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■13595 / inTopicNo.73)  pipitさんへ
  
□投稿者/ うましか -(2021/06/05(Sat) 10:04:50)
    pipitさん、おはようございます!
    おじゃまします。

    えーと、、、先日ご紹介してくださった山口裕之『語源から哲学がわかる事典』購入しました!(;´・ω・)

    この値段で、この内容、かなりうれしい本ですね!
    移り気な?私がここのところ気になっている"Erfahrung"、"empirisch"についても、考える材料になってくれるんじゃないかと期待しています\(^^)/

    *******

    >第一版序論、私も少しだけ読み始めました。

    気にかけていただいて、ありがとうございました。
    もちろん中山元訳も参照していますので、pipitさんの考察も楽しみにしています!


    ところで、こんなこと書くと怒られそうですが、私が原佑訳を重宝しているのは、第一版と第二版が上下段に分けてあることもありますが、自分の手のひらに馴染むサイズや紙の質が気に入っているからでもあります(・・;)

    どの翻訳がすぐれているのか、外国語が読み書きできない私には判断ができないので、複数の訳を見比べながら、カント沼の畔でうなされることが多くなってきました(´;ω;`)ウゥゥ

    >ちゃんと目にするきっかけをありがとうございます(^_^)

    こちらこそ、pipitさんにはいつも、溺れかけては助け舟をだしていただいております!

    ありがとうございますm(__)m


引用返信/返信 削除キー/
■13584 / inTopicNo.74)  Re[6]: カント沼番外地:第一版序論 3
□投稿者/ pipit -(2021/06/05(Sat) 07:46:29)
    No.13576
    うましかさん、おはようございます(^o^)/

    第一版序論、私も少しだけ読み始めました。

    私の手元の日訳には中山元先生訳の第一版序論しかなく、
    また、初見と同然ですが(汗)、
    楽しみながら読みたいと思います。

    ちゃんと目にするきっかけをありがとうございます(^_^)
引用返信/返信 削除キー/
■13576 / inTopicNo.75)  カント沼番外地:第一版序論 3
□投稿者/ うましか -(2021/06/04(Fri) 23:34:50)
    ◇ 経験〔Erfahrung〕は、私たちの悟性〔Verstand〕が、感性的感覚〔sinnlicher Empfindungen〕の生まの素材を加工することによって産み出す最初の産物である。

    ◇ それにもかかわらず、経験は、私たちの悟性がそこに制限される唯一の分野ではとうていありえない。

    ◇ 経験は、現に存在するものの何であるかを私たちに告げるが、そのものが必然的に存在せざるをえず、そうであって別様であってはならないことを告げはしない。

    ◇まさにこのゆえに、経験は真の普遍性〔Allgemeinheit〕を私たちに与えない。

    ◇だから、この種の認識〔Erkenntnissen〕をはげしく求める理性〔Vernunft〕は、経験によって満足させられるよりも、むしろ刺激されるのだ。

    ◇そうした普遍的認識〔allgemeine Erkenntnisse〕は、経験に依存せず、それ自身だけで明瞭で確実でなけれぱらない。

    ◇そうした認識は、ア・プリオリな認識と名づけられる。

    ◇というのも、経験〔Erfahrung〕から借り受けてきているものは、一般に言われるように、ア・ポステリオリにのみ、あるいは経験的にのみ認識される〔emprisch erkennt wird〕からである

    →原佑訳上巻、p.77〜p.79参照。文中の〔ドイツ語〕は私による挿入。


引用返信/返信 削除キー/
■13541 / inTopicNo.76)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/06/04(Fri) 07:21:40)
    No.13539
    うましかさん、了解です!

    私も一度、なるべくシンプルな気持ちで序論に目を通してみようと思います(^o^)/

引用返信/返信 削除キー/
■13539 / inTopicNo.77)  pipitさんへ 
□投稿者/ うましか -(2021/06/03(Thu) 21:53:55)
    pipitさん。こんばんは。
    いつもありがとうございます!

