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■13965 / inTopicNo.49)  Re[11]:気分転換(;´・ω・)うましかさん
  
□投稿者/ pipit -(2021/06/10(Thu) 22:25:19)
    2021/06/10(Thu) 22:34:37 編集(投稿者)








            、、、、 ナゾ!!            





    !(◎_◎;)?






引用返信/返信 削除キー/
■13962 / inTopicNo.50)  pipitさんへ 気分転換(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2021/06/10(Thu) 21:02:40)
    こんばんは。pipitさん。
    毎日暑いですね〜(´;ω;`)ウッ…

    カント沼でいつもおぼれてばかりなので、今夜は気分転換にこのBBS内を散策することにしました〜

    散策しながら目に留まった話題が二つ。カントとも無関係な話題ではないでしょうが、門外漢だし、意見交換するだけの知識も交流する気力もないので、ここにメモしておきます。


    *******

    @ザフランスキーによれば、ショーペンハウアーは1814年の夏に『ウプネカット』を初めて読んだらしい。彼はこの本をヘルダーの弟子であり、インド学者としても名をなしていたフリードリッヒ・マイヤーから教えられたとのこと。
     『ウプネカット』は、仏教以前のバラモン教の秘密の教義『ウパニシャッド』の、1801年出版の翻訳(サンスクリット原典のペルシャ語訳のラテン語訳 (;゚Д゚))で、フランス人のアンクティルがこの資料集を『ウプネカット』と題して出版したもの。
    ちなみにザフランスキーは「精神的なインドを発見した」のはロマン派の功績で、(カントと比較し)ヘルダーが「その道を切り拓いた先達」だとのべる。

    → ザフランスキー『ショーペンハウアー』、山本 尤 訳、p.342、p.343参照
    → 他に、世界の名著45 ショーペンハウアー、p.63〜の西尾幹二の解説参照

    A『ニーチェ事典』(弘文堂)によれば、ニーチェは1865年の10月末〜11月の初めに古書店でみつけたショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』(1819,1844)を読んだそうで、1868年には東洋学者ヘルマン・ブロックハウス(1806-1877)の家でヴァーグナーとショーペンハウアーについて会話したとのこと。
     まあしかし、ここでの私の関心は「ショーペンハウアー」「ヴァーグナー」「ニーチェ」とか、では全然なく「東洋学」にあります。東洋学 Orientalistik という分野がいつごろから、そう呼ばれ、どのような内容で成立していたかということは、ニーチェが「東洋的」という言葉を使うときの意味を考える際の手がかりの一つになるのではないか?と思ったのでした〜
    →ニーチェ事典、p.705、p.706参照


    やっぱりつかれた〜(´;ω;`)ウッ…

    この話題はもうおしまーい!

    それでは〜

引用返信/返信 削除キー/
■13839 / inTopicNo.51)  うましかさんへ V ♪
□投稿者/ pipit -(2021/06/10(Thu) 00:22:59)
    No.13815
    うましかさん、こんばんは!

    V 突入ですね ♪

    ここまでの箇所は、カントの言ってること、わかる気がするぞー、って
    感じですか?

    もしよかったら、また感想きかせてくださいね(^O^)/

    おつかれさまです!
引用返信/返信 削除キー/
■13837 / inTopicNo.52)  おくたがわさんへ 山下先生の本からの引用
□投稿者/ pipit -(2021/06/10(Thu) 00:17:38)
    No.13776
    おくたがわさん、こんばんは(*^◯^*)

    この引用箇所に関連する記事を
    山下和也先生著、『カントとオートポイエーシス』晃洋書房、p81より抜粋引用しますね。

    引用開始(山下先生の解説、途中カントのB59の引用あり)
    『(略)問題となるのはカントが何度も繰り返している、現象の質料に感覚が「対応する」という表現である。
    この場合、カントは現象の質料について論じているのだから、現象のもつ感覚的性質と感覚との対応、例えば、バラの赤い色と我々がそれを見て感覚する赤い色の表象の対応を想定していると考えられる。
    こうなると、感覚が主観の変容でしかないとする議論との整合性が疑問となる。
    カント自身は明らかに、バラは本当に赤いと述べているが。
    この疑問に対してカントは現象の超越論的観念性をもって答える。

