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■13755 / inTopicNo.61)  オートポイエーシス論とカントの経験
  
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 19:49:18)
    検索で見つけたpipitさんの過去投稿。
    序論の「経験」にも関連する文章

    NO.11517
    >山下和也先生の『カントとオートポイエーシス』のカテゴリーについての箇所

    > アプリオリに対象に関係しうる概念には、空間、時間とカテゴリーがあるが、「それらの産出の機会原因は経験に求めることができる」、つまり「認識能力の全体をそれに関して開始し、経験を生じさせる第一の契機は感官の印象が与える」(B118)。
    > 要するに実際に概念としての規則が作動するのは、それが働きかける印象が与えられたときである。
    > カントの言い方では、経験は「感官からの認識への質量と、純粋な直観作用と思惟作用からの、それを秩序づけるある形式」(ibid)とを含むのであり、前者が与えられることを契機として、それに対して後者が作動し、経験が成立する。
    > オートポイエーシスの言葉で言えば、概念コードに従って認識表象における現れが、感覚すなわち環境からの攪乱を契機として産出されるとき、経験となる。
引用返信/返信 削除キー/
■13749 / inTopicNo.62)  Re: pipitさんへ最後は空性 の話題へ〜
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 18:41:50)
    No13511に返信(pipitさんの記事)
    遅レスですみません。

    > わたしもけっこうおくたがわさんと同じように思ってたところがあるのですが、うましかさんにコメントいただいたことで、
    > 『カントのナゾナゾ』として読む、という読み方もあるんだな、と気付かされました。

    結果としてこれほど長く多くの人を惹きつけ続けてきた「分かりづらさ(仮)」が狙いどおりだとしたら、世上に思われている以上の超天才かな。

    > それとか、禅の公案、とか。
    > (コトバンクさん『公案』より抜粋引用
    > (略)A禅宗で、参禅者に出す課題。仏祖の言行のうち、修行者にとって意義深いものや、暗示に富むものを選んで課題としたもので、難問が多い。転じて、自然現象の一切を仏法を示す課題と見る見方。また、一般に難問、研究課題をもいう。引用終了)
    >
    > 禅の場合は、知識で答え出すかんじではないかもですけどね。

    物質的な世界について思考・論理で捉え操作する方法を身に付けた人間が、心の問題にまで習慣的に思考で対処しようとしてしまう。
    これを解除するために座禅や公案があるというイメージを持っています。
    思考で導いた答えを取りつく島もなく拒否され続け、途方に暮れたところで目が開けるというような。

    何故、心の問題に思考を適用してはいけないか。
    できないから。
    できない理由は言語の限界とか、そもそも心や意識が何であるか自体分かっていないからとか、思考している意識が心である以上、心が心自らを操作しようとするのは自己言及のループに陥るとか。目が目(それ自身)を見ようとすることや、自分の腕で自分自身を(直接)持ち上げようとするような不可能性とか。
    私にイメージできるのはそんなことですが、
    以前pipitさんに紹介いただいたオートポイエーシスの説明も印象的でした。

    https://liberal-arts-guide.com/autopoiesis/
    > 作動の仕方(設計図)がなく自生するということであり、勝手に自分で自分を創りあげる自己言及的なもの
    > 生命体がまさにこれに当たる。生命体は本質的に他律的ではなく自律的な存在であり、機械などとは作動原理が異なること

    > 生命体の反応に再現性があり、刺激に対する因果関係があるように見えることもあります。
    > しかし、これは機械が人間によって制作されたルールに従うように、外部から与えられたルールに従っているわけではなく、生命体がその固有の歴史に依存しながら、再帰的・自己創出的に作動していることを示していると考えられます。

    自分の心の問題を解決しようとするとき、心を私(仮)の入力に従って作動するプログラムのように扱おうとしてしまうが、
    実際には入力しようとしている私とプログラム(仮)が一つの同じもの。
    そして私が今考えるルールに従うはずもなく『固有の歴史に依存しながら、再帰的・自己創出的に作動する』

    このサイトとかロシュフコウさんの動画とかも見てとても参考になっているのですが、その都度お礼のレスをしていなくてすみません

    > 意図してではないと思うのですが、カントという人は、いろんな解釈の起こる文章を書く、ということが起こりがちな方だったのかなぁ、と、昨日思ってました。

    カントが扱おうとしている問題が言語で扱える範囲を超えていて、しかし分かりやすい言葉に落とし込むことで真意を削ぐことはカントにはできず、言葉で全てを表現しようとした。あるいはオートポイエーシス等、その後見出された概念にまで迫っていて、当時のカントには分かりやすく(論理的に)言語化することが不可能だった。
    とか、思いついた。