    今回はおくたがわさんに返信をいただいて、いろいろ考えさせられました。
    これもこのトピックの存在のおかげですm(__)m

    *******

    >高峯一愚先生は、経験的に、点々を振ってちゃんと強調されています。

    ありがとうございました!

    >高峯先生やわたしは、たしかにカントについての様々な研究結果を盛り込んで、この文章を解釈していってますね。
    それで、うましかさんも、カントのこの言葉がわからない、と、様々な知識を調べようと努力されてますよね。

    そうですね。pipitさんが紹介してくださった高峯訳や注釈は、私にとっても、とても参考になる内容だとおもっています。

    "Erfahrung"と"empirisch"については、まだ思考がうまく形にならず、自分が読むうえで必要な何かにまだ届いていない感じがして苦しんでいます。これらの言葉を使っていたカントはいったい何を考えていたのか、、、?

    >うましかさんの気になっている文章も、その場では他の場所からの知識をそれほど流し込まず、カントの問いかけとして、それを携帯しながら、読み進めていく、という読み方もあるかも、と思いました。

    ありがとうございます!

    でも、やっぱり「他の場所からの知識」は必要ですよね(;゚Д゚)
    それらがないと全く歯が立ちません。

    ただ私としては、いろいろ他から知識を仕入れたとしても、最終的にはカントが書いた原文に返って考えたい(とはいっても外国語は読めませんが)とはおもっています(;´・ω・)


    それでは〜
引用返信/返信 削除キー/
■13535 / inTopicNo.78)  はじめまして、おくたがわさん!
□投稿者/ うましか -(2021/06/03(Thu) 21:03:32)
    こんばんは〜
    お声をかけていただいて、ありがとうございます!m(__)m

    私の投稿をていねいに読んでいただいたうえで異論もいただけました。見ず知らずの方からこうしたていねいな返信をいただけるのはとてもありがたいことです。

    残念ながら、おくたがわさんの返信の内容は私には難解でほとんどよくわからず、どう返信したらよいか、けっきょく頭の中がまとまりませんでした(´;ω;`)ウゥゥ

    カントの文章をめぐる高峯訳と注釈、それを理解するおくたがわさん、そしてまとまらない私うましか、、、という複数の見解が入り乱れ、私が整理するには力不足といったところです。

    でも、せっかくいただけたご意見なので、今後自分が『純粋理性批判』を読んでいくうえで参考にしたいとおもいます!\(^^)/


    ありがとうございました。

    こんな私でよろしれば、何かありましたらまたよろしくお願いいたします。


    それでは〜


引用返信/返信 削除キー/
■13532 / inTopicNo.79)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/06/03(Thu) 19:11:37)
引用返信/返信 削除キー/
■13518 / inTopicNo.80)  Re[12]: はじめまして、うましかさん。
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/03(Thu) 09:01:21)
    No13509に返信(の記事)
    うましかさん、おはようございます。はじめまして。
    ちょうど同じところに興味を持っていたのでレスさせてください。

    > さて、タイトルの"I. Von dem Unterschiede der reinen und empirischen Erkenntnis"中の"empirischen(Erkenntnis)"の訳には、「経験的(empirisch)認識」と表記してあります。
    >
    > これは続く本文中冒頭の「alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange,(われわれの認識はすべて(ニ)をもってはじまる。)」中の「経験(Erfahrung)」表記と対比しようとしたのでしょうか…(;´・ω・)

    区別を示したかったとすれば、「経験認識(Erfahrungserkenntnis)」との区別だろうと思います。

    > というのも、タイトルと本文冒頭における「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)の表記が、高峯の注釈(二)の、「カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、」につながるのではないか?とおもったからです。

    そのつながりが意識されているかどうかはちょっと分からないですが、ともかく「カントの文章の内容からするとここは 区別せずに使っている」という高峯さんの解釈および注意喚起だと現時点で私は思っています。
    「ここでは」は「この段階」ではなく、まさに(二)の部分を指しているのでは。

    >高峯は、カントは後々「経験」という言葉を区別するよといいたかったのでしょうか?