    ※カントのB59の引用
    「我々のすべての直観は現象の表象に他ならない。
    我々が直観する諸事物は、それに対して我々が諸事物を直観するそれ自体そのものではないし、それらの関係もそれ自体そのものとしては我々に現れるような性質ではない。
    我々が我々の主観あるいは感官一般の主観的性質をすら破棄しただけで、空間時間における諸客観のすべての性質、すべての関係は、いやそれどころか空間時間をも消失するし、現象としてそれ自体そのものとしてではなく、我々の内にのみ実在しうる。
    対象がそれ自体で、我々の感性のすべてのこの受容性から独立に、いかなる性質であるかは、我々にはまったく知られないままである」(B59)。
    ※カントの文章の引用終了

    つまりこの例で言えば、事物としてのバラはすでに我々の感性の性質によって規定されている。
    これは現実に見られる前から、見られうるものであるがゆえにそうなのである。
    我々の感性的直観の対象である現象としてのバラは、我々が見れば赤く見えるものという意味で、我々の主観との関係においてはじめて赤い、と言うことができる。
    しかも実際に見られる前に、である。
    したがって、それ自体として、つまり主観への関係なしに、何かが赤いと言うことはそもそも意味がない。
    「バラにそれ自体で赤さを添える場合に、[・・・]はじめて仮象が生じる」(B69Anm.)のである。
    このそれ自体ということは見られる前にという意味ではない。
    それ自体としての物など見ることはできないのであるから。
    (略)』
    引用終了

    また他の投稿もゆっくり考えながら読ませていただき返信させてもらいますね

    おつかれさまです!
    ありがとうございます(o^^o)

引用返信/返信 削除キー/
■13815 / inTopicNo.53)  カント沼番外地:第一版序論 V−1
□投稿者/ うましか -(2021/06/09(Wed) 20:23:36)
    pipitさん、こんばんは〜
    おじゃまします。

    No.13643 U−1
    No.13576 T−3
    No.13436 T−2
    No.13389 T−1

    *******

    ◇それ以上にいうべきこと。それは、或る種の認識が、すべての可能的な経験〔aller moeglichen Erfahrungen〕の分野すら捨て去り、いかなる対応する〔entsprechender〕対象も経験のうちではどこにも与えられない概念によって、私たちの判断の範囲を経験のあらゆる限界を越えて〔ueber alle Grenzen *1〕拡張するように見えるということ。

    *1 経験のあらゆる限界を越えて拡張する(ように見える)認識。
     それに対応する対象が経験のうちではどこにも与えられない概念(;゚Д゚)

    ◇この種の認識、すなわち、感性界〔Sinnenwelt〕を越え出てゆき、経験が導くことも正すことも全然できない認識のうちに、私たちの理性の諸探究がひそんでいる。

    →原佑訳上巻、p.90〜p.91参照。文中〔〕内は私による挿入。*数字は私による覚書。

引用返信/返信 削除キー/
■13793 / inTopicNo.54)  おーとぽいえーしす
□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 13:57:38)
    つ、つかれまひた

    英語、ほんとに中学レベルだけど

    執念で読んでるのですう〜 (*_*)

    オートポイエーシス本からはまた後で引用したいと思いまーす^_^
引用返信/返信 削除キー/
■13791 / inTopicNo.55)  Re[11]: 英訳
□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 13:49:15)
    No.13789
    ●自分の理解用に作成したメモを貼ります。
    いい加減な、訳と言えない意訳です。雰囲気だけ、みたいな。間違い指摘用ででも何かの参考になればとm(_ _)m

    [12] The predicates of the phenomenon can be affixed to the object itself in relation to our sensuous faculty;
    for example, the red colour or the perfume to the rose.

    現象上での述語(は、◯◯だ。)は、対象に帰せられる。
    私たちの感覚能力と対象の関係においてだけど、
    例えば、赤、や、香り、が、バラという対象に、(対象の持つ性質として)帰せられうる。

    But (illusory) appearance never can be attributed as a predicate to an object, for this very reason,

    だけど、
    仮象(錯覚の現れ)って、対象の述語としては帰せることができない。

    that it attributes to this object in itself that which belongs to it only in relation to our sensuous faculty,
    or to the subject in general, e.g.,
    the two handles which were formerly ascribed to Saturn.

    そう見えたけど実は違ってた、ってことだから、
    対象の述語となることはできない。
    例えば、かつては土星には二本の柄が付与されてた。
    (でも実際はそうではなかった、というとき、は◯◯に見える、とは言えても、は◯◯だ。とは言えなくなる。述語そのものには、なれなくなる。)

    That which is never to be found in the object itself, but always in the relation of the object to the subject, and which moreover is inseparable from our representation of the object, we denominate phenomenon.