    > そして最後の言葉が、
    >
    > wikiより引用
    > 『最後の言葉は、ワインを水で薄め砂糖を混ぜたものを口にしたときに発したという「これでよい(Es ist Gut)」であったと伝えられている。』
    > 引用終了
    >
    > Es ist Gut
    > ↓
    > Google翻訳さんによる英訳
    > It is good
    >
    > この最期の言葉の意味も、様々に解釈されているようですね。
    >
    > 個人的好みで、『空性』という言葉が頭に浮かびます。

    興味あります。少し考えさせてください。

    > おくたがわさん、いつもありがとうございます!

    こちらこそ100倍ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■13739 / inTopicNo.63)  Re[8]: カント沼番外地:第一版序論 U−1
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 13:55:10)
    No13704に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    横からごめん。

    > ん? カント哲学って沼のなの?
    >
    > わたしのイメージと違う〜。
    > 考える、っていうことにおいて純な水的。
    >
    > カント哲学を沼にしちゃってるのは沼って見てる人じゃない?
    > こっれじゃ彼の”言いたいこと”を本当に理解しようとしてるようにはわたしには見えない。
    >
    > カント、純粋な理性を批判する、って言ってるよね。

    カント哲学が沼だと言ってるんじゃなくて、著作の内容を理解したいと思うとき陥る状況を沼と言ってるんじゃないかな。体験による言葉。
    一つ前で引用したような文章。石川訳でカントの真意を読み取るのは悪魔ちゃんのような天才でも難しいのでは。
    それで、色々な訳を調べたくなる。それぞれの訳で異なる意味に読めたりもする。英訳も調べる。pipitさんたちは各種解説やドイツ語原文まで調べる。
    それはカントの言いたいことを本当に理解しようとしているから陥る状況じゃないかな。
    以上はあくまで自分の解釈でpipitさんたちは別なレスをされると思うけど。

    ちなみに「沼」は愛情表現かもしれない。わからんけど。

    >カント、純粋な理性を批判する、って言ってるよね。

    ここは、「沼ではない」にどうつながるのか興味ある。

引用返信/返信 削除キー/
■13738 / inTopicNo.64)  Re[9]: 和訳
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 13:30:01)
    2021/06/08(Tue) 13:47:52 編集(投稿者)

    No13694に返信(おくたがわさんの記事)

    > 昨日見ていた部分で、石川訳では全く意味が解らず、本人には分かっているんだろうか?と思う部分が、原佑訳ではスッキリ分かるのがあり、優劣を一概には言えないなと思いました。その部分の天野訳はちょうど間くらい。
    > 原文を読めないし今回は英文も見ていないので、自分として理解できる日本語になっているということによる判断だけなのですが…。
    (以上おくたがわ)

    実際の文章を引用しない評定では濡れ衣も着せうるので、以下に引用しておきます。
    石川訳の方が正しいと考える人もいるかもしれないし。

    純粋理性批判 b69
    石川訳 p106
    「現象の述語はわれわれの感覚との関係において、客体そのものに帰せられうる。たとえば、バラには赤い色あるいは香りが帰せられる。しかし、仮象はまさしく感覚との関係においてのみ、あるいはそもそも主体に認められるため、述語としてはけっして対象に帰せられえず、客体自体にともなっていない。たとえば、はじめは土星に二つの柄があるとされたが、そうでなかったように。客体それ自体にはまったく見られないが、つねに客体と主体との関係に見られ、客体の観念と不可分なもの、それが現象である。だから時間・空間という述語が感覚の対象そのものに帰せられるのは正しい。その点では仮象はない。それに対して、主体に対するこれらの対象の一定の関係を無視し、私の判断をその関係に制限せずに、私がバラ自体に赤を帰し、土星に絵を帰すなど、あらゆる外的な対象に広がりをそれ自体として帰せば、そこに直ちに仮象が生じるのである。」

    原佑訳 p106
    「現象は、私たちの感官との関係においては、述語として客観自身に付与されうる。しかし仮象は述語として対象にけっして付与されえない。というのも、仮象は、感官との、あるいは総じて主観との関係においてのみ対象に付属するものを、客観それ自身に付与するという、まさにこの理由からである。たとえば、最初二本の柄が土星に付与されたのが、その例である。客観それ自体では全然見いだされることができないが、客観と主観との関係においてはいつでも見いだされることができ、客観の表象から分離することができないものは、現象であり、かくして空間と時間とは当然述語として感官の諸対象そのものに付与され、だからこの点でいかなる仮象でもない。これに反して、私が、バラ自体に赤い色を、土星に柄を、あるいはすべての外的な諸対象に拡がり自体を付与して、これらの諸対象と主観との関係を顧慮せず、また私の判断をこの関係に制限しないなら、そのときはじめて仮象が生じる。」

    疲れたので天野訳はパス 英訳もパス


引用返信/返信 削除キー/
■13704 / inTopicNo.65)  Re[7]: カント沼番外地:第一版序論 U−1
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/06/07(Mon) 19:30:29)
    ん? カント哲学って沼のなの?