    実際に異なる内容を指して異なる言葉を使っていくことは分かっているわけで、
    しかし、「ここ」では混同されている、と
    ここをカントの書いている言葉どおりに読むと辻褄が合わなくなる、と。
    うましかさんのお考えでも、それについては一致しているように見受けるのですが…つまり意味からすると本文冒頭の「経験」(Erfahrung)は「経験的」(empirisch)のことだろうという点で。

    > ではカントは「経験」について、どの段階で、どのような区別を導入するのか?
    > 私はそれが気になりました。そこで高峯訳を読み進めると、高峯の「経験認識(Erfahrungserkenntnis)」表記に目がとまりました。これは先述のタイトルにおける「経験的(empirisch)認識」との対比を意識したものなのか?(;´・ω・)

    対比というか、そこはカントも混同しておらず、それぞれの意味に読まなければならないでしょう。
    で、天野さん以外は「経験的認識」と「経験認識」と訳し分けていますが、それこそ一般読者がいきなり区別して読めないですよね。しかし同じ意味と読んでしまうと、文章の辻褄が合わなくなり混乱が生じかねない。そこで高峯さんは別な意味を指す別な言葉であるということを示すために原文表記を挿入したのでは。他の訳者は強調のみで済ませている(?)。

    > もし、もしそうだとしたら、私は、高峯のこの対比の仕方に、(もちろん"empirisch"と"Erfahrung"の区別自体には意味はあるとおもうのですが)、少々違和感があります。
    >
    > というのも、カント自身はここで"rein" と" empirisch"の区別を主題的に論じています。今回pipitさんが引用してくださった段落で、経験的認識の"empirisch"という言葉は、先天的と称される認識(高峯訳参照)という言葉との対比で、ゲシュぺルト(隔字体というそうです)による強調によってカントに表記されます。
    >
    > したがって私としては、もし高峯が冒頭で「経験的認識」と「経験認識」の対比を提示することによって(「カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、」にもかかわらず、)読者に区別を意識させようとしたとすれば、(たとえ、第二版序論に先立つプロレゴーメナの用例があるとしても)ちょっと早過ぎるように感じるのです。(※とはいえ、それは結局、カントの表記が原因なのかもしれませんが^^;)

    そのような意図ではないと思います。

    > タイトルと本文だけを頼りに追っていくならば、「経験的empirisch認識」とは、ごく単純に、経験による認識とも読めます。

    その「経験」をどういう意味で言っておられるか、によると思いますが…
    最近のこのトピでも説明されている「経験的(empirisch)」の意味であれば、そう読んでいいと思います。

    >それは、この段階では、「経験認識 Erfahrungserkenntnis 」という、経験Erfahrungと認識Erkenntnisという言葉を足してつくったかのようなカント語?(・・;)?との区別によって注目されるべきではなく、

    先に書いたように、そのような意図はないと思えます。
    「経験認識 Erfahrungserkenntnis 」の方が特殊なので、それとの区別によって「経験的empirisch認識」が注目されるということも無いと思いますし。


    問題が生じるとすれば、冒頭の
    「alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange,(われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。)」中で、「経験(Erfahrung)」表記が用いられていること。
    なので、まさにそこに注が付けてある。
    「経験(Erfahrung)」のまま読むと、辻褄が合わなくなるので、高峯さんは注意を促している。

    そこを「経験(Erfahrung)」と読むと、
    『そしてこの対象こそわれわれの感官を動かして、一方ではおのずから表象を生ぜしめ、他方ではわれわれの悟性活動を働かしめてこれらの表象を比較し、それらを結合したり分離したりして、感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなすものなのである。』
    ここが読めなくなると思うのですが、うましかさんには、そういう違和感はないでしょうか?