    実際の対象そのものの中には見つけられず、
    いつでも主体と対象の関係の中にあるもので、
    しかも私たちの対象の現れと不可分であるものを、私たちは現象と呼ぶ。

    Thus the predicates of space and time are rightly
    attributed to objects of the senses as such,
    and in this there is no illusion.

    だから空間と時間の述語が感官の対象に付与されるのは正しいことだよ。
    このことは仮象ではないんだ。
    (感官による対象に時空の述語がきせられるのは、仮象ではない。時空上に現れてる現象に対して、述語として付与されてるのだから。)

    On the contrary, if I ascribe redness of the rose as a thing in itself, or to Saturn his handles, or extension to all external objects, considered as things in themselves, without regarding the determinate relation of these objects to the subject, and without limiting my judgement to that relation—then, and then only, arises illusion.

    一方、現象の述語を物自体に帰すると、それは仮象になっちゃうよ。

    https://www.gutenberg.org/files/4280/4280-h/4280-h.htm#chap24
引用返信/返信 削除キー/
■13789 / inTopicNo.56)  英訳
□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 13:38:01)
    No.13788
    英訳見てみたので引用しますね(^^)

    [12] The predicates of the phenomenon can be affixed to the object itself in relation to our sensuous faculty;
    for example, the red colour or the perfume to the rose.

    But (illusory) appearance never can be attributed as a predicate to an object, for this very reason, that it attributes to this object in itself that which belongs to it only in relation to our sensuous faculty,
    or to the subject in general, e.g.,
    the two handles which were formerly ascribed to Saturn.

    That which is never to be found in the object itself, but always in the relation of the object to the subject, and which moreover is inseparable from our representation of the object, we denominate phenomenon.

    Thus the predicates of space and time are rightly attributed to objects of the senses as such,
    and in this there is no illusion.

    On the contrary, if I ascribe redness of the rose as a thing in itself, or to Saturn his handles, or extension to all external objects, considered as things in themselves, without regarding the determinate relation of these objects to the subject, and without limiting my judgement to that relation—then, and then only, arises illusion.

    ※※※※※※※※
    The Critique of Pure Reason

    By Immanuel Kant

    Translated by J. M. D. Meiklejohn

    https://www.gutenberg.org/files/4280/4280-h/4280-h.htm#chap24

引用返信/返信 削除キー/
■13788 / inTopicNo.57)  おくたがわさんへ 石川先生訳について
□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 13:33:01)
    おくたがわさん、こんにちは(o^^o)

    No13738に返信
    今の時点での感想なのですが、石川先生訳は、先生がカント哲学の体系世界(?)に精通してるゆえに、ちょっと一般的には、読むのが難しい表現になってしまっている可能性もあると思いました。
    私見を述べてみますね。

    引用してくださった箇所は、現象は仮象だと言っているのではない、とカントが主張したいところだと思ってるのですが、

    > 純粋理性批判 b69
    > 石川訳 p106
    > 「現象の述語はわれわれの感覚との関係において、客体そのものに帰せられうる。たとえば、バラには赤い色あるいは香りが帰せられる。<

    ここまでは、現象が客体の述語となっている現状(?)を述べてるのではないかと。
    赤という現象、香りという現象も、バラという客体に私たちは帰せている。

    >しかし、仮象はまさしく感覚との関係においてのみ、あるいはそもそも主体に認められるため、述語としてはけっして対象に帰せられえず、客体自体にともなっていない。たとえば、はじめは土星に二つの柄があるとされたが、そうでなかったように。<

    現象と仮象とは別物と言うために、ここでカントは仮象の定義を述べてるのではないかと。
    そう見えるけど実はそうではなかった、ということで、仮象は、客体(対象)に帰することはできない。
    仮象は客体の述語にはなれない。

    >客体それ自体にはまったく見られないが、つねに客体と主体との関係に見られ、客体の観念と不可分なもの、それが現象である。<

    ここでは現象の定義を述べてるのではないかと。
    物自体という客体に現象が付いているのではなく、物自体という客体・と・感官を有する主体との関係の中現れるのが現象であり、
    しかも、物自体の客体の観念(物自体に触発されて現れた表象という観念)と不可分なもの、それが現象だ、と。