    わたしのイメージと違う〜。
    考える、っていうことにおいて純な水的。

    カント哲学を沼にしちゃってるのは沼って見てる人じゃない?
    こっれじゃ彼の”言いたいこと”を本当に理解しようとしてるようにはわたしには見えない。

    カント、純粋な理性を批判する、って言ってるよね。




引用返信/返信 削除キー/
■13694 / inTopicNo.66)  Re[8]: 和訳
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/07(Mon) 09:48:10)
    No13595に返信(うましかさんの記事)
    横からすみません。

    > ところで、こんなこと書くと怒られそうですが、私が原佑訳を重宝しているのは、第一版と第二版が上下段に分けてあることもありますが、自分の手のひらに馴染むサイズや紙の質が気に入っているからでもあります(・・;)
    >
    > どの翻訳がすぐれているのか、外国語が読み書きできない私には判断ができないので、複数の訳を見比べながら、カント沼の畔でうなされることが多くなってきました(´;ω;`)ウゥゥ

    先日自分は石川・天野を高評価、原さんに厳しめの投稿をしたのですが、
    昨日見ていた部分で、石川訳では全く意味が解らず、本人には分かっているんだろうか?と思う部分が、原佑訳ではスッキリ分かるのがあり、優劣を一概には言えないなと思いました。その部分の天野訳はちょうど間くらい。
    原文を読めないし今回は英文も見ていないので、自分として理解できる日本語になっているということによる判断だけなのですが…。
    いずれにしても、やっぱり複数見比べるのが良さそうです。

引用返信/返信 削除キー/
■13693 / inTopicNo.67)  Re[14]: 説明不足
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/07(Mon) 09:37:24)
    No13535に返信(うましかさんの記事)
    うましかさん、おはようございます。

    > 残念ながら、おくたがわさんの返信の内容は私には難解でほとんどよくわからず、どう返信したらよいか、けっきょく頭の中がまとまりませんでした(´;ω;`)ウゥゥ

    あの書き方は、自分とpipitさんの過去のやりとりを前提していて、ほかのひとに対しては必要な説明が欠けていました。そのことに後で気づいて自分勝手なレスだったと自戒していました。

    > カントの文章をめぐる高峯訳と注釈、それを理解するおくたがわさん、そしてまとまらない私うましか、、、という複数の見解が入り乱れ、私が整理するには力不足といったところです。

    上記のようなことなので、うましかさんの力不足ではなく自分の書き方の問題です。

    > ありがとうございました。
    >
    > こんな私でよろしれば、何かありましたらまたよろしくお願いいたします。

    ありがとうございます。
    今後は気を付けますので、よろしくお願いいたします。
引用返信/返信 削除キー/
■13643 / inTopicNo.68)  カント沼番外地:第一版序論 U−1
□投稿者/ うましか -(2021/06/06(Sun) 12:53:42)
    pipitさん、こんにちは〜
    おじゃまします。

    これまでの第一版序論についてのまとめを便宜上Tとします。これまでの番号は、T−1、−2、−3とします。

    ※TとかUに、いまのところ意味はありません。読んでいて、なんとな〜く気分転換したくなっただけなので追及しないでね!

    No.13576 T−3
    No.13436 T−2
    No.13389 T−1

    *******

    ◇ 私たちの経験〔Erfahrung〕のうちへすら〔dass selbest unter unsere Erfahrungen *1〕、おのれのア・プリオリな起源〔Ursprung a priori〕をもっているにちがいなく、またおそらく、〔経験に?〕私たちの感官の諸表象を脈絡づけるためだけに役立つ認識が混入していることは、明らかである。

     *1 「(私たちの経験の)うちへすら」という原佑訳の表現が原文と照らしても現時点で私には文意がよくわからない〜。同じ箇所の中山元訳では「わたしたちの経験そのもののうちにも」(中山元訳1、p.223)とあり、個人的には中山元訳のほうが分かりやすい。

    ◇ なぜなら、私たちの経験から、感官に所属するすべてのものを除くとしても、にもかかわらず、或る種の根源的な諸概念と、それらの諸概念から生じた諸判断が残り〔*2〕、これらのものは全面的にア・プリオリに、経験〔Erfahrung〕に依存せずに成立したにちがいないからである。

     *2 経験 = 感官に所属するすべてのもの+諸概念、そこから生じた諸判断
     (;´・ω・)?

