□投稿者/ うましか -(2021/05/26(Wed) 19:52:56)
| こんばんは。pipitさん。 おじゃまします。
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>経験には《知覚》をキーワードに考えてもいいかも、と、思いました。 →No.13055
非常に有益な助言をいただきありがとうございます!
カントの「認識Erkenntnis/knowledge, cognition」から、いわゆる「認識論」が「知識の理論 theory of knowledge」ともいわれるらしいこともあり、er−“kennen“のkennenあたりから、素人の私にとってはカントのErkenntnisは「知る」とか「分かる」くらいのニュアンスでいいのかなあと軽〜くかんがえていました。
なので「経験Erfahrung/experience」についても、私たちが何かについて体験を通して知ることの過程のうちに位置付けられているものという程度の理解ですませていました(まさに日本語の文脈ですね^^;)。序論の冒頭を読んでいても、カントが「経験」についてのべる文脈で(感性とか感官という言葉はありますが)「知覚Wahrnehmung/perception」という言葉がでてこない?ため、カントは「知覚」という言葉を使わないのかなあ…などとのんきに考えていました。 ※もちろん『純粋理性批判』や『プロレゴメナ』において、カントは「知覚」という言葉を使っています、念のため^^;
でも、pipitさんのいう「知覚」が気になっていたので調べていると、たまたま索引から追っていたカント『プロレゴメナ』の一節にこうありました。
>つまり、純粋直観は、ア・プリオリな直観としてすべての経験に先立って−すなわち個々の知覚に先立って、概念と不可避的に結びついているのである。< →『プロレゴメナ』(篠田英雄 訳、岩波文庫、p.67) →https://www.projekt-gutenberg.org/kant/prolegom/prolegom.html 参照
この一文だけではもちろん断定はできないですが、この引用にあるようにカントが「経験」という言葉を使用するとき、「知覚」を念頭にしている可能性については今後注意していきたいとおもいます。
ありがとうございます!
それでは〜
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