    >だから時間・空間という述語が感覚の対象そのものに帰せられるのは正しい。その点では仮象はない。<

    感覚の対象、に、現象が述語とされるのは、そう見えるけどそうではない、という仮象ではない。
    バラは赤い、と、赤を述語としても、
    現象としてのバラという客体(ある関係性の上に現れる、客体の観念としての客体)にとって、現象(赤)は、仮象ではなく、『現』象なのだ、みたいな。


    >それに対して、主体に対するこれらの対象の一定の関係を無視し、私の判断をその関係に制限せずに、私がバラ自体に赤を帰し、土星に絵を帰すなど、あらゆる外的な対象に広がりをそれ自体として帰せば、そこに直ちに仮象が生じるのである。」<

    主体と対象の関係を踏まえた上で、ある現象を、関係性を織り込み済みの対象に帰するものとするのではなく、
    関係性を度外視して、
    現象を物自体にとしての客体に帰するとき、それは仮象になってしまう。
    つまり、現象=仮象とカントは言ってるのではなく、
    現象をどの対象に帰するかが問題となるのだ、
    みたいな感じかなーと思いました。

    勘違いしてたら、すみません!

    一般的には、原先生の訳の方が読みやすい気がしますね!(^^)♪

引用返信/返信 削除キー/
■13776 / inTopicNo.58)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 00:09:51)
    おくたがわさん、こんばんは(^^)
    私にとってとても面白い投稿をいろいろありがとうございます 
    順番に落ち着いて考えさせてもらいますね。
    ↓ の読解の参考になるといいなと思う『カントとオートポイエーシス』からの文章を
    明日(正確には、今日 !)引用させてもらおうと思います。

    今日は12時過ぎちゃったので、もっと考えたく御名残惜しいですが、おやすみなさーい o(^▽^)o


    No13738に返信(おくたがわさんの記事)
    > 2021/06/08(Tue) 13:47:52 編集(投稿者)
    >
    > ■No13694に返信(おくたがわさんの記事)
    >
    >>昨日見ていた部分で、石川訳では全く意味が解らず、本人には分かっているんだろうか?と思う部分が、原佑訳ではスッキリ分かるのがあり、優劣を一概には言えないなと思いました。その部分の天野訳はちょうど間くらい。
    >>原文を読めないし今回は英文も見ていないので、自分として理解できる日本語になっているということによる判断だけなのですが…。
    > (以上おくたがわ)
    >
    > 実際の文章を引用しない評定では濡れ衣も着せうるので、以下に引用しておきます。
    > 石川訳の方が正しいと考える人もいるかもしれないし。
    >
    > 純粋理性批判 b69
    > 石川訳 p106
    > 「現象の述語はわれわれの感覚との関係において、客体そのものに帰せられうる。たとえば、バラには赤い色あるいは香りが帰せられる。しかし、仮象はまさしく感覚との関係においてのみ、あるいはそもそも主体に認められるため、述語としてはけっして対象に帰せられえず、客体自体にともなっていない。たとえば、はじめは土星に二つの柄があるとされたが、そうでなかったように。客体それ自体にはまったく見られないが、つねに客体と主体との関係に見られ、客体の観念と不可分なもの、それが現象である。だから時間・空間という述語が感覚の対象そのものに帰せられるのは正しい。その点では仮象はない。それに対して、主体に対するこれらの対象の一定の関係を無視し、私の判断をその関係に制限せずに、私がバラ自体に赤を帰し、土星に絵を帰すなど、あらゆる外的な対象に広がりをそれ自体として帰せば、そこに直ちに仮象が生じるのである。」
    >
    > 原佑訳 p106
    > 「現象は、私たちの感官との関係においては、述語として客観自身に付与されうる。しかし仮象は述語として対象にけっして付与されえない。というのも、仮象は、感官との、あるいは総じて主観との関係においてのみ対象に付属するものを、客観それ自身に付与するという、まさにこの理由からである。たとえば、最初二本の柄が土星に付与されたのが、その例である。客観それ自体では全然見いだされることができないが、客観と主観との関係においてはいつでも見いだされることができ、客観の表象から分離することができないものは、現象であり、かくして空間と時間とは当然述語として感官の諸対象そのものに付与され、だからこの点でいかなる仮象でもない。これに反して、私が、バラ自体に赤い色を、土星に柄を、あるいはすべての外的な諸対象に拡がり自体を付与して、これらの諸対象と主観との関係を顧慮せず、また私の判断をこの関係に制限しないなら、そのときはじめて仮象が生じる。」
    >
    > 疲れたので天野訳はパス 英訳もパス
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■13773 / inTopicNo.59)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/06/08(Tue) 23:13:00)
    2021/06/08(Tue) 23:15:40 編集(投稿者)

