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おくたがわさんへ 石川先生訳について
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□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 13:33:01)
| おくたがわさん、こんにちは(o^^o)
■No13738に返信 今の時点での感想なのですが、石川先生訳は、先生がカント哲学の体系世界(?)に精通してるゆえに、ちょっと一般的には、読むのが難しい表現になってしまっている可能性もあると思いました。 私見を述べてみますね。
引用してくださった箇所は、現象は仮象だと言っているのではない、とカントが主張したいところだと思ってるのですが、
> 純粋理性批判 b69 > 石川訳 p106 > 「現象の述語はわれわれの感覚との関係において、客体そのものに帰せられうる。たとえば、バラには赤い色あるいは香りが帰せられる。<
ここまでは、現象が客体の述語となっている現状(?)を述べてるのではないかと。 赤という現象、香りという現象も、バラという客体に私たちは帰せている。
>しかし、仮象はまさしく感覚との関係においてのみ、あるいはそもそも主体に認められるため、述語としてはけっして対象に帰せられえず、客体自体にともなっていない。たとえば、はじめは土星に二つの柄があるとされたが、そうでなかったように。<
現象と仮象とは別物と言うために、ここでカントは仮象の定義を述べてるのではないかと。 そう見えるけど実はそうではなかった、ということで、仮象は、客体(対象)に帰することはできない。 仮象は客体の述語にはなれない。
>客体それ自体にはまったく見られないが、つねに客体と主体との関係に見られ、客体の観念と不可分なもの、それが現象である。<
ここでは現象の定義を述べてるのではないかと。 物自体という客体に現象が付いているのではなく、物自体という客体・と・感官を有する主体との関係の中現れるのが現象であり、 しかも、物自体の客体の観念(物自体に触発されて現れた表象という観念)と不可分なもの、それが現象だ、と。
>だから時間・空間という述語が感覚の対象そのものに帰せられるのは正しい。その点では仮象はない。<
感覚の対象、に、現象が述語とされるのは、そう見えるけどそうではない、という仮象ではない。 バラは赤い、と、赤を述語としても、 現象としてのバラという客体(ある関係性の上に現れる、客体の観念としての客体)にとって、現象(赤)は、仮象ではなく、『現』象なのだ、みたいな。
>それに対して、主体に対するこれらの対象の一定の関係を無視し、私の判断をその関係に制限せずに、私がバラ自体に赤を帰し、土星に絵を帰すなど、あらゆる外的な対象に広がりをそれ自体として帰せば、そこに直ちに仮象が生じるのである。」<
主体と対象の関係を踏まえた上で、ある現象を、関係性を織り込み済みの対象に帰するものとするのではなく、 関係性を度外視して、 現象を物自体にとしての客体に帰するとき、それは仮象になってしまう。 つまり、現象=仮象とカントは言ってるのではなく、 現象をどの対象に帰するかが問題となるのだ、 みたいな感じかなーと思いました。
勘違いしてたら、すみません!
一般的には、原先生の訳の方が読みやすい気がしますね!(^^)♪
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