    ここを漫然と訳さず、冒頭の「経験(Erfahrung)」表記に注意を促したのが高峯さんの解説だと私は思い、優れているなと。

    つまり、高峯さんの解説についての解釈が、うましかさんと私でかなり違っているみたいですね。
引用返信/返信 削除キー/
■13512 / inTopicNo.81)  うましかさんへすみません点々ついてます!
□投稿者/ pipit -(2021/06/03(Thu) 06:53:51)
    うましかさん、おはようございます(^_^)
    No.13509
    >高峯一愚訳は訳中でカントによる「経験的(認識)」の強調をしめしていないのでしょうか?<

    すみません!
    わたしの引用漏れです。
    高峯一愚先生は、経験的に、点々を振ってちゃんと強調されています。

    > したがって私としては、もし高峯が冒頭で「経験的認識」と「経験認識」の対比を提示することによって(「カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、」にもかかわらず、)読者に区別を意識させようとしたとすれば、(たとえ、第二版序論に先立つプロレゴーメナの用例があるとしても)ちょっと早過ぎるように感じるのです。(※とはいえ、それは結局、カントの表記が原因なのかもしれませんが^^;)
    タイトルと本文だけを頼りに追っていくならば、「経験的empirisch認識」とは、ごく単純に、経験による認識とも読めます。それは、この段階では、「経験認識 Erfahrungserkenntnis 」という、経験Erfahrungと認識Erkenntnisという言葉を足してつくったかのようなカント語?(・・;)?との区別によって注目されるべきではなく、さしあたっては「純粋な」あるいは「ア・プリオリな」と区別される「経験による」「経験的な」という意味によって注目されるべきなのではないかなーなどと、素人の私はおもうのでした。<

    pipitの私見書きますね。
    高峯先生やわたしは、たしかにカントについての様々な研究結果を盛り込んで、この文章を解釈していってますね。
    それで、うましかさんも、カントのこの言葉がわからない、と、様々な知識を調べようと努力されてますよね。

    この言葉が出てくるのは『序論』であり、
    カントはその序論の最後の方で
    『導入のためのこの序論としての役割においては、』
    (『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、p63より引用)
    という言葉を述べてますが、
    『導入』というアイデアをここでも用いてみる試みもできるかも、と思いました。
    うましかさんの気になっている文章も、その場では他の場所からの知識をそれほど流し込まず、
    カントの問いかけとして、
    それを携帯しながら、読み進めていく、という読み方もあるかも、と思いました。
    もちろんうましかさんの好きな方法で読めばいいので、まだまだ調べたいなら、わたしもうましかさんと一緒に考えてみようと思いますので、気になることなどがあったらおっしゃってくださいね(^_^)
引用返信/返信 削除キー/
■13511 / inTopicNo.82)  おくたがわさんへ 最後は空性の話題へ〜
□投稿者/ pipit -(2021/06/03(Thu) 06:28:38)
    2021/06/03(Thu) 17:26:31 編集(投稿者)

    おくたがわさん、おはようございます(^○^)
    No13449

    > そうだと思います。
    > 以下とも整合性がありますね。
    >
    >>カントは『プロレゴーメナ』第十八節で
    >>「すべての経験判断(Erfahrungsurteil)は経験的(empirisch)である。すなわち感官の直接的知覚に基づいている。
    >>しかし逆にすべての経験的判断(empirisches Urteil)は経験判断(Erfahrungsurteil)ではない。
    >>経験判断には経験的なもの(das Empirische)、一般に感性的直観に与えられるもの以上に、なおその根源をまったく先天的に純粋理性において有するところの特殊な概念を必要とするのである。」といっている。
    >

    補足情報として、
    経験についてのカントの文章の一つとして、
    B218、219あたり?
    中山先生の独自番号では、251(第3巻p99)
    に、説明文章があります。

