張するように見えるということ。
*1経験のあらゆる限界を越えて拡張するように見える認識。 いかなる対応する対象も、経験のうちではどこにも与えられない概念(;゚Д゚)
◇この種の認識、すなわち、感性界〔Sinnenwelt *2〕を越え出てゆき、経験が導くことも正すことも全然できない認識のうちに、私たちの理性の諸探究がひそんでいる。
*2 Sinn−Welt … the world of the senses
◇私たちの理性の諸探究は、悟性が現象から学びうるすべてのものよりはるかに卓越しており、その諸探究の究極意図〔*3〕ははるかに崇高である。
*3 第二版序論では、続けて、この「理性の諸探究」の「究極意図」を、神、自由、不死(という不可避な課題)とする。その課題の解決にのみ向けられる学が「形而上学」と呼ばれるが、カントは理性がそれを遂行する能力をもっているか否かをあらかじめ吟味することなしにその課題を引き受ける「形而上学」を"独断的dogmatisch"〔*4〕とする。
*4 dogmatisch はギリシア語のドグマに由来し「定説的」と訳されるとのことだが、カント事典p.355によれば、カントによって「批判の欠如」という観点からのべられるとき(「定説的dogmatisch」の第二の意味として)「独断的」と訳されるとのこと。
◇私たちは誤る危険をおかしてでも、そうした探究を疑わしいとか軽視や無頓着から放棄するとかするよりは、一切を賭けて〔おこなおうとする。〕
→原佑訳上巻、p.90〜p.91参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。*数字は私による覚書。
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