    No13704に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ん? カント哲学って沼のなの?<

    こんばんは
    わたしが沼って最初に言ったんだよ

    > わたしのイメージと違う〜。
    > 考える、っていうことにおいて純な水的。<

    うん、純水、、、
    私もそういうイメージ持つこともあるよ


    > カント哲学を沼にしちゃってるのは沼って見てる人じゃない?<

    pipitに関しては、そうだと思ってるよん。
    自分が変化することで、カントのきれいな純水で、空に浮かぶように自由自在に泳げたらいいなと思うよ

    > こっれじゃ彼の”言いたいこと”を本当に理解しようとしてるようにはわたしには見えない。
    <

    個人的感想としては、
    カントがその文章で言いたかったことを本当に理解したいと思うから、引っかかって先に進めないんだよ。
    先に進むべき、なのかもだけど、
    自分でも、どうすることがよいのか迷う時もあるよ

    でも、とりあえず欲するままに、理解したいと挑んでいる。


    > カント、純粋な理性を批判する、って言ってるよね。<

    うん。そうして、頭だけで、論理だけで、考えることの限界性を警告してくれた。

    最近思うんだ。

    人はそれぞれで、その人の中でなにが起こり得るかは、把握しきれない、と。

    自分というシステムで起こることが他人に全て理解してもらえないんじゃないかなと思うように、
    わたしもまた、その人の中でどのようなことが起こってるのか、知れない、と。

    ああ、でも、書いててまた霧の中だよ。

    個別と一般
    一般から特殊・個別

    もうすこししたら、おやすみー (^ ^)☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■13757 / inTopicNo.60)  中山元さんの訳と永井均さん
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 20:18:38)
    先日、中山さんによる解説的補足を挿入した訳が諸刃の刃となりかねないという話がありましたが、
    たまたま永井均さんによる誤訳指摘のツイートが検索でかかりました。
    https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1130037242779582464
    >訳者が付け加えた文章なのだが、この超重要な箇所の論旨を真逆に誤解しており、ゆえにさせることになる。

    『論旨を真逆に誤解させる』かどうかは、後で現物(中山さんの純理)を読んで判断しようかと。自分に分かるならですが。

    *****
    続くツイートの以下はたぶんカントに対する永井さんの疑義

    > 「規定する/される」はいずれも「統覚の統一の普遍的条件=カテゴリーによって規定する/される」の意味だ。最後の「客体」はここでは客観的に実在する自己の意味だ。規定「する」自己の側は客観的に認識できないのだ。なのに認識できると考えてしまうのが「合理的心理学」の誤りだとカントは言う
    > 規定「する」自己(超越論的統覚)はまだカテゴリーが適用されていないから認識不可能なのであれば、そもそも(合理的心理学ではなく)超越論哲学はいかにして可能なのか。超越論的統覚がどう「超越論的に」働くかもやはり認識できないはずでは? 我々に認識可能なのはそれが働いた結果だけでは?

    永井さんの指摘は置いといて(置いとくんか〜い
    ここで、規定される自己=規定する自己ではないのか というと、さっき自分の書いたことと関連するのでは。
    で、
    たしか純粋統覚について、自己意識を産み出すものと産み出される自己意識が、ともに純粋統覚であるかのようになってしまうカントの文章(英訳)、というのを以前pipitさんと検討したことがあり、
    (pipitさんから、カントは機能自体と機能の結果を同じ単語で表現する場合があるようだといった指摘をいただいた記憶があります)
    今回、幾つかの訳でチェックしたところ、全ての和訳で同様な矛盾(もしくは難解さ)が生じていました。ゆえに原文自体がそのようであるのだと思います。
    もしかすると、思考する自己 即 思考される自己 的なものをカントも考えていたのか。そして機能と結果を同じ単語で表現してしまうのは、その変に理由があるのか(だんだん妄想的になってるかも自分)
    しかしそれをカントのような形式で文章化するのは、それは大変だと思われ、そういったところにも難解さがあるのでは。

    バラバラな連投 失礼しました。(これもカント沼のとある小景)

引用返信/返信 削除キー/

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