    『純粋理性批判3』中山元先生訳、カント、光文社古典新訳文庫、p99より引用(カントの文章)
    『経験とは、経験的な認識のこと、すなわち知覚によって客体を規定する認識のことである。だから経験とは知覚の総合であるが、この総合は知覚そのもののうちに含まれているものではなく、知覚された多様なものの総合的な統一を、一つの意識のうちに含んでいるのである。この総合的な統一が、感覚能力による客体の認識の本質であり、(たんに直観や感覚能力による感覚ではなく)経験の本質である。(略)』
    (引用終了)
    とあります。
    カントは別の箇所ではまた違う意味づけをしてる可能性はありますけどね(^_^)

    > それで、高峯さんの解説が素晴らしくて(と自分は思う)
    >
    >>ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、厳密にはカントの「経験的」は「感覚」や「知覚」或いは「印象」と同じ意味であり、これに対して「経験」は、「印象」(経験的なもの)と「認識能力の付け加えるもの」との二つから構成されているのである。
    >
    > さらっと書いてあるけど
    > >『ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが』<
    >
    > もし冒頭の『われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる。』
    > が『認識はすべて「経験的」(empirisch)なものをもって始まる。』
    > だったら、全体がスッキリすると思うのです。
    > 経験的=「感覚」や「知覚」或いは「印象」/対象に触発されての直感、感性的なもの。これが、認識へ至るきっかけになる。
    > 続く『対象によってでないなら、何によって呼びさまされるのか』
    > という反語も、「対象に触発される=経験的(empirisch)」のことを言っているから、「これ以外に可能性はないのだから認識は経験(的)から始まるのだ」という意味になる。<

    補足情報としまして2
    中山元先生の第一巻での、中山先生による解説では、該当箇所の解説として

    『純粋理性批判1』カント 中山元先生訳 光文社古典新訳文庫 p276より抜粋引用
    (中山先生の解説)
    『(略)。カントの語る経験とはそのようなものではなく、ぼくたちが意識しているかぎり、あるいは無意識においても、たえず行っている行為である。
     それは、対象に触発されることで人間の認識能力が働き始めるということである。ここで触発という言葉は耳新しいかもしれない。それはあるものから刺激をうけて、その刺激をうけとめることと考えてほしい。
    (略)』
    引用終了

    とされてて、略したところでも中山先生の考えを詳しく述べられています。

    > ここを、カントが書いている通りに
    > 『われわれの認識はすべて経験(Erfahrung)をもってはじまる』
    > と読むと、何を言いたいのか分からなくなる。
    > 『感性的印象という素材を、対象の認識、すなわち経験へと作りなす』
    > の部分も、対象の認識=経験なら 認識と経験が同時なのは当たり前だろう? となって。
    >
    > カントの書き方がテキットーなせいで難解になっている。
    > と私が言っても信じてもらえないでしょうが、、
    >
    > 考えてみれば高峯さんも、そう解釈してるわけですね。
    > わざわざ、
    > 『経験(Erfahrung)(ニ)をもってはじまる』
    > に註をつけて
    > 『ニ カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが』以下、「経験的」(empirisch)を説明しているわけだから、
    > この冒頭部分は、本来は「経験的」(empirisch)と書くべき部分だと、高峯さんは解釈している。
    > その解釈にもとづく解説を読んだから、自分も、そう気づいたわけか。<

    わたしもけっこうおくたがわさんと同じように思ってたところがあるのですが、うましかさんにコメントいただいたことで、
    『カントのナゾナゾ』として読む、という読み方もあるんだな、と気付かされました。

    それとか、禅の公案、とか。
    (コトバンクさん『公案』より抜粋引用
    (略)A禅宗で、参禅者に出す課題。仏祖の言行のうち、修行者にとって意義深いものや、暗示に富むものを選んで課題としたもので、難問が多い。転じて、自然現象の一切を仏法を示す課題と見る見方。また、一般に難問、研究課題をもいう。引用終了)