    ◇ というのは、そうした概念や判断によって、人は、感官にあらわれる諸対象について、たんに経験が教えるであろうこと以上のことを語ることができ、そうできると信ずるからであり、そのときの主張には、たんなる経験的な認識〔empirische Erkenntnis〕が提供することができないような、そのような真の普遍性〔Allgemeinheit〕と厳密な必然性〔Notwendigkeit〕を含むからである。

    →原佑訳上巻、p.79〜p.80参照。文中〔〕内は私による挿入。*数字は私による覚書。



引用返信/返信 削除キー/
■13608 / inTopicNo.69)  Re[11]: (;´・ω・) うましかな方法です
□投稿者/ pipit -(2021/06/05(Sat) 18:28:19)
    No13605に返信(うましかさんの記事)
    > pipitさん、こんにちは〜
    >
    > >どうやって調べたのですか???
    >
    > ス、スルーでお願いします(/ω\)
    >
    >
    > でも、地味に楽しい作業でした〜(;・∀・)


    ううぅ、うましかな方法、、、

    めっちゃ楽しそうです、、、、_φ( ̄ー ̄ ) 〜 
引用返信/返信 削除キー/
■13605 / inTopicNo.70)  (;´・ω・) うましかな方法です
□投稿者/ うましか -(2021/06/05(Sat) 17:54:18)
    pipitさん、こんにちは〜

    >どうやって調べたのですか???

    ス、スルーでお願いします(/ω\)


    でも、地味に楽しい作業でした〜(;・∀・)







引用返信/返信 削除キー/
■13604 / inTopicNo.71)  うましかさんへ 方法
□投稿者/ pipit -(2021/06/05(Sat) 16:29:38)
    No.13603
    うましかさん、こんにちは〜

    > ちなみに、興味本位でしらべてみたところ、『純粋理性批判』の文中で"Erfahrung"は当然ながらまあまあ頻出するのですが、"erfahren"(経験する)はほぼ出てきませんでした(※私がしらべたかぎりでは、、、1回?(;゚Д゚))。<

    、、、え???

    どうやって調べたのですか???

    :(;゙゚'ω゚'): ウマシカサン、ナニモノデフカ ?
引用返信/返信 削除キー/
■13603 / inTopicNo.72)  Re[8]: pipitさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/06/05(Sat) 12:09:26)
    >移り気な?私がここのところ気になっている"Erfahrung"、"empirisch"についても、考える材料になってくれるんじゃないかと期待しています\(^^)/

    山口によれば、

    >「エンペイリアー:経験」というギリシア語は、英語に入って「empiric:経験主義者」や「empirical:経験的」、「empiricism:経験主義」などの言葉になっている。<
    →山口裕之『語源から哲学がわかる事典』、p.77

    すぐ前の「学問知と経験知」の解説で、山口は「エンペイリアー:経験」の語の「組み立て」について、「エン:〜中に」「ぺイラ:試してみること(英語では、trial、attempt、experiment)」とし、経験知とは「要するにトライ&エラーでいろいろやってみた結果得られた知識」(同書p.75〜p.76参照)だと解説しています。

    調べたところ、ドイツ語"erfahren"とか"Erfahrung"も「エンペイリアー」からの翻訳らしいです。

    ところで御子柴によれば、カントは学生時代に師のクヌッツェンからイギリスの経験論哲学者ロックの思想を学んでいるとのこと(御子柴善之『カント純粋理性批判』、p.54)で、こうした下地があってかはわかりませんが、『純粋理性批判』には、"Empirismus"、つまり、"empiricism"という言葉が何度がでてきます。"empirisch"という言葉をカントが使用しているとき、当時の日常語レベルで使用していたのかな?、それともイギリス経験論(経験主義)を意識して使っているのかな?、それとも、、、?などとついつい考え、気がつくとおぼれています(´;ω;`)ウゥゥ

    ちなみに、興味本位でしらべてみたところ、『純粋理性批判』の文中で"Erfahrung"は当然ながらまあまあ頻出するのですが、"erfahren"(経験する)はほぼ出てきませんでした(※私がしらべたかぎりでは、、、1回?(;゚Д゚))。




    つかれた〜


    それでは〜

引用返信/返信 削除キー/

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