    禅の場合は、知識で答え出すかんじではないかもですけどね。

    意図してではないと思うのですが、カントという人は、いろんな解釈の起こる文章を書く、ということが起こりがちな方だったのかなぁ、と、昨日思ってました。
    そして最後の言葉が、

    wikiより引用
    『最後の言葉は、ワインを水で薄め砂糖を混ぜたものを口にしたときに発したという「これでよい(Es ist Gut)」であったと伝えられている。』
    引用終了

    Es ist Gut

    Google翻訳さんによる英訳
    It is good

    この最期の言葉の意味も、様々に解釈されているようですね。

    個人的好みで、『空性』という言葉が頭に浮かびます。

    おくたがわさん、いつもありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■13509 / inTopicNo.83)  pipitさんへ ありがとうございました!
□投稿者/ うましか -(2021/06/03(Thu) 00:06:56)
    No.13390
    No.13278
    No.13240

    高峯訳の引用をしてくださり、ふかく感謝いたします!m(__)m

    *******

    >Es ist also wenigstens eine der naeheren Untersuchung noch benoetigte und nicht auf den ersten Anschein sogleich abzufertigende Frage: ob es ein dergleichen von der Erfahrung und selbst von allen Eindruecken der Sinne unabhaengiges Erkenntnis gebe. Man nennt solche Erkenntnisse a priori, und unterscheidet sie von den empirischen, die ihre Quellen a posteriori naemlich in der Erfahrung, haben.<
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/6343/pg6343.html

    >したがって、経験から独立し、また感官のあらゆる印象からさえも独立しているような認識(六)が存在するかどうか、という問いは少なくとも、さらに精密な研究をまだまだ必要とする問いで、一見してただちに解決されるような問いではない。一般にはこのような認識は先天的と称され(七)、その源泉を後天的に、すなわち経験中に有する経験的認識と区別されている。
    → 高峯一愚訳、p.44(→No.13464

    高峯一愚訳は訳中でカントによる「経験的(認識)」の強調をしめしていないのでしょうか?

    中山元訳や原佑訳は強調をしめしています。
    (※天野貞祐訳は、、、"a posteriori"が強調されています^^;)

    *******

    以下は、pipitさんがNo.13390で引用してくださった第二版序論の高峯訳と注釈について感じたことを書いてみます。

    ひどくまとまりがない上に的外れ或いは誤読の可能性が大いにありますが、ご容赦くださいませ(;´・ω・)


    さて、タイトルの"I. Von dem Unterschiede der reinen und empirischen Erkenntnis"中の"empirischen(Erkenntnis)"の訳には、「経験的(empirisch)認識」と表記してあります。

    これは続く本文中冒頭の「alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange,(われわれの認識はすべて(ニ)をもってはじまる。)」中の「経験(Erfahrung)」表記と対比しようとしたのでしょうか…(;´・ω・)

    というのも、タイトルと本文冒頭における「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)の表記が、高峯の注釈(二)の、「カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、」につながるのではないか?とおもったからです。高峯は、カントは後々「経験」という言葉を区別するよといいたかったのでしょうか?

    ではカントは「経験」について、どの段階で、どのような区別を導入するのか?
    私はそれが気になりました。そこで高峯訳を読み進めると、高峯の「経験認識(Erfahrungserkenntnis)」表記に目がとまりました。これは先述のタイトルにおける「経験的(empirisch)認識」との対比を意識したものなのか?(;´・ω・)

    もし、もしそうだとしたら、私は、高峯のこの対比の仕方に、(もちろん"empirisch"と"Erfahrung"の区別自体には意味はあるとおもうのですが)、少々違和感があります。

    というのも、カント自身はここで"rein" と" empirisch"の区別を主題的に論じています。今回pipitさんが引用してくださった段落で、経験的認識の"empirisch"という言葉は、先天的と称される認識(高峯訳参照)という言葉との対比で、ゲシュぺルト(隔字体というそうです)による強調によってカントに表記されます。

    したがって私としては、もし高峯が冒頭で「経験的認識」と「経験認識」の対比を提示することによって(「カントはここでは「経験的」(empirisch)と「経験」(Erfahrung)とを区別していないが、」にもかかわらず、)読者に区別を意識させようとしたとすれば、(たとえ、第二版序論に先立つプロレゴーメナの用例があるとしても)ちょっと早過ぎるように感じるのです。(※とはいえ、それは結局、カントの表記が原因なのかもしれませんが^^;)

    タイトルと本文だけを頼りに追っていくならば、「経験的empirisch認識」とは、ごく単純に、経験による認識とも読めます。それは、この段階では、「経験認識 Erfahrungserkenntnis 」という、経験Erfahrungと認識Erkenntnisという言葉を足してつくったかのようなカント語?(・・;)?との区別によって注目されるべきではなく、さしあたっては「純粋な」あるいは「ア・プリオリな」と区別される「経験による」「経験的な」という意味によって注目されるべきなのではないかなーなどと、素人の私はおもうのでした。

    *******

    >もう少し長く引用を読みたいときには遠慮なくおっしゃってください
    また、他の箇所でもいつでもおっしゃってくださいね

    ありがとうございます(´;ω;`)ウゥゥ
    とってもありがたいです!

    それでは〜
引用返信/返信 削除キー/
■13464 / inTopicNo.84)  うましかさんへ 高峯先生訳
□投稿者/ pipit -(2021/06/02(Wed) 10:19:47)
    うましかさん、こんにちは!(^o^)/♪

    No13458
    > pipitさんにお願いがあります!
    >
    > 私は高峯訳をもっていないのですが、pipitさんが引用してくださった箇所の次の段落も引用をしていただければ幸いです。m(__)m<

    もっちろんいいですよ〜(^_^)v
    注釈も引用しますね!


    > 次の段落ではタイトルにもある「認識」の区別をめぐり、ア・プリオリ(と名づけられた)認識と、empirischen(な)認識が、カントによって強調され対比してのべられていますが、高峯がそこをどう訳し、どう注釈をつけているのかちょっと興味があります。<

    『世界の大思想5カント純粋理性批判』高峯一愚先生訳、河出書房新社、p44より
    引用開始
    『 したがって、経験から独立し、また感官のあらゆる印象からさえも独立しているような認識(六)が存在するかどうか、という問いは少なくとも、さらに精密な研究をまだまだ必要とする問いで、一見してただちに解決されるような問いではない。一般にはこのような認識は先天的と称され(七)、その源泉を後天的に、すなわち経験中に有する経験的認識と区別されている。』
    引用終了

    ↓高峯先生による注釈、p60より
    引用開始
    『(六) ここで、今まで女性名詞として用いられていた「認識」(Erkenntnis)が中性名詞として用いられているが、別に意味の相違はない。
    (七) カントはここで「一般的には」といっているが、「批判」の出された直後すでに各方面から、カントが今まで慣用されていなかった用語を認められた語のように用いていることについて注意された。それまでは a priori はアリストテレスの「それに先立つもの、すなわち原因から」の認識をいい、或いはライプニッツの「普遍的概念もしくは普遍的命題から演繹的に推論された」認識を称するのに用いられていた。』
    引用終了

    もう少し長く引用を読みたいときには遠慮なくおっしゃってください
    また、他の箇所でもいつでもおっしゃってくださいね
    (図書館で借りてる本なので、もう少ししたら返却しますが、すぐ近くの生活圏内の図書館ですので気軽に借りることができます!)

    おつかれさまです ♪ (o^^o)v

引用返信/返信 削除キー/

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